部屋の前には見張りが立っていた。魔術師がひとり、王宮護衛の騎士がひとり。どちらもソキは知らない顔だった。ウィッシュの背に半分隠れながら、こんにちは、ですよ、と挨拶をする。ソキは別にひとみしりではない。知らない相手がちょっぴり苦手なだけである。ひとみしり、なおったです。ほんとう、ほんとうです、とウィッシュの背中をつつきながら訴えれば、青年はうんうんそうだよなー、とほのぼのした声で応え、ソキの頭をぽんぽんと撫でる。
「ちょっと苦手なだけだもんな」
「そうです、そうです。そうなんですぅ……! あ、あの、あのね。あのね、ソキですよ。ソキのね、お名前。ソキって、言うです。こんにちはです。よろしければ、お名前を教えて頂きたいです……! そうすれば知らないひと、じゃないです。だからね、あのね……だめ?」
こて、と首を傾げてお願いすれば、ふたりはそれぞれソキと視線を合わせて屈みこみ、名乗ってくれた。ふんふん、と二人に頷き、ソキは胸に手をあててにっこりと笑う。
「これでもう知らないひとじゃないです……! よかったです。あ、あのね、ソキはね、このお部屋に用事があるです。入っていーい?」
「……あ、そっか。入室許可証を忘れたら、ソキを連れてくればいいのか」
本来は、王の直筆の許可証がなければ立ち入ることさえできないのだが。ふたりはウィッシュがそれを取り出し手渡す前に、鍵を外し、魔術的な障壁を開け放った。ソキの魔力は零れていない。予知魔術で操ったのではない。これはソキが、『花嫁』の中でも特にちょっとしたお願い事を聞いてあげたくなる、という性質に秀でている故のことだった。ウィッシュもやってできないことはないが、ちょっとした接触もなく、もじもじした仕草と視線と声だけで、ここまで動かせるのはソキくらいのものだろう。ロゼアにしーってしような、怒られるよ、と囁くと、ソキはぱっと口に両手をあて、なぜか自信ありげな顔で頷いてみせた。
「ないしょ、です。ソキ、上手にできたでしょう? じつはー、いまー、誘惑とお願いの練習中なんです!」
「え? なんで?」
「鍛錬を重ねて、れべるあぷー! をするです! ロゼアちゃんをめろめろにするその日まで、です……!」
魅力と誘惑とお願い力が足りないからロゼアちゃんをめろめろにできないです、とむくれた声で言い放ち、ソキは言うことを聞いてくれたふたりに、とろけるような笑みでありがとうね、と囁いた。また何かあったら頼んでいいから、と意気込むふたりに息を吐き、やり過ぎないようにしないとだめだよ、と言って、ウィッシュは閉ざされた扉に手を押し当てた。その手の下に両手をついて、押し。僅かばかり開いた隙間に体をねじ込み、ソキはととと、と好奇心に満ちた足取りで室内に忍び込む。しかし入ってすぐに立ち止り、ソキは室内をきょろりと見回した。なにもない。正方形につくられた部屋には窓があり、簡素な机と椅子がひとつあるばかり。あれ、と目をぱちくりさせていると、ソキー、と叱る響きの声でウィッシュが呼んだ。
「こら、戻っておいで。勝手に入ったら駄目だよ」
「お兄ちゃん? お部屋を間違えたです。誰もいないです……」
「正式な手順を踏まないと、誰もいない別室につながるようになってるからね。ほら、おいで」
ととと、と戸口まで戻って。いけないだろ、と叱ってくるウィッシュに、ソキは満面の笑みで囁いた。
「お兄ちゃん、ごめんなさい。許してね?」
ああ、つまり悪いと分かっててわざと勝手に入ったんだな、と息を吐き。ウィッシュはソキの前によいしょとしゃがみこみ、目を合わせてしっかり言い聞かせた。
「……あのね、ソキ。ちょっと謝ったら許してもらえる機会を増やすのに、いたずらするのは駄目だろ。ロゼアに言うよ?」
「やー! ごめんなさいですうううソキもうしない! しないですうぅ!」
「目的の為に手段増やしちゃだめだろー」
だって先輩たちは最近すぐ、うん分かったロゼアちゃんに確認してくるね、を言うです、とくちびるを尖らせて文句を言うソキに、ウィッシュはしみじみと頷いた。なんというか、ロゼアの教育が浸透した結果である。最近は、ちょっとソキが廊下をお散歩してるだけでもロゼアちゃんにお知らせされるんですよ、とむくれた声で言うのに、ウィッシュはやや遠い目になった。こっそり来たつもりなのだが、これでは間違いなく、ウィッシュがソキを連れだしたことは筒抜けになっている。よし、ロゼアの授業が終わる前に終わらせて帰っちゃお、と頷き、ウィッシュは中途半端に開いていた扉を、閉めた。不思議がるソキに手順を踏まないと、と繰り返し、ウィッシュは扉にぺたりと手をくっつける。
その手を拳に握って、二回、音を立てて扉を叩いた。
「こんにちは。いま、入ってもいい? あ、大丈夫。エノーラいないよ。ウィッシュです」
「……エノーラさんは立ち入り禁止なの?」
こしょこしょと問うソキに、ウィッシュは苦笑いをして首を振った。そういうんじゃないけど、ちょっとね。ふぅん、と気のない返事を響かせると同時、扉の向こうから声が戻ってくる。いいわよ、どうぞ。涼しげな。凛と響く、女性の声だった。ほっとしたウィッシュが扉を開きかけるその手に、ソキは慌てて絡みつく。待って、と告げる声が出なかった。どうして忘れていたのだろう。その声にも、ツフィア、という名にも。ソキは覚えがあったのに。出会ったのは一年前、夜会の夜。視線が合ったのを覚えている。怖い、という感情で胸が食い潰されたことも。ソキ、と訝しむウィッシュに、色を失ったくちびるを動かす。
「こ……わい、ひと……」
「そんなことないよ。礼儀正しくしてれば怒られないよ。どしたの、ソキ。だいじょぶだよ。おいで」
お邪魔します、と言ってウィッシュは扉を開いてしまった。ソキは視線をかたく足元に落としたまま、背を押されて入室する。やだ、やだ、こわい。目をきゅっと閉じてウィッシュの足に抱きつけば、部屋の奥から声がかかった。
「その子は……」
「ソキだよ。俺の妹。魔術師のたまごで、俺の担当生徒なんだけど……会ったことあるよね? ソキ、ほら。どしたの? 挨拶しな」
つんつん、と上からつむじを突っつかれて、ソキは機嫌を損ねきった声でいやあぁあんっ、と甲高い声で叫び。その瞬間に、怖くない、ことに気がついて目をぱちっと開いた。あれ、と言葉が零れる。きょときょと瞬きをして、あたりを見回して、部屋の奥。視線を向けた先に、困惑した顔で佇む女性の姿を見つけ出す。その姿には、確かに見覚えがあった。一度きりのことだが、はっきりと覚えている。夜会の。空間に満ちた魔力のきらめきと、灯りを背に立っていた女性。ツフィア。濃褐色の肌に、夜色の髪、赤い瞳はどこかロゼアに印象が重なる。砂漠の血。砂漠の民の気配があった。
「……あれ?」
怖い、とは思わなかった。その姿を見て確かに、そう感じた記憶は残っているのに。使われてしまう。道具のように。武器として扱われてしまう、と叫ぶ、予知魔術師の本能的な警告も響かなかった。あれ、あれ、と呟き、ソキはてちてち、ツフィアに向かって歩み寄る。どうしたらいいのか分からない、という風に、ツフィアはソキを見つめていた。目の前で、ちょん、と立ち止り。ソキはじいいぃっ、とツフィアを見る。
「……ツフィアさん、です?」
「ええ。そうよ」
「あれ。……リトリアさんの、大好きなツフィアさんです。あれ?」
あの子はこんなちいさな子にまでなにを言っているのと額に手をあて、ツフィアが呟く。呆れた声。それでいて、隠しきれない喜びがゆるむ頬に現れていた。やさしい印象のひとだった。まっすぐで、しなやかで、誰かに優しくすることを知っているひと。ソキは急に申し訳なくなって、あの、と言って手を伸ばし、服の端を摘まんで引っ張った。
「夜……去年の、パーティの時。びっくりして、ごめんなさいです……。あの、あのね、ソキですよ。どうそよろしくお願いしますです。ツフィアさんのお話をね、ソキ、リトリアさんからたーくさん聞いてるんですよ」
本を贈ってくれたり、髪飾りをくれたり、お茶をくれたりするです。リトリアさんはどれもね、とっても大事にしているです。ね、ね、ツフィアさんでしょう。リトリアさんのツフィアさんですっ、ときゃっきゃとはしゃぎながら報告してくるソキに、女性はふっと和んだ笑みを浮かべて。丁寧に両膝をついてしゃがむと、ソキと視線の高さを合わせて、よろしくね、と言ってくれた。
発声することは可能か否か、視界は封じられるのか否か、感覚は、魔術的な制限は施されるのか。いくつかのことを早口で問いかけ、エスコートに問題がないと分かるや否や、ツフィアは返事を書くから持って行って、とウィッシュに告げた。そう何度も許可を取って来るのは大変でしょうと言葉は付け加えられていたが、すぐに言葉を届けたいのだということは、深い喜びに満ちた瞳では隠しきれていなかった。あれこれもしかして『学園』にソキを届けたらストルにも捕まる流れなんじゃ、とウィッシュは呟き、諦め、ツフィアの申し出を受けることにした。
返事を持って帰らなければ帰らないで、そわそわ待っているリトリアに、質問責めにされるのが目に見えていたからである。あとはどうやってロゼア誤魔化すかだよなー、と呟き、ウィッシュはツフィアの周りを落ち付きなくちょろちょろするソキに、苦笑いを向けた。
「ソキ。ツフィア、手紙を書くんだって。こっちで一緒に待ってよ」
「ソキはお邪魔をしないです。ツフィアさん? お手紙書くの? なんて書くです? ねえねえ。ツフィアさんが、リトリアさんのえすことをするの? ソキねえ、ソキはねぇ、リボンちゃんがするんですよ。リボンちゃんはね、ソキの案内妖精さんでね、それでねあのね」
あっ、そっかしまったツフィアはソキの好みなんだよなー、ソキああいう感じのきれいなお姉さんだいすきだもんなー、どうしようかなー、と部屋の隅に置かれたソファに腰かけながら、ウィッシュはのんびりと口に出す。ねえねえ、ねえ、ねえ、ときゃっきゃはしゃいだ声をあげて、ソキは机に向かおうとするツフィアの傍で話をしたがっている。ツフィアは笑いをこらえる声でいくつか質問に答え、机の引き出しから小瓶を取り出すと、それをぽん、とソキの手に持たせた。
「飴は好き? 座っていれば食べてもいいわ」
「きゃぁあん! おにいちゃ、あっ、ウィッシュせんせいー! ソキ、ツフィアさんから飴を貰ったですううう」
満面の笑みでとてちてソファへ歩いてくるのに、ウィッシュはよかったなー、と頷いた。ストルとツフィアは、いついかなる時でも飴を常備している。リトリアの口に放り込む為である。ウィッシュはソファに腰かけるソキにお願いして、飴をいくつか分けてもらった。ソキがツフィアに飴を貰ったことがリトリアにまで伝われば、果てしなくめんどくさいことになりかねない。これもリトリアに渡そ、と思いながら紙に包んでしまいこみ、ウィッシュはソファにゆるりと身を預けた。
「そういえばソキ、最近体調はどう?」
「ソキはー、今日もー、元気でーすぅー!」
「長く眠るのもなくなったし、授業もちゃんと出てるもんな。あー、よかった……!」
昨日も、ソキはウィッシュの実技授業を、なんの問題もなくやりとげたのである。座学も、やりなおし。実技授業もゆっくりと、もう一度最初から積み重ねて行っている。この分でいけば、長期休暇の前には一年分も取り戻していけるだろう、とウィッシュは思っていた。ソキは、教わったことをとても素直に吸収する。知識も、魔力も。言葉も。
「まだちょっと早いけど、今年の長期休暇はどうするの?」
「ソキ、ロゼアちゃんと、また観光をして砂漠へ行くです! 仕方がないからお兄さまに、顔を見せてあげるんですよ? 先生は……あの、シフィアさんに、お会いしたと聞いたです。お休みを一緒に過ごすの?」
「うん。……フィア、俺と一緒にいてくれるんだって。白雪の国の、観光でもしようかなって」
仕事はしてるけど、そういう風に見て回ったことはないから楽しみだと口にするウィッシュを、ソキはまじまじと見つめて頷いた。ウィッシュは嫁いだ『花婿』だけれど、今は『傍付き』であるシフィアと、また一緒にいて。ロゼアとソキのようにずっと一緒ではないけれど、でも、同じ時間を過ごすことができていて。そのことを、とても、幸せだと目が語っている。聞きたいことがあった。聞いていいのかは、分からなかった。視線を膝に落としてしまうソキに、ウィッシュは静かな声で囁いた。
「なんかね……フィアは、俺がしあわせになれなかったことを、ちっとも怒らないでいてくれて。フィアが、俺のしあわせだよ。しあわせを、全部フィアのトコに残していったよって、言っても……じゃあ、もうずっと一緒にいようね。離れないでいようね。大好きよって、言ってくれたんだ」
最近は、休みのたびに会いに行っているのだとウィッシュは言った。積極的に休みを取るようになったので、白雪の女王は安堵と喜びで泣いたらしい。お礼を言いたいからそのひと連れてきて、とも言われているので、今度ウィッシュは、シフィアを連れて白雪の女王に会う約束とのことだ。よかったです、と考えるより早く、素直な言葉がソキから零れ落ちて行く。否定されないでよかった。喜んでくれて、よかった。シフィアが、ウィッシュと、一緒にいてくれて。離れないでいてくれて。ソキはなぜかドキドキする胸に手を押し当てて、ゆっくり息を吸い込んだ。
ウィッシュの、シフィアも。レロクの、ラギも。スピカの、ディタも。宝石の傍に、もうずっといて。どこかで恋人を作って結婚してしあわせになる、ということは、もうないのに。そのことを本当に、しあわせだ、と言っている。眉を寄せて考えて、瞬きをして、ソキはくちびるを尖らせた。
「ソキもそんな風になりたいです……。あ、あ、あ! お兄ちゃん! たいせつなことです!」
「え、えっ? なに?」
「おにいちゃん、シフィアさんときもちいいのしたっ?」
そうだレロクにも手紙を書いて聞きださなければ、とかつてない決意で拳を握りながら、ソキはウィッシュの反応をうかがった。言葉の前に、理解する。ウィッシュは、ソキが息をのむくらい、うつくしく微笑していた。照れくさそうに視線が彷徨い、えっと、と音楽的な響きの声が囁く。
「ぜ……全部はしてないけど……。ちゅうはした……」
ちゅうはした。ぴっ、と声をあげて震えるソキに、ウィッシュは照れながら自慢する。あのね、フィアね。
「やわらかくて、いいにおいした……!」
「え、ええぇえ……! そ、ソキだって、そきだって! やわらかくていいにおいがするですううぅ!」
「あなたたち、なんの話をしているの……」
手紙を書き終えたらしい。いつの間にか歩み寄っていたツフィアに封筒を差し出されながら呆れられ、ソキはだってだってぇ、とソファの上で身をよじった。
「ソキだってちゅうをしたいですぅ……!」
「……あなたにはまだ少し早いのではないかしら」
もうすこし大人になってからになさいな、と優しく言い聞かせてくれるツフィアに、ソキはぷーっと頬を膨らませた。ソキはもう十四で、あと一年で大人になる淑女なのである。もうちょっとで大人だもん、とむくれるソキに、それじゃあ大人になってからにしなさいね、とツフィアは笑う。焦らなくてもいいのよ、と苦笑されて、ソキは飴の瓶を返しながら、はぁい、と言った。
座学と実技授業の繰り返しで、一日は瞬く間に過ぎて行く。気がつけば一週間が終わっていて、なんだか夢の中をくぐりぬけているような気持ちで、ソキは談話室のカレンダーを眺めやった。壁に大きく張り出されたカレンダーの日付を指折り数え、ソキは難しい顔で膝の上に視線を落っことす。刺繍枠と、糸を乗せる途中の図案があった。ソキの案内妖精のものである。ロゼアのものは、寝る前のすこしの時間と、朝ほんのすこし早起きを繰り返すことで、なんとか最終調整にも間に合わせたし、満足の行く出来上がりになったのだが。いち、にい、と往生際悪く日数を数え直して、ソキはがっくりと肩を落とした。どうしよう、と呟く。
「あと十日しかないです……。リボンちゃんのが間に合わないかも知れないです……」
あんまりロゼアの刺繍を頑張ったせいで、ソキはちょっと腕を痛くしてしまったのだ。おかげで、朝と昼、夕方、夜寝るまでのそれぞれ三十分しか、糸を縫い付けてはいけないのである。ロゼアにそう約束させられてしまったし、今だってソキの傍には大きな砂時計が置かれていて、さらさらと刻限を滑り落としている最中だ。正装の調整の為にいまさっき呼びだされたロゼアは、三十分では帰ってこないだろうから、それをもう一回くるんとひっくり返してしまってもいいのだが。朝にそれをやったら、あわや刺繍全面禁止になりかけたのである。
しないです、もう誤魔化すのしないです、ごめんなさい、をたくさん繰り返して、約束して、返してもらったばかりなのだった。うぅ、う、と困ってしょんぼり唸って、ソキはきゅっと目を閉じて気を取り直した。間に合わないかもしれないけど。やれる所まで、ちゃんとやろう。難しかったら、ちょっと図案を変えて、いいものにしよう。リボンちゃんにはごめんなさいと、精一杯頑張ったのは、伝えよう。きっと怒りはしないし、もしかしたら、腕を痛くしても刺繍をしたことで叱られるかもしれないけど。ソキが、そうしたいと思ったことだから、したのだと、言いたかった。
砂時計の残りは半分とすこし。頑張るです、と再び刺繍に取り組むソキの前に、そっと香草茶が給仕される。指で摘まんで口に運べる大きさに切られた、砂糖漬けの乾燥果物と、焼き菓子もいくつか。小皿に転がされたこんぺいとうとはっしと掴み、口の中にぱくりといれて。ソキは目を瞬かせ、あ、と言って視線をあげた。いつのまにか、ソキの隣に青年が腰をおろしていた。
「ユーニャ先輩です! どうしたの? 正装の、最終調整は終わったの? ロゼアちゃんは?」
「あんまり混んでるから、ちょっと抜けてきただけだよ。ロゼアも、まだ。……腕を痛くしたんだから、あんまり一生懸命しないで。休憩しながらしないと、だめだよ」
はぁい、とこんぺいとうを口の中で転がしながら気のない返事をして、ソキは黄色いちいさな花を布の上に咲かせて行く。結局、妖精が選んだのはドレスだった。その裾に、ソキは花園を広げたかったのである。紺碧の夜の裾に、妖精の花園を写し取りたかったのだ。ソキの腰かけるソファの上には、ちいさなスケッチブックが置かれている。ソキが持ち運んでも重たくない大きさの画用紙の上には、花園に揺れる草花が描き込まれている。時々、ひらいて花の形や色合いを確認するソキに、ユーニャが感心したように言った。
「天体観測の講評で、見た時にも思ったけど……お姫ちゃんは絵が上手だね。これもロゼアに習ったの?」
「ううん。絵はね、絵の先生に習ったです。絵の描き方の授業があるですよ。刺繍も、刺繍の先生に教えてもらったです」
世話役や、『傍付き』の候補たちが四六時中傍につく前から、教わる基礎教養である。『傍付き』によっては、それぞれの教師から役目を引き継ぐ場合もあるようだが、ソキはそうならなかった。説明を聞いて、ユーニャは肩を震わせて笑う。
「そうだろうね……。ロゼアにも、得意じゃないものがあるからね……ところで、刺繍が上達する方法っていうのは、あるのかな? 練習? それとも、上手な先生についてもらうのがいいの?」
「ユーニャ先輩、刺繍をするです?」
「俺はしないよ。俺じゃなくて、兄さんのお嫁さんがね、刺繍をするんだけど……してくれるんだけど……どうも、ちょっと苦手みたいで」
昨年の長期休暇の終わり。新年に結婚したのだというユーニャの兄のお嫁さんは、最近ようやく心を開いて、あれこれしだすようになったのだという。服とか、シーツとか、ハンカチにちょっと縫い付けてくれようとするんだけど、どうもそもそも得意じゃないらしくて。こんな筈じゃなかったの、もうちょっとうまく行くはずなの、針と糸がいうことをきかないのっ、と半泣きで怒ってぐずるのが忍びない、かわいいけど忍びない、かわいいけど、と兄から手紙が来たらしい。そうなんですねぇ、と頷いて、ソキは不意にこみあげてきた切なさを誤魔化す為に、一度大きく息をした。
ちょうど同じ頃。ソキの異母姉は、どこかへ嫁いで行った。『花嫁』として。再会することは、叶わなかった。
「……その人が、どんな風かは分からないですけど」
ソキの異母姉も。ミルゼも、刺繍がへたくそだった。いつも、同じように針と糸がミルゼのいうことをきかないの、と怒って投げ出しては、こっそりとソキに教わりに来てくれた。ソキは刺繍が上手ね、いいなぁ、と。褒められて、羨ましがられたことを思い出す。ミルゼはどこかで、幸せでいるだろうか。『学園』を卒表して、もし王宮魔術師になれれば、様々な者と交流がある。その時に。話を聞いたり、会えたりすることがあればいいな、と思った。
「あのね、力を入れて引っ張りすぎてしまっているです。刺繍はね、糸でね、布をね、縫うんじゃないの。布の上に、そーっと、糸を乗せて行くです」
糸がゆるくても綺麗にならないから、やりすぎると、ソキの腕では痛くなってしまうのだけれど。こうやってね、とソキは膝の上に置いていた刺繍枠を手で持ちあげ、ぴんと張った布をユーニャに見せた。
「布をしっかり張ってもらって、その上に、乗せるです。ひとはり、ひとはり、ゆっくりやればいいですよ。中々進まないけどね、でも、やれば、ちゃんと、終わるです。布の厚さでね、針と糸も変えるです。わからなかったら、手芸のお店のひとが、ちゃぁんと教えてくれるです。それでね、ソキはね、枠に布を張るのはロゼアちゃんに頼むです。しっかり張らないといけないんですけど、とてもとっても力がいるの」
それでね、刺繍枠の大きさも、そのひとによってやりやすいのと、やりにくいのがあってね。じっくり選ぶのが良いです。道具は選ばないといけないです、と説明するソキに、ユーニャは感動した面持ちで幾度も頷いた。
「詳しいね……さすが。それを、手紙で教えてあげてもいいかな?」
「もちろんです。それとも、ソキがお手紙を書く? ソキは、いまたくさん言ったですけど、ユーニャ先輩、ちゃんとぜんぶお手紙できる?」
「……頼もうかな」
急ぎじゃないから、刺繍が終わってパーティーが終わって、落ち着いたらでかまわないよ、と告げるユーニャに、ソキはこくりと頷いた。
「分かったです。……ユーニャ先輩、ご実家はどちらです?」
「うん? 楽音だよ。なんで?」
「楽音……楽音の手芸屋さん。首都に、確か、いい所があった筈です……ソキは、自分では行ったことがないですけど」
品ぞろえがよく、店員も親切で、『お屋敷』に時々行商にも来てくれていた筈である。お店の位置を聞いて、お返事が来たらそれもお手紙に書くことにしますね、と告げるソキに、助かるよ、と笑ってユーニャは立ち上がった。
「そろそろ戻ろうかな。刺繍の手を止めてごめんね、お姫ちゃん」
「どういたしましてです」
「ロゼアには、俺と話してたから、ちょっと時間を伸ばしてあげてねって言っておくから」
砂時計の残りは、もう僅かになっていた。あっと声をあげるソキに大丈夫だからと囁いて、ユーニャは談話室を早足に出て行く。談話室の人影はまばらだった。男性は殆ど部活棟の試着室に集められていて、手芸部と手縫いの得意な者が、パーティーの衣装の準備を進めている。ロゼアも裁縫は得意だから、正装の合わせが終わったら、手伝いに駆り出されて夕方まで戻らない予定だった。時々、ソキの顔を見に来てはくれると言っていたけれど。ソキは無言で針を置き、くしくし、と目を拳で擦った。スピカの言葉がよみがえる。
「信じてない……。ソキ、信じてない、じゃ、ないもん……ほんとにさびしいだけだもん……」
ずっと傍にいたい。一緒にいたい。それが、ソキのしあわせだ。ロゼアに育てられた『花嫁』の。溜息をついて、ソキは刺繍の針を持ち直した。砂が落ち切ってしまうまで、もうすこしだけあった。ゆっくり糸を置きながら考える。ロゼアが戻ってきてくれたら、やっぱり、一緒にいたい、と言おう。試着室の隅で刺繍をしているか、本を読んでいるか、じっとしているから、一緒に連れて行って欲しい、と言う。だっこじゃなくてもいいから。見える場所にいるだけで、我慢するから。ちょっとでも離れているのは、すごくさびしい。前はもうすこし我慢できていたのに、普通にできていたのに、最近のソキはそれがとても難しく思える。
焦らなくてもいいのよ、と。ツフィアの声を、どうしてか思い出した。