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 熱砂の記憶 10

 ――ひつじ、ひつじ。わたしのひつじ。おまえがいればなにもいらない。ゆたかなみずもあまるほどのたべものも、ひとやまになるざいほうも。


「ありがとう、ロゼア。ここまでで結構よ」
 ロゼアの前に回り込んでいたツフィアが言った。
「あの予知魔術師の子のところに戻る途中だったのでしょう?」
「ツフィアさんはここで何をするつもりだったんですか?」
「ちょっとした……調べものよ」
「調べもの……」
 ツフィアの言葉を反芻したロゼアはこめかみに刺すような鋭い痛みを感じ、目を眇めた。
 つき、つきり、ずきり。
 痛みが、徐々に鋭さを増してくる。
「……大丈夫?」
「だいじょう……」
『ねえ、だいじょうぶ?』
 ツフィアの問いに応じて顔を上げたロゼアはそのまま表情を凍りつかせた。
 顔を覗き込んでくるツフィアの姿に青年の残像が重なる。赤と薄桃の髪をした彼は今朝も城で顔を会わせた、白魔術師だ。
「ふぃおーれさん?」
「え?」
『もう大丈夫。よく頑張ったね? 怪我は……火傷は?』
 ない? と彼はロゼアに訊いた。ちりちりするところ、ずきずきするところ、ぎゃくになにもかんじなくなっているところ。あついか、さむいか。細かく尋ねてくる彼の背後では大勢の魔術師たちがばたばたと忙しなく走り回っている。その足元では家具だった木材を餌に熾火がくすぶり続け、炭化した砂の側で火の粉が跳ねていた。
 この空地となっている場所にはかつて、家屋があった。
 その家屋は、とある夜、唐突に火柱を上げたのである。それは眠りに沈んでいた夜の宙を、取り囲む家々を眩い紅に染め上げ、そしてまたたく間に消失した。駆けつけた魔術師たちは炎に巻かれて死に絶えた黒い遺体を何体も回収したという。
 ロゼアは困惑の表情で顔を窺ってくるツフィアの横をすり抜けて空地を歩いた。記憶をもとにした魔術師の残像たちはロゼアをすり抜けながら消火活動に勤しむ。あのときロゼアは、そこではない、と訴えたかったのに。自由にならない身体と意識がそれを許さなかった。腕に抱えた己の花嫁の安否のほうが気にかかったということもある。
 そのままそれについては忘れられた。誰からも、忘れられた。
「ここに……階段があった」
 立ち止まったロゼアが示した場所は家屋の入口から最も離れた壁際の床だった。
 歩み寄ってくるツフィアが尋ねてくる。
「二階への階段?」
「いいえ、地下への」
 砂に覆われた何の変哲もないそこに、階段の名残はない。
 隣に並んだツフィアをロゼアは振り返った。
「ここは……二年前、俺が……俺とソキが、保護された場所です」
 星祭りの日。輿持ちの男たちごと誘拐されたソキと、彼女を探しに出たまま行方がわからなくなったらしいロゼアを、王宮魔術師たちはここで見つけた。
「……ここで……あなたも?」
 ツフィアは僅かに瞠目したのちに、納得の表情を浮かべて頷いた。
「そうなの……それでしるしが」
「ツフィアさん、俺、思い出せないことがあるんです。……ここで俺が何をされていたのか」
 ロゼアはソキと共にここで保護された。
 ただここにいた理由を思い出せない。
 ここで会っただろう男のことを、ソキを誘拐したという犯人のことを、どのようにしてソキと再会したのかを。
 ロゼアは思い出せない。
 それだけではない。
「二年前のことだから仕方がないって思うかもしれない。でも、最近も……記憶が飛ぶ、ことが、あるんです」
 親しい者たちでなくツフィアを相談の相手に選んだのは、関わりの薄い人間ならではの気楽さがあったからだ。
 話を聞いてくれるだけでもよかったし、それが困惑に満ちていてもかまわなかった。
 けれどツフィアの反応は違った。
 重い沈黙を返すツフィアを見る。彼女は顔色を変えてロゼアを見返していた。これまでどこか超然とした雰囲気を湛えていた彼女がまともに色を失くしていた。
「……ツフィアさん?」
「ここで何があったのか確かめたかったの」
 ツフィアは足元に視線を落として言った。
「ここはもう終わった場所だから、私にも訪れる許可が与えられた。でも、まだ終わっていないのだわ」
 彼女は唐突に屈みこむと地面の砂を手で払った。そして背後に立つロゼアを仰ぎ見て言った。
「あなたは、目を凝らせる?」
「目?」
「普通の目のことではないわ。魔力の目。……魔力を視る、妖精の目」
 魔術師になる条件はその目を以て妖精を視認することだ。
 ロゼアはツフィアが砂を払った場所に目を凝らした。ただの地面に見えた場所に虹色の幕が陽炎のように揺らめく。それは魔力の焔。主の命に則って真実を覆い隠そうとする、七色の幕。
 その奥を覗き込もうとしたロゼアの頭部を唐突に錐で突いたような痛みが走った。
「……っつ!?」
 目の前が赤くなって、その場に膝を付く。
 気が付くとロゼアは労りに触れてくるツフィアの腕を、指が肌に食い込む強さできつく握りしめていた。
「もう帰りなさい」
 ロゼアの指をゆっくり外しながらツフィアは言った。
「休んだほうがいい。ひどい顔色しているわ、あなた」
「帰りません」
 遠退く女の手首を掴んで、ロゼアは決然と告げた。
「ツフィアさん……あなたは調べるためにここに来たんだと言った。何があったのか知りたいんだって言った。俺も知りたい。ここで何があったのか」
 ツフィアの調査に立ち会わなければ後に自分は後悔することだろう。
 たまさかみられる記憶の齟齬は、ここが始まりである気がする。
 ロゼアはふと掴んでいる手から微かな震えを感じ取ってツフィアを見た。ほっそりとした指を握りこむ彼女の拳は小刻みに戦慄いていた。彼女の暗い赤の瞳にロゼアは葛藤を見た。
 しばしのち、瞼を閉じた彼女が深く吐息する。
「……ここで起こったことはあなたにとって、あなたの周りにとって、よくないことなのかもしれない。忘れていられたほうが幸福なのかもしれない。……それでも知りたい?」
「はい」
「……わかったわ」
 了承の徴に頷いた彼女は空いている左手をロゼアの目の上にかざした。その手はじっとりと汗ばんで、かすかな魔力を帯びていた。
「ひとつ約束して」
 ツフィアは請うた。
「私があなたにしたことを誰にも隠さないで。かならず、誰かに……チェチェリアに、私と出逢ってから、別れるまでを、すべて教えて」
「チェチェリア先生に?」
「そうよ。……あなたの担当教官なんでしょう?」
 ツフィアが何故そのようなことを求めてくるのかはわからない。ただロゼアを見据えてくる瞳はひどく真剣だった。頷かなければ彼女はロゼアの両目に掲げる手を何事もなかったかのように下げるのだろう。
「約束します」
 ツフィアはロゼアに説明を始めた。
 床に漂う魔力の向こうをロゼアが視認できるように、これから魔力を視る力を上げる術を施す。効果は一時的。ただしそれを切っ掛けとしてのちに影響が出る場合もあるらしい。
 本当にいいのか、と問うツフィアにロゼアはにべもなく頷いた。
「チェチェたちに話して。決してここであったことを隠さないで。必ずよ」
 ツフィアは念押ししてロゼアの眉間に指を添えた。
 朗とした声で、力ある言葉が、つむがれる。
『目よ――……おまえはひととき妖精の目となりて、いま一度この世界を見る』
 刹那、世界のすべてが虹色に発光した。
「……っ!?!?」
 よろめいたロゼアをツフィアの手が支える。やわらかい指先。ソキと大きく違うのはそこに力強さがあることだ。何かを守る手だ、とロゼアは反射的に思った。傍付きの女たちが、ツフィアと同じ手をしている。
「見える?」
「はい……」
 ロゼアは無意識に瞼を覆っていた手を外した。
 息をゆっくり吸って、吐く。
「見えます……」
 ひとめには何も変わっていない。
 家屋の名残である崩れた壁とその向こうに並ぶ家屋の土壁。足元をうっすらと覆う細かな砂。空には絵の具のような鮮烈な青。
 けれど、全てが眩しい。
 まるで金剛石の粉を振りまいて光を当てたように、あるいは、細かな水の飛沫すべてに虹が映りこんだように、世界が絢爛に輝き、その一角に渦を巻くように、階段を覗かせた闇が見えた。



 急勾配の階段がまっすぐ地下へとのびている。
 石造りで、端は摩耗し、先は闇に呑まれて見えない。何年も放置されたままなのだろう。魔力に隠されて存在していた階段に近年だれかが立ち入った様子は見られなかった。籠った独特の臭気が鼻に吐く。
 足元に気を付けて、とツフィアが囁いて、ロゼアの先を行った。彼女の手にはいつのまにか銅製の燈明皿があり、その上で細い紙燭が燃えて辺りを丸く照らし始めていた。
 ツフィアの後に続いて、ロゼアは慎重に階段を下っていった。一段一段踏みしめる都度、頭の奥に痛みが走る。瞼の裏に赤い光がちらつく。警告めいたそれらにともすれば階段を踏み外してしまいそうだった。
 炭のような黒い塊が転がっている。つま先に少し引っ掛けるだけで砕けてしまうそれは、一体、何なのだろう。自問に、心の内から何かが答える。
 おまえはそれをめにしたことがあるはずだ。
 体中の穴という穴から血を噴きだし、瞬く間に体液を蒸発させ、そのまま黒く黒く変質していく、イキモノのなれ果て。
 ロゼアは壁に背を預けていた。指先に触れる石壁からは、かびと炭と、血の臭いがした。
「ロゼア」
 遥か下方の丸い灯りの中から、ツフィアがロゼアを手招いていた。
 ロゼアは彼女の光源を頼りに、壁を伝いながら歩を進めた。
 階段を下りきった先で燈明皿を高く掲げていたツフィアが終着点の様子に眉間のしわを深くする。
 そこは広い、地下室だった。
 ツフィアが呟いた。
「……寝室、なのかしら。ここ」
 奥に向かって交互に幾枚も重なる薄絹と天鵞絨の遮光幕。ひときわ大きな寝台。流砂のようにうねる敷布にはアラベスクが色とりどりの糸で縫い取られている。一部が焦げた広げられた巨大な絨毯は埃の巣窟。壁の端に転がる香炉には蜘蛛の巣のヴェール。
 その奥には蛇のように蜷局をまく黒く太い鎖が。
『ろぜあ、ちゃ』
「……あ……」
 幻影が、見える。
『ろぜあちゃ、にげ』
 ロゼアに伸ばされる、ちいさな手。あわい紅色の唇から、涎が細く糸を引いて。
 限界まで見開かれた目から涙が。
 ソキ。
 ソキ、ソキソキ。
「う、あ」
 男が笑う。勿忘草色の目を細めて、赤い舌がひゅるりと動いて下唇を舐める。
 なにか、きらきらしたものを砕いていた手が、そのままロゼアの方を向いてそして。



「お人形さん。ロゼアクンを連れてきて上げたよ。会いたかったんだよネ?」
「やめてロゼアちゃんはやめてやめてやめていたいいたいやめてやめて」
 やめておねがいですやめてろぜあちゃんろぜあちゃんろぜあちゃん。ソキが胸を押さえている。悲鳴をあげている。寝台の上で。布の上に刺繍という花弁を広げた花の中央で。いたいいたいいたい。脆いつくりの喉はとうに限界を超えたのか、彼女の声は硝子に爪を立てたかのような、ひび割れた音をしている。その彼女が身を伏せて。
 自分は何をしていただろう。足元には鎖があった。周りには、男たちがいた。よく見知った、輿持ちの男たちが。その黒の瞳からは闊達とした輝きが失せ、焦点を虚空に彷徨わせている。しかし彼らの手は腕に巻き付けた鎖の端を握りこんでいた。血が滲み零れるほど、しかと握りこんでいた。
 ロゼアの身体にはねっとりとした香りがまとわりついていた。その甘い腐臭は蛇のように、あるいは娼婦たちの白い腕のように脳髄を痺れさせ、ロゼアから身体の自由と平衡感覚とを奪い去っていた。何が起こったのかわからない。信頼されるべき屋敷の同僚たちがなぜこのような真似をするのか。どうして、かれらが。
 なぜ。
 硬質の足音が響く。男がロゼアにゆっくりと歩み寄っている。彼は右手の指を、ゆるく曲げていた。何かを、握っているのだ、とロゼアは思った。彼の手は虚空を掴んでいるようにしか見えない。けれど、ロゼアにはわかった。
 あの男は、とても大切なものをそこに握りしめている。
 男がロゼアを見て薄い唇を半月の形に吊り上げる。
 ふいに。
 ばきん、と、音がした。
 奇妙なまでに耳に付く、澄んだ音だった。男のたわめられた指に力が籠る。そこにある目に見えぬものを、握り潰そうとしているかのように。
 否。
 この男は、本当に。
 握り潰しているのだ。
 ぱきん、ぱきん、ばきん、と。砕けるそれ自体が悲鳴のような音を立てる。そこにソキの悲鳴が重なる。ロゼアの喉からも声にならない叫びが漏れる。
 どっと、汗が噴き出す。
 それはだめだくだくなこわすなそれはそれはとてもだいじなおれのわたしのそれは。
 男の手から蛍火のような光がこぼれた。
 それは渇きの街を癒すきらきらしい通り雨。それは夜会で幾千もの蝋燭に照らされた燦然たる宝石。砂の海の夜空を埋める煌々たる星々。もしくは陽光を乱反射しうねる黄金の大地そのもの。
 世界のあらゆる光を虹色に縒り紡いだものの、破片。
 粉々に砕けてしまった、『 』の。
 断末魔のようなひときわ高い悲鳴をソキが上げる。彼女は身をのけぞらせて胸元を押さえている。彼女の振り乱れた髪が蝋燭の灯りを受けて悲しいまでにうつくしくほの輝く。
 男がロゼアに手を伸ばす。
 砕いていたものの破片をまとわりつかせた、手を。
「ロゼアクン、キミに、オクリモノをあげよう」
 彼は言った。歌うように。
「そうすればキミはステキな玩具だ。……ボクのお人形さんに贈呈するとしようネ」
 身じろぎしたロゼアの耳元で、鎖が鳴る。逃げるな、と、輿持ちの男たちが、鎖の長さを詰めたのだ。
 男の指先が、ロゼアの喉に触れる。
 そこから熱が。
 ロゼアの鼻先まで顔を近づけ、男は目をいっそう細めて、嗤った。
「そう。……お人形さんへの、ボクからの」
 愛のシルシに。
 男の肩越しにソキが見える。瞳孔を開いて、身体を丸めて、彼女は痙攣している。
 ロゼアは絶叫した。
 魔力が、膨れ上がった。



「ああああああああぁあああああああああああああああああああっつ!!!!!」
 悲鳴をあげてロゼアは後退り、階段の足をひっかけて、背中からまともに倒れ込んだ。
「ロゼア!?」
 ツフィアが目を剥いて振り返り、ロゼアに駆け寄ってくる。その顔に、“覚えていないはずの”男の顔が重なり、ロゼアは絶叫しながら階段を這い上ろうとした。けれど、脚に力が入らない。
「ロゼア、落ち着きなさい……ロゼア!」
 ツフィアが肩を揺さぶる。ロゼアは首を横に振って、肺腑に溜まった空気を吐き出し続けた。痙攣する指先を見つめながら、覚えがある、とロゼアは思った。
 このロゼアという殻を破って外へ何かがどろりと這い出ていく感覚には。
 魔力の暴走の予兆。
 もうこれで――三度目・ ・ ・だ。
『……キミが! この、XX、の!』
 耳元で弾ける男の声には焦燥があった。そう、彼はあのとき、焦っていたのだ。
『アァ……壊すのではナカッタ……』
 男は舌打ちしながらロゼアの首を鷲掴んだ。爬虫類の腹のような質感をした指がロゼアの喉に食い込む。階段に敷かれていた絨毯がロゼアの視界に入る端から炭化し、噴いた炎が地上へと駆けあがって行く――……。
「やだやだああああぁああくるなくるなくるなあうわああやうあああああやめろやめてくれやめてくれ!!!」
 だめだそれいじょうはだめだおもいだしたらおもいだすなおもいだしてはいけないよおもいだしてはならないよだってろぜあくんきみはもう。
 目よ、と、女がロゼアの耳元でささやいた。
『おまえは閉ざされた瞼。その目には暗闇しか映さない。魔よ。お前は雪解けを待つ新芽。寄生木の中で萌芽を待つ身。目覚めの時はまだならず。……ゆるやかに丸まれ。母の胎内に眠る赤子のように』
 殻を食い破り、突きぬけようとしていた、ロゼアの胎内に巣食う魔力が、牙をおさめて瞼を閉じる。
 暴走を始めていた魔力が落ち着いたことに安堵する一方で、ロゼアは俄かに不安になった。
 目を開いているはずなのに。
 何も見えない。
「ロゼア、目を閉じなさい」
 ツフィアが囁く。
「……いま、あなたから視界を奪った。……目を閉じなさい」
 目を開いているはずなのに何も見えないという日頃と異なる感覚はあなたを狂わせる。
 ツフィアが穏やかに忠告する。ロゼアは彼女に従って瞼を降ろした。
 ロゼアの閉じた瞼にやわらかい手が触れる。ツフィアの手だ。彼女はロゼアの目を労わるように撫で擦った。柑橘めいた、さわやかでいい香りがして、それが鼻の奥に残るきな臭さを拭い去る。
 そして唐突に。
 睡魔が襲ってきた。

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