ソキの担当教員たる青年が『学園』に姿を表したのは、二月も末にさしかかった頃だった。金曜日の夜。談話室にふわりと現れたウィッシュは起きていたロゼアとソキを見つけて、心底安心したようににこにこっ、と笑って歩み寄ってくる。ロゼアとチェスの相手をしていたナリアンが席を譲ると、ウィッシュはちょっと首を傾げてぱちぱちと瞬きをし、ありがとう、と囁いてすとんと腰をおろしてしまう。先生だからこの対応でいいのかな、と不思議そうな横顔は、まだ教員としての対応にものなれない雰囲気を漂わせている。今度ストルの真似しようっと、と思いながら視線を巡らせ、ウィッシュはチェス盤を持ち上げたナリアンと、たまには付き合ってよ、と誘われて離れて行くメーシャを、手をふって見送った。
ロゼアの膝上に抱きあげられたまま、ソキがふあふあとあくびをする。夜の、談話室の心地いいざわめきが、どこか遠くでゆらゆらと揺れていた。灯篭の明りが絨毯に淡い光の影を落とす。揺れるそれを眺めるウィッシュに、どこか硬い声音で、ロゼアが声をかけた。
「おひさしぶりです、ウィッシュさま。……同席させて頂いても?」
「うん。ロゼアはいていいよ。……あふ。んん、あと、ロゼア? せんせい、な」
火の明りを肌に受けながらも青ざめて見えるウィッシュに、ロゼアの眉が思い切り寄せられている。その表情と、担当教員の顔をせわしなく見比べて、ソキは思い切り眠そうな仕草でくてん、と首を傾げてみせた。
「おにいちゃん。体調わるーい、ですー……?」
「……せんせい、だろ? ソキ。もおぉ、ソキもロゼアもー。俺がこんなに頑張ってんのにー」
チェス盤をのけたちいさな机に肘をつき、組んだ手にあごをのせて溜息をついて。ウィッシュはいじいじと視線を漂わせている。
「ちょっとね、出張だったんだよ。二月の初めから、今日の昼まで。ようやく全部終わったから……俺これから……長期休暇なんだ……」
なんでも、王宮魔術師に与えられる十二月から二月半ばまでで回される休暇を、遅めに強制取得させられたらしい。ああああもうお休みの時期終わってたから見逃してもらえると思ったのにだから俺しゅっちょだって頑張ってきたのに、とソキと同じたどたどしさで所々の単語をあやふやに、ほわんふわんと発音し、ウィッシュはやや濁った色の目で眠たげな担当生徒を眺めやった。
「だから、またしばらく、ちょっと顔出せないと思うんだけど……ごめんな? 実技授業はお休みです。でも、レグルスとフィオーレからも……学園の保健医からも、白魔法使いからも、まだ魔力使う授業はちょっと、て言われてるからさ。もちょっと自習しててな、ソキ」
ソキの自習期間は延長され続けていて、いまのところその終わりが見えない状態だった。心の底からがっかりしながら、ソキははぁい、と頷いた。
「おにいちゃ……こふ。ウィッシュせんせい、おやすみー、ですー?」
「そうなんだよー。俺、おやすみー……けふ」
「……ソキ、ウィッシュさま」
せんせい、だよ。ロゼア、と不満げに見つめてくる熟れた苺色の目を微笑みながら見つめ返し、ロゼアはトントン、と音を立てて机に空の陶杯を置いた。こぽこぽ、と大きめの保温筒から香草茶を注ぎ入れ、ひとつをウィッシュに差し出し、ひとつを片手で持ち上げてソキの口元に運ぶ。
「飲んでください。……ソキ、ほら。お茶飲もう?」
「やんやん! ソキ、お茶のむのやぁです。これはロゼアちゃんにあげるです」
言うなり、またこほん、と咳をしたソキを眺め、ウィッシュも気のない様子で、指先で陶杯をつついている。
「俺も、お茶飲むのやだなぁ……。なー、ソキ。やだよなー」
「や、で、すぅー。ソキはぁ……けふふん! けぅ、やぅ……や、だ、って、いってま、すぅー……こふ!」
先日から、ちょっとしたきっかけで水気を取りたがらなくなくなってしまったソキとは違い、ウィッシュはわりと常にそれを口にしたくなかった。嫁ぎ先で常に、水には混ぜ物がされていたからだ。それは体の自由を奪うものであったり、頭の動きを鈍くするものであったり、様々だったが、とにかくウィッシュという存在をそこへ留め置こうとする意思に満ちていた。ロゼアはそんなことはしない。分かっている。白雪の王宮でも、ウィッシュに誰もそんなことはしない。分かっている。けれど。思い出が邪魔をする。ソキ、と静かな声で、ウィッシュは妹の名を呼んだ。談話室の静寂にすら、やわやわとさえ響かない。消えてしまいそうな木漏れ日のような、風が運んだ旋律の残りのような。淡い、あわい、声だった。
「……ソキは、なにされたの?」
ウィッシュには理由がある。『お屋敷』時代にはそれを拒まず、嫁いだ『花婿』だからこそ、そこで『傍付き』が想像もしないであろう扱いを受けてしまったからこその、理由がある。けれどもソキは、まだ嫁ぐ準備をしていた『花嫁』だ。考えながらも、やや強張ったロゼアの横顔を見て予想をつけて、ウィッシュはぬるい香草茶で満たされた陶杯を指先で持ち上げた。身を乗り出しながらひとくち、口に含み、ロゼアの肩に手を置いて屈みこむ。指先でくすぐるようにソキのあごを持ち上げれば、泣きうるんだ宝石のような碧の瞳が、とろりと熱っぽくウィッシュをみあげる。
あわく開いたくちびるに。そっと触れて、水を注ぎ込む。こくん、と飲み込んだソキに微笑み、唇を拭って離れて、ウィッシュは悪戯っぽい眼差しでロゼアを見上げた。
「……ロゼアはさー。俺がソキに水飲ませても、嫌とかだめとかないんだよなぁ……」
ゆるく。ロゼアの視線が伏せられて、熱っぽい瞳でぼんやりとするソキを見る。浮かべられた笑みは、ウィッシュにはあまり覚えのない『傍付き』の表情だった。苦笑、とも。自嘲ともつかない。温度ない静かな微笑み。響かない声でロゼアが言った。
「ソキも、喉が渇いていたでしょうから」
けふ、とソキがまた咳をして、ウィッシュから顔を背けてロゼアの胸に顔をこすりつける。ソキの髪を指でくしけずりながら、ロゼアはその頭を柔らかく胸に抱き寄せた。花を抱くような、宝石を守護するような。慎重で、優しげな、仕草だった。
「……ろぜあちゃん?」
その手にそっと甘えながら、ソキがやわやわと響く声で問いかける。恐れるような、怖がるような。すこしだけ期待した、あまい蜜のような、とろりとした声でソキは囁く。
「おみず。飲ませて、もらうの。ロゼアちゃん、や、です? ロゼアちゃんが、だめって。や、なんでしたら、ソキもうしない……」
くしくしくし、と胸に額をこすりつけて、あまえきった声でソキは囁く。
「ロゼアちゃん、やなの、ソキしなぁいです。……やです? ろぜあちゃん、だめ? ねえねえ、ロゼアちゃん」
「ソキ」
「はい。なぁに、ロゼアちゃん。なんですか……?」
頬に触れて上向かせる目に、瞳がとろとろと熱っぽく揺れていた。うるんだ瞳が声なく囁いている。ねえねえ、だめっていって。いやって、いって。ふつうのおんなのこみたいに。ソキのことをちょっとでも好きなら、そう言って。求めるであろう言葉は、ウィッシュにですら分かるのに。ロゼアは柔らかく微笑んで、ソキ、と囁いた。
「喉乾いてたろ? ……いいよ。ソキがしたいなら、していいんだよ……」
そう、言わされたような。言わざるを得ないような。あらかじめ用意しておいた言葉を、苦心してどうにか絞り出したような。まるで感情的ではない、それでいて苦しげな、微笑みが穏やかなだけな、言葉だった。そうとしか言えないような。そう告げることしかできないような、言葉。はじめてウィッシュは違和感を覚えたが、体調が悪く、意識の定まらないソキにはそれが分からなかったらしい。さぁっ、と顔が青ざめて、瞳に傷ついた色がよぎる。ぱちぱちと幾度もまばたきをする瞳には涙が浮かび、けれどもそれをこぼすまい、とソキの手がくしくしと瞼をこすった。
「……ふぇ……えぅ。えぇぅ……うゅ……っ、ふ、え……っく、けふっ。けふけふこふっ!」
「ソキ、ソキ……。申し訳ありません、ウィッシュさま。部屋に戻らせて頂いても?」
「うん、いいよ。いいけど……」
ひとりでねるですよ。きょうはそき、ひとりでねるです、とぐずるソキを抱き寄せ、背を撫でながら問うロゼアに。ウィッシュは椅子に座って机に肘をついたまま、ちいさく首を傾げて囁いた。
「そろそろ、ソキ、ひとりで眠らせてあげるのがいいんじゃないかな……」
さもないと、早晩襲われる筈である。ロゼアが。ソキに。たぶん今くらいでももう、さわって、とか言ってる筈だし。びっくりする程ぜんぜん触ってくれないんだけど。閨教育でちゃんとその方法を教わっているのに。『傍付き』はどうしてか誘惑されてはくれないので。そういう好きっていうことじゃないだけなんだろうけどさぁ、と経験上の推測でそう呟き、ソキがひとりでねるって言い張るのそういうことだよなぁ、とウィッシュは眠たげにあくびをした。俺もそろそろ白雪に戻ろうかな、と考える『花嫁』に、どこかむっとしたようなロゼアが、ソキを抱きなおしながら問いかけた。
「何故ですか? その必要は、もうないでしょう……?」
「……んん?」
あれなんか。俺の知ってる感じの『傍付き』の返事とちょっと違う、気が、とさらに首を傾げるウィッシュに、ロゼアはぱたぱたぱた、涙目で暴れるソキをやんわりと抱きしめ、額に頬をくっつけながら囁いた。目を伏せて。そっと、やわらかく、心から微笑む。
「ソキはもう、どこにも嫁がないでいいんです」
「う、うん? そうだね? 俺もロゼアも、ソキも、魔術師だもんね……?」
「ソキは、もう……どこにもいかないで、いいんだ」
それをまるで、嬉しくて仕方がないことのように、ロゼアは言った。あれれ、と首を傾げるウィッシュに失礼しますとソキを抱き上げたままなので、目礼し、ロゼアは談話室を歩き去っていく。その背を見送って、ウィッシュはううぅん、と難しげに眉を寄せて瞬きをした。
「……もしかして。ロゼア、ソキのこと、ちょっと好きなの……? ……いやでもまさかそんな」
「え? お前なに言ってんだ……?」
「あ。りょうちょだ。りょうちょ、こんばんは。でも、もう俺帰るから、『扉』まで一緒に行って?」
にこぉー、と笑いながら両手を差し出してくるウィッシュに分かってると息を吐きながら、現れた寮長が手をとって『花婿』を立ち上がらせる。ふらつきながらもひとりで立ち上がったウィッシュを眺め、言いたいことと突っ込みたいことはたくさんあるんだが、と寮長は額に手を押し当てて呻く。
「……ちょっとじゃねぇだろ……? なにがいやでもまさかなんだ。言ってみろ」
「だって。ロゼア、『傍付き』だもん。ソキに、しあわせになっておいでー、って送り出すのがロゼアだよ。それで、そのあと、ロゼアはソキじゃない誰かと恋愛して、結婚して、しあわせになるんだよ? なんか……あれ、ちょっと、おかしい。ロゼアどうしたの……?」
「いやお前がどうしたのっつーか……ソキがなんかもにゃもにゃ言ってた時も思ったんだが」
ウィッシュの手を引いて望まれるまま、連れだってゆっくりと歩き出しながら。寮長はおそらく、談話室の誰もがそう思っているであろうことを、『花婿』に向かって問いかけた。
「お前、もしかして……ソキが、嫁がないと、ロゼアがしあわせになれないとか、思ってんじゃないだろうな……?」
「え。そうだよ? ちがうの?」
だって俺だってそうだもん、とウィッシュは、絶句する寮長を不思議そうに眺め、ぱちぱちと無垢な仕草で瞬きをした。『花婿』の。そう整えられきった存在の、共通する認識は、疑いもなくまっすぐに囁かれて行く。
「だって、そうなんだよ。『傍付き』は皆、おんなじ。俺たちを送り出したあとに、誰か好きなひとができて、そのひとと結婚する。……ウェラ姉さんのルー……ルーベリカも、アリオト兄さんのカペラも、ディーラ兄さんのウェダも、皆……送り出して、三年もしないうちに、いつの間にか恋人出来てて、結婚したの、俺ちゃんと知ってるんだからな。だから……ソキのロゼアも、きっとそうなんだと、思うんだけど……んー、んん……?」
でもなんか、あんなに離そうとしないでいてくれるものだっけ、と首を傾げながら、ウィッシュは記憶を辿るように視線を彷徨わせた。
「……んー。ロゼアどうしたのかな……。なんかちょっと違う、気が……」
「俺は今改めてお前の中の認識が、ちょっと、どころじゃなくおかしいことに気が付いてる所なんだけどな……?」
「いい? 寮長。あのね、『傍付き』っていうのは、あれで普通なんだよ? ソキは特に『花嫁』の中でも小柄っていうか、昔から体つきがちょっとちぃちゃかったからさー。だっこが多かったしだっこすきだったし」
俺がいま言ってるのはそこじゃない、というかそこだけを言ってんじゃない、と告げるような寮長の遠い目に、ウィッシュはうぅん、と首を傾げ、納得しきれないような瞬きをしながらも、まあいいか、と結論付けてしまった。
「それよりも寮長? あんまりロゼア叱ったりしないでやってな。ソキがすっごい怒ってるよ? こないだだって、ソキはりょうちょきらいきらいです! りょうちょろぜあちゃんおこる! そきりょうちょきあい! ってそれはもうほんと怒ってて。俺頑張ってとめたんだよ?」
「とめた……?」
「ソキが寮長に呪いかけようとしたんだよね。ええと、あの時はなんだったかな。確か、ええと……りょうちょなんか、おみずのむたびにぜったい、けふって、むせちゃうといいです! とかなんかそういう感じのアレだった気がするけど。ソキは無意識だったみたいだけど、呪いかけるつもりとかもなくてさ。ただ、ソキは予知魔術師じゃん? で、まだ魔術発動とかも不安定だから、わりとこう魔力漏れ的な感じでうっかり呪い発動しかかっちゃって。いやとめたけど」
それでしばらく実技授業もやめにしてるんだけど、再開するまでにもうちょっとでいいからソキの怒ってるのどうにかしないと危ないよ。とめるけど、とさらりと言い放ち、ウィッシュは口元に手をあて、ふあふあと眠そうにあくびをした。
えく、えく、と弱々しくしゃくりあげながら、ソキは寝台に横たわったロゼアにぎぅーっと抱きつき、首筋にすりすり頬をこすりつけて訴えた。
「そき、ひとりで……けふ、けふぅ! ねぅ……こふん。やぁ、やぁぅー……!」
「ソキ、そき。もう寝ような?」
「ふにゃあふやあぁあっ……! ろぜあちゃん、いじわるぅー……!」
すりすりすりっ。ぴと。すりすり、ぎゅぅー。すりりっ、と好き勝手甘えてすりよって抱きつきながら半泣きで訴えるソキの髪を、ロゼアはゆっくりと撫でている。髪を指先に絡めて。てのひらでぐっと、ソキの体を押しつけるように抱き寄せた。
「……ひとりでねたいの? ソキ。ひとりだと、俺いないよ? なでなでも、ぎゅぅもなしだし、すりすりするのもできないだろ。それでいいの? 俺がいなくていい?」
「ぐずっ……ふぇ、ええぇん……! ろぜあちゃんがぁー、そきにー、いじわる! いうですぅー!」
やぅー、やですぅー、とねむたくて、半分寝ぼけた声でむずがるソキの髪を、指先でするすると撫でて。ぱらり、音を立ててソキの背に髪を散らしながら、ロゼアはそっと囁くよう、耳元に問いかけた。
「ソキ? ……俺と一緒にねる? いっしょがいい? どっち?」
「……そきろぜあちゃんといっしょがいいです。いっしょに、ねるぅ、です」
「うん。いいこだな、ソキ」
じゃあ眠ろうな、とあまく安堵に緩んだ声で笑い、ロゼアの手が毛布を引き寄せる。はふ、と眠そうにあくびをしたソキの頬を指の背で撫ぜ、ロゼアも静かに瞼を下ろした。くすんくすん、とまだぐずるソキを、抱き寄せたまま。朝まで決して、離すことはなかった。