ロゼアは、穏やかで優しくて格好良くて、頭が良くて礼儀正しくてすごくすごく素敵な青年である。だからつまり、とても女の子にもてるのだ、というのをソキはよく知っていた。雰囲気の差からメーシャの方が表立って騒がれ、ナリアンの方がひっそりと胸をときめかせるので、そのどちらもに隠れてしまってそう目立ちはしないのだが。ソキはロゼアが女の子たちをどきどきさせているのを、よく知っていた。とてもよく知っていたのだ。なにせ口が滑りやすい女の子だけのお風呂や、脱衣所。その近くの暗黙の了解的な女子専用湯冷め室に、ソキも時々つれて行かれるからである。だから、その女の子がロゼアをほんとうに好きで、好きになってしまってどきどきしていたのを、ソキはちゃんと知っていたのだ。ソキと付き合っていないかどうかを、昨夜も確かめられたばかりだったのである。
その女の子は確か、楽音の出身で。ソキよりいくつか年上で、ロゼアと同じ年齢の、黒魔術師であった筈だ。それくらいのことしかソキは知らないが、それでも、なにもかもわからないわけではなかった。健康そうにうっすらと日焼けした肌が、いまはほんのりと赤く染まっている。身長はロゼアとそう変わらない。短く切りそろえられた深い藍色の髪に、薄紅の瞳は、ソキとはまるで受ける印象が違うのだろう。ロゼアはすこし眩しげに目を細め、穏やかな瞳で呼びとめた少女のことをみていた。ソキは震えながら一歩後ずさり、飛んで行こうとする黒曜石の蝶を、ぺちんとばかり手でつぶして魔力に戻してしまう。なにも考えられず、大慌てで、来た道を戻った。
ふたりが。とても、とても、お似合いに、みえた。
「……ふえ」
浮かび上がってくる涙をこしこし、てのひらでこすって、ソキはぽてぽてと廊下を歩いて行く。
「うゅ……」
それを見てしまったのは、はじめて、という訳ではない。ロゼアがソキと毎夜いっしょに寝ていることを知っても、本当のほんとうになにもないと知るや、諦めきれない女の子が声をかけることはあったからだ。くしくしくし、と目をこすって、ソキはひっくとしゃくりあげた。
「ううぅ……」
その女の子のことが好きじゃなかったら、ソキはちゃんと、だめ、と言えたのに。ソキより数年はやく入学したその少女は、最初からとても優しくて、昨夜だって本当に申し訳なさそうで、とてもとても苦しそうだったのだ。長期休暇で会えない間に諦めようとしたけれど、でも会ってしまったらやっぱり好きで。ソキちゃんが付きあっていないっていうのなら、伝えるだけ。言うだけにするから、明日。言ってもいいかな、それだけにするから、と震えて、泣きそうになりながら囁く少女に、ソキはどうしてもだめ、とか。いや、とか。言えなかったのだ。
「……ソキ?」
穏やかな。透明に澄んだ水のような声が、訝しく、優しく、廊下をぽてぽてと彷徨うソキのことを呼びとめた。目をいっしょうけんめいこすって深呼吸をしながら、ソキは声のした方へ視線を向ける。いつのまにか廊下で繋がる、講師室棟のあたりまで来ていたらしい。ちょうど部屋の鍵をてのひらに転がしながら、目を見開いて、ストルがソキのことを凝視していた。
「転んだのか……?」
言いながら、ストルの目がさっとソキの頭からつま先までを確認する。問うて置きながら違うと分かっていて、それでも万にひとつ、を確認する仕草だった。ぐずっ、としゃくりあげながら首を横に振り、ソキは真新しい服のスカートをぎゅうぅ、と強く握り締める。白いふわふわのワンピースは、新しく袖を通したばかりの外出着だった。朝。ロゼアがよく似合う、と褒めてくれたことが、いまはどうしてか悲しくて仕方がない。じわ、と涙を浮かべ、またこしこしと擦るソキの前に、歩み寄ったストルがそっとしゃがみこむ。
「……ソキ」
「はい、で、す……なぁ、ん、でぅ、か……?」
「ココアをいれよう。飲んで行きなさい。お茶菓子もあるから、休憩するといい……さ、おいで」
差し出された手をじぃっと見つめ、ソキはつん、とくちびるを尖らせた。すとるせんせい、と呼ぶ。うん、と微笑んで首を傾げる美貌に、ソキはだいぶ拗ねた気持ちでふあんふあんと告げた。
「そき、ここあ、きらぁい」
「……ココアが、嫌い?」
だいぶ衝撃を受けた顔で繰り返すストルに、ソキはこくん、と力強く頷いた。そうか、と戸惑った風に眉を寄せながら、ストルは差し出された手を引くことがなく。じゃあ、お茶にしようか、との提案に、ソキはまたこくん、と頷き、てのひらに指先をぽん、と預けてやった。おいで、とゆるく引かれながら歩き出す。すこしだけ振り返った先の廊下に、ロゼアの姿は、なかった。
ストルは、ソキにとって、よく分からないけれどもなんだかものすごく怖い存在、だった。怖くなくなったのは、長期休暇のすこし前であったような気がするが、正確な時期とその理由を、ソキは未だよく分からないでいる。そもそも怖い、と感じた原因すら分からないのだから、解消された理由も不明であるいま、ストルはすこしばかり不思議な存在としてソキに認識されている。
「落ち着いたら、ロゼアに連絡しよう。迎えに来てもらった方がいいだろう?」
ことん、と机に置かれたカップには、湯気の立つ香草茶が注がれていた。それをじぃっと見つめながら、ソキは対面のソファに腰を下ろしたストルに、ふるふるふると首をふる。
「そき、ひとりで、かえるです……。今日は、ソキ、ロゼアちゃんお迎えに行ってたわけじゃ、ないんですよ」
「……そうなのか」
「そうです。ソキ、まだ、授業ないです。だから図書館に……」
借りていた本を返却した帰りだったのだという。そういえばロゼアちゃんはこの近くで授業だった気がするですので、ちょっとお姿をみて帰りたいですきゃぁっ、とはしゃいだ気持ちを思い出して、ソキはとてもとても悲しくなった。ロゼアはこの後も授業で、ソキの所に戻ってくるのは夕食前の予定である筈だった。いまは三時過ぎであるから、だいぶ時間があるのだった。長期休暇の間は、ずっと離れていることなんてなくて、どんなに長くても半日で必ずロゼアは戻って来てくれたのに。でもそれが本当は当たり前で。それをさびしいとか、いやだとか、思ったり言ったりしてはいけないのだった。浮かんで来た涙をこすって、ソキはきゅっとてのひらを握り締めた。
もしロゼアが、あのおんなのこのことをソキよりずっと好きになったら。ロゼアはもうあんな風にソキの所には戻って来てくれないし、夜に一緒に眠るのだって、もしかしたらもう今日から、だめで、ひとりなのかもしれない。
「……あするぅ……あすぅ、ないと、ソキねむれないです」
のたのたのた、と瞬きしながら呟くソキに首を傾げ、ストルは時計を確認してああ、と頷いた。そろそろソキは昼寝の時間である。いつもならもう眠っている時刻なので、眠たいと思ったのだろう。部屋まで送ろうか、と囁くストルに、ソキはふるふるふる、と首をふった。
「ソキ、きょーのよる、ねむれない、かも、ですからぁ……がんばっていまおきて、て、それで夜、は、ねうです、よ」
「……夜更かしの予定があるのか?」
どこか笑みを含んだ優しい問いに、ソキはふるふるふる、とまた首を横に振った。
「あのね、すとるせんせ。あのね。……あのね? ないしょなんですよ。ないしょなんですけどね、ソキね」
「ああ」
「ソキねぇ……ロゼアちゃんにね、おやすみってね、ぎゅってしてね、なでなでしてもらわないとね、ちゃんと寝れないです。ソキね、なんでかですね、むかぁーしから、ね、ひとりで寝るのですね、こわいです。こわくて、やです。だからね、ぎゅーってしてね、ねむるんですけどね。それだとね、起きた時、ちょっと疲れちゃうです。ロゼアちゃんがね、ソキをぎゅーってしてくれてると、怖いのないんですよ。あったかくてね、安心してね、きもちいいです。ロゼアちゃんがどしても、いない時はね、アスルがいればちょっとは大丈夫なんですけどね、でもでもろぜあちゃん……今日からそきはろぜあちゃんなしです……」
ううううぅ、と涙目でぐずっと鼻をすするソキの顔を、ストルは苦笑しながら覗き込んだ。
「それは、どうして内緒なんだ? ……ロゼアにも?」
「……ソキがろえあちゃんなしでねむえないの、あきれられちゃぁ、う、です。おこられちゃうですよ」
「誰が? ……ソキ」
くしくし、くしくし、半泣きで赤くなった目を眠たそうに擦るソキの名を、やんわりと咎めるようにストルが呼ぶ。代わりにはならないだろうが、とぽんと手渡された水色の、まあるい、ふわんふわんで気持ちいいクッションからは瑞々しい花の香りがした。それをぎゅうううぅっと抱きつぶしながら、ソキはストルの質問にいっしょうけんめい答えようとふあぁ、とあくびをして首を傾げる。
「あんまりわがままだとぉ、ロゼアちゃん、ソキに、あきれちゃぁう、です。それでぇ……ソキがあんまりわがままなのは、ろぜあちゃんがおこられちゃうです。ソキ、ちゃぁーんと、知ってるんですよ」
「呆れられたことがあるのか? ロゼアに」
くつり、となぜか笑いを堪えて目を細めているストルに、ソキはぷぷぷぅ、と頬を膨らませた。
「それはぁ、なぁい、ん、です、け、どぉー……。……あれ?」
ふわんふわんのクッションに頬をぺとりとくっつけて、ソキはぱちぱちぱち、と瞬きをした。ロゼアが、そういえば、ソキに呆れたりしたことは、これまで一度もなかったような気がしたのである。あぁあれぇ、とほんわほんわした声でくてんと首を傾げるソキに、真向かいからぶはっ、と笑いに吹き出す音がする。んもおおぉー、と拗ねた気持ちで睨み、ソキはストルせんせーぇ、となるべく怖そうな声を頑張って、怒った。
「なんで笑うですか……! ソキは今日からロゼアちゃんなしなんですよ? ろぜあちゃんなし……ううぅう」
ぶわあぁあっ、と涙ぐみ、ソキ泣かないです泣かないですっ、とくしくしいっしょうけんめい目元を擦り、ソキはつかれちゃったですぅー、とソファにくてんとうつ伏せになった。その体を柔らかく守るように、花の香りがあまやかに染みた毛布がふわりとかけられる。もそもそもそ、と嫌そうに身じろぐソキに、ストルは笑いながら問いかけた。
「ロゼアに連絡はしないんだな?」
「そうなんですぅ……きょうからそきはろぜあちゃんなしです……」
灰色のかぴかぴの絶望的な声に、ストルが肩を震わせてぷはっ、とまた堪え切れない笑いを吹き出す。むむむぅ、とソキは思い切り眉を寄せた。ソキは本当に真剣なのである。ところで寝かしつけられているような気がするのはきのせいなのだろうか。うと、うと。のた、のた、と瞬きをしながら、ソキはふああぁ、と毛布にくるまってあくびをした。ぽんぽん、と肩のあたりが叩かれる。それじゃあ、と笑みを含んだ声が囁く。
「連絡は、チェチェリアにしよう。それなら?」
「ちぇちぇ、せんせ? ……んん……んぅー……?」
とん、とん、とん、と布越し。リズムを持って触れてくる指先から、じわりと魔力が忍び込む。占星術師の、穏やかな。眠りへ導く魔力が意識を包み込んで行く。うううぅ、とソキは悲しい気持ちで鼻をすすりあげた。
「ストル先生……」
「どうした?」
「もし、もしもですよ? もし、もし、ロゼアちゃんがね? ろぜあちゃんがソキをね、おむかえにね、きたら、ね……?」
だれかおんなのこがいっしょに、とかじゃなくて。ロゼアちゃんが。いつもみたいに。ソキ、ってさがしてきてくれたらね、と。声に出さない言葉を理解しているように微笑んでくれたストルに、ソキは胸がつぶれそうな気持ちで、くるしく息を吸い込んだ。
「ソキはね、ろぜあちゃんとね、いっしょにかえるです……」
「ああ、分かった。……わかりました、そのように。我らが砂漠の……」
至宝。宝石。砂漠の恵み。あなたの望みを、そのように。そっと、改まった声で囁くストルの声に、こくん、と頷いて。ソキはふああぁ、とあくびをして、ぱちりと瞼をとじてしまった。
しばらくして。うとうと、うとうと、ねむたくて、眠れなくて、なんとなく、意識があったソキを。ふわり、と誰かが抱きあげて。ぎゅう、と強く抱きしめて。ソキ、かえろうな、と言ったので。ソキは眠りにことんと落ちて行きながら、うん、と頷き、その熱に頬をすりつけた。うん。かえる。そき、いっしょ、かえるです。
「ろぜあちゃん……」
今度は二人でおいで、と笑うストルの声が穏やかに、意識に触れて。ロゼアはそれに、はい、と囁いているような、気がした。