戻る / 次へ

 ひとりの。別々の夜。

 ひかりの降り注ぐ音がしている。朝の。なにものにも触れずまっすぐに、清らかに、天から降りてくる朝のひかりの。風と目を合わせて笑いあう、衣擦れにも似た音がしている。とても静かだった。静かすぎて、ソキはうとうとと目を覚ました。ん、ん、と呻いても触れてくれるてのひらがない。ゆめうつつに、ほんのすこし前、朝の運動へ行くロゼアを見送ったことを思い出し、ソキは心の底からガッカリした。帰ってくるまでには時間がある。もう一度眠ってしまおうと瞼を下ろしたのに、窓の外、広がる森の葉から溶けた雫がぽたりと落ちる音さえ聞こえてしまいそうな静けさに、ソキは機嫌を損ねた顔でもぞもぞもぞ、と寝台に体を起こした。どうして早く起きてしまったのか分からない。きっと静かすぎるのがいけないです、と思いかけ、ソキはくちびるにきゅぅと力をこめて俯いた。ちがう。理由があるとしたら、もっと別のことだった。
 すこしだって離れたくない、と全身が訴えている。ロゼアから。もうほんのすこしだってひとりにされたくない。ソキをおいてどこかへ行ってしまうかも知れない。帰って来ないかも知れない。出かけた先でとっても可愛い女の子に出会って、ソキよりもずっと好きになってしまうかも知れない。そうしたらもうソキは、ロゼアをしあわせにするおんなのこには、なれないのだ。目をうるませて何度もまばたきをして、ソキは心を押しつぶしそうになる不安を、懸命に宥めすかした。両腕を伸ばしてアスルをぎゅぅと抱き締め、顔を埋めて息をしていると、だんだん不安がちいさくなっていくのを感じる。分かっているのに。そんな風にはならないと、心のどこかは、ほんのすこしだけ、分かっているのに。
 不安や、疑いや、恐怖が、毎日すこしずつ、どこからか染み込んで、どこからか降り積もってしまうのを感じていた。
「ソキはわるいこになちゃたかもです……こんなのはだめです……」
 ぐず、と鼻をすすって、ソキはアスルを抱いたまま、ころんと寝台に横になった。まだロゼアのぬくもりと残り香を宿す寝台に、ぎゅっと体を押しつけて目を閉じる。なんだかせつなくて、苦しくて、辛くて、胸の奥と指先がじんじんと痛む。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん……。はやく帰ってきてくださいです……ソキをぎゅぅってして……」
 腕に力をこめて、両膝を折り曲げて、体をまぁるくする。
「……どうして、いっつも」
 旅の間幾度もそうして眠ったように。
「ソキをおいていくの……?」
 警戒と緊張に強張った瞼に、涙が滲む。すん、すん、と鼻を鳴らして、ソキはアスルに顔を埋め、頬をくしくしと擦り付けた。眠くないのに。ちっとも眠くないのに、いつのまにかソキの意識は眠りに抱かれ。次に気がついたのは、なぜか慌てた様子のロゼアがソキの体を毛布でくるみ、抱きあげてくれたその腕の中でのことだった。



 こふん、と咳が零れ落ちる。とっさに両手で口を押さえたソキは、そろそろ視線を持ち上げて、朝食の席を見渡した。オレンジジュースを幸せそうに飲んでいたメーシャと目が合い、にっこりと笑って手を振られる。ちまちま手を振り返して、ナリアンを見た。どう頑張って少なく見積もっても、ソキの五倍、ロゼアの二倍ちょっとくらいは量があった朝食を残り二口分くらいまで平らげていたナリアンは、無言で微笑み、蜂蜜の飴をころんと木盆の上に転がしてくれる。うぅ、と焦りながらロゼアを見上げようとすると、それより先に、伸びてきた手が額に触れた。額、頬、首筋と流れて行ったてのひらが離れると、難しく考え込んだロゼアの顔が見える。
 ロゼアが、今日もだめ、と部屋からの外出禁止令を告げる前に、ソキは慌てて口から両手を離してみせた。
「ロゼアちゃん、ソキ、元気ですよ。お熱ないです。えっと……えっと、えっと、咳は、きっと間違えて出ちゃっただけで……ん、ん……こふっ。……ちぁう、です。ち、が、う、で、す。ソキは、きっと、今、ちょっと、ちょっとですよ? ちょっぴり、間違えちゃた、だけ、です……!」
「ん? うん。そうだな。間違えちゃったんだよな」
「そうです。今日はね? おにぃ……んっとぉ、ウィッシュ先生が、ソキの授業をしに来る日! です! だからね、ソキは、とっても元気なんですよ? ご飯だって、いっぱい、食べたです。ほら、ほら、みてぇ……! ロゼアちゃん、ソキ、いーっぱい、ごはん、たべた!」
 ほら、ほら、とソキがロゼアの方へ押しやる木盆の上には、空になった食器ばかりが置かれていた。ちいさなふあふあはちみつ白パンと、ブロッコリーとニンジンの温野菜が一欠片ずつ、乗っていたお皿はなにも無くなっている。ロゼアからふたくち分、おすそわけしてもらったぶ厚い焼きベーコンのサイコロも、それを刺していたフォークが横になっているばかりだ。根野菜たっぷりのコンソメスープも、ソキの手がちょうど持ちやすい大きさのちんまりとした器によそったものであるのだが、綺麗に中身が無くなっている。んしょんしょ、これは今から食べるです、と決意の表情でソキが持ち直したのは、大好物のヨーグルトだった。
 季節の果物をごろごろ角切りにして贅沢に混ぜ込んだそれを、ソキはスプーンでちま、ちまっ、とすくいあげ、あむあむ懸命に食べている。おおおおお、とナリアンが驚きと感動が半々になった声で拳を握った。
「ソキちゃん、偉いね! 凄いね! いっぱい食べられるようになったんだね……!」
「あむ。ん、こくん! でっしょおおおお、でしょおおおおお? ソキ、今日は授業ですから、いっぱい食べて頑張るです。それでね、今日のソキは、いっぱい、いっぱい歩くんですよ? だからね、お部屋に帰ったらソキはメグちゃんのお靴をはきます。ソキはちゃぁんと決めてたです。ロゼアちゃんは、きっと、いいよ、って言うです。ソキにはちゃーんとお見通し! で、す、うー」
 機嫌良くはしゃぎながらそう言って、ソキはあむ、あむ、とヨーグルトを口にした。ソキを一心に見つめながら、ロゼアは難しい顔をして考え込んでいた。あむあむ、んく、とヨーグルトを頑張るソキをナリアンに任せ、メーシャが机越しに手を伸ばし、くい、とロゼアの服を引いた。
「ロゼア、どうしたの? ……不安そうな顔してる」
「……考えごと。ありがと、メーシャ」
「ちょっと咳は出てるけど、ソキは今日は元気じゃないかな。顔色いいよ。……そういう悩みじゃない? 違う、かな」
 ねえロゼア、とメーシャは囁いた。ロゼアがなにかを告げるより早く。落とされる筈だった言葉を、ふわりと包みこんでしまうようにして。拒絶ではなく、遮りでもなく。すこしだけ待って、俺の話を先に聞いて。そう願うように、メーシャはロゼアの目をまっすぐに見て告げた。
「なんでも話してよ、思ってること全部教えてよ、相談してよ、って言ってる訳じゃないよ。教えたくないことは言わないでいいんだ。俺だってそうしてる。言いたくないこと、たくさんあるよ。ロゼアだからじゃない。俺が、俺以外の人には言いたくない気持ちだから、ってこと。ロゼアもそれを大事にして欲しいんだ。相手が俺だから、とか。ナリアンだから、とか、思って、無理して言うことないよ。……でもね」
 抱え込んで寂しくなるのは。それだけは駄目だよ、ロゼア。空いたグラスを引き寄せ、とぽとぽオレンジジュースを注ぎ入れながら、メーシャはロゼアとソキを見比べ、にっこりと笑う。
「俺はいつか、ソキにわがまま言うロゼア、とかも見てみたいな」
「……あむ。ん、ん?」
 最後のひとくちを食べ終わって、ソキがぴょこんと顔をあげる。すごいすごい、頑張ったねっ、と褒めてくれるナリアンに心行くまでふんぞり返って、でしょおおおおソキはすごく頑張ったんですよぉほめてほめてもっとほめて、をしたあと、ソキは目をぱちくりさせて首を傾げた。こん、と両手でヨーグルトの器を木盆の上へと戻す。
「メーシャくん、いま、ソキのことを呼んだです。ソキは聞いてなかったです。ごめんなさいをするです……」
「ん? 違う違う、呼んだんじゃないよ。はい、これはロゼアの。ソキもオレンジジュース、飲む?」
「……うぅ、ソキはもうお腹がいっぱい! ですからぁ……これは、ナリアンくんにあげます!」
 でもロゼアちゃんのをひとくちだけもらうことにするです、ちょうだいちょうだい、と両手を伸ばしてくるソキを見つめ、メーシャは感心しきった声でしみじみと頷いた。
「そこで自分にもらったのを飲まないで、ロゼアにちょうだい、っていうのがソキだよなぁ……」
「メーシャくん? ソキのはナリアンくんにあげたですから、ソキが飲んだらへっちゃうです。たいへんなことです」
「あれ? ロゼアのも減るよね?」
 引き算の間違いを指摘する声音で問うメーシャに、ソキはなにを言われているのか今ひとつ理解できていない表情で、くんにゃりと首を傾げてみせた。ん、んー、と閉じたくちびるから不安げな、むずがるような声が零れ、ソキの視線がそろそろとロゼアを見上げる。
「……でも、でも、ロゼアちゃんがもらたものですから、それはソキのです……? ちがうの……?」
「んー……」
 時と場合による、とメーシャとナリアンへの説明的に早口に呟いて、ロゼアはグラスを持ち上げた。はい、と差し出されたそれを受け取らず、ソキはロゼアの手の上に指先をそえ、背伸びをしてグラスにくちびるをくっつける。こくん、とひとくち飲んでから体を離し、ソキはふぅ、と息を吐いて椅子に座りなおした。
「おいしいです。……うー、ソキはもうほんとー、に、おなかがいっぱいになっちゃったです……。ロゼアちゃん、もうお部屋に帰るです……? ロゼアちゃんはもうすこしで、授業のお時間です。ん、んー……」
 ロゼアの手と床と食堂の出入り口をしょんぼりした顔でそわそわ見比べたのち、ソキはぽんとお腹に両手をおいてうなだれた。
「……おなかいっぱいでソキは動けなくなっちゃたです……。ロゼアちゃん」
「うん?」
「ソキ、ちょっぴり重いかも知れないです……。食べ過ぎないように、ソキはお昼から気をつけるです……だからね、あのね。……だっこして? だっこ、だっこぉ……!」
 両腕をまっすぐロゼアに伸ばしてぐずるソキを、伸びてきた腕がひょいと抱き上げる。ぎゅむーっと抱きついて甘えて体をすり付けた後、ソキはこてん、とロゼアの肩に頭を預けてくちびるを尖らせた。
「ロゼアちゃん、大丈夫? ソキ、おもたい……? ちゃんとかわいい……?」
「大丈夫。ソキの重みがして可愛い」
「きゃぁん……! ロゼアちゃん、あのね、あのね。ぎゅぅ、もして欲しいです」
 それで、お部屋に帰ったらロゼアちゃんはソキにメグちゃんのお靴をはかせてくれるです。ソキはそれで、ロゼアちゃんとおててを繋いで、談話室まで行って、授業にいってらっしゃいのお見送りをするです。ねえねえ、いいでしょ、ねえねえねえ、と体をくしくし擦りつけられながら甘えると、ロゼアはソキをやんわりと抱きなおした。ぎゅ、とすこしだけ力をこめて抱いたのち、ぽん、と背を撫でて歩き出される。
「ソキがそうしたいなら、していいよ……」
「きゃあぁあん! ひさしぶりの、めぅちゃんの、お、く、つー! きゃぁああうれしいうれしいですううう」
 ロゼアの腕の中できゃっきゃと大はしゃぎしながら、ソキはそれじゃあまた後で談話室でね、とメーシャとナリアンにぱたぱたと手を振った。ひたすら笑いをこらえながら手を振り返し、メーシャはナリアンの肩にがっとばかり手をおいて顔を伏せる。
「ロゼアの……ロゼアのあの不本意そうな顔……!」
『……メーシャくんって笑いの沸点低いよね……。ロゼア、そんな顔してた? いつもとあんまり変わらないように見えたけど……』
 確かに、諸手をあげてソキの要求を歓迎している、と思える訳ではなかったのだが。首を傾げてロゼアたちの歩き去った方を見つめるナリアンに、メーシャはうん、と素直に頷いた。
「ロゼア、ちょっと分かりやすくなったよ。前よりはね」
「……ねえ、メーシャくん。俺に良い考えがあるんだ……!」
「聞かせてよ、ナリアン……!」
 がっ、と二人が手を取り合って深々と頷くのに、呆れた顔で寮長がお前ら悪戯すんのも良いけど程々にしとけよー、と注意を飛ばす。ナリアンは、この世界で一番言ってはいけない人が言ってはいけない言葉で注意して来たよし無視しよう、という決意がこもった横顔でそれを完全に無視し。メーシャはほのぼのとした笑みで、寮長には言われたくないよねぇ、とさらりと言い切った。



 よち、よち、よち、よち。ちょっときゅうけい、です。はふ。うしょ。よち、よち、よちっ、ぷにゃああ転んじゃうですうぅ。うぅソキはがんばたです。よち、よちっ、てしっ、てち、よち、と音と声が聞こえてくる方に、談話室からはハラハラしきった視線が集中していた。声をかけたり手助けする者がいないのは、ソキの背負ったしろうさぎちゃんリュックに『歩く練習中です。怪我をしそうな時は止めてください。ロゼア』と書かれた紙がくくりつけられているからだ。紙札は、ソキがよちよち歩く度にふわふわと揺れている。俺、こどもの歩みを見守る父親の気持ちになれた、俺も私も、と胸を押さえてうずくまる先輩たちをちらりと見もせず、ソキは絨毯の上に座りこみ、額に浮かんだ汗を手でごしごしと擦った。
「……ソキは朝より、歩くの、上手になったです」
 うん、と真面目な顔をしてこくりと頷き、ソキは談話室の柱にかけられた古い振り子時計を見上げた。十一時をすこし過ぎた頃である。半にはソキの体調伺いに来たウィッシュが顔を出し、そのまま一緒に昼食を食べることになっていた。午後になったら図書館に移動して魔術の実技授業、というのが今日のソキの予定である。体調如何によっては午後は筆記の補習授業に切り替わるか、あるいは保健室か談話室で休憩の選択肢も予告されていたのだが、ソキの中でそれはないことになっていたので、つまり午後はウィッシュの実技授業なのである。それはソキにとって、本当に久しぶりの魔術師の授業だった。
 もうそろそろ三月の終わりであるのに、長期休暇が終わってから、ソキはまだ座学にも実技にも復帰できていないままなのだ。でも、でも、今日は実技のじゅぎょですし、ソキは朝よりうんと歩くのが上手になったですし、そうしたらきっと明日は座学です、とそわそわ、わくわくした声で呟き、ソキはちらっと柱時計を見上げた。ウィッシュが来るまで、もうすこし時間がある。ソキは歩くことにするです、と休憩をやめにして、絨毯に両手をついた。
「ん、しょ……! う……? う、や、や、や、やぅ……!」
 頑張って勢いよく立ちあがったはいいものの、勢いが良すぎてふらふらぐらぐら揺れて転びそうなソキに、見るに見かねて寮長がかけよった。心の底から本当にちからいっぱい不本意で嫌そうな顔をするソキの肩に手を置き、体を安定させて手を退かす。
「よし。お前そのほんっと嫌そうな顔をもうすこしどうにかしろよ……ありがとうございますとか言っても良いんだぜ?」
「ありがとー、ございます、ですー……。うぅ……りょうちょに触られちゃったです。このお服はお洗濯です」
「お前は父親を嫌がる思春期の女子か……!」
 ほら、もう座ってろ。ソファまで連れてってやるから、と差し出された寮長の手を、ソキはくちびるを尖らせてじいいい、と見つめた。手と、寮長の顔をせわしなく見比べて。何度も何度もそうしてから、ソキは片手をそーっと差し出し、指先でてしてし、とてのひらにじゃれた。
「りょうちょと手を繋ぐです……?」
「やだなぁやだなぁ、って顔すんなよ……ほら、手。ちゃんと貸せ、ほら」
「ソキは、お父様とだっておててを繋いで歩いたことないんですよ……? パパともないですのに、なんで寮長とおてて繋いで歩かなきゃいけないんですか……。うやんぅやん」
 ぐずるソキにてしてしと手を攻撃されながら、寮長ははいはいそうだな、と適当に頷いてやった。
「お前の中の俺の扱いが父親枠なのかどうかは超絶気になる所ではあるんだが……お前今、お父様と、パパ、って言わなかったか……?」
「あ。間違えちゃったです」
 てしてし、てしてし指先で寮長の手を叩きながら、ソキは唇を尖らせた。いいですかぁ、と言い聞かせる響きで口を開き、ソキはなぜか自慢げな態度で胸を張ってみせた。
「ソキはちゃぁんと今、ラーヴェ、って言ったです。パパじゃないです。言ったです。分かった? 寮長、ちゃぁんと分かったぁ? ソキは間違えなかったです。だからロゼアちゃんに言いつけちゃだめです」
「……お前それ折檻されるからだろ……? ホント駄目なヤツだろ」
「んぅー……あ。じゃあ、ソキは寮長とおててを繋いであげるです。ソキが、ソキがですよ? おててを繋いであげるんですから、寮長はもう言ったらいけないんですよ? じゃないと、ソキはもうおてて繋いで歩いてあげないことにします」
 これはロゼアちゃんに言いつけられそうな流れです、と思ったソキは、良いことを思いついたです、とばかり自信満々に言い放った。寮長はぬるい微笑みを浮かべながら遠い目をし、溜息と共に頷いてやった。
「お前のその上から目線はなんなんだよ……。はいはい、言わない言わない。それでいいんだな?」
「えへへん。寮長はソキとおててを繋ぎたいです。しょーうがなーいー、で、す、の、でー。ソキはー、おてて、をー、つぅないで、あ、げ、る、で、すーう! ソキは寮長の言うことだってちゃんと聞ける良いこです。褒めてもいいですよ?」
 ほめてほめて、ほらほら、ほめて。ねえねえほめてほめて、ほめてったらぁ、とばかり、わくわくそわそわきらきらした目でじぃっと見つめられて、寮長は臓腑の底から溜息をつき、ソキの額を指先で突いてやった。
「そうやってすぐ褒めねだりするんじゃねぇよ……」
「あれ? 寮長がソキを褒めてくれないです。あれ? ……えんりょしないでもぉ、いいんですよ?」
「遠慮じゃねぇよ……! ったく、ロゼアがすぐなんでもかんでも褒めやがるからだなこれ……」
 てしてしと足先をぱたつかせて不満げにしているソキの手をとり、ほら歩くぞ、と促しながら寮長は溜息をついた。
「ロゼアにもあんまり褒めて褒めて言うんじゃねぇぞ?」
「ぷぷ。ぷーぷぷ! 寮長ソキのこと褒めてくれないです……ロゼアちゃんは褒めてくれます。ソキはロゼアちゃんに、褒めて? ていうことにするですので、寮長のいうことは聞かないです」
「聞けよ……。無理に褒めさすのも止めてやれ」
 よち、よち、と歩き出していたソキの脚がぴたりと止まる。ぱちぱちぱちとせわしなく瞬きをして、ソキはぎこちなく寮長を見上げた。え、えっ、あぅ、と言葉を詰まらせながら、ソキはそんなことしてないです、と言った。
「ろぜ、ロゼアちゃん、むりに、ソキのこと、ほめたり、した、してない、です……」
「よく考えろ。なんでもかんでも褒めて、とか言って。断ると機嫌悪くするだろ、お前。褒めるしかないだろ……?」
「え、えっ……え、え、えっ、えっ……!」
 だって、だって、でもそれは、ソキがんばて、がんばたですから、えらいですし、えらいのはほめてもらえるですし、だから、だから、だっ、だって、だって、とオロオロするソキに溜息をついて。寮長は、はいはい、と言ってソキの頭を撫でてくれた。



 寮長はソキを定位置のソファまで辿りつかせた後、あんまり褒めてだの偉いだの聞くも止めにしろよ、と言ってどこかへ行ってしまった。午後からの実技授業の為に教員が現れ出す時間だから、ロリエスに跪いて愛の言葉を囁きに行ったに違いない。連れて来てくれて、ありがとーございました、ですー、と力いっぱい不本意にお礼を言って、ソキはもそもそとソファに腰かけた。腰かけたのだが、すぐに座っている気になれなくて、上半身をぺたりと座面に伏せてしまう。褒めてくれることだから、褒めてもらっていただけなのに。ロゼアに無理にそうさせていた、という可能性がソキの体を、見えない力でぎゅうぎゅうと押さえ付けてくるようで。なんだかだるくて、うまく動けなかった。
「褒めるしかないですから、褒めてくれてた……。……ちがうもん」
 ちがうもん、と呟いて、ソキはもそもそとしろうさぎリュックを背から降ろした。ぎゅうぎゅうと抱きつぶし、顔を埋めて目を閉じる。絶対違う、と思うのに。でもロゼアはいつの間にか、ソキがお願いしないと褒めてくれないようになっていたのだ。かわいいとか、よく似合うとか、好きとか。そういう言葉は、ソキがちゃんと聞かないと、ロゼアから向けられることはなくなっていた。昔。まだロゼアが『傍付き』の『候補』と呼ばれていた時には、そんな風ではなかったような気がするのに。いつのことだったか、ソキが世話役に新しい服を着せてもらって、そわそわ、ロゼアが来るのを待っていたら。部屋にかけ戻ってきたロゼアは、ソキを見るなり、頬をぱっと赤く染めてかわいい、と言ってくれたのに。
「あれ……あれ? ロゼアちゃんは、ソキをかわいい、て言わなくなっちゃったです……? か、かわいい、て、いっつも聞くのはソキです……ソキが、聞くと、言ってくれる、です……。あれ。あれ……」
 滲んできた涙をしろうさぎにこすりつけて拭う。ちがうもん、と零れた声は弱々しかった。
「ソキがロゼアちゃんのかわいい、だから、聞くとかわいいって、言ってくれるんですよ……。ソキが、むりに、かわいい、て言ってもらって、る、じゃ、ないです……。……どうしよう……ソキは、ロゼアちゃんが、かわいい、を言ってくれるこじゃなくなっちゃってたです……?」
 それとも、もしかして。ロゼアが自分から、なにを聞かれないでも。かわいい、と言う相手がどこかにいて。その相手が、ロゼアをしあわせにできるおんなのこ、なのだろうか。うんと昔のソキみたいに。
「……ソキはもっとかわいくなりたいです」
「え? これ以上?」
 すとん、と腰を下ろす音がして、ソキはぐずっと鼻をすすりながら顔をあげた。これ以上はちょっとむずかしいんじゃないかなぁ、あっでも目の下ちょっとクマがあるどしたのソキ、と首を傾げ、ウィッシュが手を伸ばしてくる。なでなで、指先で目元を撫でて涙を拭われ、ソキはすん、すん、と鼻をすすってくちびるを尖らせた。
「だって、ソキはロゼアちゃんのかわいいが欲しいんです……」
「うん? うん。うーん……? どうしたの、ソキ。誰になに言われたの? 俺が懲らしめて来てあげるから、誰がなに言ったか、そーっと教えてごらん? ロゼアにはないしょにしておいてあげるから」
「……おにいちゃん。寮長こらしめるの、ちゃんとできるぅ……?」
 珍しく、先生だろ、とたしなめることをせず。ウィッシュは口元を引きつらせ、視線を泳がせてうぅん、と呻いた。
「頑張ってはみる……寮長強いんだもん。どうしよっかな……。油断させて背後を取れば……?」
「え? 寮長を襲撃していいんですか……!」
「あ。レディさん……と。リトリアちゃんです」
 がっ、と身を乗り出して現れた火の魔法使いとリトリアに、ソキはこんにちはです、と頭を下げた。こんにちは、とちいさく笑って頭を下げ、リトリアがどこか不安げにソキを見る。
「元気ないですね、ソキちゃん……どうしたの……?」
「ねえねえ、リトリアさん。ねえねえ」
 両手を伸ばして服を掴み、くいくいくい、と引っ張って。ソキは涙で目をうるうるさせながら、拗ねた声で問いかけた。
「ソキかわいい? ……間違えちゃったです。聞くんじゃだめです……」
「……えっと、ソキちゃんは可愛いですよ? どうしたの? ……どうしたの」
 元気ないね、と一緒にしゅんとするリトリアに。ソキはこくん、と力なく頷いた。

戻る / 次へ