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 熱砂の残像 2

 箒で掃ったとたんに白煙となって部屋に立ち込めた埃に、ロゼアは思わず咳き込んだ。
「けほっ、けほっ」
 念のため、と口周りを布で覆っていても、たちまち喉がいがらっぽくなってしまう。霞む目を瞬かせながら窓を開け、風通しをよくしていると、店のほうで帳簿を見ていたはずのナリアンが、たまらないといった様子で顔を出した。
『すごい埃だね。……手伝おうか?』
「いい、いい。俺は平気だけど、ナリアンがこっちにきたら絶対喉を傷めるって」
『とりあえず店の玄関と窓を全部開けるね』
「よろしく」
 顔をひっこめるナリアンにひらひらと手を振り、ロゼアは倉庫の棚に向き直った。店舗の奥にある部屋は三階部分まで吹き抜けた円筒形をしていて、壁という壁がすべてに棚が作りつけられている。床に近い場所だけを見れば、商品らしき銀細工やら制作に用いる材料やらがきれいに陳列されている。しかしながらひとたび頭上を見上げると、蜘蛛の巣のレースに飾られた大小素材様々な箱が雑多に押し込まれていて、いったい誰があんな乱暴なしまい方をしたのだと、ロゼアは舌打ちしたい気分だった。
「ごめんなさいねぇ」
 ロゼアが下ろしたばかりの箱の中身を検分していたキュリーが申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「下の方はどうにかなるのだけれど。一度上にやってしまうとなかなか手が届かなくて。降ろしてもらうのは二階のものまでで大丈夫だからね」
「わかりました」
 了承しながらも、ロゼアは内心げっそりとしていた。二階の高さの棚まで浚うだけでもかなりの量だ。いくつの箱を上げ下ろししなければならないのだろう。無償奉仕ではなかなか誰も手伝うまい。
(ま、ぐだぐだしててもしかたないしな)
「よしっ」
 風の通りがよくなったせいか、空気の濁りもようよう薄らいで、ロゼアはやる気も新たに口を覆う布地の裏で息まいた。
 箱を降ろし、雑巾と箒を駆使して棚を磨く。その間にキュリーは箱の中を覗き、時に詰め替え、目録を作っていた。
 梯子に登ったまま埃と戦い、棚を片づけて掃除していくロゼアの足元で、ナリアンがこの倉庫と店舗を往復する。キュリーの作った目録を店舗に持ち込み、既存の帳簿と突き合せて差異がないかを見ていくのだ。彼がいてくれてよかった、とロゼアはしみじみ思った。この肉体労働に加えての書類の精読など、きっとできないだろう。疲れすぎてあちこち抜けをだすのがオチだ。
 その作業が一時中断の運びとなったのは、ひときわ厚みある埃の層を、ロゼアが再び掘り起こしてしまったときだった。
「うわこれはっ……ごほっ」
 ロゼアは咳き込みながら梯子を降りた。キュリーがあらあらと苦笑して窓を開閉し、空気が流れるよう促す。
『大丈夫? ロゼア』
 棚引きながら外へ吸い出されていく埃に驚いたのか、ナリアンが倉庫に舞い戻ってくる。だいじょうぶ、とロゼアは笑い返した。けれどさすがにこの埃と蜘蛛の巣とはお別れしてもいい頃だ。
「一度、休憩にしましょうね」
 ロゼアたちの心中を図ったらしく、キュリーが立ち上がりながら提案した。布で覆っていなければ、綻ぶ口元があからさまに見えただろう。
 キュリーが居住区画のあるという一階へ続く階段を指して言う。
「少し埃っぽいから下の居間で……どうしたの?」
 その言葉終わりの問いはロゼアに向けられたものではない。玄関の方を見つめながら立ち竦むナリアンに投げかけられたものだ。ロゼアは後頭部で結わえていた結び目を解いて布を外しながらナリアンに歩み寄った。彼の肩越しに店を覗く。
 巨木の切り株で作られた円卓の上に、帳簿らしき、数冊の冊子が重ね広げられている。
 それらの傍らに立つ見知らぬ女が紙面の文字に黙って視線を落としていた。
 ――……夜だ。
 女を一目見て、ロゼアはそう思った。
 あれは、夜だ。
 いや、闇、なのかもしれない。
 ロゼアのものよりいっそう濃い色の肌。ゆるやかに波打つ、真夜中の夜の色の髪。その影に覗く顎から首、肩、そして冊子の縁に触れる指までの線はほっそりとしていて、けれど立ち姿にはその内を貫く強靭な芯を感じた。
 身体に沿う、光沢ある黒の衣服。連なる銀のビーズが首と名のつく部位すべてを飾り、その華奢さを強調している。
 女は面を上げ、伏せていた瞼をゆっくりと上げた。
 その、紅とも緋とも、橙とも薄紅ともつかぬ、うつくしい炎のような瞳に、ロゼアは息を呑んだ。
(ちがう)
 これは――夜明けだ。
 砂漠の、夜明けのような、若い女。
「この文字を知っているわ」
 動けずにいるロゼアたちに向かって、女は出し抜けに言った。
「この文字を書いたのは、あなた?」
 女はナリアンと目を合わせて問うた。彼がぎこちなく頷く。
 ナリアンの肯定に女は薄い唇の端をわずかにあげる。
「そう……なら、あなた、ナリアンなのね」
 肯定も否定もできずに立ち竦むナリアンの前に出て、ロゼアは女に詰問した。
「失礼だけど……あんたは?」
「ツフィア」
 たった一言を即座に返した女は、ロゼアたちの背後を探るように首を伸ばす。
「キュリーは留守なのかしら?」
「いますよ、ツフィア」
 ロゼアの側をすりぬけながら、キュリーが女の問いに応じた。
「お久しぶりね。それにしてもめずらしいこと。あなたが連絡もなくこちらに来るなんてね」
「これが壊れたから見て欲しいの。今日中に直せるかを教えて」
 ツフィアと自ら名乗り、そう呼ばれた女は、どこからともなく取り出した箱を円卓の上に置いた。ロゼアの手の中に収まりそうな大きさの小箱である。筐体はつるりとした表面を持つ黒の石で、一か所だけ丸くくりぬかれた穴にガラスがはめ込まれていた。その中はロゼアの位置からでは見えない。
 とことこツフィアに近づいたキュリーが金縁の丸眼鏡をかけて、ためつすがめつ箱を眺める。しばしのち、彼女は嘆息と共に断定した。
「今日中には直らないわね。……少し待っていてちょうだい。代わりを持ってきましょうね。……ロゼア君、ちょっときて、手伝ってくれるかしら? 上のね、箱をとってほしいの」
 後に続いて倉庫に入ったロゼアに、キュリーは天井近い棚の箱を指し示した。灰色の箱だ。
「なじみのお客さんなんですか?」
 箱を降ろしながらロゼアは尋ねた。キュリーが肯定に顎を引く。
「そうね。……そんなに頻繁にくるわけではないのだけれど」
 どうにも歯に物のつまった言い方だ。それに引っかかるものを感じながら、ロゼアは床に降ろした箱の中を掻きまわすキュリーを黙って見下ろした。
 倉庫から出ると雑記に利用していただろう古紙を眺めるツフィアがいた。ナリアンはその横で固まっている。ツフィアもおしゃべりな性質ではないらしく、置物状態のナリアンを完全に放っている。
 ふいに目線を上げたツフィアは、扉口に立ち竦むロゼアをひたと見た。
「あなたが、ロゼアなのね」
 会話の中に自分の名前が挙がっていたとは思えない。
 だが半ば断定的に彼女は言った。
「……そうだけど、なんで」
「ひと月ぐらい前かしら。学園に呼び出されたとき、チェチェリアからあなたの話を聞いたわ。彼女、あなたの担当なんでしょう?」
「……あなたも先生のお知り合いなんですか?」
「魔術師同士は誰もが顔見知りよ。たいていね」
「お待たせしたわね」
 ツフィアの持ち込んだ箱とよく似たものを手に持ってキュリーがロゼアの横を擦りぬける。彼女の手から代替品らしきものを受け取ったツフィアは満足げに頷いて踵を返しかけ――今度は、ナリアンを見据えた。
 彼の身体がぎくりと強張る。
 ツフィアは彼女の肌色の中で際立って淡く見える薄紅色の唇を笑みに曲げた。自嘲とも、挑戦的ともとれる、不思議なほほえみだった。
「あなたの本を気に入っているの」
 と、ツフィアは言った。そしてさらりと描線を書き付けた手近な紙を、ナリアンの胸元に押し付ける。
「地図をあげるわ。気が向いたときに署名したあなたの本をちょうだい」
 ひとに物を請う態度としてはあまりにも不遜でありながら、その振る舞いがツフィアにはよく似合った。
 彼女は腕に抱えていた上着に袖を通し、そのポケットに箱を放り込むと、さっそうとした足取りで店を出ていく。
 まるで地平から顔を出した太陽に焼かれて姿を消す夜のように、その姿は店外の光の中に滲み、瞬く間に消えたのだった。





「先日はキュリー先生の手伝いをありがとう」
 実技の授業が終わって手回り品をかき集めていたロゼアに、今思い出したとばかりにチェチェリアが言った。
「いえ。結構なお礼ももらえましたし」
「だがなかなか大変だっただろう。私も昔手伝いに行ったがな、翌朝は筋肉痛で身体がばきばきだったよ」
 学生の頃の話だ、と教師は笑い、懐かしそうに目を細める。ロゼアは合切袋の口を閉じながら彼女に尋ねた。
「あ、そういえば聞きましたよ。先生、結婚されてたんですね。ご主人は同じ王宮魔術師なんですか?」
「キュリー先生からか。そうだよ。楽器に適した樹木を育てるための道具を作っている。……亭主の属性のことは?」
「ききました。俺と同じなんだって……」
「そのうち会わせてやろう。太陽は片手指折り数えるぐらいしかいないからな」
「え、そうなんですか?」
「複合は特に珍しいからな。魔術師の数自体少ないから、今いる奴らの属性は把握してるが、私の氷だってそんなにいないよ」
 そんなものなのか、とロゼアは口の中で呟いた。
 魔術師の総数と属性の分布については授業で既にふれられたものの、単なる数を示されたところで実感をえることはできなかったのだ。
「そうだ、先生。キュリーさんのところで先生の知り合いの人に会いましたよ」
「魔術師ならたいていは知り合い同士だよ」
「そのひともそんなこと言ってました」
 ロゼアは笑った。学園で生活し、なないろ小路などを往来するひとの数を見る限り、とても多いように思えるのだけれど――もしかしたら、あそこですれ違うひとびと同士すべてが、実は知り合い同士なのかもしれない。
「ツフィアっていう人なんですけど」
「……ツフィア?」
 チェチェリアの声色が俄かに変わり、ロゼアは軽く身を引いた。勢いよく振り返ったチェチェリアが、語調を強めて問いかけてくる。
「会ったのか? 彼女に?」
「会いました……けど、何かまずいんですか?」
「……いや」
 否定に軽く頭を振った教師が、微かな笑みをロゼアに向ける。
「めずらしくて、驚いただけだ。彼女は……ツフィアは、滅多に自宅から出てこない」
「でもこの間は学園に来たって言ってましたよ」
「あぁ……卒業生の集まりがあったんだよ。彼女は何か言ってたか?」
「なにか、ですか……」
 自分がロゼアであると言い当てたことに驚いた程度で、チェチェリアと知人だと告白したこと以外は、特別な発言はなかった気がする。
「そういえば、ナリアンの本が好きだ、とかって言ってました」
「ナリアンの?」
「あぁそうそう。先生知ってました? ナリアンってその筋じゃ有名な写本師だったんですよ。俺もナリアンの字、読みやすくて好きだなって思ってたけど、ナリアンが刷った本、俺も何冊か持ってた」
 彼の文字や読みやすく、何時間眺めていても疲れにくいのだ。そう思って彼の文字で書かれたものをわざわざ選んで買っていたりもした。そういった私物は、故郷の自室の書棚の中だが。
「それであの人、文字を見ただけでナリアンだって言い当ててたなぁ。すごくないですか?」
「ツフィアは本の蒐集家なんだよ」
「なるほど。……それでか。ナリアンに本をくれって言ってた」
「ナリアンに?」
 また、チェチェリアの表情が変わる。その不穏な声色にロゼアは知らずたじろいだ。
「はい。……気が向いたら署名本をくれって……地図を書いて渡してたな」
 チェチェリアが視線を外して唇を引き結ぶ。親指で顎の線を軽くなぞりながら彼女はしばらく黙考していた。
 人前に滅多に姿を見せぬという本の蒐集家。
 それだけならばチェチェリアが思うところある様子をこんな風に見せることはないだろう。
 それに思い返せば、キュリーの物言いにも、どこかひっかかるものがあった。
 ロゼアは尋ねた。
「……ツフィアさんって、一体、どういう人だっていうんですか?」
 チェチェリアが、ロゼアを見返して、囁くように答える。
「――……言葉魔術師だ」
 なにか忌まわしきことをそれこそ神の耳にも触れさせまいとするように、彼女の声音は冷たく密やかなものだった。




 手紙を書こうと筆記具を机の引き出しから取り出した拍子に、手のひらほどの紙片がひらりと足元に滑り落ちる。
 ナリアンは首を捻りながら腰を落としてそれを拾い上げた。
 見覚えのある、薄い青墨の描線。
(ツフィアさん家の)
 地図。
 だがそう思ったのもつかの間に線は消え、紙片はましろくナリアンの手の中で震えるばかりとなった。
「え」
 驚愕に目を見開くナリアンの手の中で、紙は火にあぶられたかの如く、四方の角から黒く染まり始める。ただし触れる指先には一片の熱も感じない。紙は静かに黒く、黒く、文字通り蝕まれ――……。
 存在だけでなく、それをやり取りしたという記憶すら、この世界のすべてから消し去られていたのだった。

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