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 彼女には友人という概念が存在しない

 予知魔術師としてのソキにはじめての実技授業、担当教官が付きっきりで行う魔術訓練授業が行われたのは、入学してから二週間後のことだった。担当教員つきの実技授業というのは、必ずしも毎日行われるものではなく、その義務もない。担当教員は、その魔術師の専属として学園に在ることを『許されている』だけであって、彼らの本業はあくまで所属する王宮の魔術師である。仕える王の魔術師、と言ってもいいだろう。魔術師たちの主も教員側の都合は重々承知しているのでそう無理難題を言いつけて手元に彼らを縛りつけたり、呼びもどしたりこそしないものの、適性と属性、才能がものをいうのが魔術師の生きる世界であるから、どうしてもその人でなければ出来ない、という物事も時には存在する。授業中に、その講師をと指定して伝令が飛ばされてくるのも、珍しいことではない。
 そういう場合、予定されていた授業は自習、あるいは休講となり、魔術師は『扉』を使って学園から王宮へ、戻って行くのが常だった。彼らは基本的に、戻って行く。拠点は王宮に与えられた一室、あるいは許可を得て市街に構えた住居であり、学園の講師室ではないのだった。中には授業の度に王宮と学園を行き来するのが面倒くさいからと、寮、あるいは講師棟の空き部屋を居室にしてそこへ住んでいる者もあるが、許可を与えられた上でのことである。王宮魔術師の自由というものは基本的に仕える王の手の中にあり、彼ら個人のもとへ降りてくることは決してない。そういうものだ。だから別にソキは、ナリアンやロゼア、メーシャが担当教員と顔を合わせた翌日、あるいは数日後からさっそく実技授業を開始して、びしばし扱かれているのを見ても特に不満は覚えなかった。
 どうしても一週間、長くて二週間は授業しに行けませんごめんちょうごめんほんとごめん、と書かれたウィッシュからの手紙を手に、深く息を吐きだしただけである。手紙は謝罪だけで行けない間の課題についての記載はなく、他の講師にそれとなく尋ねても、担当教員からの指示がないのであれば、と特に教本を与えられることもなかった。これってもしかして放置っていうのではないですか、とひとりだけ実技授業を受けられないで迎えた二週間目の朝、ようやく気がついたソキはぷーっと頬を膨らませて怒ったが、食堂にかけ込んで来たウィッシュが、他ならぬ予知魔術師の担当教員が、両手で顔を覆ってさめざめと泣き、ごめんなどうにか説得してきたから今日から授業しような連絡もできなくてごめんな詳しい事情はソキがもちょっと大人になったら話してあげるからごめんお願い今は聞かないでくださいお願いします、と言ったので許してあげることにした。どうにも言いたくないようだったので、事情を聞かず、ソキは溜息の数だけを増やした。幸せ逃げっぱなしである。回収の見込みはない。
 かくして、入学してから実に二週間。ようやくはじめての実技授業を受けるソキは連れてこられたのは、図書館だった。生徒用に厳選された書物が納められている図書室ではなく、建物として独立した図書館の方である。四階建てで地下もある。慣れなければ中で迷う程の広々とした作りで、不定期で迷路大会やら肝試しやらが行われているらしい。この世界に存在する書物の殆ど全てが納められているという噂が嘘か本当かは分からないが、それを可能とする広大さと莫大な量の書物は話を信じさせる雰囲気を持っていた。天井まで続く書棚には横へ移動させることのできる脚立が何本もかけられ、その半ばに座りこんで本を読む者の姿もある。それらを横目に通り過ぎ、ウィッシュがソキを誘ってきたのは四階の、階段の位置から見て一番奥にある部屋だった。
 普段は使わない部屋なのだろう。鍵がかけられており、使用には許可を、との立て札が扉の前に置かれている。立て札の隣をすいと通り抜け、ウィッシュは金色のちいさな鍵を穴へと差し込んだ。鍵を開け、扉を押し開き、中に入る。その後に続いて足を踏み入れ、思わぬ眩さに、ソキは強く目を閉じた。傍らで、忍び笑いの声がする。すっと瞼の裏に薄闇を感じたと同時に、ウィッシュの声が耳元で囁いた。
「大丈夫。目を開けてみな、ソキ。……太陽の光だから、怖いことはなんにもないよ」
 砂漠の国で、『花嫁』は大切に保護される。部屋に幾重にもたらされた柔らかな布が強すぎる日光を遮断し、あるいは和らげ、透明に漉された陽光だけがほんのりと目に写し出され、肌に触れた。だから真昼の強すぎる光は、それが砂漠でなくとも、ソキは苦手だ。ウィッシュが確保した一室は、特に日当たりの良い場所であったらしい。そろそろと目を開いたソキの視界には、太陽の光が燦々と降り注ぐ、眩しいくらいの室内があった。部屋は広くなく、四人がけの長机と椅子があるばかりで、本棚もなにもない。ただ、清潔なにおいのする部屋だった。淡い砂色をした床や壁は塵ひとつなく保たれていて、部屋の奥にあるひとつきりの窓は半分開かれ、よく風を通していた。そこから、学園の校舎と、寮と、森が見える。学園の建物は全てが森に囲まれ、木々の中に建っている。隠れるように、紛れるように。守られるように。抱かれるように。
 息を吸い込めば、みどりの匂いがした。
「じゃあ、準備が終わるまでソキは座って待っててな。……そういえば、なんか部活作ったんだって?」
「誰に聞いたです?」
「ん? エノーラ」
 アイツ、なんでか知らないけど学園内の些末事まで詳しいんだよな、と不思議にも不安にも思っている表情で呟き、ウィッシュはソキが座った、その正面の椅子を引いて腰かけた。国から出てない筈なんだけどなぁ、と呟きながらウィッシュが肩から下げていた布袋の中から取り出したのは、色紙と色鉛筆、鋏と糊と筆記用具だった。ソキは今日は手ぶらでいいよ、と言われていたので、なにも持っていない。つまりそれが、ソキの実技授業を行うにあたって、担当教官が用意したものであるらしかった。髪を撫でていく風が心地いい一室で、ソキは思い切り首を傾げた。
「ウィッシュせんせ?」
「んー?」
 色紙を手にしてしげしげと眺めていた視線が、ふんわり動いてソキを見る。
「なに?」
「ソキ、実技授業をしに来た……です?」
「うん。授業、授業。ただ、用意しなきゃいけないからさ。ちょぉっと待って……ソキ、風は何色?」
 かぜ、とソキは繰り返し呟き、きゅうぅと眉を寄せて唇を尖らせた。
「ちょっとよくわかんないです」
「だから、風。吹いてる風のことを考えて、色をつけるとしたらそれは何色? この中なら、どれだと思う?」
 色紙を扇状に机に広げられたので、ソキはその中から花のような赤を選んだ。牡丹の花色をしたそれを差し出すと、ウィッシュは不思議そうに目を瞬かせながら受け取り、少女とよく似た仕草で首を傾げる。
「赤? なんで?」
「リボンちゃんのねえ、目の色なんですよ!」
 風は何色、と問われてソキが思い浮かべたのは、旅を共にした案内妖精のことだった。風と踊るように飛んでいた、その姿。地平の果てまでを挑むように見通した、赤い瞳。そっか、と呟いてその色紙を避けて置き、ウィッシュは同じような質問をソキに繰り返した。火の印象はなにいろ、水は、大地は。その理由はなに、どうしてそう思ったの。それにソキは時に考えながら、素直な印象で色を選び、言葉にして理由を告げた。火の色は黒、夜の中であざやかに燃えるから。水の色は緑、森の中に湧水があるから。大地の色はうすい薄い黄、岩が砕けた砂漠のいろだから。幸せなのは小麦色、撫でてくれるロゼアちゃんの手のいろ。悲しいのは白、なにもわからなくなるから。ソキが答えるたびにウィッシュは帳面にそれを書きとめ、指定された色紙を束の中から抜き取って行った。
 しばらくして、こんなもんかな、というウィッシュの呟きで質問が終わったことを理解し、ソキはぐったりと机に身を伏せた。へしょり、と音がしそうな突っ伏し具合に、ウィッシュが手を伸ばして妹の頭を撫でてくる。もうちょっと準備あるから頑張ろうなー、と告げられて、ソキはだからあぁっ、と泣きそうな声をあげた。
「ソキ、実技授業をしに来たですよ……!」
「うん。それで俺は、今その準備をしてるんだよ?」
 しょうがないじゃん、魔術の種類いっぱいあるんだからさー、とソキの不満を軽く受け流しながら、ウィッシュは風と指定された牡丹色の紙と鋏を手に取り、考え込みながら口を開いた。
「で、ちょうちょでいい? 小鳥さんのがいい?」
「なに聞かれてるのか分かんないです」
「え? トンボとかのがいい?」
 二人の間に沈黙が流れた。お互いに交わした視線で、なにいってるのかすらわかんないです、えっそれともまさか蝉とかそういうのがいいのアイツら怖いじゃん飛ぶし鳴くし、ソキだんだんかえりたくなってきました、でもほら妖精さんって言ったからやっぱりちょうちょさんか小鳥さんだと思うんだよね俺、だからねえソキはねえおにいちゃんがなに言ってるのか分かんないって言ってますもうやだやだやだそきかえる、という意志を相手の受け取りなく投げつけ合い、二人はなぜか、同時にこくりと頷いた。
「もしかしてこれ授業なんです?」
「うん。俺は授業しに学園に来てるからね?」
「……これ、どういう授業なんです?」
 そう問われてはじめて、ウィッシュはソキがなにも分かっていない状態であると認識したらしい。へ、と間の抜けた声をあげてせわしなく瞬きをしたあと、恐る恐る問いかけてくる。
「誰にもなんにも聞いてない?」
「誰に、なにを聞けば、よかったです?」
「……ストルとか、ロリエスさんとか、チェチェリアさんとか、寮長とかに? え、俺が行けない間は、予知魔術師はこういう授業するよっていうのだけでも、誰かに聞いておいてって、手紙に書かなかったっけ……?」
 ものすごく申し訳なさそうに問われたのに、しばし考え。ソキはきっぱりと言い切った。
「書いてないです」
「う、うわあああああぁんっ! ご、ごめんなっ、ごめ、ごめんなああああああっ?」
「おにいちゃん、もしかして忘れんぼさんなんです……?」
 疑わしげな眼差しのソキに、ウィッシュはめそめそしながらこくりと頷き、しょんぼりと息を吸い込んだ。
「ごめん……。でも先生ってちゃんと呼んで」
「せんせいわすれんぼさんです」
「ううぅ……」
 涙ぐんでずびずび鼻をすすりながら、ウィッシュはひどく申し訳なさそうにソキを見た。
「じゃあ、今から説明するから……えっとな、普通の実技授業っていうのは、その本人の適性と属性、あとは才能とか、そういうの。そういうのに合わせて、できるであろうことを、ちゃんとできるようにする為のものなんだけど」
 あ、お詫びに陛下からもらった飴あげるな、と言いながら、ウィッシュが布袋から硝子の小瓶を取り出し、桃色の飴玉をソキの手の中へ落とした。瓶の蓋を閉めて袋へぽいと投げ込みながら、淡々とした声が説明を続けていく。
「予知魔術師には、それ、あんまり関係ないんだよね。俺たちには魔術師として、できることと、できないことがあるけど。予知魔術師はそういうの、ないからさ。全部出来るから、適性ごと、属性ごとの才能を伸ばしてあげるっていうか……できるようになること、っていうのが、そもそも存在しないんだよね。できないことないから。だから、できるであろうことを、ちゃんとできるようにしていく訓練……いわゆる、魔術的な制御を精密なものにしていく方法が使えない。全くできないってことじゃないんだけど、できることがありすぎてそれじゃ追いつかないんだって。魔術発動のそもそもが、予知魔術師はちょっと違うみたいだし……」
 俺たちはね、と眉を寄せて難しそうに考え込みながら、ウィッシュは言った。
「魔術をそれとして世界に解き放つ時、呪文を唱えるのと、そうしたいと考えるの、二つ方法があって」
 もちろん、呪文を唱えるのが正式なやり方ではあるんだけど、と告げながら、広げた色紙をひとまとめにして行く。
「俺たちは、そのどちらでも、一応正確に、ちゃんと魔術を使うことができる。けど、予知魔術師はそれができない。確か、言葉魔術師も。思考……と、感情で、言葉なく魔術を扱えるのは、予知魔術師と言葉魔術師以外。理由は、そのふたつが、言葉なくては正式な発動を可能としない魔術師だから」
 正式じゃないってことは暴走するってことだよ、と柔らかな声で告げられて、ソキはリトリアに告げられた言葉を思い出した。思考と感情、心の奥底に封じ込めておいたありとあらゆるものが形を成す。それが予知魔術師の暴走。言葉なき魔術の発動。
「予知魔術師に必要なのは、魔術の制御訓練じゃない。修練でもない。思考と、感情、それと、感覚。それをどこまでも精密に言葉にして表すこと。それによって、なにが起こるかの予想と、知識。概念と、思考と、発想の支配。……予知魔術師の魔術っていうのは、世界を、己の意志感覚に置き換える力。支配で、改変で、想像。で、その初歩っていうか……その為に必要なのがこれね」
 これこれ、とウィッシュの指先が、先程ソキが選びだした色紙を突っついて示す。
「風と、火と、水と、大地。炎、氷、自然。祝福と、呪い。月と、太陽と、夢。時間と、空間。代表的な魔術師の属性と、適性がここに集まってる。この色彩で、世界を描いていくのが予知魔術師の、魔術だよ」
「……ソキのいろ?」
「そう。これがソキの色、ソキの魔術。この色彩が、ソキの中にある魔力。予知魔術師は色で魔術を捕らえる……ってリトリアが言ってた。まずはその色を覚えることが実技授業の第一歩。で、それだけだと覚えにくいから、なにかと組み合わせてやると良いんだって」
 お前の風の色彩は赤。なめらかに、歌うように呟きながら、ウィッシュの手が色紙を持ち上げる。
「赤い風の中で舞うのは、ちょうちょさんと小鳥さんならどっち? って、聞いたの」
「……あかい」
 まばたきの為の閉じる瞼の裏側に、それは浮かんで見えた。ぞわぞわと湧きあがる奇妙な感覚にくちびるを動かされ、ソキは泣きそうになりながら意志に言葉を乗せた。
「赤い、ちょうちょが……ソキの風です」
「ん。分かった」
 よかったー、俺が作れそうなもので、と言いながら鋏を動かして紙を切り、ウィッシュは机の上にそっと一羽の蝶を舞いおりさせた。質問は単に、ウィッシュが作れそうなものの中から告げられただけで、ソキが明確な形を持っているのならばなんでもいいらしい。でもできるなら俺が嫌いじゃないものにしてくれると嬉しい、蜘蛛とかやめてね、あしがいっぱいあって怖いし糸がでるとか本当怖いから、とお願いされて、ソキはこくりと頷いた。
「それじゃあ、次な。黒い火は、なに?」
 目を、閉じて。考えて。ソキはちいさな声で、灯篭、と言った。夜を照らすひかり。それを閉じ込めるもの。黒色の灯篭こそ、ソキの持つ火の魔術。



 森の彼方へ落ちる太陽の光が空を茜色に染め上げた頃、ウィッシュはざっと顔を青ざめさせて立ち上がり、あああああそうだった思い出した俺今日夕食を陛下と一緒にするって約束してたんだったごめん俺もう帰らなきゃごめんなソキごめんなごめんな続きはまた明日しような明日も来るからそういう感じでよろしくそれじゃ気をつけて寮まで帰るんだぞ、と一息に言い放ち、部屋を走って出て行った。のち、二秒ですぐ派手に転んだ音がしたので、ソキはぽかんと口を開けて目をぱちぱちと瞬きした後、しみじみ、心の底から、おにいちゃん落ち着きないです、と言った。
 よほど慌てているのか、走っては転び、立ち上がって走ってはまた転び、を繰り返した後、ウィッシュは己が実際問題走ることができない、というのを思い出したのだろう。ソキが窓から見下ろした担当教員の後ろ姿は、せかせかとした早歩きで寮の方角へと向かっていた。ソキはその正確な位置を知らないのだが、寮と授業棟、講師室のある区画にはそれぞれの国へ直結する『扉』があるので、それを使って帰るのだろう。その背が見えなくなるまでしっかりと見送り、ソキはふうと息を吐いて立ちなおし、部屋の中をぐるりと見回した。四人がけの机と、椅子があるばかりの部屋。机に広げられていた色とりどりの紙も、様々な形を成した紙細工も、今はひとつとして残されていない。
 その色と、思い浮かんだ形を口にした時のことを思い出す。ぞわり、なにかが身の内でうごめく感覚があった。肺から喉を抜けていく空気のように。心臓から全身を巡って行く血液のように。頭から背筋を貫いて走る痛みのように。それは確かにソキの中に生まれ、それでいてずっと在ったのだと存在を主張するように現れては消え、染み、やがては落ち着いて行った。それが、魔力。それが、魔術なのだと、ウィッシュは言った。世界を書き換える為の。己の意志感覚で支配する為の。意志を表す為の。それが、力なのだと魔術師は言った。気がつけば左の人差し指、そこにある指輪を見つめていたソキは、ふるふると首を振ってから顔をあげる。
 魔力は揺れ動いただけで、決してソキという容れ物を壊してしまう風に荒れることはなく、あふれ出てしまうくらいに持て余すこともなかった。存在を知らせるように、動いた。それだけだった。指輪は、ちゃんと、ソキのことを守ってくれている。ほっと胸を撫で下ろして部屋から出て歩き、ソキは階段の手前でべちんっと音を立てて唐突に転んだ。なんだか、ひさしぶりに転んだ気がする。悲しい気持ちになってすんっと鼻をすすりながら立ち上がり、ソキは慎重に階段を降りることにした。階段で転ぶと、それはもうものすごく痛いのだ。ソキねえ丈夫だからあんまりお怪我はしないんですけどでも痛いんですよ、痛いのはヤなんですよ、と誰に聞かせるでもなく呟き、そろそろ階段を下りて、通路を歩き、ようやく図書館の外へ辿りつく。出入り口のぶ厚い木の扉をいっしょうけんめい押し開いて外に出た時、すでにソキの体力はつきかけていた。
 肩で息をしながら立ち止まり、ソキは寮の方角へ視線を向けた。図書館から寮までは、ソキの足で五分くらいかかる。今歩いて行くと、たぶんもうすこしかかるだろう。加えて、途中何回転ぶかも分からない。ううん、と首を傾げて考え、ソキはすこし休んで行くことにした。図書館の中で考えつけばよかったのだが、ぶ厚くて重い木の扉をもう一度押す気にはなれず、ソキはあたりを見回した。どこか、なるべく綺麗な、服が汚れそうにないところ。図書館と寮、あるいは他の建物へ続いて行く道の端に腰かけが置かれているのを見つけ、ソキはそこへ歩いて行ったのだが。そこへ先客が丸くなっているのを見つけ、ソキは目をぱちんと瞬かせ、その前にしゃがみ込んだ。
「にゃ……!」
 感動で、思わずこぶしをぎゅぅっと握りながら、ソキは目を輝かせた。
「にゃんこちゃん、です……! 白いにゃんこちゃんです! にゃんこちゃん眠ってるです……!」
 白い艶やかな毛並みをした猫が、腰かけの上で丸くなって眠っていた。さんかくの耳がへたりと伏せられ、頭の乗っかった手の先から、ほんの僅か桃色の肉球が見えている。一定距離を保ったまま、そわそわそわそわ猫を眺め、ソキは高揚した頬に両手を押し当て、溜息をついた。にゃんこちゃん、ものすごく、かわいいです。ソキねえ、にゃんこちゃんだいすきなんですよ、だいすきなんですよっ、と声にもだせずにぷるぷると震え、ソキは疲れていたことも忘れて白い猫を見つめていた。手を伸ばしはしない。触ろうとも、しなかった。それが猫でなくとも、ソキは手を伸ばさなかっただろう。
 ソキは、『花嫁』は、動物に触ってはいけないのだ。怪我をしてしまうかも知れないから。それでも、随分と昔に一度だけ、ソキは猫を撫でたことがあった。ロゼアが抱いた猫を、一度だけ、そっと。撫ぜるとするより、指先ですいと触れたくらいだが、それでも嬉しかったのを覚えている。
「……にゃんこちゃん、誰かのにゃんこちゃんなんです?」
 見た所、首輪はしていないようだった。けれども、野良猫には見えない。もし寮の誰かが飼っているのだとしたら、ロゼアちゃんに頼んで、触ったり撫でたり、抱っことか、できたりしないだろうか。そう考えるといてもたっても居られなくなって、ソキは勢いよく立ち上がり、寮へ向かって走り出し。びたんっ、と音を立てて、転んだ。

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