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 ソキの! おしえて? リボンちゃん。

 ひさしぶりに『教育』をロゼアがしてくれると聞いたので、ソキはその日の朝からとっても楽しみにしていたのである。なんでも担当教員であるウィッシュが二週間も休暇中であるので、その間にあの状態であれ以上放置しておくのは問題である、と寮長が教員や、星降にある『学園』の運営管理処理部門の意見をあげておいたらしい。その回答として下されたのが、元ソキの『教育』担当であるロゼアに対する指示だった。寮長に意見や指示を仰ぎながら一定の状態にまでソキを戻すように、というのがその大まかな内容である。なににせよ、ソキは寮長もたまには良いことをするです、とちからいっぱいうきうきしながら思っていた。つまり、とてもとても楽しみにしていたのである。だからこそ。
 これはあんまりです、と衝撃にぷるぷる身を震わせながら、ソキは『ソキのはつおんれんしゅうちょう』と書かれた薄い教本と、それを差し出す手と、ロゼアの顔を何度も、何度もきょときょとと見比べて瞬きをした。ソキはこれがとてもとてもとーってもだいきらいなのである。
「……んと」
「ソキ? 今日はこれ。これを音読して、頑張ろうな?」
「んと、んと、んとぉ……。ん、んん……あ! これはぁ、ロゼアちゃんに、あげます!」
 ぺっかーっ、と輝く笑みで、そうですそれが一番ですっ、とばかり頷くソキに、ロゼアは僅かに眉を寄せて駄目だろ、と囁きかけた。朝の、授業へ行く者たちでざわめく談話室の隅。定位置であるソファの前のことである。ソキは降ろされたソファでやんやん、と身をよじり、差し出されたままの教本をぐいーっと手で押しやってくちびるを尖らせた。なにが嫌って、これをやるとお口とあごがとてもとてもとっても疲れるのである。くたくたになるのである。ぷいっとそっぽを向いたソキの前に、片膝をついて微笑んだまま、ロゼアはソキ、と囁きかけた。ソキ、ソキ。こっちを向いて。ソキ、ほら。ん、良いこ。いいこだな、ソキ。あまくやんわりと囁きかけ、伸びたロゼアの片手がソキの頬をするすると撫でた。
「じゃあ、はい」
 たいへんなことになったです、とソキはロゼアが諦めずに差し出す教本をふるふると涙目で睨み、ぷーっと頬をふくらませた。前言撤回である。こうなったのもきっと全部寮長のせいであるにちがいない。本当に余計なことばかりする。ソキ、と促すロゼアに鼻をすすりながら、ソキは仕方なく仕方なく、教本を手にとった。それをそのまま、お向かいでハラハラと見守っていたナリアンへと差し出す。
「じゃあ、これはナリアンくんにあげます」
「……ソキ?」
「ふやぁんふやぁあん……! メーシャくんはぁ……? じゃあ、これはメーシャくんにあげます」
 はい、と差し出されて、メーシャはうるわしく清らかな笑みでもって、さらりと首を傾げてみせた。
「ソキ。頑張ってね」
『そうだよ、ソキちゃん。頑張らないと駄目だよ。ね?』
「ソキ? あげようとしたら駄目だろ」
 三人に順番に応援されて怒られて、ソキはんもおおおおっ、とソファの上でちたぱた抵抗した。ロゼアが『教育』をしてくれると聞いていたので、ソキはそれはそれは楽しみにして、朝から髪もふあふあさらさらつやつやになるまで梳かしてもらったし、服もとびきり可愛いのにしてもらったし、昨夜ちゃんとおふろでお手入れをして肌もやわやわすべすべいい匂いになっていて、さらにはしっかり眠って朝ごはんもめいっぱい頑張ったのに。これはあんまりにあんまりである。ソキは発音練習が極めて好きではないのだった。
「……ろぜあちゃぁん」
「うん? なぁに、ソキ」
 一日の予定をナリアンとメーシャと相談しながら、じゃあこの時間は俺が様子を見に来るよ、助かる、などと言葉を交わしていたロゼアが、柔らかな微笑みでソキを振りかえる。教本を膝の上に置き、くすんくすん、と鼻をすすりながらソキはロゼアの腕に両手を伸ばした。ん、んっ、とひっぱってじゃれつきながら、ソキはこれをどしてもやらなきゃだめなんですか、と問いかける。苦笑して、ロゼアがソキをふわ、と抱きあげた。ソファに腰かけたロゼアの膝上に、いつものように横向きに降ろされる。ぽん、ぽん、と背を抱き寄せ撫でる手に、ソキは心から安堵した気持ちで、はふ、と満ちた息を吐きだした。肩辺りに頬をぺと、と付けて甘えていると、ロゼアの指が髪をさらさらと撫でて行く。
 待てどくらせど、ソキが嫌なら今日は辞めにしような、と言ってくれることはなく。ソキはぷぅっと頬をふくらませて唇を尖らせ、ロゼアの肩に額をぐしぐし擦り付けた。
「ソキはとってもたのしみにしてたです……。いつもみたいなおべんきょやにゃうやううんにゃうやぁあう……!」
「……ちなみにロゼア? 後半は今なんて言ってたの?」
「ん? いつもみたいなお勉強じゃないなんて思わなかったです、嫌です、って」
 ソキはすっかり拗ねているらしい。ロゼアにぐりぐり体や額をこすりつけては、ふゃんふにゃんと声をあげるのを、メーシャは授業へ行く準備を整えつつ、ほのぼのと見守った。俺の妹が今日も最強に可愛い知ってた、とソファにくず折れているナリアンの肩をぽんぽん、と叩きつつ、メーシャはううん、と微苦笑を浮かべる。
「ロゼアはソキの翻訳一級だから分かるけど、俺にはちょっと分からないことが多いかな……ソキが俺とおはなしする時は、ちゃんと頑張ってくれてるの知ってるよ。でもね、皆とそういう風にしなきゃだめだよ、ソキ。ロゼアが分かるからって甘えてたらいけないよ。ね?」
「そきあまえてなぁあいですうう! そき、ちゃぁんとしてるううう!」
 ふにゃあぁああっ、と機嫌を損ねた声でロゼアに抱き寄せられつつ、その膝の上でちたぱたちたぱたするソキに、メーシャは根気よく頷いた。教本を両腕に抱えて立ち上がり、ソキの前まで歩み寄って、その顔をひょいと覗き込む。
「じゃあ、発音練習できるよね? ソキがちゃんと頑張ったら、ロゼアも嬉しいと思うよ」
「がんばぁなと、ロゼアちゃん、ソキをきらいになる……? そんなのやです……ソキは、ロゼアちゃんの、うれしい。をするです」
「ロゼアがソキを嫌いになるって。俺にはちょっと思いつかないけど」
 ふふ、と微笑んで首を傾げて。メーシャはぎゅぅと拳を握って決意するソキの頭を、ぽんぽん、と手で撫でてくれた。
「きっと発音練習を頑張ると、ロゼアはソキをもっと好きになると思うな」
「きゃぁあ……! ソキ、ソキはロゼアちゃんの! ろぜあちゃんの! すきすきになるうううぅ……!」
 あの駄保護者の中でメーシャが唯一の希望だな、という寮長の視線におっとりと微笑みかけ、メーシャはじゃあ授業に行ってくるね、と立ちなおした。すっかり機嫌のよくなったソキが、ロゼアの膝の上からきゃっきゃとメーシャくんいってらっしゃぁーいですーっ、と声をかけるのにぱたぱたと手を振り、占星術師は穏やかな足取りで談話室を立ち去って行く。ロゼアも行ってらっしゃい、と声をかけてその背を見送った。数秒後。ああぁああ俺も行かなきゃっ、とソファから跳ね起きたナリアンが、片腕に教本をさらいあげ、ロゼアとソキを見る。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい、ナリアン。またあとで」
「なりあんくん、いってらっしゃぁー、ですぅー!」
 俺の妹の発声がすごくちっちゃいこみたいでかわいい、とよろけるナリアンに、通りがかった寮長がだからそれが駄目だって言ってんだろ目を覚ませ、と言いながら脛を蹴って行く。痛ぁっ、と呻き、ナリアンは報復を誓った眼差しで寮長を睨みつけた。が、当人はすでに走って談話室から姿を消そうとしている所である。あああああもおおおおっ、と声をあげながら走り出したナリアンを見送り、ロゼアは微笑んでりょうちょがけったっ、そきはみちゃったですううういじわるさんですううう、と騒ぐソキの髪を幾度も撫でてやった。あの速度で授業棟まで走れば、ナリアンが途中で転んだり多少体力が切れて息切れしても、開始に間に合うだろう。寮長の親切は迷惑かつ分かりにくい。
 もおおおおりょうちょほんとにもおおおっ、と怒っているソキを宥めて、ロゼアははい、とそのちいさい手に教本を持ち直させた。『ソキのはつおんれんしゅうちょう』の文字をじぃっと見つめたあと、ソキは眉をきれいな八の字にくにゃりとさせ、くちびるを尖らせてロゼアに後頭部をすり付ける。ぐりぐり、とさせて甘えながら、ソキの視線が逆さまにロゼアを見上げた。
「ろぜあちゃん……ロゼアちゃんにあげたいです。め?」
「だ・ぁ・め。だめって言ったろ?」
「……ろぜあちゃんが、ソキに、だめ。ていったぁ……。ソキはしょうがないからがんばることにします……」
 ようやくそこで諦めきったのだろう。ほよほよと息を吐きだし、ひとしきりガッカリしたのち、ソキはよし、と手をきゅっと握り締めた。教本を持ち直し、んしょんしょ、と膝上で座りの良いようにもぞもぞされるのを、ロゼアは微笑んで見守った。位置を決めたのだろう。ぺとん、と体をくっつけて寄りかかってくるソキに、ロゼアは柔らかな声で囁きかけた。
「いいこだな、ソキ。じゃ、最初からしような」
「ソキはガッツと根性で頑張ります! んっとぉ……『むかし、むかしの、おはなしです。このせかいが、いつつのかけらに、なるまえのこと。たくさんの、なをもつ、くにぐにの、なかに。さばくのくには、ありました』」
 ちらっ、とソキが視線をあげて確認してくるのに、ロゼアは微笑んで頷いた。
「うん。読めてるよ。……もうちょっと頑張れる?」
「はい、ソキは頑張るです。んと、んと……『さばくの……国は、まずしく。ゆたかであるのは、砂ばかり。陽の光があるばかり。砂漠の民は、水を求め、住む場所を求めて国中を歩きまわりました。けれども水も、長く住める場所も、中々見つかりません。砂嵐が建物を覆い、水は枯れ、陽は厳しく……彼らがすっかり歩き疲れてしまった時のことでした。地を駆ける獣と、空を飛ぶ獣が現れ、こう仰いました。豊かな水と、穏やかな地に私たちは住む。そこをお前たちに譲ろう。ただし、お前たちの連れるそのうつくしい娘と、若者を、私たちに捧げるのであれば』……うゆ。ソキは頑張ってるです。ソキかわいい? ほめて?」
「かわいい。ソキかわいい。……できてるよ、頑張ってるな。偉いな、ソキ。偉いからぎゅってしような」
 授業時間にまだ余裕があって談話室にいた少女たちから、あのソキちゃんのなんの脈絡もなくかわいいと褒めての要求をぶちこんでくる所はほんとすごいと思うちょっと見習いたい恥ずかしくてできる気がしないけど、という視線が向けられる。ソキはちっとも気にした様子がなく、えへへんもっと褒めても良いんですよぉ、とふんぞり返りながら、ロゼアの膝上で小休止のお茶を飲ませてもらっていた。ソキのおてては教本でふさがっていますです、たいへんですおちゃがのめないです、のませてくださいです、とねだった結果である。
 んく、んく、とやたら幸せそうにお茶を飲み、ソキはすりすりすり、とロゼアの胸に頬をすりつけた。



 妖精が『学園』を訪れたのは、その日の昼過ぎのことである。特に用事があった訳ではないがソキの顔が見たくなったなんてそんなことはない。決して。強いて言うなら先日訪れた時にロゼアを呪うのを邪魔されたので、そのことに対するお説教をしなければなるまい、と思っていたくらいである。のろっちゃだぁめえええっ、とやたらふあほわしきった発音で、それはもうぷりっぷりに怒ったソキが珍しすぎて、なんなのよアンタやればできるんじゃないのほらもっと怒ってみなさいよほーらほーらっ、と髪の毛を引っ張っていたら、うっかりロゼアを呪うのを忘れてしまったのである。ちなみにすぐソキには、やぁあああんっ、とぐずられた。あのどんくさい相手はうまく怒りを持続させておくこともできないらしい。それにしても珍しいものを見てしまった。今度からソキを怒らせたくなったらロゼアを呪おう、と妖精は決意していた。
 まあ、それはそれとして、ロゼアを一回や二回、三回、四回、五回くらいは呪わねばなるまい、と妖精は思っていたのだが。談話室目指して飛びながら、それとも七回くらいかしら、と指折り数える妖精を、すっかり諦めきった顔つきでシディが眺めやる。
『リボンさん……その回数は、ちなみにどういった基準で……?』
『基準? アタシがそうしたいと思ったその時の気分だけどアンタなにか文句でもあるっていうの?』
『……いいですか? いいですかリボンさん……? ロゼアは、ロゼアはですね……? 今日の空は晴れ、とか。花の蜜がおいしい、とか。鉱石が光を弾いてうつくしい、とか。今日の風の吹き具合が飛ぶのに最適、とか。そういうのと同じ感じで、よしロゼア呪おう、と思っていいものではないんですよ……? ロゼアは、魔術師。そのたまご。僕たち魔力からうまれた妖精族の、もっとも近しい友にして、同朋。盟友で、隣人たる存在。世界分割の功労者、その一員たる存在なんです』
 談話室の扉の前でぴたりと静止し、妖精は不満げな表情で腕組みをした。
『シディ。アタシのやることに文句でもあるっていうの? そんなこと言うならわざわざ、説明してあげたっていいけど。いい? アイツは! ロゼアは! ほっとくとすぐソキを甘やかすのよ……! なんでたかだか二ヶ月だか三ヶ月だかで! アタシと旅した時より歩くのがどへたくそになってんだ絶対にソキがだっこぉ……ろぜあちゃん、だっこですよ、だっこ、だっこぉ……とかなんとか! 甘えてねえねえしたのをぜんぶ聞きいれてだっこだのなんだのしてたからに決まってんだろうがああああああロゼアあのヤロウ!』
『甘える方にも問題があるとは思わないんですか……?』
 さっ、と的確に距離を取って問いかけたシディに、妖精はこの上もなく品のない所作で舌打ちをしたのち、長く伸ばされたその直刃のような髪を、手でかきあげながら言い切った。
『いいこと? ソキは甘えないと弱るのよ?』
『え、ええぇええ……えっ、ええぇえええぇええええええ……?』
『まったく! ロゼアあのヤロウ! ソキがぴいぴい甘えてくるのを聞き入れるのは二割でいいっていうのよ二割で! 適当に頭でも撫でときゃ落ち着くにきまってんだから! だっこだって抱きあげて撫でてぎゅってして、はいおわりー、くらいにしときゃいいのよずっとだっこしてそこらうろつきまわってんじゃないのよ歩かせればいいじゃないのよ手を繋げ手を! ああああああああああああロゼアあのやろおおおおおおおおおっ!』
 あのね、あのね、りぼんちゃあのね。おやすみのあいだね、ろぜあちゃんずぅっと、ずぅっとですよ、ソキをぎゅぅってだっこしてくれてね、ソキそれですごくうれしくてね、それでね、しあわせでね、と。先日、ぐずった後に落ち着いたソキが、聞き取りにくくひたすらあまい、ふんわほんわしきった声でてれてれしながら語った言葉を思い出し、妖精は再びロゼアあのやろおおおおっ、と叫んだ。談話室は幸か不幸か、殆ど人影がない。妖精の怒りを聞きとめる者はなかった。昼食後の、穏やかな空気と午後の授業へ向かう慌ただしさの交錯すら、ひと段落したあとなのだろう。まどろむ陽光が室内を包み込み、ある者は次の授業に向けて復習を、ある者は課題に取り組んで眉を寄せている。
 その空間に我が物顔で侵入を果たし、妖精は一応室内を見回したあと、先日ソキを発見した談話室の隅へ向かった。なんでも入学式当初からの定位置で、談話室にいる時はだいたいそこでくつろいでいるらしい。果たして、今日もソキはそこにいた。その姿を妖精が認めた瞬間、傍らでシディがああああああと呻いて頭を抱えるのが見えたが、反応してやる気にはならない。ふ、と妖精はやさしい微笑みを浮かべた。ぱたり、ぱたり、ゆっくりと二枚羽根を動かしながら高度を下げつつ、ソキの姿を再度確認する。ソキは三人がけのソファにひとりで寝転んでいた。その腕には見慣れたアスルが抱かれているのがすこしだけ見える。やたらとふぁんしーなしろうさぎのぬいぐるみっぽいものもソファの右端にふたつ、並べて置かれているのが可愛らしすぎて忌々しい。
 ぴす、ぴす、ぷぅ、ぷにゅ、すぴ、すぴー、と気が抜けすぎて触ったら壊れて歪む印象しかふりまかない、あまあまでふにゃふにゃの寝息が響いていた。もぞもぞもぞ、と妖精の見る先でソキがおまんじゅうのように丸くなる。ふ、と妖精はさらに笑みを深くした。体勢が変わったので、眠るソキを包む布がよく、よぉく、よおおおく見えた為である。ソキがまるまって眠っているのは毛布ではない。黒く、ぶあつい布地で出来た一着のローブだ。通称、魔術師のローブと呼ばれるそれは『学園』の支給品で、唯一の制服のようなものである。もぞもぞもぞ、と動いたソキが、くしくしくしっ、とローブに頬をこすりつけて、ふにゃあぁあん、と鳴き声をあげた。
 もうこの上なく心底幸せそうで嬉しそうであまえてあまえてあまえてあまえきった鳴き声である。それだけで、そのローブの持ち主が誰なのか妖精には分かった。『学園』の者も、誰もが理解しているに違いない。この時期は防寒具を兼ねるそれを奪われてロゼアが風邪をひき気管支炎とか肺炎とかになればいいのになればいいのにむしろアイツはなるべきだわほんとにっ、と心から思い。妖精は眠っている相手を起こすのはいかがなものかと思われます、と視線を反らして控えめに囁いてくるシディの言葉を無視し、すとん、とソキの肩の上に降りたった。眠っていてもなにかを感じたのだろう。ちょっと眉を寄せて、うゆ、と嫌そうな声をあげられたので、妖精はぶちっとなにかが切れる音を聞いた。
『……ソキいいいいいいっ!』
「きゃあぁあああああ! ……ぴゃっ、ぴゃああああああ! リボンちゃんですうううううりぼんちゃが今日も不機嫌さんですううううやあああああどうしたですかどうしたですか誰がリボンちゃんをいじめたですか……! そきが、そきがめってしてきてあげるぅ!」
『お前のせいに決まってんだろおおおおおっ!』
 やぁんやぁなんでですかぁ、と眠たげにもたもたと身をよじって体を起こす様をいらいらしながら見つめ、妖精はソキの髪をひと房掴んだ。もちろん、引っ張って折檻する為である。けれども手に握りこんだ髪はするんっ、と妖精の指をすり抜けて行ってしまった。あまやかな花の香りが漂う。もう一度同じようにしても、結果は変わらなかった。極上の絹糸にすら勝る質感である。えへん、とソキがまだ眠そうに胸を張った。
「そきぃ、きょうのぉ、ごぜんちゅう。頑張ったですのでぇ、ろぜあちゃがお手入れ! してくれたんですよぉ? 髪の毛さらんさらんで、つやつやで、いいにおいなんですえへへん! すごいでしょすごいでしょぉ? ほめて?」
『……そうね。言いたいことはありすぎて眩暈がするけど、そうね……ソキ?』
「う? はぁーい! なんですか?」
 きゃっきゃっ、と片手をあげて返事をするソキに、妖精の微笑みが深まった。ああああぁ、あああぁああ、と胃が痛くて仕方ない呻きを発しながらシディが辺りを右を左に彷徨って視線を何処へと投げかけている。ロゼアを探しているようだった。いるもんですか、と妖精は沸騰寸前の怒りを抑えつけながらソキの頬を手で撫でてやる。妖精の指先をしびれさせる程の滑らかさ。しっとりとした瑞々しい肌に、荒れのひとつも見つけられない。きゅうぅ、と喉を鳴らして嬉しそうにするソキに、妖精はなるべく優しく響くように問いかけてやった。
『アンタのその、頑張ったってなに? なんでロゼアのヤロウがお手入れとかしてくれることになるの?』
「んっとぉ、あのね、あのね? ソキが午前中、いーっぱい、がんばたですからぁ、ちょっとつかれちゃたですけどぉ。ロゼアちゃんが、よく頑張ったな、えらいな、ソキかわい。えらいな、かわいいな、ていっぱい褒めてくれたですうううやんやん! ソキ、ロゼアちゃんに褒めてもらうのだぁいすきです。んと、んと、それで、それでね? ロゼアちゃんが、ソキは頑張って偉いですから、そきのして欲しいおていれしよな? て言ってくれたです。だからぁ、そきは、かみのけしてして? っていったですううきゃあぁんそきは! いま! ろぜあちゃんの! ろぜあちゃんの! すきすきなんですうううきゃぁあんやんやんっ」
 幸せいっぱいに頬をうっすら赤く染め、胸元に手を押し当てて恥ずかしげに身をよじるソキに、妖精はへー、ふーん、そうなのー、と頷いてやった。この、微笑ましいくらい、相変わらずちっとも質問に対する答えに辿りついてない感がいっそ本当にすごいと感心したくなるが、それでもまだ説明できている方である。恐らく、ロゼアの自慢が含まれるからだろう。それがなければ斜め上のことしか言わなかったに違いない。というか頑張って偉いからお手入れってなんだなんでそこに繋がるんだあのヤロウ、と呻きながら、妖精は根気強く、それでソキはなにを頑張ったの、ともう一度問いかけてやった。目をぱちくり瞬かせ、ソキはあどけなく首を傾げてみせる。
「ソキは、ごぜんちゅに、たくさん、がんばたです」
『そうなの……。で? なにを?』
「えへへん! はつおんれんしゅ、ですぅー!」
 これをね、いっしょけんめ、読んだですよぉ、といそいそと妖精に見せびらかしてくる本の表紙には、確かにソキが言った通りの題が書かれていた。へー、ふーん、そうなの、と頷き、妖精は微笑んでソキの頬を足蹴にした。ぐーりぐーり頬を踏みにじりながら、顔を近づけて囁く。
『発音練習したのに、なぁああんだってそんなにふわふわふわふわ話してるのかしらねええええ……?』
「やぁああああ! やぁあああああああ! ふみふみやんやん! いけないんですよおおおお……これはひどいことですっ! ソキはリボンちゃんにとてもとてもひどいことをされてるですううううぴゃあぁああああ! ぴゃぁあああああ! ろぜあちゃぁあああああんっ!」
『なんの成果も出てないだろうがあぁああああっ!』
 ちぁうですちああぁあですううううソキがんばたからおくちがつかれちゃたですうううっ、とぴいぴい鳴き声をあげるソキに、お前どんだけ貧弱だーっ、と妖精は絶叫した。シディは微笑んだまま辺りを漂っているだけで、特にソキの味方もしてくれなければ、妖精に与するつもりもないらしかった。僕はロゼアの教育方針や評価採点基準について一度話し合いの場を設けるべきなのかも知れません、と呟いたシディの言葉を敏感に聞きとめ、業火のような視線で振り返った妖精がその時はアタシも呼べというかアタシのいない時にはやるな、と言い放つ。シディは控えめな微笑みで、素直な頷きを見せていた。ふやああぁっ、とソキがちたぱたちたぱたソファの上でむずがる。
「たいへんたいへんですううう! ろぜあちゃをいじめようとしてるううううう!」
『イジメじゃないわよ教育的指導よ間違えるんじゃないわよーっ!』
「ロゼアちゃんをいじめちゃめええぇえっ! めですううううだめですううう、ソキは駄目って言ってるですうぅっ!」
 アンタそんなトコの発音だけやたらきっぱりハッキリするんじゃないわよおおおっ、と妖精の怒号が談話室の空気をびりびりと揺らす。生徒たちはうんまあそうですよね、その通りではありますよね、と言いたげな視線で目を伏せていた。怒れる妖精、この世の神秘、魔術師の友にして同朋にして操る魔力に最も近しい存在である彼らに、あえて挑みかかる魔術師は基本的にいない。基本的には。ソキはまだ頬をうりうり踏みにじってくる妖精に、んもおおおっ、と涙目でぷんぷん怒りながら身をよじった。
「りぼんちゃ! ろぜあちゃんをいじめたら、いじめたら……! そき、りぼんちゃを、ぱちん! てするです!」
『は? やってみなさいよ』
 やぁあんやぁん、と頬からのけようと伸びてくる指先を蹴飛ばしながら、妖精はぱっと髪をかきあげた。
『あとやっぱりぱちんの認識は折檻かテメェ』
「あっ! ……ん、ん。んぅ……? ……ふにゃーにゃ?」
『鳴いてごまかそうとすんなああああぁあああっ!』
 ぴゃあああああリボンちゃんがソキのほっぺを蹴ったあああぁっ、とあがる泣き声にも、妖精は一切ひるまなかった。

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