前へ / 戻る / 次へ

 アンタ自分が可愛いって分かってるからってすぐそうやってえええええそれでなんでも許されると思ってんじゃないわよちょっとっ、と妖精は脚に力をこめてうりうりとソキの頬を踏んでいた。羽根に力をこめてもいるので、混乱しきったソキが半泣き声でいくら妖精を退かそうとしてもちっともうまく行かないままだ。あんまり懸命になっているので、僅かに眉を寄せたシディがぱっと身をひるがえし、ロゼアを探しに行ったのにすらソキは気がつかなかった。ごく幸いなことに、妖精もシディの動きには気がつかないままである。ソキはうううぅっ、と鼻をすすってたいへんなことです、と訴えた。
「りぼんちゃんやんやん! やんやんですよぉっ、ソキのほっぺが歪んじゃうですこれは大変なことですソキが! 可愛くなくなっちゃうです! ロゼアちゃんのすきすきじゃなくなっちゃうぅ!」
『なれ!』
「う? ……ぴゃっ、ぴゃああああああああびゃああああああああいやぁああああああいあぁあああああっ!」
 ロゼアの好きじゃなくなる、ということで狂乱状態に陥ったソキの騒ぎ方に、妖精がぎょっとした様子でようやっと頬から脚を離す。けれどもソキはそれに気がつかない様子で、けふこふげほっ、と咳き込みながらぱたぱたと暴れていた。あらこれどうしたらいいのかしら、とりあえず珍しいから観察しよう、とのんびり腕組みをして間近で見つめる妖精は、これもしかしてソキ咳き込み過ぎて熱を出すんじゃないのかしら、という一点の不安にのみ眉を寄せていた。げふけふ、ごほっ、と咳き込む喉は限界を訴えかけているのに、混乱しきったソキはやですやですと騒ぐのをやめようとしない。妖精が、コイツほんとに馬鹿だな知ってた、と深く頷き、いい加減に落ち着きなさい、と声をかけようとした瞬間だった。濃密な風の魔力が、ソキを中心に渦を巻く。
 それは鳥籠のようだった。揺り籠や温室の柵のようでもあった。しなやかで力強い曲線と直線が複雑に織りこまれ、魔力を視認できる妖精にしてみれば、それは密な織物のようにも思われる。それは閉じ込めながら、守り抱く結界。ぎょっとして僅かに距離をとる妖精の眼前から、伸びてきた腕がソキの体をかっさらう。ふぎゃああぁんやぁあああっ、と尾を踏まれた猫のような声で鳴き騒ぎながら、ソキが腕の主に一度ぎゅぅと抱きつき、そのまま手でぺっちぺっちと背を叩きはじめる。
「ナリアンくんですうううううろぜあちゃは? ろぜあちゃああああああ!」
「ごめんすぐに降ろす! すぐ降ろすから……!」
「そきをだっこしちゃだめえぇええ、え、えっ……えく、ふえ……えぇん……」
 ついに半泣きから八割泣き、くらいになったソキをうわあぁああああっ、と叫びながらソファにおろして、ナリアンは展開した魔力の檻を解かないまま、妖精に向かって眼差しを向けた。
『リボンさん……ソキちゃんにひどいことをしないでください』
『よし次はお前だどこの骨を折りたいか言ってみろ』
「……え?」
 思わず呆けた声を出したナリアンの前で、苛々しきった様子で妖精が腕を組み、羽根をぱたぱた震わせて言い放つ。
『言っておくけどニーアがいないから今日のアタシにアンタに対する手加減なんていう気持ちはこれっぽっちもないのよ? 分かる? 分からなくても今から理解なさい? 分かっていたら反省してアタシに呪われなさい?』
『……ええと?』
『いい機会だからお前ら全員アタシが再教育してやるわ……!』
 ろぜあちゃ、ろぜあちゃがこないですたいへんですロゼアちゃんはソキのことをもうきらいになったのかもしれませんそきはもうげんきなくなっちゃうです、となんだかしにそうな声を出してソファにへしょんと伏せているソキを睨み、ナリアンに微笑んで、妖精はすわった目でそう宣言した。



 抱きあげる腕は力強く、また穏やかだった。ロゼアにそうされると、時々ソキは己に体重がある、ということが分からなくなってしまう。なんでもない軽いもののようにソファから浮かび上がって、ロゼアの体温にくっつけられる。うううぅ、と呻きながらぐずぐず鼻をすすり、ソキは目を閉じてロゼアの肩に頬をすりつけた。強く押しつけて、ぎゅっと目を閉じる。ん、と不思議そうにあまく笑う声が肌に触れて、指で髪が撫ぜられる。ぽん、ぽん、とすこし早いソキの鼓動に合わせて、ロゼアのてのひらは背に触れて行く。ソキ、ソキ。囁きながら、ロゼアの手が頬、首筋、額に触れ、そこへ落ちた髪を指が耳に駆けていく。赤くあったかくなった耳を包み込む手に。世界の音と、なにもかもが遠くなった。
 包まれている。守られている。鳥籠の幸福感でいっぱいになる。う、うぅ、とぐずぐず鼻を鳴らすソキの頭がほんのわずか転がされて、額がこつりと重ねられた。ふわり、穏やかな空気の流れとどこか遠くのバネが鳴る音で、ソキはロゼアがソファに座ったことを感じた。けれどもそれだけだ。それまでソキが伏せていた場所に、体が離されてしまうことはなく。冷たかった布にも、じわりじわりと体温が染み込んで行く。ソキが触れた所から、離れていて冷えたロゼアの服が温まって行く。撫でられた場所から、ソキが熱を灯して行くのと同じように。ひとつになる。熱も重みも鼓動も匂いも。ぜんぶ。ひとつになる。
 大きく息を吸い込んで、目を閉じたまま、ソキはそれを泣きそうな震えで吐きだした。ひとつならいいのに。ひとつになれればいいのに。それが叶わないならせめて、ソキはロゼアのものになりたいのに。所有されたいのに。独占されたいのに。どこもかしこも、なにもかも全部。すべて、ロゼアのものだけになりたいのに。ロゼアがそれを望んでくれさえすれば。ソキはいつだって、ぜんぶ、差し出すことができるのに。受け取ってくれる手がないことに胸が軋む。心がぎしぎし音を立てて、痛い。こんなにこんなに大好きなのに、ずっとずっと昔から大好きなのに、それなのにロゼアがソキを『花嫁』として送り出そうとしたのだし。それを嫌だなんて一度も言ってくれたことはなかったのだ。
 ぐずん、と鼻をすすりあげて、ソキは瞼を持ち上げた。今日だってソキは、ロゼアが教育をしてくれると聞いたから、一日中ずっとずぅっと傍にいて抱っこしてぎゅぅもしてなでなでだってしてくれて、一緒だと思っていて、それはそれは楽しみに楽しみにしていたのに。差し出されたのは一番嫌いな発音練習で、さらにお昼を一緒に食べたらロゼアは礼儀作法の授業とかでいなくなってしまったのである。そんなのロゼアちゃんはもうぜえぇええんぶできるから必要ないですソキのがろぜあちゃをいっぱい必要ですじゅぎょよりそきのがろぜあちゃっ、とソキは懸命に主張したのに、はいはいはいはい、と頷くばかりで寮長はロゼアを同じ授業を受ける先輩たちに引き渡してしまった。
 つまりもしかしてもしかしなくてもひょっとして、寮長はソキのだいだいだいきらいだった、『お屋敷』の『運営』たちと同じなのかも知れない。『運営』とはつまり、『お屋敷』のやり方を決める偉い人たちである。寮長はこの『学園』の、生徒側の偉い人である。ソキはこくりと頷いた。寮長はつまり、アレと一緒なのである。たぶん。これはたいへんなことでした、とソキはくちびるを尖らせた。せっかくもうこれで安心だと思っていたのに、自主的にロゼアをソキから剥がそうとする人がまだここにもいたのである。ソキが離れたくないのに送り出される『旅行』も、『結婚』も、ロゼアはもうしなくていいよ、と言ってくれたのに。ソキがもうちょっと一緒にいたいと思っても、ロゼアは誰かに連れて行かれてしまう。それで、それを、やっぱり皆が正しいと言うのだ。それが普通で正しいことで、ソキは間違っているのだと。
 それならやっぱり、ソキがロゼアを離して幸せになってくださいね、と何処かへ行くのが正しくて。傍にいたいです、ずっとです、と思って、それをねだったりするのは、普通じゃないし、正しくないし、間違っていることなのだ。涙を堪えて何度も瞬きをして、ソキはもぞもぞもぞ、とロゼアの腕の中で座りなおした。ソキだって頑張れば普通も、正しいもできるのである。ソキはがんばるです、とまず第一歩としてロゼアの膝上からソファへ降りようとしたのだが。いつのまにかロゼアの腕がぐるりと腰にまわされていて、ソキはちっとも身動きが出来なかった。あれ、あれ、ともぞもぞちたぱたしていると、うん、と不思議がる呟きで、ロゼアの眼差しがソキの瞳を覗き込む。砂漠の太陽の。夕闇に沈む紅の。あるいは、夜の衣を足元に従え、世界を切り裂く曙光の瞳。夜に光を与える者。朝を導き包み込む色。
 ソキの夜はいつだって、ロゼアがいることで鮮やかな朝を迎える。
「……ソキ? どうしたんだ?」
「ロゼアちゃん。ソキは普通をできますよ。一人でちゃぁんと座れますです」
「うん? うん、そうだな。……ひとりで座りたいの?」
 そういうんじゃないですけど、とソキは唇を尖らせた。体をちょっと離すと、その隙間に入り込んでくる空気が冷たくて、それがとっても嫌で我慢できなくて、ソキはロゼアにぺとりとくっつきなおした。せっかく服に体温が染み込んだのに、すぐに冷たくなってしまう。ぐりぐりと顔をすり付けて、ソキは拗ねた気持ちでくちびるを動かした。
「ソキはね、ロゼアちゃん。あのね、あのね、ソキはね……」
「うん? なに、ソキ」
「あのね、あのね」
 顔をすりつけてロゼアをいっぱい堪能しつつ、ソキはぷっと頬をふくらませた。
「気がついちゃったですけど。普通は、ロゼアちゃんなしっていうことです……」
『そ、そうかな……? ちょっと違うんじゃないかな……ソキちゃん?』
 お向かいから響いてくるナリアンの意思に、ちぁくないもん、とほわんほわん言い返して。ソキはすすんっ、と鼻をすすって、ロゼアにぎうううっ、と抱きつきなおした。おいお前今そこで抱きつく理由も意味もなかっただろうがどういうことだ、という妖精の呻きが頭上から聞こえた気がするが、気のせいということにして、ロゼアに訴える。
「たいへんです……ソキは、普通を、んと。できますよ? ちゃぁんと、ソキは普通だってできるです。いっぱい、いっぱい、普通を頑張れるです。でもね? ……でも、でも、でもぉ……でもぉ……」
「うん。でも?」
 ぽん、ぽん、と背を撫でてくる手の心地よさにふあふあ息を吸い込んで、ソキは懸命に口を動かした。
「ロゼアちゃんなし……。みんながソキにロゼアちゃんなしをしなさいっていうぅ……ソキは、そんな言われなくても、あとでちゃぁんとがんばうもん。……それまでロゼアちゃんなしをしたくないですのに、なんでロゼアちゃんはどこかに行っちゃうです? ……きっとソキのかわいいが足りないです。みりょくがたりないです。きっとそうです。ソキはもっとロゼアちゃんのかわいいになりたいです……ロゼアちゃんはもっとソキを、ロゼアちゃんのすきすきにしなくちゃいけないです。ろぜあちゃはもっとぉ、そきにぃ……てまひま、を、いぱい……かけう……うぅ……ん、んん」
「うん。眠いな、ソキ。……眠っていいよ。眠ろうな」
 ぽん、ぽん、ぽん。穏やかに背を撫でる手に、体温が溶けていく。ふあぁ、とあくびをして、ソキは目をこしこしこすって、こくん、と頷いた。ソキはお昼寝の時間です。けんめいに口を動かして頑張れば、柔らかに抱き寄せられた腕の中、耳元でロゼアの声がえらいな、と笑う。
「ソキは偉いから、おやすみの前に、俺なしにしなさいって言ったのは誰か教えられるな?」
「うぅ? ……んー、んー……りょうちょと、うんえと、へーかです」
「ん、いいこ。いいこだから、ソキは頑張らなくて良いよ。それとも、ソキは俺なしを頑張りたいの? ……俺の傍から離れたい?」
 や、で、すぅー、とほんわほんわ歌うようにソキは言い切った。ソキはしなくちゃいけな、ですから、それをやりたい、じゃないとだめなんです。そきはろぜあちゃんのいいこ、ですから、ちゃぁんと言われたことはしたい、をできるです。えへへん。そきはいわれたことを、やりたい、できる、とってもすなおないいこです。ほめてほめて。眠くて仕方ない声でぐりぐり頭をすりつけながら要求してくる声に、ロゼアは微笑みを深めてソキは偉いな、と囁いた。ぽん、ぽん、とソキの背を撫でているロゼアを眺め、ナリアンがそぅっと告げてくる。
『ロゼア、その……』
「うん?」
『もし、手が必要な時は俺に声をかけてよ。俺、ロゼアの役に立てると思うんだ……』
 はにかみながら微笑み、ナリアンはその芳醇な魔力をくゆらせた。
『あと合法的に寮長をボコせそうな気がするからアレは俺に任せてくれていいからね』
「ありがとう、ナリアン。心強いな」
『あれ、いつのまに合法的っていう言葉の意味が違う風になったんだろう。あれ……』
 魔術師のたまごたちの頭上を漂いながら、シディが遠い目をしつつ首を傾げる。合法的とは、という白い目をして、腕組みをした妖精がそんな訳ないだろうが、と首を振った。ぷにゃぁ、としあわせでほわほわで安心しきってあまえきった鳴き声があがったので、妖精は無言で腕を振りながら視線を下へ落とした。うと、うとっとしたソキが、ロゼアにぴっとりくっついて眠ろうとしている。うふふ誰が眠っていいって言ったのかしらアタシまだ話は終わっていないんだけど、と一応ソキを狂乱状態に陥らせたことを反省し、落ち着くまで待っていた妖精が微笑みを浮かべる。本日何度目かの、ロゼアあのヤロウ、を純粋な八つ当たりとして発した時だった。妖精は、あることに気がついてすっと高度を落とし、ソキの全身を視界に収められる位置で羽根をぱたつかせた。
 ロゼアの腕の中にすっぽり包まれ、髪をゆっくり撫でられ、指先で背をとんとんと叩かれて、ソキはもうほんとうに眠る寸前だ。うと、うとぉっとしながら時折重たげに瞼をぱちぱちとしては、吐息にも負けるような淡い囁きで、ロゼアになにかを話しかけている。ロゼアはそれに一々、うん、だの、そうだな、など返事をしては、ソキの頭にぐるりと腕を回し、やんわりと抱いて眠っていいよ、と囁いていた。お、ひ、る、ね、の。お、じ、か、ん、です。ソキは、ちゃぁん、と。いえ、た、で、す。よし、と満足げな表情でこくりと頷き、ソキははふー、とやたら自信たっぷりな風に息を吐きだし、ほよほよと瞼を下ろしてしまった。お前アタシが来てること忘れてるだろ、と妖精はゆっくりと羽根を動かして腕を組む。
 視線でロゼアが用件を問いたがっているのを完全に無視して、妖精はソキのことを凝視していた。柔らかく己を抱き寄せるロゼアの腕の中、膝の上にちょこりと腰かけながら、ソキは体を完全に預け切っていた。その腕にも、脚にも、どこにも力が入っていない。ぎゅうぎゅうに丸くなりたがることはなく、体をほんのすこしでもロゼアにくっつけたがって、両腕は己を抱く腕にじゃれつくように絡みついている。絡んでいるだけだから、アスルのようにぎゅむぎゅむに抱きつぶされてはいなかった。あくまで、ロゼアがその腕を動かしたくなった時に、邪魔をしないくらいの力加減なのだろう。特にその腕を引き抜く素振りは見せなかったが、指先を動かしてそっと撫でる仕草に、負担がかかっているようには思えなかった。
 旅の間の寝姿を思い出す。ひとりで眠るの嫌いです、と告げられた言葉を思い出す。妖精は、あああぁああ、と心配そうにしているシディをひとしきり睨んで怒りを発散させ、僅かばかり気持ちを落ち着かせたあと、腕組みをしてロゼアに問いかけた。
『ソキはいつもこう? 眠る時』
 それがたとえば、抱きあげられている体勢についてであろうと、眠りに落ちる寸前になにかほわふわ話そうとしていたことについてであろうと、腕にじゃれついてきゅぅと抱き締めていることについてであろうと、体のどこにも力が入っていないくてくての、甘えきった態度についてであろうと。他のどんなことに対する回答であろうと、妖精は別にどれでもよかったので、あえて言葉を広げはしなかった。大事なのは、いつも、という妖精の問いに対してロゼアが答える言葉そのものなのである。うん、と訝しむ声の響きで、ロゼアはソキをやわりと抱き寄せ直す。
「そうだよ」
 妖精はまだ覚えている。旅をはじめて十日ばかり経った頃の、国境近くの宿のことを。怖くて怖くて怯えるように、全身どこもかしこも力をこめて。ほんのすこしでも隠れたがるように、ソキはぎゅうぎゅうに体を丸くして眠っていた。ちりっ、と火花のように、妖精の羽根の燐光がはぜる。眩暈を感じたのはおそらく、怒りだ。焔のように熱い。それでいて刃のように鋭い、敵視にすら似た怒り。アンタ知ってるの、と問うまでもない。知らない筈がない。ソキの言葉をどこまで飲み込んで良いのかは定かではなくとも。ひとつの事実として。ソキを育てたのは、ロゼアだ。頭の中で言葉が渦を巻く。そんな風にしておいて、どうしてソキを嫁がせようだなんて馬鹿なことをしようとしたのか、理解ができない。
 他の『花嫁』がどういう風だなんて、妖精はひとつも知らない。けれどもソキに限っていえば。穏やかな眠りの無い夜に、求め続けて悲鳴をあげるばかりの日々に。幸福が輝くことなどないだろう。眩暈がした。光が明滅するかのような眩暈だった。妖精はふと微笑みを浮かべ、ちらりと視線でシディの位置を確認した。今現在はロゼアの後頭部辺りを漂っているが、邪魔をすることはないだろう。シディから不安げな視線を向けられるのに微笑みを向け、妖精は努めてゆっくりとソキの元へと舞い降りた。ニーアの踊るような仕草を真似て一度ソキの肩の上に降り立ち、眠る横顔を観察する。ソキはぴすぴす鼻を鳴らしながら、ふにゃふにゃの、警戒心の欠片もない甘えた笑みでくうくう眠っている。
 妖精は再び空に浮き、ソキの頬に手を伸ばした。二度、三度、慈しむように、ゆったりとした仕草でその滑らかな頬を撫で。それから妖精は、ふ、と笑みを深めて。撫でていたソキの頬を。
『こっ……の! ばかあああぁあああ!』
「ぴゃあぁあああああっ!」
 それはもう全力で平手打ちにした。
「やっ、やぁあああ痛いですいたかたですぱちいぃんって音がしたですうういたいですいたぁいですひりひりするですいやぁいやぁあああっ!」
『お前もう普通とかそういうのは諦めろ! 馬鹿っ! そんな努力は捨てて来い!』
「よく分からないですけどりぼんちゃんがソキにひどいことをしてひどいことをいうううう!」
 テメェよく分からないならアタシに対して文句を言うなーっ、と絶叫し、妖精はソキを抱きなおして庇うロゼアに嘲笑ってみせた。一点の曇りすらない悪役の笑顔だった。
『なによ言いたいことがあるならいってみなさ……』
「やんやんもうソキは怒ったです怒ったですうううううりぼんちゃんぱちん! えいっ!」
 迫ってくる手を片方蹴って空に逃れ、妖精はぷんぷんに怒ってばったばったロゼアの膝上で暴れているソキに視線を落とした。
『アンタ怒るなら一回その膝の上から降りなさい。話はまずそこからよ、そこから!』
「きしゃあぁあああ! きしゃあああですううぅう! もー、ソキは怒った! 怒ったですうううソキはりぼんちゃんをぱちんすゆ! ぱちんってすううう! ほっぺやですってソキはちゃぁんと言ったのにリボンちゃんがソキを! ソキを! ぱちんってしたあぁああソキもするうううきしゃあああ!」
『アンタなにそれ威嚇? 威嚇なの? そうなのそのつもりなの?』
 ふにゃぁああうやぁああうううきしゃあああぁあっ、と尾を踏まれて怒った猫じみた声をあげてじたばたじたばたひとしきり怒った後、ソキはちょっと疲れた顔をして、くちびるを尖らせつつロゼアを見上げた。なにせ暴れても腰をがっちり抱き寄せられていて、ソキはちっともお膝の上から降りたり立ったりできなかったのである。ねえアタシ思ったんだけどソキがアレなのってもしかしなくてもだいたいロゼアに原因やら理由やらあるんじゃないのかしらロゼアコノヤロウあとシディ視線を反らすなこっちみろ、と苛々しながら呻く妖精の声をまるっと聞き流して。ソキはねえねえロゼアちゃん、と不思議そうに語尾をあげて首を傾げてみせた。
「ソキはなんだかお膝から降りられない気がするです。ソキ、リボンちゃんをぱちん! しにいくぅ……!」
「ん? ソキはしなくていいよ。手が痛くなるからやめような」
『……あの、ロゼア? ロゼア? ロゼアもしなくていいんですからね……? その、なにか隠し持った武器をお願いだからしまってくださいね……! リボンさんも、いきなり叩いたりしたら駄目でしょう? ……いきなりでなくとも、叩くのはどうかと思いますが』
 隠し持った武器、という言葉にきらんと目を輝かせたソキが、きゃぁああんろぜあちゃそきにないしょしてるうううっ、とはしゃぎきったふあふあの声で身をよじる。ねえねえどこにあるですか、なに持ってるですかねえねえ、ねえねえロゼアちゃんねえねえ、と服をくいくい引っ張られて、ロゼアの両腕がソキを抱き寄せ直す。ぽん、ぽん、ぽん、と背を撫で宥められながら、柔らかな声がソキに囁いた。
「俺はなにも持ってないよ。ほら、手が両方こっちにあるだろ?」
「あれ? ……あぁあれ? あれ? ……ん、ふにゃ……やぁ、きゃう、くすぐたいですぅ……!」
「ほっぺ、まだ痛い? 赤くなってはいないな……」
 くしくし、爪先で甘く耳元を引っ掻かれ。そのまま手を滑らされて頬を撫でられて、ソキはくすぐったげにきゃぁと笑いながら、ロゼアの膝上でえへん、と胸を張ってみせた。
「ソキ、丈夫です! えらい? えらい? ……かわいい?」
「うん。ソキかわいい。可愛いな、偉いな……痛くはない?」
「だいじょ……あ! ソキ、ほっぺ、いたいいたいです。ロゼアちゃん、なでなでしてぇ……?」
 いたいとロゼアちゃんがいっぱいソキをなでなでしてくれるですううううソキあたまいいですっ、と思っているのが妖精にすら分かるぺかーっ、とした笑顔で、ソキはロゼアにぴとっとくっついた。頬をくしくし肩にすりつけて甘えながら、ソキはー、ぱちんてされた時にー、ほっぺが痛かったです、と主張する。ロゼアちゃんがなでなでしてくれるときっとよくなるです、と訴えると、両頬をあたたかなてのひらが包みこんだ。
「よしよし。いたいのいたいの飛んで行け、しような」
「いたいのー、いたいのー、とーんでいーくー、で、す、うー!」
 ぽむんっ、と音を立てて。うつくしく透き通る鉱石めいた質感の、花弁が一枚、ソキの目と鼻の先に現れた。ぽと、と音を立てて膝上に落ちた花弁は、凍れる冬の森の色をしている。目をぱちくりさせながら首を傾げるソキの頭上で、妖精はひきつった表情で羽根を震わせた。
『呪いを具現化しやがったこの馬鹿……! ちょ、ちょっとソキ! アンタそれどうすんの! ああああああこら不用意に触るな拾うんじゃないのなにきょろきょろしてんのちょっとアタシの話を……!』
「あ、りょうちょいたです! えいえい!」
『投げるなあああぁあああっ!』
 ソキにとってはこの上なく残念なことに、花弁はちっとも距離を飛ばず、床に落ちる前に消えてなくなってしまった。ぷー、と頬をふくらませて残念がるソキに、妖精は額に手を押し当てて空を漂い。とりあえずソキの躾をどうにかし直さねばなるまい、という想いを新たにした。

前へ / 戻る / 次へ