一億年の孤独と共に時を止めた宝石色の瞳が、瞬きもせずソキの指輪を眺めている。飾り気のない銀の装飾具の内側には、葡萄酒色の輝石が埋め込まれていた。ほっそりとした、肌を少しばかり荒れさせた指先が、指輪の表面を触れないように撫でて行く。短く切りそろえられた爪は、やすりで丁寧に削られていた。不意に、目の前の女性の魔術師属性を突き付けられたような気持ちで、理解する。錬金術師。命なきものに魔力を宿すその指先は、神経質な程、その為だけに整えられていた。エノーラさん、とソキは囁くような声で女性を呼ぶ。白雪の国の王宮魔術師。ソキの指輪の検分の為にと学園へ現れた錬金術師は、呼びかけにそっと視線を持ち上げ、口元だけで微笑んでみせた。
集中しすぎると言葉が出てこなくなるけど、声も聞こえてるし話しかけてくれれば意味は分かるから、と事前に言われた通り、エノーラの唇は動くことをしなかった。ただ、なに、と言葉を促すように、やんわりと微笑んでいる。穏やかな表情は、ほんの五分前、部屋の扉を騒々しく開け放って駆け込み、開口一番に久しぶりソキちゃん相変わらずきゃわゆい名前の響きしてるね学園にちゃんと辿りつけたって聞いてびっくりしたよよく頑張ったねおめでとうところで今日のパンツ何色かお姉さんに教えてくれるかなっ、と言い放った存在だとはとても思えなかったし、思い難かったが、残念ながら同一人物であるのだった。人様に、なんて残念なんだろう、という失礼な感想を抱いたのは初めてのことである。
言葉を待つエノーラに、なんでもない、と首を振れば、琥珀色の瞳が瞼の奥でゆるりと和むのが見えた。時の止まった瞳だ、とソキは思う。一億年の孤独の果て。光を抱き、透き通る輝き。
「……ちょっとだけ、外して見ても、いい?」
吐息に乗せて、ソキははい、と頷いた。指輪が己の内側に存在する猛々しいまでの魔力の流れを、強く抑え込んでくれているのが分かるから、抵抗がない訳ではない。しかし、外しただけで、それが制御を失う訳ではないことも、ソキはなんとなく分かっていた。誰かにそれを教わった気がする。その人の名前も、顔も、声も、ひとつも思い出せないのだけれど。使わない時は、左手のひとさしゆびに。使いたい時は、右手のひとさしゆびに。つけ直して、それを魔力の制御と開放の切り替えだと、意識に覚え込ませるように、と。魔力の制御は、あくまで修練によって培われて行く技能のひとつだ。積み重ねて行く経験と、己の意思の強さが合わさってこそ、完全な制御が実現される。
今のソキにあるのは、後者のみ。無差別に発動しかねない予知を恐怖する心が意思となり、魔力を抑えつけ、それを指輪が助けている。エノーラは、すぐに返すから、とだけ呟き、ソキの左手に恭しく触れた。あ、と思う間もなく、指輪が引きぬかれる。エノーラが訝しげな顔をして指輪をてのひらで転がすのを横目にしながら、ソキは左手の小指に通された、もうひとつの輝きに目を向けた。アクアマリンの石が飾られた、銀の指輪。お守り、と誰かが笑ってこれをつけてくれた。誰だっただろう。どこで会ったのだろう。朝、目覚めればもう二つの指輪は指に通されていて、それがあんまり自然にあったものだから、そのまま、外すことは一度もなく。眠っていた筈なのに、誰かに会った印象だけ、残っていて。
まるでそれは、夢を見た後。幸せな気持ちだけが、胸に残ったかのようで。
「……五種類。太陽と、月と、風……氷と、水」
考え込む意識を浮上させたのは、ぽつりと零されるエノーラの声だった。悩み切った顔で眉を寄せながら、てのひらの上の指輪をじっと見つめている。属性はこの五つ。吐息に乗せて囁かれる、錬金術師の分析。
「編み込まれてるのは……占星術師の魔力、かな? 二種類。……ああ、でも、片方が占星術師で、もう片方は……黒魔術師。二色だから、二人分。この二人分の魔力を乗せて、五つの属性で制御を構成してるの……か……んん……? いや、違う、これ。属性は五種類だけど、人数が多い……? 五人で五つの属性に分担したんじゃなくて、人数集めたら属性五個だった的な感じなの……かな……? しかも、制作者本人は魔力にも属性補助にも関与してない。指輪への付与のみで留まってる……と、いうか」
希代の天才と囁かれる錬金術師が、己の記憶こそを疑うように首を傾げる。
「私、作った覚えないんだけどなぁ、これ……。でも制作者本人以外の魔力添付に、さらにそれとは別人の属性の、しかも複数付与とかできる錬金術師なんて私しかいないし……?」
「ソキにはよく分からないです」
そもそも、エノーラが呟いていることの半分も、ソキには理解できていない。学園でそれなりに勉強すれば分かる意味もあるのだろうが、今の状態ではさっぱりだ。それでも、なんとなく疑問に思ったので問いかける。
「誰が作ったかっていうのは、分からないですか?」
「……一応、錬金術師には、制作物に自分の銘を刻む義務があるんだけど」
「けど?」
きょとん、として問いかけるソキの手を取り、指輪を元あった位置に通してやりながら、エノーラはそーっと視線を床へ落っことした。
「わざと入れない場合もある、の」
「……義務って言ったですよ?」
「ご、ごくごくささやかな反抗っていうか、なんていうか。ほら、人間、駄目って言われるとやってみたくなっちゃうことってあるじゃない? もしくは、こう、バレないように悪いことしてみたい悪戯心っていうか? なんかこう? そんな感じの?」
しどろもどろに言い訳をするエノーラは、やはり先程、天啓のように言葉を囁き分析していた存在だとは思えないのだが、残念なことに同一人物だった。だから、えっと、と言葉を探すエノーラに、ソキはよく分からない様子で首を傾げる。
「この指輪は、エノーラさんが作ったですか?」
「わ……私には作った記憶がないし、こんなものを作る理由もないし、心当たりも、ちっともさっぱりないんだけど!」
頭を抱えて、エノーラは叫んだ。
「私以外に作れないと思うのよね! 絶対っ! ……でもでも私は作ってないこんな怖いもの作ってなんていないというかこんなもの作ったら責任とってちゃんと銘は刻みますっ! 誰よ! こんなもの作って名前書かなかったのは! 私だとしか! 思えない! けどっ!」
天を仰いで叫んだ後、床に突っ伏して動かなくなったエノーラを見つめながら、ソキはなんとも言えない気持ちで手を胸元へ引き寄せた。いけないもの、なのだろうか。左手を隠すように右手で包みこみながら、ソキはなぜ指輪に錬金術師の検分が必要になったのか、それについて語ったエノーラの言葉を思い返してみた。悪いものかも知れないとか、そういう理由で、そういう判断を下しに来たんじゃないんだけどね、とまず初めにエノーラは語ってくれた。その言葉の、ひとつひとつを、ゆっくりと思い返して行く。いえソキのパンツの色はお話しませんけれど、と拒否したソキにものすごく残念そうな顔をして息を吐き、エノーラはまあそれはまた今度ゆっくりね、と言って現れた訳を話してくれたのだ。
ソキの手に予知魔術師の能力制御装置がある、という報告を学園と、王宮に所属する魔術師たちに対して行ったのはリトリアだった。楽音の国の王宮魔術師にして、ソキと同じ予知魔術師。制御装置を持たず、己を守る者も、己を殺す者も傍に置かない、正真正銘無防備な予知魔術師だ。その報告は驚き、訝しみ、そして冷静なものだった。指輪は今は補助程度にしか働かず、魔力を抑えるにしても不十分な力しか持たないものだが、あれは持ち主の能力と共に成長していくものだ、と報告書に語られていたのだという。あの指輪はソキが己の力のみで予知魔術を、そして己の魔力を制御しきった時にこそ真価が現れるものであり、そして恐らく、私には使えないものだ、とリトリアは告げた。
なぜならあの指輪は、予知魔術師の能力制御装置ではなく。ソキの為だけに作られた、ソキ専用の制御装置だからだ、と。リトリアはそう告げ、さて、と恐ろしいものを感じた様子でこう書き記した。学園へ向かっている途中の入学予定者。それも、妖精の視認と入学許可証の届いた瞬間が同一だった、完全に目覚めたばかりの魔術師に対して、どうして。完全個人対応の魔術具なんてものが存在しているのか、と。悪意ではない。呪いではない。指輪はやさしいものばかりで作られていた。ひたすら、祈りだけで構成されていた。それは祝福であり、愛であり、ひたすらに好意だった。まっすぐな意思だった。悪いものではない。取りあげる必要はない。そんなことは決してしてはいけない。
けれども、どうして。存在しない筈のもの。どう考えても存在している筈がないものが、なぜ、そこにあるのか。それを調べてしまう為に、エノーラは仕事としてやってきたのだ、とソキに告げた。その結果としてなにやら打ちひしがれているエノーラに、ソキはかける言葉を持たないでいる。どう対応すればいいのかも分からないでいると、エノーラはふらふらと頭を上げ、よろけながらも立ち上がった。よし、と気を取り直した頷き。
「発想を変えよう」
仮にそれを、とエノーラは指輪を示しながら言う。
「私が、なんらかの理由で作りなんらかの理由でそれを忘れていてなんらかの理由でそれを思い出せないとして、あれなんかこれすごい頭悪い言い分な気がしてきたなんか泣きそうなんだけどここでくじけたらいけない気がするから頑張れ私頑張れ私終わったらご褒美に陛下に踏んでもらおうそれがいいわぁ素敵! ソキちゃんところで今日のパンツ何色? ブラの色でもいいよ?」
「ソキ、変態さんとは口を聞かないようにって言われてるですよ」
「ちっ、手ごわい。話の流れでうっかり教えてくれると思ったのに」
仕方ないので白だと思いこんでおくわ清楚で可愛いから、と溜息をつき、エノーラはなんだか逃げたそうにもぞもぞしているソキに、にっこりと笑いかけた。
「仮に、それを作ったのが本当に私だとしたら、銘を入れないなんてことはありえないのだけれど」
「……はい」
「銘を入れないように作ったのだとしたら、納得できるかな、と思ったのよね。違い、分かる……訳もないか。ええとね、錬金術師が魔術具に銘を入れるっていうのは、そのまま、ものに名前を書くのと同じ意味なの。所有物の宣言であり、所有者を明らかにして万一の時には責任を取る為にね。だから、名前を書かないっていうのは責任の放棄だとして本来絶対にやってはいけないことなんだけど……」
特にこの指輪は、ちょっとした悪戯でしたごめんなさいで許してもらえる範囲を明らかに超えてるし、と言葉を区切り溜息をついて、エノーラは嫌そうに首を振った。
「銘を刻むとね、つまり、魔力が混ざるの。厳密に言うと混ざりはしないんだけど、ひとつの魔術具につき、効果を発揮する魔力がひとつ。銘を刻み、誰のものであるかハッキリさせる、署名の為の魔力がひとつ。二つの魔力が、魔術具に対して書きこまれる訳ね? そうすると……稀に、ごく稀に、よ。反発しちゃうの。原因とか、理由はまだ分かってないんだけど、効果が消えちゃう訳でもないんだけど……うまく行かない魔術具になるの。時々、なんでかそういうのができる……それを、絶対に阻止したいんだったら。必ず、なんの不安もなく、その効果だけでるような魔術具を作りあげたいんだとしたら……私は、私の才能と、努力と、知識。設計にも計算にも、誇りと自負を持ってる。だから、絶対、絶対、そんなこと……認めたくないし、やりたくないけど。でも……でも、なんだろう。もし、もしも、本当に、そうしなければいけないんだって、それ以外には絶対って、言い切れないんだって、そういう状況。そういう理由。そういう感情が……あったら。あったんだとしたら、私は、私の努力の敗北を認めるわ」
頑張っても出来ないことはあるのよ、絶対にね、と。不屈の意思を秘めた瞳が、燃えあがるような感情で煌く。
「これを作った……のは、私だと思うんだけど、仮に、私だとして。私は、だから……なにか、信じたの、かな? ……ううん、信じたんだと思う。だから力を貸したし、自分のできる限りの最高の状態で、最高のものを仕上げた。その為に、絶対に銘を刻むことはしなかった。本当に、どうしてこんなものが存在しているのか、見ても触っても分からないんだけど……」
溜息をつき、錬金術師は言った。
「分かりませんでしたって素直に報告しておくわ。それでお終いだと思う。だって、私が分からないんじゃ、他の誰にも分かる筈、ないし。悔しいけど。分からないとか言うの、超、悔しいけど! ひとつだけは分かったから、それで良いってことにする」
「分かったの、なんですか?」
「うん? それはね」
すこしだけ得意そうに笑って、エノーラはソキを見つめる。
「他の誰でもない、あなたの為に存在するものだってこと。経緯も、理由も分からないけど、それはソキちゃんの為だけに作られたもので、ソキちゃんの為だけに存在しているもの。恐らく、他の魔術師には使用できない筈……というか、同じ予知魔のリトリアが私には使えないと思うって言ってる時点で、効果がないってことなんだと思う。それは、ソキちゃんには魔力、魔術の制御装置として正しく機能するけれど、他の魔術師にしてみればごくごく簡素なただの指輪。なんの働きもしない装飾品ってトコね」
「……じゃあ、こっちは?」
「こっち? ……こっちって?」
てのひらを差し出しながら問うソキに、エノーラはぱちぱちと瞬きをして不思議そうにしている。だから、と言って、ソキはもっと見やすいように、座っていた椅子から身を乗り出して言った。
「こっちの指輪です。小指の」
「……うん?」
「アクアマリンの……藍玉? 水宝玉です? 呼び方はどれだっていいですが、この」
指輪は、どういう。そう問いかけて、ソキはエノーラの視線に気がついた。錬金術師の視線は、確かにソキの小指を見つめてはいるが、ちいさなアクアマリンがきらめく銀の指輪を捕らえてはいないように思える。まるでそこに、なにもないような。探し物をしている視線。ぴたりと話すのをやめてしまったソキに、やがてぎこちなく、エノーラが問う。
「み……右手? 左手? それとも、足の指だったり……?」
「……いえ。左手ですよ」
息を吸い込んで、どくりと嫌な音を立てる心臓を、胸の上から右手で抑え込んで。ソキは光を弾いて輝く、とうめいな薄い水色をした石を見つめた。それは確かにそこにあるのに。今も、小指に通されている感覚が、あるのに。
「見えないです、か……?」
「触ってもいい?」
ためらうとするより、緊張した様子で、エノーラが問いかけてくる。こくりと頷いて、ソキは左手を差し出した。人差し指には変わらず、制御の為の指輪が通されている。エノーラはまずそれに指先で触れ、ほぅ、と安心したように息を吐き出して。それから、ソキと目を合わせたまま、指先を手の端へと移動させた。肌を撫でて行く指がこそばゆく、ソキの眉がやや寄せられる。ごめんね、と言いながら、エノーラはソキの小指の付け根に触れた。指輪がある筈の場所を、指先がすり抜けて行く。思わず、ソキは瞬きをした。何度見ても、指輪はちゃんとそこにある。感覚もちゃんと、指輪が通されていることを教えてくれる。それなのに、エノーラの指は、ソキの肌をやんわりと撫でた。
指輪が通されている、触れられない筈の肌に、触れていた。
「ソキちゃん」
そこに。指輪がある筈の肌に触れながら、エノーラがまっすぐな視線で問う。
「ここに、指輪が、あるの? ……もうひとつ」
「……あります、ですよ」
言いながら、ソキは泣きそうな気分で鼻の奥を痛くする。とらないで、と何故だか思った。とらないで、これは、誰かが、お守りだって。大切に、大切に、くれたものだから、だから。とらないで。大事にさせて欲しいのに。
「……分かった」
全身に力を入れて息を詰めるソキの背を、エノーラの手がやんわりと叩いて行く。よしよし、慰めの言葉と共に触れられて、ソキは拗ねた声でありますよ、と言った。うん、とエノーラは頷く。嘘だとは思っていないようだった。嘘だと、思う必要がないことを、魔術師は知っている。この世界には神秘があることを。確かに知っている者の顔で、エノーラは笑った。
「分かった。……フィオーレを呼ぶから、ちょっと待っててくれる? まだ、入学式、始まらないよね? ……誰も検査から戻って来ないし」
そう言われて、はじめてソキは他の入学予定者が、魔術師の適性検査と属性検査の最中であることを思い出した。ソキはそれを、すでに白雪の国で終わらせている。ウィッシュが学園にその報告をしていなければ、ソキはまだやってませんと言い張って、決してロゼアの腕の中から離れはしなかったのだが。必ず戻ってくるから、いいこで待っててな、と言われてしまったので、仕方がなく、ロゼアと再会した談話室で待つことにしたのだった。待つにしても、ロゼアと離れて数分もしないうちにエノーラが走り込んで来たので、ひとりでいる時間など殆どなかったのだが。ロゼアの不在を思い出すと途端に寂しくなって、ソキはしょんぼりとした声でまだですか、と呟いた。
エノーラは苦笑いをして時間がかかるかもね、と囁き、フィオーレを呼ぶ為に彼の現在位置について考えを巡らせる。体調不良の入学予定者と案内妖精の回復の為に呼ばれていた白魔法使いは、帰ったという話を聞かないので、まだ学園のどこかにいるだろう。エノーラが錬金術師の最高峰であるのなら、フィオーレは魔術師たちの頂点。魔法使いのひとりだ。彼ならばエノーラには見えない、触れられないものが分かるかも知れない。そう思って、エノーラは泣きそうに唇を尖らせるソキの頭を、ぽんぽんと手で撫でてやった。