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 穏やかな喜びが、『学園』の空気をさわさわと揺らしていく。それは夏の訪れを前にして森を吹き抜けていく風に似て、肌に触れれば心地いいものだ。ざわめきは火の赤ではなく、水と風の混合、うつくしく混じりあう藍と青磁の気配を宿す。儀式準備部と狂宴部が主体となり、そこかしこに星を模した飾り灯篭がつけられていくのを眺めながら、ソキは談話室の定位置、ソファの上で、不思議な気持ちで胸に両手を押し当てた。星灯篭は祝祭の為の飾り。砂漠では嫁ぐ者がいる時に飾られるものだから、昨年はそれが不安でならなかった。
 嫌な記憶をこそこそとくすぐっては、息をくるしくする、眩暈を呼び起こす光景でしかなかったのに。ぱちくり目を瞬かせて、ソキはほわふわとあくびさえしながら、準備の様子を見守っていた。胸に手を押し当てたままで、ううぅん、と訝しく首をかしげて。ソキはねえねえ、と通りがかったハリアスの服の裾をつまみ、ちょいちょいと引っ張った。
「今年のお飾りは、去年となにが違うです? ソキにちゃぁんと教えてくれなくっちゃ、だめなんですよ? ね、ね。なにが違うの? 大きさ? いろ? かたち? それともぉ、素材です?」
 聞いていて、途中から楽しくなってきたのだろう。あ、あっ、待ってくださいです、いまソキが言い当ててみるですからぁっ、とわくわくした声で考え出すソキに、ハリアスは穏やかな笑みで口元に手をあてた。肩を震わせながらしばらく待ってやり、ソキのくちびるがつん、と尖ってきたのを見ると、しゃがみこんでから口を開く。
「ソキちゃん。飾りは、去年とおなじです」
「そんなことないです。去年とは違うですよ?」
「おなじ。いくつかは買い足しましたけど、それだって同じもので、新しいか古いかの違いしかありません。……どうしてそう思うの?」
 一年で、ハリアスはずぅっと大人の女性になったように、ソキは思う。出会った頃は一生懸命で、背伸びをしていて、その印象がとにかく強かったのに。いつの間にかゆったりとした落ち着きが、少女の内側にはぐくまれていた。それはメーシャから感じるものと、とてもよく似ている。広くて、深くて、静かで、落ち着いている。ずっとそうではないのだけれど。二人は広々とした晴れ空に似ていて、ソキは時々それに、いいな、と息を吐きたくなるのだった。憧れに胸がこげる。目をぱちぱちさせながら、ソキは指先を絡めて繋いでくれるハリアスの手を見つめた。
「だって、お飾り……きれいだなって、思うです。それでね、今日は、おいわいで、お祭りだから、ソキはわくわくもするです」
「……去年とは違うの?」
「うん。……こんなのおかしいです。ソキは変になっちゃったです……?」
 いまも。ひとつ、ふたつと数を増やしていく灯篭に、灯りが点されていくのを見つめても。ソキはそれを不安に思わないし、怖くも感じないでいる。祝祭の気配は感じているのに、それを嬉しい、と思う。ぽつぽつと呟いていぶかしむソキに、ハリアスはやわらかな声で言い聞かせた。
「変、じゃないですよ。それはね、きっと、変化です」
「……いいこと?」
「ソキちゃんが、それを良いと思えば」
 どうするの、ではなくて。どうしたいの、と尋ねてくれる。ソキの意思がどこにあるのかを、どこに行きたいのかを、聞いてくれる。『学園』は誰もがそういう風に、決め付けないで待っていてくれて、それがソキにはまだすこし難しい。時間がかかってしまうのだけれど。その時間も、ハリアスは待っていてくれた。んと、んと、えっと、と考えて、考えて。ソキは胸いっぱいに、青空の空気を吸い込んだ。
「いい、こと! です! ……いいことで、いい?」
「はい。もちろん」
 言祝ぐように囁き、ハリアスは立ち上がった。飾りつけは『学園』の寮だけではなく、教室棟や教員棟の一角、周辺をぐるりと囲む森の木々にも施すものだから、通年通りでも朝からはじめて、終わるのはおやつの時間あたりであるという。ふんふん、と説明をちゃんと聞き、ソキはそれじゃあ、と準備へ戻ろうとするハリアスに、もじもじしながら提案した。
「ソキ、準備のお手伝いをしてあげても、あの、いいんですよ……?」
 照れくさそうに、それでいてきらきらと輝く瞳に、やってみたい、と書かれている。ハリアスは破顔したのち、腰を屈めて顔の距離を近くし、また今度ね、と囁き落とす。
「ソキちゃんは、夜降ろしの準備があるでしょう? 今年は、そちらをしなければ」
「……来年は?」
「新入生が迎えられていたら。その時は一緒に準備をしましょうね」
 はあぁい、と不満いっぱいの声で返事をするソキに頷いて、ハリアスは装飾部隊へと戻っていった。頑張ってくださいですよ、と見送り、ソキは手持ち無沙汰にアスルを引き寄せ、頬をくしくし擦り付けた。
「なんだかやっぱり、ソキばっかりなんにもしてない気がするです。ねー、アスルー……。ロゼアちゃんったら、ソキをここに置いて、いいこで待ってよな? をしたですし。ロゼアちゃんはすっかりソキを置き去りにするようになっちゃったです……ねー、あするぅ……」
 朝食を終え、さて今日はどうするべきなのか、と四人で首を傾げていた時のことだった。服飾部の腕章をつけた男女に、あれよあれよという間にナリアンが拉致された。背後からにじり寄り、怪しくないし痛いことはしないからっ、と叫びながら頭から袋をかぶせて椅子ごと持ち上げ、脱兎のごとく走り去る、あれこそまさに拉致だった。怪しくないの意味を見失う程の拉致だった。えっ、と混乱したメーシャも同様の手口で連れて行かれた。ロゼアが被害を免れたのは、『お屋敷』での戦闘訓練と、日々の維持訓練の賜物である。
 背後から来る者を椅子ごと蹴り、床に転がり倒しながらも片手でソキを抱き上げたロゼアの目は冷たかった。あっナリアンくんとメーシャくんが誘拐をされちゃったですううう大変ですううう、と大騒ぎするソキがロゼアにぽむぽむと背を撫でられ、落ち着いて擦り寄った時には普段通りであった為に、気がつくことはなかったのだが。どうして普通に頼めないんですか、と微笑んで問うロゼアに、ひとの頭から袋をかぶせて運び去りたかった、と告げたのは夢と浪漫部の部長たる青年だった。手芸部と被服部は青褪めて震えていた。
 夢と浪漫はひとぞれぞれである。追い求める気持ちはロゼアとて分からなくはない。しかし過度に暴走しやすい性格の者が多い『学園』において、彼らの活動はだいたい迷惑なことにしかならないのだった。廃部提案書を王に提出させて頂きますねとロゼアは告げた。そこをなんとか、お慈悲をと懇願され、企画書を提出され通読したのち、ロゼアは戻ってこないナリアンとメーシャと道を共にすることにした。ソキちゃんは全面的にロゼアくんがしていいから、という交換条件の末である。そもそもソキの身なりを整えるのはロゼアの常なので、どうしてそれが交換条件になりえるのか、という顔をしながらもロゼアが従ったのは、待てど暮らせどナリアンとメーシャが戻ってこないからだった。
 かくしてロゼアは、人の目もある安全圏とみなしている談話室の定位置にソキを下ろし、ここでいいこに待っていような、すぐ戻るよ、と言って連れて行かれたのである。ぷっぷくぷぅ、と頬を膨らませ、ソキは恨めしげに談話室の扉をにらみつけた。探して迎えに行こうかな、と思わなくもなかったのだが。それで迷子になってしまったり、行き倒れてしまったりする可能性があることを、ソキはちゃんと分かっていたので。ソキはアスルにくしくし頬を擦り付けながら、幾度目かもわからなくなった、拗ねてむくれた息を吐き出した。



 髪を後ろに撫でつけ、真新しい燕尾服に身を包んだロゼアに、ソキは熱っぽい息を吐き出した。じーっと見つめる視線がくすぐったかったのだろう。ソファに座るソキの足元に跪くようにして、解けてしまった己の靴紐を結んでいたロゼアが、ふわりと視線を持ち上げる。はにかんだ笑みでなに、と問われて、ソキはうっとりしきった眼差しでロゼアに両手を伸ばし、頭を抱き寄せ体をくっつかせた。
「ロゼアちゃん……とってもかっこいいです……!」
「ありがとう」
 照れくさそうに囁くロゼアに、ソキは頬を赤らめてもじもじした。ナリアンとメーシャが拉致されたのも、この燕尾服の為である。直前まではルルクたち選抜代理組に役目が振られていたので、急遽最終調整が執り行われた末の拉致であったのだという。微に入り細にわたり意味が分かりませんと告げたロゼアに、ちょっと正常な判断力が失われてて、と言ったのはルルクだ。そもそも普段のルルクが正常な判断力を保有しているのかはともかくとして、聞きたいのはそれじゃない、という微笑を浮かべたロゼアに、説明部たる女性は、それはもうはりきって教えてくれたのだという。曰く、二年目からの挨拶は正装を着て行うのが通例であると。
 急遽であっても、最終調整が本当にぎりぎりすぎて作業者の正常な判断が失われていたとしても、服として間に合ったのはだいたい作り終わったものがそこにあったからである。すこし先に控えた、新入生がいるのであれば五王に対するお披露目会をかねた夜会の為に、この時期は手芸部と被服部が奔走する定めなのだという。新入生であれば、祝いを兼ねて案内妖精と出身国の王たちが、夜会服を用意するのが慣わし。けれども二年目からは各自で用意するか、『学園』からの支給を受けるのが通例であるのだという。その、どちらかにするかを用意できる時期になっても聞かれた記憶がないのですが、と微笑んで問うたロゼアに、ルルクはきっぱりと言い放った。
「ごめんそれ所じゃなくてすっかり忘れてた」
「お詫びに燕尾服は半ズボンとスカートと、なんの変哲もなくつまらない普通のと、選べる仕様にしたから好きなのを身につけてね! 私からの一押しは! ナリアンくんには半スボン! メーシャくんにはミニスカート! ロゼアくんには! この! ロングスカート! さあどうぞ!」
「普通ので」
 三人ぴったり重なった選択の声に、ぎらぎらした目でミニスカートを持ってはしゃいでいた少女は、床の上にくず折れて動かなくなったのだという。あんまりなんじゃないの、ソキちゃんの着せ替え権だってロゼアくんに譲渡された上にこの仕打ちはあんまりなんじゃないの、と泣き声にもいっさい怯まず、ロゼアは微笑み、穏やかに告げた。ソキに関しての服飾の権利は元々俺が持っているものなので、勝手に計画を立てないでくださいね。それとどういう服をお作りになったのか見せてくださいいますぐに。確認する、と言ったのだという。徴収の間違いじゃないの、と服飾部の少女はしんだめで差し出したのだという。
 ロゼアが戻ってくるのが遅くなったのは、そのソキの服のせいだった。大方出来上がってしまっているものであるから、素材や仕様などについては、もうどう調整することもできなかったらしい。なにせ今夜のことである。時間がない。下に一枚、絹の肌着を縫い付けることで調節して、ロゼアはそれを殊更丁寧にソキに着付けた。きつくないか、くるしくないか、肌が擦れてしまっていないか。腕を上げたり下げたり、立ち上がったり、くるん、とまわってみせたりするたび、ロゼアがえらいな、可愛いな、可愛い、とめいっぱい褒めてくれるので、不在の間に降り積もった不機嫌が、ころっとなくなってしまうのは、そう時間がかからなかった。
 淡い朱の光沢を宿す白いふわふわのドレスは、どこか花嫁めいている。それじゃあ用意もできたし、そろそろ行こうか、と疲れきった姿から休憩を経てやや回復し、気を取り直しもしたメーシャが促してくる。うん、と頷いたロゼアにひょいと抱き上げられ、ソキはぱちくり目を瞬かせた。
「ロゼアちゃん? ソキ、歩かなくていいの? 去年はとっても、だめって、言われたですよ」
「扉をくぐって、星降の城に到着したらで、いいよ。危ないだろ」
「……あぶないの?」
 そう言われると確かに、ソキは一番動き回っていた時期と比べて、最近はその半分も歩いていないのだが。歩く、ということに関しては、ずいぶんと慣れた筈である。あぶないのないもん、と拗ねた声で足をふらふらさせるソキに、ロゼアが宥めと説明の声をかけるより早く、笑ったメーシャが顔を覗き込んできた。
「ソキ。疲れきった先輩たちが暴走してるし、もしまた『扉』の不具合が起きたら大変だよね。俺たちはひとりでもなんとかなるけど、ロゼアをひとりにしちゃ、だめだよ。危ないだろ?」
「メーシャくんの言うとおりだよ、ソキちゃん。そんなに可愛いんだもの。危ないよ」
 ふたりの言うあぶない、には、なんだか違いがあるような気がした。でもでもロゼアちゃんが怒られちゃうかも知れないです、と腕の中でもぞもぞするソキに、忙しそうに歩み寄ってきた寮長が、一枚の紙を差し出しながら告げる。
「先方の許可も取ったからそのまま行けよ……安心しろ、ロゼア。俺たちはこの一年で必要保護の概念を学んだからな……!」
「ありがとうございます。……なんですか? その紙」
「ソキの、ロゼア携帯許可証」
 魔力が封ぜられたもの特有の、淡くゆらめく虹色の燐光を発する紙片には、同行許可証と書かれている。
「最初からやろうともしないのと、やった結果でふりだしに戻るなら、なんつーかもうしょうがないだろ……。お前は十分努力したし、結果を出そうともした。俺たちは学び舎を同じくする者として、その過程も気持ちも見て分かってる。案内妖精からの陳述もあったしな」
「リボンちゃん?」
 昨日、まあアンタの気持ちは分かったからちょっとアタシに任せておきなさい根回しはしておいてあげるわ、とぐったりしたシディの羽根を掴み、ぐいぐい引っ張りながら何処へと飛び去るのを見送ったのだが。なにをしたというのか。また誰かを怒ったですか、と素直な疑問として問うソキに、寮長はその通りだよと頭の痛そうな声で教えてくれた。
「そうだよ、お前のリボンちゃんがな……『こんなこと本当なら言いたくもないし求めたくもないんだけど、いついつまでも分かってないみたいだし、この先も問題になるようだと結果的にアタシが困るしソキだって困るから教えておいてやるわ! 心して聞け! ロゼアのヤロウはともかくとして、ソキに普通と常識を、魔術師のそれだったとしても、ただびとのそれだったとしても、適応その他あてはめるのはやめなさい! あれは、ソキ! そういういきもの! 魔術師のたまごとか、『花嫁』育ちとか、そういうことじゃないの! 分かった? 分かったわね? よし以上!』って陛下と王宮魔術師に切れてな……」
「……んん? ソキはなんだかばかにされたきがするぅ……?」
「お前の一年の努力の結果だからな……受け入れろよ……?」
 哀れみと慈愛が入り混じった目で寮長に告げられて、ソキは入学許可証に似た紙片を、ぴこぴこ揺らして口を尖らせた。
「ずるじゃないです? ソキ、ずるするのはきらぁーい、ですー」
「努力賞だよ、努力賞。お前は努力した。すごくした。その結果、体調崩すわ魔力は不安定になるわ授業所じゃないわ世界に風穴開けるわ、体調崩すわ熱を出すわもうなんていうかな……。このままお前に頑張らせとくと、ロゼアが先にヤバくなるんじゃねーの? っていう意見が出てたトコだったしな……目が悪いやつは眼鏡かけて日常生活送るのと同じことだよな……。よかったなソキ、抱っこの許可出たぞ」
「だっこぉだっこぉロゼアちゃんだっこぉーっ!」
 不満げに揺らしていた紙片をささっと胸にしまいこみ、ソキはとろとろふわふわの甘え声でロゼアにきゅむっと抱きつきなおした。こころゆくまで擦り寄って甘えたのち、ふんすっ、と鼻を鳴らし、ソキはめいっぱい自慢げにロゼアの腕の中でふんぞりかえる。つまりこれからは公認だっこということである。ソキが我慢したりする必要はなにもないのだった。あっ、でもでもぉ、ロゼアちゃんがソキとおててを繋いで歩きたい時があったらぁ、その時はちゃんとできるですから言ってくださいね、と笑うソキに、ロゼアはやんわりと微笑して。よしじゃあ行こうな、と言って歩き出した。



 いいですか、ソキは歩けるです。歩いていけるんですよほらほらぁっ、とロゼアの腕から滑り降り、早足にとてちてしたのち、ソキはくるんと一回まわって見せた。回ったはいいが、そのまま尻餅をついてぷきゃんと声をあげた所で、星降の王宮魔術師たちは意見を翻し、ロゼアの保護に全面的に同意する。うん、抱っこしてていいよ、と口々に言われる中でひょいと腕の中に取り戻され、ソキは背を撫でられながらも、頬をぷうぷうに膨らませて抗議した。
「ちがうもん、ちがうもん! 違うんですぅ! 寮長だって抱っこでいいって言ったですし、いいよってご許可頂いたって聞いたですし、歩きたくないから抱っこなんじゃないですし、そもそもやんやんだからだっこなんじゃなくてロゼアちゃんのだっこがいっとう好きだからソキはだっこがよくってだからだっこなんですうぅう! 歩けるですよ! ソキ、歩けるです!」
「うん、うん。そうだな」
 ぽん、ぽん、ぽん、と背を叩かれ宥められて、ソキは周り中を威嚇し倒すとげとげの意識を、ようやくすこし丸くした。はふ、はう、と疲れた息をして、ロゼアの肩に頬をくっつける。
「甘えて歩かないんじゃないもん……。危ないからロゼアちゃんのだっこが、いいよ、ってなったです。ソキはちゃぁんと知ってるです。それとも、危なくなくなったです? なら、ソキ、頑張って歩く……」
「いえ。危ないのでそのままで。……まったく、もう!」
 駆け寄ってきたレディが、『学園』から続く『扉』を囲むようにして立っていた同僚たちへ、腰に手をあてて雷を落とす。
「ソキさまは恒常魔術が切れている上に病み上がりで、入学時より体力も落ちていらっしゃるんだから……! 寮長と担当教員と保健医、五王と白魔法使い、有識者までお呼びして協議ののち、同行許可証が出たって朝礼で陛下が仰ってたでしょう!」
「有識者……? 『お屋敷』から?」
「ソキさまの担当をされてらした方、数名をお呼びして意見を求めたと聞いております。歩かれるのは生活上致し方ないこととはいえ、転ばれることが多いのであれば様々安定するまでは抱き上げての移動が望ましい、とのことです。ロゼアさ、ま……ロゼアくんには、この件に関して、のちほど方々から手紙を出すご予定だとか」
 受け取りたくない、という顔をしてロゼアが遠い目になる。まず間違いなくメグミカはその場にいた筈だ。来るのは手紙というか呼び出し状というか、果たし状に近いなにかの筈である。ふぅん、ふぅん、へー、とあからさまに不機嫌な声で説明を聞き流していたソキは、己のほうへ響いてくる言葉が途絶えたのを感じ取り、きょろきょろとあたりに視線を走らせた。えー、だって同行許可っていうから基本は手を繋ぐとかだと思ってたしー、あんなにヒヨコさんみたいな歩き方だと思わなかったしー、とぶうぶう文句と反省の響きが飛び交う中、ソキは目をぱちくりさせ、ロゼアの耳へこしょこしょと囁いた。
「ねえねえ、ロゼアちゃん? ストル先生と、り、りー……あ! んと、リコリスさん、が、いないです……?」
「ん? ……うん。いらっしゃらないな。会いたかった?」
 尋ねられて、ソキはほんのすこし、くちびるを尖らせて口ごもった。リコリスは好きか嫌いかでいうと、きらいきらい、な相手である。だから、会いたかった、というのではないのだが。昨年、抱き上げられたままでいるソキに、歩くように促した魔術師が。今年の状態に、なんというかが気になっただけである。んんー、とむずがる声をあげるソキに振り返り、レディは苦笑しながら教えてくれた。
「リコなら陛下捕獲部隊に入っておりますので、陛下が捕まり次第会えると思います。ストルは……うぅん。聞いてみて、許可が出れば、でしょうか」
「陛下捕縛部隊……」
「手違いで逃げられたもので」
 思わず復唱したナリアンに、レディは恥ずかしそうにそう言った。陛下と捕縛と手違いと逃げられた、という各単語をどうしても組み合わせられない混乱した顔で、ナリアンはぎこちなく頷いた。なんでも、威厳回復向上計画、というのが進められているらしい。逃げたとか捕縛とかいう単語を使っている時点で難しいものがあるのでは、と控えめに告げたメーシャに、レディをはじめとした星降の魔術師たちは、一様に押し黙って視線を反らし。気がつきたくなかったけどやっぱりそうだよね、と呟きの後、深く息が吐き出された。



 星降る夜はつつがなくおろされた。たとえ予定時間の十数分前にようやくつかまった王を、筆頭が物理を駆使しながら説教する声がちらほら聞こえていたとしても。なんでも、メーシャが正装で来るから俺も正装したい着替えてくるっ、という動機であったのだという。突然思いつくな朝に言え、魔術師と騎士を追っ手とみなして撒こうとするな、そもそも一言相談してからにしろ、という至極全うな小言の数々に、星降の王は慌ててたごめんな、と満面の笑みを浮かべ、魔術師筆頭に膝蹴りを叩き込まれていた。
 我が主君たる陛下に対して非礼で不敬であるとは承知の上ですがいい加減にしろよ報告連絡相談がなんで抜けるんだよ紐つけて見張りに持たせるぞ、と痛みにしょげて動かなくなった王を見下ろす筆頭の瞳は、本気だった。



 夕闇の忍び寄る『学園』の空にも、満天の星が瞬いている。ゆるやかな丘陵のそこかしこに、生徒たちは腰を下ろして空を見上げていた。ソキはロゼアの膝上で座り心地を調整しながら、スケッチブックを持ち上げる。空の端にはまだ、溶け消えぬ茜が残っているというのに、星は喝采を叫ぶようにきらめいている。去年と同じく、星見を担当する教員は、かわゆい俺の姫君に綿飴を献上するなにより大切な義務がある、と言い残して城下の縁日街へと走り去って行った。提出は明日の朝、教員が出勤してくるまでと定められているから、天体観測に慣れた生徒の中には先に城下へ繰り出し、遊ぶ者もあるようだった。
 去年はとにかく夜を降ろす儀式と、天体観測に一生懸命すぎて、その後に城下へ足を運ぶ、という気持ちも、時間の余裕も、体力もなかったのだが。今年はきもちよく抱っこされていたおかげで、はしゃぐ空気と一緒にそわそわするのだった。スケッチブックを開き、うきうきと星空を写して描きながら、ソキは落ち着きなく、紙面とロゼアをきょときょとと見比べた。
「ソキも、はやぁく終わらせて、お祭りを見に行きたいです……! いいでしょ? ねえねえ、ロゼアちゃん。お祭り! 行ってもいいでしょう……?」
「ソキ。課題はしっかり終わらせないとだめだろ」
「あのね、ソキは先輩から聞いたんですけどね! なっ、なんと、なんとっ、なんとですよ……? 今日だけの、げんていの、こんぺいと! こんぺいとが売っているって聞いたですううぅううきゃぁああん! なんでもぉ、きらきらのよぞらあじ、ていうお名前なんですよ! こんぺいと! ロゼアちゃん、ソキの、ソキのこんぺいと……!」
 長期休暇で専門の店に訪れてからというものの、金平糖はすっかりソキの好物のひとつである。きっとね、きっとこういうのです。こういうので、こんなで、とスケッチブックの端に、ソキの考えたきらきらのこんぺいと、を描き出すソキに、ロゼアはゆるく息を吐き出し、興奮に赤らんだ頬を指の甲で幾度か撫で下ろす。
「ソキ、ソキ。ソーキ。金平糖、楽しみだな。買いに行こうな。でも、その前に課題しないとだめだろ。金平糖の絵は、天体観測じゃないだろ?」
「んん……」
 くちびるを尖らせ、ためつすがめつどうにかならないか考えて、ソキはがっかりしながら課題をやり直すことにした。すこし書いてはあたりを見回し、またすこし進めては、こんぺと、とちたちた落ち着きなく足をぱたつかせると、頬がむにむにと押しつぶされた。
「そー、きー?」
「うやゃんややん! ソキ、いま、けんめー! に、課題をしてるです! しているですうぅ! ロゼアちゃんはどうして課題をしてないですか……」
「俺は終わったって言ったろ?」
 課題をぶっちぎって城下へ遊びに行く先輩に、ソキが屋台にはなにがあるか、のおはなしをせびって、楽しみですうぅときゃぁんやぁんしている間に、である。説明されても、ソキはいまひとつ腑に落ちない顔つきで、頬をぷーっと膨らませて首を傾げた。
「メーシャくんはハリアスちゃんと、天体観測デートですしぃ……。ナリアンくんはニーアちゃんと、城下にデートに行っちゃったですしぃ……。ソキは、なんで、課題なんですぅ?」
「ソキ。ふたりは、ちゃんと課題終わらせて行ったよ」
 ソキが、ロゼアちゃんがソキにめろめろになっちゃうデートコース計画、を城下へ遊びに行く先輩たちと、きゃあきゃあはしゃぎながら相談している間に、である。ぷぅーっ、と頬を膨らませるソキに額を重ね合わせ、ロゼアはあまやかな瞳で、やんわりと苦笑した。
「ソキも、終わらせたら、遊びに行こうな」
「……だっこ?」
「うん、もちろん。金平糖買うんだろ。色々見てまわろうな」
 きゃぁっ、とはしゃいで抱きついたソキを、ロゼアはゆるく腕の中に閉じ込める。は、と満たされた息が吐き出され、ソキの耳をくすぐった。

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