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 こわい、と訴えることがどうしてもできなかった。目を反らすことも、できなかった。ひそめた息をゆっくりと繰り返し、ひかりが満ちて行くさまを、ソキはただ耐えるように見つめていた。誰に言えただろう。誰に訴えることができただろう。祭りの準備が推し進められていく軽やかなざわめき、弾んだ人々の笑い声、飾りつけられていく森の木々や寮に施されて行く星のひかりの形をした灯篭。灯されて行く明り。火が熱する空気の匂い。歓迎の気配が満ち満ちる空気。楽しげな笑い声。それらを、こわいと、告げることなんて。どうしてできただろう。
『ほら、ソキちゃん。よくみてごらん……』
 熱砂を撫で抱いた風が吹く。笑い声をどこか遠くに。暮れてゆく町のひかり。血のような紅が闇に沈み、飾られた灯篭に火が入れられていく。
『アレはね』
 ひとつ、ひとつ、灯っていく。暗闇に明りが。それはまるで星のように。
『――キミの嫁ぐ、祝いだよ』
「お姫ちゃん? どしたの。体調悪い?」
 ひょい、とソキの顔を覗き込んで問いかけたのは、通りがかったユーニャだった。儀式準備部に所属しているというユーニャは、昨夜からずっと寮の中をかけずり回り、様々な飾りつけを施している。壁には星座の物語を描いたタペストリー、窓にはきらめく銀の硝子を張り付けて散りばめ、天井からは星型の灯篭や宝石飾りを吊り下げて行く。寮内を丸ごと夜の星空に抱かせるような装飾には、時間も手間も、魔力もかかるのだろう。額に汗するユーニャは疲労した顔つきで時間に追われる者特有の、そわそわとした気配をまとわりつかせていたが、さりとてソキを無視して立ち去ってしまうこともできないようだった。油で汚れた指先を伸ばしかけ、顔をしかめて服で拭いながら、ユーニャは返事を返さないソキの顔をもう一度覗き込む。
「どしたの、お姫ちゃん。……こんなトコにひとりで、どうしたの」
 ソキが座り込んでいたのは、談話室にある一人掛けのソファの上だった。窓の傍に置かれたそこからは、寮の前に設営されていく天幕や、森の木々にくくりつけられて行く灯篭、笑いながら行きかう寮生や手伝いに来た王宮魔術師たちの姿がよく見えた。普段であれば人のざわめきと気配に満ちた談話室は、今日に限ってほぼ無人である。ぽつん、と座りこむソキと、最終点検に来たユーニャ以外の人影は、ない。部屋へ向かってくる気配もなかった。皆、それどころではなく祭りの準備に走り回り、また、浮足立ってその時を待っている。時間が巡り、陽が陰ってくれば降り積もる神聖さが厳かな空気を降ろしてくるが、いまはまだ、その時ではなかった。新入生たちが、とある儀式の為に星降りの国へ呼ばれるまでも、いましばらくの時間があった。お姫ちゃん、と呼びかけるユーニャに、ソキは唇を開こうとしなかった。
 無視をしている訳ではない。視線だけが向いている。瞬きをして、呼吸をして、告げられる言葉を聞いている。その姿は、ひたすらに人形めいていた。哀れな程にうつくしく、くるしいほどに、儚かった。凍りついた森の、宝石のような碧がユーニャを見つめている。
「……けがれなき、砂漠の花嫁さん」
 からかうような普段の響きをひっこめて、ユーニャは恭しく、ソキの座るソファの前に片膝をついた。
「傍付きはどこへ?」
「……しらないですよ」
 警戒しきった返事だった。必要最低限。それ以上は決して告げぬと言わんばかりの面差しで、ソキはユーニャのことを静かに観察し続けていた。その視線にたじろぐこともなく、ユーニャはそうか、と難しそうに息を吐きだした。
「ナリアンも、メーシャも?」
「しらないです。……もう、いいですか?」
「うん、あともうひとつ。今日がなんの日か、知ってる?」
 こくん、と無言ですぐ、ソキは頷いた。そっか、と苦笑したユーニャは立ち上がりながら、ソキに言い聞かせるように囁き落とす。
「天体観測の日、だよな。魔術師の祝い。流星の夜」
 窓辺に歩み寄り、設営されて行く屋台の進み具合を見つめながら、指差して告げる。あれはその為の準備。魔術師の為の、星を祝う為の。その為の。
『――あれは』
「空に輝く星は、俺たち魔術師の友。導きの光で、祝福の祈り」
『キミの』
 見つめる先。星の形をした灯篭に、火が宿された。
『――嫁ぐ、祝い』
「星に巡り合う為の、お祝いだよ、お姫ちゃん。……わかる?」
 楽しげな笑い声が、風に乗って響いてくる。それに表情をひとつも動かすことなく、ソキはゆっくり、まばたきをした。くちびるが、息を吸い込む。
「わかってます、ですよ。……ソキ、ちゃんと分かっています」
「そう?」
 話しかけてから初めて、はきとした意志を乗せて返された言葉に、ユーニャはやや面白がるように首を傾げた。ソキは祭りの準備から視線を外し、ユーニャを見ることもなく、ただぼんやりと談話室の扉に視線を投げかけた。まばたきを、する。
「……分かってます、ですよ」
 そこから来るであろう誰かを、待っているような。そんな仕草と、声だった。



『――ほら、おいで。ボクのかわいい……お人形、さん』



 強い風が吹いた気がして、ソキはロゼアに抱きあげられた腕の中、そのあたたかな体にひしっと抱きついた。新入生にはなにかしなければいけないことがあるとのことで、迎えに来た寮長をなかったことにして置き去りにし、寮内に設置された『扉』へと向かう最中のことである。
「……ろぜあちゃん」
「ん? なに、ソキ」
 ソキを抱きあげているとは思えない足取りで、至って普通に歩みを進めながら、ロゼアはそっと腕の中へ視線を降ろしてくる。それに心から安堵しながら、ソキはぎゅうぅ、とロゼアに抱きつく腕に力を込めた。
「リボン、結んで、ください……」
「リボン?」
 朝からロゼアが丹念に櫛梳り、一房を編んでリボンで結んだソキの髪は、幾分の乱れも見られなかった。崩れてないよ、と告げてもソキはロゼアの肩に顔を埋めたまま、いやいや、とむずがるように首を振る。
「ほどけちゃうですよ……」
「……ソキ?」
「だから、ちゃんと、結んでくださいです」
 ソキの顔は、一度もあがらない。ロゼアは先を行くメーシャとナリアンにちょっと待って、と声をかけたのち、廊下の端へ腰を降ろした。ソキの体が冷えた廊下に触れないよう、脚の上に腰かけさせ、抱きあげた状態のままで両手を髪に触れさせる。指先で巻くように解いたリボンは、かすかな衣擦れの音を立て、あっけなく解かれた。絹で作られた、赤いリボンだった。模様が刺繍されている訳でもなく、飾りが付けられている訳でもない。光沢はあれどややくたびれた風な、使いこまれたそれは、ロゼアが己の給金の中から買い求め、ソキへ贈ったものだった。撫でるように髪を指で梳いたのち、手慣れた仕草でもう一度編み、ロゼアはソキがねだるまま、つよく、髪にそれを結び直す。
 もう大丈夫だよ、と告げてやれば、ソキはこくんと言葉もなく頷き、ロゼアの腕の中へ収まってしまう。その体をひょいと抱きあげて足早に歩み、ロゼアは心配そうな顔つきをしたナリアンとメーシャに、お待たせ、とだけ言った。待ってないよ、大丈夫、と告げるように首を横に振り、ナリアンは不安げにソキを眺めやった。
『ソキちゃん、どうかしたの?』
「……ソキは、どうもしませんですよ」
 でも、と続けそうな意志を無理に納得させてくれたのだろう。ひとつ、頷いたナリアンはソキちゃんにはリボンが似合うね、と言葉を揺らし、ゆったりとした動きで『扉』へと歩んでいく。メーシャはどこか不安げにソキを見つめ、体調が悪くなったら部屋に戻ろうな、とだけ言ってくれた。それにソキが頷いた時、四人は星降の王宮へ続く『扉』の前に到着する。夕刻の薄闇が、世界を染め変える寸前の時刻だった。やわらかな黒が染み込む空気を、庭先に飾られた灯篭の火が照らし出している。あざやかに。夜になろうとする世界に、ひかりが、みちている。眩しくて、ソキはそっと目を閉じた。『扉』が開かれるまで、ずっと目を閉じていて。出迎えの魔術師に声をかけられるまでずっと、ソキは頭の中で鳴り響くようにめぐる声に、息をひそめていた。



 繊細な作りの薄い硝子細工が擦れ揺れ動く音に、ソキはふと視線をあげて廊下の先を注視する。それが見えたのは一瞬のことだった。廊下の角を曲がって歩いて行く後ろ姿。魔術師の証たるローブを着ていたので、身分は言われずとも知ることが出来た。星降の国か、あるいは、どこかの王宮に属する学園の卒業生に違いなかった。ソキの意識をひいたのは、ふわりと風になびいた髪の一筋。その色だった。それは藤の花の色をしていた。咲き零れ、風に揺れる、うす紫の花の色をしていた。一瞬のこと。あ、と言う間もなくその姿は声も届かぬ廊下の先へ消え、追って行くにも今のソキでは、そうすることができなかった。
 立ち止まってしまったソキに不安そうな、落ち着かない、心配げな眼差しがいくつも向けられる。それに、ソキは大丈夫なんですよ、と言い放ち、転ばないように気をつけながら足を一歩、踏み出した。星降の王宮を、一室を目指して歩いていく途中のことだった。ソキ、メーシャ、ロゼア、ナリアンの四人は、天体観測という特別授業を執り行うにあたって、これから『夜を降ろす』のだという。簡単な説明だけが教員から成され、あとは星降の国王から詳しく聞くこと、とのことなので、いまひとつ、誰もなにをするか、がよく分かっていない。窓のない細道を歩きながら、ソキは切ないような気持ちでロゼアを見上げ、それから先を行く魔術師の女を睨むようにして見つめた。新入生を出迎え、星降の国王が待つ部屋まで案内しているその魔術師の名を、リコリス、と言った。
 抱きあげられていたロゼアの腕の中から離れ、ソキがひとりで歩いているのは、そのリコリスの言葉の為だった。新入生の名前を確認し終えるなり、リコリスはロゼアの腕の中で落ち着いていたソキにこう問うた。君は今、歩けるか、と。ソキはよくこけるですよ、と告げたが許されず、繰り返される問いに歩けます、と言った。怖くて、ほんとうはどうしても、ロゼアの腕の中から離れたくはなかった。頭の中で痛みを伴うかのように、鳴り響くうるさい鐘のように、いろのない声がする。あれは祝い。あれが祝い。キミの。キミが嫁いで行く為の。お人形さん。キミがボクのものになる、その為の、お祝いだよ……。囁き、言い聞かせ、意識を書き換えたがるその声が、怖くて仕方無くて離れたくなど、なかった。
 魔術師の女は、ソキに規則だ、と言った。立て、と。補助の手を借りることはかまわない。そのものいいに、ソキが反抗することなど、できはしなかった。規則には従わなければならない。決められたことには、逆らってはいけない。それは、ロゼアの立場を悪くすることだ。ソキのせいで、ロゼアが叱られる。悪く言われて、怒られる。ソキのせいなのに。ソキがいけないのに。それなのに、怒られるのは、いつもロゼアだった。魔術師の女が、ひとつの扉の前で歩みを止めた。女は振り返らず、扉の先を見つめるようにして、告げる。
「星は――我ら魔術師たちの導となる。星は我らの友人だ。我らが暗闇に惑ったときに、我らの手を引き導くが役割……それでも、だ」
 それはどこか、緊張した声だった。意識を上滑りしていく音として声を捕らえながら、ソキはぼんやりと魔術師の女、その背を眺める。まっすぐに背を伸ばした、理性的な立ち姿だった。息切れひとつしていない様子だった。学園から繋がった『扉』からここまで、そう距離はないのに、肩を大きく上下させて立ち止まっているソキとは、なにもかもが違う。そうだ、違うのだった。不意に、痛みを感じるくらいに、ソキはそれを思い出した。魔術師の女とソキは、きっとなにもかもが違う。この世に一人として己と同じ存在はいないのだけれど、そうではなくて。きっと、こういう存在が、普通なのだと思った。一人で歩かぬ新入生をたしなめ、規則だと告げ、己に課せられた役割を全うしようとする。それはいたって普通のことだった。その普通に、時間をかけなくては、ソキは気がつくこともできない。
 言葉を告げ、リコリスがくるりと振り返る。彼女はソキ、ロゼア、メーシャ、ナリアン、と、順繰りに視線を移動させた。
「星は全ての者にその光を与えるわけではない。自らの足で立ち、歩かんとする者にのみ、その輝きで以て未来さき を示すのだ」
 泣きそうな気持ちで、ソキは体を震わせた。ロゼアの手を強く握り、唇に力を込めて感情を堪えながら、向ける視線の強さだけでその衝動を耐えきる。きらい、とどうしようもなく思った。このひとはきらい。このひと、すごく、すごくきらい。リコリスの言わんとすることは分かったからこそ、ソキは爆発するような、きらい、の感情を抑え込めなくなってしまった。それ以上は言葉もなく、開かれた扉の向こうへ四人を先導していく背に、ソキは唇の動きだけで告げる。
『……ソキも、そう思いますよ』
 暗闇から抜け出す導などない。閉ざされたあの部屋から、手を引き救い出してくれる、連れ出してくれる者が、誰も、いなかったように。一人で歩けもしなかったソキに、示される未来など存在しなかったように。



 夜を降ろしてもらうよ、と流星の夜と呼ぶにはいささか相応しくない、星が遠くにちらほらと見えるだけの暮れたばかりの夜空を背負い、星降の国王はうきうきとした口調で説明した。魔術師の導となる星へ、はじめましてのご挨拶をする為に。星の新たな友となる者たちに、毎年、天体観測の前にしてもらっている儀式なのだという。半分以上を音として聞き流していたソキは、説明された内容の殆どを理解していなかったが、それが『やらなければいけないこと』であることはきちんと受け止めていた。夜を降ろす方法は、様々なのだという。魔術のように決められた言葉はなく、ひとりひとり、思い描くまま、言葉を告げて行けばそれでいいのだ、と星降の国王は教えてくれた。
 要するに星々へ、会いに来たことが伝わればそれでいいのだ。準備の為、五分だけ時間を貰った静寂の中で、ソキはようやく意識を表層まで戻し、真剣な気持ちで想いを巡らせていた。ロゼアも、ナリアンも思いつかない様子で考え込んでいる中、メーシャだけが落ち着いた態度で微笑んでいる。メーシャは占星術師であるから、普段から、星に馴染みが深いのだろう。親しい友にようやく巡り合えるような、憧憬すら感じさせる眼差しで空を見上げ、うっとりと唇を和ませている。その横顔をきれいなものだ、とソキは感じた。人の造作をきれいだと思うのはソキにしてみればすこし珍しいことで、すこしだけ、懐かしいことだった。その懐かしさが、ひとつの記憶を呼び起こす。
 それは夜のことだった。決まって、人が寝静まった、星のない夜のことだった。
『誰にも内緒にしなくてはいけないよ、ソキ』
 もう顔も名前も思い出せない兄が、『花婿』としてどこか遠くへ行ってしまったひとが、幼いソキに向かって柔らかな声で囁いた。
『これは、私たちだけの秘密なの。私たちだけが、伝えて行くこと……』
 屋敷へ残るたったひとり。『花嫁』にも『花婿』にもならず、家を継ぎ、ひとり残って新しい『宝石』を育て上げる同胞が伝えてきた、伝えて行くことなのだと。傍付きを遠ざけた静かな夜に、顔だけを思い出せる姉が、眠りにつくソキの耳元でそっと囁いた。
『これは星へ告げる歌。星へ囁く、想いの歌……』
「……じゃぁ、ひとつだけ教えてあげる。……夜を、星を、よろこばせる方法」
 記憶をめぐる声に混じって、メーシャの声がソキへと告げた。夜との思い出を語ればいい。どんな気分で星を眺めていたか。どんな風に夜を過ごしていたか。記憶の欠片がソキへと告げた。
『これは夜を呼ぶ歌。星へ告げる歌。どんな気持ちでいたか、どんな風に過ごしていたか。思い出すの。忘れてしまわないように。……これは胸へ星を宿す歌。暗闇の奥、たったひとつの星へ告げる、私たちの……』
『……手を繋いでもらって眠ったしあわせな夜を。胸に宿った輝く星を。忘れないように蘇らせる為の、うた』
 暗闇が私たちに味方することはなく、天に輝くそれが救いとなることはない。だから、私たちはその胸に星を呼びこむのだと、そう、ソキの兄姉は旋律と共に囁き告げた。彼らは想像もしていなかったに違いない。最も末に生まれ育てられることとなった、最優の『花嫁』が、その生の先で星へ手を伸ばす日が来ることなど。星へ。手が届かぬもの、胸にかき抱き輝かせるだけであったその希望を、友とする日が来ることなど。ソキは、唇にきゅぅと力を込め、座っていた椅子から立ち上がった。あんまり急いで立ち上がったので、当然のことながら、ソキの体は床にびたんと叩きつけられてしまった。大慌てで駆け寄ったロゼアが、ソキに腕を伸ばして抱きあげてくれようとする。
 恐らくは、ほとんど、はじめて。己の意志で、ソキは、その手を押し留めた。名を呼んで来るロゼアに、息を吸い込み、告げる。
「ソキは、ちゃんとできますよ」
 星は、魔術師の友であるのだという。天に輝くひかり。
「ひとりでだって、歩けます。ソキ、歩けるんですよ。儀式だって、ちゃんと、できるです……」
 胸に宿ったしあわせな思い出こそ、『宝石』の抱く星。記憶に煌くひかり。その二つは恐らく違うものだ。けれど、星はあまりに遠かった。遠すぎて、せつなくて、それ故、胸へ降ろして大切にしまいこむものだった。いつか傍らに抱く筈だった、親しいと呼ぶには息苦しいものへ。挨拶として捧ぐに相応しい歌かどうかは分からない。けれども、ソキにはそれしか思い浮かばなかった。
「ロゼアちゃん……」
 伸ばされた手の指を、ぎゅう、と強く、握り締めて告げる。
「ソキは星を……ちゃんとは、うまく、できないかも知れません。でも」
 顔をあげて、ロゼアを見る。すこしだけ視線を動かして、リコリスを睨むように見すえながら、ソキはきっぱりと言い切った。
「それは、ソキのひとりですることです。ソキの、ちゃんと、がんばった結果です」
「……ソキ」
「ひとりで、歩けます。ひとりでだって、ソキ、大丈夫です。だいじょうぶ……」
 嘘だった。こわい、と心が叫んでいる。こわい、こわい、ロゼアちゃん助けて。ロゼアちゃん、ロゼアちゃん。こわい、たすけて、ひとりにしないで。ひとりきり、ソキが離されて行ってしまうその日が巡ってくるまでは。弱音を吐きだしてしまいそうな唇に力を込め、ソキは目を閉じて瞼の裏に焼きついた灯篭を、そのひかりを消してしまおうとした。あれは祝い、あれが祝い。ひかりが地に飾られることが、告げるのはひとつ。必ず来る筈だった別れの日、その時が巡ってきた、先触れ。こわい。怖くて仕方がない。でも。
 でも。
「……ソキは星を知ってるんですよ、だから」
 大丈夫。
「だからね……」
 ひとりきり、ひとつきり。輝くものを呼ぶ準備なら、とうにしていた。
「ソキはひとりでだって、大丈夫なんですよ。ちょっと、まだ、転んじゃうですけど……」
 なぜなら今から奏でるは、その為の歌なのだから。ね、と首を傾げて笑うソキの体温と色を失ってしまったつめたい手を、ロゼアは強く握り返した。離される気配などなく。どこか困惑したように繋いだ手を見つめ、ロゼアはソキに言葉をかける。
「……手を、繋いでいくのは、だめか? ソキ」
「て?」
 ソキは、繋いだままの手に視線を落としてごく軽く、眉を寄せて考えた。良い気もするし、だめな気もした。どちらが正しいのか、ソキにはよく分からない。普通なのは、どちらなのだろう。分からない、でも。今はまだ、もうすこしだけ。放したくないと、思った。どうしてか、それを言葉にはできなかった。ソキがなにかを告げるよりはやく、ロゼアはリコリスに視線を向ける。
「……支えられて歩くのは、いいって、言ってたろ?」
 怖々と、どこかぎこちなく。告げるロゼアの背後から、メーシャが顔を覗かせ、やわらかに笑った。
「四人で手を繋いで、バルコニーまで行こうよ」
『入学式も、そうやって行ったね』
「……て、繋いで歩くのは、いいです? 本当に、いいです……?」
 先程、『扉』からその部屋までそうして歩いてきたことも、本当はいけなかったのではないかと不安がる表情で。ソキは泣きそうに息を吸い込み、ゆるく首を左右にふった。
「ソキ、ずるは嫌いです。ソキ、ちゃんとひとりで歩けます。ほんとうですよ」
「手を繋いで歩いても、一人で歩くことにはなるよ」
 仕方がないなぁ、とばかり笑って。囁きかけたのは星降の国王、そのひとだった。今にも涙が零れ落ちそうな瞳でまっすぐ、睨むように見つめられ、青年は肩を震わせておかしげに笑う。
「学園に来るまでの旅と一緒だよ。同じ。ソキは、案内妖精と一緒に、一人でここまで歩いてきただろ?」
「……はい」
「それと一緒。案内妖精の導きが、手を繋ぐことになってるだけ」
 分かったね、と言い聞かせられて、ソキはこくん、と頷いた。それならば、大丈夫だ。ロゼアは怒られない。メーシャも、ナリアンも。ソキのせいで、怒られたりはしないだろう。ようやく安心して納得しながら、ソキはロゼアと繋いでいた手を離し、ゆっくり、その場で立ち上がる。ひとりきり、誰の力も借りることなく。ふらり、かしいでは安定しない体勢がようやくおさまりどころを見つけた時、ロゼアの手がソキに伸ばされ、繋がれた。微笑みながら、メーシャがもう片方のソキの手をひく。
 その光景に、ふふふ、とうっとりしきった様子で星降の国王が目を細め、笑った。
「今年も、俺の魔術師たち、ちょーかわいい……! 毎年さー、ほんとさー、皆かっわいいよなぁ……! うん、あのさ、一回だけ。一回だけだから、ぎゅってさせて? 一回だけだからっ、すぐ、すぐ離してあげるからお願いだから俺にちょっと抱き締めさせ」
「時間だ、四人はバルコニーへ向かうように。……何かおっしゃいましたか? 陛下」
「……俺の癒し……ぎゅぅって、したかった……」
 時間を告げるリコリスの言葉に、四人は、ゆっくり、その足を踏み出した。バルコニーに出た魔術師の卵たちを、人々の熱気と歓声が包み込む。魔術師よ、夜を降ろせ。魔術師たちよ、星を落とせ。嵐のように叫ばれる言葉に、とっさにソキを抱き寄せて庇ったロゼアの腕から、ゆるゆると力が抜けて行く。あまりの大音声に驚くメーシャと、凍りついていたナリアンも、じわじわと理解して行ったのだろう。びっくりした、と脱力するメーシャにソキを託し、ロゼアがひとり、バルコニーの縁へ歩み寄った。そこへ集った人々に、ロゼアはあっけにとられた様子で瞬きをしている。魔術師と、夜と、星を求める声は一時も鳴りやまない。
 バルコニーの手前からひょいと顔を覗かせた星降の国王が、語りかけてごらん、と儀式の開始を促した。
「大丈夫だよ。……言っただろう? 夜も星も……みんな君たちを待っていたって。必ず応えてくれるよ」
 ソキだけが、星降の国王を振り返って見る。うん、と頷き、王はソキにしか聞こえない、ちいさな囁きで告げた。
「応えてくれるよ、ソキ。お前の抱くそれは、それも、ちゃんと星なんだから」
 内心を呼んだような言葉に、ソキは背を押された気持ちで一歩を踏み出した。場に集った四人の、誰より早く。息を吸い込み、歌を、紡ぎ上げる。ソキの声量はそう多いものではない。旋律も夜に響かせるものだから自然と穏やかな、ゆったりとしたものになる。激しい歓声にかき消され、群衆の耳には恐らく、なにも聞こえはしないだろう。それでいい、とソキは思った。ソキが紡いだことを知り、それが星に届きさえすれば、それで。聞こえなくてもいい。ロゼアにすら。
 教わった、最後の一音まで丁寧に紡ぎ上げる。すぅ、と息を吸い込んだ、その時だった。四人分の願いによって夜を引き寄せられた空が、たわむ。聞こえたよ、と笑いながら囁き告げるようだった。夜と、星が。届いたよ、と。まどろむ夢から醒めるように。その祈りが、声が、確かに。祝福を成し、夜を深め、星の輝きが増えて行く。ひとすじ、銀の糸が天を駆け抜け。それを追うように、雨のように星が一面を流れて行く。わぁっと歓声が上がった。流星の夜のはじまり。魔術師たちは求められるまま、夜を降ろし切ったのだ。
 ざわめく胸に指先を押し当て、うつむき、ソキはちいさく息を吸い込んだ。
「ソキ、星、呼べましたですか……?」
「天を見ろ、ソキ」
 いつの間にか傍らに、リコリスが立っていた。ソキの声が聞こえた訳でもあるまいに、魔術師の女はまっすぐに空を指差し、悔しげな表情で睨みつけてくる幼い魔術師の卵に、それを告げる。当たり前のようにして。
「あれが、君の呼んだ、星だ」
 息を飲み、見つめる先で、ひとつの星が輝いている。ちいさな灯りを祝福するかのように、その周囲には流星が踊っていた。あれが魔術師の友、君の星。淡々と、リコリスは星を見つめるソキに告げた。あの輝きが暗闇の導。迷う時、恐れる時、惑う時。必ず君を、助けるだろう。

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