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 汝、覆い隠されし眼(まなこ)を開けよ

 十五枚。
 それが星降の王城に入るためにツフィアが埋めなければならない書類の数だった。入城理由書。許可申請書。現在の体調の調査票。入城に際して自由を奪われることの承諾書。言葉を奪われることの承認書――すべては、たった一回、ほんの数時間、足を踏み入れるためだけに求められる書類だ。
 それに加えて、今回はさらに複数枚要した。署名のみで終わる書類を含めれば、総数は二十三枚にも及ぶ。王城預かりとなっている予知魔術師のリトリアが城外に出るときの枚数よりもおそらく多い。
 その書類の数は、日頃は意識する必要のない、ツフィアに嵌められた“枷”の数を表していた。
 そもそも城に「来てもよい」と許可が下りるまでが長かった。最初に打診したのは去年の冬だから、半年近くが経っている。星降、花舞、楽音、砂漠、白雪。五つの国の王たちが、ツフィアの請願にうんと頷くまでに、半年だ。それだけ待たされても、入城の日取りは一方的に決められる。この日、この時間、この場所に来ること。万が一体調不良で足を運べぬようなことでもあれば、また初めから申請のやり直しだ。
 うんざりというよりも悲しみがこみ上げる。それを顔に出すことはないけれど。
 夜明けに城門近い小屋の扉を叩き、衛兵に見守られながら、書類の項目をすべて埋め終えるまでに半日かかった。そのあと給仕されたハムとポテトサラダを挟んだパンとコーヒーで朝食だか昼食だかわからない食事をとり、約束の時間に合わせて城門を抜けた。見張り兼案内人は衛兵だった。魔術師の対応は魔術師と相場が決まっているのに、ツフィアに限っては違うのだ。その理由をツフィアは考えまいとした。
 庭を迂回するようにして通された城の一室には、ふたりの王宮魔術師がツフィアを待っていた。ひとりはあまり面識のない少女だ。リコリス、と彼女は名乗った。
「……封印具の装着は了承いただいているな? これはツフィア殿から目と声を奪うものだ。用事を済ませてこちらに戻られたとき、我がまたツフィア殿の首から外す」
 リコリスが手にしていたものは首飾りだった。磨き抜いた金の輪を連ねたそれは単なる美しい装飾品に見えた。ツフィアがいつも好んでしているような――……。
 ツフィアは壁際に佇むもうひとりの王宮魔術師に視線を移した。ストル。端整な顔立ちの男。髪は雨上がりの晴れた空を思わせる色。凪いだ双眸は漆黒。雰囲気はゆたう水のようにとらえどころがない。彼のことはよく知っている。彼もツフィアのことをよく知っているだろう。
 まさかね、とツフィアは嗤った。
 ツフィアは椅子に腰かけ、自ら長い髪を持ち上げた。リコリスが首飾りをツフィアに装着させやすいように。金の輪がしゃらしゃらと鳴ってツフィアの首元を取り巻いた刹那、まず五感のひとつが消え去る。
 視力。
 その程度、と嗤う者もいるかもしれない。しかし視力が奪われるというものは、どうしてなかなか、堪えるものがある。それがツフィア自身の得意とする術だからこそ。
 しゃらり、金の輪が重ねられる。
 ツフィアは目を閉じて手さぐりで自分の喉に触れた。喉はツフィアの意思に従って震えた。けれど、声を紡ぐことはなかった。
「ツフィア殿」
 リコリスの声がする。手を、と要求されるまま、ツフィアは右手を前へ差し出した。その手首を男の手が掴む。ツフィアは閉じていた目を思わず見開いた。だが眼前に広がるものは暗闇ばかり。
 ストルの姿は、当たり前だが、見えない。
 ツフィアは諦めて瞼を落とした。何も見えないのに無理に目を開けている必要はない。無理に目を開けていると精神を病む。
 手首を掴む男の先導に従って暗闇の中を歩いた。
 王城内はざわめきに満ちている。ツフィアの歩く道だ。ひと払いはされているだろうに、遠く、人々の営みの音が反響していた。学生時代を思い出すのは、案内人がストルだからか。かつて、ツフィアはよく図書室でひとり本を読んでいた。あの頃のことを、あの頃、ツフィアを当たり前のように取り巻いていたざわめきを、思い出す。




 ツフィアは刺繍や色目うつくしい絹綾物を扱う商家の娘として生まれた。奉公人を雇うほどだ。裕福な子どもだった。幼いツフィアは折に触れて両親と観劇に行き、度々招かれた詩人が異国の逸話を語って聞かせた。実家の書架には高価なはずの書籍が何冊も取りそろえられ、日曜ごとに通う教会にも子ども向けに書かれた神話が。入った学校は図書館と呼べるものを持っていた。ツフィアは文字と言葉と物語とやさしい両親と奉公人に囲まれて過ごした。確かにそんな時代もあった。
 ツフィアは魔術師として目覚めたときを覚えていない。ツフィアは春の日に両親と、奉公人の娘を、魔術で、“壊した”。淡い紫の髪を持ったその娘はツフィアをよくかわいがってくれていた。やさしかった。姉のようだった。けれど彼女はツフィアの父親と通じてしまったので。母を病ませてしまったので。三人がいがみ合って、ツフィアの家は壊れてしまったので。
 何がきっかけなのかは覚えていない。けれどツフィアは奉公人の娘を人形のように“使って”、壊した。両親も、“使った”に違いない。すべてが終わったときツフィアの前に倒れていた三人は、赤子のように無垢な笑みを浮かべて横たわるだけの存在と化していた。自力で動くことも話すこともままならなくなっていた。彼女たちは病院に入れられた。手厚く看護されて、順繰りに死んだ。幸せな夢に微睡むように、誰もが安らかな顔をしていた。
 ツフィアが三人を壊してしまったその日に、案内妖精は現れた。彼女は放心するツフィアの代わりに嘆き悲しみ、自分がツフィアの覚醒に間に合わなかったことを悔やんだ。ツフィアは動けなかった。とても旅できる状態ではなかった、の、だと、思う。とぎれとぎれの記憶は、夏至の日の朝に学園の医務室で始まっていた。
 その日に適性検査で認定を受けた。
 言葉魔術師。属性は月。珍しい系統の術者だとは言われた。ツフィアもその特殊性をすぐに理解することができた。
 武器庫で。誰もが皆ひとつは武器を、なにかしらを手にして帰ってくるのに、武器庫から戻ったツフィアの手は空だった。言葉魔術師への武器は武器庫に収められていなかった。
 その代わり、ツフィアには知識と枷を与えられた。
 武器を手に入れるための知識と、それを他人に披露はできぬという枷だ。




「ツフィア殿。こちらに椅子がある」
 ストルの手は離れツフィアの指先はやわらかな少女の手に包まれていた。リコリスがツフィアの手を椅子に触れさせる。形や角度、座面の高さ、などを手さぐりで確認させたあと、座ってほしい、と告げられた。ツフィアは従った。
 辿り着いた場所は風の流れから狭い部屋だとわかる。気配がもうひとり分増えていた。火の臭いがした。
「ツフィア殿。封印具を外す。髪を」
 リコリスの要求に応えて、ツフィアは髪を首元からまとめあげた。あらわになったはずのうなじに少女の指先が触れ、しゃらり、と金属同士の触れ合う音が響く。リコリスは重ね合わせた鎖の輪をふたつみっつ選んでツフィアの首から外した。そして首元が軽くなったと思うや、ツフィアは視力を取り戻していた。
「もう見える? ツフィア」
 ツフィアは答える代わりに目線を上げて問いかけの主を見た。三人目の魔術師は、レディと呼ばれる火の魔法使いだった。
 彼女は火の揺らめく角灯と角を揃えた書類、水差しとグラスが置かれただけの書き物机に片手を付いて立っていた。ツフィアの目の動きから、視力を取り戻したと判断したのだろう。レディはため息を吐いて、ツフィアの背後にいた二人の魔術師を部屋から追い出した。
 ツフィアは改めて室内を見回した。そこは天井も壁も床も黒一色で塗りつぶされていた。窓はない。扉はツフィアの背後のひとつきり。ツフィアの腰掛ける椅子と眼前にある古びた書き物机、角灯、書類、水差しとグラス。それらだけが、存在する全てだ。
「一度しか言わないわ。ここにある書類は全部で三十枚きっかり。それが今代もうひとりの言葉魔術師、砂漠の国の奥深くに幽閉されている男、シークが三年と少し前に起こした事件の関連書類の写しよ。五ケ国分だけじゃなく、学園のものも含めて、すべてそろっている。抜けはないわ。私が外へ出た後にあなたは読んで、読み終わったら、この角灯の火で燃やして。……三十枚燃えたときにしか扉は開かない」
 火はレディが魔術で生み出したもので部屋の鍵と連動しており、紙束三十枚が燃えない限り、外にいるレディですら開けられないのだという。
「あなたが何かの書類を持っていて、それを代わりに燃やしたとしても指定の三十枚に入らない。終わったら、リコリスが貴方に視力の封印具を付け、ストルがあなたを先導して外へ出す。……いいわね?」
 了承に頷いたツフィアにレディが一枚の紙を差し出す。見て、と指示されるまま、ツフィアは書面に目を落とした。レディが今しがた説明したことと寸分変わりない内容がすっきりとわかりやすく記されていた。最後に、レディの署名がある。
「読み終えたら返して」
 ツフィアは書類を返した。
 レディが片手で捧げ持った書類を軽く指ではじき、この上なく機嫌が悪いとわかる低い声音で、告げる。
『正しさのみであれ、偽りは燃え落ちよ。正しくあれば祝福を、偽りあれば赤き炎で塵と化せ。火よ、青き火よ。偽りなければ、踊りたまえ』
 彼女の魔力を帯びた厳かな声が闇色の部屋に這った瞬間、書類は青い焔をまとって踊りながら塵と化した。
 その青白い光の残滓をちらつかせたまま、レディはツフィアの横を通り過ぎる。レディが煩わしげに髪を耳に掛け、その拍子に、耳元で揺れる装飾品がツフィアの目に入った。砂漠の国で久々にあったフィオーレの指にはまっていた装飾品と、凝らされた意匠も、滲む魔力の質も、似ていた。
 レディが後ろ手に扉を閉じる。壁に継ぎ目は見当たらない。鍵以前の問題だ。すでにどこが出口なのかわからなくなった。もしツフィアの座る椅子と、目の前の机がなければ、方向感覚すら失われていただろう。
 ツフィアはまるく橙色の光をなげかける角灯と火の揺れに合わせて影が踊る書類の表紙を見た。指で触れる。質感は一般に出回っているものと異なっていた。羊皮紙ではないし、樹木由来のものではない。葦の繊維を漉いた紙。にしては、つるりとしていた。かすかに漂う魔力から、誰かが、このために素材から作りだしたものだとわかる。
(材料調達は、キムルあたりかしらね……)
 チェチェリアの夫はこういった“材料”を作りだすことが得意だ。五か国とそれぞれの国境および学園を結ぶ、一本の巨大な樹木を削りださなければならぬという、あの特殊な扉。その複製作製の時に材料たる樹木を、見事、育ててみせた錬金術師が彼である。
 彼は何も知らされぬままツフィアの仕事に携わっていた。そうであってほしい。
 そして彼や、彼を含む者たちが、こういった支度に時間をかけたからこそ、ツフィアが最初に申請してより半年間、ここに来ることができなかった。枷だけが理由ではなかったのだと思えれば、慰められる。
 ツフィアは息を吸い、吐いた。
 一枚目に、手をかける。




 近年は稀有な時代なのだと言われた。言葉魔術師がふたりもいる。大戦以後、片手で数えられるほどにしか存在しない術者がふたりもだ。
 ひとりはツフィア。もうひとりは既に学園に籍を置いていた青年、シークだった。
 あかがね色の髪と勿忘草色の瞳をもつ物静かな印象の青年だった。人当たりも悪くはなかった。手伝いを請われればそつなくこなして、真面目であり、優秀であった。彼の浮かべる儚げな微笑は幾人かの女生徒の心をさらってもいた。けれどツフィアは自分からは近寄る気にはなれなかった。この世にたったふたりだけの同系統の魔術師だったとしても。
『ツフィアは、武器を探さないノ?』
 あるときシークがツフィアに尋ねた。彼は図書館の整理をしていた。片腕に抱えた数冊を規則正しく書架に収めていた。
 言葉魔術師はその名の通り言葉を扱う。言葉の収まる書籍に強く焦がれ惹かれる。接触を図りたいと思わずとも、図書室で会うことはよくあった。
 シークは独特の話し方をする。彼の過去はひどいものだったという噂だ。いわく、両親の手で一室に幽閉されて長く言葉を知らなかった。いわく、赤子の頃に誘拐され、禁止されて久しいはずの奴隷となっていた、等々。
 下世話がすぎるものばかり。意中の女生徒を盗られた少年たちがやっかみ半分に流したものもあるだろう。彼らが上級生や監督生から叱責を受ければいっときは消えるのだが、噂はいつしか蘇って密やかに流れ、シークという青年に不思議な魅力を与えた。薄幸は少年少女をうつくしくする。
『探さないわ』
『そうだネ……その必要はない、か……。武器はボクたちの前にいつか現れる……』
『現れてほしいの?』
『ん? ンンー……ツフィアは、武器が欲しい?』
『いいえ』
 言葉魔術師の武器は、独特のものだ。それは武器庫には存在しない。だから使い方の知識だけを得て、ツフィアたちは武器庫を去る。
 ツフィアは武器を使ったことはない。けれどどういう風に使うかを、“経験している”。あのおぞましさを、二度と味あわずに済むならそのほうがいい。
『ボクは……世界に従うつもりなんだヨ』
 かこん、と最後の一冊を書架に収めて、シークは嗤う。
『誰にも望まれなかったボクを、世界が望んだから、ボクは魔術師としてキミと話している。……ボクは世界に感謝している。だからボクは世界の意思に従う』
『……どうやって知るわけ? その世界の意思とやらを』
 書架に背を預けて本を読んでいたツフィアを見下ろしてシークは言った。
『ボクの武器が、ボクの前に現れるかどうかで』
 ――彼を、繭に籠る蚕のようだと思ったことを覚えている。雅な絹糸に巻かれた、希少な蚕。しかしその中を羽化の前に裂いてみれば、想像を絶するものが変態のためにどろどろ渦巻いている。
 ツフィアは父が絹物を扱う関係で養蚕場を見学したことがある。けれど幼い童女だったツフィアは、得体の知れない蛾に変態する蚕そのものをついぞ好きになれぬままだった。
 儚げな微笑を浮かべる物腰やわらかな真面目な青年という殻のなかで、シークは相反する感情をこねまわしていた。
 未来と過去を。尊敬と侮蔑を。愛情と憎悪を。希望と絶望を。
 もともと彼はその殻の内側に毒を多く湛えていた。そうツフィアの目には映っていた。
 シークの天秤がどちらに大きく傾いたかは、後の彼の行動から知れる。




 一枚目にはシークの性別、属性、系統、学園の在学年数、在学中に彼がとった科目すべての教科、担当教官から見た素行、性格。
 ツフィアは一枚目を隣に伏せておいた。二枚目に移る。
 卒業に至ってからの経歴――砂漠の王宮魔術師に任命されて以後の詳細が記されていた。
 シークの王宮魔術師着任は白の魔法使いフィオーレと同日。彼とは公私共に仲が良かったと書かれている。シークの王宮魔術師としての仕事ぶりは堅実なものだった。上司からの評価も悪くない。勤怠表はきれいだった。その働きぶりを認められて、彼にはひとつの話が持ちかけられる。
 砂漠の国の〈花園〉。「屋敷」と呼び習わされる場所で働く娘との、縁組である。
 屋敷、と呟いて、ツフィアは視線を滑らせ注釈を見た。砂漠の国に莫大な利益をもたらす“花嫁”と“花婿”。砂漠独特の、多額の財貨と引き換えに売られることを公的に認められた存在。元花婿である魔術師、ウィッシュをシフィアも知っている。怖気立つほどにうつくしく儚く相手を魅了してやまない青年。彼のような存在を生み、育てることを一任された独立機関が「屋敷」であると、注釈には記されていた。
 屋敷の勤務者はとある年齢までに結婚することを義務としており、相手を自分で見つけるか、屋敷に紹介を受けるかは、当人次第だという。誰かいないかと屋敷からの打診を受けた王宮の専門官が、働きぶりに好感を持っていたシークを推薦したのだった。
 魔術師たちは勝手な婚姻を許されない。王の許可がいる。
 新たなページはその件を討議する王たちの議事録だった。言葉魔術師の青年も家庭を持てば、精神的な危うさや時折覗く孤独感も薄らぐかもしれない。彼らはそう結論付けたらしい。シークは五王の検討の末に見合いを承認されて屋敷に赴いた。
 シークはそこで最初に目撃したのだと、推測されている。
 事件の被害者を。
 ツフィアに言わせれば、彼自身の、武器を。

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