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 今はまだ、同じ速度で

 冬の乾いた冷たい風が、枯れ葉を転がしながら地を低く撫でていく。学園を取り囲む森は常緑樹が多いが、秋に紅に染まり冬に葉を枯れさせる木も多く生えている。冬の森の匂いが空気を染め上げていた。雲ひとつない白んだ空は天高く、魔術師に良い天気だと目を細めさせる。ひえた乾いた空気さえなければ、陽だまりを選んで本を読む者もあっただろう。寮の出入り口で寒さを堪えていた者たちが、外套の合わせをぎゅぅと握り、それぞれ足早に道をかけていく。ある者は年末を控えたこの時期に開始される、定期試験の為に教室棟へ。またある者は、同じく教員の待つ実技試験の会場へ。ある者はその為の勉強をすべく、図書館へ。さむいっ、太陽属性をよこせっ、火属性でもいい、さむいさむいっ、やだぁもう砂漠にかえるっ、と半泣きで走っていく者たちの足はけれども一様に、寮から数歩離れた所で立ち止まった。
 談話室や食堂がある生活棟、通称『寮』と呼ばれている建物の前にはひらけた空間が広がっている。天気の良い春などはそこでピクニックめいたことをしたり、秋には枯れ葉を集めて燃やして焼き野菜の会が催されていた。主犯ならぬ主催は狂宴部と儀式準備部である。なにかと仲良しらしいその部は、わりとろくでもないことと、それなりにすてきなことを交互に開催しては学園の空気を華やかせるのが常だった。数週間前に枯れ葉を燃やして寮生が火で暖をとったその広々とした空間に、杭が打たれ、ロープが張られていた。正確に計算された上で穿たれたであろう杭の先端には、魔力を帯びた硝子が宝石の形に削りだされ、埋め込まれている。魔術具だ、と魔術師であるなら誰もが見て理解しただろう。空間と空間を閉じ、結界をうみだす為の魔術具。内側の空間は閉鎖され、その影響が外部に漏れていくことはない。
 通常ならば部屋の四隅に転がし、その部屋を独立閉鎖させる為のものだった。外で使用するというのは、あまり聞いたことのない手段だ。生徒たちは訝しく視線を持ち上げ、魔術的には閉ざされた、それでいて視界を遮るものはなにもない空間に意識を移動させて、一様に、よくわかんないんだけど誰か説明してくれないかな、なにあれなにしてるの、という顔つきをして沈黙した。冬晴れの空の元、ほわんほわんした声が響く。
「なーな! はーち! きゅー! じゅっ! ……十秒です!」
 透明な柘榴石で作られた蝶を前にして、ソキがふるふると一生懸命、なにかを堪えながら振り返った。ソキからすこし離れた場所に椅子を置いて座っていたウィッシュが、ぴっぴっぷー、と脱力するような音を立てて笛を鳴らす。
「はい、そこまでー。もういいよ」
「ふにゃぁ……! レディさん、レディさん。ソキ、魔力使いすぎたりしてないです? 大丈夫です?」
「大丈夫です。ソキさまとウィッシュさまの御為ならば私の魔力などいくらでも! 提供致します……!」
 存分に使ってくださいね、と感激に目を潤ませながらソキの傍らに膝をついて座りこんでいたのは、火の魔法使いそのひとだった。差し出されたレディのてのひらを、ソキは両手で包みこむようにして向きあい、安心したようにふわふわと微笑みを浮かべている。レディが目を潤ませ、自由な片手を口元に押し当てて呻く。
「ソキさまかわいい……! ウィッシュさま、ありがとうございます。フィオーレじゃなくて私を選んでくれて!」
「うん。俺としては魔法使いならどっちでもよかったんだけど。ソキがね、レディさんがいいです、って言うから」
 レディが黄色い悲鳴をあげてその場に崩れかける。砂漠出身の、うんその気持ちわかるわかるっ、いやなにしているのかさっぱり分からないけどっ、という視線を受けながらなんとか持ち直したレディは、己の手を包み込むソキのてのひらに、そっと指先を押し当てて告げた。
「ありがとうございます。光栄です……」
 寮長が傍にいないことを良いことに、レディはこころゆくまで好きなように、ソキにしたいように接している。これもしかして俺あとで寮長に怒られたりするのかなぁ、と不安がる顔で首を傾げ、ウィッシュはまあいいや、と笛をぱくんと口に含んだ。ぴっぴっぷー、と音がする。
「はい、休憩おしまい。ソキ、次は火な。火の属性、その初歩、あるいは発動前の具現化を十秒持続!」
「……ソキのガッツと! 根性は! これからですー!」
 すでに体力的には若干辛いのだろう。ふらつきかける体をレディの手を強く握ることでなんとか支えながら、ソキは気合いを入れ直し、きゅぅ、とくちびるに力を込めた。虹色の波紋のように、魔力が世界を染め上げる。見つめていた寮生の誰かが、あ、と声をあげた。
「実技試験っ……! これ、もしかして予知魔術師の実技試験……っ?」
「……あ、ああああぁ! そういえばリトリアちゃんもやってた! 見たことある!」
「そうだあの時も外だった! 公開試験だったー!」
 魔術師の実技試験、というものは訓練室にて行われる。そうでなければ危ないからである。未熟な魔術師のたまごの魔術発動は、時として思わぬ形で世界に、人に牙を向く。訓練室は魔術師の卵を守る為の場所であるのだ。しかし、予知魔術師の試験は何事もなければ、原則、外で行われる。あるいは講堂や、時には談話室も使用して。誰の目にも触れる、開かれた場所で行うのが原則で、規則だった。予知魔術師の魔術発動に、暴走、という文字はあてはめられない。本人の待つ魔力そのものが、楔を壊してその身から溢れてしまう例外を除いて。その言葉は適切な発動しか導かない。ソキの瞳が挑むように、強く、なにもない空間を睨みつける。
「……火、は、黒く」
 ざら、と。音がした。砂の動く音だった。四角く切り離された空間の中で、虹色に揺らめく魔力が渦を巻く。
「『暗闇を鎖す、灯篭の形をしている。……夜はあまく光に照らされ、ゆらゆらと、揺れ動く。火は、夜の中で、踊るもの。ひえた指先を暖め、ぬくもりが、かなしい夜にも寄り添ってくれる。火は……火はけれども夜の黒さを染み込ませ、閉ざされた瞼の裏側で夢をみている……』」
 きゅ、とレディの手に力がこもった。ソキはそれを意識することなく、触れた場所から、魔法使いの魔力を吸い上げて解き放った。
「『私の火は、夢を見ている! くろい、よるの、やさしいよるのゆめだけを!』」
 ごうっ、と音を立てて焔が吹きあがった。咄嗟にレディがソキを抱き寄せて庇うほど強い火力は、しかしだんだんと弱まっていき、火の形も歪んで行く。揺らめく火は鳥籠のような形を成し、最後に、レディにもソキにも見覚えのある飾り灯篭の輪郭を作り揺らめき、消えていった。砂漠の国の飾り灯篭。花嫁、花婿の祝いの為に飾られ火を灯される、それ。ぱちぱちと瞬きをして見つめるソキの耳に、ぴっぴっぷー、と笛の音が届く。
「はい、だめ。やりなおしー」
「え、ええぇえっ! ソキ、できたです! 十秒できたですー!」
「だって今の予知魔術じゃん。俺がやってねって言ってるのは、予知魔術としての火の魔術発動じゃなくて、火の属性を用いた黒魔術の発動だってば。さっきも言ったろー? ソキ。言葉にするのは一番正式な基礎呪文だって。それを発動するのにイメージとして考えるのまではいいよ。でも、言葉にしたらそれは予知魔術。火の、黒魔術じゃない。俺が、試験で、やってねって言ってるのは、火の黒魔術。その、基礎」
 やあぁあんっ、とソキがむずがるが、ウィッシュはにっこりと笑みを浮かべるだけで容赦などしなかった。あたたかな格好で椅子に腰かけながら、ただじっと、己の生徒が落ち着きを取り戻す時を待っている。ソキ、とウィッシュは微笑みながら名を呼んだ。きよらかに響く旋律めいた、うつくしく空気になじむ、ひんやりとした響きの声で。
「じゃ、ロゼア呼んで来ようか?」
「ソキのがっつとこんじょうはこれからですこれからですううううっ!」
 あ、と見守っていた砂漠出身者が思わず、という風に声をあげて呟く。そういえばソキさま、ロゼアくんが戻ってくるまで談話室から動いてはいけなかったのではなかったっけ、と呟く一人の声が聞こえたのだろう。椅子に座ったまま振り返ったウィッシュが、あまい微笑みを浮かべながら口唇にひとさしゆびを押し当て、しぃ、と囁くように告げた。
「なーいーしょ」
「おにいちゃんそきできますよできますよ! はやくはやくうぅっ!」
「おにいちゃん、じゃなくて。先生な、ソキ。……よし、はい集中してー、準備してー……はい、開始」
 ぴっぴっぷー、と笛の音が響きわたる。寒空の下。予知魔術師の実技試験は、その後一時間に及んで続けられ。無事、ソキは合格を担当教員から告げられることとなる。



 予知魔術師の実技試験は公開式で行われることと、その内容までは文献に残されていた。ウィッシュを悩ませたのは、それを実現するだけの術である。魔力の絶対量がすくない予知魔術師では、試験に必要な分にも足りないからだ。途中で枯渇してしまうことは予想に容易かった。さてどうしたものかと考えた末、ウィッシュが助けを求めたのはリトリアの担当教員であった男だった。星降の王宮魔術師をしている男はそれなりに多忙だが、予知魔術師のことについて相談がしたい、というウィッシュの求めにはすぐ応えてくれた。聞けば男もどうしたものかと悩み、かたはしから文献を総ざらいしたあげく、五ヶ国の王に相談までしていたらしい。男はまず己のとった方法を文面にして残しておかなかったことを謝罪し、あっさりとそれを教えてくれた。ちょうどいいことに、魔法使いが傍にいたから、彼に魔力供給役を頼んだのだ、と。
 予知魔術師は己の魔力だけでこと足りぬ時、傍にいる魔術師の魔力を引き寄せる性質を持っている。他の魔術師には絶対にないその性質があってこそ、少ない魔力量でも予知魔術師は兵器として成り立ったのだ。だからリトリアの時は白の魔法使いに頼んでいたな、という男になるほどと頷き、ウィッシュは現存する魔法使いのふたり、どちらに手伝ってほしいかをソキに尋ねた。ソキは悩んだ末、火の魔法使いの名を出した。それを受けてウィッシュはレディに連絡し、座学の試験が執り行われている今日、ソキの実技試験となったのだ。入学して数ヶ月。体調不良と回復を繰り返していたせいで、ソキが座学で受けられた試験の数はすくない。一般教養はなんとかなったのだが、魔術師として受ける座学は受け直しとなった。出席不足が主な理由である。
 予知魔術師に、属性の修練、適性の習熟は基本的には必要がない。最終的には授業を受けずとも、試験に合格せずとも、身体感覚としてそれを覚え込み、馴染ませてしまえばこと足りるからだ。しかし今現在、世界は予知魔術師を戦場に引きずり出す必要性がなく、時間をかけずとも卒業させてしまう理由を持たない。平和であるからこそ、ウィッシュはしっかり五ヶ国の王に念を押されていた。ぜんぶ合格させてね、と。順番が逆であるのだが、その為にも必要であったのが、実技試験、その初歩の合格である。予知魔術師は他のどの魔術師より、魔術の扱いを体で覚える。感覚に刻み込む。知識はその後押しをしてくれる。けれども、その研ぎ澄ませた感覚がなければ、いくら知識を積んでも予知魔術師が真の安定を得るには至らないのだという。
 ともあれ、ソキはウィッシュの課した実技試験、『全ての属性、全ての魔術師適性を使用し、術式の初歩を正確に起動させる』に合格した。一番最初に起動させた風の魔術から、最後に披露した太陽の黒魔術まで、かかった時間は三時間とすこし。ソキの体力は限界をすこし超えていて、戻った談話室でぱたりとソファにうずくまったまま、動けないでいるようだった。ウィッシュはその前のソファにくたりと腰を下ろし、途中でロゼア戻って来なくて本当によかったぁ、と胸を撫で下ろした。ロゼア呼ぶよ、と脅しはしたが、実技試験は一度きりの中断なしで終えてしまうのが通例だ。体調のことがあるといえど、中断と再開を認めてもらえるかどうかは分からなかったのである。そうなれば、ソキは学園から外に出られない。
 新入生は実技試験に合格した者のみ、年末年始の長期休暇で『中間区』から外に出ることを許される。魔術の制御に、一定の安定を得ていると判断されるからだった。座学の試験が終わり、十二月になるまでもう数日しかない。今日を逃せばソキは強制的に学園に留め置かれることになっただろう。あああ本当によかった、と胸を撫で下ろしながら、ウィッシュはソファに座らず、その前の床にぐったりとしゃがみ込んで動かないレディを見つめた。試験中、ずっとソキに魔力を供給してくれていた魔法使いは、レディ、と呼びかけるウィッシュの声に、のろのろと視線を持ち上げる。ふぁ、と眠たげなあくびをして、レディは疲れ切った様子で首を傾げた。
「なにか……?」
「ううん。眠いのかなって。あと、おつかれさまと、本当にどうもありがとう。レディのおかげで助かった」
「ふにゃっ」
 レディさん。そうだ、お礼いわなきゃですっ、と八割方寝ていたソキが名前に反応してびくんと顔をあげ、ソファの上によちよちとした動きで座り直す。ソキは眠たげに手でくしくしと瞼を擦ったあと、ねむくてねむくてとろとろした目で、レディのことをじぃっと見つめた。
「レディさん。……ありがとうございました、です。ふぁ……」
「はい。どう致しまして……! ソキさま、もうお眠りになられて大丈夫ですよ」
「やぁんろぜあちゃんくるまでソキまってるぅっ……! ろぜあちゃんどこぉ……?」
 ねむくてねむくて、もうほんとうにねむくて仕方がないのだろう。寝ぐずっているソキをどうしようかなぁ、という目で眺めたのち、ウィッシュはおろおろするレディに、やさしく言い放った。
「気にしないでいいよ。というか、気にしてもどうにもならないから。ロゼアじゃない限り」
「やぁん! やぁん、やぁん、やぁあん! ろぜあちゃんろぜあちゃんどこどこぉっ! ろぜあちゃんーっ!」
 顔を両手で覆ってくすんくすんとしゃくりあげたのち、騒いだことで逆にすこしばかり眠気が落ち着いたらしい。ソキはぷぷぅっと頬をふくらませて不満げにしながらも何度か瞬きをして、ふらんふらんしながらレディをみる。
「レディさんも、ねむいですぅー……?」
 ウィッシュの言葉が聞こえていたらしい。ねむいのたいへんですよね、とほにゃほにゃした声で囁かれ、レディは胸元に手を押し当てた。落ち着く為の深呼吸をして、頷く。
「すこし、夜更かししているので……」
 本当ならばレディは、もうとうに数ヶ月の眠りについている頃だ。火の魔法使いの覚醒と睡眠のサイクルは特殊だ。二ヶ月眠って、二ヶ月起きる。起きている間は眠りに落ちることがない。起きて、眠るまでの二ヶ月は、レディの感覚にしてみれば丸一日を過ごすのに近いものがある。通常の朝の目覚めから、夜の眠りを繰り返しているだけ、なのだ。普通ならば二十四時間で巡る一日が、どうしてか四ヶ月に引き伸ばされて巡っている。ただそれだけのことで。前回のレディの目覚めは八月半ば過ぎ。今は、十一月の終わりである。十月を終えた頃には本格的に眠くなっていたレディが、夜更かし感覚で一月、覚醒を続けているのには理由があった。予知魔術師リトリア、その殺害役に選ばれたからであり。もうすこし少女の状態を見守っていたい、と思うからだ。星降の王も、フィオーレも、良いから寝てかまわない、と言ってはくれたのだけれど。
 頑張って早起きしない限り、レディが次に目覚めるのは二ヶ月である。そして、魔術師として覚醒する前の生活感覚から言っても、レディにはまず早起きをすることができないのだった。二ヶ月は、長い。なにもなく過ごしていた時期であればそうは思わなかっただろうが、リトリアから二ヶ月もの間、目を離すことはあまりしたくなかった。一日完徹夜すると思ってあともう二ヶ月くらい引き延ばせないかしら最近眠くてちょっと頭痛いけど、と思い悩むレディに、ソキはのたのた瞬きをしながら、こてん、と首を傾げて問いかけた。
「なんで夜更かしさんしてるです?」
「……気になることがあるので、上手く眠れないと言いますか」
「じゃあ、ソキがひざまくらしてあげるですー! ソキねえひざまくら得意なんですよー」
 はいどうぞー、とばかり膝をぽむぽむ叩いて告げるソキに、レディはいいえそんな恐れ多い、と顔をやや青ざめさせて首を振った。上手く眠れない、というのを眠りが浅いと勘違いしたらしいソキの好意はありがたい。しかしなにより、砂漠の民として、『花嫁』の膝で眠るなんていうことはなんていうかいくら支払えばいいのですかお屋敷に、状態である。だいじょうぶです、とふるふるふるふる首を振るレディに、ソキがぷぅ、と頬を膨らませた。
「大丈夫です。ソキ、ひざまくら得意です」
 それでも、レディが頷こうとしなかっただろう。ソキは一瞬だけウィッシュに視線を向け、まあいいんじゃない、とばかり頷かれたのをみるや、レディに向かって両手を伸ばした。火の魔法使いの手を、ソキは包み込むようにして柔らかく握り締める。あのね、と甘い砂糖菓子のような声が、ふんわりと空気を揺らして行く。
「レディさん、実技試験ありがとうございましたです。ソキね、お礼がしたいの。だめ……? ね、ソキの傍にきてください。お願いです、レディさん。こっちにきて……? ソキの傍に来て。ね……?」
 おねがい、ねえ、おねがい。そんなところにいないで、もっとそばにきて。あまくあまく囁きかけながら、ソキはレディの手を引き寄せた。指先に甘えるように頬を擦りつけ、狼狽するレディの瞳を覗き込んで囁く。
「おねがい。ソキの傍にすわって……? レディさん、レディさん。……ね? おねがい」
 床についていた足に力を込めながら、ふらり、レディは立ち上がった。求められるままにソキの隣に腰を下ろすと、絡め取られた視線の向こう、淡く輝く宝石色の瞳が、とろりと喜びの熱に揺れていた。ソキはレディと視線を重ねたままでてのひらを頬に押し当て、ほぅ、と満ち足りた息を吐き出す。
「レディさん……ソキのいうこと、きいてくださいですよ。ひざまくら、させて……? ソキ、レディさんに、おひざでねむってもらいたいです……だめ? ねえ、おねがい。おねがいきいてくださいです」
 そうしたら、と。頬に手を触れているだけでぞわぞわと、独占欲と所有欲を刺激してならない花嫁が、告げる。
「ソキを、なでていいですよ、レディさん……。でも、頬だけですよ。やさしくしてくれなきゃ、や、です」
「……ソキ、さま」
「レディ」
 ほら、と苦笑しながら伸びてきたウィッシュの手が、魔法使いの肩を押し、頭をソキの膝の上にのせた。とっさに身を起こそうとするレディの額に、ソキの指先が触れて、くすぐるように撫でていく。てのひらは慣れ切った様子でレディの髪を撫で、頬を撫で、肌にそっと触れて行った。淡く、影が、落ちて。ソキのくちびるが、レディの前髪に、触れる。
「……おやすみなさい、レディさん」
「ソキさま……」
「砂漠の、金の光があなたに寄り添い」
 静かな言葉は、祈りだった。砂漠出身なら一度ならず聞いたことのある、やさしい、祈りだ。ぐらりと意識を揺らすレディのまぶたに指先を触れさせ、撫でながら、ソキは静かに囁いた。
「穏やかな眠りを導きますように……」
 さあ目を閉じてくださいね、レディさん。だいじょうぶ。ソキはひざまくら、得意なんですよ。囁きと共に髪が撫でられ、レディの意識はゆるゆると夢に沈んでいく。やがて、すぅ、と深い寝息を響かせ始めたレディを見下ろし、ソキはよし、とばかり頷いた。
「だぁいせいこう、です! ふふん、どうでしたか、おにいちゃん!」
「うん。よくできた、よくできたー! でもさすがレディ、砂漠出身、って感じ。誘惑の乗り方がゆるやかだったな」
「そうですねぇ……ソキに勝手に触ってきたりしなかったですし、すぐお膝に来てくれなかったですし」
 ソキはもしかして誘惑、あんまり得意じゃないですか、と眉を寄せて悩む『花嫁』に、『花婿』はそんなことないと思うけどな、と首を傾げて慰めてやった。
「レディだから、だと思うよ? 砂漠出身で、俺たちに敬意を今でも払ってくれてる相手だから」
「お・ま・え・ら・は……!」
「やっ、やぁんやぁんやぁんっ!」
 がっと頭を上から押さえつけられ、ソキがパニックに陥った泣き声で騒ぐ。ウィッシュは慌てふためきながらも振り返り、えっえっと戸惑いながら、やだよ離して、と首を振って訴えた。
「寮長、なに……?」
「なにじゃねぇよ……! ソキ、お前いまなにしてた……! ウィッシュ、お前もお前でなにを……!」
「やぁんやぁあんっ! ソキちょっとレディさんを誘惑していうこときいてもらっただけですだけですうぅーっ!」
 やあぁああっなんで掴むですかあぁっ、と半泣きで訴えるソキに全面同意の頷きをみせながら、ウィッシュが寮長なに怒ってんの、と涙ぐむ。
「俺はちゃんと、やりすぎて虜にしちゃわないように見守ってただろっ……?」
「そういう問題じゃ」
「寮長」
 ないだろ、と怒鳴ろうとした寮長の肩に、ぽんとばかり誰かの手が触れた。あ、とウィッシュが目を瞬かせ、ソキが泣きながらその名を呼ぶ。
「ろぜあちゃんっ!」
「ソキから手を離せ触るな。……ウィッシュさまからも。手荒なまねをしないでください」
 ウィッシュが素早く動き、ロゼアの限界が来るよりはやく、風の魔術で寮長の手をソキから払いのける。おい、と不愉快げに眉を寄せる寮長にふんわりと花ひらくように笑い、ウィッシュはそっと、己に触れるおとこの手首辺りに指先を添えた。
「……ね、りょうちょ。俺のことも、はなして?」
 パニックを起こして頭に手をそえ、なんだったですかいまなにがおきていたですかっ、とぷるぷる震えるソキを宥めながら、ロゼアが驚きに目をむいた。ウィッシュさま、と綴るくちびるにやんわりと微笑み返し、しぃ、と言葉を封じ込めて。ウィッシュは力を無くした寮長の手を包み込むようにしてもち、くすくすくす、と笑って告げた。
「いきなりは、いやだよ。びっくりするから、やめてね。やだって、おれ、なんかいか、いってるよ?」
「……悪かった」
「うん。じゃあもう、しないでね。ソキのことも、おこらないでね……?」
 苦虫をかみつぶしたような表情で寮長が頷いたのを確認して、ウィッシュは微笑みを深め、男の手から指先を引いた。ちらり、とソキたちの方を向く。この一連の騒ぎでも起きていないのを見るぶんに、レディは数ヶ月の眠りについたのだろう。星降に連絡して迎えに来てもらわないと、と思いながら立ち上がり、ウィッシュはロゼアとソキの元へ向かう。ソファの空いていた空間に体を滑り込ませて座り、ウィッシュはソキ、とようやく落ち着いたらしき妹に囁きかけた。
「レディのひざまくら、交代するよ。ロゼアと部屋にいきな。試験の結果、詳しいことはまた明日か、明後日くらいに来るから、その時にね」
「……試験?」
 いつの間に、といぶかしく眉を寄せるロゼアにないしょだよ、と笑って。ウィッシュは眠るレディの頭を己の膝上に導き、すこしばかり楽しそうに、その髪を撫でてやった。

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