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 言葉を鎖す、夜の別称

 生まれついての魔術師である星降の国王を例外として、各国の施政者に魔力というものは宿らない。たまたま王族が魔術師であった場合のみ、時を選んで案内妖精が現れるが、それはごく稀なことである。白雪の女王も例に漏れず、魔力を持たない、ただびとの施政者であった。それなのに、くちびるから零れて行く歌声はやわらかに編み込まれた魔術のように空気を染め上げ、王宮魔術師の魔力をざわめかせて行く。降り積もる花びらが風に運ばれ、春の湖面を一面その色に染め上げるように。鮮やかに、清らかに、染め上げて行く。抱きしめるように、覆い隠すかのように。この世のなにもかもから守護するような、温かで、満ち足りた、それは愛によく似ている。こそばゆく、すこしだけ気恥ずかしく。触れているだけで幸福で、涙が零れて行くような。その愛こそ、祝福。王が己の魔術師たちに与える、しあわせのひとつ。
 目を閉じて奏でられる歌声を聞きながら、エノーラは満ちたしあわせにそっと息を吐きだした。この幸福を受け止められるだけでも、魔術師になってよかったと思える。白雪の王宮にある魔術師であるなら、誰もが口を揃えて同意するだろう。ただ人であっても、女王の奏でる旋律を耳にして、幸せな気持ちになることはできる。けれど、幸せそのものに触れるような。愛を分け与えられるような感覚で歌声を聞くことができるのは、魔力という水を持つ魔術師たちだけなのだ。降り積もる花びらが、ふわりと、途切れる。瞼を持ち上げたエノーラが見たのは、すこしばかり現実逃避ぎみに机に肘をつき、窓から外の風景を眺める白雪の女王そのひとであった。
 どうしようかなぁ、と途方にくれながらくるりくるりと空に円を描いた眼差しが、溜息と共に室内に戻されて行く。幸いなことに不機嫌ではないものの、楽しげでもない女王の瞳が、壁際に立っていたエノーラに向けられた。
「ねえ、エノーラ?」
 直前まで歌を紡いでいたとは思えない、澄みきった、きよらかな印象ばかりのうつくしい声だった。その響きを己という存在だけに向けられる幸福を噛み締めながら、エノーラはその場に跪く。
「はい、陛下」
「……そんな、一々、礼取ってくれなくてもいいんだけどな……? うん、いいの。いいのよ? エノーラ。私が礼儀正しく、きちんとしてねって言ってるのは他国の王宮魔術師さんたちに対してとお出かけ先でのことであって、別に私の国では普通に……一般常識的な意味合いでというか、世間的な基準で、普通に、痴漢行為を働かずにいてくれればいいっていうだけであってね?」
「ご安心ください。私はわりと常にいついかなる時であっても陛下に対しては跪きたい、そしてあわよくば! おみ足で踏んだり蹴ったりして頂きたい、というだけですから!」
 単に、立っているより跪いている姿勢の方が蹴りやすいのではないか、という斜め上方向に飛びすぎた配慮の結果であると気がついて、白雪の女王の視線が全力で己の過去の行い、なんで彼女を私の国に欲しいって言ったんだっけあれそれとももしかして自国出身の変態さんを他国に解き放ってはいけないという責任感だっけあれあれうふふふどうしよう思い出せないそして泣きそう、という意志をよぎらせ、全力で明後日の方向へ投げやった。深く考えないことにしたらしい。ふふ、と感情の名残でやや泣きそうな笑いを響かせ、白雪の女王がそっと首を傾げる。
「踏んだり蹴ったりしないから、ちょっと立ってくれない?」
「陛下が、どうしても仰るのなら……」
「うん。どうしても。立って」
 それすら旋律めいた麗しさを失わない声に、エノーラはうっとりしながら御意にと囁き、その場で立ち上がった。女王の声は分類としてはウィッシュのそれに似ているが、耳に触れた印象がまるで異なるのが不思議だった。ウィッシュのそれを磨き上げられた鉱石と例えるのであれば、女王のものは氷点下の夜の、雪原に降る月明かりそのものだ。穢すことができない。傷つけることも、触れることすら。できたとしても、それは全て錯覚。夢幻のように。うつくしく、そこにあり続けるひと。白雪の女王。
「エノーラは、なんでそんな踏んで欲しいのかな……」
 困惑に歪む表情すら、きよらかな印象の。彼の人に触れることはひたすらにためらわれ、だからこそ、伸ばされる手を待つことしかできないのだという。その想いを。エノーラは直球の欲望を込めて言い放った。
「陛下に踏んで頂けるとか正直興奮しかしないからです!」
「あ、うん。いい。もういい。分かった、分かってる、わかってるからいわないで……」
 耳を両手で塞いでふるふると嘆かわしく首を振ったのち、白雪の女王は涙目で息を吸い込んだ。
「がん、がんばれ私、がんばるの……! ここで、ちゃんと躾をしておかないと、また他国にご迷惑が……!」
「ふふふ涙目の陛下も、それはそれで……! というか、なにか御用件があったのでは?」
「……うん。そのことなんだけど」
 もう一回興奮されたら部屋の前でぎりぎりしている護衛を呼んでエノーラを殴ってもらおう、と決意しながら、白雪の女王は大きく息を吸い込んだ。
「エノーラは、たとえば、私が待てって言ったらちゃんと良い子で痴漢行為とかしないで普通にしていてくれる……? 何時間くらいだったら我慢できる……?」
「陛下、あのですね? 私も一応魔術師とはいえ人類ですというか、そんなあからさまに犬扱いされると目覚めるしかなくなるのですがそれでもいいでしょうか」
「あああああ! だから言ったじゃん、陛下!」
 もう見るに見かねたのだろう。音高く扉を開いて入ってきたウィッシュが、エノーラと女王の間に体を滑り込ませるようにして、涙ぐむ主君に言い放つ。
「エノーラは難易度の高い変態だから、うかつにアレすると目覚めますよってー!」
「だってえぇ……! じゃあ他にどう言えばよかったの……? というか、他に誰かが予定あけてくれればよくない? なんとかなるよね? なんでならないの? 今年、私の国は新入生誰もいないじゃない……! 暇を持て余してるっていうか暇なのに、なんでその日に限って皆外せない予定が入ってるのどうしてなの……!」
「……決まってるじゃん、陛下。エノーラが、目的の為に手段を選んで来たこと、あった……?」
 ない。だよね、俺も知らない。視線で短い会話を終わらせ、二人は深々と溜息をついた。ウィッシュが女王の視界をひらくように一歩ずれて振り返った先、エノーラはやや得意げに微笑んでいる。残念でした、と言わんばかりに。ここまで予定決まっちゃう前に私が気が付けばよかっただけの話だよね行動予定に許可出しちゃったのは私なんだもんね毎年なんで私が気が付けないの馬鹿なのそうなのごめんなさい、とめそめそと両手で顔を覆う白雪の女王に、ウィッシュは同情に満ちたまなざしと、言葉を向けた。
「大丈夫だよ、陛下……最近、大人し……く、なった、気がすることも、あるんだし」
「それ私の躾の成果だもん……自主的な自重とかじゃないのよ……?」
「だ、大丈夫だよ陛下! パーティー当日まで、まだ、時間があるし……! 当日は、ソキの担当教員だから俺もいるし! ……当面最大の問題は、ロゼアの担当教員だからチェチェリアもいるってことなんだけど」
 終わった、という意志を瞳によぎらせる白雪の女王。しばしの沈黙の後、よし、と笑顔で女王は頷いた。
「私、今年は護衛なしということで」
「だめだと思う」
「……どうして、どうしてエノーラしか予定が空いてないの……!」
 即座に突っ込んだウィッシュに、白雪の女王が泣きそうな顔つきで嘆く。ウィッシュは慰めの旋律のような声で、陛下それはねエノーラがそれだけの為に全員の予定を裏から操作してアレしちゃったからだよ、と囁いた。白雪の女王は涙ぐみ、薔薇色の唇に力を込めた。その唇が、やがて息を吸い込み。己の名を紡ぐ瞬間を、ただ、エノーラは待っていた。



 魔術師の卵を星が言祝ぐ、流星の夜より一月後。九月になったと同時に、各国の王宮は慌ただしくなる。ただし、五カ国全てが忙しいという訳ではない。この時期に暇を持て余すのは決まって学園へ迎え入れる入学生のいなかった国であり、よって、今年最も忙しいのは砂漠の国であると、そうなる前から誰もが理解していた。新入生が二人もいるからである。九月の末には、学園で夜会が催される。すこしばかりの奇跡が起きる数日に必ずぶつかるように予定が組まれたその夜会は、ようやく学園生活に慣れ始めた新入生を在学生たちが改めて歓迎する場であり、そして各国の王たちが彼らを直に目にするはじめての機会なのだった。
 堅苦しい式典ではなく、基本的には歓迎会であるから、魔術師たちはそれを夜会ではなく、単にパーティーと呼んでいる。語感の違いで華やかに思うらしい。夜会にまつわる資料、と題された手元の資料には、わざわざ二重線が引かれ、パーティーと書きなおされる念の入れようだ。どっちでもいいじゃん、と砂漠の王は溜息をついた。王の手元におく資料に手書きで訂正をいれるなだとか、そもそも俺に無許可で書類をいじるなだとか、様々な文句が浮かんでは消えていく。ひとつとして口から吐き出されないのは、単に疲れているからである。二名の新入生を出した砂漠の国は、月末のパーティーを目指し、やらなければいけないことが多い。そのひとつにして最大の案件が、新入生の正装の手配である。
 パーティー当日に新入生が着る正装は、本人が用意するのではない。その権利は、彼らにないからである。正装を用意する権利を持つのは、案内妖精。出身国の王ではなく、王宮魔術師でもなく。彼らと共に旅をし、学園まで導いた案内妖精のみが、導きの正当なる報酬のひとつとして、それを許されているのだった。だからこそ。
『アンタたち、なんにも分かってないわ……!』
 その時期だけ、各国の王は己の魔術師たちに妖精を視認し、その声を聞く魔術を紡がせる。最終的な決定は案内妖精に委ねられているとはいえ、正装の候補を決めてくるのも、それを発注するのも、調整するのも砂漠の国のただ人の仕事だからである。国民が動くことであるから、施政者が、見えない聞こえないのでなにが起きているか分からないので好きにさせました、という訳にはいかないのである。王宮魔術師に通訳させ、間接的に会話を行えば済む話でもあるのだが。直に会話が出来る術がある以上、そうすること以上に有効な意志疎通の手段はないのである。それでも。かれこれ半日以上、延々と怒り続ける妖精を相手にしなくてはならない、というのは非常に疲れる作業なのだった。たとえ怒られている相手が己自身ではなく、正装のデザインを提出してきた衣装師たちであろうとも。
『どれも、これも、ぜんぶ駄目……! ソキよ? ソキに着せるのよソキが着るのよっ? そこを魂に刻んで描きなおして来なさいって言ってるのよ理解ができないのっ?』
 王と同じく、関わる者たちにはこの時期限定で妖精の姿が見え、声も聞こえるようになっている。その為に、若干うまれてきてすみませんと言わんばかりの顔つきで机に突っ伏し、動かなくなっている衣装師から引き剥がす為、砂漠の王は気の進まない表情で、激怒するソキの案内妖精を手招いた。
「リボンちゃん、だっけ。ちょっとこっち来て」
『なに?』
 ひらりと空を泳いで砂漠の王の元へやってくるソキの案内妖精と入れ替わりに、衣装師の元へ舞いおりたのはシディだった。ロゼアの案内妖精はすっかり気落ちしておる衣装師に言葉を囁きかけ、励ましながら猛烈な勢いで謝っている。止めようとはしたものの、延髄を狙ったかかと落としというえげつない一撃を叩きこまれて動けなくなっていたのを気に病んでいるらしい。シディと衣装師の間に友情めいたものが生まれかけるのを眺めながら、砂漠の王は目の前で腕を組み、不機嫌に足先をぱたぱた動かしているソキの案内妖精に、二枚のデザイン画を差し出した。砂漠の王が眺めていた、極めて採用に近いであろうとされている、ソキの正装のものである。
 案内妖精はそれをひったくるようにして受け取り、一瞥したのち、ぺいっとばかりそれを投げ捨てた。
『だめ』
「……理由は?」
 怒りを通り越して呆れしか覚えない砂漠の王に、案内妖精は物分かりの悪い相手を見る眼差しで、ゆったりと腕を組んでみせた。
『一枚目が駄目なのは、布が多い上に丈が長いからよ。機動性が悪い。ソキが裾を踏んで転んだらどうするつもりなの馬鹿なの呪うわよ? よく考えてから提出なさいどう考えてもだめに決まっているでしょう転んだらどうするの転ばせるつもりなんてないけど可能性の話をしているのだからそこは理解なさい理由を聞いたのはあなたなのだから口を挟まずに最後まで聞くのが礼儀というものだと思わない? 私は思うわだから静かにしていなさいな。で、二枚目なんて言うまでもないじゃない? 肌の露出が多い。あの子が男どもに如何わしい目で見られたらどうするつもりなの考えが足りないわもうすこし頭を動かしたらどうなの。あとその布肌触りが悪いわ。擦れて赤くなったらどうするのどうして考えが及ばないの』
 案内妖精に、妥協という文字は存在しない。どの年のどんな案内妖精であってもそれは同じことであるのだが、今年は特にひどい、と砂漠の王は思った。ちらりと視線を向けると、シディもそれとなく衣装師に希望を伝え、決まりかけていた筈の正装に細かな変更を付け加えていた。まだデザインだけの段階である。仮縫いに入ってから完成するまでの道のりを思い、砂漠の王はひどく遠い目になった。
「ちょっとくらいは妥協しねぇ……?」
 でないとなにも進まない、と言わんばかりの砂漠の王に、案内妖精は高慢に首を傾げてみせた。
『というかアタシ思ったんだけど、やっぱり色は白がいいと思うのよね。白。とびきり綺麗な、やわらかな印象の白』
「俺の話聞いてくんね?」
『よし』
 砂漠の王の控えめな願いを受け取ることすらなく投げ捨て無視しながら、案内妖精はこれだ、という希望に満ちた顔で言い放った。
『ソキの実家に問いあわせするのが一番良い気がしてきたから、今すぐ担当者をここに呼びだしなさい』
「……へ?」
『あるでしょ? 『花嫁』に着せる為の婚礼衣装のひとつやふたつ。実物がなくても資料くらい。それを提出しなさい、と言っているの。で、ソキの世話をしていた誰かを連れて来なさい、と言っているのよ? 分かる? やっぱり、ここは身近にいた誰かに聞くのが一番だと思うのよね、悔しいけど。たぶん、そいつらの方がソキに似合う形とか知ってると思うし』
 妖精ちゃんはソキの正装をどんな風にしたいと思ってるの、と改めて真顔で問いかけた砂漠の王に、案内妖精はきっぱりとした声で言い切った。決まっているでしょう、花嫁衣装よ、と。ぶふうっ、と部屋の隅で笑いすぎてとうとう動かなくなっていたフィオーレから、また奇妙な声が漏れ聞こえたが、誰もそちらへ視線を向けようともしなかった。王の護衛として同席を許されているラティのみが、その傍らで迷惑そうな表情を深めたのみである。白魔法使いの死因がそろそろ笑いすぎになりそうな事態を前に、砂漠の王もなまぬるい笑みを浮かべたのみだった。
「妖精ちゃん、ソキの正装へ向ける情熱を簡単に言うと?」
『はぁ? 決まってるじゃない、そんなの。アタシのソキは世界で一番きれいかつ可愛い『花嫁』なのよなにか文句でもある? あるの? ないわね? ないわよね当たり前よね? 特別に見せびらかしてやるからさあ見ろ。ただし触るな、という気持ちを魔術師どもに対して示してやるだけよ? 見せてやるだけ有難く思って頂戴』
「よし、ソキの担当者を呼びだせ。これは俺たちの手に余る」
 傍付きであるロゼアに聞くことができれば一番だったのだが、その本人はソキと時を同じくして学園に入学した魔術師の卵である。一年先輩であったのなら呼びだして遠慮なく聞いただろうが、ロゼアの正装も決めている最中に、さすがにそれは出来なかった。暗黙の了解として、新入生には正装を用意してはならないという件は伝えられるが、誰がそれを整えるかまでは教えられない。当日の夜に案内妖精自らがそれを告げるまでが、魔術師の卵と旅路を共にした彼らの正当なる報酬だからである。また、案内妖精たちはパーティー当日のパートナー役も務める。新入生にはやはり理由が秘められたまま、パートナーを決めてはいけないということだけ伝えられるのだった。パーティー当日、案内妖精と再会を果たす新入生も多い。聞けばソキは一足先に会っているというが、一度きりで、多く顔を合わせている訳ではないらしい。
 別れの時より、約三ヶ月。以前を知るからこその成長に触れることができるのも、案内妖精の特権、そのひとつだった。そういえばソキは射程範囲内に入ったら一撃でアレするようになったのかしらちっともそんな気がしないんだけど、と溜息混じりに心配する案内妖精は、とりあえず屋敷の者が来るまで休憩する心づもりらしかった。部屋の片隅に用意されたちいさな机へ飛んで行くと、精巧につくられた妖精用の椅子に座り、皿に盛った角砂糖を両手で拾いあげ、食べ始める。新入生の正装準備の為、砂漠の国に妖精が訪れてから約半日。ようやく、人の心を徹底的に叩き折りに来る罵詈雑言の嵐がやんだ瞬間だった。深くふかく息を吐き出し、砂漠の王は遠い目をする。これが正装が完成するまでの約二週間とすこし、毎日続くのかと思うだけで疲れを感じた。ソキ担当の者が来たら、彼らと話がうまく合えばいいのだが。
 砂漠を潤す『花嫁』に、屋敷、あるいは国から最後に贈られる物こそが婚礼衣装だ。本来、ロゼアは絶対にそれを着たソキを見ることが叶わない。『花嫁』として育てられた者を、もっともうつくしく飾る為の衣装。ソキは、それを恋しい傍付きの目に触れさせることができない筈だった。必ず離れ離れになる運命は変わり、けれども、ソキの魔術師としての定めが、今もその危険を孕んでいる。ソキはそれを十分に知っている筈だった。ロゼアがそれを、知っているかどうかは、分からない。予知魔術師の暗黙の了解。暗黙であるからこそ、知る者はそれを、あえて語ることはしないのだ。ソキはロゼアにそれを告げないだろう。決して、己の口から語ることはあるまい。傍付きは『花嫁』の希望を叶える。だからこそ。
「恋と、義務は別物。……ソキは誰よりそれを理解してる」
 呟き、砂漠の王は深く息を吐きだした。ソキが予知魔術師でさえなければ、もうすこし違う未来の可能性があっただろうに。考えても仕方のないことだ、と割り切って、砂漠の王は未だ床に倒れたまま動かない、己の魔術師の元へ歩み寄った。
「フィオーレ、そろそろ起きろ。……踏まれたくないだろ? 言っておくが俺は、踏むぞ?」
「え、えええええなにそれ。脅し? 陛下的にはそれ脅しなの?」
 がっ、と音を立ててフィオーレの顔のすぐ先に、砂漠の王の靴底が置かれた。そろそろとフィオーレが視線をもちあげた先、砂漠の王は麗しく微笑み、つめたい目で魔術師を見下ろしている。
「脅しではないな。予告だ。……いつまでも床に転がっているなだらしない、と言っているんだが?」
「すみません起きます!」
 瞬時に床に手をついて跳ね起きたフィオーレは、呆れ切った目を向けてくるラティの隣に背筋をまっすぐに正して立ち、そわそわと視線を彷徨わせた。いつもならもうすこし王も優しい対応をしてくれるのだが、ソキの案内妖精のあまりの罵倒っぷりに、精神的な余裕が白魔法使いの想定よりはるかに少なくなっていたらしい。すみません真面目になります、今この瞬間からっ、と全力でごめんなさいの眼差しを送りながら宣言するフィオーレに、砂漠の王はゆったりと腕を組み、満足げに微笑した。
「それなら、いい。で、言ったか言ってないか思い出せないから、改めて指名しておく。フィオーレ。ラティ。砂漠の国の王宮魔術師たるお前たちに、夜会への同行を命ずる。当日までに、各自正装を用意しておくこと」
「はい、陛下。二人も行っていいんでしょうか……?」
 それとも私は数に含まれないんでしょうか魔力量的に、と苦笑しながら問いかけるラティに、首が振られる。
「いや、そういうことじゃない。こと物理においては今代最強とされるラティと、魔法使いであるフィオーレを一緒に並べて俺が自慢したいだけ。まあ、護衛として連れてくる王宮魔術師は、各国ひとり、みたいな暗黙の了解があるにはあるが……」
 視線を流してしばし考え、まあ大丈夫だろ、と砂漠の王は頷いた。
「うち以外は護衛と担当教員で、結局二名にはなるんだし、気にするほどのことでもない。それに、お前らは当日、俺の護衛以外にも仕事あんだろ? フィオーレはナリアンの体調を確認してやれ。そろそろ疲れも溜まって来てるかもしれないし、先日、レディがナリアンに接触したとの知らせが来てる。まあ……レディは愉快犯みたいなトコあるが、誰かの体調崩して面白がるような性格はしてないから、大丈夫だと思うが」
「はーい」
 ついでにソキも診ていいですか、と問うフィオーレに、それはお前の好きにしていい、と王は苦笑した。そのまま視線を流し、砂漠の王は私なにか仕事あったっけ、とばかり眉を寄せて考え込むラティに、仕方ないな、と柔らかく目を細める。
「久しぶりに、メーシャに会ってやれ、と言ってるんだ。前回、お前が休暇を取ってメーシャに会いに行ったのが、案内妖精の指名が行われる二ヶ月前……もう、半年以上はまともに会話すらしてないだろうが。幸い、同じ占星術師であるのだし、なにか話でも……いや、別に魔術師的な話じゃなくてもな? 家族的な話でもいいからな? 会う機会作ってやるから行って来いっていうだけだから」
 私メーシャにお話しできるような魔術師的なアレとかそういうの一切ないので泣いて良いですか、とばかりふるふると小刻みに首を振って顔色を悪くするラティに、砂漠の王はやや慌てながら訂正し、すこしばかり呆れて額に指先を押し当てる。
「……お前、魔力が枯渇してるのかと思うくらい無いってだけで、勉強はできた筈だろ?」
「うん。見てて不安になるくらい魔力ないってだけで、成績はよかった筈だよな……?」
「う、うふふふふふ」
 フィオーレお前あとで殴る、という目つきで同僚を睨みつけながらほの暗く笑い、ラティは分かってらっしゃらないようなので言っておきますけれど、と震えながら告げた。
「メーシャに! あれ魔力枯渇してるのかな大丈夫かな、とか! 見てて不安になる感じでアレとかされたら! 私、一週間くらい立ち直りませんから……! 恥ずかしいんですよ言わせないでください……!」
「だ、大丈夫だってラティ。それはその、ラティの魔力はなんていうか、その、さんみりりっとるくらいしかなくて、じわじわ笑いがこみあげてくることもあるげふっ」
「どう考えても今のはお前が悪い」
 フィオーレの肩を掴んで腹に全力で膝を叩きこみ、足払いをかけて倒れた所へ頭を狙った蹴りを放つ物理系王宮魔術師を咎めずに眺め、砂漠の王はしみじみと呟いた。そういえば、他国は誰を連れて行くつもりなのだろうか。もう数日したら決まってくるだろうから聞いてみようと思いつつ、砂漠の王は口元に手を押し当て、のんびりとあくびをした。

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