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 廊下は授業中特有の、ざわめきを孕んだ静寂に満ちていた。扉の向こうでは魔術を語る声、あるいは歴史を紐とき明らかにする言葉が響き、建物のそこかしこでいくつもの魔力が揺らめいている。食堂から保健室へ戻る途中、リトリアはその静けさをどこか落ち着かない気持ちで喉に通し、どきどきと弾む胸にゆびさきを押し当てた。なんとなく罪悪感があるのは、授業をさぼって出歩いているような気がするからだった。卒業してもうしばらく経過するのに、なぜか、いけないことをしている気分になる。誰とも会わないように、そっと歩いているせいもあるだろう。リトリアが定期的に『学園』を訪れることになった理由を知るのは、ほんのひとにぎり。寮長と保健医であるレグルスくらいのもので、話すことを強く咎められている訳ではないが、リトリアも聞かれてもはぐらかすようにしている。食堂で会ったユーニャが深く事情を聞かず、やんわりと苦笑しながら、調子が悪いならあまり出歩かないでよく眠るんだよ、と言うに留めてくれたのは本当に幸いなことだった。
 いつの間にか立ち止まっていた歩みを再開させながら、リトリアはどこか怖々と空気を喉に通して行く。『向こう側の世界』の毒のような熱さを、『中間区』の空気に感じることはこれまでも一度もなかったのだが、怖いと思ってしまうことはもう仕方がないだろう。それでも、ひと呼吸ごと、体からだるい痛みがゆるゆると消し去られて行くのを感じた。きよらかな空気は確かにリトリアの体を回復させ、白魔術よりも効果的に癒し、清めて行くのだった。『向こう側の世界』の大気は、リトリアにしてみれば確かに毒なのだ。ある程度回復した状態であれば持ちこたえられる、とそれだけのことで。いずれまた喉は焼かれ、全身が鈍い痛みを発して動けなくなるだろう。そうなる前に学園へ戻り、回復させ、その繰り返し。ゆったりとした足運びで廊下を進みながら、リトリアは先日、白魔法使いが告げた言葉を思い出していた。
『それでも、もうすこし心を強く持てれば、というか。精神的に安定すれば、毒にやられることもない、と思う』
 それは恐らく、リトリアに聞かせるつもりのない言葉だった。面と向かって告げられたのではなく、夢うつつの声としてリトリアがそれを勝手に聞いてしまっただけなのだから。それは確か、レディに連れられてほんの一時間、学園を訪れ、帰ってきた夜のことであったように思う。記憶はすこしだけ曖昧で完全な確信を持つことができなかったが、部屋で眠るリトリアの体調を確認しに訪れたフィオーレが、レディになにかを問われそう告げていた。リトリアも、レディも、フィオーレも、王宮魔術師だ。そうそう個人的な都合で出歩ける訳ではなく、その夜も、乾いた咳をするリトリアを心配した楽音の王が、多少無理を言ってレディを呼びだした末のことであったのだ。白魔術師たちが予測した結果では三ヶ月に一度、ほんの数時間、学園を訪れれば保たれる筈の体調は、その想定よりはるかに早く崩れてしまっている。
 その理由を、フィオーレは告げたのだ。あまりに精神的な安定を欠いている。恐らくはそのせいで毒の巡りが早い、と。レディは舌打ちし、呪うように、リトリアのいとしいふたりの名を呟いた。あのふたりが傍にいないせいだ、と言わんばかりの声の響き。ちがうの、とリトリアは声も出せずに思ったことを覚えている。ちがうのちがうのつふぃあとすとるさんのせいじゃないの、わたしがいけないのわたしがわるいこだからいけないの、だからふたりはとおくへいってしまったのもうあえないのあいたくないっていわれたのわたしのせいなの。わたしが。さびしいのもがまんできない、わるいこだから。あいたくないっていわれたのにあいたいって、わがままばっかりいうから、だから。だから、ふたりとも、わたしを。ぶつ、と意識が途切れ、それ以上の思考もなく、交わされたであろう会話もリトリアは知らないままだった。
 けふ、と乾いた咳で一度、喉を震わせ、リトリアは保健室へ戻る最後の廊下を曲がる。そして、足を止めた。視線の先にいたのは、顔見知りの女性教員だった。リトリアが在学していた時はまだ生徒であった筈だが、一足先に卒業し、確か今は学園で事務仕事をしている筈の。リトリアがあまり緊張せず話しかけられる数人のうちひとりだ。なめらかな夜色の肌が、どこかツフィアを思い出させるからかも知れなかった。パルウェさん、と口の中でちいさく呟き、リトリアは首を傾げながらそちらへ足を進めた。たたた、と小走りに歩み寄り、無言でローブを軽く引っ張ってから、驚きに向けられるトパーズの、柔らかな黄玉色の瞳に問いかける。
「パルウェさん、こんにちは。……どうかされましたか?」
「あら、リトリアちゃんじゃない。おどろいたわぁ」
 リトリアはローブを掴んだ手をぱっとばかり離し、顔を赤らめてごめんなさい、とちいさな声で謝った。あのふたりのことを考えていたので、彼らにするように話しかけてしまったのだ。ストルも、ツフィアも、ある一定の距離まで近づくとリトリアにすぐ気がついてくれる。顔を向けたり声をかけてくれたりするかはその時によって様々だが、服を引っ張っても驚かれることはまずないのだった。もうしません、としゅんとして反省するリトリアに微笑みを深め、パルウェはこんなところでどうしたのかしら、と問いかけてくる。
「ひとりできたのぉ? チェチェは? レディは一緒かしら?」
「……えっと」
 たぶん、きた時はチェチェリアと一緒、であったと思うのだが。あいにくと、道中の記憶がすっぽりと抜けてしまっている。そういえばひとりで帰っていいのか、チェチェリアが授業を終えて戻ってくるのを待っていた方がいいのかも分からず、リトリアは困惑に眉を寄せた。そろりと視線を彷徨わせながらどうしよう、と考え、リトリアはパルウェが手に持つとあるものに気がつき、目を瞬かせる。それを廊下から拾い上げ、困惑していた所をリトリアが見かけて声をかけたのだった。それはカフスボタンだった。正方形にカットされた銀の台座に、うす藤色のスワロフスキーが埋め込まれている。なにかの拍子に、留め具が緩んで落ちてしまったのだろう。ひとつきり廊下に転がっていたそれを手で転がしながら、落としものなのよ、とパルウェがいいかけた、その時だった。きょとん、と目を瞬かせ、リトリアが首を傾げる。
「ストルさんの」
 が、どうしてこんな所に落ちているのか。そう、言わんばかりの口調だった。パルウェは反射的に笑いに吹き出しそうになりながら、カフスボタンに視線を落とし、注視した。本人の魔力でも残存しているのかと思いきや、その気配もない。だいたい、それならば触れた瞬間にパルウェにも分かるだろう。逆に、魔力が残っていようといなかろうと、リトリアにはものすごく頑張らなければ分からない筈である。えっとぉ、と笑いながら、パルウェは不思議そうなリトリアに問いかけた。
「リトリアちゃんは、どうしてこれがストルの、って思うのぉ?」
 こてり、ひどく幼い仕草でリトリアが首を傾げ、無言で何度か瞬きをした。おもう、とたどたどしく言葉が繰り返される様を見る分に、思うとするのは本人の中で適切ではないらしい。んと、ときゅぅと眉を寄せながら、リトリアがこわごわ言葉を紡いで行く。
「だって、それ、ストルさんのですよね……?」
「うん、だからぁ。リトリアちゃんは、どうしてそう思うのかしら? ストルがこれをつけていた?」
 見たところ、まだカフスボタンは真新しい。買ったばかり、というところだろう。予想にたがわず、リトリアはふるふるふると首を横にふった。うまく説明できないのだろう。瞳にじわじわと涙を浮かばせながら、リトリアは上目づかいにパルウェを見る。
「ストルさんのは……」
「ストルのは?」
「わかる、の……。ツフィアのも、みれば、わかると思います。どうしてかしら……?」
 本人が分からないものを、パルウェが理解できる筈もない。うふふっ、と楽しげに笑いながら、パルウェは目を細めてカフスボタンを見つめた。あのふたりが保護者と呼ばれたのは、もちろん、ふたりの過保護と溺愛あってのことであるのだが。そう呼ばせるだけの理由を、確かにリトリアも持っていたのだった。パルウェはリトリアの手にぽん、とカフスボタンを受け渡し、じゃあお願いしちゃうわ、と囁いた。
「ストルの……そうねぇ、講師室にでも届けておいてくれる?」
「わ……私が、ですか……?」
「お願い。大丈夫よ、万一、ストルのじゃなくてもリトリアちゃんがそうしたなら、怒られはしないわ」
 間違われたことで大人げなく多少拗ねたりはするかも知れないが。そういう問題じゃないんです、とばかり涙ぐむリトリアに、それじゃあよろしくねぇ、と言い渡し、パルウェは何処へと歩き去ってしまった。なにやら事務仕事が立て込んでいて忙しいらしい。リトリアはオロオロと意味もなく周囲を見回し、てのひらに残されたカフスボタンを指先で握り締めた。やがてリトリアは、きゅぅとくちびるに力を込めて身をひるがえす。向かったのはもうほんのすこしの距離にある保健室の扉、ではなく。逆方向。学園で教鞭をとる魔術師たちに与えられる部屋のある、教員棟、と呼ばれる建物へ向かう方角だった。



 教員棟はしんと静まり返っていた。授業に出ている者が多いのか、殆どの扉には不在の板がかけられ、どこそこで何時までなにをしている、と説明がくっつけられている。扉には使っている者の名前も書かれているから、リトリアはすぐそれを見つけ出すことができた。ストル、と書かれた扉の前で立ち止まる。扉には紙がピンで留められていた。メーシャに実技指導中だと書かれた文字を指先でなぞり、リトリアはきゅぅとくちびるに力を込める。随分ひさしぶりに目にした、ストルの書き文字だった。在学時代はよく目にしたその文字を、与えられなくなったのはストルが卒業してからだった。
 手紙を書く、と言ってくれたのに。ストルが卒業してから、一度も、リトリアはそれを受け取ることがなかった。日常の手紙も、記念日のカードも。出しても返事が戻ってくることは一度もなく、リトリアも、卒業を迎えた。けふっ、と乾いた咳がこぼれていく。
『もう、面倒見切れないな……幸い、もう卒業だ。だから、これきりで……話しかけるな』
 けふ、けふっ、と咳が出て、喉が痛む。まだ体に残る毒が、じくじくと胸を痛ませた。王宮魔術師は誰もが多忙だ。しばらくは会いに来ることができないかも知れないが、代わりに手紙を書く。さびしかったら呼んでくれて構わない。時間はかかるが、必ず会いに来る。その間も手紙は書く。会えない間のなぐさめに、と。告げてくれたのは、いつ、だっただろう。話しかけるな、と言われた前か、あとか。どうしてもそれが思い出せない。手紙は来なかった。一度も。何度も何度も出したのに。震える指先を折り曲げて、リトリアは苦く微笑んだ。ストルさんが講師室を不在にしてくれていて、ほんとうによかった、と思う。パルウェは怒られない、と言ったけれど。嫌われているのも、避けられるのも、つらい。はやくどこかへ置いて帰ってしまおうと、リトリアはドアノブに指先を触れさせた。
 鍵がかけられている。ごく軽く眉を寄せて、考え、リトリアは目を伏せた。一瞬、リトリアの足元に水が広がり、水連の花が咲く幻が現れる。ぱきり、と音を立ててその幻が崩れ、消え去ったのち、リトリアは静かにくちびるを開いた。指先で、ドアノブを撫でながら告げる。
「……『あなたは夜の眠りにまどろむ白い花。私の声は朝の目覚めを告げるひかり』」
 もう片方の手でカフスボタンをあまく握る。分かっている。こんなことをしてはいけない。わかっている。戻ってパルウェを探して、会えませんでした、鍵もかかっていて、と告げればいい。それだけだ。それだけなのに。
「『あなたはすこしの間だけ、私がいい、と告げるまで、眠りから目覚め花開く』」
 どうしても。
「『鍵よ、あなたは白い花。眠るもの。私の声に目覚めるもの』」
 どうしても。
「……ひらけ」
 かちん、と。ちいさな音をたてて鍵がひらく。リトリアはそのことを悔いるようにくちびるに力を込めた後、するりと室内へ体を滑り込ませた。講師室、と呼ばれる彼らの為の一室は、ちょうど寮生が居室とするそれと同じような作りで、似たような大きさをしていた。場合によっては住みこんでも、不自由しないようにだろう。部屋には執務の為の大きめの机と椅子があり、部屋の両端には大きな本棚が並んでいる。ものを置く棚の代わりにも使っているのだろう。本だけではなく、細々とした道具なども飾り、置かれていた。部屋の手前には長方形の背の低い机と、囲むように置かれたソファがあり、背もたれにローブが無造作にかけられている。慌てて出て行ったのだろうか。リトリアはローブを拾い上げて丁寧に畳み、ぽん、とソファの上に置きなおした。
 カフスボタンは、どこへ置いておくのが一番分かりやすいだろうか。考えながら部屋の奥、執務の為の机に歩み寄って、その上をざっと見回し、首を傾げて。リトリアはびくんっ、と怯えたように体を震わせ、ある一点を凝視した。机の上。ちょうど椅子に座って手を伸ばせばすぐ触れられるような位置に、白い花飾りが置かれていた。青い小花が添えられたおおぶりの白い花飾り。それに見覚えがある。間違える訳がなかった。リトリアがつくったものだからだ。花飾りはふたつつくった。チェチェリアにそれは告げなかったけれど、恐らく、理解されていたのだろう。赤い小花を飾ったものはツフィアへ。青い花を添えた方はストルへ。渡してほしかったのだ、と。
 パーティーを終えて戻ってきたチェチェリアは、確かに渡した、と言ってくれた。それだけで十分しあわせだった。一瞬であっても触れてくれたのなら。受け取ってくれたのなら。もし、そのあと捨てられてしまっていたとしても、リトリアは、十分、報われた。浮かんで来た涙を堪えながら、リトリアはそっと花飾りに手を伸ばす。ストルがどんな想いでこの花飾りを受け取り、未だ手元に置いておいてくれているのか、分からない。だって、きらい、と言ったのに。うんざりする、と言ったのに。会いたくないと、ストルは確かにそう言ったのに。くすくす、笑いながら。耳元で。
『うんざりする。……キミのことなんか、嫌いだよ』
 ぐらり、意識が揺れて、リトリアは咳をした。ああ、そうだった。もしかして嫌われていないかも知れないなんて、そんなことは、ないのだ。ストルは優しいから、とてもとても優しいから、いまも、リトリアに笑ったり話しかけたりしてくれている、だけで。リトリアは浮かんだ涙を手で拭い、白い花の近くにカフスボタンをころん、と転がした。うす藤色のスワロフスキーが、光を弾いてきらりと輝く。その、いろに。リトリアはぐらぐらと眩暈を感じて、あれ、と息を吸い込んだ。どうしてストルさんは、こんな、わたしのめとかみのいろみたいなボタンを、つけてくれていたんだろう。眩暈がする。乾いた咳が漏れていく。どうして、どうして。混乱する意識の中で誰かが囁く。
 そういえばどうして、あの時だけ、ストルさんとツフィアは、わたしのことを。きみ、と、よんだのだろう。
「……どうして、だっけ」
 花が咲いていた。窓の外には花が。春告げる花が。三月の終わり。花壇に色とりどりのチューリップが揺れていた。もうすこしで四月になる、あたたかい日のことだった。誰かに手を引かれて連れて行かれた先の、部屋で告げられた言葉だった。あれ、とリトリアは眩暈に耐えかねてその場にしゃがみこむ。きもちわるい。きもちわるい、きもちわるいきもちわるい、こわい。こわいこわいこわい。こわい。すぅと体温が冷えていく。こわくてこわくてなにも考えることができなくなりそうだった。なにか間違えている気がした。なにか、なにかを。けれどもそれがどうしても分からない。思い出せるのは、しっかりわかるのは、ひとつ。窓の外に花が咲いていた。それは三月の終わりのことだった。
『――かわいそうにねぇ、お人形ちゃん。ふたりがXXしてしまって、キミはひとりきりだネ』
 くすくす、くすくす。耳元で、声が。
『でも、お手紙をくれたの。ふたりとも、すぐ! ふふ、お返事を書かなきゃ。きれいなインクを買ったのよ』
 響く。ぐるぐるとまわる。記憶が。弾んだ声。ああ、あれは。
『ストルさんも、ツフィアも、お手紙をくれたの。すぐ、ほんとうにすぐよ。お返事するの。寂しいけど……会いたいけど、頑張らなきゃ。私、一人前の魔術師になるの。ふたりみたいに、ちゃんと、卒業して、それで……陛下にお願いするの。分かってる。私だけがツフィアを自由にできるもの。大丈夫。絶対だもの。すぐ、だもの。ツフィアはXXさんみたいなことしない。そんなこと、ぜったいしない。私、しってるもの。だから……!』
 あれは。
『ストルさんを、私の――に、ツフィアを、私の――に、してもらう。それだけでいいの。それだけで、ツフィアは、自由になれる。……よかった。私が予知魔で本当によかった。ふふ、がんばらなきゃ、がんばらなきゃ……! ……あれ、ね、XXXさん? XXXさんは、いま、なんで私のこと……なんて、呼んだ、の……? だって、そんな呼び方を、するのは……XXさん、しか……! XXさんは、だって、砂漠の国に幽閉された筈じゃ……! XX、さん? なんでっ! なんでなんでなんでっ!』
『――お人形ちゃんは頭がいいネェ。でも、遅いヨ。もう手遅れダ』
 ばたん、と扉が閉まる。魔力がたちのぼり、そして。
『ほら、見てごらん? お人形ちゃん。……あれが、ストルと、ツフィアダヨ』
 会いたかった、キミの。いとしいふたりだ。強い魔力を流しこまれ、力を失った指先から手紙が滑り落ちる。床に落ちたそれを靴底が踏みにじり、そして、火が放たれた。燃えるそれに悲鳴をあげながら指先を伸ばす。くすくすくす、と笑い声。アア、カワイソウニネェ、オ人形チャン。言い聞かせるように声が囁く。
『キミに手紙なんて来なかった……最初から、一通も、ネ』
 うずくまって咳き込み、リトリアは震えながら視線を持ち上げた。ストルの机の上をぼんやりと眺める。使い古されたペンの隣に、半分ほど減ったインクの瓶が置かれていた。手紙を書く時にだけ、ストルが使うインクの色だった。半分、減っている。どうしてだろうと思い、リトリアは息を整えながら、ゆっくりと立ち上がった。なにを考えていたのか、うまく思い出すことができない。けふん、と咳き込んで、リトリアはまばたきをする。ああ、そうだ。いいこにしてなくちゃ。いいこにして会わないようにしてこれ以上嫌われないようにして、そして。ふたりを、守らなきゃ。ふらりと足を踏み出して、机の傍を離れ、扉へ向かう。足音が聞こえたのは、その時だった。
「……あれ? 先生、鍵があいてますけど……」
「締め忘れたかも知れないな」
「慌てて来てくださいましたもんね。別に、すこしくらいなら遅刻しても待てますよ、俺」
 くすくす、笑いあう楽しげな師弟の声が部屋の前で止まり、中途半端に開かれた扉に指先がかかる。びく、と体を震わせてリトリアは一歩退いた。息を吸い込んだ喉が、乾いた咳をもらす。ああ、だめだ。身を隠す方法などいくらでも、予知魔術であれば紡げるのに。喉が、焼けて。痛い。
「……誰か」
 その声に、胸が痛くて。
「いるのか?」
 まにあわない。
「――リトリア」
「すとるさん……」
 視線が重なった。まっすぐに。知らず、リトリアはストルに向かって足を踏み出していた。手を伸ばす。会いたかったの。混乱する魔力を退けるように心が叫ぶ。会いたかったずっと会いたかった。好き、だと。告げる心のままに触れようとしたリトリアの足は、しかしぴたりと立ち止まる。ストルの背から、一人の少年が姿を覗かせた為だった。
「先生? 誰か……あ、こんにちは」
 ふわりと微笑むその少年の名を、リトリアは知っていた。何度か、遠目に見たこともある。
「メーシャ」
 その名を、ストルが呼んだ。あたたかな響きだった。師弟であるという。ストルはメーシャの担当教員で、彼のことをとても可愛がっているのだと。扉には実技指導と書かれていたから、その帰りなのだろう。並び立つ姿に、リトリアは息が詰まった。いいな、と思う。そんなやさしい繋がりさえ、ストルとリトリアの間には、ない。視線を伏せてくちびるに力を込めたリトリアに、メーシャから心配そうな視線が向けられる。はっとして顔をあげ、リトリアはストルをみつめながら、言った。
「ごめんなさい……すぐ、帰ります」
「リトリア。……ここへは、なにをしに?」
「カフスボタン、が、落ちていたので。それを届けに来ました……勝手に入ってごめんなさい」
 わかっている。あたたかな声も感情も眼差しも、すべて過去にあったものだ。今はない。きゅぅ、と痛む胸を持て余しながら、リトリアはゆっくりと二人に歩み寄った。扉のすぐ傍に立たれているから、出ていくにはどうしても、そうしなければならなかった。メーシャがストルの袖口を覗きこみ、あ、ほんとうだ、と囁いている。ストルは右の袖口に視線をやり、なんとも言えない表情で眉を寄せていた。先生、意外とそういう所抜けていたりしますよね。言うな。くすくす、笑いあう声が震わせる空気に、近づいて。離れがたくて。リトリアはストルの前で立ち止まり、その顔を見上げて目を細めた。ストルさん、と呼ぶと視線が向けられる。
「リトリア……?」
 どうした、と問う響きなのは、きっと泣きそうな顔をしているからだろう。ストルは優しい。だから、心配してくれている。嫌いな相手であっても。それだけだ。勘違いするなと手を握り締め、リトリアは淡く微笑んだ。ゆっくり、ゆっくり、一礼する。
「いいえ。それでは、私は、これで」
「……もう、帰るのか」
「もうすこし学園には、います。……心配なさらないで」
 これ以上顔を合わさないようにがんばるから。そう、小声で告げて。
「さようなら、ストルさん」
 身をひるがえそうとしたリトリアの髪を、指先が撫でる。息を詰めて振り返ったリトリアの視線の先、ストルは驚いたようにその指を引いた所だった。反射的にそうしてしまった、とでも言うように。それでも、それ以上は手を伸ばさず。震えながら見つめるしかできないリトリアと、なにかを堪えるようなストルを見比べて。唐突にメーシャが、あの、と声をあげた。
「お話……しませんか?」
「……はなし?」
「俺、今、ナリアンが焼いてくれたクッキー持ってるんです! だから、みんなでお茶しましょう。ね? リトリアさん」
 よく見れば、メーシャは腕に紙袋を抱え込んでいた。ふわ、と甘い香りがそこから漂ってくる。思わず、くぅ、とリトリアのおなかが鳴った。瞬時に顔を赤くして両手で腹を押さえ、ちがうのいまのはちがうの、とふるふる首を振るリトリアに微笑んで、ストルは手を差し出した。
「おいで、リトリア」
 お茶にしよう、と誘う声はやさしく。リトリアは泣きそうになりながら、その手に、指先を滑り込ませた。偽りであっても。そのやさしさが、欲しかった。

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