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 楽屋裏:ナリアンくんとメーシャくんもいっしょ

 いってらっしゃいですロゼアちゃん、と弱々しく告げられた見送りの言葉とは反対に、ソキの両腕は立ち上がろうとするロゼアに向かって伸ばされていた。だっこして、だっこですよぎゅぅですよ。ろぜあちゃぁん、と熱っぽくうるうるとうるむ瞳が心細さげに告げていた。ロゼアはその場に片膝をついて座り直し、ふ、と笑いながらソキを両腕で引き寄せる。片腕をソファと背の隙間に差し入れて腰を引き寄せ、もう片方の腕で頭をぐるりと守るように抱き、ぎゅっと肩へ押しつける。うにゃうやと、ふあふあ言葉にならない囁きがすりつけられた額の下から零れ、ロゼアはそれに幸福そうに、目を細めてうん、と笑った。指先がさらりと、ソキの頬に落ちた髪をひっかけ、耳にかけて撫でて行く。
「いってきます、ソキ。ソキ……ソキ、ソキ。ソキ。ありがとうな。気をつけて行ってくる」
「ロゼアちゃん帰ってくるのいつぅ、です……? 夕方です? 夜です? おそーく、です……?」
「お昼にいっかい戻ってくるよ。だからお昼、一緒に食べような、ソキ」
 おひる、です、と呟いたソキが、きゃあぁああっ、とそれはもうしあわせそうな声をあげて、ロゼアにぴとっとくっついた。そき、じゃあ、おひるまでロゼアちゃんのこと待ってるですぅー、と耳元でこしょこしょ囁かれて、ロゼアは首を引っ込めてくすぐったそうに笑った。
「うん。お昼まで、ここから動かないで、じっとして、待ってような、ソキ。ぱたぱた暴れたり、えいえいって蹴るのはやめような。おさんぽは、ソキがちゃんと、こくんってお茶飲んで……ソキが、ちゃんと、お茶を半分以上飲んでたら、あとで俺と一緒に行こうな。毛布はここ。アスルは毛布の上。おなかがすいた時のおやつは、この中。手と口を拭く布はここ。日記はこの机の上にあるからな」
「ろぜあちゃん? ソキ、日記に手が届かないです」
 三人がけのソファの中央にちょこんと座り直し、ソキはそこからううぅん、と机に手を伸ばしてみせた。長方形の机の上には、ロゼアが告げた様々な品が整理整頓された風に置かれている。保冷剤と一緒に鞄の中にいれられたおやつや、ソキにも持ち上げやすいちいさな保温瓶は四つ。中はどれもぬるまった香草茶で満たされていて、ふたを開けるだけで口をつけて飲める作りになっていた。ふたにはぺたりと紙が張られ、ソキが飲む時間の目安と、誰かに開けてもらうこと、と書かれている。よく干された毛布はきちんとたたまれ、その上にアスルがのせられてソファの右端に置かれていた。
 そこまでは、身を乗り出せば、ソキもなんとか自分で手が届くのだが。日記やペン、物語が綴られた本は机の端にまとめて重ねられていたから、ソファから立ち上がらなければ手に触れることすらできないのだ。うぅん、ううん、と両手を伸ばしてぱたぱたするソキをぎゅぅっと抱きしめ、ロゼアはそうだな、とあまやかな声で囁く。
「じゃあ、静かにしていような、ソキ」
「はぁい。ソキ、ロゼアちゃんのいうこときけるです……あれ? あぁあれ? ロゼアちゃん、にっき、にっきは……?」
 ロゼアはにっこりと微笑んでソキの頬を指先で幾度か撫で、砂漠の陛下には俺からちゃんと言っておくからソキはなにも心配しなくていいよ、と囁いた。陛下に提出するくらいなら日記なんて書かないでいいよ、という文字が浮かんで見えるようだったが、ソキにはいまひとつ分からなかったらしい。不思議そうに首を傾げるソキの髪をさらり、と何度も撫で、ロゼアが名残惜しそうに立ち上がる。離れて行こうとする指先にじゃれつき、ろぜあちゃんー、としょんぼりと頬をすり寄せ、くちびるを押し当ててうるうるするソキに、低く、かすれてあまい声が囁いた。
「半日で帰ってくるよ、ソキ」
「はい。はぁい、ロゼアちゃん……ソキ、ちゃんと分かってるです。あのね、あのね、ロゼアちゃんあのね……」
「うん」
 くすぐるようにソキの頬を撫でた指先が、くしり、と爪で肌をやわくひっかいていく。首を引っ込めてきゃぁっとはしゃぎ、ソキはぱたぱたぱた、とご機嫌に足を揺らしてロゼアを見上げた。
「ソキ、いいこにしてるです。いいこにしてるですから、んと、えっと……ロゼアちゃん、帰ってきたらね」
「うん。帰ってきたら?」
「……だっこして?」
 お膝の上に、ですよ。それでね、ぎゅってしてね、ソキって呼んでね、ぎぅーってするです。ソキ、ちゃぁんといいこにしてる、とふあふあ響く拗ねたあまい声で囁くソキに、ロゼアはもちろん、と頷いた。お茶飲もうな、ソキの好きなのにしたよ、と再度囁く声に、ソキは無言で頷いた。ロゼアがさらさらに梳かしてくれた髪に、離れて行く指先が最後まで触れている。ロゼア、と談話室の出入り口で、男子生徒が呼びかけの声をあげる。はい先輩、と返事をして、ロゼアはソキに行ってくると囁き、傍を立ち去って行く。男子生徒はソキを見てごめんなという風に苦笑し、一枚の紙をロゼアに渡しながら、あれこれと話しかけていた。ソキはぷーっと頬を膨らませ、ソファにぺしょりと潰れるように横になる。
「……ソキもくろまじゅつしさん、になりたいです」
 月に一度、あるいは二ヶ月に一度程度、その適性を持つ魔術師だけの特別授業、というものがあるらしい。二月の末の水曜日。本来は部活動の日であるのに、数時間でなくロゼアが傍から離れるのはその為だった。黒魔術師たちの中で二手に分かれ、攻略組と防衛組として魔術発動の合同実技訓練を行う、とのことだった。なにをするのかはソキにはよく分からないが、怪我をする者も多いらしく、朝から白魔術師たちが保健医に呼びあつめられ、『学園』はなにかと慌ただしい雰囲気である。関係ない適性持ちの魔術師は、一定の距離を保っての見学が許可されているので、談話室はがらんとしていた。すこし前までは飲みものと食事を用意し、行楽気分で出かける生徒であふれていたのだが。今はソキと、窓辺に椅子を寄せて本を読んでいる女子生徒、向かい合って教本を覗き込み問題を解く男子生徒がふたり、しかいない。
 いち、にい、さんにん、です、とすこしばかり体を起こして室内を見回し、指折り数え、ソキはちょこりと首を傾げながらソファにもぞもぞと座りなおした。お祭り大好き寮長が他の生徒が騒ぎを起こさないかの監督もかねて、見物組といっしょに出かけているので、室内はなおのことゆるやかな静寂に満ちている。夜の、ひとりひとりと部屋に引きあげて、くらやみのなかにひたひたと満ちて行く静けさとはまた違った雰囲気に、ソキは安心してぽてりとソファに横になりなおした。どこかに人がいて、ほんのすこし動いている物音や、ざわめき、声がする。それはソキにしてみれば慣れ親しんだ静寂だった。
 メグミカちゃんと、ウェスカと、アザと、ユーラと、シーラは元気できるかなぁ、と呟き、ソキはちらりと机の上に視線を向けた。ソキのお気に入りの万年筆も、きれいな便箋も机の上には用意されていたが、日記と同じく、やはりちょっとだけ手が届きそうにない。ロゼアの今日の指示は、ここから動かないでゆっくりしていような、である。動かないで、というのは、立ち上がって歩きまわらないで、ということで、その立ち上がらないの中にはソファの上で、というのもちゃんと含まれているのだった。なので、今日のソキはソファの上に座るか、寝転ぶか、端から端までをころころするのがせいいっぱいで、それ以上はしてはいけないのである。
 お昼にロゼアが帰ってきたら、『お屋敷』にお手紙を書きたいから筆記用具をお願いすることに決めて、ソキはふあふあとあくびをした。ひかりがさしている。きもちよく晴れた水曜の午前だった。窓から差し込むひかりは、冬のぶ厚い寒さを貫いてあたたかく。眩くはないけれども、心地いいくらいにはあたたかい。アスルをぎゅってして寝てしまうか、それともアスルをむにむにして遊ぶかくてんと横になったまま考えるソキに、談話室の扉付近から声がかかる。
「あれ? ソキ……」
「はい、ソキですよ? あ! メーシャくん、です。きゃあぁハリアスちゃんですぅー!」
「ソキちゃん」
 するり、とメーシャの隣をすり抜け、ハリアスは小走りにソキの元までやって来てくれた。もぞもぞと体を起こし、ハリアスちゃんはどこへお出かけするですかー、と問うソキと、その周辺に整えられきった用意に、少女は留守番を察したのだろう。申し訳なさそうな表情になりながら、見学へ行くのよ、と囁くハリアスに、追いついてきたメーシャがくすりと笑う。
「おいてかないでよ、ハリアス。……ソキは、見学に行かないの?」
「メーシャくん? ソキねえ、ロゼアちゃんに、今日はここ。って言われたですよ?」
 担当教員から、黒魔術師特別授業を見学するように、と言われている者も多いらしいが、ソキはその限りではない。数日前から二週間の長期休暇を取得させられたソキの担当教員曰く、どうしても見たかったらロゼアに許可取ってからレグルスとフィオーレに相談してな、との手紙が来ていたくらいなのだ。第一段階であるロゼアの許可をもらえもしなかったので、ソキは一日、安全かつ体調を崩さないでいられる談話室でおるすばんなのだった。それでもお部屋から外に出してもらえただけ、今日のソキはちょっぴり元気なのである。咳もようやく、とまったのだった。ソキ、今日の朝からお咳ないんですよすごいでしょすごいでしょおお、とふんぞり返るソキに、ハリアスがふわりと微笑んで頷いてくれた。
「よかった……。もうすこしで、また授業も受けられると思います」
「分かるの? ハリアス」
「ソキちゃん、とてもがんばりやさんですもの。体調がよくなって、体力も、もうすこしつけば。……ソキちゃん、読書の制限はとけた? まだ? よかったら、今日の夜にでもまた、ソキちゃんが読めて好きそうな本をいくつか持って来ましょうか」
 長期休暇前よりほんのすこし、距離が近くなったようなメーシャとハリアスをきょときょとと見比べて、ソキはぷーっと頬を膨らませた。ご本はお願いしたいです、ソキハリアスちゃんの選んでくれる本がとっても好きですよ、と言いながら、少女の腕をじゃれつくように引き寄せる。
「メーシャくん?」
「え? うん、なに?」
「ハリアスちゃんはぁ、ソキの、おともだち、なんですよ? ソキのー、おともだちー、なんです」
 いいですかぁ、分かってるですかぁ、と言い聞かせるソキを腕にじゃれつかせてくれたまま、ハリアスはすこしばかり照れたように微笑んでいる。『砂漠の花嫁』に主張を受けた者の態度としては軽いくらいであるから、ソキは特にそれを気にはしなかったのだが。ふ、と微笑みを深めたメーシャは、腰を屈めてソキのことを覗き込んでくる。ソキ、と諭すような声は、やわらかであっても真剣な色を帯びていた。
「知ってるよ。ハリアスはソキのお友達。……だけど、ソキのお友達だけじゃなくてもいいよね?」
「たいへんです。へっちゃうです」
 大真面目にぷるぷると首をふって主張するソキに、ハリアスが肩を細かく震わせて笑いに吹き出した。ハリアス、と援護を求めてやや拗ねた風に視線をやったメーシャに、少女はソキの肩にそっと手を置いて、ぽんぽん、と叩いてくれる。
「大丈夫よ、ソキちゃん。ソキちゃんと一緒にいる時間が減ったり、ソキちゃんのことを考える時間が減ったりは……あまり、しないと思います」
「……ほんとです?」
「はい。もちろん」
 ね、だから大丈夫。にっこり笑うハリアスに微笑み返しながら、ソキはそれでもしぶしぶと、少女に絡みつく腕を離してやった。ハリアスは特別授業を見学に行く、と言ったので。もうそろそろ移動しなければ遅刻してしまうであろうことは、寮内の静寂からも分かっていた。ソキはわりと、ハリアスの言うことならきくんだよなぁ、と不思議そうに首をひねるメーシャに、ソキはこくりと頷いた。だっておともだちです、だってお友達ですから、という声はきれいに重なり、二人はねー、と視線を交わしてにこにこと笑いあった。メーシャは甘い微笑みで二人を見比べ、そっと息を吐き出して囁く。
「うん。かわいい、ふたりとも」
「……メーシャ。私はそういった発言を控えてくださいとあれほど……!」
「えへ。えへへ、でしょおおぉ? ソキねえ今日の服もー、髪もー、あっお靴も。お靴もです! ロゼアちゃんがねー、選んでー、着せてくれたんですよ? ちゃんとソキ似合ってるです? かわい? って聞いたらぁ、ロゼアちゃんもうんかわいい、ソキかわいい、ってぎゅぅしてくれたです!」
 恥ずかしげに噛みつくハリアスとは真逆に、ソキは心から誇らしげにしてえへへん、とふんぞりかえった。今日のソキが着ているのは藍色のワンピースで、胸元や袖口、スカートのそこかしこに付けられた白いレースと、同じく細く白いレースが大変愛らしい。髪には服と同じ、藍色の布地と白いレースで纏められたコサージュがつけられていた。ソキがちょっと身動きするだけでもふあふあと揺れる薄く繊細な布地の花は、ロゼアがいつの間にか作っていてくれた一品である。いつもの赤いリボンは今日はないね、と呟くメーシャに、ソキはえへん、と胸を張ってスカートをほんのちょっとだけ引っ張り上げた。折りたたんでいた足を伸ばして、足首だけ出して、見せる。
「きょうはー、リボンはー、こっちー、でーすーぅー! ……んしょんしょ。もうだめです。はずかしいです」
 いそいそとスカートを戻し、座り直すソキに、ソキは脚見せるの恥ずかしがるよねとメーシャはのんびりと頷いた。今日はソキちゃんの機嫌も体調も良いみたいでよかった、と微笑み、ハリアスはメーシャの腕をひっぱって歩き出す。またね、と笑って手をふってくれたハリアスにはぁい、とぱたぱた手をふり返し、ソキはへしょり、とまたソファに横になる。別にその場所から動いてはいけないことは、ソキには苦ではないし、慣れたことではあるのだが。気が付けばうとうと、として。ソキはそのまま、くてん、と眠りこんでしまった。



 ソキがはっと意識を取り戻した時、まだお昼にはなっていなかった。どうしてそれが分かったのかといえば、ロゼアが傍にいなかったからで、抱っこもぎゅぅもなしで目が覚めたからである。いつの間にか腕に抱いていたアスルにすりすりと頬を擦りつけながら座り直し、ふぁあ、と口に手をあててあくびをする。ソキは寝るつもりなかったです、と不思議がって首を傾げながらまばたきをして、ソキはあっと声をあげた。
「ナリアンくんです! ナリアンくん、おはようございますです」
「うん。おはよう、ソキちゃん」
 長期休暇前の試験が終わってから、たまに。響きなき意思ではなく、空気ふるわせる声として返事をしてくれるようになったナリアンの、落ち着いた、やわらかな声がソキの真正面から帰ってくる。ソキの左右には人が座っても十分な空間があったが、あれやこれやと置かれてもいるので、その隙間に腰を落ち着けようとは思わなかったのだろう。ひとりがけのソファにゆったりと腰を落ち着けたナリアンが、ふわりと微笑んでソキの眠りを見守ってくれていた。ソキはんしょんしょ、と毛布を折り畳んで傍らに置き、その上にぽんとアスルのことを落ち着かせた。
「いいですかぁ? アスル。今日はソキといっしょに、ソファの上! ですよ。わかった?」
 おねえさんぶって言い聞かせ、ソキはアスルとじぃいっと見つめあったのち、よし、と満足げに頷いた。そうしてからソファの上からいっしょうけんめい両手を伸ばし、ちいさな保温筒を引き寄せ、ナリアンに向かって差し出す。
「ナリアンくん。お願いがあるです」
『うん? 開ければいいの?』
「はい。そうなんですよ。ソキ、お茶を飲みたいので、これを開けてください」
 ナリアンはにこにこと保温筒を受け取り、ふたを開けてからソキのちいさな両手を包み込むようにして戻してやった。ふたにぺたりとくっつけられた、誰かにあけてもらうこと、というロゼアの文字を見て、くすぐったげに肩をすくめて笑う。
『ロゼアは……ちょっと分かりやすくなったかな』
「わかりやすく、です?」
『文字が拗ねてる。一緒にいたかったのに、って』
 くすくす、口に手をあてて肩を震わせて笑うナリアンの目が、よしロゼアでちょっと遊ぼうかな、というからかいに満ちていた。んん、と首を傾げ、ソキはナリアンにロゼアの書き文字を見せてもらうも、当然のごとくよく分からない。さすがナリアンくんです、写本師さんです、と感心しながら、ソキはでもでもぉ、と頬をぷっとさせながら反対側に首をくてん、と傾げてみせた。
「ロゼアちゃん、授業に行っちゃったです」
『うん。それはね、授業だから。行かないと駄目だからね。ロゼアは真面目だし』
「……あれ? ナリアンくんは、どうしたですか? おやすみ……?」
 黒魔術師の特別授業、の筈である。ナリアンは風属性の黒魔術師だ。それも、とびきり魔力のある。なので今日はもう夕食の時くらいにしか会えないのではと思っていたことを思い出し、ソキはぱちぱちとまばたきをする。ナリアンは、ふ、と遠くを見るまなざしで囁いた。
『前半と後半、三十分ずつしか参加を許可されなかったんだ……』
「ナリアンくん。仲間はずれさん? いじわるされたんです? ソキ、いっぱい、めっ! ってしてあげるですよ」
 飲み終わってからになった保温筒を机に戻し、ソキはううん、とナリアンに向かって体を乗り出した。あ、わっ、と慌てた声をあげながら察して身を寄せてくれたナリアンの頭を、ちまちまふわふわ、ソキの手が撫でて行く。
「ナリアンくん、元気だしてくださいです。それで、今日は黒魔術師さんがなにしてるか、ソキに教えてください」
『うん。……うん?』
「ロゼアちゃんね、ソキにないしょー、にしたんですよ? なにするです? 特別じゅぎょ? ソキも一緒です? って聞いたんですけどぉ、ソキは談話室。ゆっくりしていような。黒魔術師が皆集まるんだ。それで授業するんだよ、って言って、教えてくれなかったです。ぷぷぷ。ロゼアちゃんがソキにないしょしたぁ……! ぷぷぷぷ! ……あっ、それで、ナリアンくん? ナリアンくんはー、きょうー、なにをするんですかー……?」
 きらきら、わくわく、そわそわそわ。じぃー、とばかり見つめられて、ナリアンはにっこりと笑みを深めてみせた。ああぁ今日も俺のいもうとはかわいいなー、ほんとかわいいとびきりかわいいソキちゃんせかいいち、と深く頷き、ナリアンは特別授業だよ、とロゼアと同じ言葉を繰り返した。
『午前の前半と、午後の後半に分かれてるんだ』
「それで? それで?」
『俺は、三十分ずつしか参加できないから、その間はソキちゃんの傍にいようかな。いてもいい?』
 もちろんです、とにこにこ頷いて、ソキはあれ、と目をぱちぱちさせた。
「ナリアンくん?」
「うん。なに、ソキちゃん?」
「ナリアンくんは、三十分で、なにするです?」
 助っ人かな、と苦笑いするナリアンに、ソキはそうなんですか、と頷いた。なんだかそれはちょっぴりかっこいい気がするです。ナリアンくんはすごいですね、としみじみすれば、ナリアンはくすぐったげに目を細めて笑い、ありがとう、と囁いてくれた。その穏やかな落ち着きは以前からナリアンのものだったけれど、長期休暇が終わってから、たびたび現れるようになったものだ。いや、長期休暇明け、というよりも。ナリアンが肉声で話すようにもなった、定期試験が終わってから、だろうか。ナリアンはすこしばかり、ソキの知る青年とは変わってしまった。でもそれは怖い、悲しい変化ではない。冬の重たい外套を、春になったから脱いでしまい込む。ただそれだけのような穏やかな時の流れ。
 ゆるく、ゆるく、時が巡って行く。ナリアンの面差しはソキが覚えているより、もっと、大人のおとこのひとになった。お休みの間に。ソキが。ロゼアを離せば、きっと、その間に。ロゼアはこう言う風に、ソキの知らない、おとこのひとになる。泣きそうに目をうるませるソキに微笑みを深め、ナリアンがソキちゃん、と名を囁いて顔を覗き込んでくる。
「ソキちゃんは、綺麗になったね。前も、うんと綺麗だったけど、それよりずっと綺麗で可愛くなった」
「……でしょお? ソキ、お休みの間、ずっとロゼアちゃんと一緒でね。ロゼアちゃんね、ずっと、ソキのお手入れしてくれたです。髪はね、香油を塗ってロゼアちゃんが梳かしてくれてね、さらさらでいいにおいでね。お肌はね、おふろに入ってね、お湯に薬草とか、お花とか浮かべるんですよ。お花とね、ハーブは、ロゼアちゃんが選んでくれたのです。それでね、爪はね、ロゼアちゃんがやすりでね。くしくしって削って、磨いて、クリーム塗ってくれてね。お服はね、ロゼアちゃんが選んで、ソキに着せてくれるです。あっ、髪ね、髪ね、お休みの間にね、ロゼアちゃんは編み編みしてくれるようになったです。髪を編み編みするのね、ソキ、ずぅっとほんとは駄目だったんですけど、あみあみしてくれるよになったんですよ」
「……えっと。編み込み、とか。そういえば、編み込み……してたの、あんまり見たことなかったけど……駄目だったんだ?」
 そうなんです、とソキは頷いた。『花嫁』の髪は、そのうつくしさを際立たせる為に様々な手段で整えられる。結う者も短くする者も様々だが、ソキのそれは体の表面を艶やかに零れ落ちて行くうつくしさを重視されたが為に、纏められることは殆どないことだった。やわらかく、結ったあとですぐに波打ってしまうこともあるだろう。『花嫁』にそれは許されなかった。だから休みの前まで、ロゼアはソキの髪を梳かすことはあれど、編み込んでくれることは殆どなかった。一度か、二度。ソキの実技授業を行うにあたって担当教員から指示があった時だけ、編んでくれただけなのである。そういえば、ミルゼが。ソキの異母姉たる『花嫁』が嫁いでしまってから、ロゼアはよく編み込んでくれるようになったのだ。赤いリボンを編み込んだり、花を飾ったり。ソキを抱き寄せて、かわいいソキ、と笑ってくれるようになった。
 かわいい、かわいい、かわいいソキ。ソキ、ソキ。今日も耳元で満足げに囁かれたあまやかな声を思い出し、ソキは幸福で頬を赤らめ涙ぐみながら、アスルをぎゅぅと抱きしめた。
「あのね、ナリアンくん。ソキ、あの、最近……あの、さっきもナリアンくん、言ってくれたですけど」
『うん?』
「ソキ、かわいくなったです? ロゼアちゃんがね、とっても、褒めてくれるの……」
 かわいいって。いっぱい。真っ赤な顔でアスルをぎゅううぅっと抱きしめながらぽそぽそと呟くソキに、ナリアンは口元に手を強く押し当てて笑いをこらえ。どこか不安げなソキに、うん、と頷いてやった。
「漏れてるだけだから、大丈夫だよ、ソキちゃん」
「……ふにゃん?」
「ロゼアは、ずっと前からそう思ってたよ。ソキちゃんのこと、かわいいかわいいって」
 思っていたよ。くすくす笑いながら囁いてくれるナリアンに、ソキはそうなんですけどぉ、とくちびるを尖らせた。だってそんなのはソキがロゼアの『花嫁』だったから、あたりまえのことなのだ。すねた口調でそう呟くと、ナリアンはまた面白そうに目を細めてやさしく笑い。そうだね、と吐息に乗せて呟いた。それも、それで、本当だから。ロゼアとソキちゃんと、どっちが早く気が付くかな、と大人びた顔で笑うナリアンに。ソキはナリアンくんがなにを言ってるのか分からないです、とぷぅっと頬をふくらませた。

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