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 熱砂の記憶 02

 ――とってもとってもだいすきだった。いっしょにいればしあわせだった。でもひつじかいはまずしくて、だからひつじはたびにでた。さばくのむこうへたびにでた。


 十二月初日。
 長期休暇の第一日目にもあたるその日、学園の内部は早朝からざわついていた。寮内を往来する生徒の大抵は身軽な旅装に身を包んでいて、ある者は部屋の掃除と同時進行で荷物を詰め、ある者はぱんぱんに膨らんだ旅行鞄を背負い、しばらく会えなくなる友人たちへの挨拶に忙しい。生徒の九割がたはロゼアと同様に里帰りをし、あるいは五国漫遊のたびに出るようで、残留組はほんの一割だ。委員会とやらの仕事で残留組の名簿を持つメーシャから、寮長も残るらしいよ、という比較的どうでもいい情報と共に、ひとりの先輩の所在を聞きだしたロゼアが、目的の人物を捕まえることができたのは、出発予定ぎりぎりの時間だった。
「ユーニャ先輩」
 講師棟へ向かう途中を呼びとめたロゼアに、ユーニャは柔らかな微笑を返してくれた。ナリアンが彼にチェス試合を持ちかけたことが切っ掛けで関わりを持ち、以来、ロゼアやソキによくしてくれている青年だ。上流階級の出らしく、物腰に品があり、かつ、砂漠の花嫁や傍付きという関係に、砂漠出身でもないのに深い理解を示す稀有な存在だった。
「ロゼア、ひとり? お姫ちゃんは?」
「ひとりです。ソキは談話室に。……先輩、馬車の手配有難うございました。すみませんでした、お礼が遅くなって」
 ロゼアが帰省の旅に使う馬車の手配で悩んでいるという話をソキから聞き知ったユーニャが、よい馬車を抑えてくれたのである。仕様書には目を通したが、どれもソキを乗せるに申し分ないものだ。正直、とても助かった。
 ロゼアが頭を下げると、いいよ、とユーニャは笑った。
「ロゼアと一緒にお出かけだなんて、お姫ちゃんにとっては初めてだよね。せっかくなんだからいいものであってほしいもの」
「ユーニャ先輩もご実家に戻られるんでしたよね」
「うん。用事が終わったらね。寮を出るよ」
「ゆっくりできそうですか?」
「さぁ。どうかな。色々と仕事もあるから」
 家がそれなりに大きければ断りきれない集まりや手伝いなどもあるだろう。しかし見たところユーニャの顔に億劫そうな色はなかった。先日、彼の兄か姉が婚約したという話をロゼアは耳にしている。その準備かもしれない。
「先輩もお気をつけて」
「ありがとう。ロゼアとお姫ちゃんも、いい旅を」
 祝福を述べるユーニャに、ありがとうございます、と、ロゼアは重ねて謝辞を述べた。

「とりあえず、これでいいかな……」
 ソキの部屋とロゼアのそれ、両方の掃除。荷造り。足りないものの買い出し。休暇中の滞在場所一覧は既に事務方に提出を済ませた。そして、ユーニャへの挨拶。
 出発前に、と思っていたすべてを指折り確認し、ロゼアはソキの待つ談話室へつま先を向けた。あとは荷物とその番をしながら待っているソキを拾って、星降へ通じる扉を潜り、城下の乗り合い所でユーニャの手配した馬車に乗るだけだ。
 すれ違う上級生たちと挨拶を交わしながら廊下を行き、階段を下り、談話室の扉が見えたところで、背後から声が掛かった。
「ろぜ、ろぜあっ! 待って……ロゼアっ!」
 とたっ、とたたっ、と、非常に不安定な足取りで、廊下の端からロゼアとの距離を詰めてくるのは、元砂漠の花婿――ソキの担当教官でもある、ウィッシュだった。ロゼアは人混みを避けながら大股でウィッシュに歩み寄った。ソキと同じく、歩くように育てられていなかった彼は、今でも歩行が得意でない。しかもこの混雑具合だ。彼がひとにぶつかって躓いたり、ひとを避けて躓いたり、何もないところで躓いたりするまで、待つつもりはない。
「ウィッシュさま、どうなさいました?」
 廊下の隅に引き寄せたウィッシュの前に跪きながらロゼアは尋ねた。彼はもはや砂漠の花婿ではなく魔術師なのだが、ロゼアにとって仕えるべき人間であることにはかわりない。上から見下ろして応対するのも気が引ける。が、ウィッシュはそう思わなかったらしく、苦笑しながらロゼアの手を取り、ひっぱりあげた。
「立って、ロゼア。いいんだよそこまでしてくれなくて。……えぇっと、ごめんね。お願いがあってね、探してたんだよ」
 王宮魔術師であるウィッシュが授業もないこの時期に学園にいる。つまり彼はわざわざ主君である白雪の女王から許可を得てロゼアに会いに来た、ということだ。
 ウィッシュの要求に従ってしぶしぶと立ち上がりつつ、ロゼアは緊張から硬くなった声音で問いかけた。
「どのような? できることでしたら、なんなりと」
「うん。あの、えっとね。フィアの、こと、なんだけど」
 ロゼアから放した手をお腹の前でいくども組み替える仕草をしながら、ウィッシュが上目使いで懇願してくる。
「俺が、魔術師になって、生きてるってこと……フィアに、しーって、しておいて? しーって」
 お願い、しーだよ、しー。
 右のひと差し指を唇に押し当てて繰り返しねだるウィッシュに、ロゼアは眉をひそめた。
「シフィアさ……シフィア、に……内緒にしておいてほしいってことですか?」
「うん。……うっ、え、と、だめ……? だめ……?」
 花婿にこのような潤んだ目で見上げられれば、誰もが即座に謝罪して彼の意向に従うだろう。だが例外も存在する。ロゼアはその数少ない例外たる、傍付きだ。花嫁や花婿の誘惑に耐性がある者にさらなる訓練を課して、完成される存在である。
「駄目とは、申しません」
 そもそも傍付きは――傍付きのみならず屋敷の人間は――花嫁花婿に従順たれ、と躾けられる。基本、ウィッシュの依頼を断れるはずがない。
 しかしながら彼らに耐性ある者として、理由を問うだけの余裕はあった。
「どうして、内緒にしておきたいのですか? シフィアは……あなたの傍付きなのに」
 ウィッシュの存在を最も渇望している存在なのに。
「どうしてって……えと、えと……だって……」
 彼は熟れた柘榴色の瞳に涙を滲ませて呟いた。
「おれ、ふぃあにきらわれていたくない……」
 花婿や花嫁にもっとも近しく侍ることのできる傍付きにも理解できぬ、彼らの思考というものは、ある。
 ロゼアはため息を堪えて、囁くように、訴えた。
「あのひとがウィッシュさまを嫌うことはありません……――絶対に」
 その主張に対して、ウィッシュは何も言わなかった。
 ただお願いだよ、と念押しして、彼はまたたどたどしい足取りで、雑踏の中に紛れていった。



 己れの花嫁を、花婿を、嫌える傍付きが、どこにいるというのだろう。
 談話室で見送ってくれたメーシャたちと別れて学園を発ち、星降の城を抜けて城下を歩きながらロゼアは傍らを見た。ロゼアに手を繋がれて、てちてちと拙く歩を進めるソキの頭が見える。今日もソキは自分の足で歩くと主張して聞かなかった。八月の流星の夜から、彼女はずっと、ひとりでできるもん運動の最中だ。
 手始めは歩くことから。次に勉強、部活動の支度、ときに買い物。厳密にいえば決してソキひとりで全てを行うわけではない。メーシャやナリアンや上級生の少女たちの手を借りて、彼女はゆっくりと自立を目指し始めていた。
 極力ひとの手を借りることなく生活しようと彼女が努力することは、ある意味、喜ばしいことである。それはもはやソキが花嫁ではないから、というより、自立して生活することを覚えなければ生きづらい、という現実的な理由からだった。かつてのように彼女の周りを囲む世話役がいるわけではない。ロゼアも傍付きという“役職”を手放した以上は、ソキの傍に常に侍ってはいられない。
 それでも、だ。
 ソキがロゼアの腕の中から滑り降り、てちてちと拙い足音が傍らで響くたび、苦い感情を覚える。
 己の花嫁に、花婿に、求められない。それは傍付きにとって最大の苦痛だ。
 腕に抱えることを拒まれるだけで、ざらりとした感触を覚えるのだ。ましてや、ウィッシュが会いたくないと思っているなどと、シフィアが知ったらどう思うだろう。
 嫌われていたくない、と、ウィッシュは言うが、傍付きが己の花婿を嫌うことはありえない。誓って。そもそも嫌えるようなら、傍付きの候補には残れず、傍付きとして選ばれないはずなのだ。
 ロゼアの手に力が籠る気配を感じたのか、ソキがぱっと面を上げて笑いかけてきた。
「どうしたですか? ロゼアちゃん」
 ロゼアは小さく笑って、なんでもない、と頭を振った。
「よそ見をするなよ、ソキ。こけるぞ」
「ぷぷ、大丈夫ですーぅ。ソキ、ちゃぁんと歩けますぅー」
 口先を尖らせて抗弁するものの、ソキの声音ははしゃいでいる。その表情も明るい。観光しながら里帰りをすると決まった日から、彼女はずっと上機嫌だった。
 体調のよさが影響しているのか、ソキが自ら歩き始めた夏ごろから比べると比べものにならないほど足取りもしっかりとしている。今日のソキは手を繋いでさえいれば、ふらつく様子もいっさい見られない。
 いつか、ソキはロゼアを必要としなくなるのだろうか。
 己の傍付きがいなくとも、王宮魔術師として身を立てるウィッシュのように。
「おはなしがあるです」
 そんな風にソキは言いだしたのは、馬車に乗りこんで間もないころだった。色々と寄り道したあげくにずいぶん待たせた上で乗りこんだ馬車は、さして振動もなく滑るようにして道を走り始めていた。座り心地は悪くなく、ソキの身体でも旅に耐えうるだろうと予見させる。本当によい馬車をユーニャは押さえてくれていたらしい。その最上級の生地とばねを用いて造られたらしい座席にちょこんと腰掛け、ソキはもじもじと指の先を組み合わせたり放したりしていた。その仕草は出発前にロゼアを呼びとめたウィッシュを思い起こさせる。自分に“おねだり”しに来た元花婿がそうであったように、ソキはひどく緊張した面持ちである。弓なりに引き結ばれた薄紅のくちびる。やや赤みを増した頬。そして上目使いにロゼアの顔色を窺う、水に沈めたようにうるんだ碧の双眸。ロゼアは微笑ましく口元を緩め、うん、と頷いて言葉の続きを待った。
 星降の王都の街並みが窓を後方へと流れ去っていく。星の意匠を窓枠に散らした煉瓦塀の店舗や、柱に幾本も刻まれた優美な流線、青灰色でほぼ統一された路面に、敷石を用いて描かれた星座などが、みるみるうちに遠くなっていく。忘れ物があるなら城門を出るまでに告げてくれたほうが、とは思うのだが、そもそもロゼアが荷物を詰めた以上、その手のものは何もないように思われた。たとえ忘れ物があったとしても、通過する街で補充することは可能だろう。なないろ小路でしか手に入らない品々が鞄の中に入っていることは重ね重ね確認している。置き去りであるはずがない。
 そわそわと視線を彷徨わせる少女の手に指先を添えて、ロゼアはソキ、と呼んだ。落ち着かせるように。なだめるように。ソキのやわい手を閉じ込めるように包み持って。
 ロゼアがあれやこれやと思考を巡らせるあいだにソキは意を決したらしい。少女の指に僅かにこもった力を感じ取る。
 あのね、と、ソキはいつもにも増して幼い声で言った。ろぜあちゃん。あのね。あのね。おねがいが、あるですよ。
 馬車に乗る寸前までロゼアの腕を抱いてきゃあきゃあとはしゃいでいたことが嘘のような頼りない声音だった。それはふるえてさえいて、しかも彼女の指先の熱は砂が動くような急激さで下がり、もともと高温なたちのロゼアの手をたちまち冷やすのである。
「ソキ?」
「ソキね。ソキね……流星の、夜からね。ずっと、がんばってたです。ひとりでなんでも、たくさん、できるようになったですよ」
 本当にできるようになったか、は、ともかく、そうあろうと、ソキが努力していたことは確かだった。ロゼアは苦笑しながら頷いた。そうだな、そうだ。本当に頑張っていた。
 それでね、えっとね、と、口ごもるソキの次の発言を、ロゼアは待ち続けた。辛抱強い、と学園の者たちは言う。ソキの発言を妨げず、延々と繰り返される同じ言葉、堂々巡りの内容に耳に傾けるロゼアを、我慢強い、辛抱強い、と。
 だがロゼアは何も我慢しているわけではない。そもそも自らに向けられるとわかっている彼女の発言を待つことがどうして苦痛になり得るだろう。たとえそれが喃語の如き、意味を成さぬものであったとしても、ソキのくちびるから発せられるならば一音一音すべてが大切なのだ。今にも恵みの滴を垂れる雨雲を仰ぐような心地でロゼアはいつも。
 だからソキがその腕を持ち上げて、ロゼアに抱くことをせがんだときは、ロゼアは返事すら疎かにソキを抱き上げていた。
 ソキはもはや花嫁ではない。だから彼女が自分のことはできうるかぎり自身でこなそうとすることは、仕方がない。むしろ元花嫁としては驚くほどに立派な心がけなのだと思う。
 しかしロゼアは“傍付き”である。役職は放棄した。だからこそメーシャの言葉にも同意した。ロゼアはもう、傍付きではない。そういう意味では。
 けれどロゼアは成人の十五の祝いと共に完成された傍付きというイキモノだった。傍付きたちは己の花嫁花婿を送り出した後、多くの者が屋敷の外へ出る。花嫁花婿関連の仕事に配属になる者もいれば、専門学校への入学を指示されてその筋の職を得る。あるいは商家に婿入りないし嫁入りし、その家を継ぐものもいる。けれどその誰もが共通の認識を持つ。
 我らは傍付き。花嫁花婿に永劫の忠誠と献身を誓い、その守護のための研鑽を惜しまず、けれどその力を五王の手足としては揮わず、世界に仇名すことなかれと自らに杭を打った。
 傍付きという職を放棄して魔術師のたまごになった。いずれは魔術師となるだろう。それでも根は変わらないのだ。己の花嫁に、花婿に、求められることこそ傍付き最大の幸せ。ロゼアにとっての幸福はソキから求められることだった。だというのに彼女はロゼアの腕から逃れようとするから。
 それが今は両腕を伸ばされ、その膝の上に抱き上げて欲しいと請われている。
「……ろぜあちゃん?」
 攫うように抱き上げられ、閉じ込められ、深く息を吐き出すロゼアの腕の中で、ソキが驚いたように問いかけてくる。我に返って少しだけ面を上げると、ソキは碧の双眸にロゼアの輪郭を写し、不思議そうにぱちぱち瞬いていた。が、やがてとろりと笑み崩れて、ロゼアの身体にぴたりと密着した。ソキとロゼア自身の間にはどこにも隙間なく、あたかも鋳方を用いて造られた対のようだ。けれど実際、そうなのかもしれない、と、ロゼアはいまさらに思う。花嫁花婿と傍付きは、体格から色彩からなにもかもが、互いが互いを補完するようであるのだ。
「――……ソキ」
 緊張からか、朱の注すソキの頬を撫でて、ロゼアは囁いた。あまやかなため息と共にこぼれたそれを聞き取ってか、すすん、と鼻を鳴らし、ソキが問うた。
「あまえてもいい、です?」
「いいよ」
 もちろん。あたりまえだろ。あたりまえだよ。即答に近いかたちでロゼアが繰り返すと、ソキはきゃあ、と声を弾ませた。頬を摺り寄せながら、彼女がロゼアを呼ぶ。ろぜあちゃん、ろぜあちゃん。
「あのね、あのね。ソキがんばったんですよ。でもね、あのね、ちょっとだけね……」
 ちょっとだけ、さびしかったの、とソキは言った。うん、と頷いたロゼアは、そのまま口につきかけた、俺も、という言葉を呑みこんだ。
 そうか、これはさびしい、だ。
 自分はずっと、さびしかったのだ。
 腕の空虚が。求められないことが。
 さびしくて、つらかった。
 ソキの背を撫で下ろし、その淡い金の髪に覆われた頭に頬をつける。そのかたちに、香りに、重みに安堵して、ロゼアは窓から祝福のように差し込む、黄金色に燃えた夕暮れどきの斜光に、眩しさから目を閉じた。
 帰省の旅は、まだ、始まったばかりだった。

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