嫁いでから魔術師として目覚めるまで、四年間。魔術師として目覚め、学園で学んだのは三年間。王宮魔術師となって二年間。魔術師になった期間は、今年でもう五年目になる。悪夢に身を浸した四年より多くなっていることに気が付いて、ウィッシュは折り曲げた指先を眺め、現実感の乏しいまばたきをした。あれが本当に四年間の出来事であったのか、それがもう本当に終わっていることなのか。ウィッシュには時々、分からなくなることがある。案内妖精が迎えに来て、魔術師になった、なんていうのはあのサンルームの中でウィッシュが見ているだけのおかしな夢で。目を覚ましたらそこに誰もいない。考えるだけで指が震え、臓腑をぞわりと気持ちの悪いものが這いずって行く想像は、『学園』時代にもたびたび、今も頭にこびりついて消えてはくれない悪い夢の名残だった。
理解はしているし、分かってはいるのだ。ウィッシュが魔術師になったことが本当で、あれは全てもう過去のことで。実際に起きた、過去のことで。忘れられないけれど、現実だった、というだけの昔であることなど。
「大丈夫。……だいじょうぶ、分かってる」
心に祈りを灯すよう、呟き。目を伏せて息を吸い込む。瑞々しい花の香に満ちた空気が喉に触れて、ウィッシュは泣きそうな気持ちで視線を持ち上げた。ほんの数歩先に、扉がある。左右に続く城壁めいた高い壁に、埋め込まれるように作られたちいさな、古木の扉だった。その向こうがもう、『お屋敷』だ。なんの事情であるのか、この裏門の目と鼻の先でウィッシュをぽいと置き去りにした砂漠の王宮から出された馬車を恨めしく思いながら、魔術師は気のりしない様子で一歩を踏み出す。鉄柵に囲まれた、物々しくもうつくしい正門から入らない理由はひとつ。この訪問が白雪の国から下された仕事ではなく、また砂漠の国からの要請でもなく。ウィッシュのひどく個人的な、ただの帰省、だからである。
おかえり、と言って白雪から『扉』をくぐってきたウィッシュを出迎えた砂漠の王は、お前ただの帰省なのになんでそんな死にそうな顔してるんだ、と呆れていたが、それにだってその通りですと返すだけの気持ちの余裕が生まれることはなかった。陛下、頂いた休暇が終わっても俺が戻って来なかったら『お屋敷』か砂漠に連絡とってね、俺たぶんどこかで枯れてると思うんだ、と告げた目が死んでいてもまぎれもなく本気だと感じたのか、仕える白雪の女王があれやこれやと質問してきたので、それなりに情報を伝えられたとは思うのだが、それだって昨夜遅くのことなので砂漠まで伝わっていなかったのだろう。なにせそのまま白雪の女王が、つまりウィッシュは九年会えなかった彼女に会いに行って告白するけどふられたら物理的に死ぬっていうことでいいのかな、と結論を下し、それを聞いていた白雪王宮魔術師女性陣を大騒ぎさせた為だ。
ちょっとおおおやだーっ早く言いなさいよっていうかなに、九年会ってないってどういうことなの九年放置されたら私だったら処すけどなに処されて死ぬかもってことなの。えっ、ちがうの。ていうか兎ちゃんは明日どゆかっこで行くつもりなのちょっと服見せなさいよなにこれこんなじゃだめよ。陛下ー、ねえねえ陛下っ、どうせだから魔術師礼装とかで行かせるのはどうですかほらあれきれいだし礼服だし兎ちゃんに似合うし色気あるし。許可します。あくせさりとかどれにしよっかー、大丈夫安心なさいお前の意見は聞いてない。それでいつから休暇だっけはあああぁああああ明日とかちょっと早くいいなさいよおおおおエステよエステお肌磨いて来なさいよ使える武器は使いなさいよ俺女じゃないとか知ってるわよ黙れ。
かくして。女ども怖い、そしてさわらぬ神にたたりなしということで俺たちにはお前の魂の安息とかを願うしかないんだけどまあ生きて帰って来いよ、と微笑んで見守る白雪王宮魔術師男性陣に見送られ、ウィッシュはぴかぴかのうるうるのふわふわに磨かれ、髪と服を整えられ、アクセサリーを貸し出されつけられ、『お屋敷』に帰省することになったのだ。出迎えた砂漠の王が、おまえもっかい結婚でもすんの『砂漠の花婿』、と言いたげな表情でぬるく微笑んだのは、十中八九そのせいである。はあぁあ、と溜息をついて立ち止まるウィッシュの耳元で、飾りがシャラリと揺れ動く。くすんで鈍色に光をはじく簡素な飾りは右の耳だけを飾っていた。
しなやかに揺れ、涼しげな音を奏でるその耳飾りは、かつて違う色をしていた気がするし、もっと飾りも多かった気がするのだが。指先で触れ、ウィッシュは深く溜息をついた。何色だったかも、どんな飾りがついていたかも、思い出せない。けれども、もしかしたら。それは今も綺麗な色で、なにも損なわれないまま、この『お屋敷』のどこかにあるのかも知れなかった。それは『傍付き』がウィッシュに贈ってくれたものだった。嫁ぐ時にいくつかの飾りを外し、ちいさく手の中にぎゅぅと握りこみ、時に服の下に隠して、どうにか、なんとか持ちだしたものだった。ひとつだけ、片側だけ。もう片方、左側は部屋に置いてきたのを覚えている。ひとつだけ、片側だけ。光を弾いて輝いていた。綺麗だった。
あれはどうなったのだろう。『花婿』を送り出した『傍付き』の手に、そっと触れてもらえただろうか。抱きしめてくれた時のように優しく、彼女の手に包まれて熱を宿されただろうか。そうならいい、とウィッシュは思った。片側だけでおかしいと、対を探されず。勝手に持って行ったことを厭われず。眠りにつくように、彼女の私物に埋もれてしまっていてもかまわないから。まだ、近くに置いてもらえていれば、いい。ウィッシュが『花婿』として嫁いで、九年。大好きよ、と笑ってくれた。しあわせになれる、と抱きしめてくれた。私の『花婿』。そう告げてくれた声を、いまもちゃんとおぼえているのに。
恋をしただろう。愛するひとがいるだろう。もしかすれば『お屋敷』をやめてしまったかも知れない。己の『花婿』を送り出した傍付きが、『お屋敷』を離れてしまうのは、多くはないが珍しいことでもなかった。思い至り、よろよろとよろけるように足を進めたウィッシュは、城壁めいた白壁に埋まる古木の扉にてのひらを押し当てながら、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。そうだ。どうしてこの場所にずっといてくれると思いこんでいたのだろう。もしかしたらもう会えないのかも知れないのに。とっくに、会えなくなってしまっているかも、知れないのに。でもロゼアもなにも言わなかったし、ソキもいない、とか。会えなかったです、とかは言わなかったので。いるはずである。
もし。結婚して、誰かとしあわせに過ごしていたのなら。遠目にそっと見て、それで帰ろう、とウィッシュは思った。しあわせになって欲しくなかった訳ではない。しあわせに過ごしていて欲しかった。けれど。あの優しさが、誰かのものに。抱き寄せ触れる熱が、しあわせが、ウィッシュではない誰かに与えられているのなら。彼女がそれをしあわせだと微笑むのなら。そんなことには耐えられない。はああぁああでも九年だよ九年ていったら『傍付き』は結婚してこどもいたりするよなあぁああだいたいそだもんうううぅふぃあに似てたらどうしようおとこのこでもおんなのこでもなにそれちょうかわいいぎゅぅってしたいぎゅぅってしたいでもぎゅぅとかしたらそのあと俺たぶん枯れちゃうでもかわいいまちがいない、と半泣き声で混乱した呟きを落とし、ウィッシュはよいしょとよろけながら立ち上がり、扉をうーん、と押した。
事前にちゃんと連絡をしておいたので、鍵は空いている筈だった。出迎えの者もいるのだと聞く。だから早く帰って来い、そしてお前の生存を『お屋敷』の本当に上層の上層、五指に入る者にしか教えず俺のラギにすら隠した俺のことを褒めろ、あとあんまり時間には遅れるでないぞ、と書かれたレロクの手紙を思い出したせいだ。血の繋がりのない『花婿』仲間の性格が、相変わらず香ばしすぎてちょっと心配になったのはないしょである。ラギにないしょないしょってそれあとですごい怒られるんじゃないかなぁ、いけど、と呟き、その手紙は部屋に置いてきた。もし戻れなかったら焼却処分してもらえる手配済みである。びくともしない扉を、うーん、うーん、あれ、と押していると、失礼しますと声が響いた。聞き覚えのある、涙の滲んだ、掠れ声めいた囁きだった。
「こちらから開きましょう。すこしだけ離れていてくださいますか、ウィッシュさま」
「……アル?」
やんわりと耳をくすぐって行くような、落ち着いた、穏やかな男の声だった。何度も呼び囁いた覚えのある単語を舌先で転がし、ウィッシュは扉から体を離し、首を傾げる。
「アルサール……?」
「はい。……はい、私です。シフィアの、ウィッシュさま……!」
どんなにか。そう、呼ばれたかったことだろう。『傍付き』の『花婿』だと。永遠の恋としあわせを捧げたひとのものだと。もう二度と呼ばれる筈のない、その言葉を。どんなに。
『しあわせになれるよ、ウィッシュ。……大丈夫、ね? 私の『花婿』さん』
不意に。耳鳴りのように蘇った言葉に意識を揺らしながら、ウィッシュはゆっくりと開いて行く扉を見つめていた。瞬きをする。息を吸い込んだ。
『……いってらっしゃい』
砕け散るようなひかりのまばゆさに。ふらつくように一歩を踏み出し、扉をくぐった。濃い緑と、水と、淡い花の匂いに染まった空気が喉をするりと撫でて行く。内側に広がっていた風景は見覚えのない場所なのに。帰ってきた、と思った。いつの間にか閉じられた扉に、ふらつきながら背を預け、何度も瞬きをする。
「ある……アル、アル。アルサール……」
「はい」
「ほんとに、アル……? おれの、ゆめじゃ、ない……?」
滲んだ涙をふりはらうように。息を吸って瞬きをして、立ちなおし、ウィッシュは扉を閉じてくれた男に囁きかける。ウィッシュのものとはまるで違う、煮詰めた飴色の肌に覆われた指先が伸ばされ、目尻を優しく拭っていく。すこし冷えた体温が。かすれた記憶を鮮やかにさせる。両腕を伸ばして、すがりつくように体を寄せた。
「アル……アルサール……! ごめん……ごめんなさい、ごめんなさい……! おれ、アル、おれ、ふぃあが……シフィアも、アルサールも、俺のことしあわせになれるって、ちゃんと送り出してくれたのに……育てて、くれたのに……! しあわせに、なれなかった……」
「ウィッシュさま。あなたが謝られることなど、なにひとつ」
「……だって。しあわせになれる、って、言ってくれたのに……いわれたとおり、できなかった……」
ぎゅっと強く、抱きしめて。落ち着かせるように背を撫でてくれる手に、強張った力が抜けて行く。ソキがロゼアの腕の中で、怒りや悲しみを続けられないように作られているのと同じで。ウィッシュも『傍付き』や世話役たちの腕の中で、それをちゃんと形作らせ留めておくことができない。ましてやアルサールは『傍付き』シフィアの、補佐。ロゼアに対してのメグミカである彼は、ウィッシュの『傍付き』最終候補の片割れだった。うー、とむずがるウィッシュの耳元で、ふふ、と穏やかに笑う声は耳馴染みよく響いて行く。
「あなたさまが亡くなられたと聞いた時、状況と……その後の調査で判明したあなたさまの嫁ぎ先の、扱いと……あなたさまがいらっしゃった夜会での、遠目に確認できていた状態の報告を、私たちが受けた時……どんなにか申し訳なく、怒りを感じたか」
「……俺に?」
「ウィッシュさまに? なぜ? ……なにを」
笑いながら、男のてのひらがウィッシュの頬を撫でて行く。頬を撫でたてのひらは首筋に滑り落とされ、押し当てられたあとに、前髪を散らして額にも触れて行く。髪を整えるように撫でながら、アルサールが幸福そうにさらさらですね、と言ったので、ウィッシュは習慣で長く伸ばしている髪を整えてくれた怖い同僚女子たちに、その日の朝から今までではじめて感謝した。あたたかいし、いい香りもします。いまのあなたさまは大事にされている。よかった、と嬉しそうに告げられて、ウィッシュはぎこちない態度でうん、と頷いた。
「いえに、かえるって、言ったら……ふぃあに、えっと、みんなに。九年ぶりに、会うんだよって、言ったら……皆に、ちゃんとしていけ、って。怒られて。整えて、くれたんだけど……アル、これ、好き? ふぃあも、好きかな……えっと、俺、ちゃんと……皆の、自慢のままで、いられた?」
いや俺だってちゃんとね、髪も肌も服も、飾りもだよ。いつも皆がしてくれてたみたいにね、思い出して整えて、それで帰ってこようとは思ってたんだけどね。俺の今の同僚のひとたちがね、あんた意外とでもなくわりと不器用なんだからひとりでちゃんとできる筈がないでしょうほら貸しなさいそして私たちの思う存分気が済むまま整えられ飾りつけられきらきらふわふわうるうるつやっつやになってでかけなさいってね、おこられてね、それでね、やってもらったんだけどね、と。たどたどしく、どこかいっしょうけんめい言葉を紡ぐウィッシュの片手を握り締めたまま、アルサールはその眼前に跪いて微笑んだ。
はい、はい、と頷きながら、アルサールの指先がウィッシュの手にやんわりと触れて行く。とん、とん、とん、と穏やかな、呼吸じみた速度。言葉に詰まってしまったウィッシュに、アルサールは囁く。シフィアのウィッシュさま、私たちの『花婿』。あなたさまの幸福をどんなにか祈り、そしてどんなにかあなたさまの死に、それにまつわる状況に怒り、世界を呪ったか。生きてくださっていて、よかった。ウィッシュは目をうるませ、ほんとに、と掠れた声で囁いた。
「ほんとに、アルサール、怒ってない……?」
「ウィッシュさま。俺があなたに嘘をついたことが、一度でも?」
肩を震わせておかしげに笑うアルサールに、ウィッシュはきゅぅと目を閉じ、ふるふるとちいさく首をふった。
「ない……。ないけど、なんで、怒ってないの……?」
「……なぜ、俺が怒るとお思いですか? あなたが、幸福に嫁ぐことができなかったのは……『お屋敷』と、前当主の不手際によるもの。そこから救い出すことができなかったのは……四年間の、ウィッシュさまの状態が『お屋敷』まで正確に伝わらなかったのは、嫁いだ『花婿』たちの状態を調査し、把握する任務を請け負った外部勤務者の怠慢によるところです。ウィッシュさまに、俺がなにを、怒らないといけないのですか」
「あれ? ……えっと。えと、えっと……んと、あれ、じゃあ、じゃあ……ふぃあも……シフィアも、俺を、おこらない?」
だから。どうして、なにを、怒られるとお考えだったのですか、と。笑い声交じりに問いかけられて、ウィッシュはきゅうぅ、と眉をよせてくちびるを尖らせた。途方もない感情に瞳がじわりと涙にうるむ。水面に映った赤い花のような、雨に濡れた紅玉のような。透き通る柘榴のような、赤い瞳。まばたきで頬を伝った涙を手を伸ばして拭い、アルサールがウィッシュさま、と呼んだ。己が心を預けた、思い出の中に置き去りにした筈のやさしい声に、ウィッシュはそろそろと息を吸い込んで囁く。
「かえ、りた、かった……から……」
「はい。……はい、ウィッシュさま。どこへ……?」
「フィアの、とこに、おれ、ずっと……魔術師になって、『学園』に行ってから、じゃなくて。嫁ぐ時も、俺は、ほんとは……あの、四年。おれは、ずっと……しあわせに……」
なって、なんて。願われて、手を離されて、送り出されてしまったことが。ずっとずっと。
「しあわせに、なれなくて……フィアにも、アルにも、がっかりされたら、どうしようって……」
「……がっかり?」
「あんなに手をかけてもらったのに。あんなに、優しく……いっしょうけんめい、育ててもらったのに。しあわせになれるようにって。しあわせになれるよ、って、送り出してもらったのに。かえりたい、ばっかりで。しあわせになれなくて。シフィアの……とこに、戻りたい、ばっかりで。でもほんとはずっと、傍にいたかったけど、それは言っちゃいけなかったから。だから俺、耳飾りだけ、俺の代わりに置いてったけど……でも、なんで俺は残らなかったんだろうって。なんで、俺は、ふぃあに……いかないでって、いってもらえなかったんだろって。だから、俺、こんな風になって……」
衣を揺らして、足元を風が吹き抜けて行く。なまぬるい、刃のような風。砂を巻き上げ、ざらりとした軌跡を描く風。こぼれ出た魔力を自覚しないまま、ウィッシュの瞳が彼方を彷徨う。ぼんやりとした光と熱に満ちた。閉ざされた迷宮をみている。
「眠るのも、水、飲むのも。ぜんぶ、もうやだ。きらい。……そんなの、だめなのに。だめだって、わかってるけど、もうやだよ……。舌が。びりってしたら。飲んじゃ駄目、って。アルがちゃんと教えてくれたのに。でも、それしかないんだ」
「……はい」
「眠らなきゃだめよって、フィアがいうのに。でも、起きても誰もいなくて……かなしいよ。くるしい」
ずっと。ずっと、ずっと、四年間。じわじわと体を弱らせる毒を食み、心を狂わせると分かっていながら眠りを遠ざけるしか、寂しさに嘆かぬ術をもたなかった。そこにしあわせがあると告げられたのに。とうとうウィッシュはそれを見つけることができずに。世界を、なにもかもを呪って、壊して、殺してしまった。そんな風にするために離されたんじゃないのに。それでも。どうしても。許すことができなかった。ウィッシュさま、と変わらぬ微笑みでアルサールが囁く。手を繋いでくれたまま。荒れはじめる風にも顔色ひとつ変えることなく。
「いまも、まだ、お辛いですか……? 悲しいと、苦しいは、なくなりませんか?」
「そんなことないよ。そんなことない、毎日、楽しい。……時々、だよ。体調、悪くなったり……夢見たり、したあと、だけ。なんにもしてない時に、なんか、思い出しちゃったりした時だけで。ずっと辛い訳じゃないよ」
「ウィッシュさま。いま、この時のことをお聞きしています。……シフィアのウィッシュさま。うつくしくお育ちになられた、我らが『花婿』……あなたさまは、いま、悲しく、苦しく、辛くお思いですか?」
繋がれた手が。ここにいる、と告げていた。もうあなたはひとりではないのだと。おかえりなさい、と囁いてくれているようだった。ぎゅぅ、と。弱々しくはなく、それでいて痛みを感じることもなく。優しく、けれども決して離れない強さで繋がれた手に視線を落とし、ウィッシュはふるふるふる、と無言で首をふった。ほっ、とアルサールの微笑みが安堵に緩む。それならば、よかった。心から捧げられる言葉に、ウィッシュはまたちいさく、ごめんなさい、と言った。それにアルサールは立ち上がりながらいいえ、と告げ。両腕をウィッシュに回して、背をぽん、とあまく叩いてくれる。
「あなたさまは昔から、朝方にみた悪い夢を、昼間まで覚えて怖がるお方でした」
「……え。そだっけ……」
「おや。私が、あなたさまに嘘をついたことが、一度でも?」
もう一度。体調を確かめて頬や首筋を滑って行く手に心地よく目を細めながら、ウィッシュはくすくすと肩を震わせて笑い、ないよ、と言った。
「ないけど……。アル? 俺、アルが『私』って、言うのはずぅーっと知ってたけど」
「……はい?」
「さっき、『俺』って、言ってた。はじめてきいた……アルは『俺』も言うんだ? へー……アル、アル。おれ、って言ってみて? ね、いって、いって? ききたい。それでなんか、しゃべって?」
なんでいままで俺の前だと言ってくれなかったの聞いてみたかった、ねえねえ、と腕をやわやわ引っ張って甘えてねだってくる『花婿』に、アルサールは微苦笑を浮かべ、視線をそろりと漂わせた。
「……助けて頂いても? ラギさん」
「はえ? ラギ? ……あ、ラギだ! あとレロクだ。レロクー、ひさしぶりー」
「ウィッシュ、おまえ! この! 俺を! あと、とか言うとはどういうつもりなのだ! アルサールも、ラギに助けを求めるでないわっ! いいか、ラギは! らーぎーはー! 俺のっ! おれのなのだからなっ! だあぁれがおれのきょかなくらぎにたすけをもとめていいといったっ!」
てしてしてしてしっ、と音がしそうな仕草で足先をぱたぱた地面に叩きつけ、それはもう怒っている『お屋敷』の若君、元『花婿』であるレロクの発音は、感情に体がついて行かないが故にたどたどしい。あんな感じだとホント、レロクってばソキのおにいちゃんなんだよなぁ、とのんびり感心しながら、ウィッシュはレロクの傍らに控える側近、『花婿』の『傍付き』であったラギに笑顔で手をふった。
「ラギー。ラギ、レロクといっしょにいつからそこにいたの? 俺、全然気が付かなかった」
アルで忙しかったんだよね、とふわふわ笑うウィッシュに、ラギは心得た微笑みでしっかりと一度、頷いた。
「お帰りなさい、ウィッシュさま。最初からおりましたが……レロク。叫ばない」
「うるさいばーかばーか! だいたいお前もお前だっ、らぎ! お前が! 誰のものだか! いってみろっ!」
「この『お屋敷』の、次期御当主様たる若君。私のレロク。あなたの」
分かっているではないかお前なぜおれのきょかなくあるに助けをもとめられたりするのだばかあぁああっ、と理不尽な怒りを叩きつけられても、常にあるラギの微笑みに変化はないようだった。ああもうこんなことでこんなに怒られて可愛らしい方だ、とばかり笑みに細められた目でレロクをじっくり堪能したのち、ラギの手がそっと若君の頬を撫でて行く。一度、二度、三度。ゆっくり触れて、怒りを宥めて、ラギは静かに囁き落とす。
「私はレロクのものですよ。それをあなたは御存知である筈だ」
「……俺のことをどう思ってるか言ってみろ」
「レロク。あなたこそ私の、最愛の宝石」
冷えた透明な氷の向こうに。揺れる火があるような、危うい声のように、ウィッシュには聞こえた。ただ触れるばかりでは冷たいばかりの、目で見るだけでは熱を感じられないだけの。封じられたような、削ぎ落されたような。そんな、奇妙な印象を覚える囁きだった。完成された『花婿』に、それは分からない言葉だ。分からないように作られる。意味を教えられることはない。ウィッシュはそうだった。レロクも、そのままなのだろう。おまえ一回くらい、いいから俺をあいしてるとかそういう風に言ってみろ、とうんざりした顔つきで呟くと、もういい、とばかり顔を背けてウィッシュに向き直る。
「で、シフィアのことだが」
「うん。俺、レロクの前置きとかそゆの全部なしに自分の言いたい用件だけ伝えてくるトコ、わりと好きだよ」
「そうだろうそうだろう。もっと褒めろ」
ふふふん、と自慢げにふんぞり返ったのち、レロクはで、お前の『傍付き』のことだが、と言った。
「今日は休みの筈だが、『お屋敷』のどこかにはいる筈だから探していいぞ。たぶん本邸のどこかだ。たぶん」
「……ん?」
そういえば、場にいるのはアルサールとラギ、レロクだけである。視線を彷徨わせれば遠巻きにかつての世話役たちが涙ぐんでいるのが見えるが、その中にもシフィアの姿はなかった。んん、と不安げに首を傾げ、ウィッシュはもしかしてなんだけどさぁ、と落ち込んだ声で囁いた。
「おれに……あいたくないとか……そういう……?」
「いえ、ウィッシュさま。ご安心ください」
知らないだけです、とラギは言った。いやに透明感のある、すがすがしいまでの微笑みだった。
「そこのアルサールに、あなたさまの生存が伝えられたのが、今から十時間前になりますが」
「……えっと、真夜中……の、一時前、くらい……?」
「はい。そして、ウィッシュさま。あなたが帰ってくるとアルサールが聞いたのが、いまから十五分ほど前です。ちなみに、私も、まったく同じ時刻にそれを知りましたので色々と整わぬ出迎えとなってしまい、申し訳ありませんでした」
じゅーごふん、と呟き、ウィッシュは指をはたはたと折り曲げて思い切り首を傾げた。色々と考えたいことと聞きたいことがありすぎて、ちょっぴり思考が停止気味なのだが、ええとええと、と困った呟きで眉を寄せ、ウィッシュは泣きだしそうな声でレロク、と若君の名を呼んだ。
「え? なんで……?」
「びっくりした顔が見たかったからに決まっておろうが」
「え? ラギ? ラギはお願いだからレロクのことを怒って? え? 怒ったよね? ね? これはさすがに怒ったんだよね……? ……え、えっと……えっとえっと、えっと……? アルに言って、ふぃあに、言わない、のは……?」
それ以外の理由などあるわけがなかろう、とふんぞり返るレロクに頭痛を感じながら、ウィッシュはぎこちなく首を傾げる。ラギは怒ったとも怒らないとも言わずに、ただ微笑みを深め。アルサールは遠い目をして溜息をつき。レロクはなぜか、自慢げに決まっているだろうが、と言い放った。
「だってアイツ、最近俺の顔を見るとす辞表出してくるようになったのだ。受け取らぬと言うておろうに。なあ?」
「レロク、アイツとかいう言葉をお使いになるのはやめなさいと、私は先日も言った筈ですが」
「そ、そこじゃない……! らぎ、ラギ……! 俺が怒って欲しいのは! そこ! じゃ! ないっ!」
でもラギがなんていうか一点の曇りも濁りもなくただひたすらまっすぐにちょっとおかしいくらいレロク大好きなのが昔と同じすぎて安心を通り越してぐったりした気持ちになった。元気そうだからいいことにする、と呻くウィッシュに、ラギは微笑んでごくちいさく頷いてみせた。まあ、そういうことですので、とアルサールの申し訳なさそうな声がウィッシュに囁きかける。
「シフィアはまだ、知らないのです……。ウィッシュさま」
「うん。……う? え。辞表ってなに」
ようやくその単語の意味が脳に到達したらしい。はっとした顔でなにそれっ、と叫ぶウィッシュに、レロクはふあふあと眠そうにあくびをしながら、じひょーはじひょーにきまっているだろうが、とほわほわした響きの声で言った。