お待たせしました授業だよソキ、と満面の笑みで談話室まで迎えに来た担当教官に対し、予知魔術師の少女はにっこり笑顔のままごく冷静に、そんなことよりその腕いっぱいに抱えたお花はどうしたんですか、と問いかけた。のち、おにいちゃんと呼びかけて口をはくはくと動かし、誤魔化すようにこてりと首を傾げてウィッシュ先生、ときちんと呼び直した。そんなソキをめいっぱい甘やかす笑顔で、えへへソキは俺の言うことちゃんと覚えてて偉いなぁっ、と弾んだ声で言い放ち、ウィッシュは踊るような足取りで少女の座るソファの前まで歩み寄り、腕いっぱいに花を抱えたまま、両膝を折って丁寧に座りこんだ。どこか冷えた印象の花の香が、甘く空気を染めていく。
それぞれ微妙に色味の違う、白い花ばかりが抱かれていた。じぃっと花と、ウィッシュを交互に見つめてくるソキに、『花婿』は良い香りだろう、と目を細めて上機嫌に歌う。ことば。囁き、呟きとするより歌じみた、上機嫌なきらめきの声。
「陛下にお願いして、中庭に咲いてたのを切ってきたんだ。白雪の国に咲く花だよ。……なに?」
どうかした、と淡く微笑んで問いかけてくるウィッシュに、ソキは胸の奥深くまで息を吸い込んで、それを留めたままぎこちなく口を開いた。抱いた気持ちは砕けて洗われた川底の砂に、水で冷えた指先でざらりと触れる印象に、とてもよく似ている。
「あのね」
「……うん?」
どしたの、と重ねて問い返し、言葉を促すウィッシュの表情は、先程よりずっとやさしいものだった。教員と生徒ではなく、兄として妹を甘えさせてやっている表情に、ソキはきゅぅ、と難しげに眉を寄せてあのね、とたどたどしく繰り返した。
「この間、ストルせんせいにね、ソキね、好きなことして良いってね、言われたです」
「うん」
「それでね、それでね。ロゼアちゃんにもね、言われてたんですよ」
ああ、俺もおんなじことで悩んだなぁ、とにがく思いながらも、ウィッシュはうん、とソキの前に両膝をついて座りこんだまま、身じろぎもせずに話を聞いてやった。恐らく、ロゼアには上手く話せなかったことを、ようやく聞いてもらえる相手に巡り合えたことで、ソキはすこしばかり感情が高ぶっている。んん、と言葉に迷って、探して手をぎゅっと握り、もどかしそうにしながらも、ソキは泣きだしそうに何度も、何度も目を瞬かせた。落ち着くまで、ウィッシュは言葉をかけずにただ待つことにした。声をかけるより、その手に触れるより、傍に座りこんだまま、離れないでいる。考え込むのは一人きりでもいい。孤独ではないことだけ、分かってくれればそれでいい。
やがて、あのね、とソキが視線をもちあげた。戸惑いに揺れる、碧玉の瞳。生きた宝石。凍った森のいろ。
「ソキは、もう、結婚しなくていいです……」
「うん」
「『花嫁』じゃないソキは、なにを、すれば、いいんですか……?」
うーん、と気楽な様子でウィッシュは首を傾げ、ぱちぱちと瞬きをする。
「まずは、そういうのを考えることかなぁ……。ロゼアは、なんか言ったりしな……しないか、しないな。うん、傍付きだもんね、ロゼア。無理だな。無理っていうか傍付きだもん」
ロゼアが無理っていうより『傍付き』がまずそういうことを言うのが無理、と頷きながら呟いて、ウィッシュはソキを安心させるように笑いかけた。
「で、なんでそんなこと考えちゃったの?」
「考えるのいけないです?」
「俺は、理由を、聞いてんのね?」
いいとか悪いとか、そういうことは言ってないだろ、とごく軽く叱るように言い添えれば、ソキの眉がきゅうぅっと泣きそうに歪められた。純粋に芸術品を観賞するような気持ちで、その表情をも、ウィッシュはかわいいなぁ、と思う。かわいくて、綺麗で、あどけなくて、可憐。そういう風に作られ、そういう風に整えられた。これはそういう生き物だ。そして、己も。そう生まれ、そう育てられ、そう形づくられた。今更、もう、他のものになどなれない。他のものになど。望んでも、望まれても。そのかたちになってしまった。
「……だって」
だから本当は、ウィッシュは、ソキの答えを知っていた。なにを見てそう思ったか。なにを、そう感じたのか。
「だってね」
凍りついた、森の。瞳が、まっすぐ、ウィッシュを見る。
「おにいちゃんは、いまでも、綺麗です……?」
完成された『花婿』。時を経て魔術師となっても、目で感じる印象がまったくぶれていないのだろう。屋敷から姿を消した時と、今と。見た目や、仕草も大きいだろう。ウィッシュはいまでも同年代の同性と比べれば粗野な動きはしないし、できないし、話口調も派手に荒れたり、崩れたりはしていない。青年の、柘榴石の瞳がわずかばかり伏せられ、ふわり、風を抱く動きで持ち上げられた。そうだね、と声が響く。『花婿』の。決してひび割れず、強固なまでに完成しきった、歌のように響く声が囁いて行く。
「そういう所は、根本的に、俺は『花婿』のままだよ……。俺が『花婿』じゃないって言ったのはね、ソキ。そういうことじゃなくて……結婚しなくていいとか、それはそうなんだけど。そういうことだけじゃなくて、立場、とか……ううん、なんて言えばいいのかな」
言葉にするのは難しいんだけど、と息を吐き、ウィッシュは抱く白い花に視線を落とした。
「なにかしていいんだよって、皆そういう優しい言い方しかしないけど。自分で、全部、しなきゃいけないんだよ、ソキ。分かる? ……自分で、考えて、自分で、決めて、そうしていかなきゃ、いけない。もちろん、悩んだり相談したりしていいんだけど。全部ひとりでって、そういうことじゃないんだけどさ。俺たちになかった自由で、俺たちが、今もらうことになった自由っていうのは、そういうことなんだよ。考えること……ああ、そっか、うん。こういえば分かるかな。あのね、ソキ、俺たちはもう『花婿』じゃないし、『花嫁』じゃないから、自分で考えた、それを正解にして動いていいんだよ。それを誰も怒ったりしない。悪いとか言われない。なぜなら、それは怒ることでも、悪いことでもないから。ふつう、なんだよ。普通」
「……ふつう?」
「そう。普通。俺はそこが普通にな……ろうとして、わりとすごく頑張ったので、たぶんいまちゃんと普通くらいなんだけど、そう思いたいんだけど。えっとそれはともかくとして、えっと……ソキが、『花嫁』じゃなくなるっていうのは、外見的な問題とは全然別のトコにあるので、うん。ソキは、たぶん、よっぽどのことがない限り、見かけと印象はこのまんまだよ。俺が昔から、今まで、今も、こういう感じであるようにね」
並大抵じゃない努力で作りあげられてしまったものだから、今更、俺とかソキの個人の努力でどうにかなるものではないよ、と言ってのけたウイッシュに、はじめて、ソキが安堵の息を吐く。ふにゃん、と体から力を抜いてもたれかかってくるのを、花束ごしに指先で撫でて、ウィッシュは喉を震わせて笑った。
「焦んなくていいよ、大丈夫。ゆっくり、色々考えて、悩んで、分かんなくなったらこうやって聞かせてな。一緒に考えるのは悪いことじゃないよ。どうしたらいい? って聞いて、どうすればいいよって教えて貰うだけが、相談じゃないよ。どうしたいの? って聞き返されたら、ソキが思ってること、考えてること、言って、一緒に考えてもらってもいいんだよ。答えられたことを全部飲みこまなくて、そこから、また、じゃあどうしようって考えていいんだよ。大丈夫。いっぱい、いっぱい考えな。考えるのは……特に、予知魔術師であるなら、絶対に必要なことなんだから」
「どうしてです?」
「それは、もうちょっと授業が進んだらな。さ、行くよ、ソキ」
図書館行って授業しような、と促され、ソキはこくりと頷いてソファから立ち上がった。床に足をつけ、よいしょと立ち上がっても、すこしふらつくだけでソキはもうすぐに歩き出すことができる。成長してるなぁ、と雛鳥を見守る親そっくりの眼差しで目を細め、ウィッシュはゆったりとした仕草で立ち上がった。そうして、てくてく、てちてち、どこか物慣れない仕草で一生懸命歩いて行くソキの後ろを追いかけ、のんびりと問いかける。
「そういえばソキさあ、学園生活どんな感じ? 楽しい? お友達とかできた?」
お友達っていうのはロゼア以外で、とウィッシュは最初から言わなかった。言わなくても、ソキはロゼアのことをそういう風に感じたことはないだろう。ロゼアは傍付きで、そして今であっても、ソキの中ではそういう認識である筈だった。ウィッシュがロゼアを見てそう思う以上、『同族』であるソキがそれを間違える筈もない。足元に注意して歩きながら、ソキがウィッシュの問いに、ごく普通に口を開いた。
「ソキねえ、おともだちいないんですよ」
なにも気にしていない、なにも感じていない。それは物の名前を聞かれ、知っているものだから教えてあげた、そんな答え方だった。予想と寸分違わぬ答えであったので、ウィッシュもまたそれを問題視することなく、そっかぁ、としみじみ頷いた。
「ナリアンとメーシャだっけ? あれは? おともだち?」
てく、と一歩踏み出して、立ち止まって。振り返ったソキは、ウィッシュをぱたぱたと手招いた。ん、としゃがみこんでやった耳元に、ソキは手で筒をつくってこっそりと告げる。
「……ナリアンくんと、メーシャくんはねぇ。ロゼアちゃん、とらないひとなんですよ。怖くないです。ソキねえ、ナリアンくんも、メーシャくんも、とっても好きですよ」
おともだちとは、言わなかった。たぶん、それがどういうものであるかすら、ソキには分かっていないのだろう。だからそれが、せいいっぱいの、答えだ。うん、と頷いて、ウィッシュはソキに微笑んでやった。いつか、きっと、もう遠くない日に。それが分かる日も来るだろう。かつてのウィッシュがそうであったように。だから、今はそれでいい。怖くないのは、よかったな、と言うと、ソキは嬉しそうに笑い、こくん、と一度、頷いた。
傍付きをとらないひと、というのは、実際のところ『花嫁』から他者に下される評価としては最高に近いものである。それを理解できるのは同じ『花嫁』か『花婿』、あるいは彼らの内心に精通しきった傍付きだけだろうが、当然のことながら、ナリアンもメーシャもそれに含まれていなかった。つまり、おともだちじゃない、という評価がその二人を傷つけるかも知れない可能性、というものにウィッシュは気がついていたので、ソキにそれとなく言い含めておいた。そういうのはあんまり口に出すもんじゃないよ。柔らかな歌のような声は、くどくどと言い聞かせられるよりずっと耳の奥に響き、ソキの意識に刻まれて行く。
俺たちの基準や俺たちの考えは、あくまでその中でだけ通用するものであって、普通の感覚が多い『学園』ではたくさんの誤解を招いてしまうものだからね、と告げられて、ソキは素直にそれを受け入れながらも、首を傾げて問いかけた。
「ロゼアちゃんにいうのも、だめです? ロゼアちゃん、ふつう?」
「……う、うー……ん?」
授業の終わり。瑞々しいままに花びらを散らした白い花の残骸をかき集め、つめたい香りを吸い込みながらウィッシュは難しげに眉を寄せた。
「俺にはまだちょっと判断してあげられない……けど、言わない方がいいかなぁ」
「ロゼアちゃんにも?」
答えが、ソキにはちょっと不満だったらしい。唇をとがらせ、ロゼアちゃんですよっ、だってロゼアちゃんですよ、としきりに訴えてくるのにそれは分かるんだけどさぁと頷いて、ウィッシュは花びらをぱらぱらと用意しておいた布袋の中へ詰め込んだ。ちょうど、少女の枕ほどの大きさの袋の口を紐で縛り、ウィッシュは視線を彷徨わせて言葉を探す。
「ええと……ほら、ソキにおともだち居ないって知ったら、ロゼアは心配すると思うし」
「ソキねえ、ロゼアちゃんにないしょないしょすることにしました!」
絶対に言うものか。絶対にだ。断固としてだ、と宝石色の瞳が瞬間的に決意していた。握りこぶしで力いっぱい宣言するソキに、ウィッシュはうんうん、そうしような、それがいいよな、と適当な頷きとあいづちで対応し、にっこりと笑って花びらをつめた布袋を差し出した。
「心配かけたくないもんなー?」
「ん、んっ。ソキねえ、ソキねえ、おともだちいないの、ロゼアちゃんにないしょなんです」
こくこく、一生懸命頷きながら、だから先生も言っちゃだめなんですよ、と訴えてくるソキに、ウィッシュはふぁ、と気のないあくびを返事の代わりにした。もすん、と布袋をソキの胸に押し付けて、ウィッシュはぱちぱちと瞬きをする。
「んん……講師室で仮眠していこうかな……いやでも今寝たら朝まで起きれないから、寮長に起こしてって頼んでからにしようかな……。そうだ、次の授業は三日後な。それまで、どっか適当にそのへんに咲いてるお花摘んで復習しておいて。白っぽいお花な。妖精の花園と森の境界付近に白いお花いっぱい咲いてるから、それ摘んでくるといいよ。まあ、なければ何色でもいいけど」
「先生は、なんで寮長、好きなんです?」
「ソキは、なんで寮長、苦手なんだろうな? あと、俺のいうこと聞いてた?」
花びらのいっぱい詰まった袋を両手で抱えて受け取って、ソキはほにゃりとした声で、はぁい、と返事をした。茎から落ちた花びらは瑞々しいきれいな香りがして、ソキの気持ちを和ませてくれる。おふとんに撒いて寝るですよー、とうきうきするソキに、ウィッシュはすこし考えた後、大丈夫だと思うけどさあ、と布袋を眺めた。
「魔力にも相性あるから、おふとんに撒くのはいいけど、ロゼアの気分が悪くなったりしたら回収しなね」
「はーい」
「相性が合えば、疲労回復にも役立つから。手を出してもらって、花びら一枚置いて、熱かったり、痛かったり、気持ち悪かったりしなければ大丈夫。平気そうな相手には、ポプリみたいにして渡してあげるといいよ。しばらく、授業で花びら出るからさ」
はぁい、と話を聞いているのか聞いていないのか、どちらとも取れるほにゃほにゃした返事を響かせて、ソキは図書室の奥まった部屋から外へ出た。本棚の間をすり抜けるようにして歩き、階段を下りた所でウィッシュと別れる。途中で一回座り込んで休んだのち、ソキはどきどきそわそわしながら図書館の外へ出た。夕刻の、光に暖められたぬるい風が顔に吹きつけて来たので、ソキはぷるぷると頭をふり、もう、と頬を膨らませて一歩を踏み出した。視線は、自然と道の端、木のベンチへと向かう。
「あ!」
そこに、ひとりの少女が腰かけ、本を読んでいた。ソキの嬉しそうな声に顔をあげた少女は、はにかむように、そぅっと眼鏡の奥の瞳を和ませ、微笑みを浮かべる。ソキは、てててっ、と気持ち早足でかけよりながら、ぎゅうぅっと布袋を抱く腕に力を込めた。
「ハリアス先輩、です! ハリアス先輩、こんにちは!」
「こんにちは、ソキちゃん。……授業の、帰り?」
「はい。ロゼアちゃんのお迎えに行くんですよ!」
にこにこご満悦の様子で言うソキに、ハリアスはなぜか、ああきっとこの少女は誰かと出かけてはぐれて、そのことに気がついても相手が迷子になっちゃったと大慌てしてオロオロして、自分が迷子になったのだという事実やら可能性を欠片も考えたりしないんだろうな、という予感めいたものを感じたが、それを口に出しはしなかった。前向きなのは悪いことではない。うん、とひとつ頷き、ハリアスはうずうず、そわそわした様子で己と、ベンチの空いた空間を見比べているソキに声をかけた。
「……座る?」
ぽんぽん、と隣を手で叩きながら尋ねれば、ソキは満面の笑みでこくこく、何度も頷いた。ちょこっと腰かけたソキは、そのまま期待に輝く目でハリアスを見つめてくる。
「ハリアス先輩。にゃんこちゃん見ましたです?」
「……本を、読んでいたから」
「なんの本ですか?」
問いかけたソキに、ハリアスはややためらうそぶりを見せたのち、手に持っていた本の表紙をみせてくれた。題名だけでそれと決められる訳ではないが、物語ではないようだった。なんの本です、と再度首を傾げたソキに、ハリアスは溜息に乗せる、ちいさな囁き声で言う。
「白魔術の……勉強の、本よ」
「ハリアス先輩、お勉強好きなんです?」
座学を終えた午後。日当たりと風の気持ちいい場所を選んでそういう本を読んでいる理由が、ソキには他に思い浮かばなかった。唇をきゅっと閉ざし、無言で頷くハリアスに、ソキはそうなんですか、とこころもち弾んだ声で頷く。
「ソキもねえ、お勉強好きなんですよ!」
「……え?」
「いっぱいお勉強したいんです。ソキも、予知魔術の本を探すことにします」
あっ、でもその前にお花の本です、忘れてましたっ、と残念そうに呟き、ソキはせわしなく足をぱたつかせた。
「白いね、お花なんですよ。白いお花が一番なんです……あ、ソキ、ロゼアちゃんを迎えに行かなきゃいけないんでした!」
まとまりのないソキのおしゃべりは、慣れない人間にはいっそ理解不可能の域に突入するものである。どう声をかけたらいいものか、迷いあぐねる表情で沈黙するハリアスの視線の先で、ソキはよいしょとベンチから立ち上がって、持っていた布袋の中へ手を入れた。
「ハリアス先輩、て、出してくださいです」
「……手? こう?」
「はい。ソキねえ、授業がんばったんですよー」
言いながら、ソキは白いはなびらを一枚、差し出された少女の手の中へ舞い落とした。ふうわり、風を抱く動きで落ちてきたはなびらに、ハリアスの指がぎこちなく曲がり、包み込む。眩しげに細めた瞳で花びらをじっと見つめながら、思わず、という風にハリアスが呟く。
「あったかい……」
「ふふ。ハリアス先輩、元気になぁれ、なんですよ」
もさっとひとつかみ、さらに花びらを布袋から掴みだして、ソキはそれをハリアスの両てのひらにぱらぱらと落とした。これはなに、とハリアスが問いかけようとするより早く、ソキはぱっと身を翻し、本人曰くロゼアの迎えへ行こうとしている。立ち去る、その背を呼びとめかけて。ハリアスは両手を閉じるように花びらをやさしく抱き、きゅ、と眉間に力を込めて息を吸った。
「……ソキちゃん!」
道の先へ。歩いて行こうとしていたソキが、不思議そうに振り返る。その場で立ち止まり、ちょこ、と首を傾げる姿に、さらに息を吸い込んだ。
「せ……先輩、なんて、硬い呼び方、しないで……いいですよ」
しおしおと、力を無くして行った言葉がソキまでちゃんと届いたのか、ハリアスには分からなかった。細かく震える指に力を込めた瞬間、わかりましたっ、となぜかやたらと自信に満ちた、したったらずな甘い声がほわりと響く。
「ハリアスちゃんです!」
「……ソキちゃん」
「ハリアスちゃん、またソキとおはなししてくださいね!」
ばいばいまたね、とばかり手を振って、また一生懸命歩いて行くソキの背を見送ってから、ハリアスはそっと目を伏せて手の花びらを見つめた。きよらかな芳香を、胸一杯に吸い込む。おはなし、しようね、とゆっくり呟いた言葉は、ハリアスが思うよりずっと、優しく世界へ響いて行った。
なんとなく機嫌良さそうな顔でごろごろと甘えてくるソキに、ロゼアはさてなにがあったのだろう、と首を傾げた。実技授業が上手く行ったらしきことは、珍しく進んで食べた夕食の時に聞いたのだが、どうもそれだけではない気がする。まだ生乾きの髪を布で拭って乾かしてやりながら、ロゼアはソキ、と少女の名を呼んだ。あざやかに輝く碧の瞳が、喜びをきらきらと灯してロゼアを映しだす。
「ロゼアちゃん」
うれしい。だいすき。しあわせ。そんな気持ちがとろとろに溶け込んだ声で、ソキはふわふわに笑った。
「なんですか?」
「なんかいいこと、あった?」
うふふ、と口元に両手をあてて笑うソキの声が、灯りを落とした部屋の中、響いて行く。
「ナリアンくんも、メーシャくんも、ロゼアちゃんも、お花、あったかいって言ってくれたです」
「ああ、ソキの持って来た、白い?」
二人が座りこむ寝台の上にも、その白い花は撒かれていた。ひやりとした、嗅いだことのない心地良い甘い匂いが、ほわりと包み込むような暖かさと共に漂ってくる。熱とは、違う。触れる魔力の温かみだった。幾度となく繰り返した問いを、もう一度、ロゼアは繰り返す。
「ソキ。この花、なんなんだ?」
「白雪の、お庭の、お花なんですよ。これからしばらくねぇ、授業が終わるとこうなるんですよ」
なるほど。ちっとも分からない。浮かぶ力ない笑みをそのままに頷き、ロゼアはぽんぽん、とソキの頭を手で撫でた。その腕にじゃれつくように手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめて、ソキはおおきくあくびをする。
「ふぁ……あのね、あのね、ロゼアちゃん」
「んー?」
ぽん、ぽん。眠りを促すように背を撫でながら問うロゼアに、ソキはうとうとと瞼を下ろしながら囁いた。言葉にならず、響かず、すぐ寝息になってしまったその声に。笑って、ロゼアはソキの髪に手を差し入れ、指先でするり、一房を撫でた。花の温かさがほんの一瞬、胸に焦げ付くような痛みを。意識を書き換えるような眩暈を起こさせたことは、きっと、気のせいなのだと。そうひとりごちで、ロゼアもまた眠たげにあくびをしたのち、くゆる灯りを吹き消した。
ソキの魔力は、ロゼアによく馴染んだ。まるでその為にあつらえたもののように。恐ろしいほどになんの抵抗もなく、染み込んで、溶けた。