ツフィアは彼女自身の武器と出逢った日をいまも克明に思い出すことができる。
夏至の日の翌日だった。学生の多くは授業ないし、寮にいた。新入生をひと目見たいと、大抵の学生はこの時期を寮で長く過ごす。昨晩も新入生を歓迎して長く寮の談話室にいたようだ。役目を与えられない限り義務ではないので、ツフィアは昨晩もさっさと部屋に戻っていて、今日もいつもと変わらず図書館で読書に励んでいた。
そのツフィアの耳に、透明な響きの唄が届いた。図書館は生徒たちのささやき声と紙を捲る音に満ちてはいたが、歌う者は当然どこにも見当たらなかった。困惑しながらツフィアは唄に呼ばれるようにして学園を歩いた。人々の笑いも雑踏もどこか遠く、唄以外に何も耳に入らなかった。
学園裏手の林の中で、幼い娘が泣いていた。あかく瞼を腫らしながら、薄紅色の唇に唄をのせていた。年は五つか、六つか。藤色の髪と瞳をした童女だった。
見慣れない童女だが、誰だかはすぐにわかった。
名をリトリア。昨晩入寮したばかりの、新入生。
彼女の前に立ち、泣き崩れそうになりながらツフィアは悟った。
リトリアこそ、現れてほしくなかった、ツフィアの武器。
予知魔術師だった。
調書から面を上げ、ツフィアはグラスに水を注いだ。喉がひどく乾いていた。
言葉魔術師の武器は生ける魔術師である。予知魔術師。それは言葉魔術師と同時代に対として生まれてくる。言葉魔術師はひとめで悟る。彼女が、彼が、いま自分が目にしている存在が、己の武器であると。
シークが三年前に起こした事件の被害者は、ソキという名前の、砂漠の花嫁。
今は魔術師のたまごとして学園に在席する、予知魔術師の、少女だ。
シークは見合いの為に招かれた屋敷内で何らかの拍子にソキを目にし、悟ったのだ。彼女こそ予知魔術師。世界がシークの為に設えた唯一無二の武器。
シークはその武器を手に入れようと事件を起こした。
王宮魔術師による花嫁誘拐という、大事件である。
生きた魔術師が武器であるからこそ、言葉魔術師は武器庫から空手で戻る。けれど何にも会わなかったのかと問われれば答えは否だ。ツフィアは武器庫でひとりの男に出逢った。まだ若かった。黒髪に黒目、象牙色の肌という組み合わせで、どちらかといえば童顔な造作だった。彼は来たね、と笑って、ツフィアに椅子を勧めた。天井まで書物に埋め尽くされた部屋は青年の居室らしく、書き物机と寝台があった。長椅子には感触のよいクッションが置かれていた。一見すれば学生の部屋にも見える。しかし書架に並ぶ題名に目を通すと、戦術、拷問、暗号、地政学といった、戦争関連のものばかりが並んでいた。
棚にはいくつか、赤黒い染みに汚れた小物が。
『あぁ、ごめん。これは遺品なんだよ』
戦死した友人の、と言った彼は大きな布でそれらを覆い隠してしまった。
『僕は言葉魔術師。君に最初の知識を授ける者。最初の枷を与える者』
彼はツフィアに語り始めた。言葉魔術師の術の本質を。
言葉魔術師の術はたった二種類だ。ひとつは、現実に影響を出すほどの強力な精神暗示である。
例えば、歩く猫に、お前は右へ曲がる、と告げる。猫は右折する。
目よ、お前は光を失う、と告げても、実際に視力が失われるわけではない。当人が、光を見ていないと、“錯覚”しているのだ。右腕よ、折れろ、と告げても実現しない。おまえは折れた右腕、とツフィアが宣告して初めて、腕の主は骨折したと認識、錯乱する。
昨年末に、ロゼアという魔術師のたまごの目を弄ったことがある。目よ、おまえは妖精の目。ロゼアの目は自分が妖精の目だと錯覚し、ロゼアの意思に関係なく自動的に魔力に焦点を合わせた。魔力を視る素養のない者にこの術は適用されない。元より視ることができないからだ。
現実に影響を出す高度な精神暗示。それが言葉魔術師の第一の術である。
これは言葉魔術師の本質に根差した術である、と、武器庫の青年はツフィアに告げた。
物語とは万物ひとつひとつが抱える過去であり、現在であり、未来である。たとえばツフィア自身は“ツフィア”と題された物語を生きている。生まれ落ちたときからツフィアの物語は始まる。世界という紙面に、ツフィアの人生は死のその時まで刻まれ続ける。言葉魔術師はその物語の白い紙面に、魔力を用いてそっと、書き加えることができるのだ。
その者の未来を。
そのあり方は、予知魔術師に、似ている。
言葉魔術師と予知魔術師はもとはひとつだったのかもしれないとツフィアは推測している。言葉魔術師は影響を精神に留めて威力を殺した代わりに、豊かな魔力を保持する。予知魔術師は口にした未来を実現する力を保ったものの、魔力をおおきく削がれていた。どちらも半端ものだ。けれどひとつになれば。
世界も壊せる。
武器庫の青年は、言葉魔術師が手放した力である予知魔術師を手にする方法を告げた。
『言葉魔術師は精神暗示の他にもうひとつ術がある』
彼はそれを〈物語の所有〉と呼んだ。
言葉魔術師は他の人間の物語に記(しるし)を付けることができる。所有のしるしだ。言葉魔術師にしか視認できない。魔力が魔術師にしか見えぬように。
所有した身体を言葉魔術師は自由に動かすことができる。なぜならそれは自分の物語の一部だから。
所有されたものは、言葉魔術師に身体を、人格を、奪われていくのだ。
記を付けられた者たちは言葉魔術師に使われば使われるほど術者に近づいていく。たとえば青のインクで綴られた物語の途中から、赤のインクで別の物語が刻まれていくように。後者の比率が増えれば増えるほど、本来の物語は落書き程度に貶められる。言葉魔術師は突然の死が訪れたとき、一定量の書き換えが終わっている相手の身体に移り、新しい人生を歩むことができる。
たとえばツフィアがチェチェリアに記を付ければ、ツフィアはチェチェリアの身体を動かせるようになる。最初は彼女の精神が抵抗する。そのためチェチェリアが眠っているときや、疲れているときのみといった、一時的なものに留まる。しかし回数を重ねれば抵抗は徐々に弱まり、ツフィアがチェチェリアを動かせる時間も多くなる。ツフィアが死を迎えたときにチェチェリアが一定以上使われていれば、ツフィアはチェチェリアの身体を新しい自分の身体として意識を移して生きることができる。
おぞましい力だと、知っていた。
ツフィアはこの〈物語の所有〉を無意識に行い、自分の家族を壊してしまったのだ。
三人に仲直りしてほしかったから、三人を当人たちの意思をねじ伏せて動かした、その結果として。
シークは綿密に計画を練り、情報を集め、夏の星祭りの昼に屋敷から外出した花嫁、ソキを、奪った。
花嫁は外出する際に輿とよばれる人力の乗り物を使う。その運び手の男たちに精神暗示を掛け、シークの待つ場所までソキを運ばせたのだろうと、書類は見識を述べていた。
だが実際は少し異なるはずだ。精神暗示ではない。暗示はそれほど長く持たない。シークは、記を使ったのだ。婚約者の娘を通じて屋敷の情報を集め、計画に必要と思われる人物の物語を奪い、ソキが「屋敷」という防御から外れるときを、彼は待っていたに違いない。
かくして、シークは、己の武器を手に入れた。予知魔術師を手に入れたはずだった。
結果だけを述べれば、シークが花嫁の誘拐に失敗した。隠れ家が爆発炎上し、あたりをつけていた王宮魔術師たちが急行して、シークを捕縛。死者は二十数名にも上った。家屋にいた娼婦らしき女たちと、花嫁誘拐の実行犯となった「屋敷」の使用人たち四名。肝心の花嫁は奇跡的に生き残り、のちに奥の部屋で――地下室ではない――ひとりの少年と倒れているところを発見、保護された。
白の魔法使いフィオーレが提出した報告書の写しがあった。
『少年、少女、ふたり衰弱が激しく、拘束の跡がある。ただし外傷は拘束具による擦り傷程度で、火傷はいっさい見られず。少年は一度目覚めて少女の容体を確認。彼女の身体を回復させる生薬と注意を呟いて、再び昏睡』
その少年こそ、ロゼアだ。
ソキの特殊な世話役、〈傍付き〉であったという少年は、ソキが誘拐されたとき現場にいながらひとり難を逃れていた。「屋敷」に仔細を報告したあと街へひとり飛び出したらしい。そのまま事件に巻き込まれた。
(このときね)
ツフィアは下唇を舌でそっと湿らせた。
(シークがロゼアに、記を付けたのは……)
ロゼアの身体にはシークの記がついていた。
シークがどんな人間の身体を奪おうとも他者に記を付けられるのは本体だけだ。彼が幽閉されたいま、新たに記を打つことはできない。
ロゼアとソキが入学したとき、ツフィアは学園に呼ばれた。ロゼアに嫌な魔力を感じる、と、チェチェリアが言いだしたためだった。本来ならばわかるはずのない記を、嗅ぎ取った彼女には敬服する。だがツフィアもまさかロゼアにシークの記があるとは思っていなかった。砂漠の事件の被害者は少女であると聞いていた。彼女の世話役が巻き込まれて生きているとは知らなかった。
ロゼアの記は巧妙に隠されていた。だから初対面のときもツフィアは気付かなかった。それはあたかも、シークのインクで記した上に、ロゼアのインクで上書きしたようなかたちとなっていた。
ロゼアの侵蝕は、少しずつ進んでいる。シークはどうやらたびたび、ロゼアの身体をつかっているらしい。
ロゼア自身の魔力は魔法使いには及ばずともずば抜けているといっていいし、彼はずいぶんと隙のない身のこなしをしていた。体力もあるだろうから、シークといえど早々は彼の身体を奪えないはずだ。
けれどこのまま、幾度も、幾度も、たとえ一秒単位でも、隙を狙って、彼の身体を奪って行けば。
書類を捲る指に力が籠り、紙が渇いた音を立てた。ツフィアは息を吐いた。紙面は事件後の処置に移っていた。
(このあたりからは、知っている)
ツフィアは目を伏せた。
出逢ったばかりの当初、ツフィアはリトリアから距離を採ろうとした。彼女を“使ってしまう”可能性を少しでも低めたかった。けれど人見知りが激しいはずのリトリアは何を思ったのかその日からツフィアに懐き、ツフィアの姿を捜し歩き、ツフィアが現れなければ泣き、ツフィアが顔を出せば花のように笑って名を呼んだ。リトリアはただただ愛らしかった。リトリアを通じて、ツフィアはチェチェリアやパルウェ、ストルと、友人知人を増やした。やがて学園生活は賑やかであたたかなものとなっていく。
一身にツフィアを慕う童女を、どうして愛さずにいられるだろう。
(あなたをまもらせて、リトリア)
ツフィアの指先をおさなくやわらかい手できゅうと握りながら眠るリトリアに何度も誓った。
(おねがいよ。こんどこそまもらせて)
おさないわたしはかぞくをまもることができなかった。じぶんでこわしてしまった。
だからこんどはまもらせて。
あなたを武器として使ったりしない。守らせて。
そのためにツフィアは魔術を研鑽した。精神暗示の術はシークを遥かに凌ぐだろう。
ツフィアとリトリアの関係をシークがどのように見ていたのかはわからない。
彼は真意を語らない。
昔も、記した人間を通じて姿を見せる、今も。
ツフィアの日々は穏やかだった。しかしそれも卒業すると決まった年の、冬までの話だ。
書類にはツフィアの名前があった。もうひとりの言葉魔術師。同様の事件を起こせる可能性を秘めた存在。
ツフィアも幽閉すべきか否か。五王は激しく意見を戦わせたらしい。そうすべきと声高に主張したのは、シークの主君でもあった砂漠の王だった。彼はもともと言葉魔術師に嫌悪を見せる王で、ツフィアも入学してからこれまで彼に親しく声を掛けられた覚えがない。それなのに言葉魔術師を家臣として配され、結果がその術者による自国の花嫁誘拐事件だ。神経質にツフィアを捕縛すべしと訴える砂漠の王の心を理解できないでもなかった。白雪の女王も砂漠の王に同情的で、ツフィアがかわいそうだけれど、と添えながらも、砂漠の王に賛同したらしい。
それに対抗した王は星降の国王である。彼はどの魔術師にも平等に愛情を注ぐ。誰が議題に上っても庇うだろうが、とりわけツフィアは星降の王宮魔術師となることが決まっていたから、なおさら砂漠の王に抵抗していた。それに味方したのは意外にも楽音の王。彼は自国にツフィアの知人を多く抱えていた。チェチェリアがその筆頭だ。自分の王宮魔術師たちを思えば砂漠の王に賛同しかねる。様子見をしてはどうか、と提案したのもこの王だったらしい。
ツフィアの処遇を決定づけた王は、花舞の女王。彼女はツフィアが予知魔術師リトリアの〈守り手〉候補であると告げ、幽閉という処置は適切ではないと砂漠の王をたしなめた。だがこのまま王宮魔術師に任命するというわけにもいかなかろう。
よって、ツフィアには枷が嵌められた。
魔術師たちが多く集う城に自由に立ち入ることは禁止する。なないろ小路、学園もしかり。最高の重要度を誇る各国王城に足を踏み入れる場合は声と視力を奪う。学園は魔力を制限した上でなら立ち入り可能。なないろ小路はひとに魔力を向けたときにペナルティの起こる制御具を付ける。
住まいは王たちの指定した場所に。その所在を魔術師たちに告げてはならない。住まいを三十日以上空けてはならない。
これは、五王の総意である。
その枷の内容をツフィアに説明したのは星降の王だった。ツフィアと出逢ったことのない魔術師たちに身を守らせていた。場所は教会。夏至の日にツフィアに祝福を授けたときと同じ位置に王は立っていた。
くしくも冬至の日である。魔術師の始まりを告げる日と対をなす日。ひとびとが聖夜の飾り付けに勤しむ中、ツフィアはリトリアたちから引き離されるようにして教会に連れられ、王にことの次第を告げられたのだ。
『わたしが、なにをしたというのですか……』
ツフィアは王の足元に縋って呻いた。ツフィアからはすでに魔力が奪われていた。教会に入る前に、制御具をはめられていた。
『陛下、私が一体、何をしたっていうのですか……!』
『ごめんね……ツフィア……ごめんね』
王は腰を屈めてツフィアの髪を梳き、何度も謝罪した。でもどうにもならないんだ。ごめん。ごめんね。もう決まってしまったんだ。ごめんね。
でもきっと大丈夫。
君はすぐに自由になれる。
それまで我慢して、ツフィア。
書類を握りしめながら、ツフィアは自嘲に嗤う。
星降の王の予言通りにはならなかった。
ツフィアは自由になる条件を満たせなかった。
ツフィアはリトリアの〈守り手〉に、選ばれなかったから。
『リトリアは〈守り手〉、〈殺し手〉、どちらも選ばなかった』
並び立つツフィアとストルにそれを告げた王は誰だっただろう。
『おまえたちは選ばれなかった』
『正直に言えば想定外でした』
『こころあたりはないの? ふたりとも』
ありません、とストルは答えた。彼は震える声で、彼女にもないでしょう、とツフィアの胸中を代弁した。
『ストルは退室しなさい……ツフィアにはもう少し話がある』
ストルはそっと椅子から立ち上がって、躊躇を滲ませる足音を響かせて退室した。扉の閉じられる音が背後から響き、あぁ、と王のひとりが呻いた。
『こんなことになるなんて……』
『だから最初から』
『でもおかしいとは思うの』
『いまはそれを議論している場合ではないよ』
『ツフィア――……君にもう一度だけ、尋ねる』
冬至の日に星降の王が尋ねたことを。
『言葉魔術師の魔術を理解しているものは術者当人しかいない。文献がないからね。あなたたち言葉魔術師が知識を得る場所は武器庫だろう、ということは推測できるけれど、そこでどんな知識を得たのか、わたしたちに教えてはくれないだろうか』
ツフィアは首を横に振った。
『あいつが花嫁誘拐の実行犯となった屋敷の人間たちと面会したのは事件の数か月も前だった』
砂漠の王が憎しみと悔しさを込めて呻いた。
『初めはそいつらに暗示の術を使って、あいつは花嫁を誘拐したのかと思った。だが俺の知る限り、あの術は一時的な効果しかないはずだ。違うのか? あいつは何をした。教えろ、ツフィア。頷け』
ツフィアは再び首を横に振った。
『ツフィア、話せば自由になれる。それでシアは了承したんだよ。それでも言えないの?』
ツフィアは頷いた。
王たちのため息が漏れ、閉会となる。
王たちはツフィアの立場を保留とした。
リトリアと、ツフィアをいまだに案じているツフィアの友人たちが、王たちに請願していたからだった。