リトリアの無事が『学園』に知らされたのは、その身の置き所が定められ、白雪の国が落ち着きを取り戻した後のことだった。聞け、と息を切らして朝の食堂に駆け込んできた寮長が、心地良いざわめきを動揺に変質させながら、告げる。リトリアが無事に保護された、元気でいる、自由はないがそれなりに笑っていて、落ち着いていて、だから。終わりだ、と。言葉を選んで上手に告げることを、喜びの前に放棄した、息切れでかすれた声が動きを止めた食堂中に響き渡る。
「このたびの騒動は、これで終わりだ!」
元通りになる。傷ついたものも、損なわれたものも。なにもかも。時間だけが経過して、全てはくるりと円を成す。それを希望を持って信じきった者の声。喜べ、と高らかに告げる寮長に、ほんのわずかな空白を落として、歓声が応えた。リトリアがいなくなって謹慎、あるいは監視の処分を受けていたのは、新入生の担当教員だけではない。訪れることが出来なくなっていた者たちは両手の数をあっさりと超えていて、それは『学園』に単純な授業の停滞と、重苦しい空気を拡げていたのだった。曇天が晴れ渡るように、歓喜のきらめきが空気を染め変える。零れ落ちた魔力のきらめきが、なないろに世界を輝かせる。先生元気にしてたかな、変わりはないかな、あっちょっと待ってあの宿題終わってなかった、課題分からなかったトコがようやく聞ける、ねえいつから先生いらっしゃるの戻ってくるの。悲喜こもごも、いくつもの言葉と感情がきらめき、反射し、ざわめいていく。
中でも、もっとも反応が激しかった数人がいる。彼らは空白を置いたのちに両手を振り上げて歓声とも雄たけびともつかぬ声をあげ、のち、机に倒れ伏して、跳ねる海老のような動きで椅子を蹴倒し、立ち上がった。その勢いのまま、見てはいけないものを見てしまった顔で怯えるソキの元へ、わき目も振らず走り寄ってくる。だんっ、と音を立て、辿りついたひとりが文字の書き連ねられた帳面を机に置いた。
「謹慎解除おめでとうソキちゃんロゼアくんナリアンくんメーシャくん! 喜ばしきかな役目の譲渡! これで今年の流星の夜の主役は君たちだおめでとおおお! 明日だけどなんとか頑張ってね! 相談には乗るからねええひゃふうううう喜べ者ども私たちはー! 解き放たれたーっ! 荒らぶる鷹のポーズ!」
全力で全身を使ってタガが外れた喜びをこれでもかと表現する女生徒に、ソキは怯えきった眼差しを向け、ふるふると震えながら隣席のロゼアにぴとりと身を寄せた。
「ルルク先輩がいつもよりずぅっとどうかしてるです……!」
「あれソキちゃん? ちょっと待って? 私がいつもなんとなくどうかしてるように聞こえるよ……?」
「その荒らぶる鷹のポーズを取りやめてから話しかけて頂けますか」
両手をがっと上に持ちあげ、片足をのびのびとあげた状態で訝しむルルクに、もしや朝から酔っているのではないかとロゼアは視線を向けながら言い放ったが、残念なことに酒精は一滴も入っていないようだった。穏やかに落ち着いた状態でさえいれば、それなりに尊敬することもできる説明部にして夢と浪漫部、さらに様々な部に好奇心となりゆきで出入りしているルルクは、平均的にだいたい残念な状態であるのが常である。お酒を飲むと加速するだけで。加速しなくても、残念であることには変わりない。ルルクは先輩の勢いに怯えるソキと、少女を抱き寄せてかばうロゼアを訝しげな視線でじっくりと見比べた後、手足を頑なにさげないまま、ナリアンとメーシャに視線を向けた。
「資料はここにあるから。明日は頑張るんだよ?」
「お願いしますから普通に会話を試みないでくださいますか……!」
「許容範囲を幅広くする良い機会だと思おう!」
あくまで下げないつもりでいるらしい。はきはきとした笑顔で言い放つルルクに、もう突っ込みも説得も諦めた微笑みで、メーシャは静かに頷いた。
「資料ってなんですか? 明日っていうのは……?」
「明日は流星の夜。星降らし、夜降ろし、天体観測の日でしょう? 今年は新入生がいないから、通例であれば昨年度の新入生、つまりあなたたちが引き続き魔術師の守護星に御挨拶をする筈だったんだけど、巻き込まれ謹慎だったでしょう? でも謹慎が終わったなら! 私たちじゃなくていい!」
リトリアの家出騒動で、新入生たちはまとめて外出禁止になっていた。その為、星降に行くことが出来なかったのである。新入生でなければ誰が夜を降ろすのか。さまざまな協議ののち、適切な者に役目が割り振られていた、とルルクは言った。でも謹慎が終わったのであれば、その役目は新入生に返還されるべきである。速やかに。やらなくてよくなったぞおおおっ、と叫ぶ、ルルクが先程までいた机にいる面々にちらっと視線を向けてから。適切という言葉の意味を問いただしたい表情で、ナリアンはおそるおそる手をあげて質問した。
「大変だったんですか……? 大変、なんですか?」
「着地点を見失ってまとめられなくなったのを明日までにどうにか着地させくちゃいけなかったんだけど考えつかなくて、着地させるのと、まとまりを持つってどういうことだったっけ? っていう所で議論が止まっててね?」
出発地点から自業自得の気配しか漂わない主張でも、そうだったんですか、と頷いて先輩をねぎらうことが出来るのが、メーシャの素敵な所である。しみじみ友人に関心しながら、ナリアンは会話に参加してこないロゼアと、ソキに視線を移動させた。こわいこわいです、ということにしてロゼアちゃんにいいいっぱいくっつくですうううう、えへへん、という内心を隠すことなく口に出しながらすり寄っていたソキと、ぱちんとばかり目があった。
「ナリアンくん、どうしたの? ルルク先輩のおはなしは終わったです?」
「うーん……今年も、俺たちが星に御挨拶をするそうなんだけど」
どうしようね、とナリアンはそっと息を吐き出す。ルルクの主張を一言に纏めると、どうもそういうことになりそうだった。
第一回、流星の夜代理組によるなにか面白いことをしよう会議議事録、と題された資料に対し、ロゼアは開始時点から間違っていると微笑んでばっさりと切り捨てた。ナリアンとメーシャも全くの同意見であったので無言で頷く中、ソキはロゼアの膝上からうんしょうんしょと伸びあがり、けんめいに積み上げられた冊子に手を伸ばす。一冊をはっしと取って膝の上に降ろし、ふんすっ、と満足げな息を吐き出してから、ぺらりと表紙をめくって中身に目を通す。黙々と読みこんで、ソキは素直に首を傾げた。
「特別になにかしないといけないんです……? 前と一緒じゃだめなの?」
「そういう訳ではなさそうだけど……」
七月七日。流星の夜は、魔術師にとって特別な日だ。夜が降り、星々が瞬き、ひとびとと魔術師は改めて魔力というものに触れる。降りる夜には微細な魔力が織り込まれている。妖精たちが夕闇に紛れてくらやみの路地をすいすいと泳ぎまわり、時折、魔力のないただびとの目に触れては伝承の存在を真実とさせる。魔力もつ者。妖精の存在。この世界の、歴史。失われた世界としての、国の在り方。またとない夜。はじめて『学園』に迎えられた魔術師のたまごは己の守護星に挨拶をし、その他の者たちも天体観測を義務づけられる一夜。各国に散らばる魔術師たちは数時間の短い休暇を交代で取り、星降の城下へ繰り出す祝祭の日でもある。謹慎が完全にとけたことを喜ぶと共に、『学園』は来るべき祝いの日にざわざわと揺れていた。
食堂から談話室へ移動しても、そのざわめきに変わりはなく。いつもならもうすこし静かな一角で、新入生たちは顔を突き合わせ、どうしたものかと思い悩んでいた。代理とされた任から解き放たれた先輩たちが、こぞって提供してくれた会議議事録は、正直になんの役にも立たないものだ。さすが、自ら着地点を失ってまとめられなくなった、と言っていただけあると感心さえ覚えるものである。有用だったのは、各年の挨拶を記録した小冊子くらいだろうか。『学園』に迎えられる新入生のたまごは、毎年存在する訳ではない。一度に四人も入学したソキたちの年が、多かった、と言われるくらいに、数もすくないことだ。四人も来たから来年の新入生はいないかも、と早々に囁かれていた程に。
新入生不在の時は、昨年度の者が引き継いで夜降ろしを行う。そこまでは、通例としてあることだったのだが。まさか四人が四人ともリトリアの巻き込まれ謹慎になり、いつ解けるとも知れぬ状態になったことで、だいぶ混乱していたらしい。ロゼアが、思い浮かばないからいったん新入生が役目に復帰できることをかけて三日前までは待とう、という所で終わっている議事録にぬるい笑みを浮かべ、一冊をぱたりと閉じた所で。そもそもそれらに目を通すそぶりさえなかったナリアンが、記憶を辿る表情をしながら、ぽつりと言葉を囁いた。
「去年は確か……夕方に陛下の所へ行って、説明をされてから、だったよね」
「なんだか、懐かしいな。まだ一年、なんだね」
この一年で一番変わったことってなんだったかな、と考えながら、メーシャは華やかな笑みで提案した。どうせだからさ、と。
「星に、報告するってどうかな。この一年のこと。前は挨拶だけだったし、それで、精一杯だったけど……せっかくの機会なんだから」
流星の夜に夜を降ろす機会が、一度以上あることは限られている。毎年新入生がいる訳ではない、けれども。毎年ひとりか、ふたりを迎えることの方が多いからだ。時には五年、六年も間が開いてしまうこともあれど。報告、と呟き、ナリアンは息を吸い込んだ。胸の奥まで。
「そうだね。俺、そうしようかな」
言葉を。話せるようになったよ。音を響かせて、声を成して。言葉をもう一度、声に出す強さを、ナリアンは取り戻していた。一年目の、長期休暇へ向かう試験の後から、それはぽつぽつと多くなって行き。今では視線に意思を、魔力を乗せて響かせる声なき言葉は、滅多に使われない伝達手段としてあるくらいのものだった。それは、ナリアンが得た成長で、強さだ。眩しげに目を細めて頷く、メーシャにもそれはあるものだ。どこか人と距離を取りがちだったメーシャは、いつしか積極的に人とかかわるようになった。四人の中で、もっとも交友関係が幅広いのはメーシャだろう。年齢の近い男子のみならず、少女たちや年の離れた先輩、教員や時折『学園』を訪れる教員たちとも屈託なく接し、いつの間にか仲良くなっている。
そういえばね、と朝や夕の穏やかな時間に、話題を提供するのはもっぱらメーシャだった。誰から聞いたんだけど、誰とこの間話していたんだけど、と口火を切る言葉はここ数カ月ですっかり聞きなれたもので、そこに記憶を失った者の孤独と、寂しさを感じさせることはない。少しの繋がりを、失うことを恐れるのでは、なく。繋がっていくこと。広がっていくこと。かかわっていく、その世界の広さに、メーシャは触れて笑っている。孤独と寂しさを失えてしまった訳ではなくとも。それを連れて前へ行く、歩いて行く強さを、いつしかメーシャは持っていた。それを見て欲しい、と。知って欲しいと、星に報告するのだ、と胸を張って。
「ロゼアと、ソキは? どうするの?」
「ふたりがそうするなら、俺もそうしようかな。報告って言っても……どう伝えればいいのか分からないけど」
「言葉にしなくても大丈夫。気持ちがあればね、星にはちゃんと伝わるよ。ロゼアが考えたいこと。伝えたいこと」
占星術師らしい言葉に、そういうもんなのか、とロゼアが関心した風に頷く。そういうものなんだよ、と嬉しそうに頷いたメーシャが、難しそうにくちびるを尖らせるソキに、すこし困った顔をした。ソキ、と囁き呼ばれる言葉に、叱られた風に碧の目が向く。
「だって、ソキ、報告できることないですよ……」
三歩進んで五歩下がる成長速度、と言われていることを、ソキはちゃんと知っているのである。体調のせいもあり、ここ一年で受けることもできた授業は数えられる程度。長期休暇の前の実技試験にこそ合格しているものの、それ以外の、となると実施されてすらいない。一年前とほぼなにも変わらない状態であるのは、ソキひとりのように思えた。ぷー、と頬を膨らませながらも落ち込むソキを、ロゼアは抱き寄せてぽんと背を撫でる。
「そんなことないだろ。ソキだって成長してるよ」
「……ほんと?」
「本当。できること、増えただろ」
ソキの授業は、一からやりなおしになるという。座学も、実技も。魔力はようやく落ち着いたし、体調も回復して安定したので、ウィッシュが戻り次第、再開になるだろう、と寮長からも告げられていたけれど。それはふりだしに戻ったということで、成長、とは違う気がしていた。ソキばかりが立ちあがった所で、足踏みをしている。ロゼアも、ナリアンも、メーシャも、もうずぅっと先にいるような。取り残された気持ちになる。それはひどく心細くて、悔しくて、さびしい。できることは、ある。ロゼアがいうならほんとうのことで、それは、『学園』に来てから増えているのだろうけれど。それじゃあ、それはなんだろう、と考えた時に、現す言葉がソキには見つけられない。
胸の中には空白がある。その空白を埋める術を、ソキはまだ知らないでいる。
ソキはなんだかちぃとも成長をしていない気がするです、とソファに座り込んだまま不機嫌にぐずられて、妖精は少女の手の上で隠すことなく頭を抱えた。
「アンタ……今それに気がついたの……?」
「大変です、リボンちゃん……! これは、これは大変な、たいへんなことです……!」
「そうね本当にね……。気がついてなかった所から来たと思えば前進はしてるんだけどね……」
昼下がり。気まぐれに姿を見せた妖精を見つけるやいなや、リボンちゃあぁんっ、と悲痛な声であわあわと両手を伸ばされるものだから、なにかと思えばこれである。怒るより先に目眩を感じ、それをやりすごしながら、妖精はうろんな目で周りを見回した。妖精が思うに、ソキがそれに気がつきもしなかった元凶であり原因であり根本的な問題点でもあるロゼアは、なぜか不在のようである。聞きたくもなかったが、ロゼアどうしたのよ、と問いかければ、ソキはぷぷりと頬を膨らませて頷いた。
「チェチェ先生にとられちゃったです……。……あ、あっ、違うです! 違うですうううチェチェ先生が宿題の提出の受け取りと、添削の結果を渡しに来たですからぁ、ロゼアちゃんは授業中? なんですよ?」
あわあわと訂正するソキに、そうねアンタ本音が零れやすくなったわねと白い目で頷いてやる。だってぇだってえ、と指先をつんつん突き合わせながら、ソキはしょんぼりとしてくちびるを尖らせる。
「ソキ、気がついちゃったんですけど……謹慎が終わって授業が再開っていうことは、また授業にロゼアちゃんが取られちゃうってことです……。ソキはこんなにロゼアちゃんと一緒にいたいのに、やっぱりロゼアちゃんはソキより授業の方が大事なんです……。ねえねえ、リボンちゃん。ソキ、今からでも黒魔術師さんになれないです?」
「無理に決まってんでしょうがこのあんぽんたん!」
「……ロゼアちゃん、予知魔術師にならない?」
世界崩壊を招くような恐ろしいことを言うんじゃない、と一瞬遠のいた意識の中で罵倒して、妖精は頭を両手で抱えてソキの手の上でしゃがみこんだ。あれ、あれ、と目をぱちくりさせるソキに、妖精はやめてちょうだい、とうんざりした声で言う。
「魔術師の適性は、本人の努力や希望で、どうあるものでもないの……。変化はしないし、変更もできない。誰であっても、なんでもね! ……そのことに今アタシは心から感謝したわよ……!」
「……ほんと?」
「ごねるんじゃないの!」
ふくふくの頬を蹴飛ばせば、ソキはいやぁんと身をよじって鼻をすすった。そうかなぁ、そうかな、そうだったですぅ、と語尾を疑問の形にあげて呟くのを見る分に、なんだかあまり納得はしていないようだ。無理なのよ、ときっぱり言い切って、妖精は息を吐きながら立ちあがる。
「それで? アンタ、どうしたいっていうの?」
「ソキ、成長をするです」
ぐずる口調でくちびるを尖らされて、妖精は適当な態度で、はいはいそうねと頷いてやった。
「良い機会だから、アンタ一回初心を思い出しなさいよ。授業もやりなおしするんだったら、それくらいの方がいいわ」
「しょしん? です……?」
「そうよ。アンタが、『学園』に招かれようとする時になにを考えていたのか。なにを、目指していたのか。思い出して、もう一度、それを目指してみなさいな」
だいたいからしてアンタ、この一年でやりたいことがころころ変わり過ぎだったのよと叱られて、それを半分聞き流しつつ、ソキはうんうんと唸ってソファに座りなおした。旅のことを思い出す。白雪から歩いた、道のことを考える。ぞっとするような記憶の空白には意図して触れず、そこへ落としてきた想いを拾い集める。てのひらに。もう失ってしまわないように。ぎゅっと握って歩いて行けるように。うーん、と首を傾げ、ソキはぽつりと呟いた。
「ロゼアちゃんに会いたかったです」
「その初心は捨ててこい」
「いちばん大事なやつですぅ……!」
でも会えたからこれはもういいです、と頷くソキに、妖精はぱたぱたと羽根を動かしてそうね、と言ってやった。ものすごく適当な返事であっても、怒られたとしても、無視はされないので。ソキは己の案内妖精のそういう所が、とてもとても好きで嬉しく思っている。口に出して告げると前髪を掴んで引っ張られ、続きを促されたので、ソキはすすんと鼻をすすって額を手で押さえた。
「照れ隠しに引っ張っちゃやです……リボンちゃん、いじわるですよ」
「そのまま脱線し続けなくなったらアタシもやり方を考えてあげるわ」
「ソキの前髪がおハゲちゃんになっちゃったらどうしようです……」
さっそく脱線した、という眼差しで睨まれながら、ソキは額の髪の生え際を両手でぺたりと押さえながら、すん、すん、と鼻を鳴らした。
「ソキはむかし、むかぁーし、ちょっとだけ、えんけいだつもうしょ、というのになったことがあるです。あるですぅ……!」
「……どのあたり?」
「このへん……おはげちゃんなっちゃたです……」
思い出したのだろう。怯えきった瞳でふるふると指さされたのは左後頭部のあたりで、妖精はわざわざ飛び立ってそのあたりを眺めてやったのち、再びソキの手の上に舞い戻って、力強く断言した。
「安心なさい。ちゃんと生えてるから。……今は治ってるんでしょう? ロゼアだってなにも言わないでしょう?」
「その時はロゼアちゃんはまだ傍付きさんじゃなかったんですよ……。候補さんだったです。でも、面会謝絶、というのだったですから、ロゼアちゃんにはないしょ、内緒なんですよ。しー、なんです。ソキ、ちゃんと治ったもん。治ったですぅ……! でも、でも、でもぉ! あんまり引っ張っちゃだめ、なんですよ。わかったぁ? あと、ロゼアちゃんにはぜーったい、ないしょ、です! 分かったぁ?」
アタシが言わなくてもロゼアのヤロウなら知ってるんじゃないかしらねアイツ気持ち悪いくらいアンタのこと知ってるもの、という言葉を告げずにやさしく飲み込んで。妖精は、はいはい、と息を吐きながら頷いてやった。結局、話題が脱線している。まったくもう、とひっぱる代わりにソキの指を軽く蹴り、妖精はまなじりを険しくして問いかけた。
「ほら! 初心!」
「あっ。……えへへ? やー! やー! 蹴っちゃやですやですううううリボンちゃん、ぱちんですよ! ぱちんしちゃうですよ!」
「笑って誤魔化す暇があるなら考えなさいよーっ!」
そもそも不意を突かれなければ、ソキの動きのとろさと力では、妖精を手でつぶすことは大変に困難である。出会い頭でつぶされたのは、妖精がそうされるという可能性を考えつかなかったからであり。また、あまりに無警戒に目の前に浮いていたからである。二度と出来ると思うなよ、とすごむ妖精に、ソキは不満げにくちびるを尖らせた。
「ソキ、ぱちんが出来るようになるです」
「アンタそれを成長として目標に掲げたらどうなるか分かってんでしょうねぇ……?」
「リボンちゃんよりつよぉーくなるー!」
いいこと考えついたですーっ、とばかり満面の笑みで宣言するソキに、妖精は腕を組んで羽根をぱたつかせた。まあ、強くなろうとすることは悪くはないだろう。実現可能かどうかを置いておいたとしても。頑張るです、と意気込むソキの意識が、待っても待っても妖精の求める所に戻ってこなかったので。妖精はふわりと浮かびあがり。ためらいなく、ソキのぷにぷにもちっとした頬に、折った膝をぐりぐりと押し付けた。
「アンタそんなだから! いつまで経っても初心に戻れないのよ! 反省しろ馬鹿っ!」
「やうー、やうー!」
「しょ・し・ん!」
言い聞かせて頬から離れた妖精に、ソキはうらみがましい目を向けながらも頷いた。
「初心、です。……ソキは」
碧の瞳が。生きる感情を宿して揺らめく宝石の瞳が。ゆるく深く、過去を見つめて囁いた。
「お願いするだけの、言葉が、欲しかったです。魔術じゃない。言葉だけの、言葉が」
「ええ、そうね。アンタはそう言ってた。……予知魔術師、ソキ」
それは、どうしてそういう風に思って。口に出したの。問われて、ちいさく息を吸い込む。
「……ロゼアちゃんの、しあわせが」
零れゆくのは、かすれて。消えそうなかぼそい、言葉だった。
「ソキの、魔力で叶うなら……そんなことは、いや、です。そんなの……そんなの、だめです」
「……そうね」
「しあわせになって欲しいの……」
痛いくらい、響いている。ソキの内側から、魔力が、想いを乗せて零れては響いている。まことの願いであるのだと。それだけを、ずっと、一心に祈って。願って。口に出した。言葉に成した。それでも、それは、魔力を乗せられた瞬間に、強制力を持って歪んでしまうことを知っている。予知魔術師は、なにより、それを知っている。妖精は深く息を吐いて、ソキのてのひらを撫でた。
「魔術師としての、それが、初心?」
「……うん」
「まったく! アンタはほんとに、ロゼア、ロゼアってそればっかり!」
口調だけは怒って。妖精は笑っていた。仕方がない、という風に。それでいて、そうだった、と懐かしく思い返すように。最初から、そうだった。思いかえれば、この一年も。あらわす言葉をくるくる入れ替えて行っただけで、なにもかも、全て、それはロゼアへと向かっていた。たったひとりへ向けられていた。その存在を目指して旅がはじめられ。辿りついて、今なお、向かう方向に変わりはないのだと。それは成長がしてないってことですか、としょんぼりするソキに笑って。妖精はぺちん、とソキの頬をかるく叩いて言った。
「結局ずっとまっすぐだった、ってことよ。アンタも、アタシも、分かってなかっただけ」
「……そうなの?」
「そうよ。だって、そうでしょう? ああ、もう……まあ、いいわ。もうここまで来たら仕方がないもの。やり直しましょうね、ソキ。また一年。ここから一年、今度こそ、目指す場所を見失わず、間違えずに、そこへ向かって努力なさい。それはロゼアのヤロウだっていうのは……ほんと……ほんと腹立たしいけど……!」
隠しもせず盛大な舌打ちを響かせて、妖精は腰に両手をあてて身を乗り出した。
「アンタ、ロゼアの傍を離れないと言ったわね?」
「うん」
「アイツをしあわせにできるおんなのこになる、って。アタシに言ったわね? 変わりない?」
うん、と。頷いたソキに、妖精は華やかに笑った。どうして間違えてしまったのだろう。こんなにも、こんなにも。まっすぐ、ずっと、ソキはそれだけを目指していた。仕方がない、と今度こそ妖精は思う。不本意なことこの上もないが、それがソキの望みであるならば。そこへ導き、共に行くのが、案内妖精。妖精の、得た、願いだ。元より、魔術師として、魔力に根差した所にある願いではない。魔術師としての大成へ繋がる願いではない。だからこそ。一年かけて、同じ所へ戻ってきてしまったのだとしても、それはもう焦燥の理由にはならなかった。大丈夫よ、と妖精は囁く。離れよう、としていたことが。普通になろう、としていたことが。そのことこそが。
初心を見失って、混乱していただけなのだと。そうするのならば。
「アンタ、ちゃんと成長してたわ。……すこしだけど」
「ほんと? ……ほんと?」
「本当! さ、行くわよ、ソキ」
その言葉と。続く言葉を。妖精はこの上なく嫌そうに、不本意そうに、ソキに言った。
「ロゼアどこに行ったの? アタシがついてってあげるから、行くわよ」
「え? ……えっと? んと?」
「添削だかなんだか知らないけど、そろそろ終わるでしょう。終わってなかったらアタシが話し相手してあげるから」
手の中から飛び立って。旅して歩いたあの日々のように。妖精はソキの目の高さよりすこし上へ、うつくしく舞い上がった。
「アンタはもう、迎えを待たなくていいの。歩いて行けるのよ。……歩いて行くの。分かるわね?」
「……うん!」
ぎゅっと手を握って、ソキはソファから立ち上がった。と、と、とよろけた後、脚にしっかりと力を入れて立ちなおす。よし、と気合を入れてしっかりと前を向いた目は、妖精の好む、感情を宿した命の色をしていた。
「ソキ、ガッツと根性でがんばるです! ね。リボンちゃん!」
「そうよ」
ひとりきりは終わり。妖精と共に、もう一度、ソキは行く。てち、と踏み出された歩みとともに。妖精は、風を抱いて羽ばたいた。