前へ / 戻る / 次へ

 談話室の入り口には、掲示用のコルクボードが設置されている。授業の延期や変更、持ち物のお知らせやちょっとした小遣い稼ぎのできる就労情報などの紙が事細かに張られたその場所に、一枚の大きな紙が張り出された。ソキの身長ほどもある、特大の紙である。まだ墨の乾ききらない筆書きで、こう記載されていた。
「ソキに近づくべからず……。ソキに、近づくべからず、です……!」
 上から下まで何回読んでも、その一言しか書かれていない。申し訳程度の補足として、被害拡大を防ぐ為、と付け加えられていた。ああ、そうなるよね、と理解しかない視線を投げかけ、生徒たちはぱたぱたと談話室を出入している。コルクボードのまん前に立って。ソキはぷるぷる体を震わせ、ふにゃああぁあっ、と怒りの声をあげた。
「あんまりですううううう!」
 これではまるで、ソキが悪いみたいである。ひどいことですうう、と怒りながら、ソキは両腕にしっかと抱いたアスルに、うりうりと頬をこすりつけた。ここ数日、片時も離さなかったせいで、アスルはちょっとゴワついてきてしまっている。お洗濯が必要かもです、とくちびるを尖らせてつぶらな瞳と見つめあい、ソキはこっくりと頷いた。
「ソキがまふまふのほわほわにしてあげるですからね……! ろぜあちゃぁん」
 甘えた声でてちてちコルクボードの前から離れ、ソキは定位置のソファ前まで歩いていく。あんまりです、ひどいお知らせだたです、と言いつけながらソファに座り、ソキはアスルをずいと差し出した。
「ロゼアちゃん。アスルがきれーになりたい頃合い、というやつです」
「ん? 洗う? ……あー、ごわごわしてるな……」
 アスルにひっついた綿埃を摘んで捨て、ロゼアは深く息を吐き出した。
「ソキ。またアスル投げたろ」
「アスルはソキと一緒にけんめいに頑張っているです。命中させないといけないです。練習をしたです。えらい?」
 ロゼアが朝の運動をしている間にもそもそ起きて、ぽんぽん投げて、ちからつきてもう一回寝たのである。褒めていいんですよ、と自慢げにするソキに、ロゼアは困った息を吐き出した。
「……ソキ、おいで」
 抱き上げて、膝の上に降ろされる。腰に腕が回されて、抱き寄せられた。肩に頬をくっつけると、うっとりするような心地よさで頭が撫でられる。
「投げたら駄目だろ。腕を痛くするだろ」
「ロゼアちゃんがねらわれているです。ソキにはわかるです」
 今日だって、こわいこわいはいる気がするのである。くちびるを尖らせながらあたりを見回せば、なんとなくその気配が漂っている気がした。面談をする前のような、あからさまな、分かりやすいものではなくなっているのだけれど。じっと息を殺してソキの様子を伺っている。ソキがロゼアを守っているからだ。ふんす、と鼻を鳴らすソキに、困ったね、とメーシャが笑った。
「どう狙われてるの?」
「あのね、あのね。じーっと見てるです。きっと、ロゼアちゃんがむぼーびになるのを待っているです……! ロゼアちゃん? いーい? ひとりになったらいけないですよ。きっと、きっと、ゆうかいをもくろんでいるにちぁいないです!」
 興奮と恐怖のあまり、ソキの口調はたどたどしい。早口で、もつれながらの響きに、メーシャはんー、とすこしだけ考えた。あ、誘拐、と手を打って、メーシャは穏やかに微笑した。
「ロゼア、誘拐されそうなの? それは困ったね」
「俺は今も困ってるよ……。されないよ。ソキ、ソキ。どうしてそう思ったの?」
「こわいこわいだもん」
 どうしてもなにも、前科があるのである。ソキがされたので、次はロゼアを、と思っているに違いない。ぜったいにそうである。ふくれっつらで訴えるソキに、ロゼアは息を吐いて囁いた。
「こわいこわいは、俺を誘拐したがってるの? なんでそう思うんだ?」
「大丈夫ですよぉ、ロゼアちゃん。ソキがアスルと守ってあげます!」
「ロゼアは嫌な感じとかは、しないの?」
 ソキがこれだけ騒いでいるのに、ロゼアが弱りきっているばかりであるのも珍しい。笑いを堪えながらメーシャが問えば、ロゼアは考え込む顔つきをしながらも、首を横に振った。
「言われてみると、見られている感じがしないこともないけど……ソキが言うような企てがあるものだとは……」
「ロゼア、モテるもんね」
「からかうなよ。メーシャに言われたくないし、ソキほどでもないよ。ソキに対する視線なら、もっとよく分かるんだけどな」
 それが観察であれ、観賞であれ、情欲であれ、悪意であれ。ソキに絡みつくものであるなら。それを判別し、対処するまでが日常の行い。でえぇっしょおおお、となぜか自慢げにふんぞりかえったソキは、ロゼアに頬をくっつけてから言った。
「でも、でも、でもぉ? ロゼアちゃんはソキの! そきのー、ですぅー。そきのー」
「うん。俺はソキのだよ。……だから、誘拐されたりしないよ」
 だいたい、ウィッシュが持ち帰って各国魔術師と検討した結果として、狙われているとしたらソキだから警戒を怠らないようにね、と言われたのはロゼアである。その一環としての、不用意にソキに近づくべからず、なのだ。ソキから攻撃される危険もあるとはいえ、アスルを投げたら、回収するまでの間は無防備である。一対一以上になれば、危ないのはソキなのだった。
 おかげで、当面のソキは座学に出席停止処分である。万一がない、とは限らないからだ。それでも出席が停止されただけで、補う為の宿題はわんさかと出されている。長く寝込んでいた去年のように、過度に遅れてしまう心配はない。ウィッシュも様子見がてら、実技授業はしに来ると告げていたので、ソキの心配事はロゼアだけなのであった。
 談話室で課題に取り組むソキと違って、ロゼアには通常授業が課せられている。ソキに用事がある者の間を取り次ぐため、メーシャとナリアンが授業時間を組みなおして、どちらかが必ず傍にいてくれる約束とはいえ。そうじゃないのである。ソキじゃなくてロゼアなのである。ソキはぷっと頬を膨らませ、じゃあアスルを洗ってくるから、と席を立とうとするロゼアに、慌てて抱きついた。
「ロゼアちゃん! ひとりで行っちゃだめですぅ、ソキも一緒に行くですぅ」
「ソキ。ソキは課題があって、授業中だろ」
 教室に移動しない代わりの、談話室にて課題解きなのである。授業が終われば講師が訪れ、取り組んだ課題を回収していく手はずになっている。ロゼアはたまたま休みの時間であるから、動くことができるだけだ。ソキに付き合って課題式授業に切り替えてくれたメーシャは、微笑ましそうに見守るだけで口を挟まない。んんん、とぐずるソキに、ロゼアは開きっぱなしの教本を手に取った。
 出された課題と見比べて、ロゼアはとん、と紙面に指先を置いて告げる。
「ソキがここまで終わる頃に戻ってくるよ。分からない所あったらメーシャに聞こうな」
 メーシャに課題式授業の切り替え許可が下りたのは、不明点が出たソキに教える者が必要だからである。同じ手続きをナリアンも行っているので、昼からその役目が引き継がれることになっていた。ソキはしぶしぶ頷いて、わかったです、と呟く。
「ソキは課題をちゃぁんとするです……ロゼアちゃんはアスルをぷわぽわにしてくれるです……。ソキはメーシャくんと一緒にお勉強をするです。えらい? えらい? かわいい?」
「うん。偉いな、ソキ。偉くてかわいいからぎゅっとしような」
「きゃぁあんぎゅぅーっ!」
 課題式授業の切り替え許可は、各担当教員の印鑑が必要となっている。多忙を極めるロリエスは、それ故にすぐに返事を戻した。特別便で転移させた、ものの数秒後の出来事だった。ストルは、各国との連絡役としてぱたぱた動き回っているリトリアが、朝食の席に現われてメーシャにそれを手渡した。チェチェ、ちょっと忙しくてもうすこしかかりそうなの、とロゼアには申し訳なく告げられていた。午後の実技授業の時には、一緒に手渡すことができる筈だという。
 午前中は俺に任せて頑張ろうね、と笑むメーシャに息を吐いて。ロゼアはソキをぎゅっとしてから、足早に談話室を立ち去っていく。見送って、ふっと現われたものに、ソキは目をぱちくりさせる。赤い鉱石の蝶が、ロゼアの後をふよほよと追いかけていく。ソキの魔力の具現だった。こぼれちゃったです、とソキの呟きに、メーシャは心配性だね、と言って笑った。



 水洗いしてぎゅうぎゅうに汚れを絞り出されたアスルは、ぺっちょり潰れてへちょへちょになっていた。柑橘石鹸のいい匂いがする。膝の上で布を押し当て、とんとん、と叩いて水気を取るロゼアに、ソキはちらちらと目をやった。
「アスルつぶれちゃったです……」
「すぐにふわふわになるよ、もうちょっと」
「もうちょっと? あする、あするぅ……もうちょっとの我慢ですからね。すぐにロゼアちゃんがぷわぷわにしてくれるですからね。そうしたら、またソキと一緒にけんめいに頑張るですよ」
 課題しような、とやんわり促され、ソキはくちびるを尖らせながら机に向き直った。すでにメーシャは命じられた分をやり終えていて、身を乗り出してソキの手元を覗き込んで囁き落としてくれたり、ロゼアに感心したりと自由に過ごしている。
「アスルって、ロゼアの手洗いだったんだ……石鹸も、いつもロゼアが使ってるのとは違うね?」
「あれは俺の浴用。これは、アスル用」
 専用の石鹸を『お屋敷』から取り寄せているのだと聞いて、メーシャはゆっくりと頷いた。ロゼアがソキ用品に関してこだわるのは、いつものことである。ロゼアはソキに関してほんと惜しまないよね、としみじみするメーシャにそうでしょうそうでしょうと自慢しつつ、ソキは教本にしおりを挟んだ。
 授業時間を示す砂時計には、まだいくらかの残りがある。自慢いっぱいな顔でこくりと頷き、ソキはソファの端に座っていたロゼアににじり寄った。背中にぺとんとくっついて、膝の上を覗き込む。
「ロゼアちゃん? ソキは課題をちゃーんと終わらせたです。だからアスルを乾かすとこ見てるです」
「いいよ。ちょっと待って」
 天気のいい夏は、ハンモックで木の間に一日ぶら下げて乾燥させるのだが。外はもう冷たい風が吹く十一月だ。最近はもっぱら、ソキの髪と同じくロゼアの手乾燥である。メーシャも机に肘を突いて視線を向ける中、ロゼアは水を吸ったタオルを退け、ソキの頭を撫でてふにゃふにゃ鳴かせてからアスルを持ち直した。詠唱はなく。す、とロゼアが集中したのを感じて、ソキはうっとり息を吐き出した。
 ロゼアの魔力は暖かくて気持ちいい。お日様の熱をいっぱいに吸い込んだシーツに包まれる気持ちになる。てのひらに集まった熱が、アスルをふわふわに乾かしていくのを見つめながら、ソキはゆるんだあくびをした。授業中に寝ちゃだめだよソキ、とメーシャが笑う。ねむたい目でこくん、と頷いて、ソキはロゼアにくっつきなおした。
「あ、ソキ。いけないんだ。寝ちゃうね?」
 目を閉じてぬくもりを堪能しながら、本能的に魔力を追う。ねないもん、とメーシャに告げると、ロゼアの手がソキの頬を撫でていく。ふにゃうにゃ、くすぐったさと、気持ちよさに笑う。ふ、と緩んだロゼアの笑い声。
「……うとうとしてる」
「ソキ、夜は眠れているの?」
 頬、首筋。ゆるゆる指先が撫でていく。顎の下。肌を擦るように指先が触れる。
「うん。夜は寝てるよ。でも、今日は昼寝もさせないとな、と思ってる。昨日はしなかったから」
「そっか。うん、頑張って寝かしつけるね」
「ありがとう。ナリアンにも頼んで行くけど……寝たがらなかったら、横にはさせておいてくれるか?」
 ひかり。砂漠に満ちる金のひかり。ソキをくすぐって暖めてしあわせにする陽光。ふわふわの熱。それに。ちか、と瞬くようなものがあった。ちいさい。それは星屑の欠片のような。飛び散った雨の雫のような。じわ、と広がる黒点。インク染み。じわじわ広がって溶けていく。なにを考えるよりはやく、ソキはぴああああと声をあげた。
「こわいこわいですうううううっ!」
「え、ちょっ、わ! わ!」
 ロゼアの手が、乾いたアスルをばふばふと叩く。出力調整が乱れたらしい。よかった焦げてない、と心底安堵するロゼアにひっつきなおしながら、ソキはきょろきょろ忙しなくあたりを見回した。ソキにはちゃんと分かった。あの黒い魔力はこわいこわいである。こわいこわいはやっぱり近くにいるに違いないのだ。しかしいくら談話室を確認しても、それらしき者は分からなかった。
 突然声をあげたソキに驚いた視線はいくつもあったが、すぐ、なんだ寝ぼけちゃっただけか、と微笑ましく離れていく。くしくし目をこすって、ソキはぷっと頬を膨らませた。
「ちぁうもん。ソキ、そき、いま、ねむてなかたです!」
「おはよう、ソキ。授業終わりだから、先生が来るよ。もう起きていないとだめだよ」
「ねむむなかたもん。ほんとだもん……」
 ふあふああくびをして、ソキは目をこすった。ちょっとうとうとしてしまったかも知れないけど、でも、眠ってはいなかったのである。つまり寝ぼけたのとは違うのである。嫌な夢を見るようなら俺も協力できるよ、ありがとうなメーシャ、とりあえず今日は寝室に焚く香草を変えてみようと思っていて、お昼寝の時にも使おうか香炉とかでいいのかな、と会話が意識の上を滑っていく。
 のたのた瞬きをしながら、ソキの意識はまだ魔力を追っていた。ロゼアの魔力、メーシャの魔力、ソキの魔力。談話室にいる生徒たちの、世界に満ちる大気に溶け込むきらめき。欠片。祝福の渦。ううん、とソキは眉を寄せ、こて、と首を傾げた。
「分からなくなっちゃったです……あ! ロゼアちゃん? アスル乾いたぁ?」
「うん。確認するな……」
 ばふばふとアスルを揉んで叩いて、焦げていたり過度に熱くなっている箇所がないことを、もう一度確認して。ロゼアは全身を脱力させるような息を吐くと、ソキを膝の上に抱き上げた。もぞもぞ座りなおすソキの手に、ころん、とアスルが戻ってくる。まふまふのぷわぷわのほわほわだった。よかったねえアスルううううっ、と満面の笑みで頬をすりつけるソキに、メーシャが安心した風に目を和ませる。
「よかったね、ロゼア。燃えないで」
 寮や授業棟には、一応、未熟な魔術師が魔力を暴走させてしまわないように、予防と守護の魔術がかけられてはいるのだが。突発的な事故を完全に防いでくれるものではなく、また必ずの保障がされるものではないのだ。火災が起きない装置ではなく、火が燃えた時に広がらないよう速やかに消火する機能だと思っておけ、と寮長からは説明がされている。
「ソキも、だめだよ。急に大きな声だしちゃ」
「メーシャくん? だって、こわいこわいだったです」
 これはもう、けんめいにロゼアを守らなければいけない。やっぱり狙われてるです、ソキにはわかっちゃったです、と気合を入れなおしていると、ロゼアが立ち上がる。当然のように、ソキを抱いたまま、である。きょとん、とするソキを抱っこしたまま、ロゼアはメーシャにちょっと悪いけど、と言った。
「着替えさせてくるから、課題の提出しておいて貰えるかな」
「うん。それがいいね。行ってらっしゃい」
「ソキ。ちょっと違う服にしよう。かわいいのにしような」
 ロゼアが自ら着せ替えてくれるのであれば、ソキに否やがある筈もない。手間隙かけてもらうのは大好きである。そうするです、と機嫌よく頷いたソキに微笑み、いいこだな、と囁いて。ロゼアは部屋に向かって歩き出した。



 ロゼアは実に手早くソキを着替えさせ、談話室に戻して己の授業に駆け出していった。えっちらおっちら赤い蝶が後を追い、ソキは不満顔でアスルをもぎゅもぎゅと押しつぶす。
「なんだか騙された気がすぅです……」
「気のせいだよ、ソキ」
 うるわしく楽しげな笑みでメーシャが囁く。そうかなぁそうですぅ、と疑問たっぷりの声で頬を膨らませ、ソキは膝上のアスルをもぎゅもぎゅとつぶした。まあるいアスルが、やや楕円形に伸ばされていく。いいの、と問われたのでソキはアスルをころりと半回転させ、またもぎゅもぎゅと押しつぶした。
「だってえ、このお服だと、アスルをえい! ってできないです。攻撃力がさがっちゃたです!」
 文字を書いたり、アスルをぎゅむっとつぶしたりするくらいなら問題がないのだが。ほんのちょっぴり小さい服なのである。成長したですから、これはもうお下がりさんというやつです、と衣装箱にしまっておいた筈のものである。着るのに不自由はないが、上半身のつくりがもうぴったりしていて、腕を大きく動かしてアスルを投げることは難しい。スカートもやや重たい生地で、動かないでいるには問題が無いが、あちこちへ行くには疲れてしまう。
 これじゃロゼアちゃんのお迎えにもいけないです、と落ち込むソキに、戻ってくるまで待っていようね、と言い聞かせて。攻撃力か、と言葉そのものを面白がるように呟いて、メーシャはやんわりとした仕草で頷いた。
「うん。下げていいんだよ?」
「ええぇ……! もう、メーシャくん? いーい?」
 つん、とくちびるを尖らせて、ソキは微笑ましさでいっぱいの顔をするメーシャに、真面目な声で言い聞かせた。
「こわいこわい、ですよ? こわいこわい。ソキは、こわいこわいからロゼアちゃんを守ってるです」
「ソキ。それについては、いま先生たちがうんと頑張ってくださっているからね。ソキがそんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
 異変が起きている、これは事実である。ソキがそれを認識している、これも事実である。情報は隠されず、速やかに生徒に対しても共有された。その原因解明の為に、教員に割り当てられている者も奔走する可能性があり、授業が一部滞る可能性がある為である。それでもリトリアの時と違い、学内に強張った雰囲気が現われることがなかった。騒いでいるのがソキだからである。
 本人は真剣で、深刻で、本当に一生懸命なんだろうな、というのは全体に伝わっている。王宮魔術師が連携して動く事態であるから、大事であることも分かっている。だが、その上で、騒いでいるのがソキなのである。蜂蜜みたいにとろけた甘い声と、外見の愛らしさが、緊張感という緊張感、警戒という警戒を、ことごとく台無しにして粉砕してしまっていた。
 呪うくらいに追い詰められいるのは分かる。でも可愛い。かわいいしか残らないかわいい、というのが、医務室で呪いの解除を受けたルルクの、溜息交じりの第一声だった。だいたい、訴えている言葉が『こわいこわい』である。うん、そっかー、そっかー、と微笑んで聞いた女子生徒が、わかってくれてないですううう、とげきおこされるに至っても、悲壮感その他困惑が、生まれる気配は終ぞ無かった。
 だいたい、怒っているのがあいらしすぎて、激怒という単語をどうしても当てはめられないのも一因である。メーシャも、ナリアンも、ソキがほんとうに一生懸命に、必死に、なにかを伝えようとしていることは分かるし、教員が動いているのでそれが本当に警戒すべきことだというのも理解はしている。理解はしているのだが。それはそれとして。
「ソキはなんていうか……うん、すごいね」
「でえぇっしょおおお? う、うきゅっ……うう、動きにくいですぅ……」
 ふんぞりかえろうとして、布がびんっと張ったのだろう。やや猫背気味になって呟き、ソキはもぎゅもぎゅとアスルを押しつぶした。せっかくまあるく戻りかけていたアスルが、また楕円形にのされていく。つぶれちゃうよ、かわいそうだよ、と言うとソキはようやくアスルいじめをやめ、腕に抱えてぎゅむっと抱きしめた。
「ちっちゃいお服を着せるだなんて、いけないことです。ソキがちーちゃくなっちゃうかもです!」
「うん。ならないから大丈夫だよ、ソキ。さ、授業の時間だから課題しよう?」
 動くとちょっとつっぱるかも知れないけど、着ててキツかったり、気持ち悪くならないことは念入りに確認したから、と告げられている。ロゼアがソキに対して念入りに、と言ったのであれば、確実なことだった。もう、もぉうっ、とやや拗ねて怒りながら、ソキは素直に机に向き合って、教本を開く。もくもくと読み込むのを見守っていると、メーシャくん、と戻ってきたナリアンが隣のソファへ腰かけた。
「調子はどう? 順調に進んでる? ロゼアと行き会ったけど、急いでであんまり話せなくて」
「やるとなると、ちゃんと時間までには全部終わらせるから、ソキはまじめだなって感心してた所。ナリアンは、これから昼までお休み?」
「授業はないけど、ロリエス先生の課題がある」
 ナリアンがドン引きする勢いで課題式授業の切り替え許可を送ってきたロリエスは、直後に空き時間もあるだろう、と微笑が見えるような筆跡も鮮やかに、山のような課題を送ってきた。おかげで実験交じりの座学だけ受けてきた後、ナリアンはその課題に取り組まなければいけなくなったのである。休憩時間などない。しかもまだ授業でやってない範囲を予習しておけっていう内容だった、と顔を手で覆うナリアンを、メーシャが穏やかに慰める。
「俺も、ストル先生から予習の課題を頂いてるんだ。ナリアンと協力して進めるようにって仰っていたから、きっと同じものだよ。大丈夫。一緒に頑張ろう?」
「メーシャくん……! えっ、メーシャくんまで課題で溺れ死ぬことになったのどうしたの寮長殴る?」
「殴らない。違うよ、ナリアン。大丈夫だよ。落ち着こうね」
 ぽんぽんぽん、と両手で肩を叩き。メーシャは落ち着こうね、ときらびやかな笑みでもう一度繰り返し、くすぐったそうなはにかみで告げた。
「なんだかね、課外授業に連れて行ってくださる計画なんだって。俺と、ナリアンのことを。遠足だと思って準備しなさい、って先生が。俺、遠足ってはじめてなんだ。覚えてないだけかも知れないけど。楽しみだな、どんなのかな……。ナリアンは、その、行ったことある? 遠足」
「遠足……。うん、何回か覚えがある、かな」
 城に見学に行ったり、植物園に出かけたりした記憶が、なんとなく残っていた。ばっちゃと一緒に行ったな、としあわせを思い出しながらも、きゅっと胸の痛んだ表情でほろにがく笑うナリアンに。そっか、とメーシャは頷いた。
「ナリアンと一緒で、嬉しいな。……課題って、えーっと、魔術安定の視認調査? ナリアンのもそう?」
「うん、同じだ。どこに遠足に行くのかは聞いた?」
「聞いてない。リトリアさんが届けてくれた手紙に書いてあっただけだから。提出する時に聞いてみようかな」
 時間を見つけて、受け取りには行くから待っていて欲しい、と書いてあったのだという。ストルさんたら、どうしてもメーシャくんの顔を見たいのですって、とつんと唇を尖らせていたリトリアは、私からは最近視線を逸らすくせに、とむくれていた。師の心情が手に取るように分かったメーシャは、そのうち、また視線があうようになりますよ、とリトリアを見送った。
 恐らく、ようやく想いが通じ合ったリトリアがかわいすぎて直視できていないだけである。
「……あれ? あれ? ナリアンくんがいるぅー! やぁん、教えてくれなくっちゃだめなんですよぉ」
 ちがうですよ、無視をしていたんじゃないです、ソキは授業をけんめいにしていてちょっぴり分からなかっただけです、と慌てながら言うソキに、ナリアンは分かってるよ、と慈愛のこもる目で頷いた。ナリアンも、メーシャや学園の生徒たちと同じく、ソキの印象としてかわいいが先行し過ぎているが故に事の重大さをいまひとつ理解しきれていない勢のひとりである。
 分からないけど、ソキちゃんを怖がらせるならころそうよ、と言って、寮長に正座のち一時間みっちり説教されていたのは、昨日の夜のこと。冗談でも言うな、ではなく。本気で言うな、という怒られ方だった。ナリアンの目は本気だった。妖精に、ソキになにかあった時の殺意が高め、という評価を得ているだけはある。
「ソキちゃん」
 柔らかな声で、ナリアンは囁く。
「俺には分からないけど、でも、怖かったらすぐに俺を呼んでね」
「わかったです」
「俺のことも呼んでね、ソキ」
 半分は、暴走しがちなナリアンを止める為に、である。メーシャにも真面目な顔でこっくり頷き、分かったです、と言って。ソキはアスルをもぎゅもぎゅ潰していじめた後、途切れた集中がまた繋がったかのように、静かに教本を読み始めた。授業態度としては真面目で、勤勉なのが常である。しばらくそうして読み進め、課題の記された紙を引き寄せ、つっかえながらもそれに全て書きこんで。
 でーきたーですーぅ、と満面の笑みで顔をあげ、授業時間の砂時計を確認する。まだすこしばかり残っていた。よゆーがあるということです、すごいです、これは褒めてもらわねばです、ときょろきょろあたりを見回して。ソキはがっかりした顔で、机に頬をぺとん、とつけた。
「そうでしたロゼアちゃん授業だったです……。ねえ、ねえねえナリアンくん。帰ってくる時に、ロゼアちゃんにお会いした? ソキにロゼアちゃんのお話をして?」
「ごめんねソキちゃん。すれ違っただけで、おつかれさま、またあとでね、くらいしか話はしてないんだ」
「そうなの……。ソキはもうロゼアちゃんにぎゅってして欲しくなっちゃったです。ロゼアちゃんの褒めが足りなくなっちゃったです。ろぜあちゃぁん……」
 ほめてほめてソキは頑張ったです、おふたりともロゼアちゃんが戻ってきたらそれをめいっぱい教えてくれなくっちゃだめです、と強請られて、ナリアンとメーシャは顔を見合わせて笑った。もちろん、と言うと、ソキは顔をあげてぱっと笑う。
「これでロゼアちゃんはソキを褒めてくれるです……! 授業中のかっこいいロゼアちゃんは、あとで先輩にお聞きすることにするです」
「ソキの蝶ちゃん、ついて行ったんじゃないの? あのことお話はできないの?」
「あ! あかちょーちょちゃん! あかちょーちょちゃんにロゼアちゃんのおはなしきくですうううう」
 きっとロゼアちゃんのお肩とか、おせなかとかに、ぴとっとくっついてちたちたしているに違いないですいいなぁあかちょーちょちゃんいいなぁ、ともじもじするソキに、和んだ笑みを浮かべながら。ナリアンはふとすれ違ったロゼアのことを思い出す。赤い鉱石の蝶。ソキの魔力の具現。それはロゼアの髪や肩、背にはくっついていなかったような気がした。
 追いかけるのと、すれ違った気もしない。移動速度がソキと同じくらいであるので、遥か彼方からふよほよ、えっちらおっちら追いかけていた可能性はあるのだが。やがて授業を終えて戻って来たロゼアは、赤い蝶を見ていない、といい。ちょーちょちゃんはぐれちゃったに違いないです、とソキはひとしきりガッカリした。持ち主からはぐれた魔力の具現は、やがて自然に世界へ解け消える。
 柔らかな風の中へ。己の親しい友の中へ。ソキの魔力が解けた気は、せず。ナリアンはすこしばかり首を傾げた。

前へ / 戻る / 次へ