前へ / 戻る / おまけ

 ひ、と喉を鳴らして。うあぁあ、と声をあげて泣きだしたシフィアを、信じられない気持ちでウィッシュは見つめていた。泣くだなんて思わなかった。ひとかけらも、ほんのすこしも、そんな風にされるだなんて思わなかった。だって『傍付き』は泣かない。ソキもロゼアが泣くどころか、涙を零した所すら見たことがないだろう。考えたこともないに違いない。『傍付き』が泣くだなんて。己の為に涙を零すだなんて。だってそんなことはあり得ないのだ。ウィッシュがどんなに泣いて叫んで暴れて嫌がっても、シフィアは常に柔らかく微笑んで『旅行』の為の馬車に乗せて行ってらっしゃいと囁いたし。戻ってきた時もただ嬉しげに微笑んで抱きしめてくれたけど。たとえば、ウィッシュがそうであったように『傍付き』が恋しくて苦しくて眠れなかったり、泣いたりしたような風には決して見えなかったし。だから苦しいくらい好きなのはウィッシュだけで、シフィアは違うのだと。
 最後のことを。最後の別れの日を思い出す。その日は突然ではなかったから、ウィッシュが『お屋敷』から嫁いで行くまでは何日もあった。失望されるのが怖くて。別れを嫌がっているのが、永遠に傍にいたいのが自分だけだと突き付けられるのが、それを確認してしまうのが怖くて。もしもそうであったら生きて行けなくて。そんなことになったら、嫁ぐ為に、幸せになる為に育ててくれたその献身の、親愛の、なによりの裏切りになると教わっていたから。それを知っていたから。分かっていたから。いやだよ、とは口に出せなくて。それでも。永遠を染み込ませたがるように、傍にいて欲しいと。もうあとほんの数日でも、数日だからこそずっとずっと傍にいて離れないでいて欲しいと希ったウィッシュに。シフィアはそっと囁いたのだ。しあわせになれるよ、ウィッシュ。だいじょぶ、しあわせになれる。なれるよ。なれるんだよ。
 その声を。その表情を。ウィッシュはずっと覚えている。忘れないでいようと思った。それを永遠にしようと思った。世界で一番求めたひと。永遠の恋。愛そのものを教えてくれた人。幸せのすべて。その幸福が、ウィッシュのしあわせがそこにあるのだと告げたのだから。それは本当のことで。本当であるべき、ことだったのだ。シフィアは微笑んでいた。常と変らぬ柔らかな、優しい声だった、表情だった、態度だった。抱き寄せる腕は穏やかに。『花婿』をそこへ繋ぎとめたいだなんて、ほんのすこしも、思っていてはくれないものだったから。ウィッシュは、うん、と言ったのだ。シフィアがそう言うなら。俺はしあわせになれるんだと思う。しあわせに、なれるよ。ふぃあがそう言ってくれたんなら。
 いいこだね、ウィッシュ。誇らしげに『傍付き』は笑ってくれた。その微笑みに。愛してるなんて言えなかった。たったひとりとして、好きだよ。これから出会うどんなひとにも、きっとそうは思えないくらい。あいしてるよ、あいしてる。あいしてる。でも。シフィアは俺にそうじゃなくて。俺のしあわせは嫁ぎ先にあって。シフィアは俺がいなくなったら、誰かに恋をして好きになってこういう風に好きに、なって、愛してそして幸せになるんだろう。その幸せをあたたかいと思う。けれども絶対に見たくはない。ウィッシュに触れた手が誰かに伸ばされるところなんて。その微笑みが他の誰かに向けられるところなんて。望んでも願ってもどうしても得られなかった愛が、誰かに注がれているところなんて。
 しあわせになっている筈だった。ウィッシュはもう嫁いだのだから。ウィッシュがその場所でシフィアの望んでくれたように幸せになっている、筈だったように、『傍付き』は『花婿』が胸が潰れるように夢想した幸福の中にある筈だった。その筈だったのに。シフィアは声をあげて泣いている。ほんのちいさなこどものように。体を丸めてなにかに怯えるようにしながら。ウィッシュ、うぃっしゅ、と『花婿』の名を呼んで泣いている。かたかたと震えながら、ウィッシュはぎこちなく視線を動かし、息をのんで動けないアルサールを見た。
「……かえ、の……だめ、だった……?」
「……はぃ? ……はいっ? いえ、えっと……ウィッシュさま……?」
「おれが、帰ってきたの、が、かなしくて……ふぃあ、泣いてるの……? ご、めんね、ごめん。ごめんなさい、ふぃあ。ふぃあ、ふぃあ。ごめん。ごめんね……。泣かないで、なかないで……!」
 帰ってきて。ごめんなさい、と告げかけたそのくちびるを、アルサールは手で覆い隠してとめた。ぱし、と驚いて瞬きをするウィッシュに、アルサールは言葉にもできず首をふる。違う。それだけは違う。そんな言葉を告げられたら、ここまでなんとか正気を保っていたシフィアは、今度こそ心を壊して狂うだろう。『花婿』が死んだと聞かされて。その死の、周囲の凄惨なさまを聞かされて。死んだなんて嘘。生きている、と泣き叫んで、探しに行くと言って聞かなかった。嫁いだ『花婿』に会いに行くのは『傍付き』の禁忌だ。『お屋敷』は絶対にそれを許しはしないし、本来であればそんな考えすら持たないよう、『傍付き』は丁寧に丁寧に研磨され磨かれ、一部を壊され葬られる。その願いを決して口に出せないように。その希望すら胸に抱いてしまわないように。
 引き合わされたその瞬間から。なにを犠牲にしても、どんなことをしても、この存在の傍にありたいと。心からそう思って血の滲むような努力をして気が狂うような想いで研磨され壊され整えられ、それを受け入れてでも、そうされてでも、どんなことをされても、どんなことがあっても。やがて来る別れの瞬間までは誰より傍にいてその存在を愛したいと。願って願って、それを叶えた者だけが『傍付き』と呼ばれるのだ。求める欲は壊される。求める言葉も同様に。『花婿』が教育され書きこまれ刻みつけられ、徹底的に、それを罪と、それを許されないことと思い、それから逃れられないのと同様に。『傍付き』は己の花を求められないように、作られる。それなのに。
 シフィアは、探しに行く、と言ったのだ。己の『花婿』を。それが『お屋敷』の上層にどれほど衝撃を与えたか、アルサールは知っている。『運営』の一部からは処分を、との声が上がるのを、当主たるレロクが決して許さぬとがんとして受け付けなかったことも。けれどもレロクは同時に、シフィアの辞表からも逃げ回っていた。受け取らない、無視する、火をつける、はさみで切る、土の中に埋める、水に流す、落書きをする、などなど。若君が行った辞表拒否手段は多岐に及ぶが、いいからお前もうちょっとだけここで待っていろというのだ、と怒ったレロクの言葉の意味も、アルサールはもう知っていた。待っていろ、というのは、そういうことだ。ウィッシュの生存を、恐らくはこの『お屋敷』の中で唯一、レロクだけが知っていたからなお、止めていたのだろう。その努力を。他ならぬウィッシュが砕いてしまうことは避けたかった。
「……嬉しいんです」
 苦心して絞り出した言葉に、シフィアの『花婿』は涙の滲む眼差しでぱしぱしと瞬きをした。ぞっとするほど美しい、柘榴色の瞳。歳月を経て深みを増したその彩に、アルサールの意識はくらりと揺れた。
「シフィアは、嬉しいんですよ……ウィッシュさまが生きておられたことが」
 魅了されかける。この存在を己のものに出来るなら、どんなことだってするだろう。このひとに愛される為ならば。その想いを乞うことを許されるのならば。そう囁く己の意識をねじ伏せて、アルサールはウィッシュに微笑み、言い聞かせた。
「嬉しいんですよ。……俺も、本当に。……ウィッシュさま。シフィアの、俺たちの……『花婿』。ウィッシュさま……!」
 嫁いで行く別れの日に。シフィアの服の端を摘んでいたウィッシュの指先が震えていたのを、アルサールは忘れることが出来ないでいた。微笑んで。誰よりもしあわせになるから安心してね、と囁いて、わくわくしているような態度で振舞っていた『花婿』の。その指先だけがほんとうの心だった。シフィアが気がつかなかった筈はない。それでも、『傍付き』は『花婿』に求められなかったから。『花婿』は『傍付き』に引き留められなかったから。さよならだけを言えずに、別れて。しあわせでいてくれるようにと、それだけを願い続けていたのに。戻ってきたのは死の知らせ。それにまつわる悪夢のような報告の数々。アルサールが知ることが出来たのはほんの一部だ。それでも、アルサールは全て殺してしまいたいと思った。ウィッシュの嫁ぎ先の、生き伸びたほんのわずかな者も。そこへ嫁がせると決めた『お屋敷』の者たちも。
 多額の金銭が戻ってくるが故にその報告を握りつぶしていた外部勤務者や、薄々はそうと知っていながら放置した、レロクの前の当主のことを。決して許すことはできなかった。しあわせになれない場所へ送りだしてしまった己のことを。アルサールとてそうだった。『傍付き』であったシフィアの胸中はどれほどのものであったのか。言葉を告げながら。涙に声を発せなくなってしまったアルサールのことを、ウィッシュはおろおろしながら見つめ、ちいさく首を傾げてある、と呼んだ。ある、ふぃあ、ある。ある。泣かないで、と震えた声で伸ばされた指先が、アルサールの頬に触れ、くすぐるように撫でて行く。その指先のこそばゆさ。爪のあまい感触。あわい熱に、アルサールはふわりと微笑み、ウィッシュをゆるく抱き寄せた。
 ぽん、と背を撫でてからくるりと体を回し、肩をそっとシフィアへ押しやる。
「さあ、ウィッシュさま」
「ある……」
「シフィアの所へ行ってあげてください。それと、シフィアの名も、どうぞ呼んであげてください。……このままですと、俺があとで呼び出されて血祭りが開催されます」
 なんで、と訝しげな顔をするウィッシュが血祭りの意味を正確に理解していることにこそ呪いたい気持ちになりながらも、アルサールはなんでもです、と微笑んだ。んん、と今ひとつその理由に心当たりがない様子で頷き、ウィッシュは恐る恐る、うずくまって泣くばかりのシフィアの前に歩み寄った。とん、と両膝を折ってその場に座りこむ。
「ふぃあ、フィア……えっと、泣かないで? えっと、えっと……嬉しいって、思ってくれてる、の……?」
「ウィッシュ……ほんとの、ほんとに、ウィッシュだ……! っ、ふ……あ、うあぁん……!」
「う、うん。俺だよ。俺だよ……? あ、あの、あのね、ふぃあ。あの……俺、生きてたんだ。ごめんね。ないしょにしててごめんね。あの、俺、今、魔術師でね。ソキとロゼアと一緒なんだけどね、『学園』にいる訳じゃなくてね。俺はもう卒業しててね、今は白雪にいてね。えと、えと、それで」
 うん、うん、と。泣きじゃくりながら頷いてくれるシフィアの、涙が止まる気配はちっとも見られない。ウィッシュ、と祈りのように。宝物のようにその名を呼びながら、己の身をかき抱くように腕を回し、手をぎゅぅと握ったままの姿でいる。立ち上がれないようだった。動くこともできないようだった。求めることが。ウィッシュに、手を伸ばして触れることが。腕を伸ばして抱きしめることが。求める、ことが。どうしても、どうしても、できないようだった。瞳だけが向けられていた。瞬きすら惜しむように、まっすぐに。視線はウィッシュを向いていた。浮かんでくる涙をまばたきで払いながら。幼子のように嗚咽を響かせ泣くばかりのシフィアに、ウィッシュはううぅ、と困ったように眉を寄せて鼻をすする。
「ふぃあ、フィアぁ……! シフィア、ねえ。どしたの? なんでそんな、泣くの……? ……んん」
 ウィッシュさま、と。なにかを促すようにアルサールが呼ぶより、はやく。ウィッシュはシフィアに両腕を伸ばし、ぎゅ、とその柔らかな体を抱いていた。『傍付き』は『花婿』の前で感情を乱さない。泣くことも怒ることもない。だから、『傍付き』を慰める、だなんてことを『花婿』は出来ないし、その発想すら持つことができないのだが。ウィッシュはシフィアを抱く腕にぎゅぅと力をこめたのち、涙をこぼす頬にてのひらを押し当てた。
「……かなしいの? くるしい? いたい? 俺のせいかな……。ごめんね、ふぃあ。シフィア。ごめんね。泣かせてごめんね。フィア、フィア……俺の『傍付き』。俺の……俺のシフィア」
「……って、呼んでくれるの……? ウィッシュ」
 ずっとずっと、苦しい想いさせたのに。かなしかったよね。さびしかったよね。いたかったよね、つらかったよね、さむかったよね、やだったよね。そんな場所に送り出してしまったのに。助けにもいけなかったのに。まだ『傍付き』って呼んでくれるの。俺の、って。そう言ってくれるの。たどたどしく問うシフィアに、ウィッシュはなにを問われているのか分からない、という表情でこくんと頷き、困った風に眉を寄せて首を傾げた。
「シフィアが、やじゃ、ないなら……」
「嫌じゃないよ! そんなことない、絶対ない! ……ないよ。嬉しい。嬉しい……ウィッシュ、嬉しいよ」
「……ほんとに?」
 雨のように。嵐の夜、窓に叩きつけられ硝子を伝い落ちて行く、冷たくなまぬるい水雫のように。ちからなく、よわく、とろとろと落ちて行くばかりの、言葉だった。目尻を指先で拭ったシフィアが、きょとん、と目を瞬かせる。ウィッシュ、とやわらかく響く声に、『花婿』は怯えるように視線を彷徨わせた。だって、と。迷宮に落とされたこどもの声で、ウィッシュが呟く。
「俺は、ちゃんと……しあわせになれなかったんだよ……?」
 シフィアがあんなにしてくれたのに。幸せを祈ってくれたのに。幸せになれるよ、と送り出してくれたのに。その願いをひとつも叶えることができなかった。それは裏切りだった。『傍付き』の献身に対する、注がれた親愛に対する、過ごした時間に対する、なによりの。裏切りだった。ひどいことだった。だってシフィアが教えてくれた幸福が、そこには確かにあった筈なのに。ウィッシュは失敗してしまったのだ。それは、取り返しのつかない間違いだった。けれども、ウィッシュにはどこで間違えてしまったのかすら分からない。迎えてくれた者たちに、はじめて顔を合わせた瞬間だったのだろうか。それとも挨拶をした時だったのだろうか。喉が渇いているだろう、と差し出された水を喉に通した、そのことがいけなかったのだろうか。それは嫌な薬の味がして、ウィッシュから意識と、自由と、幸福をぜんぶ奪い去って行った。
 観賞用のものとして息をするだけの日々に。しあわせなんてなかった。
「ウィッシュ」
 微笑んで。『傍付き』は囁く。
「それは、ウィッシュのせいじゃないよ。ウィッシュはなんにも、悪いことなんかしていない。ひとつも。……しあわせに。なろうとして……」
 くれたの、と。問う言葉は涙に揺れていた。まばたきで零れてしまいそうなそれを指先で丁寧に拭ってやりながら、ウィッシュは戸惑いがちにこくん、と頷いた。くしゃ、とシフィアの顔がゆがむ。ごめんね、と呟いてまた泣きだすその体を、ウィッシュは切ない気持ちで抱きしめた。混乱する。どうして謝るんだろう、と不思議に思う。よく分からなくなる。だってそれは謝られることなんかじゃなくて。シフィアにあんなに願われた、一番最後のお願い事を叶えられなかった、どうすることもできず憎しみだけでぐしゃぐしゃにしてしまった、ウィッシュが、謝って許しを請うことで。それは失望されてしまうことで。シフィアに対する裏切りで。『傍付き』が泣くなんてことはなにひとつ。
 ふぃあ、と困りきった声で、ウィッシュはシフィアの額に己のそれを重ね合わせた。ぼろぼろと涙をこぼす瞳を覗き込んで、ウィッシュも泣きたい気持ちで鼻をすすりあげる。ふぃあ、ふぃいあ。シフィア。俺の『傍付き』。ねえ、なんで泣いてるの。なんで怒らないの。なんで、しあわせになれなかった、て俺を責めないの。ごめんなさい。それとも俺が、ほんとうは、ちゃんとできてなかったの。『花婿』なのに、ちゃんと、しあわせになれるって、フィアが思って送り出してくれたんじゃなかったの。失敗してぐしゃぐしゃにして全部やになって壊して殺して駄目にしちゃったのに。それはきっとシフィアが、できるよ、って言ってくれたしあわせじゃなかったのに。しあわせを。そうなれなかったことを。どうして。なんで。怒らないの。俺に呆れちゃったからなの。俺のこともう好きじゃないの。
 それとも、ほんとは。しあわせを、おいてったのを。知ってたの。懺悔するウィッシュに、シフィアは涙を拭ってから首を傾げてみせた。
「おいてったの? ウィッシュ。どうして……どこに?」
「え。え、えっと……えっと、えっと……うぅ、と……」
「うん? ……うん、なぁに。ウィッシュ」
 困って。身をよじるウィッシュの耳元で、シャラリと鎖が揺れ動く。右耳にだけ付けられた古い飾りに、シフィアの手指がそっと触れた。慈しむように。柔らかなものに触れるように。するりと指先がそれを撫で下ろし、泣きそうな眼差しでシフィアは笑う。
「これ? ……左側だけ、お部屋にあったよね、ウィッシュ。持ってってくれたの……? ずっと、ずっと、持っててくれたの?」
「フィアが、くれたから。大事にしてたよ。大事に……してるよ」
「うん。ありがとう、ウィッシュ。大好きよ。だいすきよ……左側、あるよ。もってくるね。待ってて、すぐだよ」
 言うなり、ぱっと立ち上がり、駆けて行こうとする足元を風の手で絡め取る。体勢を崩した姿に腕を伸ばして抱き寄せて、ウィッシュは違うよ、と言葉を告げた。自然のものにはあり得ない空気の抵抗、風の流れに目を白黒させるシフィアを、どこにもいかないで、と願うようにぎゅっと抱きしめながら。ウィッシュは違う、とむずがる幼子の声で何度も何度も繰り返した。
「違うよ、フィア。それじゃない。それじゃないよ……違う。左側は、どうしても、どうしても隠して……持って行けなかったから。俺が、俺の、代わりに、フィアの傍にいてって思って、それで……! でも、違うんだ。違うんだよ、フィア。それじゃない。俺の、しあわせ、は、それじゃなくて」
「うん。……うん、うん。ウィッシュ。……ウィッシュ、大丈夫。聞いてるよ」
 聞こえてるよ。どんな言葉も。どんなに掠れてしまっても、歪んでしまっても。そのものが旋律のように響く『花婿』の、稀有な、歌声のようなうるわしい声は。シフィアの元から消えてしまっても、なにも変わることがなかった。数年の、迷宮に落とされた時を経てなお。変質から守られたことを、シフィアは祈るように思う。なにに、どんな感謝をささげればいいのか、分からないくらい。尊くて、愛しくて、幸せだと思う。
「聞こえてるよ……!」
 どんな声も。どんな意思も。今度こそ、ひとつだって、聞き逃さない。
「ゆっくりでいいよ。焦らないで、ウィッシュ。私は、どこへも行かないから。ね?」
「うん」
 ほ、と緩んだ息を吐き出して。お気に入りの人形を取られまい、と腕にぎゅうと抱く幼子のようにシフィアを引き寄せたまま。ウィッシュは言葉の通り、立ち上がりも逃れもしようとしないでいてくれる『傍付き』に、うっとりとした視線を向けて囁いた。
「フィアだよ。……シフィアが、俺のしあわせだったよ。ずっとずっと……今でも、フィアが、俺のしあわせなんだよ。ぎゅぅって……フィアが抱きしめてくれた腕の中が、俺は一番しあわせで、だから。そこに、全部、置いて行ったよ……」
 いつか。その腕で他の誰かを抱き、それをしあわせだと思うことも全部、分かっていて。知っていて。けれどそうせずにはいられなかった。世界から切り離され閉じ込められるぬくもりの中、一瞬の永遠。そのぬくもりをしあわせだと思った。シフィアの熱が。嫁ぎ先には持って行ける筈もないそれが、『花婿』たるウィッシュのしあわせだった。だから、それをぜんぶおいていったよ、とウィッシュは微笑む。ねえ、ねえ、といとけない幼子の声で、歌うように囁く。
「だから、しあわせだったよね……? ふぃあ、俺がいなくなっても、ちゃんとしあわせでいてくれたよね? 俺のしあわせが、全部、一緒にいたもん。フィアと、ずっと、ずーっと、一緒だったから……だから、ごめんね、知ってたんだよ。俺がしあわせになれないこと。しあわせが、行く先にないこと。でも、しあわせになろうと思ったから、失敗しちゃったんだと思う。あ、でもね、今はね、その、楽しいこともあるよ。だから平気なんだ」
 アンタねいい加減になさいよ幸せなのも楽しいのも一種類で完結して置き去りにできるものじゃないしそういうものじゃないしそもそもそこから間違ってるし、アンタちゃんと楽しくて声あげて笑ったりしあわせそうにほわほわごはん食べてたりするんだから気が付きなさいよ有限なんかじゃなくてそこらへん漂う空気と一緒で、気がつけばそれがしあわせだと思えるし持ち運びできるものじゃなくて巡り合うもので生み出すものでいっぱいあんだからいつまでもうじうじうじうじしてるんじゃないわよ監禁すんぞこら、と怒った同僚、エノーラの言葉を半分くらい思い出し記憶の彼方にしまいこみ直しながら、ウィッシュはくちびるを噛んで俯くシフィアに心配そうに目を瞬かせた。
 どしたの、と声をかけるより早く。泣きそうな顔で微笑んだシフィアが身じろぎをして、ウィッシュの腕の中でほんのわずか距離をとる。くっついていた熱が離れて冷えた空気が肌を撫でた。ウィッシュがそれに、気持ちを落ち込ませるより早く。浮かんだ涙を指先で拭い去り、シフィアが満面の笑みで両腕を広げた。
「ウィッシュ! おいで……!」
 記憶の中の、いつかのように。変わらない響きで『傍付き』が『花婿』を呼ぶ。思わず、なにも考えずに体を寄せた『花婿』をぎゅぅ、と抱き締めて。シフィアは笑いだしそうな声で、ウィッシュ、と囁いた。
「しあわせ?」
「……うん」
「よかった。……よかった、ウィッシュ。しあわせなんだね。ウィッシュ、ウィッシュ……私の『花婿』、私の最愛の……私の宝石。ウィッシュ、ウィッシュ……」
 ぎゅう、と強く抱きしめられた腕の中で。ウィッシュは幸福に彩られた泣き声で告げられる。
「おかえりなさい……!」
 九年前に。嫁いで行く『花婿』に。最後に、かけた言葉の。
『……いってらっしゃい』
 それが、対だった。途絶える筈の。もう二度と聞けない筈の。ウィッシュはこくん、と頷いてシフィアをつよく抱きかえした。ただいま、と囁く。何度も、何度も。ただいま、シフィア。ただいま、俺のしあわせ。ただいま、俺の。『傍付き』、シフィア。歌うような声で、きよらかな響きで。何度も、何度も、繰り返した。



 シフィアがいれたものですからね、と囁き、なまぬるい香草茶を給仕するラギの手指は、白い絹の手袋で作られていた。恐らくは『お屋敷』に常駐する手芸部門の者たちが、まあ若様ったらまあまあ若様ったらぁっ、と微笑ましく思いながら手早く仕上げてくれたものに違いない。それはラギの手にしっくり合っていたが、どこか物慣れない雰囲気も同時に漂わせている。ふかふかのソファに身を沈めながら陶杯を手に取り、飲み口に唇をくっつけながら、ウィッシュは呆れた気持ちで俺さぁ、と言った。
「そういう、ラギの、レロクのちっちゃいワガママを一個も聞き逃さないで全部きいちゃうトコとか、昔からちょっとすごいなぁって思ってる」
「お褒めにあずかり光栄です、ウィッシュさま」
「ラギ! こらっ、らぎいいい! 俺の許可なく誰かに褒められて喜ぶでないわウィッシュおまえもだ! かってにほめるなばぁかばぁああか!」
 簡素な椅子の前にシフィアとアルサールを揃って正座させながら説教していたレロクから、理不尽そのものの叱責が飛んでくる。それにラギはうっとりと目を細め、満ちた吐息でレロク、と囁いた。その理不尽でちょっとおばかっぽい所がもう本当にたまらないかわいい、と言わんばかりの横顔を、香草茶をずずず、とすすって飲みながら首を傾げて。ウィッシュはぱちぱち瞬きをし、ああああもおおおお、と椅子の上でじたじたと暴れているレロクに目を向けた。あのじたじたが、単純に体の大きさとしてもうすこしちんまりしていればちたぱた、くらいになるので。ソキとレロクってほぉんとうにそっくりだよな言うと怒られるから言わないけど、と思い、ウィッシュはのんびりと口を開いた。
「レロクが俺のフィアとアルを返してくれないからいけないんじゃん?」
「ぐだぐだ言うでないわ! お説教中だ! 大人しく待っておれ!」
「……俺は、レロクに、シフィアとアルサールを怒っても良いよ? とか言ってないのにさぁ……なー、ラギ?」
 そうだよな、レロクばっかりずるいよな、と唇を尖らせるウィッシュに、ラギは微笑みながら手を伸ばしてくれた。なでなでなで、と髪を愛でる手に拗ねながら頭をすりつけていると、あああぁああっ、とレロクが声をあげる。
「らぎいいいい! おまえっ! おまえはああぁあああっ」
「……ラギ? ちょっと今すぐその手を離してくれる? ウィッシュはなでなでがだいすきなんだよ? だから私が! 私がするんだからわたしがするんだからあぁあラギはやったらいけないんだよ……! そうでしょ? そうだよね、アルサール!」
「この惨事を完璧に理解していてなお実行するラギさんに戦慄しか覚えないから俺を巻き込むな話しかけるなお願いだから……! ラギさん笑ってないで! ちょまっ、ほんと笑ってないで! 話を聞いてください笑ってないで……!」
 ウィッシュの傍らに蹲るようにして口元に手を押し当て、肩を震わせるラギは、相当なにかが面白かったのだろう。時折楽しそうにむせながら笑っているのをちらりと眺め、ウィッシュはのんびりと息を吐きだした。ソキはどうかは知らないが、レロクと同い年の『花婿』たちの間で、それは常識に近い事実のひとつだった。レロクのラギは笑いの沸点が超低い。ついでに愉快犯である。その言葉の意味や概念を『お屋敷』にいる時に理解することはなかったが、一端外に出たからこそ、ウィッシュは正確にそれを捕らえていた。ラギはわりと愉快犯である。
 はー、と息を吐いて陶杯を指先で包み、ウィッシュはとりあえずお説教を終わらせることにしたらしいレロクの、八つ当たりに満ちたお怒りの声を聞き流す。ぼんやりと室内に視線を巡らせると、午後に差し掛かる陽光が甘く室内を輝かせていた。『お屋敷』はどこの部屋でも、満ちる光は優しくて濾されている。ほ、と息を吐きながら、ウィッシュはまたもうひとくち、なまぬるい香草茶を口に含んで、飲み込んだ。反射的な吐き気がしない、わけではないのだけれど。飲み込めることが不思議だった。舌先はまだその味を覚えている。ふふ、と笑ってウィッシュは目を伏せた。
 あの迷宮はまだこびりついて消えないけれど。この楽園からそれは遠く。ようやく、長い、ながい旅を終えた気持ちで、ウィッシュは息を吸い込んだ。迷宮は楽園の彼方にあり。ウィッシュはもうそこからいなくなっていて。もう二度と、永遠に。そこへ閉じ込められてしまうことはなく。閉ざされてしまうことは、ないのだ。

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