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 さて私の王宮魔術師たちはこれを見てくれるかな、と麗しき楽音の国王が詩の一節でも奏でるように告げた言葉に、室内にある者全ての視線がそれへ向かって集中した。楽音の国王自らが持つ、なんの変哲もない白い紙にはいくつもの縦線が等間隔に引かれ、その間をじぐざぐに縫い合わせるように、不規則な配置で横線が引かれている。線は黒で引かれていたが、ひとつだけ、上下を繋ぐ赤線が誰もの目を引いた。呼び集められた会議室、兼、楽音の王宮魔術師の今日の三時のおやつ室に、微妙な沈黙が広がっていく。誰もがそろりと困惑に視線を彷徨わせ、のち、ひとりがもくもくもくと口を動かしてパウンドケーキを堪能していた、予知魔術師の少女、リトリアを肘で突っついた。
 聞きなさいあなたならば怒られないっ、と必死の視線をいくつも受け止め、リトリアは首を傾げながらマグカップに入ったミルクココアを一気飲みしたのち、唇を指で拭って、はい、と手をあげた。はい、と優しい教師の表情で発言を許した楽音の国王、己の主君であるうつくしい男に、リトリアは見たものをそのまま、その通りに問いかけた。
「陛下、あみだくじに見えます」
「あみだくじですからね」
 ふふふ、となにやら楽しそうに微笑をきらめかせる麗しい男は、よく晴れた日の空色の瞳をやわりと細め、手に持ったその紙をひらひらと振った。陛下、大変申し訳ありません。意味わからないです陛下、意味分からないです、と王宮魔術師たちの苦悩渦巻く沈黙が室内に重苦しく立ち込めて行く。ひとり、そ知らぬ顔でこてりと首を傾げたのち、リトリアは再度はい陛下と言って手をあげた。先程の質問をしている間に部屋に控えていた給仕が空になったマグカップに新しいミルクココアを注いでくれた為、甘い香りがふわふわと漂っている。たくさんお食べ、という城の者たちの視線は温かく、柔らかい。
 ミルクココアのふわりとした、甘いにおいを幸せそうに吸い込みながら、リトリアはにこにこ笑う楽音の王に、あどけない響きの声で問いかけた。
「なんのですか?」
「今度、学園でパーティが開かれるでしょう? 護衛につれて行く魔術師を誰にするか考えていたんですが、どうも、決まらなくて……」
 はにかむように笑う楽音の国王に、リトリアはそうなんですかと頷いたのち、籠盛りにされているチョコレートとバニラのマーブルパウンドケーキに手を伸ばした。ぶ厚い一切れを指先でつまみあげ、またもくもくもく、と大人しく食べ出すのは、リトリアには基本的に会議での発言権がないからと、城外での王宮魔術師の活動に関われないからに加え、入室した時に国王直々におやつを食べていていいからね、と言われていた為だった。国王が王宮魔術師に囁く発言は、すべからく命令の意味を帯びる。つまりは黙って聞いておいでということなので、リトリアはその通りにしているのだった。ちらりと視線を持ち上げると、国王が楽しげに笑みを深めた所だった。
「ということで、キムルが当選しました。夫を一日貸してくれますね? チェチェリア」
「……どうぞ」
「ありがとう」
 キムル、と王がチェチェリアの隣に座っていた男の名を呼んだ。男が視線をあげ、王に対して目礼する。
「僕を、王がお選びくださったのであれば」
「それでは、当日までに正装の用意をしておいてくださいね。キムルも、チェチェリアも。残念ながら夫婦でずっと一緒にいて良いですよ、という訳には行きませんが、場が落ち着いたらキムルは私の傍を離れても構いません……帰る時は声をかけます」
 楽音の国王には何度か、パーティー会場に護衛を置き忘れて帰った前科がある。いいかお前陛下の傍から離れるなよ絶対にだぞ、と残される王宮魔術師たちから視線を受け、キムルは心得た表情で頷いた。彼らの主君たる楽音の国王陛下は、そのうつくしい外見とは裏腹に、心もちを誰にも読ませない気質を持っている。警戒心が強い、のではない。腹黒すぎてなにを考えているのか読めないだけだ。そういう種類の人なのである。件の、王宮魔術師置き去り帰宅事件の時も、それがいざ実行に移される瞬間まで、誰に気取らせることもしなかった。王はあまりに鮮やかに身を眩ませてみせ、そうしてからはじめて、きまぐれではなく周到に用意を重ねて計画された結果だと認識させたのだ。
 去年は、もうしませんよ大丈夫、と言っておいてやっぱり逃げられたので、楽音の王宮魔術師たちは今年こそ、と逃亡を阻止する気合いに満ちていた。幸い、学園でのパーティーは王が同行させる王宮魔術師の他、予定がない者は顔を出しても良いことになっている。今年こそ、今年こそだめですからね陛下っ、と無言で訴えられつつも、楽音の国王は、そういえば、と楽しそうな笑顔を浮かべてみせた。
「君が、パーティーの準備を楽しく進められそうな情報をひとつ、耳にしました」
「……なんでしょうか?」
「アリス……白雪の女王陛下の護衛は、今年もエノーラだそうですよ」
 がたあぁっ、と音がした。キムルの隣で、チェチェリアが全力で頭を抱え込んだ音だった。冷静な女性の常にない姿だったが、誰もそれに突っ込みを入れなかった。へえ、とキムルがしっとりと、笑みを深める。楽音の王宮魔術師たちは、各々が胸に抱く戦慄に身を震わせ、視線を床にたたき落とした。知る者は知っている。白雪のエノーラと、楽音のキムル。この、両者の関係は。一言で表すのなら。
「それは……とても、楽しみですね。陛下」
 天敵である。それを楽音の王は、十分に知っている筈だった。それなのに、そうでしょう、と笑みを深めて王は頷く。
「ああ、キムル。分かっているとは思いますが、エノーラは白雪の女王の王宮魔術師です。手段は選びなさい」
「御意に、陛下」
「……楽しみですね」
 彼女の困る顔が、と聞こえたのは、恐らく王宮魔術師たちの聞き間違えではないだろう。彼女というのは、エノーラのことではない。白雪の女王、そのひとのことである。楽音の王は、別に白雪の女王が嫌いな訳ではない。その逆である、ということを誰もが知っている。王は幼馴染でもある女王をこよなく愛し、故に。時々、わりとえげつない手でいじめて突いて、困ったところを助ける、というのを趣味のひとつにしているだけである。好きなこ苛めたいをこじらせた進化系、と評したのは同じく幼馴染である砂漠の国王だが、それを聞いた時、楽音の王宮魔術師たちは一人残らず心の底から全力で思った。どうしてそうなる前にたしなめたり改善させたりしてくださらなかったのですか砂漠の陛下、と。
 無理、俺コイツは手に負えないって知ってる、と笑いながら匙を投げ捨てた砂漠の国王は、つまり楽音の王の性格が黒く歪んでいるのを承知しているが、白雪の女王は未だに、いまひとつそれを理解していないのだという。うちの陛下どう思いますか、と楽音の王宮魔術師に聞かれた彼の女性は、すこしだけ考えた上で、やんわりと微笑んだ。時々すこしいじわるかな、と。いえ真相は時々でもすこしでもないので全力でお逃げください女王陛下、うちの陛下がもう本当すみません、と問うた者は思ったらしいが、それを告げはしなかったという。
「それと」
 まだなにかあるんですか陛下、とすでに胃が痛そうな魔術師たちの視線を受けながら、王はくすくす、楽しげに喉を震わせた。
「なにを話すか、決めておくといいですよ」
「……はなし?」
「太陽の黒魔術師、ロゼア。チェチェリアの生徒で、今年の新入生の彼に、同じ属性を持つ者として話をしてあげなさい。……太陽属性は少ない。魔術師としての適正が違うにしても、参考にできることはあるでしょう」
 二人でゆっくりじっくり語り合ってくれても構いませんからね、と告げる王の笑みに、その隙をついて逃げるので、と書かれているのに気が付けない楽音の王宮魔術師は存在しない。陛下に紐付けておきたい、絶対このひと今年も逃げる気だ、というか白雪の女王陛下は今年こそ逃げ切ってください逃げてほんとうもう超逃げて、と胃の痛みにばたばた机に倒れる同僚たちを暢気にみやり、リトリアはこてり、不思議そうに首を傾げた。もくもく、ごくん、と飲み込んでミルクココアに幸せに目を細め、ほぅ、と息を吐き出して問いかける。
「……たべないんですか?」
 パーティーってそんなに大変な行事だったかしらとばかり眉を寄せるリトリアは、いまひとつ、己の主君の性格を正しく把握していない。そんなリトリアに、国王は歳の離れた妹をかわいがるように目を細めてやんわりと微笑み。どうなんでしょうね、と笑みの滲む声で囁いた。




 数年前のことである。暇を持て余した王宮魔術師たちは、ある日突然発作的に、五ヶ国の陛下方で誰が一番イケメンなのか決めなければいけない気がする決定戦を開催した。発端、実行、主催は全て花舞の国の王宮魔術師である。各国からはまた花舞か、これだから花舞は、というかだから花舞はなにをしてるんだ、むしろ花舞はなにがしたいんだ、と言われたが、とにかく彼らは開催し、そしてぶっちぎりで自国の陛下を優勝させてきたことがある。数ある各国の陛下のイケメンエピソードを退け、優勝の決めてになったその逸話は、こう。花舞の陛下が中庭を散歩中、庭仕事をしていた侍女の頬についていた土汚れを拭い、君の柔肌に触れることができるという幸福を得てしまったかな、いつもありがとう、と囁いた。告げた魔術師はうちの陛下まじイケメン、と叫んでその場にしゃがみ込んで動かなくなったという。
 発端と実行と主催が花舞である時点で花舞の陛下に多少有利だとしても、決定戦に参加した各国の王宮魔術師たちは、遠い目をして思った。花舞の陛下、まじイケメン。かくして五ヶ国の中で最もイケメンの称号を非公式で手に入れた花舞の王の性別は、女性である。女王陛下である。数年前までとある事情で性別を隠し、男として国王陛下であった時期も長い花舞の王は、けれども今ではまごうことなき女性。女王として政治を行っているのだが、それでも王宮魔術師たちの評価にとりたて変化は見られなかった。理由はひとつ。そもそもイケメン決定戦で優勝をさらってきた逸話は、王がその真の性別を明らかにしたあとの話だったからである。
 イケメンに性別など関係ない。つまりうちの女王陛下まじイケメン異論は認めない、と主張してならない花舞の王宮魔術師たちは、今日も今日とてその思いを新たにしていた。恐らく五ヶ国の中で最も陛下好き好き大好き陛下へいかっ、しているのが花舞の魔術師たちである。好きだけど尊敬しているけど大切な方だと思っているけど愛の種類が恐らく違う、と言い切る楽音の魔術師たちと、彼らが徹底的に話が合わないのはそんな理由だった。陛下がそこにいらっしゃるのにはしゃがないでいられるとかちょっと意味が分からないので人生やり直して来た方がいいと思う、とまで真顔で言うのが花舞の王宮魔術師、その最大の特徴だ。花舞、まじ花舞、と言われる由縁である。
 そんな、一人でいるだけでの花舞ほんと花舞と周囲をぐったりさせる魔術師が、一同に会し、狭くはない部屋の中で睨みあっているのには理由があった。目の前にいるのは陛下への愛を共に語る味方、けれども今だけは倒すべき敵、として互いを睨み、彼らは思考を巡らせる。手段は尽くした。全て。できることはやりつくした。では、あとはなにができるのか。それは前へ踏み出す勇気を持つことと、そして。運。それを己の手の中へ呼びこむこと。一人の女性が息を吸い込み、前へ足を踏み出した。応じるように、男も前へ進み出て、二人は睨みあう。せえの、とどこかで声がした。掛け声だった。
「じゃんけん、ぽん……! きゃあああああああああやったあああああああ!」
「うわあああああああああ!」
 女が幸運を手にした涙を浮かべながらその場で飛び跳ね、男は魂を叩き折られた叫びでくず折れる。雨上がりの五月を思わせる静かにくすんだ水色の髪と、それを色濃くしたような青い瞳を持つ女は、年相応の落ち着きというものが遥か彼方にあるが故、少女めいた雰囲気を持つ面差しを喜び一色で染め上げている。
「さすが私! キアラちゃんアルティメットスペシャルの大勝利ーっ!」
「……くっそなんだよ、その……アルなんとか」
「ちょっと短めなんだから、それくらい覚えてよね、ジュノー! キアラちゃんアルティメットシュ……スペシャル、とは!」
 あっ噛んだ、今噛んだよね、という視線を無視しながら、とある事情で病魔に倒れたナリアンを迎えに行き、治療を施し、けれども目覚めたばかりの魔術師であることにちょっとウッカリしすぎていて気が付かないで帰って来て、数日後、ソキに出会って、『新入生のナリアンくん』であることを指摘された白魔術師の三人組、のうちひとり。元説明部でもあるキアラは、それはもうやたら楽しそうに胸を張り、全力で言い放った。
「その名の通り! 私の運気をアルティメットでスペシャルな感じにあげてあげてあげまくる! 術が切れた時の反動の不幸? 気にしないことにしました! 目の前の勝利の為に未来の私は犠牲になったのだ……! という感じの! ものすごい祝福魔術に決まってるじゃないのこの日この時この瞬間の為に半年がかりで組みあげました!」
「えげつねええええええ! えげつねえ術組みやがったぞコイツ……!」
「ふはははは! 怖い! 自分の才能が怖いわというより数日後の! 不運の日々が! ちょうこわい!」
 あっ馬鹿だこのこちょっとばかりお馬鹿なんだ、という周囲からの同情に満ちた視線に、キアラは頬を両手で包み、すんすん、と鼻を鳴らして首を振った。
「で、でもでも! これもパーティーで陛下の護衛を務める為、その為の試練を潜り抜ける為だと思えば……! ええっと、あと何人勝ち抜けばいいんだっけ……?」
「……そんなキアラに残念なお知らせがあります」
 首を傾げるキアラの肩を、ぽんとばかり叩いたのはシンシアだった。長めの桜色の髪に、黄碧の瞳をした、植物めいた印象をあたりにふりまく女性だった。キアラと、ジュノーと、シンシア。通称三人組、で常に一緒にきゃいきゃい騒いでいる、残りのひとりである。女性二人に挟まれるジュノーの髪色は黒く、焦げ茶色の瞳をしている為に、周囲は彼らを密かに土と花と空、とも呼んでいた。三人が一緒にいると、それだけでなぜかきゃっきゃうふふはしゃぎたおす雰囲気を持つ、花舞の祝福された中庭の様子を思わせるから不思議だった。ちなみに、キアラとシンシアとほぼ常に一緒にいるジュノーに、王宮魔術師男性陣から嫉妬めいた視線は向けられない。向けられるのは同情か、呆れか、またお前らか、という三種類の眼差し、そのどれかである。土花空の三人組は、他国を呆れさせる花舞の魔術師を、さらに呆れさせる。奇跡的な存在だった。
 テンション高く突撃して騒ぎを巻き起こすキアラ。そんなキアラを見守るような眼差しをしつつ、落ち着いていると見せかけて予測不可能な行動に出ては失敗しいやああぁあんっ、と騒ぎ涙ぐんで動かなくなるシンシア。その二人を止めると見せかけながらも、時に新たな騒ぎを起こし、時に被害を拡大させていくジュノー。三人もいるのに、そこに一人たりとも、冷静な突っ込み役と歯止め役が存在していないのである。陛下なんで三人で組ませちゃったんですか、と疑問の声に、花舞の女王は微笑んで告げたという。子犬がころころじゃれあっているみたいでとても可愛いと思わないかい、と。つまりはそういうことである。花舞の魔術師の基本構成は、どこまでもあくまでも、その女王の趣味で決定されていた。
 趣味の結果であるから、魔術師たちがきゃいきゃい騒ぎすぎて煩かろうと、基本的には怒られない。一同に会した部屋は女王執務室の隣に位置していたが、開始して数時間、未だ小言のひとつもないのは楽しまれているからである。陛下が楽しいのであれば、その魔術師に自重という言葉は存在しない。してはならない。こころゆくまで花舞、と一般の王宮勤務者に思われながら、魔術師たちはじゃんけんを続けて行く。初戦敗退したシンシアはしばらく涙ぐんで動けなくなっていた筈なのだが、回復したらしい。なぁになぁに、と不思議そうにするキアラに、シンシアは微笑み、哀れむようにして言った。
「あと一人勝てば、キアラが護衛なんだけれどね……?」
「うん!」
「最終戦がロリエスです」
 終わった。完全に意志が統一された花舞の魔術師たちの中、茫然としてキアラが首を傾げる。
「な、なん、で……? だって、ロリエス、だって、担当教員だから、そんな、参加しなくても、そんな、え、なんで」
「……理由? そんなものはひとつだろう」
 カツリと足音を響かせて、いつの間にか歩み寄っていたロリエスがキアラの前で立ち止まる。バレッタで留められた女の髪が、一筋だけほつれ、頬へ落ちていた。それを摘みあげてロリエスは耳にかける。視力を補正する為の緑縁の眼鏡の奥、静かに燃える炎を灯す瞳の色は、夜の黒さを保っていた。ごく冷静で、揺るがぬ姿。寮長に女神と囁かれるに相応しい、凛とした立ち姿だった。ロリエスの背後には、床にばたばた倒れている同僚たちの姿。恐らく、ロリエスに負けて希望を断ち切られた者たちの姿が、あった。睨みつけるキアラに、ロリエスは微笑んで、言い切った。
「陛下の隣に立ちたくば、私のことを超えて行け」
「っ……わ、分かった、分かったわ。私はロリエスに挑み、そして、超えて行って見せる……!」
 二秒後。魂を叩き折られた悲鳴をあげて床に倒れたキアラと、それを優しく見下ろすロリエスの姿をもってして、花舞の女王護衛決定戦は終了した。これだから花舞は、と他国に呻かせる。花舞の王宮魔術師たちの、これが日常である。




 隣室の嵐とは裏腹に、女王の執務室はやんわりとした空気に包まれていた。静かではないのは、女王と共にいる案内妖精がきゃあきゃあとはしゃいだ声をあげ、それでねあのねっ、と相談事をしているせいだった。質の良い作りの執務机は、今日もきちんとした印象で整頓されていた。未処理の仕事などもないのだろう。机の上にはいくつか、本と色とりどりの液体を封じたインク壺、羽根ペンと硝子ペンが立てて置かれ、窓から差し込む陽光に淡い影を広げていた。薄青い透明な影の中で、妖精がくるくると踊っている。それを机に肘をつき、うっとりと眺めていた花舞の女王の視線が、持ちあがり。静かに入室してきたロリエスを認めると、くちびるの動きだけで御帰り、と言った。傍へ呼んで結果の説明を求めながらも、花舞の女王は、はしゃぐ案内妖精の歌のような囁きを、恋の言葉を聞き続けていた。
「ナリちゃんはね、ナリちゃんはね! とっても、とっても素敵なの! 笑ってくれた、ニーアって、名前を呼んでくれた……! ひかりでいっぱいになったの! 心が、気持ちが、きらきらって。ナリちゃんだけなの、ナリちゃんだけが、私をそうしてくれるの! ずっとずっと昔から、ナリちゃんは私の特別。……ふふ、うふふ! 嬉しいな、ナリちゃんに会える。ナリちゃんに、もうすこしで会えるの!」
「そうだね、とても楽しみだ……ああ、ロリエス。もっとこちらへ」
 机をぐるりとまわって本当に傍らまでおいでと手招く花舞の女王に、ロリエスは柔らかな微笑みでもって頷いた。ゆったりとした足取りで、机を回り込む。インク瓶の青い影の中、ナリアンの案内妖精、ニーアはまだくるくると舞い踊っていた。女王は妖精をやさしい眼差しで眺めつつ、ひそめた声でロリエスに問う。
「それで、私と共に行く魔術師は決まったのかい?」
「いいえ」
 女王の影に控えるように立ち、ロリエスはきっぱりとした声で言い切った。
「残念ながら、我が女王陛下。最終的な勝利は私のものに」
「手加減しておあげ、ロリエス」
 くすくす、仕方がないなぁと肩を震わせながら、ロリエスを一瞥する眼差しは柔らかい。長い睫毛が影を落とす、女王の瞳は不思議な色をしていた。薔薇のような高貴な赤と、地平を貫く夕日の濃い橙の二色が、ゆらゆらと濃淡を変えて混ざり合っている。背を流れる髪もまた、暖炉に積もる灰と、春に散り咲く桜の二色が織り交ぜられていた。うつくしい、ひとだった。柔らかな女性の印象と、きよらかな青年の印象。どの両方を合わせ持つ、稀有な存在感をもつひとだった。今はまごうことなき女性に見えるそのひとが、ほんの数年前までは男として、王宮魔術師の目の前に立っていた。その姿を、ロリエスは今でも瞼の裏に描くことができる。鮮やかに。
 大きな印象の違いはないように思われた。男にも、女のようにも見え、それでいてその時は間違えようもなく『男』だと思えた花舞の王。
「……ロリエス?」
 なにを思い出しているの、と静かな声で問う女王に、ロリエスはただ、あなた様のことを、と告げた。かつて存在していた国王、今、存在している女王。その違いのことを、考える。昔、昔の記憶を手繰り寄せて。考える。幼い頃、この国には一人の王子と、一人の王女が存在していた筈だった。どちらが世継ぎと指名されることはなく、時がすぎ。ひとりが死に、ひとりが、生きた。その知らせだけが風に流れ、そして。残されたのは王子である筈だったのだ。年を重ね即位した『国王』が、ある時、自らは女であるのだと。生き延びたのは王女の方であったのだと、その口から周囲へ告げる、その時まで。全ては欺かれた。全ては隠されていた。不思議に思う意識は丹念に摘み取られ、混乱させられ続けていた。誰かの手によって。誰かの意思によって。
 まるで魔法のように。
「……ロリエス」
 名を、呼ばれ。ロリエスは息を吸い込んで首を振る。いけないよ、と咎めるように微笑されては、それ以上のことは考えるまいとして。断ち切ろうとした思考の名残が、ふと、それを引き寄せる。隣国。砂漠の白魔術師。白の称号を持つ魔法使いの出身国は、花舞。そして、彼は。瞬間。吹きだまりに押しこまれていた花びらが、嵐のような風に舞い上げられるかのごとく。濃密な魔力が意識を白く途絶えさせた。ロリエスの思考が断ち切られる。くらり、一瞬の眩暈。女王が苦笑しながら誰かの名を囁く。愛しげに、切なげに。告げられた名に覚えがある。その名は。確か、その名は。この国から失われた筈の。
「ロリエス。……もうすこし、もうすこしだけ待っていて。あと、すこしだけ、忘れていて……」
 倒れかけるロリエスを抱き寄せ、背を撫でながら女王が囁く。浅く息を繰り返しながら目を閉じ、ロリエスはただ頷いた。頷けば、その意志を受け入れれば、呼吸が楽になる。体から重苦しい圧迫感が消え、動きの鈍っていた思考が正常な回転を取り戻し、けれど。なにを考えていたのかは、思い出せない。それはとても大切なこと。けれども、女王が決して望まぬこと。花舞の王宮魔術師は、それだけを分かっていればいいのだ。その意志を守ることを。ロリエスは呼吸を整え、女王からそっと身を離し、立ちなおした。
「失礼致しました」
「いいや。……ありがとう、ロリエス」
 いつも、忘れたままでいてくれて。告げる女王に、ロリエスは静かに跪き、頭を下げた。私の女王、それがあなたの望みであるならば。誓いの言葉はこれまで幾度も繰り返され。今もまた、凛と響いて。その姿を、人の世の魔力の影響を受けぬ妖精だけが、不思議そうな眼差しで見つめていた。彼らは知っている。彼らは覚えている。だからこそ、花舞の女王はそっとニーアを振り返り。微笑みながら、その唇に人差し指を押し当てた。

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