寮の前にある開けた空間に、魔術師達が次々と集まっている。それはまさしく遠足の朝の集合めいていたが、集まっている者たちが全員成人していて、一部は正装もしている為になにか式典めいた雰囲気すら漂う。おはよう、久しぶり、元気にしていた、最近どうなの。ね、あの噂、どうなのかな。
囁きはいくつも重なって響き、やがて大きなざわめきとなる。朝食を終え、授業までの時間を計りながら談話室にいたソキは、そのなんとも言えない雰囲気に眉を寄せた。空気が、ずっと落ち着かないでいる。ソファの背もたれに手を添えて体を伸ばし、すぐそこにある窓からぴょこりと外を覗く。
「……魔術師さんが、たーくさんです」
「ソキも魔術師だろ」
「あ! そうでした! んっとお……あ。先輩が、たくさんです!」
これでどうですか、とそわそわわくわく見上げてくるソキの肩に分厚いショールを着せかけながら、ロゼアが穏やかな微笑で首肯する。きゃああん、としあわせそうな歓声をあげるソキを見守る眼差しは、どこか教員めいていた。ただ、教員は生徒をあんなに甘い目で見ることはない。なんか最近砂糖だよね、黒砂糖とか蜂蜜だよね、と寮生は視線を反らして囁きあう。
以前が甘くなかったということは決して断じてないのだが、ここ最近、特にロゼアが甘いのだ。眼差しが。触れる仕草が。他者が見て、そうと分かるほど。いつもと変わらないと思っているのはソキだけである。もっとも、すこしの違和感はあるらしく、首を傾げてなにか考えている姿も時々目撃されている。
十中八九、これはもしかしてソキのめろめろだいさくせんのしょうりというやつですぅーっ、とふんわふんわした声で叫んでもいるので、そういうこととして受け入れられている。女子有志がそっとロゼアに確認したところ、一線は越えていないらしい。なんか燃やされる気がするような笑顔だった、とのことだ。ことソキのそういう質問に関して、ロゼアは本当に怖い。
換気したらお砂糖どうにかなるかな、寒いけど、と悩む空気が蔓延するのに、ちっとも気にした素振りなく。ソキはいそいそと座るロゼアの膝に乗り、体をぴとっとくっつけて言った。
「ロゼアちゃん? 先輩達が、どうしてお集まりなのか知ってるぅ? ソキが教えてあげるです?」
「んー? どうしてなの?」
ロゼアが屈み、耳元を差し出して尋ねかける。ソキは自慢げにふんすと鼻を鳴らし、手で筒を作ってこしょこしょ告げた。
「あのね、あのね。今日から遠足なんですよ。二泊三日、なんですよ」
「そうだな。遠足だな。知ってて偉いな、ソキ」
「でぇえっしょおおお? ロゼアちゃん、ぎゅうは? ぎゅうはぁ?」
肌に触れる吐息にくすぐったそうに笑いながら、ロゼアはソキの腰に腕を回し、引き寄せる。ソキ。響きはあくまで穏やかに。しっとりと響く声が零れていく。ふにゃ、とはちみつみたいな声をあげて力を抜いたソキを引き寄せ、体にくっつけて、ロゼアは満ちた息を吐く。
ふふ、とメーシャの微笑ましそうな声が二人に降りた。
「二泊三日って行っても、夜は眠りに戻ってくるんだけどね。夕ご飯は間に合わないけど、夜、眠る前にでも顔を見られたら嬉しいな」
しおり見る、と差し出されたのは小冊子だ。砂漠における不安定魔力の実測調査、という文字に二重線が引かれ、上に遠足のしおり、と書かれている。ロゼアはなにも言わず、小冊子を受け取った。王宮魔術師はなにか大事なものを失う程疲れているに違いない。いつものこと、とも思いもするが。
ソキもロゼアの腕の中から、そわそわ、一緒に小冊子をみる。
「メーシャくん、メーシャくん。遠足ってー、なにをするです? ソキにもそーっと教えてください!」
「俺の知ってる遠足と違う……」
やや絶望顔で、よろけながらやってきたのはナリアンだった。内容はそれとなく説明され、事前に課題を出されていたものの、遠足という単語に惑わされていたらしい。これただの実測調査だよメーシャくん、と灰色のまなざしで呻くナリアンに、同情的な視線がちらほら向けられる。
アイツ素直だからな、と寮長の呟きが、寮生の総意だった。
「遠足って、観光名所に行って説明を受けたり感動したり、お土産を買いに行ったり名物を食べたり、食べ歩きしたり、おやつを食べたりするものだよメーシャくん……。これはただの調査だよ……ご飯の時間がない……」
「お昼とおやつの休憩はあるですよ、ナリアンくん」
一日の予定、と書かれたページをぺちぺち叩きながら、ソキが慰めようとする。冊子叩いたらだめだろ、手を痛くするよ、と言いながら、ロゼアがソキの指を絡めて握る。ふにゃぁんきゃぁんやんやんっ、とソキが照れきったふにゃふにゃの声をあげるのに、ナリアンは和みきった顔で頷いた。
「よかったね、ソキちゃん……。ロゼアは留守番なんだよね」
「うん、応援してる。……そうだ、ナリアン。これ、よかったら」
メーシャの分もあるんだ、と照れくさそうにロゼアが差し出したのは、甘い香りのする布袋だった。中をみると蝋引きした紙に包まれた焼き菓子が、数種類。わぁ、と顔を輝かせるふたりに、なぜかソキが自慢いっぱいに胸を張った。
「ロゼアちゃんの手作りおやつなんですよ? ほんとはー、ソキのなんですけどぉー、ふたりにもわけてあげるです。かんよーなおこない、というやつです」
あ、あとソキも応援のきもちをあげるです、と言いながら、飴玉を無造作に詰め込んでいく。いちご、みるく、ぶどうに、はっか。はちみつ。
「これはソキの好きな飴の中でもいっとうおいしいやつなんですよ。きっとお疲れの時に元気をくれるです」
「……今食べてもいいかな」
「ナリアンくんはおつかれです、ソキがあーんをしてあげます!」
ういしょういしょ、と止める間もなくソキが飴の包みを剥がし、ナリアンの口元へ差し出してくる。ロゼアは微笑んでいた。ナリアンは親友の笑みをじっくりと観察したのち、照れくさそうに口を開いて飴を食む。口元を手で押さえ、メーシャは震えるように笑っている。
「あ、あとね、あとね。砂漠はもうさむーいさむいですから、ソキはけんめいに頑張ったです」
なんだよ。なんでもない。メーシャ笑い上戸だよな。そんなことないよ。あるよ。ロゼア楽しいんだもの。なにがだよ。全部かな。頭の上でぽんぽん交わされていく言葉を聞き流しながら、ソキはナリアンの腕を引っ張った。手を引き寄せて。えいっ、とかぶせたのは手袋だった。
もこもこした毛糸で編んだ、まあるいてぶくろ。
「お指が分かれているのはね、時間がなかたですから、ちょっぴりちょっぴり難しかったです。これがね、ナリアンくんの。これがね、メーシャくんの。それでこれがー! ロゼアちゃんのー!」
遠足でふたりが出かけると告知されてから、今日までは四日しかなかった。作業をすると聞いたので、指が動かせた方が絶対にいい、とは思ったのだが。パーティーの時の刺繍で腕を痛くしたことと、アスルをぽんぽん投げてロゼアを怒らせていた為に、手芸の時間がぐっと制限されていたのである。
ナリアンくんとメーシャくんにはないしょでこっそり作るです、と。部屋で寝る前にちまちま編んでいたらしい。お揃いにしたんですよ、と言う通り、色が違うだけで形は同じてぶくろだった。ロゼアのものは柔らかな赤。メーシャのものは優しげな紺。ナリアンのものは穏やかな紫。
おそろいだ、とくすぐったそうにてぶくろをはめ、メーシャは不思議そうに首を傾げる。
「あれ。ソキのは?」
「まにあわなかたです……」
ロゼア曰く。ソキの諸動作の中で一番速いのが刺繍と裁縫、編み物である。それを持ってしても時間が足りなかったらしい。しょんぼりと肩を落としながら、遠足が終わるまでにはソキもご一緒仲間になるです、と呟くソキに、メーシャは楽しみにしてるね、と言った。
アスルとおんなじ、ひよこ色にするらしい。ひよこ、と呟いてナリアンはアスルを注視する。結局アスルはひよこなのあひるなの、と訪ねるメーシャに、ソキはぴかぴかの笑顔で今日も聞こえないふりをした。アスルを膝に抱き上げて無心にもふもふしだすソキに、メーシャはさらに呟いた。
「でもアヒルの雛もひよこって呼ぶことあるよね……。ロゼア、アスルってほんとはなんなの?」
「ん? ソキのアスルだよ」
まるっこくてほわほわふわふわの、きもちいいソキの抱き枕である。現在は武器も兼任している働き者だ。ロゼア曰く、砂漠の固有種で、いわゆるひよこともアヒルともちょっと違うらしい。だいたいアヒルっぽく、ひよこっぽい、とのことだ。全く分からない、とナリアンとメーシャは頷きあった。
「まあ、今から行くの砂漠だから……運がよければ見られる?」
「都市部にはあんまりいないよ。どこへ行くんだっけ」
「えっと……しおりに地図があったから、ロゼア見てくれる? いそう?」
小冊子の描かれた地図に、赤い丸がいくつかつけられている。さっと目を通して、ロゼアは難しそうな顔をした。
「裏路地の……日当たりのいい静かな場所を探せば、まるまるして寝てるのに会える、かも」
騒がしい場所は嫌いで、逃げてしまうのだという。人にもあまり慣れることがないので、都市部にいることはごく稀だ。ただし、餌付けはできる。甘いお菓子を食べていると、においにつられて出てくることもあるらしい。説明を聞きながら、メーシャの視線がすいとソキに移動する。ソキは熱心にアスルをもふもふしている。
ナリアンも、無言でソキを見た。アスルをもふもふもふもふしながら、ソキがちらっと視線をあげて首を傾げる。なあに、と言いたげなのに微笑んで、ナリアンとメーシャは頷きあった。
「会えなさそうな気がしてきた」
「俺も」
というかロゼアを連れて行ってそこらを歩いてれば出てきてくれる気がしてきた。俺も。一緒に行って、と言わんばかりのふたりの視線に、ロゼアは無慈悲に留守番だし課題があるしソキと暖かい場所にいるよ、と言い切った。ええ、と諦めきれない視線がアスルに向けられる。
まったく話を聞いていなかったので、取られると思ったらしいソキが、あわててアスルを抱きなおした。ぷ、と頬を膨らませるソキに、笑い声が響く。
「大変だな、ソキ。……私も野生種を見たことがないから、気にはなっているんだが……そうか、ロゼアを連れて行けばいいのか」
「あ。チェチェ先生です。チェチェ先生、おはようございますです」
「おはよう、ソキ。今日も可愛いな」
ゆったりと歩み寄ってくるチェチェリアの傍らには、キムルの姿もある。おはようございます、と各々が挨拶をするのに、錬金術師の男は微笑しておはよう、と返した。視線は、アスルの元へ向けられている。へえ、と改めて関心する呟き。
だめです、あげないです、とさらにアスルをむぎゅっと抱いて、ソキはあどけなく首を傾げた。
「チェチェリア先生と、キムルさんも遠足へいくの?」
「……遠足?」
不思議そうに繰り返すチェチェリアに、ナリアンが無言で小冊子を差し出した。本題が二重線で訂正されたそれを、しばらくなんとも言えない顔で見つめて。ああ、うん、とチェチェリアは理解を放棄した諦めの顔で頷いた。
「そうだな……。ウィッシュとロリエス、ストルも一緒だよ。砂漠からも何人か行くが、向こうは現地集合だからこちらへは来ない。……キムル。今気がついたんだが、なんでリトリアはストルを迎えに行ったんだ?」
「口実だね。したたかになって……」
最近のリトリアは、あれこれ口実を見つけては、せっせと星降に通っている。もちろん、移動には白魔法使いの同行が必要であるので、毎日ではないし、外泊もせず帰ってくるのだが。沈黙する保護者たちの背から、悲鳴混じりの疑問があがった。
「え、ええっ。リトリアが迎えに行っちゃったのっ? え、それほんとにちゃんとストル来るのっ?」
「疑いしか向けられないストルくんって逆にすごいと思うわ。でも安心してくれていいわよ。ストル絶対萎える仕様だから、今日」
「エノーラ今日はなにしちゃったの……? というかエノーラはなんでそういうことしちゃうの……?」
半ば怯えた視線を向けるウィッシュと連れ立って、エノーラが談話室を横断してくる。そろそろ集合時間であるらしい。外に行かなくていいんですか、と問うロゼアに、エノーラはなにを言われているのか分からないわ、とばかり瞬きをした。
「外寒いじゃない」
「……皆さんはなんで外に集合されているんでしょうか」
「集合場所が外だからよ?」
ロゼアは微笑んで、そうですかと頷いた。会話を続けるのを諦めたらしい。君、眠ってきたんだろうねとキムルに話しかけられて、エノーラは心から嫌そうに眉を寄せてみせた。
「うさぎちゃんの膝枕で寝落ちした話する? 男の膝枕で眠るだなんて……柔らかくていい匂いした悔しい……。女の子の膝枕よりいいかもとか思っちゃったじゃないの悔しい……」
「問題が性別だけに絞られているのが、実に君らしくて安心するよ」
「エノーラ。リトリアになにを?」
喧嘩するなら離れなさい、と夫と友人を引き剥がし、チェチェリアが溜息混じりに問いかける。別にへんなことはなにもしてないわよ、ときっぱりと言い切り、エノーラはそれでも眠そうに、ひとつあくびを噛み殺して言った。
「だって、フィオーレが現地集合したいって言うから。反省札を改造して誓約書を名札代わりに、こう」
「なんて書いたの?」
「『私は白魔法使いがいなくても勝手な行動をしません』と『なお、この札が貼られている場合、監視が強化されています』に『全ての言動が保護者に通知されます』で」
エノーラじつはストルに嫌がらせするの好きだよね、とウィッシュは呆れながら言った。エノーラは別に積極的にストルを嫌いではないのだか、親友であるレディがとにかく敵視しているのと、可愛がっているリトリアがそのうち手込めにされるのが分かりきっている為に、機会があれば手を抜かない。
メーシャが遠い目で師の不遇を労っていると、そのストルが談話室に現れた。傍らにはリトリアを伴っている。思わず、場の全員がリトリアの着衣の乱れを確認した。視線の意味が分かったのだろう。ぱっと頬を染めて背に隠れるリトリアを庇いながら、ストルは深々と息を吐く。
「なにもしていない、と言わないといけないか?」
「保護者に通知ってえぐいもんね……」
というか、保護者設定は誰にしたの、とウィッシュの問いに、エノーラはけろっとした顔で陛下、と言った。すなわち。楽音と花舞の陛下である。希望があったので白雪の陛下も追加したけど、と続けられて、ストルへの視線が同情的なものに進化する。その状況でなにかできる魔術師は存在しない。
砂漠の王が名を連ねていないのは、成人してるんだから自制させて自由にさせてやれよ、ということから。星降の王が不在であるのは、リトリアはそんなことしないもん、というふわふわした希望故である。
煽ったり誘ったりしなかっただろうな、と義務感溢れたチェチェリアの言葉に、リトリアはもじもじしながら頷いた。
「うん。あのね、ぎゅっとしてってお願いしただけ」
「……そうか」
諸々を諦めた笑顔だった。ストルの肩を、ウィッシュとキムルが叩いて労う。ぎゅうはきもちいいですからね、とソキだけが理解を示していた。
「……ところで。誰かフィオーレを見なかったか。話がある」
「フィオーレ、今度はなにしたの?」
「俺も会っていないが、どうもツフィアを避けているらしい。気落ちしていた」
今日は現地集合だよ、とウィッシュから聞かされて、ストルが不機嫌そうに頷く。これはフィオーレさんたら先生のお説教かな、と思いながら、メーシャはストルの傍らに駆け寄った。慌てて、おはようございます、と挨拶してくるリトリアに、華やかに笑いかける。
「おはようございます。リトリアさん、先生を借りて行きますね」
「はい。メーシャさんも、頑張りすぎないでくださいね。ストルさん、気をつけて。行ってらっしゃい」
チェチェリアが止める間もなく。背伸びをしてストルにぎゅうっと抱きついたリトリアは、胸に頬をくっつけすり寄って、ひとしきり堪能したのちに離れた。
「夜はお帰りになられるのでしょう? あの、お部屋で待っていてもいい……?」
「やめてあげなよ可哀想だよ……」
反射的に本気で言ってしまったウィッシュに、リトリアはくちびるを尖らせて首を傾げる。
「今日の調査、そんなに大変なの?」
「んっとね、あのねリトリア。ストルだって男だからね、なんていうか襲」
「はーいウィッシュそろそろ集合場所へ! 移動しましょうか! はーい皆行くよー! ナリアンくんも行こうか! ロリエス来たし!」
同僚であるが故の慣れ切った仕草としてウィッシュの口を手で塞ぎ、エノーラはリトリアから視線を逸らして歩き出した。え、ええ、と不満そうにしながらも場に留まり、リトリアはすでに疲れて帰りたそうなチェチェリアとキムルを見送り、ナリアンとメーシャに頑張ってね、と言った。
そしてリトリアは、ロゼアとソキに目を向けて。ロゼアが、もちゃもちゃやんやん暴れているソキの口を手で塞いでいるのを見て、え、と瞬きをする。
「ろ……ロゼアくん? なにしてるの……?」
「……リトリアさん」
「は、え……は、はい……?」
遠くで鐘の音が鳴る。重たくも澄んだ響き。授業開始の合図である。それに合わせて集合時間を定めていたらしき魔術師たちが、元気よく点呼ーっ、と声をあげるのが響いてきた。窓と壁に隔てられて、声は別世界のもののように空気を揺らす。
なんとなく、そうしなければいけないような気持ちで。背を正すリトリアに息を吐き、ロゼアはソキの耳に授業だよ、と囁きかけた。
「勉強しような、ソキ」
「ふにゃ、はぅ……はう、う……はぁい」
「えらいな、ソキ」
真っ赤な顔でもじもじとロゼアと教科書を見比べながらも、ソキは気持ちを切り替えたらしい。ロゼアの膝に横向きに抱かれたまま、教科書を手元まで引き寄せ、読み始める。常であればひとりで座らせるのだが、今に限って、ロゼアに降ろす気はないようだった。
抱き寄せて位置を微調整させたのち、ソキが集中しきっているのを確認すると、ロゼアは柔らかな笑みで顔をあげた。
「リトリアさん」
「はい……!」
「時間はありますか? ……このあとのご予定は?」
なんだか怒られるような気がした。それもすごく。幸い、戻らなければいけない予定があったのでそれを告げると、ロゼアはそうですかと呟き、リトリアの目をまっすぐに見て言った。
「襲われたくなければ、夜に男の部屋に行かないでください。分かりましたね?」
「えっ……う、うん。分かりました……」
襲撃、という二文字を頭によぎらせて不安に思っているのが、ロゼアにはとてもよく分かった。なぜあえてそちらに行ったのか。問い詰めて正してやりたいが、時間もないし、不安がって行かなければそれが一番である。
誰か身近な人に俺が言ったことを相談してもいいですよ、と付け加えると、リトリアはぱっと明るい笑みで頷いた。
「ツフィアに聞く……!」
「はい、そうしてくださいね」
顔を見て帰ろう、としあわせそうに言い残し、リトリアは談話室を出て行った。見送り、脱力してロゼアはソキを抱きなおす。きゃぁあんと甘い声をあげて、ソキはロゼアにくっつきなおした。
「ロゼアちゃん? なぁに、なあに? どうしたの?」
「どうもしないよ」
「どうもしないぎゅうです……! きゃぁあん、きゃぅー! めろめろというやつですうううっ!」
やんやん身をよじって喜ぶソキに、ロゼアはしあわせに笑みを深めて、ふと窓の外を見た。魔術師でごちゃごちゃしていた筈の空間には、いつの間にか、もう誰の姿もない。談話室も普段の静寂を取り戻し、ソキのきゃっきゃとはしゃぐ声だけが、ふわほわと漂っていた。
担当教員が揃っていなくなったとはいえ、『学園』から調査に呼ばれたのはナリアンとメーシャだけである。贔屓とも受け取られかねない事態が同情をもって迎えられているのは、その二人が呼ばれた理由がロリエスの、後継にする宣言だと誰もが知っているからだ。
そもそも常日頃、先輩たちが引きながらも哀れに思って勉強を教えてくれたり、なにかと手伝ってくれたりするのがナリアンの課題量である。メーシャが、ナリアンがひとりだとさすがに可哀想という周囲の気遣い故の巻き込まれ事故だというのも理解されきっていたので、嫉妬を向ける者はひとりとしていなかった。
メーシャが呼ばれたのも、同年入学であるのに加え、ロゼアとソキという選択肢を抜いた結果である。ソキを連れ歩くには問題があり過ぎるほどであるし、ロゼアをソキから離すのは言わずもがな。よって、メーシャなのだった。
頑張れよ辛いことがあったら帰ってすぐ相談しろよ、と激励され、二人は遠足、という名のついた魔術観測へ出かけて行った。そのことを知識として知っていても、誰もが、ロゼアとソキだけが座る談話室の一角を見ては、あ、そっか、という顔をして、不在をようやく飲み込んだ。
特別な理由や用事がなければ、四人はだいたい、談話室では一緒である。その空白は静かで、すこしだけ冷たかった。ふ、と息を吐いて、ロゼアがソキを抱きなおす。今日のソキは、朝からずっとロゼアの膝の上である。いつもなら授業だろ、と隣に座らさせられてしまうのだが、朝からずっと抱っこのままだった。
その理由を、ソキは知っている。ふふん、と自慢げな顔をして、ソキは課題をひとつ終わらせて。背伸びをして、ぎゅっとロゼアに抱きついた。
「しょんぼりしょんぼーりー、ロゼアちゃーん! さびしいです? ソキがぎゅぅっとしてあげるー……!」
「ソキ」
「大丈夫ですよ。ナリアンくんもぉ、メーシャくんもぉ、チェチェ先生も! 夜には帰ってくるって言ってたです」
頬をぴとっとくっつけて耳元で言い聞かせれば、ロゼアがはにかみ、頷いた。かわいいです、と胸をときめかせながらくっつきなおし、ソキは近寄ってくる者を目にして、あからさまに邪魔そうな顔をする。やーぅー、と低くした声で威嚇すれば、寮長は天を仰いで額に手をあてる。
「……なんだそれ」
「ふふん。ソキのいかくに恐れをなしたにちぁいないです……!」
「……あー、あー、そうだな。あー、怖い。あー、怖い怖い、怖いなー……。ソキは怖いなー……」
これでいいか、と言われて、ソキは満足げにこっくりと頷いた。なんだかすごく雑だったような気がするが、怖いと思ってくれればいいのである。ふんすっ、と鼻を鳴らして誇るソキを抱きなおし、ロゼアが寮長に目を向ける。
その顔を見て。寮長は無造作にロゼアに手を伸ばした。
「お前……熱があるんじゃないのか?」
「おねつ! えっ……え、えっ、え、えっ……!」
「ないよ。熱出てない。違うよ、違う。大丈夫だよ、ソキ。寮長の勘違い」
途端にオロオロと落ち着きをなくすソキを宥めながら、ロゼアは寮長にやや鋭い目を向ける。滅多なことを言わないでください、と言わんばかりの態度に、寮長は眉を寄せながらもロゼアの額に手を押し当てた。平熱であることを確かめ、男の手は離れていく。
「朝からずっとだるそうだろ」
「気のせいです。……なんともないよ、ソキ。本当だよ」
「……ソキ。さっきエノーラ来てただろ。今日は大丈夫だったのか?」
この間は攻撃してただろう、と言われて、ソキはそう言えばと目をぱちくりさせた。エノーラがすぐ近くにいたのに、怖いとは思わなかった。近寄って欲しくないとも、声を聞いていたくないとも。意識して見ていなかったので記憶を探り、なんとか確認して、ソキはしっかりと頷いた。
こわいこわい、全然大丈夫だったです。エノーラさんだったです、と言えば、寮長はその場から動かずに考え込んだ。ちょうど、廊下は授業の移動時間で混雑している。その中に姿を見つけ出し、寮長がルルクを手招き、呼んだ。はーい、とすぐ走り寄ってくるルルクを指さし、寮長はソキに問う。
「ソキ。ルルクは? 今はどうなんだ」
「えっなにこないだの件? いいよ大丈夫! 痛かったけど理由もあったって分かったし、気にしてないし、ソキちゃんは謝ってくれましたよ?」
「知ってる。そうじゃない。……ソキ」
なんですか、とルルクが訝しみ、ロゼアから問われても、寮長はソキの言葉を待っている。落ち着けない、焦る気持ちでルルクと寮長を幾度も見比べ、ソキは緊張しながら頷いた。ぎゅう、と手を握りしめ、なんとか答える。
「だい、じょうぶ……。こわいの、ないです。……ルルク先輩。あのね、この間は本当にごめんなさいですよ。とっても痛かったに違いないです」
「うん。できれば、もうしないでいてくれると、すごくありがたいけど……寮長? どうしたんですか?」
「……あとで説明する。悪かったなルルク、授業だろ」
答える気はないらしい。もう、と怒ってみせながら、ルルクはそろそろとソキに手を伸ばした。うにゃ、と甘えて頭を差し出されるのを至福に触れた表情で二三度撫でて、ルルクは満面の笑みで走っていく。あああよかった嫌われてなかったーっ、と叫ぶ声は涙声だった。
お前あとでもう一回くらいはルルクに謝っておけよ、と寮長が言う。こく、と素直に頷いて、ソキはロゼアと寮長を見比べた。どちらも。なんだか険しい顔をしている。落ち着きなく胸に手を押し当てて、ソキは震えながら問いかけた。
「けんかです……?」
「違う。……ソキ」
静かに、落ち着いた声で。
「ロゼアは大丈夫なんだな?」
尋ねられて。ソキは目隠しをされたような気持ちでロゼアを見上げた。無意識に、喉を指先で押さえた。だいじょうぶ。声は言い聞かせる響きだった。ソキでさえ、そう思った。けれど、重ねて。
「大丈夫です……!」
ソキは言いきった。ロゼアには『こわいこわい』はくっついていない。はじめてそれが分かった時から、いままで、ずっと。寮長は分かった、と言って身を翻した。とりあえず、保健医を呼んでくる。いいからそこを動くなよ、と言われて、ソキはロゼアに抱きつき、頷いた。
「ロゼアちゃん……」
「……ん?」
「おからだ、どこか……」
なんと聞けばいいのか分からない。ロゼアはいつも、あんなにも、ソキの体に気を配ってくれているのに。不安げに瞳を揺らすソキに、ロゼアはふっと笑った。大丈夫だよ、と言葉が渡される。大丈夫、大丈夫。ぽんぽん、と背を撫でて宥められる。くっつけられるロゼアの体温に気持ちを緩めてしまったソキは、だから、気がつかなかった。
繰り返されたソキからの問いに。ロゼアは、気のせいだよ、とは。言わなかった。