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 興奮しきったソキの、ほにゃほにゃふわふわ響く声から丹念に情報を拾い上げ、つまりソキは白い猫の飼い主を探してるんだろ、とまとめてあげたロゼアに、その両側から感動と尊敬のまなざしが送られた。感動しているのはナリアンで、尊敬しているのはメーシャである。ナリアンは、およそ五分に及んだ、身振り手振りを交えながら脱線しまくったソキの訴えをごく正確にまとめたロゼアの情報処理能力にすごいすごいと感動し、メーシャは途中でソキがなにを訴えたくなってたのか分からなくならなかったことがすごい、俺はなんか先生にもらった飴がおいしくって幸せだったことをおしゃべりしてるんだと思ってたけどそういえば猫だった、と会話の終着点が正確であったことに対してロゼアを尊敬していた。
 そんな二人の眼差しに、そうでしょうそうでしょうロゼアちゃんはすごいでしょうさすがはロゼアちゃんですっ、とこころゆくまで自慢げにふんぞりかえり、ソキはにこにことロゼアに向かって両腕を伸ばした。ううん、と猫について考え込みながらソキに両腕を伸ばし、ひょいと抱きあげ半ば無意識の仕草で背を撫でてやりながら、ロゼアはソファに深々と身を沈めた。ぽん、ぽん、と撫でながら『花嫁』の身に怪我がないかを確かめる仕草に一区切りをつけてから、ロゼアはゆるく息を吐き、乱れたソキの髪を手で整えながら告げる。
「ソキの言ってる白い猫っていうのは……図書館周りの木陰で本読んでると、膝に乗ってくるあの猫か?」
「白くて、ほわほわで、おみみがさんかくでへにゃってしてて、かわいいにゃんこちゃんなんですよ! お膝に乗ってくるかとかはソキは分からないです」
 ロゼアちゃんは昔から動物さんに好かれますねえ、と我がことのように嬉しがるソキに、ロゼアはこくりとあどけなく頷いた後、申し訳なさそうに目をすがめた。
「ごめんな、ソキ。飼い主は知らないんだ」
 あ、そういえばそういう話だった、とナリアンは手を打ち合わせ、メーシャはロゼアすごいなぁ、としあわせそうに微笑んだ。むむー、とすこしだけ唇を尖らせたソキが、そんなメーシャを下から覗き込んでくる。
「メーシャくん、メーシャくん。メーシャくんは? メーシャくんはにゃんこちゃんの飼い主さん、知ってるです? とぉってもかわいいんですよ! とってもですよ!」
「うーん、俺も知らないなぁ……首輪はしてた?」
「……くび、わ?」
 なんでそんなものをあんなにかわいいにゃんこちゃんにつけないといけないんですかソキにはちょっとわからないですソキねえそういうのきらいなんですよ、と瞬間的に意志を瞳に走らせ、消し去り、ソキはものすごく嫌そうに眉を寄せながら言った。
「なかったです」
「う、うん……? えっと、そうすると飼い猫じゃないのかも……ソキが気になるなら、俺がその猫の面倒見てもいいよ」
 委員長だからね、と幾分落ち着いた笑みを浮かべるメーシャの、所属している部の活動内容が未だもってちっともさっぱりソキには分からないのだが、その言葉にはなんとなく納得と、安心を感じることができた。入部した時にはやや世を儚む風だったメーシャが、すこしばかり居場所を見つけて落ち着けたように見えるのも、幸せなことだった。よかったですねえ、とにこにこ笑って頷き、ソキはナリアンに目を向けた。ねえねえ、と手を伸ばし、服を摘んでちょこちょこと引っ張る。
「ナリアンくん、ナリアンくん?」
『うん?』
 なぁに、と微笑むナリアンは、まるで年上の兄のような慈しみでもってソキのことを見つめている。そんなナリアンの服の端を、意味もなく摘んだり引っ張ったりしながら、ソキはちょこりと首を傾げた。
「ナリアンくんは、知らないです? しろいにゃんこちゃんの、飼い主さん。だぁれー?」
『俺も知らないや、ごめんね。猫が居たのも、ソキちゃんの話で気がついたくらいで……』
 ソキ、ひとの服で遊んだりしない、とロゼアが少女の手を包んでそっと言い聞かせているのに、ナリアンは申し訳なさそうに意志を響かせた。ソキはロゼアの注意を半ば聞き流している態度でこくんと一度だけ頷き、心底残念そうに肩を落とす。
「にゃんこちゃん……」
「先生に聞いてみるのはどうかな」
 視界の端に、今というこの輝ける時に俺の助けが必要なようだな、と椅子に片足を乗せて背を仰け反らせるやたらと芸術的な印象の姿をした寮長が映っているのだが、四人全員がそれを無視していた。あんまりしつこいので一度だけソキが、いえ寮長には助けて欲しくないですなにか悪化する気しかしないです、とびしりと言い放ったのだが、その日は静かになっただけで継続的な効果は望めなかったのだった。新入生にかまいたいお年頃なので適度にかまってあげてくださいね、とは副寮長であるガレンの言葉だが、入学して早半月、新入生は誰もが知っていた。寮長の辞書に適度などという言葉は存在しない。
 せんせいですか、とすこし気を取り直した様子のソキに、メーシャはでも今日はもう遅いからまた明日にしような、と言い添えた。はーい、と返事をするソキに、ロゼアがややほっとした様子で先輩に聞いても良いし、と囁く。
「ソキも、よく話す先輩、いるだろう? あの説明部の女の人と、その人といつも一緒にいる男の先輩と」
「ロゼアちゃんが言ってるのは、もしかして、ルルク先輩と、スタン先輩のことなんです? ……ソキねえ、ソキねえ、どうしても先輩に聞かなきゃだめなら、ユーニャ先輩がいいですよ。ユーニャ先輩になら聞くですよ!」
 あのひとたちに聞いたら最後、交換条件で夢と浪漫なんですよっ、と必死に訴えてくるソキの言いたいことがよく分からない様子で、ロゼアがあいまいに首を傾げている。名前を出された二人は談話室の端でソキをちらちら見守っていたので、その発言に残念そうに肩をすくめ、チェスをしていたユーニャの、椅子の足を蹴飛ばしていた。



 水のようなひとだと思った。透明な、それでいて底の見えない、ひたひたと湧きいずる水の。透明な、澄み渡りすぎて恐ろしいくらいの、水のひと。
「……ソキ。どうかしたのか? こんなところで」
「あ……」
「ん? ああ、きちんと話したことはなかったかも知れないな。すまない」
 硬質な靴音を立てて歩み寄るそのひとを、ソキは息がつまる思いで見つめた。こわい、こわくない、けど、こわい。目の前でしゃがみこまれると、ぶわりと感情が溢れていきそうになるのを感じた。息がつまる。息が難しくなる。このひとは、だって。このひとが。きっと、いつか。
「俺は、ストル。メーシャの担当教官だ」
 いつか。
「……ソキ?」
 不思議がる。心の底から不思議がる柔らかな声で問いかけられて、ソキは混乱した意識から抜け出した。ふっと夢から醒めたように、意識が楽になる。ぱちぱちと瞬きをして首を傾げれば、目の前にしゃがみこむストルも同じようにして、ソキをじっと見つめていた。じーっとその視線を見つめ返してから、ソキは唐突に、ぱん、と手を打ちあわせた。
「あ! ソキねえ、追い出されちゃったんですよ!」
「追い出された?」
「ソキね、ソキねえ、ロゼアちゃんがなにしてるのか、ちょっと見ていたかっただけなんですよ?」
 ぷぷーっ、と頬を膨らませてソキが振り返って睨んだ扉を、ストルはなるほど、と納得した様子で眺めやった。ソキが立っていたのは、とある訓練室の前である。数ある実技授業用の部屋の中でも群を抜いて防音と衝撃、対魔力の効果が強く、そして広い部屋だった。主に複合属性の黒魔術師が使用することの多いその訓練室が、ロゼアが担当教官であるチェチェリアに授業を受けている場所である。鍵までかけられてしまった扉を拗ね切った顔つきで見つめ、ソキは不満でいっぱいの様子で首を傾げた。
「危ないって言われたです。ロゼアちゃんがいるのにですよ? ロゼアちゃんがいるのに、危ないことなんかいっこもないです。ソキが、ロゼアちゃんの傍にいるのに危ないってどういうことなんです? ソキ、全然分からないです。なにが危ないですか?」
 だってロゼアちゃんですよ、ロゼアちゃんがソキの傍にちゃぁんといてくれるですよ、と無垢な瞳で首を傾げ傾げ考えているソキに、ストルはなにをどう説明してやったらいいものか、考え込む表情で黙りこんだ。しかしストルが言葉をまとめてしまうより早く、あ、と声をあげたソキがくるくる表情を入れ替え、にっこりと笑った。
「ストル先生! ソキ、聞きたいことがあったんでした!」
「うん? 俺で分かることかな」
「しろいにゃんこちゃん知らないです? ソキねえ、飼い主さんを探してるですよ。チェチェリア先生は知らないって言ったです……」
 そもそも、それを聞くために、ソキはロゼアにくっついてこの訓練室までやってきたのだった。基本的に毎日、実技授業をしているロゼアと違って、ソキのそれは不定期である。今日は授業がない日だった為、じゃあソキはここでロゼアちゃんがやっているのを見ていることにします、と言ったら追い出されたのが衝撃的すぎて、すっかり忘れていたのだった。それにしても、ロゼアちゃんがいるのに危ないとか本当よく分からないです、としみじみ不思議がるソキに、ストルは眉を寄せながら口を開く。
「すまないが、心当たりはないな……。その猫が、どうかしたのか?」
「とってもかわいいんですよ! ソキねえ、撫でてみたいです」
「飼い主に許可を取らなくとも、撫でるくらい、して良いと思うぞ。餌をやりたいなら聞くべきだと思うが」
 そういうことか、と微笑ましそうに頷くストルに、ソキは、なにを言われているのか分からない様子で瞬きをした。
「……撫でてみたいんですよ?」
「ああ。……その猫が怪我をしていたのであれば、治るまでは控えるべきだとは思うが?」
「だから、飼い主さんにお願いして、ロゼアちゃんにお願いして、撫でてみたいですよ?」
 どうしてソキの言ってること分かってくれないですか、ともどかしそうなソキに、ストルが言葉に詰まった様子で口唇を閉ざした。男にしては細く、長めのしなやかに動く指先が、ぐっと力を込めて額に押しつけられる。
「それは、許可が、必要な……ことなのか」
「ソキ、ひとりで動物触っちゃいけないですよ」
「家で、そう?」
 言われたのか、とかすれる声で問いかけられて、ソキはすこしばかり悩んだ末に頷いた。言われたというより、教育された、とする方がしっくりくるのだが、事実は事実だからである。それは徹底的に遠ざけられる。そうか、と呻くように呟き、開かれたストルの目がまっすぐにソキを見た。
「それは、君が好きにしていいことだ」
「すき? です?」
「自由に。君が考えて、行って良い、ことだ。それはもう、許可が必要なことではないよ」
 したいこと、なんでもいいよ。包み込むように響く言葉が、耳の奥で蘇る。ロゼアも、そういう風なことを言っていた。『花嫁』じゃなくてもいいんだよ。好きなことをしても、怒るひとは誰もいないよ。もう、怖いことなんて、ないよ。
「……あれ?」
「うん? どうした」
「えっと、あの、それじゃ、あの、もしかして……も、もしかして、ですよ?」
 やわらかに。心を包み、守り、背を押すような気持ちに動かされるように、ソキはおずおずと唇を開く。
「ソキは」
「うん」
「にゃんこちゃん撫でても、いいです……?」
 よく出来ました、と言わんばかりに笑ったストルは、一度しっかりと頷き。良いと思ったことをしなさい、と言って、戸惑うソキに飴玉をくれた。なんでも、来ないと分かっているのについ常備してしまうもの、らしい。誰かの為のものですか、と問うソキに、ストルはしっとりと笑って。ちいさい子は甘いものが好きだろう、とだけ言った。



 ストルと別れて図書館へと向かう途中、ソキはナリアンの担当教員、ロリエスと遭遇した。ソキの目からは始終不機嫌そうに見えてすこしばかり怖い女性なのだが、ロリエスはちょこちょこと歩いて行くソキに目を止めると案外優しい笑みを浮かべて大股で歩み寄り、体調が辛いことはないか、と問いかけてきた。学園時代のウィッシュがすこしの無理でもすぐに体調を崩すことを知っていたので、ソキが同じ育ちであると知り、気にしていてくれたらしい。ソキはびっくりしながらも、ソキねえお兄ちゃんよりもうんと丈夫なんですよ、だから大丈夫なんですよ、とたどたどしく言い返し、ちょうど良かったのでロリエスにも件の白い猫、その飼い主のことを聞いてみることにした。
 ロリエスは、茶色い猫なら知っているが白いのもいるのか、とひとりごち、申し訳ないが、と飼い主の心当たりがないことをソキに告げた。分かりました、としゅぅんとするソキに、申し訳ないと思ったのだろう。ロリエスはさっと周囲を見回して人影のないことを確かめると、身を屈め、ソキの耳元でそぉっと囁いた。
「その手のことなら、シルに聞けばいい。寮内、学園内のことならだいたい把握しているから」
「……シル? さん? です?」
 聞き覚えのある名前なのだが、ソキの本能が思い出すことを拒否したので、いまひとつ誰のことを言っているのか分からない。首を傾げ傾げ考えるのに、ロリエスは苦笑いをして、言った。
「寮長だ」
「ソキ、ロリエス先生がなに言ってるのかちょっとよくわかんないです」
「寮長に、聞けば、飼い主のことが分かるぞ?」
 灰色の声で早口に告げるソキに、ロリエスはいかにも楽しそうに首を傾げてみせた。嫌がっていることなど、分かっていて言っているのだろう。ロリエス先生もしかしていじわるさんなんです、と疑惑の眼差しでじりじり距離を広げて行こうとするソキの、ローブの端をひょいとばかり摘みあげて引っ張り、女性はまあまあ、と宥めるように口を開いた。
「いいか、ソキ。シルは自由という単語の意味を最大解釈しながら生きているような男だが、悪い奴ではないんだ。ソキには、もしかしたらすこしばかり厳しいことを言うことがあるかも知れないが、それだって別に嫌って言っている訳じゃない」
「うー……ううぅー……ソキ、ねえ、ソキねえ。寮長、ちょっぴり、苦手、なんですよ。怖いんですよ、すぐ怒るですよ」
 それも、今までソキがされたことがないような怒り方なのだ。そもそも、怒りという感情をそのまま向けられる経験自体が、ソキにはあまりにも少ない。やです、こわいです、とたどたどしく告げるソキに、ロリエスは場にしゃがみこみ、ふむ、と考えながら視線の高さを合わせてくれた。
「理由なく、怒られたことはないだろう?」
「……はい」
「なら、怖がらないでやってくれないか。理不尽に感じることもあるだろうが、あれはあれなりに、ソキのことを想って言ったのだろうから。もちろん、個としての好き嫌いはあるだろう。それを強要しようというのではないよ。分かるね?」
 それとは関係なく、嫌いというのであれば、嫌いであって私はかまわないよ、と。あくまで穏やかに、そっと言い聞かせてくるロリエスを、ソキは真正面からじっと見返した。視線が重なると、ごく軽く、親しげに笑いかけてくれるロリエスに、ソキはこてん、と首を傾げる。
「ロリエス先生、寮長のこときらいではなかったのです?」
「おや、どうして?」
「毎日愛を囁かれてるのに、毎日うんざりした顔してるの、ソキ知ってるんですよ」
 ロゼアと同じく、ナリアンにもほぼ毎日実技授業が行われている。その為、毎日決まった時間になるとロリエスは花舞の王城へ続く『扉』から現れるのだが、そこで待ちかまえているのが寮長そのひとである。ある時は花、ある時は本、またある時は髪留め、ある時は砂糖菓子など、一日として同じではないささやかな贈り物を手に跪き、会いたかった愛しいロリエス俺と結婚してくれないか、と囁くのに一瞥を投げかけ、断る、と告げて立ち去る女性の姿は、もはや名物を通り越して習慣じみていた。寮長からの贈り物は、その場で受け取られることもあり、受け取られないこともある。けれども捨てられたりすることはなく、その場で手にされなかったものも、ロリエスの講師室の中にきちんと納められていた。
 だから別に、ものすごく嫌いな訳ではない、とソキは思っているのだ。贈り物に罪はないので、それはそれとして受け取り、保管しておくのもソキには十分覚えがあることなので、理解できる。けれども、蛇蝎のごとく嫌っている訳ではない相手に対する言葉にしては、ロリエスがソキにかけた声の響きはやさしく、なんらかの想いに満ちていた。苦笑い、とするには甘さの勝る表情で笑み、ロリエスは綺麗な仕草で立ち上がる。
「シルを、本当に嫌える者などいやしないよ」
「……ソキも?」
「苦手なのも、怖いのも、慣れるまでだろうとも。さ、そろそろお行き……私が話したことは内緒にしておくこと。特に、寮長には」
 言ったら最後、とてつもなく面倒くさい反応をするだろうから、とくすくす喉を鳴らして笑うロリエスに、ソキはよくわかんないですよ、と首を傾げながら立ち上がり、すこし歩いた所で振り返った。
「それで、ロリエス先生は。ほんとは、寮長のこと好きです? きらいです?」
「……ないしょ、だよ」
 女性は笑みを刻んだ唇に人差し指を押し当て、好きとも嫌いとも告げず、ソキの前から立ち去った。薫風のようなひとだ、とソキは思う。鮮やかに立ち去るひとだ、とも。



 ゆっくり、慎重に歩いて行けば、ソキはもうそんなに転ばずに歩けるようにはなっていた。そんなに、である。転ばない訳ではない。その日、授業棟から図書館へ移動するまでにソキが転んだ数は二回だけで、それはちょっとした新記録でもあった。今まで、片道三回は確実に転んでいたからだ。ソキは成長しているんですよっ、と嬉しい気持ちになりながらてちてちと歩き、図書館の前で足を止める。体力はさほどついたわけではないので肩を大きく上下させながら息をして、ソキはふらりと木の腰かけに歩み寄った。先日、白い猫がまるくなって眠っていた場所である。もしかしたら、とどきどきそわそわ視線を向けて、ソキはきゅぅっと切なく眉を寄せた。
 いないのである。毎日そこへいるとも限らないし、寝場所として定めている訳でもないだろうから、いなくても仕方がないことなのだが。それは、なんだかとても、残念なことのように思えた。
「……にゃんこちゃん」
 今日、もし会えたとしても、撫でることができたかどうかは分からない。してもいいこと、して良いと、自分で決めていいことだと分かっても、それを実行することには、なんとなく勇気が行った。それはずっとしてはいけないことで、これからも、変わることがない決まりである筈だったからだ。いい、と言われても、いけない、と言われていたことだから、罪悪感がある。ううん、と思い悩みながら腰かけにちょこりと座ると、気持ちいい風が吹き抜けていく。晴れた日には、日差しが強くなりすぎない日には、ここで本を読んで白い猫を待つのもいいかも知れない。触れなくても、見ているだけでも、可愛いししあわせな気持ちになるのは本当のことだからだ。
 ざく、と誰かが草を踏む音が響く。通り過ぎて図書館へ向かう者、あるいは寮へ帰る者はたくさんいるのに、なぜだかそのひとつの足音だけが、不意にソキの耳へ忍び込んだ。ふと顔をあげる。そこに、ひとりの少女が立っていた。まあるい眼鏡をかけた、紅玉の瞳を持つ少女だった。鮮烈な印象のその色は、少女を勝気にも、逆に気弱にも見せていたが、意志の強さが垣間見える輝きを灯している。肩で切り揃えられたはしばみ色の髪はふんわりと、風が吹くたびおだやかに揺れた。白くほっそりとした印象の腕が、強く抱いているのは数冊の本だった。あ、と思ってソキは慌てて腰かけから立ち上がり、服をぱたぱたと手で叩いた。
「あの、あの、ソキ、もう行くです」
 本を読みに来たのだ、とソキは思った。こんなに気持ちいい場所だから、そうしたいと思う者はソキの他にもいるだろう。なにか言葉を探している風な少女の隣を通り過ぎ、ソキはあっと気がついて立ち止まった。ソキよりすこし年上で、ロゼアやメーシャより年下の少女の名前は、知っていた。入学式を終えた夜、ロゼアに抱かれたソキを空き部屋まで案内してくれたのは、この少女だったからだ。
「ハリアス先輩」
 えっと、えっと、あのね、と緊張しながら、ソキはやや目を見開くハリアスに、一生懸命問いかけた。
「しろいにゃんこちゃん、知らないですか? 前にここで、眠ってたです。とってもかわいかったです」
「え……えっ」
 白磁の肌に朱が灯った。驚き、照れたように本を抱く腕に力を込めながら、ハリアスはそっと視線をうつむかせ、ぷるぷると首を横に振って囁く。
「私……いえ、えっと。どうして?」
「にゃんこちゃん、かわいかったです。とっても、とっても、可愛かったですから、ソキ、撫でてみたいんですよ……」
 しろいにゃんこちゃんの飼い主さんのことでもいいです。知らないですか、と問うソキに、ハリアスはぐっと言葉に詰まりながら、飼い主はいないと思うわ、と告げた。それから、しばらく、その白い猫には会えないと思う、とも。その言葉に、あんまりソキが気落ちした様子だったからだろう。一歩、距離を歩み寄って、ハリアスは静かな声で言った。
「次の……次の、満月の、次の日……一週間後に、なら、もしかしたら」
「にゃんこちゃん?」
「会えないかも、しれないけど」
 この場所にいると思うわ、と告げるハリアスに、ソキは分かりました、と急いで頷いた。もしかして、普通の猫ではないのかも知れない。飼い主もいないようだし、だいたいからして『中間区』にいる猫なのである。妖精や、『向こう側の世界』に去った幻獣にも近いのかもと考えつつ、ソキはそのまま、図書館へ足を向けた。予知魔術の勉強になる本を探しに来たのだが、世界を去った生き物についての図鑑が、あったら借りたいな、と考える。重そうなので、持ち運びできるかはともかく。いざとなったらロゼアちゃんに持ってもらうです、と気持ち小走りに立ち去り、図書館の扉を目前にびたんっ、と転んだソキを、はらはらした目で見守り、見送り。
 ハリアスは木のベンチに腰かけ、赤くほてった頬を冷やすよう、両手を押し当ててちいさく溜息をついた。

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