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 着たくない服を出された時の最終手段。あっソキはお茶を零しちゃったですぅ、と繰り返すこと三回。折れたのはロゼアが先だった。乾かされても乾かされてもくじけず、ソキがお茶を持った手をぱっと離して服をびしょぬれにしたからである。ロゼアはたいそう困った顔をして、悲しそうにもしてソキを怒ったが、こういう根競べで勝つのは長期化した時弱いほうだ。
 給仕されるお茶は、ソキの喉を痛めない生ぬるい温度に冷めているとはいえ、火傷しないとも限らないし、放っておけば風邪を引く。乾燥させるロゼアの魔力にも限りがあるし、繰り返せばその都度、集中力は落ちていく。諦めた顔のロゼアにいつものワンピースを着せてもらいながら、ソキはふんすふんすと鼻を鳴らしてふんぞりかえった。
「ロゼアちゃんたら、いけないことです。ソキにちーさいお服を着せようとしたです。いじわるさんです」
「……ソキ。アスル投げるのやめような。どうして俺の言うこと聞けないの」
「あ。ロゼア負けたの? おつかれさま」
 困ったね、と部屋の入り口からひょいと顔を覗かせたのはメーシャだった。課題の提出を終え、ストルとの話も終わったらしい。四階のソキの部屋へ、お邪魔するね、と声をかけてから踏み込んで。メーシャは弱りきった様子で落ち込むロゼアに心配そうにしながらも、物珍しげにくすくす肩を震わせた。
「ソキがこんなに頑固なのも珍し……くはないけど、ロゼアが言いくるめられないのは珍しいね。どうしたの? 今度こそ反抗期されてる?」
「はんこーきじゃないもん」
「反抗期じゃないの? ……うーん。大丈夫だよ、ソキ。ロゼアはソキを置いてどこか行ったりしないよ」
 てきぱき服を着せられ終わり、ソキはロゼアに髪を梳かしてもらいながら、あたりまえのことですぅ、とふんがいしながら頷いた。授業だってソキと一緒の課題提出式に切り替えてもらったので、落ちつくまで、ロゼアがそれを理由に傍からいなくなることはない。
「それにね、ソキ。もし誘拐されかけても、ロゼアなら大丈夫だよ。ロゼアが強いの、ソキだってよく知ってるよね? ソキが誘拐されかけちゃったら、ロゼアを呼ぶのが一番だけど、ロゼアがそうなってもソキは呼ばないよね」
 つまり、ソキはひとりだと危ないけれど、ロゼアはひとりでもちゃんと大丈夫ということである。ソキが助けなくても良いということである。
「……ロゼアちゃん。ほんとーに誘拐されない?」
「されないよ、ソキ。俺は誰に連れて行かれたりもしないよ」
 再三繰り返されたやり取りである。ソキはロゼアをじっと見つめ、アスルを見て、メーシャを見て、唇を尖らせた。でも、でもぉ、とごねる呟きが零れ落ちるのを、止めるように。ロゼア、と息を切らしたナリアンが、階段を駆け上がってくる。そのままの勢いでソキの部屋へ飛び込み、ナリアンは子犬のように輝く瞳で、俺はやったよっ、と言った。
 なに、とロゼアが問うより早く。ナリアンはロゼアに、一枚のカードを差し出した。武器携帯、ならびに使用許可証。え、と言いながらも反射的に受け取るロゼアに、ナリアンはロリエス先生がね、と笑う。
「今度、俺とメーシャくんを遠足に連れて行ってくれるんだけど、その間はソキちゃんとロゼアだけになるから。ソキちゃんが張り切っちゃうと困りますねって言ったら、ロリエス先生が私に任せろって、言って、それで……! 俺の先生かっこいい!」
 ナリアンを連れて各国の王の下を巡り、あれよあれよという間に許可証に判をつかせて行ったのだという。ロゼアとメーシャは無言で視線を交わしあい、頷きあった。これ絶対次からナリアンが行かされる流れだよな、手本は見せただろうって微笑まれるいつものだね、と理解しあうのに、ソキがちたちたしながら声をあげる。
「んもぉー! ソキにも分かるお話をしてくれなきゃいやんいやんだめだめぇ!」
「ソキ、ソキ。ごめんな」
「余裕がないな、ソキ」
 くす、と戸口で微笑ましそうに囁かれて。ソキはふくれっつらで視線を向けた。来訪者の多い日である。ロリエス先生ですぅ、とぐする声で呟けば、教員は珍しそうに室内に視線を向けながら、困り眉のロゼアに微笑した。
「すまないな、ロゼア。こちらの対応が決まりきらないばかりに、ソキに苦労をかけている。……一生懸命で、他に気を回す余裕がないんだろう。許しておやり」
「はい、分かっています。許可証をありがとうございました、ロリエス先生」
「うん。……余計な気を回したかな」
 いいえ、と穏やかに会話をするロゼアに髪を編んでもらいながら、ソキは静かにロリエスを見つめていた。扉に背を預けて室内に踏み込もうとしない姿を。うん、と首を傾げるロリエスを上から下まで確認して、ソキは安心してアスルをきゅむっと抱きなおした。
「ロリエス先生は、こわいこわいがちょっともないです!」
「ああ。それはよかった」
「え? 俺は? ソキ、ソキ、俺はー?」
 ひょい、とさらに室内を覗き込んだのはウィッシュである。あっ、先生ですっ、と嬉しそうに笑うソキに、ウィッシュはそうだよー、と言って視線で答えを促した。ソキはむむっとくちびるに力をこめてウィッシュを注視し、こく、と素直に頷いた。
「ウィッシュ先生も大丈夫です。こわいこわいがちょっともないです」
「わーい。……とすると、やっぱりエノーラの仮説が正しいんじゃ?」
「そうだな。何者かの魔力付与だろう。……楽しい気分ではないな、犯人が同胞というのは、どうも」
 ふたつ三つ編みの先を、鈴つきのリボンで結ばれる。鏡を持って確認しながら、ソキはきょとりと目を瞬かせた。
「エノーラさん? エノーラさんのこわいこわい、取れたぁ?」
「……ロリエス。魔力付与って脱着式だっけ……?」
「持ち返って検証するしかないな。錬金術師には負担もかけるが、仕方がない」
 ソキにはなにか通じるものがあるのだろうが、三人にはいまひとつ要点のつかめない会話である。髪油や櫛を箱にしまいながら状況の説明を乞うロゼアに、ロリエスはうん、と頷いて腕組みをした。
「現在、報告できる事柄は三つ。ひとつ、ソキの言っている『こわいこわい』に対しての仮説。これは今言ったが、恐らくは何者かによる魔力付与だが、目的その他は不明。魔力付与という特質から推測できる犯人は、錬金術師の可能性が高い。ちなみに犯人の最有力候補はエノーラとキムルで、当然のことながら二人とも否定している」
「錬金術師だけが、なにものかに対する魔力の付与を可能とする、という認識で間違いないでしょうか」
「いい質問だな、ロゼア」
 場所を講義室に移動してやりたいくらいだと心から褒めて告げ、ロリエスは変わらず室内には足を踏み入れずに口を開く。境界線の外で、その境に立ちながら。いとし子たちを守ろうとしているようにも見えた。
「原則的にはその筈だ。それを可能とする者、適性を持つ者が錬金術師と呼ばれる」
「例外もある、ということですね」
「そうだよ、メーシャ。その通りだ」
 いつの間にか、ナリアンは帳面を取り出して教員の言葉を書き留めていた。ロゼアとメーシャが考え込む中、ソキは三つ編みを摘み、ぴこぴこ振って鈴を鳴らしながら首を傾げる。
「でも、ソキ、ちょっとならできるですよ。アスルもねぇ、とっても頑張ったです」
「そうだな」
 ロリエスは微笑んで頷いた。あ、と納得の響きで新入生は声をあげる。そうか、例外、とメーシャが呟いた。
「ソキなら……リトリアさんも。予知魔術師であるなら可能、ということですか?」
「今の所は、そうだ」
「……他にも例外とされる術者が?」
 ロリエスは、ナリアンからの質問に中々頷こうとはしなかった。肯定にも、否定にも、迷っているようだった。代わりに、うん考え中ー、とのほほんと声をあげたのはウィッシュだ。
「でも詳しいことが分からないからさー、今聞きに行ってもらってんの。リトリアに」
「……リトリアさんに?」
「うん。色仕掛けでもなんでもしていいから聞き出して来いっていうご命令でねー。俺ねー頑張って仕込んじゃったー」
 えへー、褒めて褒めてとほわふわ笑う表情や仕草は、血の繋がりがなくとも、まさしくソキの兄である。隣で、無言で額に手を押し当てたロリエスは、新入生たちの問いかける視線には答えず、胃の痛みを絞るような声で言った。
「あの計画はなんで決行されたんだ……? あれは夜中の三時まで会議して決まらなくて、もういいお酒飲もうっ、て泣き出したラティがワインを三本空けたところで単語を適当に書いた紙を箱の中からいくつか引いて連想して、あみだくじに託して決めた結果だぞ……?」
「奇跡的になんかこう、あっもうそれでいいんじゃ行けるんじゃ……? って思っちゃったんだよねあの時は」
「王宮魔術師の皆様はなにしてらっしゃるんですか?」
 ちりちり鈴を鳴らし続けるソキの手から三つ編みを引き抜き、膝に抱き上げてやめさせながら、ロゼアがやや白んだ目で教員たちを問いただす。哲学的な問いを向けられた顔で、ロリエスは静かに頷いた。
「はじまりは会議だったんだが、終わったら酒宴だった」
「あの規模で集まれることってないもんね。大勢っていいよね、騒がしくて楽しくて」
「んもおおおー! ソキがけんめー! にぃー! ろぜあちゃをこわいこわいから守ってるですのにいいい!」
 皆もっとまじめにしてくれないとだめなんですよおおおっ、とぷんぷん怒り出すソキを、弱々しく抱き寄せて。ロゼアは深く息を吐き、うんそうだな、と言った。



 生乾きの髪をタオルで拭きながら、ロゼアが溜息をついている。寝台の上でころころアスルと戯れていたソキが意識を向けても、ロゼアから視線が向くことはなかった。その横顔は疲れきっている。ソキは寝台の上をもそもそ移動して、端に腰掛けているロゼアの背にくっついた。
 ん、と柔らかな声が降って来る。あまやかに笑む赤褐色の瞳。
「なに? だっこ?」
「ロゼアちゃん、おつかれです……。ソキのせいです……? ソキが言うこと聞かないからです……」
 でも、でも、だって。だってぇ、と呟いて、ソキはしおしおとうつむいてしまった。言うことを聞きたくない訳ではないし、悲しませたり、困らせたい訳ではないのだ。ソキはただ、ロゼアを守りたいだけなのである。そうできるのはソキだけだ、という確信があった。瞬きの向こうには暗闇がある。そこはなにかに塗りつぶされている。
 いそがなきゃ、と心が騒ぐ。はやく、はやく、いそいで、それをどうにかしないと。ロゼアが連れて行かれてしまう。そんな風にソキは思うのに、上手く伝える術を持たないでいる。アスルに頬をくっつけて落ち込んでいると、ふ、とロゼアが笑ったのが分かった。おいで、と囁き、抱き上げられる。
 膝の上に降ろされて、体がロゼアのほうに導かれる。くっついて、服からじわじわ染み込む体温に触れて、ソキはほわほわ息を吐き出した。もっとくっつきたい。とけてしまいたい。このぬくもりに。ひとつになりたい。ロゼアの指がソキのリボンをひっぱって、髪を解いていく。ちり、と鈴の音。リボンが寝台の上に滑り落ちる。
「ソキ」
 編んだ髪のくせが、指先でゆっくりと整えられていく。ソキのなかで、一番ロゼアに触れられているのは、髪だと思う。目をぎゅっと閉じて、さわられることに集中する。ふ、と耳に触れる近くで、笑い声。梳かされていた髪ごと、頭をやんわり抱き寄せられる。肩に。もっとちかくに。
「ソキ、ソキ。目をあけて」
 まぶたを、開く。すぐ近くにロゼアの口唇があった。さわりたい。さわって、ほしい。視線を持ち上げて目を覗き込めば、やわやわと肌をくすぐるような眼差しが、すぐソキを出迎えた。ふふ、と淡く笑って、頬が指で撫でられた。
「……きもちいい?」
 声がうまくでない。舌がもつれて、言葉がでない。だから代わりに、こく、と頷いて、ソキは満ちた息を吐き出した。熱につつまれている。体温にくるまれている。抱かれた腕の中で。ロゼアの眼差しがソキに絡んでいる。視線を反らすことができないでいる。それを許されないような気持ちでいる。
 とろとろの熱に、ゆっくり、瞬きをする。
「かわいい。ソキ」
 手と指だけが肌に触れている。ゆっくり、ゆっくり、撫でて愛でている。ロゼアの指が、すっと、ソキのくちびるをひと撫でした。紅を塗るように。指先に色はないのに。
「ソキ」
 目を閉じてしまったソキを、やんわり咎めるようにロゼアが呼んだ。ぷ、と頬を膨らませて、ソキは目を開く。
「ロゼアちゃん? ソキね、ソキね。きもちいいです」
「うん」
「もっとして……?」
 いいよ、と確かな喜びに緩んだロゼアの声が囁く。微笑んで。ロゼアはソキを抱き寄せなおした。
「約束できたら、もっとしような。俺の言うこと聞けるだろ? お返事は? ソキ」
「お返事……? はい、です……?」
「うん。じゃあ、俺と約束しような。アスルは投げちゃだめ。もう投げない」
 呪いは残しておくようにね、と。ロゼアはウィッシュに囁かれている。帰り際に。目を盗むように告げられた。もしも、万が一のことを考えると。ソキが自分の身を守れる力を、ロゼア以外に持ってるっていうのはいいことだよ。だから、とりあげないであげてね。あんまり怒らないであげてね、という囁きに、納得しきった訳ではないのだが。アスルを投げることだけは、どうにか止めさせなければいけないのだ。
 ソキの体は脆く弱く柔らかい。数日の乱暴な仕草は、もうソキの体を痛くしてしまうぎりぎりまで追い詰めていた。ソキは、興奮してあまりに必死で、分かっていないだけで。ソキ、ソキ、と囁きながら、ロゼアはくたくたに力の抜けた体をてのひらで撫でた。ゆったりと愛で。確認し、また、整えるように。夢うつつの眼差しで、ソキはロゼアが求めるままに返事した。もうアスルを投げない。こわいこわいが来たら、すぐロゼアを呼ぶから、アスルは投げない。
 だからさわって。もっと。さわってなでてきもちいいのして。ロゼアの、『花嫁』が。それを求める。甘い、蜂蜜めいた柔らかな声で。涙が滲むかすれた声で。ロゼアだけをその瞳に写して、何度も何度も囁き願う。さわってさわって。ねえ、ねえ。ロゼアは微笑んで許しを待った。いつものように。いつも、ロゼアは。たった一言。ただ一言。その言葉を。許しを。許可を。待っている。
 けれどもソキは、鍵を開くその言葉を、告げはしなかったので。ロゼアはふ、と笑って、己の欲望を水底に沈め。
「……触ってるよ」
 強くソキを抱き直して、刻まれた呪いじみた強さの教育が指し示す通りに。
「触ってるだろ……ソキ」
 囁き。己の『花嫁』を、その腕に抱えなおした。どこに送ることもない。もう二度と、失うことのない、ロゼアの花。ソキを。ロゼアの幸福の全てを。



 妖精がソキの元を訪れるのは、いつだって騒ぎが一段落した、落ち着いた頃合いである。偶然そうなっている訳ではない。巻き込まれるなど冗談ではないので、意図的に避けているだけである。魔術師であれば占星術師が特に長ける、先読み、星見の術を、魔力そのものに近しい妖精は、そうしたいと考えるだけで引き寄せる。魔術師がいう星の導きを、呼吸と同じように意識せず実行している。
 物語や伝承の中、妖精が幸福の遣いとされるのはその為である。つまり、不運な妖精というのは、それだけどんくさい生き物であるのだ。リボンちゃんたらソキが大変な時にはいっつも来てくれないです、とぷりぷり怒りながらも泣きそうに訴えたソキにそう説明し、妖精はほとほと呆れた顔つきで息を吐き出した。
「だからアタシが来たってことで、落ち着いたと思って喜べばいいのよ。わかった?」
「ソキが大変な時を避けてるですうううういけないですうううう!」
「……アンタ、なに? もしかして、アタシに傍にいて欲しかったの? そうなの?」
 そうならそうって言ってご覧なさいよ、とふくれた頬を膝で蹴りながら言ってやると、ソキは開いていた教科書に筆記具を転がして、拳を握り、力いっぱい言い切った。
「いてくれなくっちゃいけないですぅ!」
「……いて欲しいの? なに? アンタもしかして、心細かったとでも言うつもり?」
 甘えんぼ、と笑ってやると、ソキの頬がさらに膨らんだ。もう、もうっ、と不満を訴えようとするソキが妖精に文句を言うより早く、穏やかな、落ち着き払った柔和な声が花の名を呼ぶ。
「ソキ。授業中だろ。勉強しような」
「ろぜあちゃん? だってだって、リボンちゃんが、リボンちゃんがぁ……!」
「申し訳ありません、リボンさん。授業の終わりまで、すこし待っていて頂けますか?」
 ほら、とソキのちまこい手に筆記具を持ち直させる男を白んだ目で見つめ、妖精は降りていた机から、無言で空に浮かび上がってやった。授業停滞を咎めたのではなく、単にソキが妖精に甘えたり求めたりするのを辞めさせたようにも思えたが、まあ、気のせいだろう。気のせいだと思いたい。気のせいということにしておきたい。そこまで心が狭くなったとは、思うが、認識しなければ無いのとも同じである。
 腕を組んでソキの頭上で息を吐きながら、妖精は改めて、机周辺の様子を見回した。談話室の定位置。大きめの机を挟んでソファが向かい合わせに置かれている。ゆったりとした二人がけに、ソキとロゼアは隣り合って座っていた。向かいの二人がけは空席のままである。恐らくはあとでナリアンとメーシャが座るからだろうが、ものも置かれずに整えられているさまは、どこか空白の寂しさを感じさせた。
 妖精が説明を受けて整理した所によると、また騒ぎを起こしたソキの為に、授業が課題提出式に切り替わってこのような状態になったらしい。普通の座学よりもソキの理解がはやく、正確であるので、状態が落ち着いたあともこのままの方が良いのではないか、と意見が出て検討に入っているとのことだった。あっちへこっちへ教科書や筆記具を持ち歩き、教室を渡り歩いて受ける座学は、ソキの体力では難しいままである。
 一年の休学状態に等しかったソキの指南役を、ロゼアが請け負ってから、さらに成績は上昇し続けているらしい。妖精がみた所、ソキはロゼアにべったりひっつきすぎることもなく、ひたすらに教科書を読んで問題を解いては、考え込み、また教科書に戻り、参考書を手に取り、どうしてもどうしてもわからない所だけをいくつか纏めたあと、ようやくロゼアに声を掛けて問う、ということを繰り返していた。
 甘えて全部読んでもらったり、教えてもらうこともなく。その態度は集中しきっていて、誠実で、勤勉だった。ふむ、と妖精は考え込み、早々に結論を下す。そもそもソキは、大人数の雑多な状態の中に身を置く、ということに慣れていないのだ。座学の、集団という中では、その状態こそが負荷を掛けていたに違いない。本人は意識していなかっただろうが。
 談話室は、静かだった。それでいて静かすぎることはなく、人のいる穏やかさに満ちている。様々理由はあるだろうが、ロゼアが部屋に籠もりきりになるのではなく、わざわざソキをこの場所へ連れ出しているのは、それが理由に違いない。ソキの為の環境を整える為なら、どんなことでもする男である。妖精はうんざりと息を吐き、ソキが膝上に乗せたままにしている、アスルに視線を落とした。
 ソキ曰く。あんまり覚えがないんですけど約束しちゃったですので、投げたら、あんまり投げたらいけなくなってしまったです。アスルはちょっと休憩というやつです、今度は転がすです、という呪いつきのふわふわぬいぐるみは、つぶらな瞳で今日もソキの魔力を纏っていた。発言を聞く分に、ソキが問題の本質をとらえて十分に反省しているとは思いがたかったが、ロゼアがどうにか、投げることを辞めさせたというのなら、そこだけは評価してやろうと妖精は思っていた。
 そもそもコイツ投げるとかできたのかと妖精は思ったのだが、聞けば『お屋敷』でちゃんと教わっていたのだという。ロゼアの笑みが無言で深まったので、恐らく教員役は男以外の誰かであったに違いない。つくづくソキに関して心の狭い男だ。こんな男やめておきなさいと妖精は正直なところ思うのだが、ソキのでもでもだってが延々と続くのが分かりきっていたので、今のところ、口に出す回数はそう多くない。
 ううん、と眉を寄せて教本を読み込むソキの意識を引いてしまわないよう、音もなく。妖精はソキの膝上へ降り立った。そこへまるっこく乗せられているアスルの上へ。まとう呪いに直に触れる。ソキが執念深い精密さで編み上げたその呪いに。触れて、読み解いて、妖精はしぶい顔をした。防衛だとすれば、やり過ぎている。攻撃だとすれば、後先を考えていない。呪いそのものは高度だが、運用がつたなく、連続性に乏しかった。
 一撃必殺。ただし、後がない。確実にあたるようにとの術式も組み込まれている。定められればそれで最後。標的は逃れるすべを持たない。それはいい。だが、アスルはひとつである。ひとつしかない武器を、どうして手元から離すのか。考えて、妖精は額に手を押し当てた。そうだった、と思う。慣れていないのだ。座学のざわめき、集団という場に、どうしても調和しきれず負担が積み重なっていたように。
 守ることも、攻撃することも。それそのものに、ソキは慣れていない。そうするのはいつも、ロゼアの役目であった筈だ。ロゼアに託されてしかるべきものであった筈なのだ。妖精は白んだ目でロゼアを確認した。すぐ分かる場所に、短剣がひとつ。柄に紫水晶の飾りが光っているので、これは魔術師としてのロゼアの武器だろう。武装と思うには首を捻るが、注視すれば他にもいくつか確認できた。
 武器そのものの形は、巧妙に隠されている。しかし妖精の目は欺けない。魔術師であるなら、慣れ親しんだ物品には必ず、本人の痕跡が淡く残る。その無意識の性質を、意図して使える者だけを錬金術師と呼ぶだけで。魔力は染み込み、痕跡を残す。魔術師の目は欺けたのだとしても。妖精の目から、逃れきれるものではない。見える位置に、ひとつ。すぐ取り出せる懐に、もうひとつ。背に、ひとつ。袖口にひとつずつ。
 見れば靴にもなにか仕込んでいる。なにが、とまでは妖精には分からないが。
「……ロゼア。忠告しておいてあげるけど、魔術師が過剰防衛と判断されるとね。最低独房半月よ?」
 ソキの呪いの威力も過剰であるが、理由が理由であり、被害者の数がまだ少ない為に見逃されたのだろう。ロゼアは妖精の言葉に、ごく穏やかに微笑んだ。頷かれる。
「過剰にするつもりはありませんよ。必要なことだけをします」
 手加減をできないソキと違って、ロゼアはそれを心得ている。余裕さえ感じさせる態度に、妖精は苛々と羽根をぱたつかせた。正直、妖精はロゼアが独房にぶちこまれようと罪に問われようと、指さして笑ってざまぁみろくらいしか思わないのだが。そんなことになったら大変なのはソキである。それこそ世界を呪いかねない。泣いて、泣いて。ロゼアを求めて。
 ソキを守る、というのは難儀なことである。本人を安全な場所に置くのみならず、ロゼアをどうにかしなければいけないのだ。過剰防衛させないように、だとか。そもそもロゼア本人も怪我をさせないようにしなければいけない、だとか。ロゼアが万一、ソキを守る過程で怪我をしたとなると、考えるだけに頭が痛い。ソキが怒り狂うことは目に見えていた。
 世界に対して解き放たれる、怒りを乗せた『花嫁』の呪いがいかほどのものかは。すでにウィッシュが実証していた。
「ソキが傷つくようなことにはなりませんよ」
「……どうだか」
 信じてやりたい、とは思う。他ならぬソキの為に。ロゼアの言葉を信じて、託すべきだとも思うのだが。どうも先日から信頼ならないような気がするのだ。妖精の第六感が、なぜかロゼアに対して苛々するのである。荒れて波立つ水面のように。なにかが警鐘を響かせている。それは怒りに一番よく似ている。あるいは、不審と呼ぶべきなにものかに。
 妖精は目を眇めてロゼアを睨んだ。息を吸い込んで、言い聞かせるように発声する。
「アタシは、ソキの味方しかしない。だからアタシは、アタシの判断と、ソキの意思を信じる。アンタじゃない」
「ええ。分かっています」
 言い聞かせる相手が、己か。ロゼアなのか。判断ができない。妖精はロゼアを油断なく見据えた。なんだろう、と思う。いつもと変わらないいけ好かない男だと、思う。でも、それだけではない気がした。気に入らないものが増えている。そんな風に感じる。例えるなら、身に纏う香水。良いにおいと感じるか、顔をしかめるかは個人の好みに寄るところも大きい。
 その、気にならないくらいに微量だった、嫌なにおいが。増えている。すべり落ちる時計の砂のように。ぞろぞろと増えていく。それがロゼアのものなのか。それとも、押しつけられたなにかであるのかが。妖精には分からない。それは馴染んで溶け込んでひとつになってしまっている。ロゼアと。そのなにかいやなものが。でもそれが、元々別個であったのか。最初からひとつだったのか。分からない。
 ロゼアの案内妖精ではなかったからだ。目覚めてすぐの状態を知らないからだ。シディを連れてくるんだったと悔やみながら、妖精はソキの脚をぺしっと叩く。やぁん、とふわふわした声で嫌がられるのに、妖精はいいこと、と険しい眼差しで言った。
「ロゼアばっかり気にしてないで、アンタはちゃんと自分で! いい? 自分で、自分のことも、ちゃんと面倒見なさいよ?」
「はぁーい」
「あと……ロゼアを」
 なんで。こんなことを言わなければいけないのか。どうせ聞きもしないであろう相手に。そのことにさらに苛立ちながら、妖精は己の第六感の命ずるまま、ソキにしっかりと忠告をした。
「ロゼアを信じすぎるんじゃないのよ」
 妖精の言葉は魔力を帯びる。意識すればそれは、魔術師に対してはきとした警告となるだろう。わざわざそうしてやったのに、ソキはくちびるをつつんと尖らせて、またリボンちゃんはそうやってロゼアちゃんをいじめるぅ、と言った。べしべしソキの太ももを叩いて嫌がられながら、妖精はシディに確認しておかなければ、と思った。必要であれば、羽根を掴んで引っ張ってきて、目視させるのがいいだろう。
 妖精の感じる嫌なもの、を。ソキは『こわいこわい』と呼んでいる。

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