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 談話室の出入り口付近には柔らかな木で作られた掲示板があり、そこには生徒に関わるありとあらゆる知らせが張り出されている。例えば、部活動の勧誘や、活動内容にまつわるちょっとしたお知らせ。例えば、生徒向けのごく簡単な労働のお知らせ。依頼人は同じ学園の生徒であったり、王宮魔術師であったり、はたまた学園の専任講師であったりと様々で、ちょっとした報酬も約束されている。ソキのように銀行口座を持つ一級の特例を除き、己の自由になるお金を持たない者が大半である。それによって放課後や日曜日に金銭を稼ぐ者が大半で、生徒たちは熱心にその掲示を見つめ、提示された条件、魔術師の適性や己の属性、年齢や特技に一致しているかを確認しては一喜一憂するのが常だった。
 とはいえ、ソキには基本的に関係のないものである。ソキが興味を惹かれるのはそれら勧誘や、労働の張り出された区画の隣。雑然としたお知らせごとに紛れてしまわないよう、場所を決めて張り出されている、授業にまつわる告知の方だった。ウィッシュがソキの授業を見られる日の、前日に、そこにソキへ向けての伝言が張り出される。だいたいは適当な紙片に走り書きで、明日授業があること、何時から、持ち物はなにとなに、予習と復習でこれをやっておくこと、待ち合わせ場所、以上六点が書き込まれ、簡素なピンで留められている。
 聞けば本人が自ら出向いて掲示しているのではなく、各国王宮と寮を飛びまわって手紙や書類、こうした掲示物をピンで留めるまでしてくれる妖精たちがいるとのことだったが、残念ながらソキは、まだ一度もその姿を見たことがなかった。朝、昼、夕と日に三度、掲示板が更新されているにも関わらず、目にする機会がないのは、単純にソキにその為の時間がないからだろう。毎日の午前中は全て座学で埋まり、午後も半分くらいは授業を受け、もう半分は予習や復習、読書で日々が過ぎていく。ソキの一週間を教えてもらったウィッシュが、俺はそんながんばんなくていいと思うよ、と控えめにたしなめてきたが、今のところ、少女にそれを改善する気持ちはなかった。勉強が好きだからである。
 その為、その日の夜に掲示されたお知らせは、ソキの気持ちをしょんぼりさせるに十分だった。張り出された紙は、全部で四枚。どれも明日の授業をお休みすると伝えるもので、悪いことに、その四つとも、ソキが受けている授業だった。つまり明日一日の予定が無くなってしまったのである。お勉強したかったんですよ、とロゼアの膝の上でひとしきり拗ねたソキは、何度か頭を撫でて名前を呼んでもらったことで潔く復活した。思考を切りかえる。授業がないのなら、もう仕方がない。それじゃあ自習するですよ、とソキは決意した。遊んだり、休んだりしてもいいんだよ、と苦笑混じりに告げてくるロゼアにふるふると首を横に振ったのは、他ならぬロゼアが授業をしているのに、ソキだけ遊んだり休んだりする気がなかったからだ。ソキが言い出したら頑ななことは、ロゼアはよく知っている。それ以上は止められず、なにをするのか、を尋ねられた。
 お花を摘んで実技授業の復習するですよ、とソキが言ったところで通りがかったのがナリアンだった。ソキちゃんお花摘みに行くの、となにそれ想像するだけで可愛いなぁソキちゃんとお花畑とっても可愛いっ、と全力で思っているに違いないきらんきらんの瞳で問いかけられて、ソキはこくりと頷いた。ついでにピクニックしておいでよ、と提案したのは、労働のお知らせを選びに行っていたメーシャだった。条件に合うものがあったのだろう。連絡待ちの紙片を手に、メーシャはにこにことソキの顔を覗き込んでくる。おべんとうとか、おやつとか、ロゼアに作ってもらって持って行けばいいだけだからさ、と告げるメーシャに、ナリアンが俄然やる気を出した表情で、目をきらりと輝かせた。
 ぴょこんっ、てでっかいわんこちゃんのお耳がナリアンくんの頭に見えたです、と言ったのはソキ。ふっさふさの尻尾振ってた気がする、としみじみ頷いたのはロゼア。ナリアンかわいいな、と満面の笑みで心行くまで級友を愛でるメーシャに見送られ、ぱたぱたと談話室を走り出て行ったナリアンは、待ちつかれたソキが眠くなるより早く、戻ってきた。その手に持っていたのは編み籠である。無垢な木の色をした、持ち手がひとつのまあるい籠。これにお弁当とか入れて持って行って、花も摘んで帰って来ればいいんじゃないかなっ、と目で必死に訴えるナリアンに、ソキはナリアンくんなんでこんな籠持ってたんです、と首を傾げながらも受け取った。その背後で床を手でばんばん叩きながら、ナリアンの女子力まじパネェ、と爆笑する寮長がいた気がするが、気のせいだと思いこむことにしたので特になにを感じることもない。
 かくしてその日の朝、ソキはお弁当とおやつと飲み物の入った編み籠を両手でよいしょと持って、学園のある森の中心部から、妖精たちの住まう花園の境へピクニック、兼授業の復習をしに出かけることとなった。花園へ向かうのとは逆方向と知りながら、ソキが図書館へ向かったのは、昨夜が満月だったことを思い出したからだ。満月の、次の日にならもしかすれば。そう告げてくれたハリアスの言葉に期待して、そっと木の腰かけを覗き込んだソキの想いは、正しく報われた。白い猫が、ややしょんぼりとした風にまぁるくなって、すうすうと穏やかな寝息を響かせている。きゃあぁっ、と声をあげそうになった口をあわてて閉じて、ソキはその場にちょこんとしゃがみこんだ。
「にゃんこちゃん、ですー……!」
 ちいさな声だったが、白い猫の耳がぴくりと動き、ぱちっと開いた目がソキを見る。わーっ、と間近できらきらと眺めるばかりのソキに、白い猫はどこか控えめに、にゃぁん、と鳴いて尻尾をぱたつかせた。ソキは、ちょっともうどうしていいか分からない幸福感にひとしきりふにゃふにゃと笑った後、己をじっと見つめてくる猫に、ちょこんと首を傾げてみせた。
「にゃんこちゃん、なにしてたです? お昼寝です? 寝るの好きです? ここあったかくて気持ちいいからソキもお気に入りの場所なんですよ! うふふ……うふふっ、ソキねえ、ソキねえ、これからおでかけなんですよ!」
 ロゼアちゃんがねえおべんとうとおやつと飲み物を用意してくれたんですよさすがはロゼアちゃんですっ、と自慢げに一息に言い放って、ソキは尻尾をぱたりぱたりと揺らしながら、話を聞いてくれているように見える白い猫を、じぃっと見つめた。撫でてみたいです、触ってみたいです、とうずうずうずうずしながらも、ソキはちょっと困ったように眉を寄せ、はふ、としょんぼりした息を吐きだした。
「ソキねえ……ロゼアちゃんにねえ……にゃんこちゃん撫でていいか、聞くのを忘れちゃってたんですよ……」
 たぶん、すごく、だめ、と言わない気は、するのだが。ううん、と困ったように首を右に傾げ、左に傾げ、もう一度右に傾げて、ソキはしょんぼりと肩を落とした。自分で決めていい、というのはもう知っているのだが。知識とは別のところで、不安がる心は、どうしてもロゼアに確認を取りたがった。ねえ、と不安げな声が胸の奥で囁く。ねえ、ねえ、あのね、ロゼアちゃん。ソキは大丈夫ですか、ソキは、ちゃんと、ロゼアちゃんの育ててくれた通りにできてますですか。ロゼアちゃん、ロゼアちゃん。もしソキが『花嫁』じゃない、そういう風じゃないことをしても、怒ったり嫌ったりしませんですか。自由で、普通で、そういう風になっても。そういうふうに、しても。自分で決めても。本当に、それを。
 すとん、となにかが地に落ちる音がしたので、ソキはふと視線を持ち上げた。腰かけから地へ下りた猫が、てし、てし、と歩いてソキの方へやってくる。え、と思って動けなくなってしまったソキの足に、白い猫はすり、と体を擦りつけてきた。顔を見上げて、にゃぁん、と一声鳴くさまはどこかソキを心配しているようで、それでいて、会えたことに挨拶をしてくれているようでもあった。こしこし、額をソキの脚に擦りつけてくる白い猫を見下ろしながら、ソキは怖々としゃがみこんだ。触ってしまわないように手を胸に押さえ付けて、えっと、えっと、と声を出す。
「こ……こんにちは? です?」
 にゃあ、と今度は嬉しそうに鳴いてくれる。ぱたぱた、振り子のように左右に振れる尾がものすごく可愛くて、ソキはうずうずとそれを見つめ、手を伸ばしかけてひっこめた。聞いておけばよかったですぅ、と再度、心底落ち込んだ呟きを落とし、ソキは猫をじぃっと見つめて問いかけた。
「今度は、ちゃんと聞いておくことにするです。にゃんこちゃん、次はいつ会えるですか……?」
 白い猫はぺたんと耳を伏せ、困ったように一声、にゃぁん、と鳴いてみせた。うんうん、とソキは頷いた。
「なんて言ってるのか分からないです!」
 にゃん、とさらに困ったように鳴く白い猫を名残惜しそうにじーっと見つめて、ソキはよいしょ、と立ち上がった。猫の目がじっとソキを追う。また会いに来ますね、と言って立ち去るソキの背を、猫はそのまま注視して。やがて一声、にゃぁん、と鳴いた。



 妖精の住まう花園と、森の境界付近へ到着したソキは、花の蕾を前にしゃがみこみ、じーっとそれを見つめていた。どう見ても硬く閉じた蕾は、見ても待っても綻びそうにはない。くしゃりと絞られた花びらは純白で、ソキの必要とする色をしていたが、咲いていなければ意味がないのである。えっと、と困りながらあたりを見回すと、なるほど、ウィッシュが言っていたようにこの境界は純白の花の群生地であるらしい。ひえた、芳しい香りが蕾が閉じてなお空気を染め上げていたが、ソキにしてみれば大変困ったことに、視認できる範囲の全てがかたく花閉じていた。これはもしかして、と記憶を巡りながらソキは呟く。
「夜行性……なんです……?」
 夜咲きの花であるとしたら、今の時間に咲く筈がなかった。そーっと空を見上げたソキの目には、まだまんなかにも到達していない太陽の、眩い姿が見える。待つには長すぎる時間だった。んー、と困って視線を空から地上へふよふよ降ろして行ったソキの目に、花園が映った。妖精の住まう園。小高い丘に咲き乱れる花は色とりどりで、中には白い花もあるだろう。たしか本には、妖精の花園で勝手に花を摘んではいけない、と書かれていた。花園は妖精たち共通の持ちもので、そこに魔術師は立ちいることを許されてはいるものの、所有物を摘み取る許可は得ていないのだと。本には簡素に、摘むとどうなるか、も書かれていた。呪われるらしい。
 んー、んんんー、と首をこてこて、右へ左へ傾げて考え、ソキはぱちんと手を叩いた。
「妖精ちゃんに許可取ればいいですよ!」
 そうですそれがいいですそうすることに決めたですっ、とにこにこ笑って立ち上がり、ソキは編み籠を手に持って妖精の花園へと歩き出した。幸い、そう距離がある訳ではない。夜咲きの白い花の群生地から花園は、目と鼻の先で、ソキは息切れをする間もなくそこへ足を踏み入れた。見渡す限りの平原。小高い丘がどこまでも続き、万華鏡のように輝く花がなないろに風に揺れていた。たくさんの花の甘い香り。それを胸に吸い込み、草を鳴らして歩きながら、ソキはきょろきょろとあたりを見回した。どこかその辺で飛んでいる妖精に、白い花ばかり、何本か摘む許可を得なければいけない。
 どこかにー、妖精ちゃんー、とんでー、ないですーかー、とふわんふわん響く声でちょっとご機嫌に歌いながら歩むソキの目に、真昼の中でも不思議と浮かびあがって輝く、まるい妖精の光が飛び込んで来た。あ、とソキが嬉しげな声をあげる。それにぱたりと羽根を動かして振り返った妖精の姿を、はっきりと視認して、ソキはその場に編み籠を落として走り出した。
「リボンちゃあああああんっ!」
「え……えっ、ソキ? ソキ、ちょっとアンタ走るんじゃないわよ走るな足元を見ろ転ぶ転ぶ転っ」
 ぱっと両手を広げて抱きつくように案内妖精の元へ辿りついたソキは。
「会いたかったですーっ!」
 ぱちーんっ、と。音を立てて、手を閉じた。ぱちぱち、ぱちん、と瞬きをして。
「……あ!」
「……ソキ」
 即座に手を離してごめんなさいごめんなさいソキねえそういうつもりではなかったんですよっ、と大慌てするソキを睨みつけ、間一髪で避けてみせた妖精はひらりと少女の頭の上へ飛ぶ。やぁんやぁんごめんなさいですよおぉっ、とすでに半泣きの声でぴいぴいわめくソキの髪を両手で掴み、妖精は遠慮なく力いっぱいソキの髪を引っ張りながら、だからなんでアンタって子はっ、と声を張り上げた。
「なんで! そうなの! なんで潰そうとするのっ! やめなさいって言ったでしょう二度とするなって言ったでしょうちょっと会わない間でもうこれかっ! この低能! 大馬鹿っ! ちょっとアンタなんなのどうしたの元気でやってんのっ? 夜は寝てんでしょうね、朝は起きてんでしょうねっ? ごはんはっ? 食べてんのっ? 授業ちゃんと出てるっ? いいからアタシの質問に答えなさいよ!」
「やあぁんやぁあんっ、リボンちゃん髪の毛ひっぱっちゃやですっ。やです、痛いですっ」
「アタシだったから避けられたのよアンタ分かってんでしょうねぇっ!」
 いい加減にしないと抜くわよっ、と脅す妖精にやあぁああんっ、とぴいぴい鳴き声を響かせ、ソキはひたすら、ごめんなさいもうしませんリボンちゃんだいすき、を繰り返した。繰り返すこと十回目でようやく手が離され、呆れと疲労感いっぱいの顔つきで、妖精がソキの目の前まで降りてくる。くすん、すんっ、と両手でひっぱられた辺りの頭を手で押さえながら、ソキはリボンちゃんはぁ、と涙声で言った。
「なにしてたですか? 日光浴です?」
「そんなところよ。で、ソキ? こんな時間に、どうしたの?」
 怒りを落ち着かせた妖精が真剣な声で案じてくるのに首を傾げ、ソキはあれ、ときょときょと足元を見回した。
「あ、あれ、あれ? ソキ、ソキのおべんとう……ソキの……!」
「泣くなー!」
 じわわわわっ、と涙を滲ませるソキに頭が痛そうに怒鳴り、妖精はほらあっち、とソキが走ってきた方を指差してやった。勢いよく振り返ったソキはそちらへ走って行こうとして、ぷぎゅっ、と声をあげてその場で倒れる。足がもつれて転んだらしい。いたいです、とすんすん鼻を鳴らして起き上がったソキを、妖精は心底呆れ切った眼差しで見下ろした。
「ねえ……成長が見られないっていうのは……どうなの……?」
「うー、うぅー……ちがうんですよ! ソキねえ、じつは、あんまり転ばなくなったんですよ!」
「悲しい嘘をつくのはやめなさい」
 たった今目の前で転んでおいて、なにを言っているのか。本当なんですよっ、とむくれながら、ソキは落っことした編み籠の元まで歩き、それを大事そうに拾い上げ、ほぅと息を吐きだした。
「……あ! ソキね、白いお花を摘みに来たんですよ!」
「それは、アタシのどの質問に対する答えなの?」
「えっと? ソキがこんな時間に? どうしたの? です?」
 なんで全部疑問形なんだお前は、と半眼で睨みつけたのち、頭を振って、妖精は心の底から息を吐きだした。
「……授業に出にくくて外歩いてたとか、じゃ、ないわね?」
「今日の授業ねえ、全部お休みになっちゃったんですよ」
 ぷぷーっと頬を膨らませて不満いっぱいのソキに、コイツに正しく質問への回答を口にさせる為にはどうすればいいんだったかしら、と笑顔で苛々しながら、妖精は編み籠の持ち手に腰を下ろした。
「ソキ」
「はい。なぁに、リボンちゃん」
 ソキねえリボンちゃんに会えて嬉しいです。とってもですよ、とにこにこ笑うソキに、妖精は静かに問いかけた。
「嫌なことは、ない?」
「うん」
 へにゃ、と笑み崩れて、ソキは頷いた。
「大丈夫ですよ、リボンちゃん。……あ、あのね、リボンちゃんね、知ってるかも知れないですけどね」
「なに?」
「ロゼアちゃんねぇ……ロゼアちゃんねえ、学園にねえ、いたんですよ。今ね、一緒なんですよ」
 その存在を、どれほど。求めていたか、妖精は知っている。ずっとずっと、それを見てきた。その嘆き、その渇望と共に、旅をしてきた。そう、と静かに頷いて、妖精はソキの指先を引き寄せ、抱きしめた。
「よかったわね、ソキ」
「うん。……うん!」
「ところでそのロゼアだけど」
 うん、と幸せそうに笑うソキに、妖精はにっこり、笑い返した。
「アンタまさか一緒に寝たりとかしてないでしょうね?」
「ソキねえ? 学園に来てから一回も一人で寝てないですよ?」
 きょっとーん、と音がしそうな表情で、ものすごく不思議そうに、ソキが首を傾げた。そうかそうか、とごく冷静によしロゼア呪うと思いながら、妖精は笑みを深め、問いを重ねる。
「で、アンタ自分の部屋で寝てるんでしょうね?」
「ソキね? ロゼアちゃんのお部屋で寝ることにしたんですよ?」
 あ、やめた呪うのやめたやっぱりあれだ、事故に見せかけて殺そう、と決意しながら、妖精はふぅんそうなの、と頷いてやった。そして、ソキの髪の毛に手を伸ばし、がっとばかり掴む。ぴっ、と恐怖に声をあげるソキに、妖精はふわり、花のごとくに笑みながら告げる。
「ソキ」
「は、はい……!」
「旅の間、ひとつ、言い忘れたことがあったからいま言うわ」
 分かりましたです聞きますですあの、あの髪の毛から手を離して欲しいなってソキ思うんですあのね引っ張っちゃ嫌ですよ引っ張るの痛いですよっ、とぷるぷるぷるぷる涙目で訴えてくるソキに、にっこり笑みを深めて。がっと力任せに引っ張りながら、妖精は全力で怒鳴った。
「男は狼なのよ気をつけなさい! 射程範囲に入ったら一撃でやるつもりで叩きこみなさい! 容赦はいらないし慈悲なんて抱くなっ!」
「やああぁああん痛いです痛いですううっ!」
「どうしてアンタはそうなの! そう男に対しての警戒心というものがないの……!」
 掴んでいた髪をぺいっとばかり投げ離しながら苛々と叫ぶ妖精に、ソキは涙目で首を傾げた。
「ソキ、男のひとに警戒、ちゃぁんとしますですよ」
「ど、どの口が……! ロゼアと一緒に寝てるとか言ったでしょう! 今!」
「リボンちゃん、なに言ってるです?」
 ソキねえそろそろねえリボンちゃんにひっぱられたところはげちゃいそうな気がするんですよ、とすんすん鼻をすすりながら訴えて、ソキは溜息をつきながら言った。
「ロゼアちゃんは、ロゼアちゃんですよ? 男のひとと、ロゼアちゃんは、違うです。ロゼアちゃんです」
「……あぁん?」
「あのねえ、リボンちゃん。ロゼアちゃんですよ? ロゼアちゃん!」
 ソキは、まるでそれが全ての説明であるかのようにそう言って、自慢げに胸を張った。うん、アンタがなに言ってるのか分からないわ、と頭痛を感じて首を振り、妖精はくたりと編み籠の持ち手に体を伏せ、呻いた。
「……ロゼアって、男じゃ、なかったっけ……?」
「ロゼアちゃんは、男の人ですよ?」
「アンタ自分がなに言ってるか分かってる? 分かってんの? 分かってないでしょ?」
 不穏な空気に、髪を手で押さえてささっと妖精から遠ざかり、ソキは分かってるですよぉ、と頬をふくらませた。それだけで、待てど暮らせど、それ以上の言葉がソキから響く気配は見られない。説明終わり、のようだった。はー、と息を吐きだし、妖精はちらりと視線を持ち上げる。
「ねえ、ソキ」
「なぁに?」
「アンタ、友達とか、親しい先輩とか、できた?」
 とてもではないが、そんな気はしなかった。旅の途中、コイツ健全な交友関係を築くことができるのかと危惧した通りになっている。ソキはそれでも即答はせず、ううん、と難しげに眉を寄せて考え込んだ。てっきり、いないです、ときっぱり告げられるものとばかり思っていた妖精としては、その反応こそが意外である。それだけでも、ほんのすこし、旅の間よりは変わってきている気がした。
「んー……?」
 でも、夢と浪漫部は違うですし、と呟かれたのを聞き咎め、妖精はまだあのろくでもない部存在していたのか、と遠い目になって思う。てっきりストルか、ツフィアが卒業と共に滅ぼして行ったとばかり思っていたのだが。あの二人がとある少女に対してみせた、いっそ清々しく、空恐ろしいまでの執着を考えればあの部が存続していることこそが奇跡である。そういえばストルは、学園に担当教員として来ている筈だった。あとでストルの話も聞きだそうと思いながら待つ妖精に、ソキはんん、と困ったように眉を寄せ、ぽつん、と呟く。
「ソキね? ハリアスちゃんとね、時々ね、おはなし、するんですよ」
「……仲いいの?」
 ううん、と困ったようにソキが首を傾げる。そこがもう、なんだか、よく分からないらしい。仕方ないので根気よく、妖精は付き合ってやることにした。どういう話をするのか。なんで話をするようになったのか。話をしていると楽しいのか。一緒にいると、楽しいのか。ソキは妖精の質問に一々困りながら、お勉強のおはなしです、ソキ覚えてないです、ふわふわしてほにゃんっていう気持ちになるです、と答え、視線を草原の上に落っことして、溜息をついた。
「リボンちゃん……」
「なによ」
「ハリアスちゃん、ソキとおはなし、たのしいかなぁ……」
 聞いてみなさいよ、と妖精は言った。もし駄目だったら呪ってやるから、と告げる妖精に、ソキはふるふる首を振って、だめですよ、と言った。
「ソキねえ、白いお花摘みに来たです」
「……え? 今そういう話してた?」
「リボンちゃん、お花、摘んでいいです?」
 会話を続けたくなかったら、もうなかったことにしちゃえばいいですよ、とぴかぴかの笑顔で言い放つソキを思い浮かべ、妖精は、そうだコイツだいたいそういう馬鹿だった、と溜息をついた。げっそりしながらも、いいわよ、と頷いてやると、ソキは両手をあげて大喜びする。
「よかったですー! ソキ、これで復習ができるですよ!」
「……なんの勉強してんの?」
「予知魔術の、初歩の初歩って、おにいちゃ……ウィッシュ先生は、言ってたです」
 みていてくださいね、と囁き、ソキの手が白い花を一輪摘みあげる。花園に座りこんだ状態でその花を両手で持ち、ソキは祈るように目を伏せた。瑞々しい果実ように、赤いくちびるが息を吸い込む。
「風は、赤」
 ぶわっ、と音を立て、魔力が立ち上るのを妖精は感じ取った。それはソキの体の中から現れ、解き放たれることなく、その周囲に漂っている。きゅ、となにか堪えるように一度引き絞られたくちびるが、弱々しく開いた。
「風の中で蝶が踊る。……ソキの、風は、あか、赤」
 ぐるり、大きく円を描くように揺れた魔力が、ソキの手元、持つ白い花へ吸い寄せられていく。ソキが、ゆっくり、目を開いた。まどろむように優しく、瞬きがされる。
「……赤い蝶が風」
 白い花が一瞬、夕日のように輝かしい赤を帯びる。その花びらが帯びる魔力に耐えきれず、瑞々しく散るのと。花開いたその上に、赤い翅を持つ蝶が具現し、空気にゆらりと溶け消えるのは、ほぼ同時のことだった。ひえた、芳しい匂いで空気を染め上げ、白い花びらは全て散る。宿った赤は透明に明滅し、やがて魔力の名残を宿し、消えてしまった。ふう、とソキは息を吐く。
「これをね、十秒、形にしておくのがソキの、今の課題なんですよ」
「……花じゃなきゃ駄目なの?」
「白いお花じゃなきゃだめなんです」
 他だと色が混じっちゃうんですよ、と呟くソキは、それを経験済みなのだろう。ちょっと大変でした、と報告してくるのに何が起こったのかは詳しく知りたくないと思いつつ、妖精は不思議な気持ちでソキを眺める。誰より早く、それを知っていた筈だった。それでも、思い直す。これは予知魔術師。己の言葉で世界の理を書き換える者。魔力を帯びた花は、ソキの膝の上に降り積もり。甘やかな芳香で、ただ、空気を染めた。

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