色とりどりのおびただしい数の布地がロゼアの足元に広がる。
正確には、ロゼアの隣に腰掛けるソキの足元に。
屋敷の「運営」の女たちが、これがにあう、あれがいいのでは、いやこちらのほうが、と相談しながら、とっかえひっかえ布地をソキの身体に宛がっていた。“旅行”向けのソキの衣装を仕立てるためらしい。ソキといえば病み上がりもあってすでに気怠いらしく、ロゼアに身を寄せたまま、はい、いいえ、はい、と、「運営」の女たちの問いに淡々と応じていた。早く打ち切ってくれよ、と、ロゼアはソキの手を握りながら願っていた。いくら傍付きとはいえども、「運営」たちにはそうそう口に出来るものではない。当主にたいして物申したいわけではないが――彼の周りの人間は、少し苦手だ。そう思っているのはロゼアだけではないらしく、屋敷内では「運営」とその他、に、亀裂があるときく。
ロゼアの生まれ育った屋敷で育てられる花嫁や花婿――砂漠の輝石たちは、例外なく脆いつくりをしている。些細なことで熱を出し、それが死へと直結する。ソキはそんな輝石たちの中でも頓に身体が弱かった。だというのにその造りは一級品だから、今の当主はソキに“旅行”を強要してよく稼がせた。新しい衣装を作るための今日の布合わせも、次の旅行相手の好みを慮った布地ばかりだ。確かに、どれもこれもソキに似合うものではあるのだけれど。
白、淡い黄色、淡い緑、淡い水色。いとけなくあいらしいソキの外見に合わせた色味はどれもやわらかい。施された刺繍や絵柄が目を瞠るほど美しいものもある。けれどソキは興味を示さなかった。どれでもいいから早く決めてくれといわんばかりだ。ロゼアも同意見である。どの布地で仕立てても、ソキはうつくしくあいらしいに決まっている。だからはやく。
(いい加減、終われよ)
疲れた様相も、熱を出す兆候も、ソキが隠しおおせているのにロゼアが感情を見せるわけにもいかない。しかし内心は煮え切った怒りで運営の女たちの横面を張り倒したかった。
「こちらの布はいかがでしょう」
ちっとも決まる気配がないことに焦燥を覚えているのは入室を許された絹綾商の老人も同じだったに違いない。彼は同伴させている助手に木箱を持ってこさせた。木材の芳しい香りがほのかに漂う。この砂漠で木製の箱に収めた布は珍しい。
彼は手ずから紐を解いて蓋を開け、布地を腕に広げた。そのとき初めてソキの目に、感情らしきものが宿った。
それは鮮烈な、赤の布だった。
単純に、赤、と呼ぶことをためらうような見事な色味。老人が腕を傾けると、得も言われぬ様に艶めいた。朝積みの薔薇のようにあまく、世界を染める夕暮れめいた光をはらみ、したたる血のごとくに濃く、鮮やかな――……。
きっと、にあう、と、ロゼアは思った。
あの赤は、ソキの肌をいっそう白く、髪を艶めかせて、碧の瞳をより鮮烈に見せることだろう。
ソキの頬が僅かに上気する。あれがいい、と、彼女の目が言っている。ロゼアも思った。
あの赤がいい。
だが運営の女たちはそれを一瞥するなり退けた。
「それはソキさまらしくありませんわ」
「そう、ソキさまはうつくしくかわいらしくなければ」
「赤など、淫靡な」
おまえたちのあたまのほうが野蛮で淫靡だ、という罵倒をロゼアは呑み込んだ。苛々していた。
ソキの瞳からは光が失せ、商人の老人も気分を害したところなど微塵も見せずに布を下げた。
ソキがすうっと寝入ってしまったことを確認してから、ロゼアは待ち構えていた補佐の少女と交代した。
「控えで待っていただいているわよ。どうしたの? 引き止めておいてくれ、だなんて」
「あとで説明する。すぐに戻る」
彼女は肩をすくめて、ソキの寝室へ入っていった。ロゼアが席を外すときには彼女が必ず代わりに入る。傍付き候補であった彼女はソキが不機嫌であっても寄せ付ける数少ない人間である。ごめん、と心の中でソキに詫び、ロゼアは言われた控えに急いだ。客室で絹綾商の老人はのんびりとミントティーをすすっていた。
「すみませんお待たせいたしました」
「いえいえ、とんでもございません」
ロゼアが入室すると老人は腰を上げて丁寧に頭を下げた。
「私に如何様でございましょう?」
「さっきお見せくださった、あの赤い……あちらをもう一度、見せていただくわけにはいかないでしょうか?」
「最後にご覧いただいたものですかな?」
「はい。ご無理を申します」
老人の目配せを受けた助手が席から立ち姿を消した。まもなく戻ってきた助手の手にはあの木箱があった。
再度目にした赤の布はやはりうつくしいの一言に尽きた。食い入るように見つめるロゼアに老人は苦笑し、どうぞ、と手に取るよう勧めてくる。逡巡したのち、そっと触れた絹地は羽衣のようにふわりと軽く、肌に吸い付くような滑らかさだった。真珠の粉を溶き入れたようなこの光沢感。なによりもやはりその色だ。何で染色すればこのようになるのか。絹糸自体も最上級品であろうが染色方法が独特であるに違いない。透かせば、
感嘆のため息がでる。
これで、ドレスを作れば。
布を重ねてふんだんに空気を含ませ、花のような広がりを持たせる。彼女の金の髪が布の紅に光の滝のように流れ落ち、紅の反射が彼女の頬を注し染めて、さぞやうつくしいだろうというところまで想像し、ロゼアは我に返った。店主の老人と助手がやや驚いた様子でロゼアを凝視していて、気恥ずかしさに布から手を引く。
「あの、ありがとうございました……」
「……お気に召されましたか?」
「えぇ……。ちなみに伺いますが、おいくらぐらいなものなのでしょう?」
いくら傍付きとはいえ、成人もしていない子どもに尋ねられるとは思わなかったのか。老人はやや目を瞠ったのちに、懐から出したそろばんを弾いた。
「一反で」
想像の上を行く金額だった。もちろん、買えはしない。さすが花嫁用に持ち込まれただけある。
かすかに眉をひそめたロゼアを見たらしい。老人は笑みに目を細め、目尻の皺を深くした。さらにそろばんを弾き、一センチ四方からでは、と提示してくる。そうされるとこの布の希少さがさらに理解できた。なにせ赤子の手の平程度の大きさでちょっとした貴金属を購えてしまいそうな額だ。
それでもロゼアは何故か諦めきれなかった。ほんの僅かでもいい。この布がどうしても欲しくなった。
長さは反物の端から端まで。幅は指二本、あるいは三本分程度、が、ロゼアでも購入できそうなぎりぎりである。
とはいえ商人としても反物の端だけを売るわけにもいかない。ひと巻の長さは決まっていて、勝手に短く裁断し、売ることは禁じられている。それがほんのわずかな幅であったとしてもだ。
「……啓蟄の日までにこちらが売れなければ、相応の値段でお望みの量をお譲りいたしましょう」
「……啓蟄の日まで?」
「私がこちらの布に出逢って、もうずいぶん長くなります」
老人は血管の浮いた乾いた手で赤の布をさらりと撫でた。
「啓蟄の日を過ぎても貰い手がないのならば、孫娘にでも贈ろうと思っていましてな。その時でしたら自分のものですから、ただというわけには参りませんが、多少分けてお売りいたしましょう。ですが……」
それまでにどなたかに売れてしまえば縁がなかったということでしょう……。
計算してみたが。
「ううん……やっぱり、たりない、な」
自室の寝台の上で胡坐をかいて、はぁ、とロゼアはため息を吐いた。ほんのわずかな切れ端が馬鹿馬鹿しいほどに高額だ。一度触れていたからこそわかる価値とはいえ。
切れ端を手に入れるためだけにロゼアの手持ちをすべてつぎ込んでも足りなかった。
そもそも傍付きたちは働いているものの成人する十五の年まで給金は出ない。年に一度、新年に誕生祝いとして小遣いとしてまとまった金が与えられる。あとは何かしらの訓練なり授業なりで好成績を叩き出せばちょっとした報奨金がある。ほんとうに、ちょっとした程度。それらをどう切り崩すかは当人の自由である。候補のときからさして使ってもいないロゼアはかなりため込んでいる方ではと思われるが、それでも。
「……最低七科目で上位にはいれば……なんと、か?」
報奨金の出る試験が座学と実技あわせて啓蟄の日までに十二回。きついな、というのが正直な感想だ。報奨金は基礎訓練や教養では出ない。必修ではないものに限られる。ロゼアも仕事の合間にこなしている。その中でロゼアが上位に食い込めそうなものは三科目。よくて、五科目。傍付きたちもそれぞれの得意分野では上位を譲らない。貴重な収入源でもあるからして。
十二回、とはいうものの、ロゼアがとっていない科目や分野もある。それをはずせば、八科目。つまり、出席しているもののほぼ全てで上位をとる必要があるというわけだ。
頑張るか、と、眉間にしわを寄せたロゼアは、教科書を本棚からとりだす。
ソキさまがお呼びよ! とすぐに声が掛かるのはいつものことだった。
傍付きの一番難しいところは、それぞれの花嫁花婿の傍に控えることと、傍付きとしてあるために求められる訓練や勉学を同時にこなさなければならない点である。しかも後者をしていることを花嫁花婿たちに匂わせてはならない。彼女たちは知っている。ソキは知っている。ロゼアが傍付きとして、「教育」を受けていることを。けれどそれがいつどこでどのように行われるのかは悟らせてはならない。ロゼアが何を学んでいるのかの情報も伏せられる。花嫁たちが己の傍付きについて知りうるのは、彼女たちが学ぶ全てを傍付きも先行して学ぶ。それだけだ。それ以上があるともないとも、傍付きたちは、世話役たちは、花嫁たちに口にしない。
花嫁たちは傍付きの意識が自分に向いているかどうかに敏感である。
「ロゼアちゃん?」
ぼんやりしていれば、すぐに訝りの、やや拗ねたような声が響く。
「うん? どうした?」
「……なんだかぼーっとしてたです。おつかれ……?」
「ううん。ごめん。だんだん暑くなるなって思って」
ソキの髪を撫でると、彼女はやや不可解そうながらも素直に頷いて、ロゼアにぴったりとくっついた。
「ろぜあちゃん、ソキといっしょに、おひるねしましょう……?」
そき、ねむくなってきました、と、ほわほわした声で告げる少女に、ロゼアは微笑んで、寝ていいよ、と囁いた。眠りにつくまで、眠りについても、ずっとここにいるから、と。
花嫁に求められることは傍付きの至高の喜びである。全幅の信頼を預けてロゼアの膝で丸くなる少女は幸福そのもの。傍付きは傍付きであるから花嫁花婿の近くに控えるのではない。寄り添い続けたいからこそ、死にもの狂いで傍付きたる称号を得るのだ。だからこそ彼女の傍を安易に離れられない。離れることができない。
問題は、この状態でどうやって勉学に励むか、である。
ロゼアは穏やかな寝息を立てはじめたソキを抱き寄せ、はぁ、と天井を仰いだ。
出来る限りのことはしている。ソキの傍にいる時間だけは削れないけれども、空き時間はもちろんのこと、行儀の悪さを自覚しながら食事中に内容をさらい、睡眠時間を削ってひとり教本を読みふけり、早朝はかならず体術の復習に費やす。それでも、満足いく成績は残せなかった。
得た報奨金は四つに留まった。
金のない身でできる最後の手段といえばひとつである。
借りることだ。
「わるいけどおれいまかねない」
同年代の傍付きにほのめかすと、一様に同じ回答を返された。予想通りすぎる。
鋼糸の実技訓練。その休憩中。ロゼアはしゃがみこんで、だよなぁ、と呻いた。隣で両足を伸ばして地べたに腰を落としていた親友の少年が、あたりまえだろ、と半眼でロゼアを見る。
「だいたい、おまえ知ってるだろ? 俺が金すっからかんなの」
「知ってるよ。念のために訊いてみたんだよ」
「お前の方が金持ってるだろ。使ってないんだから」
「買いたいものができたんだよ。足りないんだ」
「ふうん。なるほどな」
親友は訳知り顔でにやりと笑った。なにをかうんだ、と問われるが、沈黙を返す。いえよ、やだよ、いえって、やだっつってんだろそっちがミルゼ様に何を買ったか教えるなら言うけど? ばーかおしえるか。
隣で汗が引くことを待つ彼は、ロゼアよりもふたつ年上の傍付きだ。ソキの異母姉を花嫁としている。年明け間もない頃に全財産をつぎ込んで、彼は花嫁になにかしがを貢いでいた。せっかく今年から支給される給料の多くは、年始に配る成人の祝い菓子の支度金として消え、残りは翌月分も含めて抵当に入っているという。その懐が真冬の白雪のように極寒なことは理解している。
ロゼアも足を伸ばして座り直し、親友を見上げた。互いに物心ついたばかりの頃から傍付き候補の子どもの中に放り込まれ、揉み揉まれながら集団生活をしているが、彼はロゼアと一番気が合った。花嫁たちが知らぬ裏方でつるむのはたいていこの少年である。取っ組み合いの喧嘩は数知れず、同じ分だけ仲直りしてきた兄弟さながら。その顔はロゼアと同様にまだあどけなさを引きずるものの、ある種の落ち着きを見せるようになっていた。
諦観、だろうか。
その瞳に宿り始めたものは。
少年はロゼアよりも年上な分、教育もいくつか先行している。二年ほどまえだったか、彼は花嫁の“旅行中”に数日姿を消した後、明け方近くにロゼアの部屋を突然訪ねてきたことがあった。彼は泣いていた。嗚咽を噛み殺し、透明な涙をはらはら頬に伝わせて、ロゼアの肩を借りて泣き続けた。理由を彼はいわなかったし、ロゼアも訊かなかった。いつかロゼアも通過する。そのときに全てはわかる。そんな気配があった。
以来、親友はこれまで以上に「傍付き」らしくなり、そして何かを決意したように金を貯めはじめ、年明けすぐにすべてをつぎ込んで花嫁に何かを捧げた。彼と同じ花嫁につく世話役たちに尋ねれば少年が何を贈ったのか知ることはできるだろう。けれど少年が話さない以上、ロゼアも無理に知るつもりはない。
それに花嫁花婿に何かを貢ぐ、あるいは貢ごうとしている傍付きは決して珍しくない。このふたつ年嵩の彼やロゼアのようにまとまった金で何かを求める者もいるし、些細なものを折に触れて贈る傍付きもいる。だからこそ傍付きの少年少女たちは手に出来る金銭を制限されているのかもしれない。
つまり、傍付きは総じて、貧乏である。
「金借りたいんだったら上のひとたちに訊けよ」
と、親友が提案した。
花嫁花婿を送り出した者たちであれば、懐に余裕がある。実際、面倒をみてくれている年長組の元傍付きたちから金を借りている年少組は多い。ただし、貸してくれる者は限られるし、誰に借りるか、をよくよく吟味せねばならない。
「上のひとたちなぁ……借りやすそうなのはロカさんだけど」
「ロカさんに借りてやるなよいくら上は給料出るっつっても破滅するぞあのひと」
「だよな……皆頼むもんな」
「ミムスさんはどうだ?」
「あ、だめだめ。最近外に恋人ができたらしいから」
「そうなのか? 俺知らなかった」
「ハヤが教えてくれた。ほら、ミムスさんによく面倒みてもらっているから」
「外に恋人できると物入りになるもんな。無理だな。……ジール兄は」
「俺を破滅させるつもりなのか? 利子とるんだぞ」
「ジール兄はあのがめついところがなければいいひとなんだけどなぁ……」
「はいはーい、休憩おわりだよー、少年たち」
がば、と背後から抱きすくめられ、ロゼアはぎょっと振り向いた。隣の友人も同じだった。目を剥いて己を拘束した主を省みる。若い女性だ。年は二十代前半。ロゼアたちの体術の講師である。無論、もと傍付き――花婿を、無事に嫁がせた、傍付きだ。
「くつろいでふたりで何をしてるのかな? どんな悪戯の算段?」
「悪戯じゃないですよ……」
「ロゼアがソキさまに何か買うつもりらしいんですけど、金が足りないらしいですよ」
「あっ! なんでばらすんだよ!」
自分たちふたりの間で、目を丸めた講師は、にっこり微笑み、ロゼアの頭をくしゃりと混ぜた。
「うわっ!」
「わーわー、ロゼアくんもとうとうソキさまに何か貢ぐんだ? 何々? 何を買ってあげるの?」
あくせさり? ごほん? おようふく? きゃっきゃと無邪気に笑う彼女に、ロゼアはよわよわしく、秘密です、とだけ返した。
先日、外に出る用事があったついでに、あの老人の店を尋ねた。「屋敷」に布を持ちこむほどであるのに仕事場はロゼアが一度見逃してしまったほどこじんまりとしていた。細長い店内の奥に、あの赤の布は埃ひとつ寄せ付けず、まるで女王のように掛けられていた。まだ売れてはいない。けれど啓蟄の日まではわからない。
「お金足りないなら、私がロゼアくんに貸してあげるよー?」
「え!? 本当ですか!?」
「……ジール兄みたいに利子とかはないんですか?」
「えー、ひどいなぁリグくん、私をなんだと思ってるの……? 減点しちゃうよ……?」
それはやめてください、と呻く少年に軽やかな笑いを浴びせた彼女はロゼアに向き直った。
「なつかしいな。わたしも上のひとからお金借りてウィッシュに買ってあげたんだ。ちょっぴり足りなかったんだよねー」
「ウィッシュさまに何を買われたんですか?」
「んん? なぁいしょ」
しー、だよ、とくちびるに人差し指を当てて、彼女は幼い少女のように笑った。
「私、余裕あるから貸してあげられるよ、ロゼアくん。もしいるなら言ってね。利子はなし。支払いは十五払いでいいよ」
つまり、成人と同時に支給される給与で支払え、ということだ。わかりました、とロゼアは頷いた。
「ロゼアくんもこれで一人前の傍付きに一歩近づいたねー? ようこそ! 借金組へ!」
借金が一人前の条件であるとは考えたくないが、誰もが負債もちであることは確かなことだった。
啓蟄の日を過ぎた最初の休日に、ロゼアはひとり屋敷の外へ出た。早朝の空気は冷たく、しかし太陽の日差しは既に鋭かった。これから加速度的に暑くなっていくのだろう。砂漠の冬は短い。
傍付きの休日は不定期だ。花嫁が日頃暮らす区画にひとつき以上詰め続けることも珍しくはない。比較的、花嫁の“旅行中”にまとまった休暇が与えられることが多い。今日も眠るソキをどことも知れぬ場所へ運ぶ馬車に乗せたばかりだった。どの花嫁花婿も旅行に嫌悪を示すが、ソキはとりわけぐずって拒否する。熱を出し、もう旅行が不可能と判断されるまで、泣き叫び続ける。近頃は何も知らされぬままソキと眠っていると、唐突に旅行の世話役たる「案内人」の男女が現れて、苦しげにロゼアに指示を出す。ご当主の命です。ロゼア、ソキ様を眠らせたまま運びなさい。目覚めたソキは諦めて大人しく旅行をこなすと言う。腕の中で安らかに眠っていた少女をだまし討ちのようにして旅行へ送り出したことに暗澹とした気持ちを抱えながら、ロゼアは冷たい空気に満ちた砂色の街の中をあの老人の店に向けて歩き続けた。
「こんにちは」
店は静まり返っていた。紙に包まれた絹綾物が積み上がる玄関口に店主の姿も助手の影も見えなかった。もう一度呼びかけても残響のみが尾を曳いて、奥の倉庫は静まり返っている。足音ひとつない。
引き返すことも、かといって勝手に上り込むことも気が引けて、ロゼアはため息を吐いた。
ごとん、と何かの落下音が響いたのは、そろそろ帰ろうかと踵を返しかけたときだった。すみません、ごめんください、と、声をかけてみたが返事はなく。
その代わり断続的に響く物音に、ロゼアは眉をひそめた。
賊、か。
ロゼアは腰に短剣を帯びていることと、武器となりうるいくつかのものを携帯していることを確認し、そろりと上り込んだ。店の規模からいって、大人数が入り込んでいる可能性は低いだろうし、これだけ間口が狭ければ囲まれることもない。ロゼアの方が入口に近いから、何か不測の事態が起こっても逃走できるだろう。そこまで算段を付けて、奥へ足を踏み入れれば、転がった木箱がつま先に触れた。ロゼアも通されたことのあるそこに荒らされた形跡はない。詰み上がっていたうちのひとつが何かの拍子に落ちただけのようだ。ロゼアが床に転がっていた木箱を拾い上げると、別の反物が転がり落ちてきた。見ればその反物があった一角だけ崩れかけている。断続的に響いていた音は、この棚から布地や箱が落下する音だったに違いない。
床に落ちていた箱を拾い集めて棚に収めたロゼアは、視界の端にあるべきものがないことに気が付いた。
前回訪れたときに飾られていたあの赤い布がどこにも見当たらなかった。
「あぁ、申し訳ありません。いらっしゃっておいででしたか」
棚と棚の間に隠れた扉から現れた老人が佇むロゼアに目を瞠った。彼は勝手に上り込んだロゼアを咎めることなく隣に並び、部屋の奥で沈黙する衣装掛けをロゼアと同様に眺め始めた。
「少し前に売れましてな。とうとう……私の手から離れてしまいました」
「……そうですか」
「花嫁衣装に使われるようです。……美しい花嫁になるでしょうなぁ」
他国では白が一般的らしいが、砂漠の花嫁衣装は色彩豊かなものが多い。色は生命を意味する。オアシスが、新しく誕生する家族が、多くの実りに恵まれることを祈って花嫁はそのオアシスを象徴する色をまとう。
――ロゼアたちの「砂漠の輝石」たちが白い衣装を身に着けて他国へ嫁ぐのは、その国の風習に準じると言う意味もあるだろうし、穢れのない、従順で、だれのものでもないことを示唆するためだろう。
ぼんやり立っていたロゼアに、店主が席を勧めてくる。商談などにも使われるらしい。質の良い絨毯の上に脚の短い円卓と刺繍の施されたクッションが置かれている。店主は香草茶をロゼアに給仕し、またさらに奥の部屋へ消えた。次に姿を現したとき、彼は手に七宝焼きの小さな箱を持っていた。
店主は円卓の天板の上に置いた箱をその乾いた手でロゼアの方へ押し出した。
「もしよければこちらを買ってはいただけませんか?」
七宝焼きの箱は、ロゼアの両手に丁度収まるほどの宝石箱だった。開けた蓋の裏面には丸い鏡。中は発泡酒めいた淡い金の天鵞絨が張られ、その中央に、丸められた赤い布の端切れが入っていた。
「……これ」
ロゼアが求めていたあの布だった。
目で触れていいか問い、店主の首肯を合図に、ロゼアは布を箱から取り上げた。ふわりとまとわりつく、風のような軽やかさを持つ赤の布。長さはロゼアの肘から指先までで少し余る程度。幅は親指二本分。
それでもその赤の艶めくうつくしさはかけらも損なわれていない。
本当に、端切れだ。
ロゼアがせめても購入したいと思っていたものに他ならなかった。
「お買いくださった方に、お願いして、これだけ買い戻したのですが、なにぶん私では使い道がありませんのでな」
「……あ……ありがとうございます!」
ロゼアは購入の書類に署名した。端切れにすぎずともその値は高額である。直接貨幣をやりとりするには物騒過ぎた。この書類を商工会の銀行で手続きすればロゼアの口座から店主へ送金される。
「……それをどうなさるおつもりですか?」
「針方の人間に端をかがってもらって、リボンにしようと思うんです」
屋敷には衣装を担当する部署がある。この布地の価値もわかってもらえると思うし、いいように仕立ててくれるだろう。
店主はふっと目尻の皺を深くした。
「真赭の帯、ですな」
「……まそおのおび?」
「運命の糸、という逸話をご存知ですか? 白雪の方では有名なのですがね、夫婦となる者同士は互いの小指が赤い糸で繋がっていると言うのですよ。足首が赤い縄で結ばれているともいいますね。……赤とは血の色です。赤い糸で結ばれているというのは、血のつながりを持ち死の床を共にする――永久に傍にある者同士を指すのでしょう」
「……とわに、そばにある……」
「私の里は砂漠に近い白雪の村で、赤い帯を贈る風習があるのです」
死が別つまで共にありたいと思った相手に。
それを真赭の帯と申します。
お耳汚しでございました、と店主は静かに頭を垂れた。
雪ざらしで緋に染めた布は真赭の赤となるという。
ロゼアは仕上がったリボンを陽光に透かした。糸と糸の狭間に織り込まれた光はその赤をやわらげて淡い紅色に見せていた。真赭の赤。ロゼアも確かに初めそう思ったのだ。それを箱に収めて小脇に抱えた。
窓の形で渡り廊下に差し込む陽光は温度を増してあとひと月もすれば肌を強く焼いていくものとなる。その光線の熱を感じながら歩を進めて花嫁の区画に入った。扉は開かれていて、主の花嫁が在宅であることを示していた。
「ソキは? まだ寝てる?」
「おやすみよ」
ロゼアの代わりにソキの傍に付いていた少女と入れ替わる。ロゼアは紗の天蓋によって濾過されたやわらかい光の影で白の毛布に包まって、ソキは眠り続けていた。
旅行から戻って早々彼女は熱を出し、この半月ほどずっと伏せっていた。夜の冷え込みがゆるみはじめたからか、ここのところようやっと小康状態に落ち着いている。
寝台の脇に腰を下ろし、枕に広がる髪を梳いてやっていると、睫が震えて、瞼が持ち上がった。
「ろぜあちゃん……」
「ん?」
「……ろぜあちゃんどこ、いってたですか?」
さっき、いませんでした。そき、おきたのに。
続く微熱のせいか、瞳を潤ませるソキに、ロゼアはごめんな、と繰り返した。ごめん、ごめんな、ソキ。もういる。ここにいるよ。
拗ねたのか、ソキが頬を膨らませる。その曲線をロゼアは苦笑しながら指の背で撫でて、恐々と問いかけた。
「……ソキにあげたいものがあるんだけど、いいかな」
実のところ、自分で買い求めた何かをソキに贈るということは初めてだった。衣服も装飾品も彼女にはふんだんに仕立てのよいものが用意されている。ロゼアが何かを贈呈する必要はなく、余地もなかった。
ソキがまたたき、不思議そうにロゼアを見上げた。
「あげたいもの……ろぜあちゃんが、ソキに……?」
「うん」
「おはな?」
「じゃないよ」
ロゼアは小脇に置いていた箱の蓋を開けた。ソキが訝しげに眉をひそめて微かに身体を持ち上げる。その身体を支え起こし、引き寄せて、箱の中身を見せた。ソキが頬を上気させてうっとりと呟く。
「きれいな、リボンです……」
「気に入った?」
こっくりとうなずくソキの髪を、ロゼアは手櫛で軽く整えた。髪を一本の三つ編みに纏め、最後をリボンで留めた。
予想通り、赤のリボンはソキの髪に素晴らしくよく映えた。ソキはその手触りと色合いから何かを気が付いたのかもしれない。はっと息を詰めてロゼアを見上げた彼女は瞳を潤ませ、無言のままロゼアに抱きついた。
「……さすがに色褪せてきたな……」
指にくるりと巻き付けたリボンをしばしながめ、ロゼアはひとりごちていた。ソキが訝しげな顔でロゼアを仰ぎ見る。ロゼアは何でもないという風に首を緩く左右に振った。櫛を手で支えるソキの髪に梳き入れた。
ロゼアちゃんロゼアちゃんきょうね、おにいちゃ、あ、ちがった、せんせいがくるんですよ。それでね、かみのけをきれいにまとめてきてねって、いわれたです。
ロゼアはソキの要求に応えて髪を三つ編みにし、作っておいた他の房と捩じりまとめた。リボンは三つ編みの房の中に入れ込んでしまっている。ピンを挿してほつれがでないようにもした。ちょっとやそっと風にあおられたぐらいでは崩れないだろう。
その髪の中に色を添える赤色は、買い求めたときと比べてうんと褪せてしまっている。どことなくくったりともしていた。当然だった。ロゼアが初めて彼女の髪に結んで以来、リボンはほぼ毎日形を変えて彼女の髪を飾り続けているのだから。
それでも独特の風合いは損なわれず、むしろ使い込んだなめし革のように、リボンは深い味わいを滲ませるものとなっている。普通のリボンならこうはいかないだろう。おそらく角がほつれ、糸も擦り切れ、もう使い物にならなくなっていているはずだ。
髪を結われ終えたソキはロゼアの膝からよいしょ、よいしょ、と滑り降りて、部屋に立てかけられた姿見の前でくるりとひと回転した。今日はスカートと袖に施された大判のステッチが可愛らしいすっきりめの上下だ。ソキの目の色に合わせた碧の刺繍糸に、髪に編み込んだリボンの赤がよく合う。とと、とふらつきながら足を止め、羽織っていた魔術師のローブの裾を綺麗に直して、ソキは嬉しそうに微笑んだ。
「ロゼアちゃん」
「気に入った?」
「はい!」
上機嫌なソキにロゼアは微笑み返し、櫛やピンを手に持って立ちあがった。所定の位置に収め、ロゼア自身もローブを羽織って、教科書類を机の上から取り上げる。
ロゼアの差し出した手を、ソキは握りしめて笑った。
赤いリボンは、今日も彼女の髪で揺れている。
ロゼアも絡む指に力を込めてふたり並んだままゆっくりと外へ出た。
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