――あかいたいよう、しずむさばくにひつじとまずしいひつじかい。なかむつまじくくらしていたよ。
たまごが爆発した。
鍋の中で煮えたぎった湯が吹き出し、たまごの殻が滴と共にはじけ飛ぶ。きらきら、白く輝く殻の欠片と凝固したタンパク質の塊だ。
ロゼアは項垂れながら叫んだ。
「ああああああぁああ……!!!」
魔力が掻き消えて、鍋の中の湯が立てるぐつぐつという音がむなしく辺りに響き渡った。
「そこまで」
バインダーを片手に監督していたチェチェリアが、肩で大きく息をして、演習場の只中に設置された鍋を見に向かう。床の上をうっすらと覆う、断熱防魔の砂の上に散らばったたまごの残骸。ぼこぼこ発泡しているだろう湯。それらをじっくり眺めやった彼女はしばしのち、バインダーに挟んだ書類に筆記具の先を走らせた。
「ま、いいだろう。合格だ」
書類を挟んだバインダーを閉じてのんびりと戻ってくる担当教官に、その場にしゃがみこんでいたロゼアは疑わしげな目を向けた。
「いいんですか? たまご、爆発しましたよ……?」
「十分は充分に過ぎていた……ゆでたまごを食べられなくて残念ではあったがな。光の方はきちんと指定通りの大きさで維持できていたし、共通基礎の術もいい感じだ。妖精の助言はきいておくものだな」
パーティーの夜に、ソキの案内妖精であるリボンから、魔力を視る眼を養う訓練を施してもらうようにと忠告された。ソキの魔力をよりきちんと視認するために。
「個人差はあれど自然ときっちり見えるようになるものだから、あまりこういった訓練はされた記録がないんだが、調べたかいがあったな」
ロゼアからの依頼を受けたチェチェリアは、年長の魔術師たちに訊いて回り、文献を調べて、わざわざ魔力の視認を強化する訓練を探し出してきてくれた。魔力がきちんと見えるということは、己の使用する魔力量も把握できるということだ。当然、魔術を扱う技量も比例して伸びる。
「が、安心するなよ。目標はコンマ一ミリ単位の誤差で範囲を決めて、コンマ一度の誤差で温度を上げることだから」
「がんばります」
「うん。よろしい」
がんばれよ、と、チェチェリアがロゼアの肩にぽんと手を置いた。ロゼアは面映ゆくなりながら笑い、立ち上がって片づけを始めることにする。
鍋はチェチェリアがどこからか調達してきた古いものである。これでもう数え切れないほどの鍋を駄目にしているが、今日の試験で使われた鍋は一週間持ち堪えていた。縁のわずかな溶解は週初めに熱に触れた名残で、ここ数日の間に鍋が得た負傷は皆無である。湯も煮えたぎっている状態で鍋の中に残っていた。チェチェリアが鍋を持ちこんだ初日、中をなみなみと満たしていた冷水は、一瞬にして蒸発したものである。満足、とはいかないが、少しずつでも成長しているのだとわかって、ロゼアはほっと息を吐いた。
「お前は訓練慣れしているから助かるよ」
「訓練慣れ?」
ロゼアが鸚鵡返しに尋ねながら振り仰ぐと、チェチェリアはバインダーを広げて何かしがを書き込んでいた。
「学園の生活は慣れればどうもないが、こういった訓練ばかりは特殊だしな。教官の言うことに反発したがる者もいるし……」
「医療学校とかは実技訓練あるでしょう」
「確かにそう言った高等専門なら専門教官がいないこともないが。普通の子どもが通うような学校は歴史と、読み書き計算の基礎ぐらいなものだよ」
「そういうものなんですか……」
ロゼアの故郷である砂漠の王都にも子どもが通うための学習所が設けられている。しかしロゼアはそこに学生として足を運んだことはなかった。知識を得るべく見学したことはあるのだが。
「だから学園で課される授業の密度や訓練に辟易して、ノイローゼになる者もたまにいる。この分だとロゼアはあまり心配なさそうだが、安心はするな。来週の筆記試験も頑張れよ。今日の詳しい評価は明日の夕方、講師室に取りにこい」
「はい」
「ただ実技が合格なことには変わりないから、ほどほどに里帰りの支度も始めておけよ」
「里帰り?」
鍋を設置していた土台を片づけていたロゼアは手を止めてチェチェリアを振り返った。
ロゼアの問いに、担当教官はバインダーを閉じて首をかしげる。
「なんだ? お前は実家に帰らないのか? 長期休暇の間」
説明を聞いたとは思うが、かなり長い休みだぞ。
そういって、彼女は不思議そうに瞬いた。
「そっか。里帰りかぁ……」
チェチェリアとの会話の顛末を話して聞かせたロゼアに、紅茶を吹き冷ましていたメーシャがいいね、と笑った。
夕食後の談話室。ロゼアはソキとメーシャの三人で、いつものソファー席を陣取っていた。ナリアンは不在。実技試験中の彼は担当教官であるロリエスの講師室に籠っているらしく、もう一週間以上も姿を見せていない。ここ最近は、三人で夕食後の紅茶を楽しむことが通例となっている。
「先生の言う通り、確かに里帰りするならそろそろ準備しないとまずいかもな。ロゼアのご実家は城下にあるの?」
「うん。屋敷の敷地内にある」
「お屋敷……って? ソキの実家?」
念を押すように確認してくるメーシャを訝りかけたロゼアは、そこで初めて「屋敷」の意味がすぐには通じないことに思い至った。他国ではそれなりの規模のある家屋はおしなべて屋敷と呼ぶのだ。屋敷とひとことに言っても理解できず、それがどういった屋敷なのかを問うことは普通なのである。
しかし砂漠では「屋敷」という単語が示すところは大抵ひとつだ。
「そう。ソキの実家。花嫁花婿を育てるお屋敷だよ」
それまで話を聞き流していたらしいソキが、名前に反応してぴょこんと顔をあげる。
「ロゼアちゃんロゼアちゃん、ソキのこと呼んだです? ソキにご用事です?」
「ううん大丈夫。寝てていいよ……」
ロゼアはソキの頭を撫でつけた。きゃあきゃあ喜ぶ少女は再びロゼアの膝の上に頭を載せて、ちいさく丸まる。ソキは本当にロゼアのこと大好きだよねぇ、とメーシャがのほほんと呟いて、ロゼアに向き直った。
「ソキの家の敷地内にロゼアの家があるってこと?」
「そんなところかな……屋敷の持つ敷地内に、使用人の住居があるんだよ。寮とか、長屋とか、一軒家とか。俺の両親はふたりとも屋敷の人間だから、敷地内に家を貰ってるんだ」
「へぇええ、すごいね。じゃあロゼアはそこに帰るの?」
「うん。多分。でもまずは寮かな。片づけに帰らないと」
「寮? ロゼア、寮生活だったの?」
「うん。実をいえば、こことあんまり変わらない生活をしてた」
両親の住む一軒家を実家としているものの、傍付きの訓練生として物心ついてまもなく集団生活を始めたロゼア自身は、その候補になり、傍付きとして選ばれても、ずっと寮生活だった。チェチェリアの言うような一般的な学校に通ったことはないが、必修や選択式の授業に出席し、上の年代の傍付きを監督官として実技の訓練を受けていた。
定期的に容赦ない試験があり、たまに典礼や、息抜き目的の催し物がある。その生活様式はここ学園とさほど変わるところがない。
大勢が目的をひとつにし、仲間として、家族として動いていた。あの忙しなさ、騒がしさ、一体感がよみがえる。
郷愁を宥めすかすように、ロゼアはソキの髪を撫で続けた。
「職務は放棄するようにシディに言われたから辞職の手続きはしたけど、部屋の片づけまではしてなくて。寮の部屋、そのままにしてもらってるみたいだから、帰って部屋を空けないと。……メーシャはどうするんだ?」
「俺はまだ決めてない。でもラティには会いたいなぁ。……ソキは?」
「ソキはロゼアちゃんと行くですよ?」
呼びかけられたソキが顔を上げ、もちろん、とうぜん、何を言っている、とばかりに鼻を鳴らし、だよな! 当然だよな! とメーシャが拳を握る。ソキ、陛下と、ロゼアちゃんのご両親にご挨拶するですよ、と息巻く彼女をぽんぽん撫でながら、ロゼアは膝の上に頬杖を突いた。
「問題は、どこに泊まるかだよなぁ……」
ロゼアとてソキを置いてひとりで里帰りするつもりはない。しかし問題は滞在場所である。ソキは“砂漠の花嫁”であるからして、下手な場所では騒ぎになるし、かといって屋敷に留まれるかどうか。ロゼアが魔術師となるべく立ったことは少なくない者たちが知っている。しかしソキの事情がどのように知られているのかまだわからない。
ロゼアの両親の家であれば家主が嬉々としてソキを受け入れるだろうが、長期休みまで残りひとつきを切っている状態で、ソキ滞在用の部屋を支度するには時間が足りない。改築が間に合わない。多分。
「ロゼアは扉で帰るの?」
「うん? あぁ……それでもいいんだけど」
長期休暇中は各国の城、および国境に繋がる扉を使用していいと言われている。いっそ学園を宿にして、扉で砂漠に通うのも手だ。
が。
「なんだか、せっかく時間がかなりあるのに、もったいない気もしてさ」
学園に来る道中はソキのことが気にかかっていたり、自業自得とはいえ魔力の暴走を起こしたりと、様々な理由があり、あまり観光という感じではなかった。長期休暇はたっぷりあるということで、五国を旅行する者も少なくないと聞いて、扉で直に砂漠へ戻るのは少々味気ない。
「のんびり馬車で帰って、色々と見て回るのもいいかもって思ってるんだ」
ただし、ソキを連れ歩くとなると、色々と問題が浮上する。体調管理の点についてはもちろんのこと。そもそもソキは馬車が苦手なのだ。乗るだけでも頭痛と吐き気をもよおすのだという。
「観光するのもいいよな。せっかくお休み長いんだし。面白そう」
メーシャが目を輝かせる。だよな、とロゼアは同意した。なにせ長期休みは十二月初めから一月末までと、丸々二か月もあるのだ。時間は有意義に使うべきである。
「かんこう、です……?」
ロゼアの膝から顔を上げたソキが初めて耳にしたといわんばかりのその単語をたどたどしい響きで呟いた。
「観光って……何を、する、ですか?」
「有名なお店とか、景色のきれいなところとかを見て回るんだよ、ソキ」
にこにこと笑って答えるメーシャに、ソキは眉間にしわを刻んで見せた。
「それ、ご旅行、と、どうちがう、です?」
「え? 旅行、と?」
ソキの問いの意味を計りかねたメーシャが目を丸めて言葉を詰まらせる。
ロゼアは慌てて彼から回答役をひきとった。
「自分の好きなところに行けるのが観光だよ」
「ソキの好きなところ……?」
「そう。好きなところを自由に訪ねて、好きなときにゆっくりできる旅行」
「うん。砂漠に帰るまで……街の綺麗なところをみたりとかさ。美味しいものを食べたりとかできるよ。ロゼアと一緒に」
「ロゼアちゃんと一緒に!?」
ソキがひと息に頬を上気させ、ばっとロゼアを振り仰いだ。
「ロゼアちゃん! ソキ! かんこうしたいです!」
ロゼアのローブを握りしめて身を乗り出すソキの顔は期待に満ち輝いている。ロゼアは苦笑しながら彼女の髪を梳いた。
「馬車移動になるけど、大丈夫か?」
無理をして歩かせるつもりは毛頭ない。それなりの馬車を用意するにしても、それがソキに耐えられるかはわからない。だいたい花嫁時代の馬車からして最高級のものなのに、ソキはいつも具合を悪くしていたのだ。
「大丈夫です……! ソキ、観光します! お屋敷に戻るまで! ロゼアちゃんと!」
「言っておくけど、回復魔術はだめだぞ。使ったらもうわかるからな」
「うっ……わかってますですよ!」
詰まったところがものすごく怪しいが、ソキはそれから、回復魔術は絶対に使わない、無茶をしない、出発前に具合が悪くなったら中止にする、等々を誓い、ロゼアちゃんのお手伝いだってしますし! うん、それはいいから、というやり取りを経た後、ロゼアはわかった、と頷いた。
「それじゃぁ、観光して帰ろうな」
ソキがこれでもかというほど顔をきらきらのぴかぴかにして、声を弾ませる。
「ロゼアちゃん、だいすきです!!」
ということで。
にわかに、忙しくなった。
「もう少し早く計画、立てはじめればよかった……」
ナリアンと連れだって廊下を歩きながらロゼアは呻いた。
馬車で観光しながら帰省すると決めたときにはすでに長期休暇が始まるまで残り二週間を切っていた。しかも最後の一週間は座学の期末考査だ。よって机に向かう時間を減らすわけにもいかず、慌ただしい予定の合間を縫って、旅行の支度をするはめに陥っていた。
『何か手伝えることがあればいいんだけど……』
ぼやくロゼアにナリアンが顔を曇らせる。大丈夫、とロゼアは笑った。
「ナリアンは気にしなくていいよ。むしろナリアンには感謝してるんだ。忙しいのに、色んな話を教えてくれてさ」
金曜の夜に実技試験から戻ったナリアンはひどく憔悴していて、土日に翌週の考査の準備をする間もずいぶんと顔色が悪かった。だというのに合間を縫って花舞の観光名所やら秘蔵の店やらなにやらと、細々教えてくれたのだ。
『よかった』
役に立てて、と、ナリアンが安堵に微笑んだ。
「まぁ、実技だけでも試験終わっててよかったよ。これで実技がまだ合格してなかったら気が気じゃなかったかもしれない」
『そうだね。ロゼア、試験おおそうだし』
「ナリアンの方が多いだろ? 三つもあるんだって? 今日」
『そのうちひとつは試験じゃないよ。先週の補講』
「たいして違わないよ」
ロゼアとナリアンは同じ黒魔術師とあって、必修科目が被っている。ロゼアはそのうちいくつかを翌年に回していたが、一方のナリアンは自習用のわずかな間を除いて空いた時間に授業を詰め込んでいた。当然、彼の試験科目はロゼアより多い。
「無理はしないほうがいいよ」
これがメーシャ相手ならば何も言わないが、ナリアンである。ソキほど脆弱ではないが、決して丈夫とはいえない。
ロゼア自身の予定は決して緩いものではない。最短で学園を卒業できるよう組んでいる。しかしナリアンはそれ以上だった。担当教官との授業も、座学実技共にかなり密にとっているようだ。ひとりでいる間は知識の詰め込みに余念がない。
「あんまり根詰めすぎないようにな。倒れるとあとで取り戻す方が大変だぞ」
『……ありがとう』
謝辞を述べて微笑んだナリアンは決意を滲ませる目で正面を見据えた。
『でも……もっと、学びたいんだ』
もっと学んで。
強くなりたい。
――……ナリアンが何を望んで己の身に鞭打つのかは、ロゼアの知る処ではない。
けれどがむしゃらに、精魂すべてを注ぎこまなければ手に入らぬものもあることも、ロゼアは知っている。
あのさ、とロゼアはナリアンに提案した。
「代わりに勉強するわけにはいかないけど……何か手伝えることがあったら言ってほしい。頼ってくれていいからさ」
『……たよる? ロゼアを?』
言葉の意味を探る様に視線を向けてくるナリアンに、ロゼアは頷いた。
「うん。たとえば……砂漠に旅行するなら、俺も色々教えられるし。ほかには……体力が必要なこととかさ。頼れるところは人に頼っていかないと、ひとりで学ぶわけじゃないんだし」
傍付きの頃もそうだった。ひとりだけで学ぼうとする候補は大抵脱落する。お互いを恃みにして切磋琢磨したものの方がよく生き残る。
ナリアンが少しだけ眉間に力の入った、どこか照れくさそうな表情で頷いた。
『……わかった』
「おおおおおおお、そこを歩いているのは、ナリアンナリアンナリアン!!」
聞き慣れたくないが聞き慣れた男の呼びかけが、ふたりのほんわかした空気にぴしりとひびを入れる。
ふたり同時に早歩きとなった瞬間、廊下の彼方から寮長が叫んだ。
「待て待て待てオイ! ロゼア!! お前にも用があるんだ!」
無視。
「帰省するときの宿を探してると聞いたぞ! 俺様はお前たちにぴったりのいい宿を知っているぞ!」
探していることは本当だ。時間のなさもあって、情報がもらえるのならたとえ寮長からでも欲しい。ロゼアは嘆息して足を止めた。
「……いい宿、ですか?」
廊下の端で今日も輝いている煌めいてる神々しいです素敵ですと讃えられたい意思見え見えのポーズをとった寮長が、ふっと白い歯を見せる。
「そうだ! 新婚向けのな!」
立ち止まったことを全力で後悔した。
待ってくれていたナリアンに御免と囁き、彼と共に全力で走りだす。
「ナリアン! ロゼア! 逃げるな!」
「これから授業だよ!」
寮長にそう吐き捨てた後、階段を駆け下りながらロゼアは呻いた。
「いつか寮長を蒸発させたい」
ナリアンが息を切らせながらこくりと頷く。
『そのときはロゼアも俺を存分に頼ってよ』
それまでに風で切り刻めるぐらいにはなりたいな、と灰色の声でナリアンは言った。