病を宿す病床の匂いはなく、ソキから漂ってくるのはどこか清涼な、薬草園の花の香だった。ソキ自身も、なんとなく分かるのだろう。強い匂いではないのだが、手首を鼻の近くに持って行ってすん、と嗅いでは、不思議そうに首を傾げて瞬きをしている。ちょい、と服を摘んで同じようにして、また首を傾げているところを見ると、服に焚き染められたものではないらしい。ちょうど朝食を選び、木盆に乗せて戻ってきたロゼアに、ソキはまだあまり本調子ではないと分かる、普段の三割増しでほわほわした響きの声をかけた。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん」
「ん? はい、ソキのヨーグルト」
甘みのつけられていないとろとろのヨーグルトに、ちいさく刻まれた果物が数種類混ぜられたそれは、朝食に出るものの中でもソキのとっておきのお気に入りだ。よく噛んでゆっくり食べるんだぞ、と言い聞かせるロゼアにこくこく無心に頷き、木の匙でひとくちぶん、口に入れたところでソキはそれを思い出した。小動物的な動きで一生懸命噛んで飲みこみ、ソキはもう、と視線をヨーグルトからロゼアへ移動させた。
「あのね、ロゼアちゃん」
「うん。もうすこし食べられそうなら、他にもなにか持ってくるな。でも、無理はしなくていいから」
「んんー……」
ソキはちらりとヨーグルトの入った器を眺め、むずかしげに眉を寄せて考え込んだ。ちょうど、ロゼアの両手を器の形に合わせたのと同じくらいの大きさの木のボウルに、ヨーグルトは半分くらいよそわれている。混ぜ込まれた角切りの果物の量は多く、全体の三割か、四割くらいにはなるだろう。ソキはまたひとくちぶん、それを口に運んでもぐもぐとあごを動かし、飲みこんでから息を吐いた。
「……のこしたら、ろぜあちゃん、おこる?」
「怒らないよ。食べられそうにないか?」
「んー、んぅー……ソキねえ、ちょっと、がんばるです」
ちまちま、ちまちま、ヨーグルトを口へ運んで行くソキを見守り、ロゼアは穏やかな表情でうん、と頷いた。三分の一くらいを問題なく食べ進めたところで、ソキはまたそれを思い出し、はっとした様子で隣の椅子に座るロゼアを見上げた。そこで、ソキはびっくりして目を見開き、息を飲む。
「ロゼアちゃん……ごはん、たべてるです……!」
それは、ソキにとってものすごく珍しい光景のひとつだった。傍付きは基本的に、『花嫁』と食事を共にすることがない。同じ席にはつくが、ソキが食べている間、ロゼアが口にするのはごく軽くつまめる炒った木の実や飲み物などで、食事、と表現するには至らないものばかりだ。屋敷にいた頃、何度か、ものすごくだだをこねて一緒に食事をしてもらったことがあるのだが、学園に来てからロゼアが食事らしい食事を、ソキと同じ時間に行っているのは、記憶にある限りはじめてのことだった。それは、ソキが食べ終わってからか、時間が無くなった為に食べている途中からに目にすることができるものだった。へにゃん、と力の抜け切った幸せそうな笑みで喜ぶソキの隣で、ロゼアはなぜか、顔をあからめて額に手を押し当てている。ふふふ、と笑って、ソキはロゼアに笑顔を向けた。
「おいしいです? ロゼアちゃん」
「……ソキ」
珍しくも困り切った様子で名を呼んで来るロゼアに、ソキは上機嫌な、とろけるような笑みのままでちょこん、と首を傾げた。
「ロゼアちゃんが、やじゃなかったら……もう一緒にごはんたべるので、ソキはいいと思うです。ね?」
その、ね、は駄目かどうかを伺うというより、拒否権なしのおねだりに等しいものだった。ね、ね、と同意を促してくるソキにロゼアはぎこちない動きで頷き、正面に座るメーシャとナリアンに、なぜか恨めしそうな目を向けた。うふふソキちゃん喜んじゃってかわいいなあ、とうっとりした目で見守っているナリアンに、声をかけにくかったのだろう。メーシャ、と幾分低くなった声で、悔しげにロゼアは呟く。
「メーシャが、あんまり美味しそうに食べてるから、つられただろ……!」
「ごめんな?」
ちっともそんな風に思っていないさわやかな笑顔を浮かべ、メーシャは不思議そうに目を瞬かせた。
「でも、一緒にご飯食べるくらいで。なにも恥ずかしがることないじゃないか」
「恥ずかしがってる訳じゃないんだよ……!」
上手く説明できないらしい。もどかしげな様子で言葉を探すロゼアの隣で、半分くらい食事に飽きている顔つきで、ソキがヨーグルトをあむあむしている。こくん、と飲みこんでから、ソキはあれ、と言わんばかりの顔つきで目を瞬かせた。なにか忘れている、ということを思い出したらしい。器から手を離して考え込むソキの食事量を心配する表情で、ロゼアは潜めた声で、メーシャへ告げた。
「……俺たちは、『宝石』と一緒には、食事しないんだ」
考えながらも、とりあえず食べてしまうことにしたのだろう。あーん、とヨーグルトを口に運んでもぐもぐしているソキを眩しげに目を細めて見つめ、ロゼアはそっと息を吐く。ソキが眉をきゅぅっとゆがめているのは食事に飽きたからではなく、忘れたことを上手く思い出せないでいるからだろうな、と思った。
『ね、ロゼア』
ソキと一緒に食事をすること、に対して難しく考え込み、落ち込みかけるロゼアの意識を揺らしたのは、やんわりと響くナリアンの意志だった。ほんのすこし前に、照れくさそうにロゼアの名から『くん』という呼称を取り払ったナリアンが、もうそれにも慣れた様子で、ロゼアの名を奏であげる。それは笑いを堪えているような、花が咲き綻んだのをそっと耳打ちするような、優しく穏やかな響きだった。
『俺は、ロゼアが一緒に食べてあげた方が、ソキちゃんもご飯を頑張ると思うな』
「……根拠は」
『ないよ』
にっこり笑う、その表情がでもロゼアだってそう思うでしょう、と問いかけていた。それでもまだ納得できない様子のロゼアから視線を外し、メーシャは考え込みながらもヨーグルトを頬張っているソキを見つめ、心から安堵した様子で囁いた。
「元気になって、よかった……」
「……あ!」
周囲の会話というものをこれっぽっちも聞いていなかった態度で、ソキは慌てた様子で声をあげ、ロゼアを見る。
「ロゼアちゃん! ソキねえ、なんかいい匂いしますですよ?」
どうしても聞きたかったことはそれであるらしい。ロゼアちゃんに聞けば分かる気がするです、とばかり向けられてくる視線を重ね、微笑んで、ロゼアはごく当たり前のことを告げるように言った。
「うん、ソキはいつもいい匂いしてるよ?」
「あのですね、そういうんじゃなくてですね……?」
「ああ、これ、祝福だな」
いつの間にかソキの背後に立っていた寮長が、すん、と鼻を鳴らしてからきっぱりと言い放った。
「妖精の祝福。寝込んでる間に案内妖精がお見舞いにでも来たんだろ」
「えっ、えっ! ソキ、ソキ、リボンちゃんに会ってない……やあぁんっ、リボンちゃんはどうしてソキを起こしてくれなかったですかーっ! リボンちゃんいじわるぅ……ソキ、ぱちんってしないように気をつけますですよ……怒られたから、ぱちん、しないですよ」
「……ぱちん?」
しょげかえるソキに寮長が訝しげに問うが、ソキは同じ単語を繰り返してみせるだけで、それがなんであるか説明することはなかった。しょんぼりしたままヨーグルト攻略へ戻って行く様を眺めたおしたのち、まあ起き上がれるようになったらいいか、と思ったのだろう。寮長はそろそろどこかへ行ってくれないかなぁ具体的に言うと一次元くらい上か下に、という顔つきで嫌がっているナリアンに極上の笑みを浮かべ、唐突に用件を切り出した。
「明日、特別授業がある。その前に座学教員から説明があるし、今日中に担当教員からもなにかしらの説明があるだろうが、その前に俺からひとつ、お前たちに聞いておかなければいけないことがある」
黙っていれば精悍な顔立ちを珍しく凛々しく引き締め、問いが返るよりはやく、寮長は告げた。
「遊ぶ金は、あるか?」
「……はい?」
「なかったらお小遣いがあるから、今日の夜までに俺に言いにくるように。ああ、勘違いするなよ? 俺からじゃない」
星降の陛下からだ、と告げられて、新入生四人は揃って顔を見合わせた。なんだかはしゃぎたおす星降の国王の姿が頭をよぎった気がする。ちなみに遠慮すると泣くからな、俺じゃなくて陛下が、と言い添えて、寮長は足早に立ち去って行く。なにやら今日から、明日の準備をしなければならず、色々と忙しいらしい。食堂の出入り口付近で振り返った寮長が、今日の夜までだからなー、ともう一度叫ぶようにして告げ、手を振ってからいなくなった。
談話室に来るなり一直線にソキの元へ向かい、膝の上に抱きあげてぎゅうぎゅうに抱き締め、髪に顔を埋めてほやんほやんした声で、あっほんとだソキいいにおいするーよかったなー、とほんわかした笑顔で告げたウィッシュにコイツ自分が担当教員だって忘れてんじゃねーのそれはただの妹溺愛する兄の態度だろ正気に戻れ、という視線が集中したのもつかの間のことだった。やぁん、とむずがるような声をあげたソキがぺちぺちとウィッシュの頭を叩き、頬を膨らませて抗議しだしたからだ。
「やです、やぁですよ! ソキを抱っこしていいのはロゼアちゃんだけです! あとすんすんしちゃや、で、す!」
見守る視線が、真っ先に抗議するのがそこでいいのか、というものに色を変える中、ウィッシュはのんびりとした態度で抱きしめていた腕を解き、慈しみ溢れる手つきでソキの頭を何度も撫でた。
「はいはい、ごめんなー」
よいしょ、と言いながら膝の上からソキを降ろしてソファに座り直させ、ウィッシュはその前にしゃがみこんでにっこりと笑う。
「ソキ、熱が下がったんだって? よかったなー」
「……お熱さげるの、時間かかってしまったですよ」
悔しそうにくちびるを尖らせて言うソキに、ウィッシュはそうだな、と静かに頷いてやった。
「それでいいんだよ、ソキ。これからは、そうしような。魔術使わないで、自分のちからで、元気になるんだよ」
「ソキ、うんと時間かかってしまうですよ……すごく、時間がかかるのは、だめ。だめです」
泣きそうに顔を歪めて首を振るソキは、それでいて、ロゼアの『お願い』を無視してしまうことができないらしい。どうすればいいのか分からない風に握り締められる手を指の腹で撫でてやりながら、ウィッシュは根気よく、言葉を重ねて行く。いいんだよ、大丈夫。囁きながらウィッシュは、ロゼアにはこれ分からないだろうなぁ、と残念に思った。それとも、分かる日が来るのだろうか。
「……元気になるのに時間かかっても、もう誰もソキをできそこないなんて言わないよ。ロゼアを責めたり、しないよ」
恐らく、ウィッシュはこの世界で唯一、ソキの恒常魔術が発動した理由を知っている魔術師だった。その瞬間を目にしていた訳ではない。けれど、ウィッシュが『婿へ行く』より前に、たびたび在ったことだ。ソキは体の弱いこどもだった。弱く生まれついてしまう、そう育てられ完成してしまう『花嫁』『花婿』たちの中でも群を抜いて脆かった。ほんの少しの変化で熱を出し、寝台から起き上がれなくなる。精神の不調が食事にも直結し、吐いて、受け入れられなくなることも多かった。ソキが見捨てられずに養育されたのは、ひとえに家の直系であったことと、そうするには惜しい程、外見が整っていたからだ。それはあまりに『花嫁』としての価値が高すぎた。それ故、心ない言葉を囁かれることも、少なくはなかった。ソキが普段から、人の話をきちんと受け止めて聞かないのは、半分くらいがそのせいである。
それは流れて行く音として処理される。高い音、低い音、怖い音、辛い音、痛い音。雑音。耳を塞ぐこともできない疲弊の中、寝台にただ伏せながら、ソキが一心に願っていたことを知っている。熱に掠れた声で、幼い声が囁いた言葉を、ウィッシュはいまも覚えている。
『はやく、はやく、げんきにならなくちゃいけないです。そうしないと、また、ろぜあちゃんが、おこられちゃう……』
「いまのソキは、魔術師の卵なんだからさ。……『花嫁』じゃなくて、魔術師になるんだよ、ソキ。一人前の、魔術師に。だから、時間がかかっても、ゆっくりでも……できそこないでも、それでもいいんだ。ソキがそうであることに、誰もロゼアを怒ったり、叱ったりしないよ。ソキの問題は、ソキの問題。ロゼアは関係ないからね。……だいじょうぶ、関係ないんだよ。皆、ちゃんと、それを分かってくれるよ。それが、ふつう、だからね。俺の言ってること、わかる?」
ちゃんと聞いてる、と遠回しに確認する言葉に、ソキはくちびるを歯で噛みながら、こくん、と一度だけ頷いた。よし、と満足げに笑い、ウィッシュは立ち上がる。
「じゃあ、魔術師の卵のソキに、担当教員の俺からお知らせです!」
「……あれ? せんせい、なにしに来たですか? 授業?」
「授業はもう一週間くらいお休みするよ。ゆっくり行こうな」
授業しても大丈夫かなぁってくらいの体調になったらまたするよ、と微笑まれ、ソキは不満げにくちびるを尖らせた。寝込んだ分、いろんな授業に置いて行かれてしまっているのに。ソキおべんきょうしたいですー、と抗議の声は、ご機嫌なウィッシュの笑顔のもと、完璧に黙殺された。踊るようにその場でくるりと回り、ローブの裾を鮮やかに広げながら、ウィッシュは歌うように囁いた。
「お祭りだよ、ソキ。流星の夜が来るよ!」
「……りゅうせいのよる?」
「うん。それで、天体観測の日だよ、明日。星の見方は、明日専門の先生が教えてくれるから、楽しみにしてなね。色々くれるよ。星座盤とか、スケッチブックとか。特別授業でね、星を書かないといけないから」
ソキはだいたい人の話を聞かないが、ウィッシュはじつに分かりやすい説明ができない。あ、この二人兄妹だ、確実に絶対にそうなんだ、という周囲からの白んだ視線を受け、それを全く気にしていない様子で、ソキが不思議そうに目を瞬かせる。
「ソキ、星の見方を、教わってもいいですか?」
「うん。もちろん。教わっておいで、魔術師の卵さん」
たくさんのことを。教わることすら禁じられていた、たくさん、たくさんのことを。知っておいで。お前はもう魔術師、その卵なんだから、と笑って、ウィッシュはソキに手を伸ばした。頬に触れた手に集中して、悟られぬよう、魔力の安定具合を測る。それは、眠りにつく湖面のようだった。安定して、凪いでいて、荒れることも、揺れることもない。安堵の息を吐きだして、ウィッシュは笑う。
「それで、当日は星降の城下町とか、中間区でもなないろ小路とか、寮の近くにまで屋台が出たりするから。お金用意しておくと色々買えるし、遊べるし、楽しいよ。お金なかったら、ここぞとばかり星降の陛下がお小遣いくれると思うけど……」
「ソキ、自分の、あるですよ!」
「だよな。……結局、口座、どうしたの? もらっちゃったの?」
ソキが『花嫁』として嫁いだのち、砂漠の国へ所有権が変わる筈だった銀行口座は、まだ開かれたままである。薄々察しながらも問いかけた担当教員に、ソキはややうんざりとした様子で頷き、お兄様が、とどんよりした声で首を振った。
「『安心しろ。お前はさんざんふんだくったから、半分くらい残しておいてもどういうことはない。好きに使え』って、いう、です、よ……お兄様のがめつさにはびっくりです。いろいろ、あるたび、ものすごくふっかけてお金もらってたのはソキだって知ってました。しってましたけど……! 半分ですよ、半分です! な、なんで半分もソキにくれちゃうですか? ちょっと意味がわからないですよ……」
「……もう半分は?」
「ちゃんと砂漠の国に、あげたそうです……。それで、ふつうの、『花嫁』分くらいには、なるそうです……」
あと二年でどれだけ蓄えこむつもりだったですか、と信じられないと言いたげに灰色の声で呟くソキに、ウィッシュはこみあげる笑いを殺しきれなかった。それはそのまま、家を継いだ弟の、ソキに対する執着を物語る。本当に手放したくなかったのだろう。十五になるまで。ソキの年齢が、『花嫁』として国に留まっているのを、許されなくなるまで。たったひとり、残った妹を。精一杯慈しんで、守りたかったのだろう。不器用な彼なりに。アイツさびしがりやだからなぁ、と笑うウィッシュに信じられないものを見る顔つきで、ソキはふるふると首を振った。
「おにいちゃん、誰の話をしているですか……? お、お兄様ですよ? レロクお兄様ですよ?」
「うん、俺もレロクの話してるよ。それでな、ソキ。おにいちゃんじゃなくて?」
「せんせい、ちょっと、間違えていると思うですよ。大惨事くらいの大間違いですよ!」
必死に告げるソキにそうかなぁと首を傾げると、力強く頷かれた。いつにない強さだった。口に手をあてて笑いを堪えながら、ウィッシュはうろうろと視線を彷徨わせ、吹き出してしまわないように堪える。それでもどうしても堪え切れなくて肩を震わせて笑いながら、ウィッシュはなぜか泣きたいような懐かしい気持ちで、屋敷に居た時のことを思い出した。おぼろげな記憶の中、鮮やかに輝く光のように、たったひとりを忘れることが出来ないでいる。息を吸い込んだ。無意識に、その名を囁く。
「……フィア」
夕闇に輝きだした星を仰ぎ見るような気持ちで、呼びかけた。返事がないことに、安堵して。ふわりと笑む横顔を、ソキだけがじっと見つめていた。
学園へ続く『扉』をくぐって戻ってきたウィッシュを出迎えたのは、おかえりなさい、と告げるきよらかな声の響きだった。水の流れのように清く、風の音のようにどこまでも響いて行くような、綺麗な、声。思わず即座に姿勢を正して視線を向けた先、立っていたのはやはり、白雪の女王、そのひとだった。冷えた月光をそのまま宿したような青銀の髪は長く、腰辺りで一直線に切り揃えられていて、今日も結いあげられる気配は見られない。年齢はそろそろ三十に差し掛かるが、どことなく少女めいた、あどけなく無垢な印象の消えない女性だった。長い睫毛がしっとりとした影を落とす瞳は紫水晶のそれで、その肌は雪のように白い。ソキやウィッシュが持つのが整えられた人形めいたうつくしさであるなら、女性から感じるのは自然の中に存在するそれであった。真夜中の雪原に落ちる、一筋の月明かり。その印象を宿す、白雪の女王。
膝をついて一礼しようとするウィッシュを手を払う仕草でとめて、白雪の女王は、なぜか楽しそうに笑った。
「学園に行っていたのでしょう? ウィッシュ」
「はい、陛下。ソキの熱が下がったって聞いて……あとは、明日の、天体観測の説明を。担当教員なので」
早口でしどろもどろ告げて行くウィッシュに、白雪の女王はふふふ、と笑みを深くする。
「私は別に、あなたが何処へ行ってなにをしようと、咎める気はないわ。自由になさい、私の魔術師。ただ、その……問題を起こしたりしなければの、話では、あるのだけれど。ええ、そう、たとえば、スカートめくったりとか、お相手の同意なく胸をもむだとか、そういう、そういう……!」
半分くらい泣いている声で告げられた言葉に、ウィッシュはなぜ、なにもない廊下に己の主君がそわそわと立っていたのか、その理由を理解した。ちらりと『扉』を振り返り、確認する。
「エノーラは、学園に?」
「……うん。本当の用事は楽音に、頼まれもののお届けだそうなんだけれど、先日、学園から砂漠へ繋がる『扉』が不調だったでしょう? 先にそっちへ行って調査してくるって言って……あの、あのね、ウィッシュ。今日は、もしかして、チェチェリアさん、学園に……?」
「いると、おもうよ。ロゼアの担当教員だもん……」
声にならない声をあげて、白雪の女王はその場にしゃがみこんだ。ぷるぷる震えながら涙ぐむその姿は、寒さに震える小鳥を思わせる。
「ど、どうしよう……! エノーラが痴漢行為に及んでいたらどうしよう……! どうしようっていうか! 絶対! しているに! ちがいないよね! 私知ってる……! ふあああぁんっ、入学式の時は事前に食い止めたのにっ! やだもうやだやだなんで今日に限って忘れちゃうの……! ご、ごめんなさいチェチェリアさん、ほんと、ほんとにごめんなさいっ! 先輩今日のブラの色は何色ですかふえへへへっ、とか言っちゃう私の魔術師が痴漢行為を働いて本当すみません申し訳ないのでわたしエノーラが帰ってきたらうごかなくなるまで踏むことにするね……?」
「陛下、それ、エノーラの業界ではただのご褒美だからお仕置きでもなんでもないと思うよ……? ただのご褒美だよ……」
「……うええぇん」
本気で涙ぐむ白雪の女王の肩にそっと手を置いて、エノーラは本当に完成されきった変態ですよね、と溜息をついた。心から同意する表情で幾度となく頷き、白雪の女王はすっくと立ち上がる。
「決めた。無視する。エノーラが痴漢行為に及んでたら、なにを話しかけて来ても、無視!」
これで行こう、と拳を握る女王陛下に、ウィッシュはいやでもそれはそれで無視される快感に目覚めちゃうだけだと思うよエノーラ難易度の高い変態だから、という言葉を飲みこみ、従順な態度で頷いた。ここで駄目だと分かったら、白雪の女王は多分、本気で落ち込む。そしてウィッシュは女王陛下を心から愛する側近に、裏庭とかに呼び出されるに違いないのだった。顔かせ、ときらめく笑顔で恫喝してくる女王の側近たちを思い起こし、身震いしながら、ウィッシュはふと気になって、それを問いかける。
「陛下。エノーラ、なにを届けに楽音まで?」
「えっと……つけると声が出なくなる、チョーカー、だったかな……? ちょうど首回りにぴったりくらいのデザインでね、レースで編まれて、藤の花飾りが中央から下がっていて、とても可愛い魔術具だったわ。……『どうしようそういう意図は全くなかったんですが! これつけるとチョーカーっていうより、そういう特殊プレイ中に見えてやたらドキドキするから私これストルにバレたらヤバいっていうかツフィアにバレたら抹殺コース確定なので陛下骨は拾ってくださいねあっ踏みにじってくださったりしてもそれはそれで! では行ってきます』って言ってでかけて行かなければ、ものすごく可愛いただのチョーカー、に見える魔術具だったわ……」
「だ……誰の為の魔術具なのか、俺、分かっちゃった……えっ、なにそれエノーラ死にたいの……?」
戦慄しきった表情で青ざめるウィッシュに、白雪の女王はくすん、と泣きそうに鼻をすすりあげて。他国に迷惑かけないで帰ってくるといいなぁ、と言った。言っておきながら、その希望が叶えられるとは思っていない響きだった。