意識を濁らせる甘いしびれが、まだ頭の芯に残っていた。呻きながら瞼を持ち上げて、ウィッシュはなんとか息を吸い込んだ。ウィッシュが横になっていたのはいつも眠るサンルームだった。寝室ではない。疲れ果てながらウィッシュは瞬きを繰り返し、瞼の裏に焼きついてしまった風景にくちびるを噛み締める。喉の奥まで甘くさせる香が部屋中に炊きしめられていた。ウィッシュが運ばれたのはどこかの屋敷の寝室だった。いつものように夜会に連れて行かれたことはなんとなく認識できる。光と食べ物と人と装飾品の匂いと輝きとざわめき。ウィッシュは椅子に座っていた。特注の、きれいな服を着て飾り立てられたウィッシュが座る為だけに作られた椅子。真っ白な布が張られ、銀の糸で花と植物の模様をびっしりと刺繍されている、卵の殻のような形をしたまるい椅子。座す部分は寝台のように柔らかく、ウィッシュはそこにまるく寝転ぶようにして体を伏せ、時折、視線と顔をあげ微笑むことだけを命ぜられる。
言葉は許されていなかったが、例えそれを無視していたとしても声を発することはできなかっただろう。全身を包み込む気だるさは呼吸をするので精一杯で声など出せなかったし、ウィッシュはもうしばらく誰かと話をしていない。会話の仕方を教えてくれるのは夢に見る屋敷の記憶だけで、そこから連れ出され嫁いで以来、それをこなすことはなかった。夜会はまどろむウィッシュの意識をすり抜けていつものように終わり、乾いた喉を湿らせるように、また、なにか飲まされたことまではちゃんと覚えている。そこから、記憶がとぎれとぎれだ。肌に触れる冷たい布。見覚えのない寝台。薄暗い部屋。誰かに触れられる。抵抗はできない声が出せない体のどこを動かすこともできない。閉じた瞼をひらくことすら、指を震わせることすら自由にならない。蝶が羽ばたくようにゆるゆる、瞬きだけをしていた。それすら、意識して出来たことではなかった。
寒くなく温かくはなく痛くなく気持ち良くもなかった。誰かが怒っていたのを覚えている。深く息を吐き出して、ウィッシュは己の身をかき抱くように腕に力を込めた。穢された訳ではないと思う。嫁いだ身で、閉じ込められた状態で、そんなことを思うのもおかしな話だと思いながら、なぜか浮かんで来た笑みに肩を震わせて、泣いた。
は、はっ、と浅く苦しげに呼吸を繰り返しながら、開かれた瞳からは涙があふれ出している。ちがう、ちがうなにもされてない。なにもされてない。なにもなにも。呻きもがくように繰り返される言葉に、寮長はただ辛抱強く、分かっている、と繰り返してやった。十五分、あるいは三十分おき。ひどければ五分おきに断片的な夢から目覚めてウィッシュは苦しがる。名を呼ぶと泣き濡れた瞳が寮長を見つめて、怖がるように首を振った。手を繋いで顔を覗き込みながら、シルは感情を抑え込み、静かな声で問いかけてやる。
「話せるか?」
こくん、と言葉なく頷く仕草を見つめながら、寮長はぐっと手に力を込めてやる。大丈夫だ。夢じゃない。ここにいる。細く息を吸い込む喉が、喘ぐように仰け反って咳き込む。ちがう。なにも。繰り返される言葉にもう一度頷いて、シルはその言葉を確認してやった。
「なにもされてない。なにも、してない」
「……うん」
「女を抱いたことはないし、男に抱かれたことはない。その、逆も。……ほら、思い出せウィッシュ。文書にして、真偽判定の炎まで使って、確かめたことあったろ? お前はなにもしてないし、されてない……大丈夫だ」
決定的なことをしていない、されていない。ただそれだけであるとも分かっていたが、寮長はそれを告げずにウィッシュに言い聞かせた。すこし前に白雪の女王から、学園の生徒を統括する一人である寮長に対して、ソキが白雪でされていたことの報告も受けている。それも恐らく、文書の書き方によっては『なにもしていないし、されていない』ということになるのだろう。同じだ。ウィッシュは熱っぽい、ぼんやりとした瞳で寮長を見つめ、安堵しきった笑みでうん、と頷いた。すぅと意識がまた夢に落ちて行く。ウィッシュの熱は下がらない。
部屋を出て廊下を歩く、部屋を出て、廊下を歩く。扉をあけて、部屋から部屋へ。移動する。ぐるぐる回る。絵画の部屋、宝石の部屋、彫刻の部屋、高級な家具のある部屋、書庫の部屋、使わない寝室。部屋から部屋へ、廊下から、またどこかの部屋へ。外に出たい。誰かに会いたい。外に出たい、ここはもう嫌だ。さむいこわいいたいつめたいさびしい。さびしい、さびしい。廊下を歩く、部屋から部屋へ。扉を開けて、また次の部屋へ。外へ繋がる扉がない。ここから外へは出られない。
サンルームの硝子の向こうに、黄色い花が咲いていた。屋敷を取り囲む深い森に、新しい植物の種が何処からか運ばれ、いつの間にか成長し花咲かせたのだろう。ちいさな若木から植物の蔦ように垂れさがる茎に、小ぶりの花がいくつもいくつも連なり、揺れている。それを見てウィッシュは、春だ、と思い、季節の巡りを思い出した。図鑑を見ながら、あるいは窓辺から花の揺れる中庭を指差し、少女がひとつひとつ、ウィッシュにそれを教えてくれた。花の名前。咲く季節。見分け方。花言葉。ひとつひとつ、丁寧に。教えてくれた。だから、ウィッシュにはそれが分かる。風に揺れていたのは春の花だった。それなのに、どうしても名前が思い出せない。確かにやさしい声がそれを囁いてくれたのに。それを教えてくれたのに。どうしてもどうしても、名前を思い出すことができない。きれいだね、と言っていた。
ほら、みてウィッシュ。あの花はね。記憶の中で少女が囁く。ふぃあ、と息を吸い込み名を呼んで、ウィッシュは閉じた瞼からぼろぼろと涙を零した。そうだ、思い出した。
「金鎖……五月の花、黄花藤。……そっか、いま、ごがつ……なんだ」
ここへきて何度目の五月かは分からない。春が来たことは分かっても、夏に移り変わる時に触れられるだろうか。秋を思い出せるだろうか。冬を感じられるだろうか。サンルームの床に座り込んで、ウィッシュは狭い空を見上げた。森の木々の切れ間から、すこしだけ青い空がみつけられる。そこへ触れたがるよう、ウィッシュは手を伸ばした。サンルームは光に満ちている。けれど。ここからは、星も見えない。
熱が下がらない。薬は。飲ませた。眠りの香は。駄目だそれは使えない。どうして。苦手みたいで吐く。そうですか、じゃあ。さわさわ、言葉で空気が震えている。手を伸ばして寝台を探る。すぐそこにまだ熱が残っていた。大丈夫戻ってくる。大丈夫だいじょうぶひとりじゃないひとりにされないだいじょうぶ。空気を震わせる声を聞き取れない。すぐそこに誰かがいる。だいじょうぶ。さびしくない。息を吐きだした。乾いた咳が漏れる。誰かが名前を呼んだ。瞼が持ち上げられない。早足で戻ってきた誰かが手を握りこむ。強い力。ひえた指先が熱に包まれる。さわり、空気が揺れた。名を呼ばれたのかも知れない。夢が訪れる。意識は再び囚われた。
人の気配が屋敷に満ちていた。さわさわ、遠くで空気が揺れている。屋敷で夜会が催されるのだ。朝飲んだ水は嫌な味がしていた。ひとくち飲んだだけで喉が拒絶したから、体はひどく乾いている。なにか飲みたい。乾いた咳を繰り返しながら、ウィッシュはサンルームで膝を抱えて座り込んでいた。ひとくちしか飲んでいないのに、頭がぼんやりとしていて、体が上手く動かせない。まだ立ち上がることはできるのだが、歩くとなるとすぐに座りこんでしまう。脚が震えて力が入らないからだ。サンルームはまだ光に満ちていた。夜になるまではまだ随分時間があるだろう。それまでに体力を失って眠ってしまうのが先か、乾きに耐えきれず水を飲むのが先か。分からなかったが、どちらにしろ、意識をずっと繋いでおくことはできないだろう。いままでそうだったように。これからもずっと、この鳥籠で飼われ続ける。
しあわせになれるよ、と少女は囁いてくれたのに。しあわせになってね、と祈ってくれたのに。しあわせになる、と約束をした筈なのに。この場所にはそんなもの、存在すらしていなかった。しあわせになりたかった。そうなれる筈だった。その為に育てられ、その為に、引き離された筈だった。ふぃあ、と吐息に乗せてウィッシュは囁く。どう思うだろう。こんな風に囚われ続けている『花婿』の姿を見たら。『傍付き』はどう思うだろう。哀れむだろうか、悲しむだろうか。しあわせで、いないことに。失望されてしまうだろうか。その為に育てられたのに。その為に整えられたのに。その為の存在なのに。しあわせひとつ、得られないことを、それをもう諦めてしまったことを。怒るだろうか。ふぃあ、シフィア。囁いて、囁いて、ウィッシュは目を閉じる。
帰りたかった。怒られてもいい、失望されてもいい。帰りたい。しあわせを祈って送り出してくれたひとの元へ。やさしく触れるてのひら、抱きしめてくれる腕の中。この世界で一番安心できる場所。しあわせは全部そこにあった。そこへ置いてきてしまった。この場所にはひとつも残されていない。しあわせをぜんぶおいてきてしまった。
『――なんだ、これ……!』
不意に。澄んだ声が耳に触れ、ウィッシュは閉じていた瞼を持ち上げた。気のせいだろうか。声がした気がした。それも扉を隔てた向こうではなく、もっと近く。同じ部屋の中から。何度か瞬きをして、体を起こす。円天井の、白と黄のモザイクの色を宿した陽光の帯の中に、ましろい輝きが浮かび上がっていた。そこから、声が響いている。
『なんだよ、これ! どうしてこんな……!』
白い、白い、ひかりだった。大嵐が過ぎ去った後に上る太陽が、地平線に払う凪いだまなざし。その一瞬の閃光を思わせる、染め抜かれた白だった。砂漠のひかりだ。思わず、ウィッシュはそれに手を伸ばした。ひかりが、すいと空を動き、ウィッシュの指先に触れる。ぱちん、と瞬きをして、ウィッシュは息を飲んだ。それの形がはっきりと見える。視線が重なった。妖精は、暁色の瞳をしている。
『ウィッシュ』
透き通る金の四枚羽根を動かして、静かな声で妖精が呼んだ。
『俺が見えるな? ウィッシュ。……それが、名前で、間違いないな?』
「うん。……妖精、さん……? なんで、おれの、なまえ……」
物語の中。あるいは、魔術師たちの傍らにのみ存在する神秘が、ウィッシュに触れながらひたと視線を重ね、囁きかけてくる。ウィッシュは受け答えが出来ているのかどうか不安になりながら、のろのろとくちびるを動かし、言葉を吐きだした。最後に会話というものをしたのが、どれくらい前のことなのか思い出せない。哀れみと怒りを等分にした暁の瞳が、ウィッシュを睨みつけるようにして見ている。ゆっくり、言い聞かせるように、妖精は囁いた。
『俺は、お前の案内妖精。ウィッシュ。……お前は、魔術師の卵。俺は、お前を導き連れて行く為にここへ来た。分かるか?』
「……まじゅつし。あんない、ようせい……まじゅつし、おれが?」
『そう。お前は魔術師の卵。これが、お前の入学許可証』
妖精はちいさな指先を空に這わせて、なにもない筈の空間からそれを取り出した。絵葉書の大きさをした白い封筒にウィッシュが触れると、それは水のように溶け流れて消え、中から一枚のカードが現れる。虹色のひかりで文字が謡った。入学許可証。ウィッシュの名前が書かれていた。震える指先でカードを摘む。受け取られたことにほっとした様子で、案内妖精は囁いた。
『連れて行く。……俺が、連れて行くよ、ウィッシュ。もう、こんな場所にいなくていいんだ』
「……もどりたく、ない」
『どこに? ……どこに戻りたくない? 砂漠か? それとも、この』
檻に、か。憎々しげに言い放った妖精に、ウィッシュは分からない、と首を振った。戻る場所なんてどこにもない。どこにも欲しくない。二度と、どこへも帰りたくない。あの腕の中以外は。どこへも戻りたくなんてない。
「でも、ここは、もういや、だ……。そとに、いきたい。そと、じゃなくても、いい。どこかに……」
どこかに行きたい。ここではないどこか。たどたどしく訴えるウィッシュに、妖精は静かな眼差しで頷いた。
『分かった。……大丈夫、お前はこれから『学園』に行く。そこで、お前は守られる。もう誰もお前を閉じ込めたりしないし、ひどい目に合わせない。約束する。俺が、お前を、自由にしてやる』
「……じゆう?」
『そう。自由だ。もうなにも耐えなくて良い。もうなにも我慢しなくて良いんだ、ウィッシュ。……辛かったら辛いと言えばいい。悲しければ悲しいと、寂しければそう訴えればいい。……憎んでいい。感情を閉ざして、頑張らなくて、もう、いいんだ』
よく頑張った。よく、耐えたな、と。妖精のちいさな手で撫でられて、ウィッシュは顔をくしゃくしゃに歪めて首を振った。言えない、できない。そんなひどいことできない。むずがるウィッシュに、妖精はどうして、と慰めながら問う。
『恨みはないのか? こんな風に……閉じ込められて、ずっと……』
「いやだ……いやだ、うらみたく、ない……にくみたく、ない」
『どうして。……心に、そんなに怒りを抱えて。恨みも憎しみもそこにあるのに。なにが嫌なんだ』
ひとの感情をまっすぐに見据える暁の瞳に、ウィッシュはふるふると首を振った。嫌だった。分かっていたけれど、どうしても認めたくなかった。しあわせになれなかったことを認めたくなかった。それは裏切りに等しかった。ごめんなさい、とウィッシュは泣いた。ごめんなさい、フィア。ごめんなさいごめんなさい。辛い。辛いよ、悲しいよ、寂しいよ、苦しいよ。会いたいよ、帰りたいよ。こんな場所で、こんな世界で。もう二度とフィアに会えない、この世界で。しあわせになんてなれない。こんな場所をすきになれない。きらい。ぜんぶきらい。こんな、こんな世界は。ぜんぶこわれて、なくなってしまえ。涙を零して訴える、目覚めたばかりの魔術師に。案内妖精はやさしく、やさしく、笑って告げた。
『なら、壊して行こう、ウィッシュ。お前を壊したこの世界を』
恨んでいい。憎んでいい。お前がそれを心から望むのなら。告げる、案内妖精に。ウィッシュはうっとりと微笑み、うん、と頷いた。目覚めたばかりの魔力が、ざわりと音を立てて体に満ちて行く。それを、確かに感じて。ウィッシュはうつくしい円天井を見上げ、ひとこと、ただ呟いた。
――呪われろ。
花舞の王宮魔術師たちが辿りついた時、その地はすでに穢されていた。都市から整備された街道で繋がれたその別荘は、世界が人が住まうことを許した守護のもたらされる、限界範囲に作られている。城壁で囲まれた都市の内側ではなく、きよらかな花が咲き乱れる恵み深い森に囲まれている屋敷だからこそ、誰の目に触れることもなかったのだろう。調査ではそこには美しく設計された貴族の別荘があり、木々の恵みが、咲き乱れる花の祝福が、穏やかな時を刻んでいる筈だった。辿りついたそこには、なにもなかった。砕かれた石材、木材の欠片。土と泥に塗れ、砕け壊された美術品の数々が瓦礫と土砂に汚らしく埋まっている。呻き声はひとつもなく、ただ濃密な血のにおいがしていた。大地がぬかるむほど、赤黒く染まっている。その正体を魔術師たちは分かりたくなかった。木々がなぎ倒され、花は千切られ変わり果てた姿を月光に晒していた。声もなく立ちつくす魔術師たちの眼前を、いままた、荒れた風が音をたてて過ぎて行く。
やめろ、とようやく声をあげて、一人の魔術師がかけ出して行く。
「やめろ! なにを……なんてことをっ!」
『なんてこと?』
その魔術師の男と、瓦礫の上にへたり込んではらはらと涙を流すウィッシュの間に割り込むように、案内妖精が冷たい一瞥を魔術師たちに投げかけた。
『なんてことって、なんだ? これくらいいいだろう。彼は苦しませずに全員殺した。優しいねって褒めてもいいくらいだ。すごく上手に暴走したろう? 意識を保ってる。彼は、とても優秀な魔術師になる。黒魔術師かな。きっと風の属性だ。まっさきに風が動いた。建物を吹き飛ばして壊したのは風だ。上手く動いて火を起こした。火と風が嵐を連れて来て雨が降って、ぬかるんだ大地が誰のことも逃がさなかった。……雨にぬれてしまったのは可哀想だったな。すこし熱が出てる。かわいそうに、もうすこししたら、温かい場所で休ませてやらないと』
己の成したことを、誇らしげに語る声だった。お前たちはなにを怒っているのかと不思議がり、馬鹿にすらする表情だった。妖精は金の四枚羽根をゆるやかに動かし、漆黒の髪を手で払って告げて行く。
『四年。……四年分の、彼の怒りと憎しみは、ここへ置いて行くべきだ。案内妖精としてそう、判断した。なにがいけない? なにが悪い。いってみろよ、花舞の王宮魔術師!』
ひとりの王宮魔術師が、地を覆う呪いに耐えきれず、口元を押さえて座りこんだ。ロリエス、と傍らの男がその名を呼ぶ。シンシア、キアラ、ロリエスを遠くへ。卒業したての魔術師には、この呪いは強すぎる。二人の女性に引っ張られて行きながら、その魔術師は視線をあげて妖精を、ウィッシュを、呪われて行く土地を見ていた。嘲笑うように、妖精は目を細める。
『それとも、彼が魔術師として成長して完成した後の方が良かったとでも? 彼はさぞ見事に世界を呪い、壊してくれるだろうな。未熟な状態ですらこれだ。……ウィッシュ、いいよ。大丈夫だ。俺が守ってやる。俺はお前の味方だよ、だから』
ほんとうに気がすむまで、嘆き悲しみ怒りのままに世界を呪ってしまえばいい。ぼんやりと妖精を見る苺色の瞳に囁いてやれば、ウィッシュはふわり、花が咲くように微笑んだ。うつくしい笑みだった。王宮魔術師の誰もが状況を忘れ、立場を忘れ、その笑みに囚われ魅入られてしまうほど。うつくしく、はかなく、きよらかな微笑だった。ウィッシュの両腕がもちあがり、誰かに抱擁を求めるように差し出される。夥しい魔力が編まれ、世界へ解き放たれる、そのさまを。王宮魔術師と妖精は、ただ、見つめた。
「……ふぃあ」
泣きながら、世界に手を差し伸べて。
「ごめんなさい……」
かえりたいよ、と震える声で、告げて。ウィッシュは、意識を失った。
聞けば、朝方レトニが来て守護を強めて行ったのだという。『向こう側』の仲介者はわりと自由に世界を行き来できる。けれども、こと『学園』にだけは入りこむのに苦労するらしく、滅多なことでは現れない筈だった。珍しい、と寝起きのぼんやりとした表情のまま呟くウィッシュに、寮長はあきれ顔で手を伸ばした。くしゃくしゃと髪を撫でまわされながら、ウィッシュはどうりで、と溜息をつく。夢の合間合間に、はははよくこの状況で俺の前に顔が出せたものだなテメェよし殺す今日こそ殺す、だの、うふふふそれは完全に僕の台詞っていうか君はなに考えてるのなんで君の部屋で僕の嫁が寝てるの君が連れ込んだんだよね知ってる今日こそ死ね君が死ね、だの、物騒な台詞がぽんぽん飛び交っていた筈だ。二人ともそれ以上騒ぐんだったらそこらで自殺してくださいお花さんが起きるという冷やかな声もあったので、ユーニャが様子を見にきていたのだろう。起きられるようになったら顔を見に行こうと思いながら、ウィッシュはふぁ、とあくびをした。
熱は下がっていたが、その間の体力の消耗が回復した訳ではない。ごめん寝て良い、と問うウィッシュに、寮長は苦笑しながら頷いた。
「気にすんな、寝ろ。……白雪に帰るのは明日でもいいそうだ」
さっき知らせが来た、と告げる寮長に疲れ切った様子でわかったと告げ、ウィッシュはうとうとと瞼を閉じる。
「……りょうちょ」
「ん?」
「いいよ、傍から離れて。俺もう、大丈夫だから……寮長の、仕事、しなきゃ駄目だよ」
あと今日はソキが元気かもちょっと見て来て。起きれるようになったら、俺も担当教員の仕事しないと、とうっすらと目をひらいて笑うウィッシュは、もう『花婿』の顔つきをしていなかった。学園を卒業した黒魔術師。白雪の王宮魔術師であり、予知魔術師の担当教員の、顔をしていた。撫でようとした手をひっこめ、寮長は無言で立ち上がる。てきぱきと、水差しとグラスはそこ暇つぶしの本はそこ体を拭いたくなったらつかっていいタオルはそこ洗濯物はそっちの籠、着替えたかったら適当に服は使っていい、おなかすいたら誰か呼んでなんか持ってきてもらえ、今日は部屋で寝てろ、と告げ、寮長は最後にじっと、ウィッシュを見つめる。ウィッシュは笑いながら手をふって、行ってらっしゃい、と言った。
「悪さしないで寝てるから、心配しないで大丈夫。ロゼアにも、俺はもう普通に寝てるよ、って伝えておいて」
真夜中に一回来てたでしょう、と笑うウィッシュにすこしだけばつが悪そうな顔をして、起こしたり呼びつけたりした訳じゃないからな、と寮長は言った。
「寝て起きて……帰る前にロゼアにも顔見せてやれ」
「うん、分かってる」
「あとユーニャにも声かけていけよ」
わかってるよ、と笑うウィッシュに、寮長はそうか、と頷いて。おやすみ、と言って部屋を出て行った。規則正しく歩んで行く足音が、扉を閉め、その前で佇んだのちに離れて行く。ふー、と息を吐いて寝台に体を預け、ウィッシュは目を閉じた。すぐに眠りは訪れるだろう。朝に眠るのは、好きだった。ひかりは悪い夢を連れてこない。ざわめく寮の空気にすこしばかり悪いことをしている気になりながら、ウィッシュはするりと意識を手放し、眠りに落ちた。夢の名残を残すこころが、かえりたい、と告げるのに。今はまだ、耳を塞いだ。
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