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 そして焔と踊れ

 伏せた眼差しの奥、匂い零れる藤花のような薄紫の瞳からぼろぼろと涙を流し、しゃくりあげながら、リトリアは寝台の上に体を起こした。部屋には朝の光が満ちている。冬の透明に澄んだ空気が部屋を僅かばかり冷やしていたが、肌に触れる空気を寒い、と思うことはない。魔術師の住む王宮の一角は、様々な実験もかねて常に魔術が巡っている。硝子窓からの冷気を遮断し、光だけを通すつくりになっているのが楽音の王宮魔術師たち、その居室の特徴のひとつだった。上手く行けば白雪の王宮の保温に転用されるらしい。彼の国で直に実験をしないのは、万一上手く行かない時にほんとうに寒いからである。楽音の気候ははっきりと巡るが、それでも冬の寒さ、その厳しさは白雪ほどではない。夏の日差しの強さ、灼熱が砂漠ほどではないように。
 一年を通じて穏やかに季節が巡る星降や花舞とも違うので、こと魔術実験において、楽音はよく場所を提供しているのだった。錬金術師が好む国、とも呼ばれている。魔術師には選択する権利というものが存在しないので、実際の所は、好んで錬金術師を重用する国、というのが正しいのだが。リトリアの部屋にも、錬金術師の制作した品は数多く置かれている。そのうちのひとつ、白いレースで編まれた声と魔術の封印具に手を伸ばし、リトリアはそれをてのひらの中に握りこんだ。流星の夜、ストルに会った時のことを思い出す。男にしては細めの、繊細に動くしっかりとした作りの手指が封印具に触れ、肌と糸の境を指先が撫でた。
 リトリア、とストルは幾度も少女の名を呼んだ。耳元で。逃れようとする意識をたしなめるように。甘く、掠れた声の響きで、何度も何度も、リトリア、と呼んだ。その声のいとしさを、いまもまだ、覚えている。ぎゅぅ、と封印具を握りこみ、リトリアはくちびるに強く力を込めた。目覚める間際までみていた夢を思い出す。それは記憶だった。三月の末のことだった。春告げる花が風に揺れる、そんな時期のことだった。
『――うんざりする』
 強く、吐き捨てられた響きが、いとしい呼びかけをかき消して行く。それは同じ声で紡がれたのだ。声の高低、感情の違いはあれど。その言葉は確かに、リトリアに向けられた。そのことを覚えている。繰り返しくりかえし夢に見ている。忘れるな、と告げられるように。
『もう、面倒見切れないな……幸い、もう卒業だ。だから、これきりで……話しかけるな』
『そうね』
 話がある、と連れて行かれた先に、待っていたのは一人ではなかった。ストルと並んで立つ、もうひとり。涼しげな言葉を響かせるその女性の名を、リトリアは口にして呼んだ筈だ。眉が寄せられる。
『呼ばないでちょうだい。私の名を。……ようやく卒業できるわ。これでもう、煩わされることはない。いい? 決して私を呼ばないで。私は、あなたに会いたくなどないのだから、二度と。……そう、二度とよ』
『俺もだ。もう会うこともないだろう。……楽音に囚われてくれれば、の話だが。守護役も殺害役もなく、卒業すればいいだけ。それくらいのことはできるだろう? 俺のことも、ツフィアのことも、口にしなければいい。それだけでいいんだからな』
『それくらいのことはできるでしょう? リトリア。……いい子にしていられるわね?』
 囁く声は、冷たく。触れる手には優しさの欠片もなく。誰かがリトリアの肩を掴んでいた。動いてはいけないと告げるように。ひえた、冷たい指先が、声を発せない喉を撫でたのを覚えている。
『いい子にしていれば、これ以上キミのことを嫌いになったりは、しない……』
『……さあ、可愛いかわいいお人形ちゃん。ふたりの言うことをよく覚えておいで……?』
 キミの、誰よりいとしい、ふたりのことを。どう思われているのかを、ちゃぁんと、覚えておいで、と。誰かが耳元で囁き告げた。くすくすと笑いながら。その場から逃げ去ることもできないリトリアに向かって。きいてごらん、とその声が囁く。キミのことをどう思っているかどうか。リトリアはふたりに問うた。その通りに。男と、女は、微笑み、告げた。
『うんざりする、と言っただろう。……嫌いだ、と』
『私もよ。大嫌い。……うんざりするわ、あなたのこと』
 ぼたっ、と音を立てて涙が寝台に落ちる。それを、誰かが拭ってくれたことがあった。抱き寄せて抱きしめてなぐさめてくれたことが、あった。その腕のやさしさも、ぬくもりも、遠く。思い出せなくなりそうで。胸が痛い。てのひらでごしごしと目元を拭い、リトリアは寝台から立ち上がった。着替えて、朝食を食べに行かなければ。今日も雑用しかさせてはもらえないだろうが、それでも王宮魔術師として、リトリアがこなさなければいけない仕事というものがある。涙を拭って、衣装棚へ歩み寄ろうとした瞬間だった。吸い込む息が熱く、毒のように喉を焼く。けほ、と乾いた咳をして、リトリアはくるしく体を折り曲げた。その場に立っていることすらできない。
 けほ、けほ、何度も乾いた咳が繰り返される。乾いた空気に喉が焼けて行く。毒のようだった。実際に、それは、リトリアにとっては毒なのだ。息を吸い込むだけで、うっすらとした毒が体を蝕んで行く。喉が焼けて声を出すことができない。気持ち悪くて意識が揺れる。ぶつり、と途絶えてしまいそうになった時、廊下を誰かが早足に行く音が聞こえた。
「……チェ、チェ……っ!」
 げほげほげほっ、と強く咳き込む。ちゃんと呼べたかどうかも分からなかった。けれども声か、咳か、どちらかは届いたのだろう。立ち止まった足音が勢いをそのままにかけより、鍵のかけられていなかった扉を開く。
「リトリア? ……リトリア!」
 げほっ、と咳き込むと血のにおいがした。喉がどこか切れてしまったらしい。そのまま、発作的に咳き込んでしまうリトリアにかけより、チェチェリアは夫の名を叫ぶ。尋常ではないと分かったのだろう。彼方からキムルが妻を呼ぶ声と、いくつかの足音が聞こえて。そこで一度、リトリアの記憶は途絶えている。



 寒い日。冬の夜。暖炉の熱が部屋を熱く、ゆるゆると空気を巡らせながら暖めている。薪が爆ぜる音。それをおろした瞼の遠くで聞く。リトリア。優しい声で囁いた男が、うとうととソファでまるくなるリトリアの髪を指で梳き、撫でて行く。リトリア。撫でながらもう一度、男は身を伏せ、耳に口付けるように囁き呼んだ。まったく、またこんなところで寝てしまって。涼しげな女の声が響き、毛布で体が包まれる。そっと瞼をひらいて笑う。手を伸ばせばすこしだけ苦く、それでいてやさしく笑いながら、腕が伸ばされた。男の腕がリトリアを抱き上げ、女の指が頬を触れ、撫でて行く。
『部屋で寝なさい、と言っているのに……リトリアが眠たくなる前に部屋に戻して、と言わなかったかしらストル。談話室で寝かせないで、と』
『だから、部屋に連れて行こうとしていただろう?』
『リトリアの、部屋に、戻しなさい、と言っているのよ。自分の部屋に連れ込むんじゃない……!』
 ほら眠らせに行くわよ、と女が歩き出す。その背を追うように、ゆったり、足が運ばれて行く。階段をのぼりながら、男の手がやさしくリトリアの髪を撫でた。先を行く女が振り返って、リトリアにやさしい眼差しを注ぐのが分かる。ねむくて、でも、もう一度まぶたをひらく。
『……ツフィア。ストルさん……』
『なに? 眠っていていいわよ。……まったく、何度言わせるのかしら。談話室で寝るんじゃないの。それといい加減に気がつきなさい。これは狼なのよ?』
『指差すのはやめてくれるか、ツフィア。……どうした? リトリア』
 大丈夫落としたりはしない知っているだろう、安心していい、と笑うストルの腕の中でまどろみ、リトリアはううん、と幸せな気持ちで溜息をついた。なんでもないの。こわいゆめをみただけ。かなしいゆめをみただけなの。ストルさん、と囁いて肩口に頬を擦りつけて甘え、ツフィアに手を伸ばす。はいはい、と言わんばかり苦笑され、けれども指が絡むよう、手は繋がれた。あたたかかった。いきをすいこむ。ささやく。
『こわいゆめを、みただけなの……』
『一緒に寝ようか、リトリア』
『甘やかすなとあなたは私に何度言わせるつもりなのストル……!』
 かわいそうだろう。そうねその通りよでもそうやってすぐ甘やかすからリトリアの泣き癖がなおらないのよ。なおらなくてもいいと思わないかかわいいだろ。かわいいのはかわいいわよでもすぐ泣くのはかわいそうでしょうかわいいけれど。ならいいじゃないかかわいいから。そうねかわいいわでもそういうもんだいではないのよ。うとうとする意識を撫でるように、ふたりの声が響いて行く。まどろむリトリアに会話がぴたりととまり、ふたりの笑い声がそっと響く。とん、と階段を上る音がした。
 しあわせなゆめだった。



 あまく幸福な過去。しあわせな記憶の再生が、目覚めた胸をじんとしびれさせていた。学園在学時代の夢だった。リトリアはよく、談話室で眠りこんでしまったのだ。そこにストルがいたから。ストルは暖炉の前のソファで本を読むことが多かった。その炎に照らされる横顔を時々眺めながら、リトリアは傍らで、同じように本を読むことが常だった。ひとり、ふたり、談話室からひとが消えて行く。おやすみなさい、また明日。囁きが空気を震わせ、そのたび、ストルはリトリアの髪を撫でて問う。もう戻るか、と。なら部屋まで連れて行く。眠たげなリトリアに、部屋に戻らないとだめだろう、と強く咎めることはせず。どうしたいんだ、と問う言葉に、リトリアは必ずこう答えていた。もうすこしだけ、ストルさん。もうすこしだけ傍にいたいの。おねがい、と囁く言葉に笑みは深められ、時折、腕が伸ばされ抱きあげられた。
 火の熱に暖められたストルの膝の上。ゆるく抱く腕の中。その空間が永く、リトリアの体を落ち着ける場所だった。背を撫でる手の熱を覚えている。ストルが手を伸ばすのも、抱きあげるのも、抱きしめるのも。触れるのも撫でるのも慈しみ愛でるのも、すべて、リトリアだけだった。ずっとずっと傍にいた。わたしだけ、と知るくらい。ストルはずっと、リトリアのもの、だった。それが壊れてしまったのは、いつだっただろう。滲んだ涙をまばたきで払い落しながら、リトリアは横たわっていた寝台に体を起こした。四方が薄く白い布に囲まれた、寝る為の空間は静まり返っている。やわらかな魔術の気配を感じた。傷を癒し体を整え痛みを消し去っていく、白魔術の気配。吸い込む空気が毒となり、喉を焼くことがない。怖々と呼吸を繰り返しながら、リトリアはぱちぱち、まばたきをして首を傾げる。
「……ほけんしつ?」
 囁く声はまだ掠れている。けほ、と乾いた咳が漏れた。一度咳をすると止まらなくなった。けほ、けほ、と幾度となく咳を繰り返すリトリアに、白い布の向こうで立ち上がる気配があった。早足で歩み寄り、一息に布が引き開けられる。
「リトリア……! ああ、もう……!」
「ちぇちぇ……どうし、ここ、がくえ、ん……けほっ」
「チェチェリア、すこし退け」
 レグルス、とチェチェリアが保健医を呼ぶ声に、リトリアは苦しさに伏せていた視線を持ち上げた。寝台の傍にいつの間にか立ち、リトリアを覗き込んでいたのは白衣姿の男性だった。長身の、鍛え上げられたしなやかな印象のある、三十代後半の男だ。面差しは優しいとするよりどちらかと言えば怖く、入学したての者は慣れるまで一度ならず保健医の前で緊張を強いられるのが通例だった。リトリアはその存在に慣れていた。ひとみしりに、体を強張らせることもない。くるしく咳き込みながら、レグルスせんせい、と呼ぶと、男は鳶色の瞳をやわく和ませ、ああ、とだけ返事をしてくれた。癒しの手。白魔術師の魔力を乗せた指先が、そっとリトリアの喉に押し当てられる。
「息を、ゆっくりと繰り返せ。……そう、そう、そうやって。……よく頑張ったな」
 とんとん、と指が喉の表面をやわく叩く。
「『思い出せ、それはお前の喉を焼くものではない。痛みを与えることなどない。痛みと傷は水に流れる木の葉のごとく、なににも邪魔をされずに遠くへ運ばれる。ゆっくり、ゆっくりと、それでいて速やかに。冷えた水は光によって暖められる。風の息吹が祝福を与え、水の流れは滞ることがない。眠り行く世界のおおいなる意志よ、祝福よひとの願いよ、魔力という名を与えられ俺の身にお前の身に宿る者よ。一時の眠りから醒めこの言葉に微笑みを返せ』……リトリア、気持ちを楽に。怖がらないでいい。回復させるだけだ……そう、『濁る水は透き通る。痛みは遠ざかり傷は消えて行く。繰り返す。思い出せ、それはお前の喉を焼いたりはしない。痛みを与えることはない』」
 絶え間ない咳が徐々に収まり、リトリアはくちびるに両手をあて、喉を軋ませながら息を吸い込んだ。浅く早く繰り返すそれを、意識して深く、ゆっくりとしたものに切り替えて行く。やがて疲れ切った体をくたりと保健医に預けながらも、リトリアの呼吸が平常なものへ戻る。意識をぐらつかせる眩暈も、気持ちの悪さも、だるさも、体の奥底にはまだこびりついていたが、だいぶ楽にはなっていた。男はリトリアの状態を分かっているのだろう。今回はまた酷いな、と低く呟き、リトリアの体を寝台へ横にさせる。ふわふわの羽根布団を肩まで引きあげ、体をぽんぽんと叩き、レグルスはリトリアの目を覗き込んで言った。
「眠れ。悪い夢はお前を捕まえには来ない……誰か占星術師でも呼んで来るか?」
「……いい。レグルスせんせい、おしごと……いそがしいですか?」
 そうでないなら傍にいて、とリトリアの目が訴えていた。保健医は苦笑しながら椅子を引き寄せ、腰を下ろしながらうとうととするリトリアに手を伸ばす。髪を撫でてやればほっと瞳が和み、深く息が吸い込まれた。すぅ、とすぐに寝息が響きはじめる。腕を組んで椅子の背もたれに体を預け、レグルスはちらり、とチェチェリアに視線を向けた。王宮魔術師としてのリトリアの同僚たる美女は、うつくしい面差しに不安と困惑の色をさし、レグルスにまっすぐな目で問うた。
「……悪いのか」
「いいや、落ち着いた。寝て起きれば……通常くらいには回復するだろう」
「血を吐いた。病か、それともなにか……」
 別の、と原因を問うチェチェリアに、レグルスは分かっている、と言いたげな顔で、けれどもてのひらを持ち上げて言葉を制した。
「この件に……リトリアの体調の悪化と回復のサイクル、理由、原因、推論、に、関して。関係する白魔術師以外には守秘義務が課せられた。悪いが、なにも話せない。……楽音の王宮魔術師であれば、リトリアが定期的に『学園』に戻らなければならない、と五ヶ国の王から命が下されたことは知っているな? それは、これの、せいだ。戻ることになった、ではなく。『戻らなければいけない』のは」
 この間も夜に一度きたから、もうすこし大丈夫だと思ったんだが、と己の判断を悔いる表情で天井を睨み、レグルスは深く息を吐きだした。フィオーレと相談するか、と言葉が漏れる。全白魔術師の最高位であり、同時に砂漠の王宮魔術師でもある男は中々に忙しい。打ち合わせは主に文書の交換で行っていたのだが、こうも予測とずれて体調が悪化してくるとなると、顔をつきあわせて相談した方がいいだろう。レグルスは強張った顔つきでリトリアを見つめるチェチェリアに、ちら、と視線だけを向けて問う。
「授業じゃないのか?」
「……もう、行く。リトリアを頼んだ」
「ああ、安心しろ。……ああ、チェチェリア」
 早足に戸口へと向かうチェチェリアを呼びとめ、レグルスは苦笑いを浮かべながら口を開いた。
「ロゼアの傍でソキがちょろちょろしていたら、回収して談話室にでも叩きこんでおいてくれるか。必要以上に動くな、と言っているんだが『やぁんロゼアちゃん歩いて良いよって言ったですぅ!』の一点張りで、先日走って逃げようとして転んで膝と額を打って咳が出てそのまま微熱が出た」
 男がソキの口真似をしても可愛くもなんともない、と心底思っている視線で無感動に頷き、チェチェリアは溜息をついた。恐らくそのロゼアが言った『歩いて良いよ』は、厳密にすると『(俺の目の届く範囲と、俺の指定した範囲の中でならまあ)歩いて良いよ』になるに違いない。だいたい、その走って逃げようとした、もソキ本人としては走っているつもりなのだろうが、周囲からみると普段の歩行とさして代わりのないものである。てちてち、てちっ、と危なっかしく一生懸命歩いている状態から、ほんの僅か歩幅が大きくなるので、バランスを崩しやすくなって結果的にものすごくよく転ぶ。まあ、起きているのならロゼアの傍にいるだろう。
「それと」
 まだあるのか、と苦笑して振り返ったチェチェリアに、レグルスは真剣なまなざしで言う。
「ストルには言うな。……リトリアの魔力が安定していない」
「だが」
「暴走する可能性がある、と言っているんだ。お前は、知らないだろうが……」
 卒業間際にリトリアは一度、予知魔術師としての魔術を暴走させたことがあるのだという。傍らにはストルもツフィアもいなかった。その時に在学していた生徒のほとんどがそれに巻き込まれ、教員も半数以上が予知魔術師の魔力の支配下に引きずり込まれた、事故だった。それゆえ、リトリアは学園に留め置かれず、その外へ出されたのだ。楽音は少女に用意された鳥籠。その中で毒を食み、囀り弱りゆくのが少女の運命。それを、五ヶ国の王は知っている。なればこそ、楽音の王はリトリアに優しいのだ。その行いを罪滅ぼしと、自嘲し囁き告げるほどに。
「リトリアの魔力は、予知魔としても、強すぎる。……ストルには言うな。伏せておけ」
「……分かった。言わないでおこう。ただし、私から話すことはない、というだけだ。聞かれれば言うが」
「構わない。嘘をつかせたい訳でもないからな」
 あとはストルがリトリアが来ていることに気がついていないという可能性に賭けるだけだ、その賭けはやめておいた方がいい相手はストルだ、いや俺は微粒子程に存在しているであろうもしもという可能性を信じている、という会話を視線で交わし合い、レグルスとチェチェリアは無言で頷いた。チェチェリアが身を翻し、保健室を出て行く。あとには眠るリトリアの、静かな寝息が響いていた。



 そろそろ定期試験なんだよね、と途方に暮れた瞳でウィッシュが現れたのは、ソキがいっしょうけんめい昼ご飯を食べている最中のことだった。ロゼアが用意してくれたランチバスケットの中には、レンズ豆のスープが保温筒に入れられ、ソキの手でも持ちやすいちんまりとした木の器とスプーンが一緒に入れられていた。ソキの好きなはちみつとミルクが練り込まれたふわんふわんのまあるい白パンはひとつ。乾燥果物が混ぜ込まれたヨーグルトはとろとろで甘く、冷たい状態を保つようにきちんと保冷がされていた。それをよいしょよいしょとひとつひとつ机の上に並べ、食べきれるかを考え、ちょっと難しそうな気がして眉を寄せながらも、でもでも頑張るって約束したですよ、と気合いを入れながら頑張っていた最中のことである。
 思い切りやる気を削がれた顔をして、ソキはちいさくちいさく千切ったパンをもぐもぐと噛んで、こくりと飲み込み、目の前のソファに身を沈めるように座り込んだウィッシュに問いかけた。座る、というよりは半ば倒れ込むような姿であるが、ソキは特に気にしなかった。いつものことだからである。
「定期試験? です?」
「そうだよ……学園はね、年末年始、お休みなんだけど。ソキ、それは知ってる? 寮長の説明、聞いた?」
 ソキはレンズ豆のスープを木のスプーンでくるくるとかき混ぜ、ひとくちぶんだけ口に含んで瞬きをした。ほんのりと塩味のきいたスープは、野菜の甘みがとけこんで優しい味だ。たまねぎやにんじん、葉物野菜がとろけてしまうくらい煮込まれているので食べやすく、消化もしやすい。もぐもぐもぐ。こくん、と飲み込んで、ソキはそういえば寮長がそんなことを言っていた気がするです、と返事をした。ソキはそもそも、寮長の話を九割七分流すことにしている。重要なお知らせを聞き逃してしまうこともあるが、それはロゼアが覚えているし、ナリアンやメーシャがそっと教えてもくれるのでなにも困らないのだった。ウィッシュはあたたかい微笑みを浮かべ、うっとりするような仕草でゆるく首を傾げてみせた。
「ソキ、なんで寮長そんなに嫌いなの……?」
「ロゼアちゃんにいじわるばっかり! するですよ!」
 ぷぷぷーっ、と頬をふくらませるソキは、どうやら本気で怒っているらしい。碧の、なまめかしい新緑を宿した瞳がうつくしく輝き、つよい眼差しがウィッシュを睨むようにしてみる。
「お前どっか男としておかしいんじゃないのかとか! なんでソキと間違いを起こさないんだげせぬとか! お前ソキになにも思わないのかとかあぁあああもおおおやですやですやですうううやぁんやぁんやあぁあんっ! ソキやぁんですりょうちょうきらいきらいきらいですううううううっやぁああぁあああ!」
「叫ぶと喉痛めるよ、お姫ちゃん」
 言葉の途中から遠い遠い目をしてなにも言わなくなったウィッシュに代わり、ソキを宥めてくれたのは談話室の隅で様子をうかがっていたユーニャだった。ユーニャはソキを驚かせないように遠くから声をかけたのち、そっと、やわらかな足運びでソファの前面に移動した。ソキの、警戒の入り混じった視線を絡めるように重ねながら、微笑を浮かべる。すとん、と慣れた仕草で床に膝をついてかがみ、ユーニャはソキの瞳を下から覗き込み、言葉を繰り返した。
「喉痛めるよ、お姫ちゃん。やめな。……あと、食事は終わらせてからお話しような。それでいい? お花さん」
「ゆにゃ……」
「はいはい、ユーニャ、だよ。お花さん……それとも、ウィッシュ先生? そう呼ぼうか?」
 卒業したし年上だしお姫ちゃんの先生だし、とくすくす笑いながら立ち上がったユーニャに、ウィッシュはどこか拗ねた顔つきで両手を伸ばした。こっちきて、とソキがロゼアを呼ぶのに、よく似た仕草だった。
「やだよ、いいよ。ゆうにゃ、ゆーにゃ。ひさしぶり。ひさしぶり……元気?」
「元気だよ、俺はね。お花さんは出歩いていいの? 白雪の陛下はなんて仰ってる?」
「うん? 咳出たら帰って来なさいねって。仕事熱心なのは良いことだと思うわって褒めてもらった」
 ソキが認識する限り、ウィッシュは今日はまだ咳をしていない。そっか、と頷いたユーニャはぐるりと机をまわりこみ、ウィッシュのすぐ隣へ腰かけた。ごく自然な仕草で指先が伸ばされ、頬を撫でたあと、首筋にやわらかく押し当てられる。スープをもぐもぐもぐと食べて飲み切って、ヨーグルトに手を伸ばしながら、ソキはちょっと不思議な気持ちで目を瞬かせた。ふ、と安堵に緩んだ口元で、ウィッシュの首筋から指を離したユーニャが、きれいに編み込まれ整えられたウィッシュの髪をさらりと撫で、手を離しているのがみえる。
「お花さん、食事は? してきた?」
「ん、してきた」
「そっか。ちゃんと食べて偉いな、お花さん。……飲み物くらいなら飲める? お姫ちゃんも。あったかいお茶持ってきたげる。談話室乾燥してるから、すこしずつ、なんか飲まないと」
 それでお姫ちゃんのご飯が終わるまで、お花さんは俺とお話でもして待っていような、と告げるユーニャに、ウィッシュはこくりと頷いた。別にわざと食事時に来てしまった訳ではないのは、ソキが一番よく知っている。現在は普通に、午後の授業中だからである。それも、ユーニャは分かっているのだろう。申し訳なさそうなウィッシュの頭を軽く撫で、せんせい悪くないんですよ、と言わんばかり眉を寄せるソキに知ってるとばかり微笑みかけ、ユーニャはしなやかな身のこなしで立ち上がった。机に片手をついて身を乗り出したユーニャは手を伸ばして、ソキがどうしても食べ切れなくて困っていたまるい食べかけの白パンをひょいと取りあげた。半分にちぎって、ソキの手に戻す。もう半分を口の中にぽんと放りこんで食べながら、ユーニャはびっくりするソキに、しぃ、と言わんばかり微笑みかけた。
「残しても怒られない、とは思うけど。俺が手伝ったのはロゼアにはないしょな」
「な……ないしょ、です。わかったです」
「うん、ありがと。それと……寮長は俺が仕置きしておくから、お姫ちゃんは怒らなくて良いよ」
 ひんやりとした笑みだった。思わずソキが、こくこくと何度も頷いてしまうような微笑みだった。ユーニャはソキの反応に満足そうに頷き、じゃあお茶持ってくるからすこしだけ待っていてな、と言い残して談話室を出て行く。途中、副寮長であるガレンを呼びとめて一言、なにか告げているのがソキからも、ウィッシュからも見て取れた。しおき、です、とソキが呟き、ウィッシュがやや遠い目をする。
「……ごめん、シルりょうちょ……ユーニャおこらしちゃった……」
「おにいちゃん、ユーニャ先輩にお花さんって呼ばれてるです? なんで?」
「先生、な。ソキだってお姫ちゃんって呼ばれてるだろ? それと、一緒」
 俺は『お花さん』で、ソキは『お姫ちゃん』なんだって、と告げるウィッシュに、ソキはいまひとつ分からないながらも、ふぅん、と頷いた。しばらくするとユーニャが、茶器一式をトレイに乗せて談話室に戻ってくる。ポットの中は宣言されていた通り、お茶だろう。透き通る硝子の茶器の中で、うす透明な黄緑色の液体がゆらゆらと揺れている。それなのに、なぜか甘いココアのにおいがふんわり漂った気がして。ソキは嫌そうに眉を寄せながら、ちょっとだけ、首を傾げた。

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