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 辞表というものが、つまりはシフィアがこの『お屋敷』に勤めることを辞めたいのだという意思表明であり要求であるということまでウィッシュが思い至るのに要した時間は、十分ほど。その間に、お前が知ってて親しかった『傍付き』だとあとはラーヴェがいないと告げられたが、シフィアが辞めたいと思っていることが衝撃的すぎて、そちらに驚いたり悲しむ余裕が生まれることはなかった。それはソキはさぞ落ち込んだろうにと頭の片隅で冷静に考えながら、ようやっと辞表の意味を飲み込んだウィッシュは、ふらふらと視線を持ち上げてラギをみる。弱々しい息が喉を通り、空気を震わせた。
「な……なんにんころせば、ふぃあ、やめない……?」
「……ん?」
 なんで、と問う言葉の盛大な聞き間違いだろうか、と思いこみたがる微笑みでラギが口元を引きつらせ、ウィッシュを守るように傍らに立つアルサールがよく晴れた蒼穹を仰ぎ見る。レロクが責任の所在を問う視線をひたすらアルサールに向けていたが、なんとなく無視されたままだった。どこからも返事が帰って来ないので、ウィッシュは不思議そうにくてん、と首を傾げ、アルサールの服の端を摘んで引っ張る。
「アル、アル。ねえ、誰がいなくなれば、ふぃあ、いなくならない? シフィアはー、だれがー、やなんだかー、おれにおしえて? ……え、えっ。それとも、ふぃあの……だ、だんなさん、が、そういう風におねがいした、とか、なの……?」
「ウィッシュ。シフィアは結婚しておらぬ」
 あとアルサールはあとでシフィアを連れて俺の部屋まで来い、と腕組みをしながら尊大に言い放ち、レロクはぱちぱちと瞬きをするウィッシュに視線を重ね合わせた。言い聞かせるようにゆっくりと告げる。
「シフィアは、結婚しておらぬぞ。辞めたい、と言っているのは、お前を探しに行く為だそうだ」
「……俺? ……え? 結婚、してないって、なんで」
 どうして。だって、俺は死んだっていうことになってたんじゃないの。生きてるのはレロクとか、前の御当主とか、それくらいしか知らない筈で。ロゼアにも、しー、ってしておいたし、ソキは言う筈がないし。それに。好きな人ができて、『傍付き』はそのひとと結婚してしまう筈なのに。シフィアはそれを、していないという。ウィッシュが生きていたことも知らないのに。混乱しながら、なんで、としか言えないウィッシュに、レロクはくちびるを尖らせ、拗ねた顔つきになりながらしらーぬ、と言った。だが、結婚しないのも稀にいたであろうがと告げられて、ウィッシュは記憶を探りながらぎこちなく頷いた。ウィッシュがまだ『花婿』であった頃。花を送り出した『傍付き』であるのに、彼らは恋をすることがなく。やがて、『お屋敷』で姿を見なくなってしまった。彼らはどこへ行ったのだろう。
 もしかして、それが、辞めた、ということなのだろうか。ウィッシュが知る、『花婿』を送り出した『傍付き』というのは、だいたいが数年内に恋をして結婚をして『お屋敷』に留まり、新しい『花嫁』や『花婿』たちの世話を、『傍付き』候補の手伝いをしたり、時に教員となりながらもそこへあり続けたのに。そうだ、とウィッシュは息を吸い込む。いなくなってしまうこともあった。半年に一度、一年に数度、戻ってくる者もいたけれど。ひとりだけ、もう会えないの、と告げられた者もある。ウィッシュとレロクより、ほんの数ヶ月だけ年上の『花嫁』を送り出した『傍付き』の女性が。どうかお健やかにと囁いて、微笑んでくれて、それきり姿を見ることがなかった。あれは別れの挨拶だったのだ。
 慌てて、ウィッシュは何処へと走り出そうとして、脚をもつれさせ体勢を崩してしまう。うわっ、と思い切り慌てた声でアルサールがウィッシュを抱き寄せ、半ば共に倒れ込む形になりながらもその体を守ってくれる。え、は、えっ、と混乱しきったアルサールの呟きは、まさか『花婿』が自ら走ったり、歩いたりするとは思わなかった為だろう。その脚で帰ってきたのを見ていても。『花婿』がそういう風にするのを、『お屋敷』に勤める者は想定していない。ううぅ俺なんでか急ごうとするとすぐ転ぶんだよねアルごめんねごめんね痛くない祝福かけたげるね、と腕をなでなでしながら涙目で鼻をすすり、ウィッシュはその場にぺたりと座りこんだまま、ふわふわと風を漂わせて息を吐きだした。
「うー、えー……レロクー。なあなあ、れろくー。俺がちゃんと生きてて白雪にいるってシフィアに言ってよ」
「自分で言わぬかばぁーか」
「レロク。馬鹿とかいう言葉を使わないでください、と私は先日も申し上げたばかりだと思うのですが」
 自分に言われるのはよくても、人様に対してならきちんと怒るラギの説教の論点は、相変わらずウィッシュには理解できない。あとラギに怒ってほしいのはそこじゃない。レロクは不満そうにくちびるを尖らせて腕を組みながら首を傾げ、自分で言わぬかめんどうくさがるでないわ、と語尾をやや疑問形に歪ませながら言い直した。ラギはふっと満足げに微笑みを深め、言うことをちゃんと聞けて偉いですね、レロク、と若君のことを褒めている。そうだろうそうだろうもっと褒めろ、とふんぞりかえって自慢げなレロクに、ソキがなにかと偉そうにふんぞりかえって自慢してくるのはぜえぇったいこれのせいだよな言うとちぁうもんちぁうもんってちょう怒るから言わないけど、と息を吐き、ウィッシュはもー、と目を細めてみせた。
「じゃあ、フィアは……俺が、ちゃんと生きて白雪にいるよって分かれば、どっか行ったりしない?」
「たぶんな」
「たぶんってなんだよー……。いい? レロク。俺は今から枯れちゃうかもしれないんだよ……?」
 シフィアが俺のこと喜んでくれなかったらどうするの、とうるうるの目でくちびるを尖らせるウィッシュに、せめて自分の発言くらいは方向性を一致させぬかと呆れた顔で息を吐き、『お屋敷』の若君、元『花婿』である青年は腕組みをしてみせた。
「まあ、気持ちは分からんでもない……アルサール、なにも言うなよ。お前たちには分からぬだろうが、これが『花婿』に……『花嫁』に、施された教育というものだ。ウィッシュも、俺も、ソキも。『帰らない』ように整えられるし、『帰れない』ようにされるのだ。……お前はそれをよぉく知っている筈だな? ラギ」
「ひとつ言わせて頂くなら……『傍付き』だからこそ、明かされぬ、御花の方々に対する教育というものは存在していますよ、レロク」
「『花婿』であった俺を、『次期当主』候補に転換させたお前であるならば、それを知っている筈だな、と言っているのだ。俺は」
 ラギは、常と変らぬ柔和な笑みをその顔に浮かべただけで、なにも答えようとはしなかった。ただ永遠を誓った主の傍らに膝をつき、その服の衣を指先でついと引き寄せると、そこへ口唇を押し当てる。レロクは忌々しそうにラギを見下ろし、ちちぃっ、と舌打ちを響かせた。
「いいかラギ……。お前が俺の見えない範囲でどこの男と遊ぼうとどこの女に手を出そうと、俺が分からない範囲ならば許してやるがな……!」
「そのようなことはしておりませんので、私が何処ぞで不貞を働いているような物言いはやめて頂けますかレロク」
「俺以外に、一欠片であっても、気持ちを委ねてみろ。今度こそお前を殺してやる」
 それで、そのあと俺は死ぬ。きっぱりとした宣言に、ラギは立ち上がりながらふっとあまく微笑んだ。
「レロク」
「なんだ」
「あなた以外を思って誰かに触れたことなど」
 不愉快げにふんと鼻を鳴らして眉を寄せ、レロクはラギが腰に佩く長剣の柄に手を伸ばした。やんわり咎められるのを無視して柄を握りこみ、若君は呪いすら感じさせるような低い声で一言、吐き捨てる。
「知ってるが、それでもだ。二度とするな」
「はい、レロク。私の最愛の宝石。あなたがそう望んでくださる限り、私は永遠に……最初から、最後まで。あなただけのものだ」
「そうだ。魂にまで刻み込め。お前は、俺の、ものだ。俺の傍付き。俺の、ラギ」
 よーし言ったなお前ほんとにもう二度とぜったい男にも女にも触るでないぞどうしてもというのなら手袋をしろてぶくろっ、とふんぞりかえって命じるレロクは、普段の些細な接触すら許容するつもりがないらしい。ああもう本当に困ったお方だそこがたまらない可愛い、とばかりこころもちふわりとした笑みで、ラギはあなたがそうお望みならば、と囁いている。二人のやりとりをじーっと見つめたのち、ウィッシュはくちびるを尖らせ、頭痛を感じているらしきアルサールの服をひっぱって訴えた。
「アル。あいつら、ひどい。目の前でいちゃつかれた」
「うらやましいだろう、うらやましいだろう! お前もとっととシフィアのとこ行っていちゃってこい。そして辞表はだめだと言って来い。で、それが終わったら俺のとこに来い。ロゼアが『学園』でなんぞ不貞を働いてないか、報告を聞いてやらんでもない」
「レロクは、ほー……んとに、ロゼアのこときらーいだよなぁ……」
 とりあえずいまはまだなんもしてなかったよ大丈夫だよ、と告げたウィッシュに、アルサールが頭痛を激しくさせた表情で天を仰ぐ。口元を手で強く押さえたラギが、ふるふると体を震わせながらしゃがみこみ、ぶはっ、と面白くて仕方がない様子で笑いに吹き出す。ほほほぅ、と目を細めたレロクの顔に、よしロゼアに手紙でも書いてやろうみっちりとなっ、と書かれている。もう、レロクはすぐそうやってロゼアいじめるー、とのんびりした声で呟くウィッシュだけが、『学園』に帰ったのち、ソキにやんやんおにいちゃんロゼアちゃんをいじめたですううううぅううっ、と怒られる未来を、予測できていなかった。



 落として行った思い出を、ひとつ、ひとつ、辿り拾い上げて行くように。『お屋敷』の中をゆっくりと歩いて行く。殆ど出歩いた覚えのない場所であるというのに、そこにはウィッシュも意識していなかった記憶の欠片が零れ、転がっていた。毛足の長い絨毯の上、落ちた綿ぼこりを摘みあげるしろい指先。本棚代わりにことことと書物が置かれた窓枠。差し込むひかりは緑の葉を透かしてなめらかな色に染まっていた。緑をまとう黄金。綺麗だね。眩しくない、目を痛くするからあんまり長く見ちゃだめだよ、と耳元で声が笑う。白く艶のある柱には深く刻まれた一本の線がある。息を弾ませながら立ち止まり、ウィッシュはそれをするすると指先で撫でた。幾度も。嬉しそうに。ちいさな記憶を拾い上げた。
「アル、アル。これ、覚えてる? ……ふぃあね、この時ね、なんかすごく怒ったんだよ。俺、シフィアが、怒るの、あのとき、はじめてみたんだぁ……! うふふ。あのね、えっと。糸? 鉄の、糸みたいのでね、俺に勝手に触ってきた商人をね、逆さ釣りにしてね、窓からぽいって」
「……覚えております」
 ぎゃああああお前なにしてんだあぁああっ、と叫びながらウィッシュの目を手で隠したのはアルサールである。『花婿』の前での戦闘行為は御法度。だのにシフィアはそれを実行してしまったのだ。だってコイツいやらしい手でウィッシュに触ったんだよっ、ごめんねウィッシュきもちわるかったよねすぐにお風呂へはいろうねぎゅってしてちゅってして忘れようねいますぐこれをぶちころあっまちがえたえっとえっと反省させるからちょっとまってねウィッシュ、とふわふわした常と変らぬ笑顔ではきはきと言ってのけたシフィアに、アルサールはそれはもう心から叫んだものだ。落ち着けシフィア、ウィッシュさまの御前で荒事に走るな、と。シフィアは、えへへ、と笑って恥じらってみせたが欲しかった反応はそれじゃない。
 ちなみにアルサール自身も、いいかそういう荒事は俺に任せておいてお前はウィッシュさまのお傍にいればいいんだだからその商人を俺に渡せ俺がぶちころじゃない間違えたあー反省させておくから、と発言したことがばれて、後日仲良くシフィアと共に呼び出しをくらって怒られたりしたのだが。そのあたりはいまひとつ、ウィッシュの記憶には残っていないらしい。ぶちころ、って、なぁに、ときらきらした笑顔で首を傾げた『花婿』に、シフィアのウィッシュさまお願いですからその単語の存在そのものを忘れましょうここにマシュマロがあります、と説得した成果である。
 それでも、おぼろげに思い出せはするのだろう。ううぅん、と訝しげに首を傾げ瞬きをして、ウィッシュはとうめいな旋律のような声で、しっとりと問いかけた。
「アルサール? あの商人、生きて『お屋敷』から出られたの……?」
 あとあのマシュマロ食べたい、とくちびるを尖らせてねだるウィッシュに後ほどお持ちしますと囁いて、アルサールは商人の生死については答えなかった。一応、その時はまだ生きていた筈である。そのあとのことは知らない。心身に対して傷はつけなかったが、『花婿』に許可なく触れた者として『お屋敷』から出入りを禁じられた商人など、砂漠ではどこへ行こうと商売などできる筈もないからだ。ウィッシュは瞬きをしてアルサールをじっと見つめたあと、アルサールの手に包み込むようにして触れる。煮詰めた飴色の肌に触れる『花婿』の手は。そう呼ばれていた頃と不思議なほどに変わらぬ、月夜の大理石じみて白く日焼けを知らないままだった。
「アル、アルサール。あんまり危ないことしちゃ、だめだよ。アルは自分でしなきゃいけないんだから、危ないだろ? もしね、またね、アルが我慢できなくって、ぶちころ? みたいなのがいたらね、俺にそっと教えてくれるといいよ」
「……ウィッシュさま?」
 この方にぶちころとかいう単語とその意味を教えてしまった存在をこの世から消し去りたい今すぐにだ、という感情を丁寧に包み隠し、アルサールは微笑んで『花婿』の名を呼んだ。かつてとまったく変わらぬ、それどころか親愛と喜びを増したように響くアルサールの声に、ウィッシュはくすくすとくすぐったけに肩をすくめてはにかんだ。
「アル。俺、魔術師になったんだよ。レロクから聞いた? 俺ね、風の、黒魔術師になったんだ……だからね?」
 白い手が。アルサールの頬を撫でて行く。
「アルが嫌なのがいたら、俺がぜんぶころしてあげる。おれ、じょうずにできるんだよ? ヴェルタも、ほめてくれたもん……。あ、ヴェルタっていうのはね! おれを助けにきてくれた、あんないの、ようせいさんの、なまえ、でね? おれをがくえんに、つれてってから、ずっときんしん……? ふういん……? とじこめられてた、んだけどね。おれがね、せんせい、がんばったから、こないだだしてもらえたんだ……!」
 風に揺らされさんざめく木の葉の、散らす陽光のきらめきのように。幾億の輝きに満ちた光が、熱っぽい潤みを瞳に宿してウィッシュを歌わせる。興奮でふわふわした響きになる言葉を奏でながら、ウィッシュはふふ、とはにかみ、弱く脆い喉でかふ、と乾いた咳をした。
「ん、う……。はぁ……あいにいくんだよ、っていったら。だめだったら、俺がちゃんと呪ってやるから、安心してお行き、って、いってたけど。ヴェルタはもー、すぐ呪いたがるんだからー」
 わりと、なんでもかんでも、一線を超えるなりすぐにぴかぴかの笑顔でよしころそうっ、と言いだすウィッシュを迎えに行けただけある、と妖精の間でうんざりされている事実を、黒魔術師だけが知らない。アルサールは苦笑いをしながら、ウィッシュさまのことを心配してくださったのですよ、と告げ、かふ、こふ、と咳き込む『花婿』のくちびるに、用意しておいた飴をそっと食ませてくれた。
「ウィッシュさまが、もうそのようなことをされる必要はありませんよ。……こら、飴を噛まれない」
「んー、んんー……あ。ねえねえ、いまどこらへん? それでー、ふぃあはー、どこにいるー、のー?」
 飴をかしかし歯で食みながら腕にじゃれつき、甘えた声で問うウィッシュを撫でながら、アルサールは『お屋敷』の中ですよ、と囁いた。シフィアはもうすこしばかり歩いた中庭にいる筈です。用事のない日中はだいたいそこでぼんやりとしているのだという。説明してくれたアルサールに、ウィッシュはソキそっくりの仕草でぷーぷぷぷ、と頬をふくらませてみせた。
「ある? いじわるしないでー、俺にちゃんとー、ばしょ。おしえて?」
「この廊下の先まで歩いて、右に曲がって、突き当たりの階段をひとつ降りる場所にある小庭に、シフィアはおりますよ」
 ウィッシュが欲しかった説明は、そういうのではないのだが。ぷぷ、と頬をふくらませてくちびるを尖らせ、ウィッシュはつんっとした横顔でのたのたと歩き出した。ふらつく体がいつ転びかけても良いよう、くすくすと笑いながらアルサールがすぐ傍らに付き従う。歩けるよ、歩く、と言ったウィッシュにはいと微笑んでそれを許してくれたことには感謝しながら、黒魔術師たるうつくしい青年は、拗ねた顔つきのまま息を吐きだした。
「いいよ。ふぃあに教えてもらうから。ふふ、俺ねえ? 地図、読めるように、なったんだよ?」
「……それはすごい」
「ふふふん! だから、もう、読んで覚えちゃえた時は、あんまり、道に迷ったりしないんだ」
 告白に対して紡がれたアルサールの声はほんものの驚愕に満ちていたが、続くウィッシュの言葉に、浮かぶ笑みはなんだか優しいものになる。読める時は、ということは。読めないこともあるということで。完全に記憶できない時は迷うということで。つまりそれは、恐らく、地図を読みながら進んだり、現在位置をそこから把握したり、ということはできない、ということだ。ゆったりと、お屋敷の若君の歩みに似た足取りで。どれよりはどこかつたなく、たどたどしく、とた、とた、とウィッシュは足を進め、廊下を渡り階段を降りて、差し込む日のまばゆさに目をくらませ、悲鳴じみた息を吸い込んで目を閉ざした。ウィッシュさま、と穏やかな声が傍らに響く。疲れられましたか、なにか、と問う声がアルサールのものだと分かっても、ひゅぅ、ときしむ喉は息を吸い込むのがやっとのことで、もつれた舌と思考は言葉を、声を紡がせてはくれなかった。
 ここはどこだろう。まぶしいひかりに満ちたこの場所は、ほんとうにあの場所の、そと、なのだろうか。ほんとうはまだ、ウィッシュはあの迷宮じみた一角にとじこめられていて。どこかへいく夢をみて。魔術師になった、なんていう、途方もない夢物語を夜の眠りに、あるいは真昼の幻の中に紡ぎあげて。現実を遠ざけてしまっている、だけなのではないだろうか。つよいひかりはあしをすくませる。影を地に焼きつける針のように。『花婿』は元より、強い日差しを苦にするように整えられるけど。そうではなくて。こわくて、こわくて、きもちわるくて、さびしくて、さむい。ここはひとりで、とてもさみしい。ひとりきりで、とても、さむい。ひかりのなかにいるのに。ぬくもりなんて、ひとつも。
「――ウィッシュ?」
 六月の、花のような声だった。細かい雨に濡れ艶やかに鮮やかにちいさな小花を開かせて咲く、真白い花のように響く、声だった。これはね、花舞に咲く花なんだよ、ウィッシュ。大きな葉と、まるい灯篭のような大きな花を腕いっぱいに抱いて、そのひとが囁いてくれた言葉を思い出す。これはね、紫陽花、っていう花なの。きれいだよね。これは色が白くて、ちょっと緑がかってるけど、もっといろんな色があるんだよ。紫、赤、ぴんく、きいろ、あいいろ。しろいの。ウィッシュはしろいのが好きかな、と思って持って来たんだけど、ふふ。うん、よく似合ってる。ウィッシュはしろいのがにあうね。きれいな、きれいな、わたしの『花婿』さん。
「アルサール、退いて。ウィッシュ? ウィッシュなの? ねえ……!」
 熱病に犯されたような、うわずった声がどこかで響いている。荒れ狂う感情にざらりとした声は、先程のものと、記憶の中のものとも、一致しなかった。ウィッシュはいやいや、とむずがる幼子のよう、きゅぅと目を閉じてしゃがみこんだまま、息だけを繰り返している。草を踏み乱すかすかな足音。トン、とだけ廊下を打って響く靴音。強い日差しを遮るように体に淡い影が落ちる。
「……ウィッシュ。わたしの……私の、『花婿』……」
「シフィア、落ち着け! ウィッシュさまは」
「うん? ……私は落ち着いてるよ、アルサール。黙って。静かにしていて。体調が悪い時、ひとり以上の声はウィッシュの負担になるでしょう? 私が、話すから……あなたは静かにして、アルサール」
 トン、と。ちいさな音がして、膝をついてしゃがみこまれたのが、分かった。瞼の向こう、薄闇が広がるその場所に。強い光をさえぎって淡い影を投げかけながら、そのひとがしゃがみこんでいる。
「ウィッシュ。いいこだね、聞こえる? ……大丈夫。もう大丈夫だよ、怖くない。こわくないよ」
 伸ばされた手が。白い手が、ほっそりとした、やわらかい、あたたかい指先が、そっと。肌をすべって、撫でて行く。頬を何度もなぞり、首筋に滑り落とされ、押しあてられるてのひらのぬくもり。とくとくと拍を刻む心音を確かめるように、どちらの息もひっそりとしてかすかにしか響かない。首筋から離れたてのひらは、額に触れ、幻覚のような痛みと熱を消し去ってくれた。その手のぬくもりを知っている。
「ねむい……?」
 ちがうよ、と言いたいのに。声がうまくでなかった。迷宮の記憶は渇きと熱と、喉の軋みでウィッシュのことを縛っていて。こわくて目も開けないままだ。そのひとは淡くあわく笑い声を響かせると、指先でウィッシュの瞼や、頬や、首をそっと撫でてくれた。その輪郭を確かめるようにも。そこにある熱を、体温を、形を。存在を確かめるような。慣れ切った仕草でありながらも、どこかたどたどしく、ぎこちない仕草だった。ウィッシュ、ウィッシュ。何度も、何度も。名前を囁き、呼ばれるのに。ひりつくような痛みで切り裂かれた喉が、言葉を発することを許さない。呼びたいのに。何度も、何度も呼んでいたのに。閉ざされたままの瞼では、姿が見えなくて。本当にそのひとなのかも、分からない。
 春の光のようなひとだった。六月に咲く、瑞々しくも生命力にあふれて凛とする、花のような声を持つひとだった。あたたかで柔らかい手が、まだ幼い頃からずっと共にいた。その声が、熱が、姿が、形が、少女から女性になりかける時。ウィッシュは傍を離れてしまった。しあわせになれるよ、と誇らしく。見送ってくれたそのひとの姿を思い出す。そのひとは笑ってくれていた。あまく地に降り注ぐ木漏れ日のように。いつも、いつも、穏やかでけれども活発な印象で。ウィッシュの名を呼んで笑ってくれるひとだった。別れの時でさえ。しあわせになれるよ。そう告げて。そこにしあわせは、あるのだと。指差し示すように背をぴんとさせて、にこにこと笑っている姿が、焼きつく最後の記憶だから。
「……ウィッシュ」
 つめたい、水をひたひたと含ませ、滲ませる。涙に揺れる、そんな声は。
「ウィッシュ、うぃっしゅ……いたい? どこか、痛い? どこが痛いの? 目かな。のど? 立ってたよね。あし……? ……つらいの? くるしい? ごめんね、ごめんねウィッシュ」
 正気を失う境のような。不安定に揺れ動く、熱病と氷をゆらゆらと行き来する、そんな声は。
「ごめんね……」
 知らなくて。分からなくて。怖々と、ウィッシュは瞼を持ち上げた。砂漠の、強い日差しが目にいたいくらいに飛び込んでくる。視界が一瞬、白く染まる。きゅぅと目を細めて何度もせわしなく瞬きをして、ウィッシュは目の前にぺたりと力なくしゃがみこむ、どこか幼い硝子のような印象の女性に、そっと、そぅっと囁きかけた。
「ふぃあ……?」
 繰り返し、繰り返し。会いたいと泣き叫んだ、その女性の名を。
「シフィア……? フィア、なの……? 俺の」
 喉が引きつって痛んで軋んでも。ウィッシュはなんとか、それを言い切った。
「俺の『傍付き』」
 ひよこみたいな、ふわふわした色の短い髪の。植物の葉めいた黄緑の瞳の。この砂漠に長くあっても不思議に日焼けをしていない象牙めいた、強い、しなやかな肌の。濃紺の上下に身を包む、どこか小柄な、愛らしい印象を与える体つきの、少女めいた女性。濃い、ひかりのなかに座りこみながら、シフィアはくしゃりと顔を歪めてウィッシュ、と囁いた。ウィッシュ、ウィッシュ。囁きながら、ひかりのなかから、シフィアが手を伸ばして、触れる。薄闇の中に座りこんだままのウィッシュに。手を伸ばして、触れる。指先が、頬を何度も、何度も撫でて。
「……ウィッシュだ……!」
 弱々しく、シフィアは涙をこぼして泣きだした。

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