さびしくなります、と少女は言った。凍れる森のような瞳を柔らかく和ませ、白磁の茶器にくちびるをそっと触れさせて。視線を、ふたりを隔てる真白い机の中ほどに伏せたまま、ひどく大人びた横顔で少女は言った。
「元気で、いてくださいね。お仕事は忙しいと思います。たくさん食べて、よく寝て、怪我をしないで……どうか、元気で」
茶器をそっと受け皿に戻す細い指先が、かすかに震えている。耳障りな音を立てて茶器が擦れ、それを恥と思うような仕草で、少女のくちびるが頑なに結ばれた。感情を押さえ込んで、抑え込んで、それでも溢れてしまいそうなのだろう。強く結ばれるように閉ざされた瞼が、ふるふると、幾度となく震えて涙を堪えていた。
「……ごめん、なさい。お祝いなのに。嬉しくない訳じゃないんです……嬉しくない、わけじゃ……」
名前を。少女の名前を呼んだ筈だった。空気を震わせ、声は響いた筈だった。それなのにどうしてか、その音を耳にすることが出来なかった。ただ、途方もない愛おしさが胸一杯に広がって行く。会いにくるよ。君がさびしく思わないように。告げた言葉は泣き笑いの表情で、柔らかく首を振ることで拒否された。少女の、甘い光を宿したような髪がやわりと揺れ動く。砂漠の、一番きれいな、砂の色だった。
「だめですよ。……ううん、そうじゃなくて。大丈夫。さびしいと言っても、そんな……すごく、ではなくて。……心配、しなくていいんです。ね? 大丈夫。私は、ひとりで、だいじょうぶですから……」
言葉を選びながら告げられるへたくそな嘘に、胸が締め付けられるように痛む。いつから、こんな風になってしまったのだろう。なにを、どこで間違えてしまったのだろう。すこしずつ降り積もったちいさないびつさは、気が付けばかたくなな少女の強がりを、もうどうにも出来ぬものとして完成させてしまっていた。どうして、気がついてあげられなかったのだろう。ひとりにしないで、と泣いていたことを知っているのに。名前を、呼ぶ。大切な、少女の名を呼びかける。少女は伏せていた視線をようやく持ち上げ、ひどく透明な声で、己を見つめる者の名を呼んだ。信頼を分け与えるような、てのひらにそっと触れ、体温を分かち合うような。ひたすらに捧げる祈りのような。まっすぐに、透き通る声だった。
「ナリアンくん。……私、大丈夫。大丈夫ですから、どうか、心配しないで……」
心残りになりたくない、と凍りついた森の瞳が告げていた。宝石色の瞳。誰もがうつくしい、と思うであろうその色を悲しいと思うのは、もっと豊かな感情を浮かばせていた時を知っていたからだ。なないろの喜びを、星屑のようにきらめかせて。心から笑うその表情が、本当に、ほんとうに好きだった。大切だった。名前を呼ぶ。何度でも、何度でも。諦めたくなくて、少女の名を呼ぶ。少女はすこしばかり困ったように、眉を寄せ、また視線をやわりと伏せてしまった。ゆるゆると熱を失って行く茶器を指で包みこむように持ち、少女は、迷いながらくちびるを開いた。
「なにかあったら、相談しますから」
指先を白く震わせながら、息を吸い込んで、囁く。
「ロゼアくん、にも。メーシャくんにも……もちろん、ナリアンくんにも。なにかあったら、ちゃんと」
いつからだろう、と悲しく思う。少女が自分のことを『私』と呼びだしたのは。常に傍にあったロゼアの手を、離してしまったのは。甘く切ない響きで紡がれた青年の呼称を、変えてしまったのは。口調も変えてしまった。いつからだろう。少女がロゼアを避け始めたのは。いつから、少女は。ロゼアと、会話すらしていないのだろう。会いたくない訳ではないのだ。会いたくて、会いたくて仕方がないと、震える全身が告げている。感情を抑え込んで、涙を流さないよう、精一杯我慢して。少女は、はぁ、とせつなく息を吐きだした。
「ナリアンくん」
絶望的な恋をしている。全身で物語りながら、少女はふわり、花のように微笑んだ。その笑みにこそ、涙がこぼれそうになる。だって、それは。その笑顔は、その表情は。よく知る、少女の。記憶にあるままの、感情を凍らせてしまう前の。大切な、大好きな。
「ご卒業、おめでとうございます」
一月後。砂漠の国へ王宮魔術師として迎えられることが決まっている少女は、それを、我がことのように喜んで告げた。おおよそ、六年に及んだ学園生活の、それが終わり。そして、数年後。王宮魔術師として世界を飛び回っていたナリアンに、風が告げたのは世界の崩壊。予知魔術師の、死の知らせだった。
世界そのものから攫うように腕の中に閉じ込めたちいさな体に、甘えて縋りつくのが恥ずかしい、という気持ちは心の片隅に残っていた。けれどもその恥ずかしさは、全身を引きちぎるように荒れる悲しみと喪失感に塗りつぶされ、分からなくなってしまった。全身の力を失い、ずるずると崩れた体は半分床に座り込み、半分が、ソファに座る少女に抱きとめられていた。落ちちゃうですっ、落っこちちゃうですっ、と大慌てしながらナリアンの服を掴み、ぐーっと引っ張ってくれてはいるが、到底、体を持ち上げるには至らない。腕をぐるりと背に巻きつけるようにして、腹に顔を埋めて動かなくなったナリアンに、ソキは困惑いっぱいに首を傾げてみせた。室内には、甘く穏やかな紅茶の香りがふわりと満ちている。
水曜日の、午後のことだった。茶会部の活動中に、ことりとナリアンが眠りに落ちてしまったのだ。ナリアンはソキと違い、毎日、それはもうなんの容赦もなくロリエスに個人指導を受けている。実技授業というより個人指導、と呼ぶにふさわしいそれは、ナリアンが望んだものであり、そしてロリエスが課したものであるという。当人たちが納得した上でのことであるので、積極的に止める者のない日々は、ナリアンのすくない体力をじりじりと削り、時折、そうした眠りに意識を誘うのだった。普通に授業を受けている時は、頑張って起きているのだと聞く。ナリアンがなんの備えもなく眠ってしまうのは、だいたいがソキと一緒に茶会部で勉強をしている時であり、部屋にひとりきりでいる時だった。
ひとりでいるのと同じくらい、ソキが傍にいても安心してくれている、といいな、と思っているので、少女はその眠りを妨げずにいたのだが。今日に限っては起した方がよかったのかも知れない、と思って、腹に顔を埋めたままぴくりとも動かないナリアンを見下ろした。突然のことだった。なんの前触れもなく跳ね起きたナリアンは、向かい合わせに勉強していたソキの体を片腕ひとつでかっさらい、ソファに体を落とすと、驚くソキになにも告げずに、なにかから隠すように抱きしめた。どうしたですか、ナリアンくん、ねえナリアンくん、と呼び続けるソキに、しばらくして返ってきたのは声にならぬ意志の響き。夢を見たんだ、とナリアンは告げた。夢を見た。なにも覚えていないけれど、夢、だとは思うけれど。くるしくて、かなしい、ゆめだった。震えながら告げ、やがて体から力を失い、ナリアンはソキに縋ったまま、未だ顔をあげてくれない。
泣いてはいないようだった。そのことに心から安堵しながら、ソキはそっと手を伸ばし、ナリアンの短い髪に触れた。ロゼアのものとは色も、髪質も違うそれをてのひらで優しく撫ぜながら、ソキは身を屈め、ナリアンの耳元でそっと囁く。
「ゆめですよ、ナリアンくん。……ゆめ、夢。夢ですよ」
怖い夢を見て起きるたび、ロゼアがそう言い聞かせてくれたのを思い出しながら。ソキはなるべく優しく響くように、祈りながらそう囁いた。
「……夢ですよ」
ぽん、ぽん。ナリアンの背を叩いて、ソキは言い聞かせる。
「ね、ソキがお茶を淹れます。いつもナリアンくんがしてくれますけど、ソキね、お茶を淹れるのは得意なんですよ」
開けたままの窓から、きよらかな風が室内に吹き込んだ。ソキは視線を、その先へ向けて目を細める。今日は、とても、いい天気だ。
「お茶を淹れたら、ロゼアちゃんと、メーシャくんを呼んでくるです。……一緒にお茶にしましょうね、ナリアンくん。ナリアンくんの焼いてくれたクッキー、まだ何枚かあったです。皆で、一緒に食べるとおいしいですよ。……ね? ナリアンくん、ナリアンくん……」
ソキちゃん、と。やがて、ナリアンが言葉を紡いでくれるまで。ソキは何度もナリアンの名を呼び、甘くふわふわと響く声で囁き続けた。夢よ。夢よ、と。幾度でも。
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