リトリアが楽音に戻ってきたのは、九月の終わり。『学園』で夜会が催される、前日のことだった。同僚たちと共に『扉』の前でリトリアを出迎えたチェチェリアは瞬きをし、思わず、うわずった声で問いかけた。
「リトリア……?」
元からほっそりとした印象のリトリアは、昨年、血を吐いて『学園』に運ばれてからやせぎすの印象が拭えなかった。今にもぽきりと折れてしまいそうな危うさがあった。身体的にも、そして、精神面も。その不安が、全く消えてしまっていた。身長も伸びたのだろう。記憶と目を合わせる角度が違う。まだすこし細い印象が拭えないが、手にも足にも、全体的な輪郭がふわりとした、少女めいたものに変わっている。育っていく若木の、過渡期を見ているような気配。チェチェリアの戸惑いを優しく受け止めるように、藤色の瞳が笑う。
「チェチェ。あの、ひさしぶり……。このたびは、ご迷惑をおかけしました」
指先、背のしなやかさ、頭の動きにまで作法が行き届いたお辞儀だった。元よりリトリアの所作は丁寧でうつくしい。育ちと品の良さを感じさせるものだった。それが、数ヶ月の間に磨き上げられている。胸に熱いものがこみ上げて、チェチェリアは目元に手をあてた。
「白雪で……いいひとに会ったんだな、リトリア……」
嫁入りを報告された、父親のような反応である。見れば楽音の魔術師は誰も彼もが感動的な面持ちで目頭に手を押し当てたり、すこし視線を反らしてうつむき、肩を震わせていたりした。恐らくほぼ全員泣いている。リトリアは同僚たちの反応を戸惑うように見比べ、本当にもうそれ以外どう動くこともできなかったように、ぱちぱちせわしなく瞬きをした。
「えっ……え、えぇ……?」
「安心しろ。ストルとツフィアは食い止めてやる。お前が幸せになれるなら……!」
「うんまあそう思うよねっていうか? チェチェはリトリアちゃんのなんなのお父さんなのなんでお母さんじゃないの? ていうか? なんていうか楽音組は報告書読んで? 報告書ってなんで報告書って呼ばれているのかの意味をいまから考え直していこう?」
白雪はたぶらかされて調子に乗ってウィッシュと一緒にぴかぴか磨いただけで、原型を整えたのは旅の間の誰かです、とついてきたエノーラに説明されて、リトリアは再びえっと声をあげ、頬を薄桃色に染めて視線を伏せた。もじもじ、指先が擦りあわされる。真珠色に磨き上げられた、華やかな指先。
「ち、がうの……。あのひとは、その、そんなんじゃ……」
「うんリトリアちゃんはなんていうかね? 事案を誘発するだけだからもう黙ろうね? 何回も聞いたけど何回でも理解できないし何回でも疑わしさが加速するだけだからね? それでなんで楽音組は報告書読んでくれないの……!」
リトリアちゃん家出珍道中で事案がありましたって纏めて提出したでしょう、と叱りつけられたチェチェリアは、いいかエノーラ、と真面目な顔をして言い放った。
「楽音の陛下が面白がった場合に、その報告が正常に私たちに降りてくる筈がないだろう?」
「……ちなみになんて聞いてたの?」
「リトリアが無事に保護されたこと、白雪で身柄預かりになること、預かり中の基礎制約条件。あとは……怪我もなく、元気でいることを」
エノーラからしてみれば、その情報は必要最低限以下である。そこに、リトリアの事案関連が含まれていてはじめて、余剰でなくとも十分な、と思えるのに。あの方は本当に、と呟くエノーラの隣で、もう、とリトリアは静かに言った。陛下ったら、いつもいつも、本当に。
「ご挨拶と謝罪が終わったら、すこし叱らなきゃ……! いつもそうなんだから、もう」
まかせて、チェチェリア、と。リトリアは照れることも臆することもなく、ぎょっとする同僚たちに、まっすぐな目を向けた。
「すぐには難しいかも知れないけど……私、陛下に、びしばし頑張るから……!」
恐らく、それが出来るのは楽音の魔術師の中でリトリアひとりきりである。恐怖政治に組み込まれてもいなければ、服従と諦めに口をつぐんでいる訳でもなく。そしてなにより、記憶を封じられていたかつてでさえ、なんとなく時々言うことを聞いてもらえていた、身内として。王の臣下として、魔術師として。召抱えられたのであれば。それこそが本来、五王が期待したリトリアの役目であり、使命である筈だった。びしばし、という言葉に眩暈すら覚えた顔つきで、チェチェリアはキムルの肩に寄りかかった。顔を伏せて囁く。
「リトリア、強くなって……! ……キムル? なにか」
訝しく問うたのは、錬金術師たる夫が、リトリアに目を留めて眉を寄せていたからだった。うん、と静かに首肯し、キムルは手を伸ばし、リトリアの前髪にそっと触れる。視線を重ね合わせて覗き込みながら。
「これは、なにを? ……魔術で髪の一部と……瞳の、光の屈折を変えているね?」
「うっわ。ほんとに報告書とめられてるんだ……」
引いた声でエノーラが呻くのに、リトリアは溜息をついた。これはもう絶対に、もろもろ合わせて魔術師たちを驚かせたいな、という、楽音の王の悪質な憂さ晴らしである。リトリアが白雪で身柄を預かられることが決定した会議において、ひと悶着があったとも聞くし。大丈夫、と柔らかな笑みを浮かべ、リトリアはキムルの手に指を絡めた。きゅ、と握って引き寄せて、頬にぺたっとくっつけて。あまく笑う。
「悪いことじゃないの。不安がらないでね」
「っ……! 君、リトリア、ほんとうに……白雪でなにがあったんだい……?」
「私たち無実! 無実だから! これ仕込んだの私たちじゃないから!」
ただし。照れたら負けだから相手を倒すくらいの勢いで攻撃できるようにがんばろっか、とほわふわした声でとんでもないことを言いつつ、練習を重ねさせたウィッシュのせい、と言われると白雪は否定できないのである。おかげで、とんでもないことに、リトリアはあまり照れずにお願いだのなんだのができるようになってしまった。これ以上白雪預かりが続いていたら、さらに色々教え込まれていたに違いない。ウィッシュに。
俺はソキの先生でもあるし、リトリアにもちゃんと教育してあげなくっちゃ、と。謎理論で出さなくて良いやる気を出した『花婿』が、ちょっと暴走した結果のことである。とりあえず、と呻き。何度も、何度も呻き。深呼吸をしてようやく気を取り直したキムルが、楽音の魔術師を代表して、リトリアに笑う。
「おかえり、リトリア。楽音へ……君の国へ」
「うん」
リトリアは目を細めて、眩しげに。幸せそうに笑って。ただいま、と言った。
はい、それではリトリアも帰ってきたことですから改めて紹介しましょう従妹です、と。つつながなく謝罪と、今後の生活における制約などを告げ終わったリトリアを手招き。肩に手を置いて己の魔術師たちに向けた楽音の王の第一声が、それだった。魔術師たちは一様に、深い溜息を零した。思考が停止した顔つきだった。ちょっと陛下がなにを仰っているのか分かりませんが心当たりがないかと言われると全くないこともなくてなんていうかもういやだ休暇が欲しい、と誰もの顔に書いてある。
灰色の沈黙を経て。窓から飛び立ちそうな顔をしたチェチェリアが、義務感一色の表情で手を上げて発言する。
「陛下。質問は許されますでしょうか」
「はい、どうぞ? いいですよ、もちろん」
「……いとこ? リトリアが、陛下の……陛下と……?」
楽音の王は麗しい微笑みで頷いた。己の魔術師たちの困惑と混乱を、気晴らしとしてうっとり楽しんでいる表情だった。リトリアの王は、隠れず隠さずまっすぐに性格が悪い。もうすこし詳しく言うと先王の兄の娘ですね、失踪した例の、と追加情報をばら撒いて、その情報は知りたくなかったと呻かせるのも忘れず実行する程に。そのお知らせは本当に必要だったんですかと呻く同僚たちを見て、リトリアはもう、と憤慨した声でくるんと身を反転させた。
「すぐそうやって、ひとさまを苛めて! 報告書も、都度送らせて頂いていたのに、手元で全部とめていたでしょう! どうしてそういうことを、なさるのっ!」
「私の魔術師が不安がらないだけの情報は開示していましたよ、リトリア。全部じゃない」
「ああいえば、こういう……!」
びしばし、という宣言通り、リトリアはかつてない態度で王に挑んでくれていた。しかしその光景に、魔術師たちは目をそらす。楽音の陛下は上機嫌な笑みで言い返したり頷いたりしているが、付き合いの長い者程、なにを考えているかすぐに分かった。反抗期を迎えて可愛い、くらいにしか思っていない間違いない。敗訴、という紙を眼前に掲げられた眼差しで、チェチェリアが深々と息を吐いた。胃の辺りに手を押し当てている。
「皆を苛めないの! もう、反省なさってください!」
「ああ、そうだ。リトリア、不在の間に荷物が届いていましたよ。中身は改めましたが、そのまま部屋においてあります。確認なさい」
「おはなしきいて……! もう、もう……もう!」
リトリアもうそのあたりで、と魔術師たちが止める間もなく。リトリアはきっと眉を吊り上げ、心から言い放った。
「お兄様の馬鹿! 嫌いっ!」
のちに。楽音の王が三日に渡って真剣に落ち込んだ事件として取り沙汰された、兄妹喧嘩開幕の一言である。
数ヶ月ぶりに戻ることができた部屋は、すこしばかり冷たい空気を漂わせながらも、新鮮な空気に満ちていた。帰ってくることを聞いて、昨日部屋を掃除してくれたのだという。行方不明の間も、週に一度は手を入れて状態を整えてくれていたと聞いて、リトリアは後でお掃除の人たちにもお礼を言いに行かなくちゃ、と呟いた。ちょっとした整理整頓くらいなら、時間を見つけて同僚たちがやってくれただろうが、隅々までぴかぴかに磨かれ、かつ置いておいたものの位置がまるで変わっていない状態は、本職の手で成されたことを教えてくれる。それでいて、薬剤の匂いはしなかった。リトリアの好む、柔らかな香草の匂いがそっと空気を染めるばかりだ。
おかえりなさい、と言ってくれている。部屋も。そこを整えた者たちにも。待っていてくれたことを知る。それに気がつけるようになったことを、知る。心配もかけてしまってたよね、と扉に手をかけたまま、リトリアはしばらく室内を見つめ、じんとした声で囁いた。嬉しくて。胸がいっぱいになる。ここにも、ちゃんと、愛してくれるひとはいたのだと。聞きとめたチェチェリアが目頭に手を押し当てる。成長を喜ぶ仕草だった。照れくささと申し訳なさが半々になり、リトリアはちらっとチェチェリアを見上げた。
「チェチェも……。迷惑、たくさんかけたと思うけど。心配も、してくれていた?」
「した。……私も、キムルも。皆も、ずっと大事に思っていたよ、リトリア。これからはもうすこし、思いつめる前に頼ってくれるな?」
「うん。……うん、はぁい。ありがとう、チェチェ。……いままで、ずっと、ごめんなさい」
ごめんなさい、の前に。ありがとう、と告げられるのはいつぶりのことだろう。『学園』にいた頃。ストルとツフィアがまだ付きっ切りでリトリアの傍にいて、想いを疑いもしていなかったほんの一時だけ。リトリアはこんな風に、素直に笑ってそう言っていた。ありがとう、ありがとう、大好き、嬉しい。いつからかその言葉は失われ。ごめんなさい、とそればかりで。感情を失った冷えた響きだけがつき返されていた。リトリアは穏やかに笑ってチェチェリアにハンカチを差し出した。
「そんなに泣いたら、目が腫れちゃう……。私は、大丈夫。もう大丈夫よ、チェチェ」
ね、と囁かれ、チェチェリアは頷いて息を吐き出した。
「旅の間に……会った御仁に、感謝しなくてはいけないな。どのような方だったんだ?」
「えっと。ソキちゃんのお父さん……? たぶん、お父さんなの。前の『お屋敷』の御当主さま……? でも、いまどこにいらっしゃるかは、分からないの……」
「そうか……。菓子折りはロゼアに預ければ届くだろうか……」
たぶん、と首を傾げたリトリアに、また後でゆっくり話を聞かせてくれ、と囁いて。チェチェリアは少女へ、室内に入るよう促した。大切なものに触れる、よろこびに満ちたわずかばかりのためらいを挟んで。リトリアは、とん、と室内へ足を踏み入れる。慌しく荷物をまとめて出て行った痕跡が、そのまま残されていた。けれど雪崩を起していたであろう服は畳んで一箇所にまとめられ、持ち上げればどれもおひさまのにおいがした。小物は壊れないように、柔らかなタオルの上に一まとめに。机の上に広げっぱなしにしていた本は、紅茶缶が横に置かれ、押し花のしおりが挟まれている。瓶に入れていた焼き菓子は、よく似た真新しいものに入れ替えられていた。
深呼吸と瞬きで、涙を振り払う。大事にしたくて。大切にしたくて。忘れないように。涙で流れてしまわないように。息を止める。すこし前まで、幸せなものを全部置き去りにして。愛してくれない、と自分で目隠しをしていた。その間も。諦めずに、呆れずに、大切にしてくれるひとたちがいた。そのことを、ようやく。
「……リトリア。届いた荷物は開封してしまったが、揃っているか確認してもらっていいか?」
「うん……」
泣きそうなことに気がついていても、触れずに。慰めるのではなく、声をかけて次を促してくれたチェチェリアに、感謝しながら息を吸い込む。えっと、なにを入れて送ったんだっけ、と考えて、室内に視線をさ迷わせ。リトリアは、ぱっと寝台へ駆け寄った。
「うさぎちゃん……!」
ぴんく色の、もちっとした抱き心地のリトリアのうさぎが、枕の横に置かれていた。もちもちぎゅむぎゅむ抱きしめて頬をくっつけて、しばらく堪能して。気がついて。リトリアはぎこちなく、チェチェリアを振り返った。優しく微笑んで見守られていた。
「ちぇ、チェチェ……あの、これは、ちが……あの……」
「よかったな、リトリア。白雪につれていけなくて寂しかったろう。名前はつけたのか?」
「理解を示さないでぇっ……!」
ちがうのこれは違うの、そんなんじゃないの、と言ってうさぎを寝台に下ろし、あいらしい目と見つめ合って。もうちょっとだけ、と抱き上げた所でチェチェリアに笑われる。うううぅちがうの、と顔を赤くして涙ぐんで、抱き上げたうさぎに頬をくっつけてうりうりして、リトリアは息を吐いた。
「違うの……違うのよ、チェチェ! ソキちゃんのアスルみたいなんじゃないの。このこがいなくても、私はちゃんと眠れたもの……!」
「ええ、ウィッシュの枕借りてただけよね」
「言いつけちゃだめ……! エノーラさん、帰ったんじゃなかったの?」
戸口からひょい、と顔を覗かせて告げ口するエノーラに、リトリアは唇を尖らせて抗議した。チェチェリアが微笑んでリトリアを背にかばうのに、やぁね私だって分別くらいはあるわよ誰彼構わず女子にちょっかい出すわけじゃないのよ、死ぬでしょうが、と最後に付け加えた一言だけ真顔で言って、エノーラはむくれる少女にひらひらと手を振った。
「魔術具の最終確認をしてたのよ。白雪ではちゃんと発動してたけど、楽音では不具合が起こることもあるし。ま、杞憂だったからもう帰りますけど……あんまりオイタしないで、白雪でしてたみたいにいいこにしてれば、すぐ処分も終わるわ」
常時の行動制限と、行動範囲の記録。会話の自動記録などが、いまも成されているのだという。それは王から下されていた報告の中にも含まれていたので、特別驚きはしないのだが。チェチェリアは、ささっとばかりうさぎを枕の隣に戻してなかったことにしようとしているリトリアの全身を眺め、訝しく問いかけた。
「……魔術具をつけているようには見えないが?」
「二の腕とふとももに! つけさせてもらいました! ちゃんと調節できるようにしてあるから、いっぱいご飯食べようね」
今回の製作観点はすばり、脱がされなければ分からない、です、と言い切られて、チェチェリアは額に手を押し当てた。いつリトリアの制限が解除になるか判明していない以上、確実に意識されたのはストルとツフィアである。ことリトリアに関して異常なほど聡いふたりをどこまで誤魔化せるかは分からないが。あのね、すごいの。全然つけている感じがしなくて綺麗で可愛いの、と教えてくるリトリアに、チェチェリアはいいか、としっかりとした声で言い聞かせた。
「綺麗で可愛くても、ひとに見せたりはしないこと。下着と同じだと思いなさ……リトリア……!」
「や、やめて気がつかないで感激しないで泣かないで……!」
すとーん、つるん、ぺたーんっ、だったリトリアの体型にも、穏やかな曲線が現れている。もう、と恥ずかしがってチェチェリアから離れ、リトリアは荷物の整理をしてしまうことにした。うさぎ以外は、なぜか送った箱に収められたままだったからである。えっと、これが髪飾りで、これが服で、これが下着でこっちが靴で、とひとつひとつ確認しながら。それだけで高価であることが分かる、うつくしい細工や、絵の描かれた箱を次々と取り出していく。日持ちのする焼き菓子や甘味もあった筈だが、それは処分されたのか、なくなっていた。
部屋の中を片付けながら物を取り出し置きなおし、リトリアはふと、髪飾りを入れておいた箱の底に、指を押し当てた。よくよく見なければ分からないが、細工がしてある。二重底だ。なんとなく予感があって、チェチェリアがエノーラと話しているのを確認し、指先にそっと力をこめる。紙が数枚入るくらいの、ほんの僅かな空間に。ラーヴェからの手紙が入っていた。宛名は、私のかわいい老後の楽しみへ。中身は体調や身辺の落ち着きを得られたのかを案ずる言葉と、渡した首飾りを持って『お屋敷』を訪れるのを忘れないこと、そして手紙の宛先についてが記されていた。
無言で二回繰り返し読み、リトリアはもおおおっ、と声をあげてしゃがみこむ。
「いじわる……! もう、もうっ!」
荷物をまとめて送ったのは、別れる前のことである。別れる前であるから、手紙を書きたいと言ったこともなければ、首飾りを渡されてもいない。つまり最初から、ラーヴェの中ではそうする予定であったに違いないのだ。二重底の手紙は検閲の目から逃れていたが、もし見つかっていたとしても、不審に思われなかったに違いない。それくらいのことしか書かれていないし、宛先も、そこから転送されていくであろうことは想像にたやすかった。どうしたんだ、と問うチェチェリアを振り返り、リトリアはうるんだ目で言い切った。
「なんでもないの!」
「そ、そうか……」
「そうなの。もう、もう! ロゼアくんとソキちゃんに言いつけちゃうんだから……!」
明日それを言う時間はあるだろうか、と考え、リトリアはふと気持ちを落ち込ませた。明日、ツフィアとストルは本当に来てくれるだろうか。ふたりとも、すぐに手紙の返事をくれたけれど。その返事の早さにうろたえたのも本当だった。違う、とたくさんの人に言われたし、白雪の魔術師たちにそれとなく相談した所、やさしい微笑みでリトリアちゃんたらもうと言われたのだが。それでもまだ時折、染み込んだ記憶が胸を痛ませる。
フィオーレの優しい目隠しは取り払われた。それでも、リトリアが蘇らせる痛みの記憶は消えなかった。嫌い、と言われた辛さが心を冷えさせる。そのたび、息を吸い込んで思い直した。あのひとたちが本当に、それを言うだろうか。自問する。愛してくれていると知ったからこそ、リトリアは己の記憶を否定した。言わない。言わない、ならば。嘘をついていたのは。嘘をついているのは、誰なのだろう。リトリアに嘘を書き込んだのは。それを可能とする魔術師の存在を、リトリアは知っていた。
結局、会うことが叶わなかったひとの名を、唇に乗せて囁く。シークさん。声無き言葉に応えはなく。ただ、内側の魔力がほんのすこし。鈍く、痛んで。明滅したような気が、した。
どうしても戻ってきた当日中に会いたいひとがいたので、リトリアはチェチェリアの仕事が終わるのを待ち、楽音の城内を歩いていた。夕方の、そっと忍び寄る夜が茜色の影をどこまでも長く引いている。行き交う城内の者に、リトリアは柔らかな声でただいま、と声をかけた。年若い者は親しげに会釈をし、年嵩になればなるほど、リトリアの姿に目を向けはっと息を呑んだ。リトリアの記憶が戻されたことは、楽音の王によって速やかに周知されていた。だからそうするのは、幼いリトリアを知っていた者たちに他ならなかった。
涙の滲む一礼を送られると、リトリアはそのたびに足を止め、じっと己の記憶を探ってから恐々と彼らの名を呼んだ。そのたび、泣き笑いで、おかえりなさいと告げられる。彼らの手に触れて、握りしめて、リトリアは視線を重ねてただいま、と繰り返した。どうしても触れて、どうしても目を見て、言いたかった。たびたびそんなことがあったから、リトリアが目的の場所へ着いたのは、もう陽が落ちきった後のことだった。申し訳なさそうにするリトリアに、チェチェリアは気にすることはない、と言った。必要な手配だけ終えてしまえば、今日のチェチェリアの仕事はリトリアについていること、である。
単独での行動を禁じられたリトリアの、監視の魔術師はその日によって入れ替わるだろうが、戻って来た今日という日はチェチェリアたっての希望が通ったことだった。ありがとう、と照れくさそうにリトリアは笑う。その言葉だけで、表情だけで。報われた、とチェチェリアは思う。なにが、ではなく。その為に傍にいた訳でも、親しく面倒を見ていた訳ではないのだけれど。恐らくはリトリアが手に触れ、ただいまと告げた者は誰もがそう感じたことだろう。報われた。空白の月日が。失われてしまった親しさが。今日はチェチェ泣いてばっかり、と笑うリトリアに、明日はもう大丈夫だと告げて背を正す。
「さあ、リトリア。ここに来たかったんだろう?」
「うん……」
揺れる感情に僅かに震える声で。頷いて、リトリアはその部屋の扉へ向き直った。楽音の城の、中庭の一角へ繋がる簡素な部屋だ。城の一室というより、元は東屋であったものを改装して、城の一部と繋げてしまった場所だった。簡素で、素朴な雰囲気が、城に溶け込んでいるようにも見えるし、浮いてしまっているようにも見える。息を吸い込んで。リトリアは部屋の扉を叩いた。
「こんばんは……。いらっしゃいますか……?」
どうぞ、と応えたのは年老いた声。リトリアはためらう時間を己に許さないように、素早い仕草で扉を押しあけた。瞬きをする。室内は、カンテラからこぼれ出す光で眩いくらいに満ちていた。季節の花と、香草が束にされ、天井からつるされて乾かされている。壁には農具が立てかけられ、中庭を整備する者の汚れた制服が、山と籠に積まれているのも見えた。簡素な机と、椅子がいくつか。机の上にはいつから置かれていたのか、湯気を失った陶杯が置かれている。その陶杯を前にして、ひとりの老婆が椅子に座っていた。ああ、と声をもらしたきり、老いた女は身じろぎもせずリトリアのことを見つめている。
とん、と靴音を響かせて歩いて。リトリアは老婆の前に両膝をついて座り、震える手を包み込むようにして持った。視線を重ねて、囁く。
「……おばあちゃん」
「ああ、嬢さま……。もったいないお言葉にございます。私はただの、年老いた乳母でございますよ……」
「でも、ばあや。むかぁし、そう呼んでもいいって言ったわ。そうでしょう……?」
先王とその兄の乳母であった女は、リトリアが産まれた頃にはとうに城を辞していたのだという。事情を話し、探して呼びよせたのは現王そのひとだった。両親を恋しがって泣くばかりのリトリアに、老いた女は物語を語り聞かせ、あやし、様々な歌を紡いで寝かしつけた。リトリアの祝福は、歌のかたちで発動する。失われた記憶の奥底に、その優しさが眠っていた為だった。歌は、全て老いた女が教えてくれた。ごめんね、と一度だけ囁き。心から謝罪して。リトリアは、泣きだす女に微笑して告げた。
「私がなにもかも忘れてる間も、やさしくしてくれてありがとう」
「あぁ……いえ……いいえ……!」
「ただいま、ばあや。ね、私もうどこへも行かないわ。ちゃんとここにいる……だからね」
また歌を教えて。私ね、もうひとりで本も読めるようになったのよ。歌もたくさん歌えるの。でもね、また教えて。ね、歌って。泣かないで。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、嬢さま……」
我ら一同、心より。あなた様のお帰りをお待ちしておりました。深々と頭を下げながら告げられて、リトリアはうん、と頷いて笑った。朝露に濡れる藤花のような。柔らかな、幸福に満ちた微笑みだった。