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 楽園は迷宮の向こう

 かなしい気持ちで目を覚ました。耳の奥では未だ、夢に聞いた柔らかな声が響いている。それを失いたくなくて両耳に手をそえ、ぎゅぅと体を丸くして息を止める。しあわせになってね。しあわせになってね、ウィッシュ。大好きだよ、私の、たったひとりの、『花婿』さん。
「ふぃあ……」
 シフィア、という少女の名を。己の『傍付き』の名を、ウィッシュはいつからかそう呼んでいた。呼ぶたび、シフィアはひどく誇らしげで幸せそうな笑みを浮かべて、なに、とウィッシュに手を伸ばしてくれる。やさしい手は頬に触れ、肌を撫で、髪を指先で梳いて行く。首筋を温めるようにてのひらが押し当てられた後、また頬に触れ、額が重ねられて目の距離が近くなる。何度も、何度もそうされたことを覚えている。その手の熱を、優しさを、喜びを、安堵を、愛おしさを。恋を覚えている。ウィッシュは息を吸いこんで、弱々しく瞼を持ち上げた。そこに誰もいない。誰も、いなかった。分かり切った結果に悲しくなりながら息を吸い込み、ようやくウィッシュは身を起した。天井から降り注ぐ金色の光は優しく、一面が硝子張りになった壁のような窓からは、中庭の様子を見ることができる。外はまだ明るい。朝か、さもなければ昼前くらいの時間であるらしい。
 眠る前に見た世界が朝だったか夕方だったか、夜中であったのかを思いだそうとして眉を寄せ、しばらくしてウィッシュは首を振った。たくさん寝た気はするので、すこし動いても体調を崩すことはないだろう、と思う。それが分かれば十分だった。それ以上は、特に必要がないように思われた。ウィッシュは寝台からはがして運び込んだ柔らかな敷布を苦労して二つ折りにし、体にかけていた毛布をひどく時間をかけてたたみ、その上に置いた。ふかふかのぶ厚い敷布は大理石の床の上にしいて眠っても、ウィッシュの体を痛くしない質の良いものだった。寝具をとりあえず片付けて、それだけでも疲れてしまって、ウィッシュはふぁ、とあくびをしながら床にぺたりと座りこんだ。部屋は、ほぼ円柱型の作りをしていた。見上げれば首が痛くなるほど高い位置にある円天井は、白色と黄色のモザイクで装飾され、数ある部屋の中でも一番のお気に入りだった。
 本来、ここはサンルームとして使用される筈だったのだろう。まっすぐにのびた円柱が八角形を描く一室は、今ではウィッシュの寝室として利用されている。ちゃんとした寝室は他にもあるのだが、そこをウィッシュが積極的に利用したことはなかった。寝室には窓がない。外が見えるのはこの部屋だけだった。ウィッシュはぼんやりと光を浴びてもう一度あくびをしたあと、床に手をつき、ふるふると震えながら立ち上がる。『花婿』はあまり、自力で歩けるように作られない。『花嫁』がそうであるように。特にこのところ、ずっとひとりでいるウィッシュの脚は、さらに弱く脆くなっていて、自分の体重を支えることさえひどく難しかった。何度も転びながら、それでもそのうち、ふらふら、立ち上がって。ウィッシュは慎重に足を踏み出し、ひとまず部屋の隅へと向かった。
 部屋の隅には、ウィッシュの持ちやすい高さで手すりが付けられている。どの部屋も、どの部屋も。廊下にもそれはある。この屋敷の主がどんなつもりでそれを用意したのか、ウィッシュは考えないようにしていたし、聞くこともしなかった。聞こうという気があったとしても、それはひどく難しかっただろう。ウィッシュがこの部屋に連れて来られてから、時間や季節の感覚を失ってしまうまで、誰かに会ったという記憶はない。食事はいつの間にか扉の近くや、あるいはどこかの部屋の机の上に温かい状態で置かれている。誰が用意しているのかは知らない。見たことがなかったからだ。ぜい、と肩で息をしながらサンルームから続く部屋に辿りつき、ウィッシュは中をぐるりと見回した。壁には等間隔に絵画が飾られ、焼き物や彫刻が専用の棚の上に置かれている。
 一回寝て起きる前までは薔薇の彫刻が置かれていた筈のちいさな棚の上に、水の入ったグラスが置かれていた。つかれた気持ちでそこまで歩み寄り、ウィッシュは両手でそっと、グラスを包み込むようにしてもった。くちびるをつけてひとくち飲み、心から安堵して残りもゆっくりと喉へ通して行く。室温にぬるまった水の味しかしなかった。体が上手く動かなくなって、頭がぼぅっとする、あの嫌な味はしない。夜会がないということだ。夜会がある時には水や食事にはなにか混ぜものがされる。体を上手く動かなくさせる、頭の動きを鈍くさせる、夢うつつの間を彷徨いながらも決して眠りに落ちることが出来ない。起きている間中、夢を見ているようなものだ。夜会は、ここ以外のどこかで行われる。移動中は別の薬で眠らされるから、ウィッシュには別の部屋に行った、くらいの記憶しか残らない。
 それでも夜会に行くのは嫌だった。あんな場所はだいきらいだ。水を飲み終えてグラスを棚の上におき、ウィッシュはまた時間をかけてサンルームへと戻っていく。日によっては他の部屋で夥しい程の美術品、宝石や絵画や彫刻や装飾品。中には服や書籍などもあり、それにつもる埃を掃除したり、観賞したりするのだが、そんな気にもなれなかった。敷布の隣に座りこみ、目を閉じて体を伏せる。砂漠の砂の色をした光が、ウィッシュの肌をやわらかに撫でた。



 目を覚ますと、そこは寝台の上だった。息を吸い、二度、三度まばたきをして目を細める。サンルームではない。どこだろう、と悩んでいると、すぐ傍から声がかかった。
「……起きたか」
 視線だけを動かして声のした方向を見ると、寝台に腰を下ろし、ひとりの男が本を読んでいた。もう、時間は夜なのだろう。暗闇が降りる部屋の中で、手元だけが赤々と、灯篭の火に照らし出されている。男は本にしおりを挟んで閉じ、それを太股の上に置いてからウィッシュに向き直った。桜花を宿した珊瑚色の瞳が、こら、と優しい笑みに細められる。
「寝ぼけてんな? ……夢でも見てたか」
 起してやればよかったな、と囁く男は、その内容を知っているような口ぶりだった。ウィッシュは熱でだるい頭をぼんやりとさせながら、己に向かって伸ばされる指先を、目を閉じて受け入れる。頬をひと撫でしたあたたかな手は髪を梳くことなく、額に押し当てられて熱を測られる。不満いっぱいの気持ちで瞼を持ち上げ、男を睨みつけて。ウィッシュは、あ、と言って目の前の男の名を呼んだ。
「シル、寮長……」
「……ウィッシュ。本当に寝ぼけてたな? お前……」
 呆れながら手を引き、寮長は全く下がっていない熱に舌打ちを響かせた。眠っている間に薬は飲ませた筈なのだが、うまく効いていないらしい。ウィッシュはのたのたとまばたきを繰り返したのち、ふぁ、と幼くあくびをする。
「あれ……俺なんで寝てんの……? というか、寮長、ここ、どこ……?」
「俺の部屋。なんで寝てるかって聞かれてもな。俺が見つけた時にはもうお前の意識なかったし」
「いしきなかった……?」
 その言葉がいまひとつ、どんな状態を指し示すのか理解していない発音と顔つきで、ウィッシュはたどたどしく繰り返した。ウィッシュはひどく眠そうに、そしてまた疲れ切っている様子で何度も何度もあくびを繰り返し、のたくたとまばたきをする。その仕草はとてもよく、ソキに似ていた。いや、と否定に寮長は眼差しを伏せて苦笑する。ソキが似ているのだろう、この兄に。あるいは『花嫁』、『花婿』と呼ばれる者は皆そうであるのかも知れない。どこもかしこもやわらかなつくりで、甘い印象の、ひどく脆い、欲を駆り立ててならない存在。庇護欲と、保護欲と。独占欲。ウィッシュ、と呼びかけてやれば、焦点を結びにくい様子でゆらゆらと揺れる、赤い瞳が寮長を見つめてくる。熱に潤んでとけきった、とろとろの、無警戒な無垢な瞳。紅水晶と呼ぶよりそれは、あまりに熟れた苺めいていた。目の毒だな、と思いながら指先を伸ばす。
 目の下と、瞼。形をなぞるように触れてやれば、きゅぅ、と嬉しげに細められた瞳と共に、くすくす、笑い声が忍んで響く。
「なに、りょうちょ……」
「ん? ……起きてて辛くないか?」
 触れる肌は温かいとするより嫌な熱さで、それなのに恐ろしい程滑らかに、しっとりとしている。顔だけではなく全身そうなのだろう。指先を握るようにしながら手を離せば、ウィッシュの目が名残惜しそうにそれを追いかけた。もっと触って。離れて行かないで、と目が告げている。意志を言葉にすることなく、ウィッシュは不満げに眉間にしわを寄せ、ふすん、と鼻を鳴らした。ソキが時々そうする、不満げな、拗ねた仕草。喉を震わせて笑えば、開かれた瞼の奥、泣き濡れた柘榴の瞳が寮長を眺める。
「りょうちょ、ねない……? ここにいて、じゃまじゃない? はしに、よる?」
 たどたどしく甘い、やわやわとした声に寮長は息を吐きだした。熱と、それから恐らくは夢に見た記憶のせいで、ウィッシュの状態はひどく不安定だ。言ってしまえば『花婿』に近く、普段の王宮魔術師として気を張り続ける姿とはかけ離れている。まとう空気もなにもかもが、よわくもろく、解けてしまっていた。いいよ、と言い聞かせながら、寮長は手を伸ばしてウィッシュを撫でてやった。心地よさそうに目を閉じて息を吐く、その面差しを静かに眺める。昼前のことだ。寮長、ウィッシュの意識がない、と誰かが叫んで談話室へ飛び込んで来た時、瞬間的に意識を貫いて行ったのはあの馬鹿、という怒りだった。ウィッシュに対してのものではない。このよわい存在をたぶらかしそそのかし、契約まで結んで行った『向こう側』の世界の存在に対してである。契約を結び、己のものだと言い、守護をするなら守りきれ不可能なら滅べというか今度こそ殺す、くらいまでは思った。ウィッシュを倒れさせ、高熱に伏せさせるくらいならそんな存在はいらない。
 ほっそりとした作りの指に通されたいくつもの装飾具を眺め、忌々しそうにする寮長に、ウィッシュの瞳がこの上もなくしあわせそうに緩む。言葉はなく。この世界に存在する幸福と、愛をそのまま囁きかけるような眼差しでしばし、寮長のことを眺め、ウィッシュはやがて、満ちた雰囲気で息を吐きだした。深く触れてくることはなく、額や、頬をゆっくりと撫でてくる指先に肌を擦りつけて甘えながら、とけた瞳をゆらゆらと室内に巡らせる。寝ろ、と言いかけて寮長は口唇にちからを込めた。眠れないから起きているのだと、過去の経験からすぐに分かった。高い熱はそうつらいものではないのだという。体は痛むし意識はふわふわして気持ち悪くて辛いけれど、つらくは、ないのだと、ウィッシュは言った。誰かがつきっきりで傍にいてくれるからね。俺には別にそんなに悪いことじゃないんだよ。心配かけてしまったり、迷惑かけてしまったりするのは、申し訳なくも思うけど。撫でて触ってもらえるし、誰かがそこにいてくれる。しあわせなことだよ、と学園に来たばかりのウィッシュは、告げた。
 気持ちは今も変わっていないのだろう。ぼんやりとしながらもウィッシュは寮長が傍らにいてくれることをひどく嬉しげに確認しながら、ふわふわと室内を見回している。珍しいものはない筈だった。どの部屋にもある書きもの机と本棚には教本が並べられ重ねて置いてあり、インク瓶とペンが並べられている。着替えはまとめて専用の棚の中。床の上にはなにもなく、すっきりと整えられている。部屋の中でごちゃりとした印象があるとすれば、寝台周りだけだった。何冊もの本が雑に並べられ、邪魔にならない位置には水差しとグラス、空の食器が適当に放置されている。中身を失ってしばらく経過しているであろう器を不思議そうに眺め、ウィッシュの目がまっすぐにシルへ戻された。
「ごはん、へやで、たべたの……?」
「寝てたからな。置いていけないだろ」
 起きていたとしても動けないウィッシュを置いて、そう長い時間傍を離れるつもりなどなかったのだが。ふぅん、とふわんふわんした嬉しそうな声で笑い、ウィッシュがくたりと体から力を抜いた。浅く早く繰り返される呼吸をする、喉が渇いている。水飲めるか、と問えば、ウィッシュはしばらく考えたのち、寮長を見上げてのませて、と言った。そうじゃなきゃ飲まない、と言わんばかりの顔つきに、シルは苦笑いをしながら水差しに手を伸ばし、グラスにぬるまった水を注ぐ。体にもたれさせるようにしてすこしだけ体を起させ、うすく色を失ったくちびるに、グラスを押し当て傾けた。こく、とちいさく喉がなる。一度、すこしだけ飲んで、安心しきった風に笑って。こくこく、飲んで行くのがウィッシュの常だった。なにを不安がっているのか、なにを確かめているのか。なぜ、それが習慣付いて残ってしまったのか。聞きだしたからこそ、寮長は知っていた。
 咎める気にはならない。その記憶はウィッシュを苛み続けている。『学園』に来てからもずっと、卒業してからも時折。記憶は夢の形となってウィッシュに手を伸ばし、その迷宮にこころを閉じ込めて弱らせる。結局、己の腕を動かしもせずに水を飲み切って、ウィッシュはすりすりと寮長に甘えて体を擦りつけてきた。あまやかしてあまやかしてなでてさわってすきすきだいすき。ふわふわした心からの好意がだだもれの仕草に、シルは思わず肩を震わせる。ロゼアの腕の中でごろごろ喉を鳴らしてご機嫌な、ソキがよくこういう仕草をしているのを見ているからだ。誰にでもする訳ではないことを知っている。心を預けた者にしか、彼らは決して懐かない。長く伸ばされた白い髪を一筋、手に取って指で挟むように撫でてやれば、ウィッシュは花開くような笑みを浮かべて息を吐きだした。ひかり輝くような。うっとりとした、笑み。
「……ほら、水飲んだら横になれ」
「ん。……あれ、りょうちょ、おれ、しらゆきに……いかないと」
 帰らないと、ではなく。戻らないと、でもなく。気が緩み切った状態で、行かないと、と告げるのが本心だと知っていた。そうするべき、そうあるべき、とはきと認識している時ならその単語を使うが、ウィッシュが心から帰る、と囁く場所は今でも遠くにあるままだ。かえりたい、と泣きながら告げた場所がどこにあるか、寮長は知っている。砂漠の国。彼が養育された屋敷。ごく、正確にするなら。今でもそこにいるであろう『傍付き』の傍ら。その腕の中。そこにしかウィッシュは、帰る、という言葉を使わない。ソキがなにかと、ソキロゼアちゃんのとこ帰るです、というのはそういうことだ。彼らが帰る場所はひとつしかなく、とうに、その心は定められきっている。
「白雪には連絡してある。今日、お前は泊まり。で、体調回復したら戻れ。許可はもらった」
「……ほけんしつ。ねるとこ、あいてたら、そっちいく……?」
「行かせねぇよ。……なにを気にしてんだ、お前は」
 遠慮しているというよりは、声はやや拗ねて怒っている。もぞもぞと横になりながらも見つめてくる視線に問えば、ウィッシュはふすん、と鼻を鳴らしてくちびるを尖らせ、薄闇の中で寮長を睨んだ。
「ロリエスさんと、ナリアン。……おきにいりの、くせに」
「お気に入りっつーかロリエスは俺の女神だって知ってんだろ? ナリアンは……なにお前、ナリアンに嫉妬してんの?」
「してる。……してるよ、あたりまえだろ」
 りょうちょ、さいきん、ナリアンばっか。ずるいずるいひどいと言いたげなウィッシュの言葉をもしナリアンが聞いたのであれば、えっなにこにひとなにを言っているの俺にはなにひとつとして理解できないというどん引きした顔つきになりながらも、ものすごく真剣な目でそれじゃあよろしくお願いします俺の所に来させないでください決して、とお願いしてきそうだった。
「……ロリエスさんだけなら、おれはちゃんと、がまんした」
 なんで。なんでナリアンにもかまうの、なんで、と怒りがちらつく表情で拗ねられて、寮長はひそかに溜息をついた。これは実は、相当ずっと気にしていたな、と思う。内側に溜めこんで体調を崩す理由のひとつにするくらいなら、言え、とも思うのだが難しいのだろう。ウィッシュに独占させなかったのは、他ならぬシルの意志だ。そして『花婿』は己が独占しきれないものに対して、はきと甘えを向けることはない。常であれば。お前も分かってるだろうが、と静かに語りかける響きで、寮長は口を開く。
「あれは魔法使いだ。魔力の量の桁が違う。……残念ながら本人の自覚が追いついてないのと、連絡にあった通り、病魔が内に巣食ってる状態で、いつ崩壊してもおかしくない状況なんだよ。入学してからずっとな。最近、ちょっとは落ち着いたみたいだが」
「……りょうちょ、ナリアン、おきにいりだよね」
「お前俺の話聞いてたか? ……嫌いじゃないけどな、ああいう反応」
 なにせ全力で嫌がるのである。気位の高い猫が、触るんじゃないと全力で威嚇するさますら思わせる反応だった。定期的にじゃれて魔力を確かめ、安定させてやらなければ体調をおかしくしかねないので見守っている、のも本当なのだが。半分くらいで、もう半分は純粋に趣味である。それが分かって、気に入らないのだろう。やだやだやだ、と駄々をこねる顔つきで、ウィッシュが寝具に頬を擦りつけた。
「ロリエスさんは?」
「麗しい俺の妖精は、今日はもう花舞に帰った」
「だんわしつ、いかなくていいの」
 そういえばいまなんじ、と気にするウィッシュに、寮長はちらりと机の上にある置時計に視線を走らせ、時間を告げてやった。夜の十時半。遅い時間だが、まだだいたいの寮生は起きている。いいの、と視線で問うウィッシュに、寮長はたまにはな、と笑ってやった。
「いいんだよ。なにかあった時の対応はガレンと……ユーニャに任せてある」
「ゆにゃ。……ゆにゃ、げんき? さいきん、あんま、はなしてない」
「話してやれ。今日も心配してたぞ。……夕方には顔も見に来てた」
 わかった、とふにゃふにゃ頷いて、ウィッシュはとろとろと目を閉じた。ふぁ、とあくびがもれていく。眠ってしまいそうな仕草に、寮長は片手でウィッシュを撫でながら、膝の上に放置していた本を指先で開いた。しばらくすると、声がかかる。
「なに、よんでんの……?」
「砂漠の歴史」
「……なんで?」
 心底怪訝そうな声に視線を文面から移動させれば、ウィッシュがじっと寮長のことを眺めている。寝ろ、とは言わず、目を閉じてろいいこだから、と囁いてやれば、『花婿』はほやほやした笑顔で頷いた。体調が多少良くなったとしても、保健室に移動させる気にはならなかった。誰でも訪れる場所で、この存在を眠らせる気にはならない。ずっと傍にいるにも、自分の部屋が一番都合がよかった。ウィッシュの手がそーっと、そーっと伸ばされ、座る寮長の服の端を摘み、握りこむ。その手をぽんぽん、と撫でて触れる仕草を許してやれば、ウィッシュはふにゃぁ、とうれしそうにうれしそうに笑って。ひとつ前の疑問を忘れてしまった様子で、ふわり、瞼を下ろしてまどろみはじめる。もう一度、眠ってしまうことが出来ればいいんだが。起き続けているのは体調に負荷がかかり、ただでさえ弱い回復力をゼロにすら近くしてしまう。
「きいて、くれれば、いいのに」
「……うん?」
「さばくの、れきし。くわしいよ」
 ウィッシュは瞼を下ろしていた。さらにやわやわと響く声は聞き取りにくいが、シルはほっと胸を撫で下ろす。この様子ではまた眠りにつくことが可能だろう。そうか、と頷きながら手を伸ばし、頬の熱を覚ますように手を押し当ててやる。ウィッシュは大きく息を吸い込み、ぐたりと寝台に身を沈めて行く。手を伸ばしてずり落ちていたかけ布を肩までかけ直し、ぽん、と体を叩いてやる。
「……ふぃあが、おしえて、くれたから。ちゃんと、ぜんぶ、おぼえて……」
「そうか。偉いな、ウィッシュ」
 じゃあ教えてもらいたい所があれば聞くことにする、と告げてやれば、ウィッシュはうっすら目を開いて微笑んだ。うん、とくちびるが音もなく綴る。うれしい、と瞳が告げていた。ゆらめく赤い瞳。薄紫の夜明けに差す一瞬の、花弁のように鮮やかな赤だった。それでいて、瓶に詰められたジャムにも似ている。芳しく、あまく。香りが漂うようないろ。一心に好きだと告げてくる輝き。ふわふわした声でウィッシュは囁く。
「……シル」
 握られたままの服が、くい、と弱く引っ張られた。
「さわって」
 体調の悪い時のそれが、おやすみなさいって言ってキスして、というのと同じ意味だと、もうすでに知っている。苦笑しながら寝台に手をつき、身を屈めて、シルはそっとウィッシュの顔を上向かせた。口唇を片方の頬に一度だけ触れさせ、額に押し当てて離れようとすると、ウィッシュがぐっと身を寄せてくる。なにをするかはすぐに分かった。避けようと思えば十分に避けられたのだが。仕方ないな、と苦く笑んで、シルは口唇を啄み離れて行くウィッシュのくちびるを、受け入れ許してやった。はふ、と満足したらしいウィッシュが、枕にぽすりと頭を乗せる。
「ゆめ、みたく、ないな……」
 過去の記憶は体調を悪くすると、必ず、ウィッシュのことを捕まえに来る。うんざりしたように告げるウィッシュの頭を、寮長はぽんぽん、とやさしい仕草で撫でてやった。
「……あんまりうなされてたら起してやる。傍にいるから」
「じゃま、だったら、て、はずして」
 うとうととまぶたを閉ざし、ウィッシュはようやく深く息を吸い込み、吐きだした。おやすみ、と告げながら寮長は服を掴んだままのてのひらを見下ろす。いつもなら本当に眠ろうとする時は自分から外して行くので、これは本当に夢見が悪かったのだろう。どんな夢を見ているのか、知っている。可能なら夢のない眠りを送ってやりたいのだが、占星術師ですら可能なのは『夢を見せる』ことであり、『夢を見ない眠り』というものを与えるのはどの適性を持つ魔術師にも不可能なことだった。あるいは言葉魔術師、予知魔術師なら可能なのかも知れないが、前者は頼める相手でもなければ距離にもおらず、後者はそうさせられる体調ではない。あっけなく夢へと戻っていたウィッシュを眺め、シルは読んでいた本に指先を乗せてしおり代わりにし、目を閉じて深く息を吐く。
 ウィッシュは確かに『花婿』だ。これを得る為に多額の金銭を支払い、さらに存命の間中、砂漠に対して『援助』は続けられる。知らなければ理解ができないことだが、知ってしまえば、その価値は十分すぎる程だった。ひと部屋に閉じ込めて、誰にも会わさないで、自分だけのものにしてしまいたい。その気持ちが分かってしまえる程、彼らの囁く声は甘く、好意は蜜のように、体の芯まで染み込んで行く。それを得る為なら、なんでもする者もいるだろう。寮長は頭を抱え込むように髪を手で乱し、真顔で目を細めてロゼア意味わからん、と心から呻いた。ソキがロゼアに対して囁く名も、好きも、向ける瞳もウィッシュと同種か、あるいはもっと甘くふわふわしているものである。ひとりでは上手く歩けもしない存在が、自分の腕の中にだけ望んで抱きあげられるのだ。やわらかな体が全てを預け、首に腕を回して抱きついてくるのはさぞ可愛いだろう。
 ちいさな体いっぱいの愛で、好意で、好き、と告げられ名が呼ばれる。それにロゼアは涼しく、うん俺もだよ、と答えるだけだ。部屋に閉じ込めたいとか自分一人のものにしたいだとか、誰にも見せたくないとか、あるいは見せつけておきたいとか、そういう独占欲は微塵も感じられない。『傍付き』はそういうものだという。ソキは言っていたし、ウィッシュも苦笑していた。彼らは『花嫁』に、『花婿』に愛を抱かない。恋だけは決してしない。独占欲を持つことはない。それでも愛おしくて恋をして今でもずっと好きなのだと。ウィッシュはいつか、囁いていた。ロゼアまじ意味分からん、ともう一度呻いて、寮長は眠るウィッシュを見る。健やかに眠っているように見えた。呼吸も安定している。けれど、服を握っていた指先が、白く震えるほど、力を込めていた。ぽん、と手に触れてやる。ぽんぽん、ぽん、と触っていれば、ゆるくゆるく力は抜けていき。
 やがて、爪先に血の色が戻った。

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