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 熱砂の記憶 11

 ――いまはとおいおまえとの、やさしいきおくがわたしのおうごん。ひつじ、ひつじ。わたしのひつじ。


『ロゼアちゃん、ソキ、お外に行きたい』
 ソキの部屋は太陽の鋭い光を遮る紗幕で覆われている。ゆらゆらと、金色の光を波立たせるヴェールの隙間から、ソキが手を伸ばしてロゼアに請うた。なぜ、いいよと言ったのか。はきとした理由を思い出すことはできない。ただ祭りの浮き足立った空気が、屋敷の中にも忍び込んでいた、その結果なのかもしれなかった。
 支度を整え、街へ出る。ソキは輿に乗っている。日差しを遮る布の帳で包んだ、訓練を経た男たちが肩に担いで運ぶ、花嫁専用のそれに。
 通り過ぎる花嫁の腰に幼子は笑って手を振り、成人したものたちは丁寧に頭を下げる。ソキもはしゃいでいた。平和な一日のはずだった。
 ソキの頭上を覆う笠からは地上近くまで幾重もの薄絹が垂らされている。その襞が唐突に突風によって乱された。魔除けの鈴がちりちりと鳴り、輿持ちの男たちが足を止め、宙を奔る砂塵から顔を背ける。ひるがえり、ばたばたと音を立てる露店の布。あっ、と、ソキの声がした。輿の紗幕と紗幕の隙間から滑り出た赤いリボンが、空へと吸い出されていく。
 ロゼアがいつだったかソキに買い与えたリボン。彼女はそれで髪を飾ることを好んだ。なんの装飾もない、けれど至高の布を切り出して作った、赤ばかりが鮮やかなそのリボンを。
 ソキの白い手が空に伸ばされるもののリボンには届かない。ロゼアは駆けて、跳躍し、リボンを風から取り戻した。
『ソキ――……』
 振り返ったロゼアの視界からはすでにソキと輿持ちたちの姿が消えていた。
 屋敷にソキがいなくなったことを報告したその足で引き返し、ロゼアは街中を駆けた。花灯籠に火が入れられていく。あれは祝福の灯り。人々が抱く感謝と祈りの数だけ灯される。太陽が砂礫の丘の彼方で火の色に染め上げ、そのまま濃紺の幕を引いた太陽のおとし仔であるかのごとく、薄闇に沈むオアシスの街を、人々の営みを、橙の火は照らし出す。
 乾いた石畳に、ロゼアの足音が反響する。影と蹴り散らした砂礫が跳ね回る。どこかで狂った笑い声が反響する。眩しいのは女の笑みに似た半月だろうか。星々だろうか。煌々と輝く、灯篭の光だろうか。
 ソキを求めて喉に血が滲むまで叫び続けて、何の手がかりも得られぬまま屋敷に戻る。ロゼアの身を案じる者たちの手で寝台に縛り付けられるようにして休み、体力が僅かながら回復すれば昼夜を問わずに街中に駆け戻る。時に近隣のオアシスには厳戒態勢が敷かれたときく。けれど、ソキの姿はなく、輿持ちたちも行方知れずのまま。
 七日目。
 オアシスの切れ目に近い砂に埋もれかかった道の終わりに立つ男がロゼアに微笑みかけた。彼はロゼアが信頼を置いていた、輿持ちの男。ソキと共に行方知れずとなった男。
 ロゼアは囚われた。男たちに。同僚だったはずの男に。彼らはロゼアの呼びかけに答えない。唇の端から涎を垂らし、ロゼアを拘束する鎖の端を堅く握りしめている。祭りに目覚めている人々の姿は通り一本を隔てた向こうにあるらしく、ロゼアたちは誰にも見咎められることなく、入り組んだ路地の奥にひっそりとある家屋へ連れて行かれた。
 家屋には女たちがいた。誰もが虚ろな瞳を虚空に投げかけていた。喉に絡む、娼婦たちの好む香の甘い煙。彼女たちはロゼアたちに一瞥もくれなかった。互いに絡まり合いながら絶え間ない忍び笑いで空気をやわやわ揺らす彼女たちの間を通り、輿持ちの男たちはロゼアを部屋の奥へ導いた。そこには底知れぬ闇へ真っ直ぐに伸びる階段が。石畳のそれには、血のように暗い赤の絨毯が敷かれていた。
 地下への階段を一歩ずつ下りる。足元を鼠が這う。壁に打ち込まれた燭台に刺さる蝋燭が芯を焦がし、闇に一筋白い煙を吐く。火にまるく照らされる中を、数人の影が過ぎっていく。
 辿り着いた地下室は、ひろく、奥は巨大な寝台で占められていた。さながら巣を広げ、微睡みながら獲物が掛かることを待つ、蜘蛛のように、彼はロゼアを待っていた。
『キミが、ロゼアクン』
 男は微笑んだ。
『お人形さんが、キミの名前ばっかり呼ぶんだよ……イケナイ子だよね。お人形さんさえキミのことを呼ばなければ、キミは、これからも普通の生活を送れたのにネ……』
 その部屋には、蝋燭の光はなく、けれど男の輪郭は、水に油を垂らしたときのような、虹色をまとっていた。初めて見る類のきらめきに、ロゼアは目を細め、男の背後に、うずくまるソキを見出した。
 ソキ、ソキ、ソキ、と手を伸ばす。その腕が、拘束具ごと引き戻される。ソキが悲鳴を上げる。胸元をかきむしっている。だめだ。そんなに、叫んだら。爪を立てたら。
 壊れてしまう。
 男が、踵を鳴らして、ロゼアにゆっくりと歩み寄ってくる。だらりと垂れた右手で、男は何かを握っていた。ロゼアでは視認できない何かを。けれどロゼアにとって大切な、何かを。
 男の靴音に混じり、ぱきん、と澄んだ音がロゼアの耳に届いた。とても繊細なガラス細工を、砕くような音だった。
 男の手から砕けたものの破片が、きらきらきらきら、光を乱反射して零れていく。
 男がロゼアに手を伸ばす。男は歌うように言う。これでおまえはわたしの玩具。
 おまえというものがたりは、わたしのものになる。
 いやだ、とロゼアは拒絶した。
 その意思に従って、ロゼアの内に眠っていた熱が、牙を剥くべく、目覚めた。
 加速度的に膨れ上がった熱が衝撃波となって男を襲う。男が驚愕し、初めて青褪め、毒づいた。しまった、と男は舌打ちした。壊すのでは、なかった、と、続けて呻いた。
 男が、右手を振り上げ、握りしめていた光をまき散らし、先ほどからは信じられぬほど掠れた声で、叫んだ。
『――XX! オマエは盾……この熱の矛先から――……!』
 掠れた言葉は命令として完成しておらず、それでも男の手の内にあった虹の破片は、男と、その奥で気絶するソキを守り通した。
 逃げ場をなくした熱はロゼアの絡め捕っていた鎖を握っていた男たちごと蒸発させた。壁の燭台がどろりと融け、蝋燭がその炎ごと滴となって絨毯に落ちる。燃え移った火は空気を喰らいながら更なる餌のある方向へと駆け抜けていく。
 ロゼアは膝を付き、前のめりに倒れた。腕に絡まる鎖の温度が冷たく、心地よいほどだった。
 地上に噴きだした焔は、焼き尽くせるものを全て焼いて収まりを見せていた。部屋は闇に沈んだ。静寂が訪れ、遠く、地上で、女たちの甲高い悲鳴が上がっている。警笛のように尾を曳いて、長く長く響いている。その女たちの声に被さるように、男は、嗤った。
 高らかに哄笑した。熱の第一波に焼かれたらしい男の喉は、ロゼアが声を耳にしてそうとわかるほど傷んでいた。
 男が、よろめきながら、ロゼアの横を通り抜ける。一歩一歩、階段を、登っていく。
 嗤いが壁に反響し、四方八方から、ロゼアに降り注ぐ。
 ロゼアは寝台に蹲ったままのソキに手を伸ばし。
 そこから先の記憶は、ない。


 そこは、運命の分かれ目。
 彼女はひらりと降り立った。しんと静まりかえった部屋には花嫁と傍付き。今、地上では大変な騒ぎになっている。たとえ彼女が手を貸さなくともふたりは救助される。が、それには時間がかかるだろう。男が蓋をするから。覆い隠してしまうから。それでは花嫁が枯れてしまう。それでは傍付きが壊れてしまう。
 彼女はふたりのいない未来(さき)から来た。
 欠落を抱えた世界は救われなかった。とある男が彼女を己の人形にせんと試みた。彼女を守ると約束してくれていた愛しき人々は幽閉されていた。彼女は殺してしまった。たくさんの人を。彼女は殺された。最後の最後、愛するひとたちの手に掛かって。
 世界に溶ける間際に訪れた膨大な可能性の糸束の交差点。そこで出逢った風のひとに教えてもらったのだ。救うべきひと。欠落を退ける術。風のひとはどこかで役目をはたして消えていく途中だった。彼が戦った未来に時間軸を繋げるため、彼女も彼女の役割を果たす。
『……時のとびら、空のとびら』
 暗闇に瞼のような亀裂が走る。開くその隙間から目覚めを告げるように雷が宙に放たれた。
『ひらけ。そして導け。正しき路を往くものたちを』


 少女のものと思しきやわらかい手が髪に触れた。けれどそれは一瞬だけ。
 風が頬に触れている。熱がちりちり肌を焦がしている。そこに、ひかりが。
 だれかがわすれようね、と言ったので。
 記憶はまた、水底に沈む。



***



 ロゼアは怒っていた。
 王宮魔術師たちに。
「ツフィアさんを拘束って……いったいどういうことなんですか!?」
 地下室で気絶した後、ツフィアによって城に運ばれたロゼアは、兵たちによって城の奥の医務室に移されたらしい。目覚めたロゼアの視界に移ったのは持ち送りに装飾の施された円天井だった。
 高さのあるそこにはねたロゼアの叫びに、揉み手しながら目を彷徨わせるのは、白の魔法使いであるフィオーレだ。意識を失ったまま運ばれてきたロゼアの治療にあたっていたらしい。それに対しては感謝している。が、どうして目覚めてさっそくツフィアが拘束されていると聞かされなければならないのか。
「うん、でも、いちおう、ね、ほら」
「何が一応なんですか。さっぱりわかりません。あのひとは何も悪いことをしていない」
 少なくとも、ロゼアには。
 説明してください、と、要求するロゼアにフィオーレはしどろもどろと弁解した。
「いや、うん、ツフィアがロゼアに何かしたとか思ってるわけじゃないんだけど、でも、ロゼアからね、調書をとらないと、自由にすることができなくてね……?」
「……ちょう……しょ?」
「うん。……始めていいかな?」
 早く済ませばそれだけ早く、ツフィアを解放してやれる。
 フィオーレの発言の意味を理解できず、ロゼアは呆然となって口をつぐんだ。
 ごめんね、と、フィオーレがほろ苦く笑った。本当に、ごめん。
 彼は水差しの置かれた棚に手を伸ばした。そこにはバインダーと筆記具が置かれていた。
 そして尋問が始まった。
 ツフィアと街中で出逢った経緯、交わした会話、行動を共にするに至った理由。
 ツフィアがロゼアにしたこと。ロゼアがツフィアにしたこと。ありとあらゆることを詳細に追及された。
 上半身を起こして応対していたロゼアは、途中で吐き気を覚えてうずくまった。魔力の暴走を起こしかけた後遺症からではない。理由のわからない尋問に対する混乱と、不快さからだ。
 ロゼアの発言のひとつひとつをフィオーレは丁寧に書き記していく。最後に彼はこれまで書いたすべてをロゼアに見せた。
「間違いない?」
「……ありません」
 白の魔法使いはロゼアの返答を受けて、三枚複写の二枚目を千切りとった。
 バインダーと筆記具を棚の上に戻し、彼は手元に残した紙を掲げ持つ。緑灰色の瞳を瞼で隠し、深く息を吸いこんだ。
 おびただしい魔力が、跳ねる。
「正しさのみであれ、偽りは燃え落ちよ……正しくあれば祝福を、偽りあれば赤き炎で塵と化せ。火よ、青き火よ。偽りなければ……踊りたまえ!」
 紙は、青い輝きに包まれて、塵と化した。
「……審議の、判定……」
 ロゼアは呆然となって唇を戦慄かせた。
 フィオーレが苦しげに呻く。
「ロゼア。ごめん。本当にごめん。俺だって本当はこんなことをしたくない。ツフィアが何もしていないことはわかっている。皆わかっている。だってツフィアは、リィの。俺の大事な……の」
 何かの単語をぐっと呑み込んで、彼はロゼアの顔を覗き込んだ。
「それでも……これは、規則だ。ツフィアの正しさを、証明するための、彼女が潔白だって、確認するための、決まりごとなんだ」
「……ツフィアさんは……罪人、なんですか?」
「違う」
 フィオーレは鋭く否定した。
「罪人は、ツフィアじゃない」
 殺意を、滲ませる声だ。
 黙るロゼアにちいさく笑いかけて、フィオーレが立ち上がった。バインダーの横。盆の上にはグラスが伏せ置かれている。
 フィオーレは手に取ったグラスをひっくり返して水差しから水を注ぎ入れた。
「喉渇いただろ、ロゼア」
 ロゼアの目の前に水で満ちたグラスが差し出された。
「飲んだ方がいいよ。白魔術は……喉の渇きまでは癒せないもんな」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
 椅子に座りなおしたフィオーレが膝上で手を組み合わせる。祈りのかたちに組んだ両手に項垂れた額を押し当てて、どう言ったらいいかな、と彼は言った。
「ロゼアも知っているよな? 俺たちが初めて出逢った二年前のあの事件は、俺たちの仲間だった男が起こしたものだった。……あいつは、言葉魔術師だった」
「ことばまじゅつし……」
「そうだよ。予知魔術師のような特殊な術者だ。その術は誰にも真似できない。あいつは……その術を使ってソキを誘拐したんだ」
 輿持ちたちがソキの誘拐に加担するなど異常だ。屋敷は花婿花嫁の側に置く人間を、厳正な審査を重ねて選出する。どうしてそのようなことが起こり得たのか屋敷の人間はついぞ理解できぬままだった。
 その答えが、魔術だった。
「あの事件があって陛下たちは言葉魔術師を危険な術者と判断した。同じ術者であるツフィアに様々な制約を与えることにしたんだ」
 ロゼアはシーツの端を握りしめた。
 もっと早く気付けばよかったのだと思う。
 他の魔術師たちから孤絶したツフィアの立場。すべてをチェチェリアに必ず報告してほしいと念押ししてきたこと。彼女はわかっていたのだ。ロゼアが介入すればあまりよくない事態となることを。



 気分が落ち着いた頃合いを計らってロゼアはフィオーレと共に医務室を離れた。ロゼアが休んでいた部屋は城下に最も近接した建物の一角にあったようだ。廊下の窓辺からは夕日のあまやかな真紅に煌めく湖面が見えた。丸一日、ソキの側を離れてしまっていた。
 フィオーレと並んで城の奥へと向かう途中、ロゼアは吹き抜けを取り巻く回廊に出た。階下はロゼアも見覚えのある広間だ。帰省初日にソキと待っていたあの広間だ。そこを数人の人影が通り抜けようとしている。
 ロゼアは思わず立ち止まり、欄干から身を乗り出して叫んでいた。
「ツフィアさん……!」
 彼女は数人の兵に囲まれて歩いていた。
 彼女に謝罪したい。会いたいという訴えはフィオーレによって棄却されていた。だからなおさらこの場で姿を見ることができて、呼び止めずにはいられなかったのだ。
 ツフィアが面を上げて首をめぐらせた。声を頼りにロゼアを探しているらしい。
「ロゼア」
 ここだ、と顔を出したロゼアの肩をフィオーレが握りしめた。
「ツフィアの目は見えてない」
 ロゼアは驚きから弾かれたようにフィオーレを振り返った。なぜ。ロゼアの唇の動きだけの問いに、フィオーレが顔をきつく歪める。
「ツフィアは城に入るとき、必ず視界と声を封じられる」
 城に来るかと尋ねたロゼアに断りを返したときのツフィアの顔が脳裏をよぎる。
『わたしは城に入れない。……いいえ、入れないこともないのでしょう』
 制約さえ、呑み込めば。
「これからツフィアは扉で星降に送り返される。しばらくは家から出て来られないんじゃないかな……」
「謹慎ってことですか? ……でもツフィアさんの身の潔白は証明されたわけでしょう?」
「ロゼアの目を弄ったことには変わりがないから」
 ロゼアは絶句した。知れずその手を自らの瞼に触れさせる。
 妖精の、目。
「城に入ろうとしなければツフィアはわりと自由だよ。でも他人に魔術を使うことは駄目だったんだ。……でも今回は何をされるかの自覚がロゼアにあって、ツフィア自身にも隠す意図はなかった。だから謹慎はすぐに解ける」
 ロゼアは再びツフィアを見た。見えていないはずの目で彼女はロゼアを真っ直ぐに捉えていた。彼女は微笑を浮かべていた。それはいたわりに満ちたあたたかなものだと、この距離でもよくわかった。
 ツフィアが兵たちに促されて踵を返す。
 こつこつと硬い踵の音を響かせて、彼女は扉の彼方へ消えていく。


 今更ながらに思い知る。
 屋敷も魔術師の世界も変わりがないのだと。
 自由は、檻の中だけなのだと。

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