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 ロゼアに不調はみられなかった。ただし、体調の面において。魔力がすこしおかしい気がするな、と『学園』の保健医レグルスは言い、動揺するソキに心配することはない、と語り聞かせた。身体的にも成長期である年代の、未熟な魔術師にはよくあることなのだと。自分でも去年覚えがあるだろうと告げられて、ソキはくちびるを尖らせた。そのせいで、ソキは未だに恒常魔術を使うことが禁止されたままなのである。
 じゃあロゼアちゃんも魔力のお風邪なの、と問うソキに、レグルスは笑って頷いてくれた。ロゼアは心配ないと言ったが、担当教員がすぐに駆けつけて対処できない今は、大事を取って眠りについている。しんと静まり返った部屋には、ロゼアの寝息だけが響いていた。悪い夢を見て起きた、夜にしかないことだった。
 レグルスは保健室での眠りをロゼアに促したが、それを丁寧に辞して寮の部屋に戻って来たのは、ソキがいたからだろう。ソキがロゼアの不調に、あまりに動揺していたからだ。ロゼアは幾度も、大丈夫、なんともないよ、すぐ良くなるよ、とソキに囁いてくれたけれど。
 眠る横顔はやはり、すこし顔色が悪い気がする。あ、う、う、と意味のない言葉を落っことして、ソキは落ち着きなく室内を見回した。保健医からの指示で、睡眠薬を処方されたロゼアはそれを飲んで眠る前、できる限りソキの為に部屋を整え、様々な用意をしてくれた。寝台の上、手の届く範囲にたくさんの物が置かれている。
 ソキの好きな本、寒い時に羽織る上着、暖かい飲み物、ナリアンとメーシャに渡したのと同じ焼き菓子。喉が痛くなった時の飴。ソキの好きな乾燥果物と、はちみつ。やらなければいけない課題と、教科書。授業時間を知らせる砂時計は、今も音もなく滑り落ちている。
 そうだ、授業だ。しなきゃ、と思って課題に手を伸ばし、すうと深まったロゼアの寝息に体をびくつかせる。ロゼアは穏やかに眠っていた。起きるのは、夕食の前くらいになるという。薬を飲む為に早めの昼食を取ったのが眠る前だから、今はお昼か、すこし過ぎたくらいの筈だ。砂が落ち始めているから、午後の授業時間だろうか。
 心臓がばくばく、嫌な音を立てている。なにをすればいいのか、どうすればいいのか、分からない。ろぜあちゃん、と心細く呼んで、すぐソキはぱっと口を両手で押さえた。起きちゃったらどうしよう、と思ってロゼアを見る。じっと見つめる。起き出す様子は、なかった。起きて、と言いかけて、首を振った。
 休ませなきゃいけない、と思う。ロゼアは、きっと、疲れているのだ。ソキが最近ずっと言うことを聞かなくて、困っていて。勉強も、ずっと一緒にしてくれて。ソキは嬉しかったけれど、でも、その間も言うことを聞かないでアスルをたくさん投げたりしたから。ソキが。ソキのせいで。
 震えながら、ソキはロゼアへにじり寄った。触ったら起きてしまうと思って、だから、ロゼアのかぶる布団の端っこを摘まんで、頬をぺたりとくっつける。ごめんなさい、と呟いて、目を閉じて、祈る。ごめんなさい、ロゼアちゃん。言うこと聞かないでごめんなさい。ソキが困らせて、疲れさせてしまたです。
 元気になって。なんでもするから。なんでもいうことを聞くから。ソキ。ろぜあちゃん、ロゼアちゃん。
『……ソキ?』
 けほ、と咳き込んで、ソキは顔をあげた。涙にうるむ意思の遠い瞳を、ぼんやりと天井近くまで持ち上げる。冬薔薇の瞳。光なく。人形めいたその横顔に、掴んでいたシディの羽根をぱっと離して、妖精はソキの元へ滑空した。
『ソキ、ソキ! ちょっと……! ああ、どうしたの? どうしたの、ソキ。どうしたの……!』
「り……ぼん、ちゃ……ど、どうし、よ、です……」
『どうしたの、ロゼアしんだのっ?』
 縁起でもないことを言わないでください、と羽根をさすりながらシディがソキの目の高さまでおりてくる。あなたまで動揺してどうするんですか、と冷たくも響く落ち着いた声で、シディはロゼアを見て、ソキに視線を重ねてにっこりと笑った。
『こんにちは、ソキさん。ロゼアは昼寝ですか? 珍しい』
「ちぁ……の……。あぅ……あ、あの、あっ、う……ろぜ、ろぜあちゃん、ね、ろぜあちゃ、ね……!」
『はい』
 どうしたんですか、とでも言うように、シディは笑っている。透きとおる金の羽根が、まばたきよりも穏やかに揺らめいた。けほ、とソキは乾いた咳をする。その時だけ、忘れていた息を思い出すように。けほ、けふ、と咳き込んで、やがて、呼吸を取り戻して。
 ソキはこしこし目をこすりながら、あのね、とシディに訴えた。
「ロゼアちゃん、お風邪なの……。だからね、お眠りにならないといけないって、レグルス先生が言ったです……」
『そうなんですね。ただの、風邪ですか?』
「お疲れなの。ソキのせいです。ソキ、そきが、いうことを、きかなかたから……」
 アスルをね、きっとね、えいってしたのがいけなかったです。ロゼアちゃんはいっぱい、ソキに、だめって言ったです。でもでもソキは言うことを聞かなかったです。ロゼアちゃんはとってもお困りで、お疲れだったです。ソキのせいです。ソキの。ソキが。
 どうしよう、と。途方に暮れた声でソキは呟き、浮かぶ感情の薄い瞳で、ふらふらと視線を彷徨わせた。シディは、はい、としっかりと相槌を打ちながら、辛抱強く、問いの答えが返ってくるのを待っている。妖精はその間にソキの肩に降り、そこへ眠るように身を伏せた。
 シディに返事をするのにも大変なほど、追いつめられているのが分かる。それならば、言葉は重ねるべきではない。情報を引き出すのはシディがすればいい。妖精はただ、ソキがひとりでないことを分からせればいいだけだった。体温。熱は、心を癒す魔法にもなる。
 すん、すん、と鼻をすすって。やがて、肩のちいさな重みと熱に気がついて、ほ、と息を零して。ソキは、あの、あの、と何度も言葉に迷い、途切れながらも、首をふるふると横にふった。
「ちがうの。魔力なの。まりょく、なんです……。ちょっとね、あの、おかしい、って、レグルスせんせいが。それでね、ロゼアちゃんはね、お薬をのんでね。おひるがはやくてね。ソキは、ソキ、あの、ソキもいっしょ、一緒に、ねるの、したくて、でも、でも」
『はい。……はい。ソキさんは、一緒に眠れなかったんですね。どうして?』
「わ……わかんない、で、すぅ……」
 一緒に眠ろうか、とロゼアは言ってくれたのだ。不安でいっぱいのソキに額を重ねて。とろりと溶けたお砂糖のような声で。おいで、と腕に抱き寄せてくれたのに。どうしても眠れそうにないソキの為に、ロゼアは笑って、大丈夫だよ、と言いながらいっぱいの用意を整えてくれた。
 起きたかったら、起きていていいよ。眠りたくなったら、ぎゅってして眠ろうな。大丈夫だよ、ソキ。だいじょうぶ。眠りに落ちるその寸前まで、ロゼアはソキの頬を包み、指先でゆるゆると肌を撫で、目を覗き込みながら囁いてくれた。
 繰り返し、繰り返し。
「シディくん……」
『はい』
「ソキ、どう、すれば、いいです……? ロゼアちゃん、おねつ、でる? おせき、でる? そ、ソキの、そきのおくすり! ソキのおくすりを、ろぜあちゃ、あっ、あ、えっ、ど、どこ、どこにしまってあ、あっ、うぅ……!」
 思えば。ロゼアの不調を、ソキは見たことがないのである。元気がないことならあった。機嫌がすこし悪かったり、ぼんやりしていたり。でもそれは、ソキはぺったりくっついて、すきすきをいっぱいあげれば、治ってしまうものだったのだ。
 風邪をひいた所も、見たことがない。ごく稀にメグミカが、ロゼアの不調を告げて元気になるまでお待ちくださいね、と言うことがあったのだけれど。でも、それはその日の朝に聞いて、夕方にはもうロゼアは顔を出してくれて。次の日にはもうずっと一緒で。
 その間もこうして眠っていたのかも知れないけれど、ソキはそれを見たことがないのだった。たどたどしく、けんめいに、そう訴えて。だからソキのいつものお薬を用意しなきゃ、おねつと、おせきと、あと、あと、となにを言っているのかも分からない様子で混乱するソキに、シディは努めて、ゆっくり頷いた。
『ソキさん。……ロゼアの薬は、レグルスが出してくれたものがありますよ』
「でも、でもぉ! おねつ、でるかもですぅ!」
『もし熱が出たらね、僕がすぐに飛んで行きましょう。診て頂きましょうね。今は必要ありません。……ほら、大丈夫。ロゼアはよぅく眠っていますよ。ね』
 びっくりしましたね、とシディは言った。怖かったですね、もう大丈夫ですよ。よく、頑張りましたね。囁きに、ソキは幾度も頷いて、ひっくひっくしゃくりあげながら目をこすった。シディは音もなく飛びたち、ほどなく、一枚のハンカチを抱えて戻ってくる。
 ないてないもん、と言ってハンカチを受け取って、目を擦る。はい、と笑ってシディは言った。
『怖くて、零れてしまっただけですものね。……大丈夫。もう大丈夫ですよ』
「……うん」
『ナリアンと、メーシャは課外授業と聞きました。ひとりで心細かったでしょう』
 うん、と頷いて。ソキは、でも、遠足なんですよ、と言った。そうなんですね、と否定せずに頷いて、シディは室内を見回した。部屋を守る檻めいた魔力は、繊細さに磨きをかけたようだった。正しく循環し、きよらかな水のよう透きとおっている。目視し、意識を注意深く向けて感覚で触れても、それはロゼアの魔力だった。
 シディのよく知る、ロゼアの魔力。導きの子。目覚めから、その咆哮までをも見守った。あの時に。見ていることしかできなかった、魔力。ちから。だからこそ、それはシディの内に焼きつくようにして、ある。覚えている。だから、断言できた。
 この部屋の魔力に、妖精が言うような不快感はない。
「……シディくんは、お見舞いに来てくださったんです? リボンちゃんが、連れて来てくれたの?」
『はい』
「そうなの……。ありがとうです……」
 心を預けた者の訪れに、ようやっとほっとしたのだろう。興奮も収まったのか、ソキの言葉に眠気が漂っている。眠りましょうか、とシディが促すと、ソキは不安そうにふらふらとあたりに視線を彷徨わせたのち、きゅぅ、と服を握って頷いた。緊張している。それともこれは、警戒だろうか。
『ソキ』
 肩から身を起して名を呼ぶ妖精に、おどおどとソキは顔を向けた。リボンちゃん、とすがるように呼ばれる名を確かに受け止めて、妖精は、はきと響く声で言ってやる。
『アタシがいるわ。おかしいことがあったら、すぐ、アンタを起こす』
「うん。……うん」
『……おやすみなさい』
 うん、とソキは素直に頷いて。ふらふらしながら、ロゼアの元へにじり寄った。先程は触れるのさえためらったのに。てしてしと腕を叩いて、囁きかける。
「ろぜあちゃ、ろぜあちゃ……ぎゅう。ぎゅう……!」
 ん、と寝言のようにロゼアが呟く。一度だけ、ロゼアは目を開いた。ぼんやりと。ソキ、と幸福に溢れる声が囁き、呼ぶ。おいで。広げられた腕の中に、飛び込むようにソキは身を寄せた。まあるくなって眠る体を、ロゼアの手が触れて宥めて行く。とん、とん、指先が鼓動と同じ速さで肌に触れる。
 すぅ、とソキはすぐ眠りに落ちた。初めはまるくなろうとしていたのに、今はぜったいにはなれないです、といわんばかり、ロゼアにぎゅうぎゅうに抱きついている。んー、と寝ぼけた声でもぞもぞと姿勢を変えて、ロゼアはソキを抱きしめなおし、頭に頬をくっつけて、また深い眠りへ戻っていった。
 コイツほんとに意識ないんだろうな、と苛々と羽根をばたつかせながら、妖精はロゼアをじっくりと睨みつける。先日感じたような嫌なにおいが、濃くなっているように思えたのだが。同時に、ロゼアそのものと混ざってしまっているような、ひどく奇妙な感覚を覚えた。
 なにも言わず、妖精はシディを見る。ロゼアの案内妖精は険しい顔で、妖精の不安を肯定した。すなわち、目覚めたばかりのロゼアと、魔力の様子が違ってきている。嫌な、と感じる感覚も理解できる。でもそれが僕たち妖精の好みなのか、それとも害なすものなのかの判断ができない。
 そしてこれが、太陽の黒魔術師たるロゼアの、研鑽の結果でないとも言うことができない。魔力はいきものである。日によっても色を変えかたちを変える。未熟な成長期であるなら、なおのこと。
 妖精は舌打ちをして、己の不運を呪った。常のロゼアの魔力がどうであるか、知るチェチェリアは今日から砂漠に出かけている。よりにもよって、砂漠である。ソキが怯えるから追いかけていく気にもならないし、そこへ立ち入った者をここまで招こうとも思わない。
 一歩遅かったのだ。ほんのわずか。機会を逃してしまった。そう思う。
『……様子を見ましょう、リボンさん。とりあえず、いまは、ロゼアは落ち着いている』
『暴走はしない、ってことね。信じても?』
『ええ。なにか不安定であったことは確かです。この部屋の守りは常と変らず……いえ、常よりしっかりしていた気がしますが、内側の魔力が妙にざわついていたのは確かだ。でも……ソキさんと一緒に眠ってから、ゆっくりと落ち着いて行っています。様子を見ましょう。様子を……』
 数日。あるいは、それ以上になるかも知れないが。チェチェリアが、教員として『学園』に戻ってくる日まで。傍にいて。僕らが守りましょう、と告げるシディに、妖精は当たり前よと頷いた。そうすることに迷いはない。その為に、シディを連れてきた。異論はない。ないのだが。それはそれとして。
 ソキはぴすぴす、しあわせな眠りに落ちている。ロゼアも、表情が穏やかになっているように見えた。よかった、と安堵するシディの隣で。妖精は隠すことなく、盛大に舌打ちをした。



 白い本が落ちている。一冊の本が落ちている。砂漠に。砂の上にひろげられて。ぱらぱらと風にページがめくられている。
 泣き声が聞こえる。泣き声が。なにも書かれていなかったページにインクを落としている。塗りつぶされている。言葉は奪われている。
『……って、みせる……』
 言葉が囁く。白い本が歌う。風にページをめくられながら。塗りつぶされた言葉を、それでもなお、守りながら。
『守ってみせる。今度こそ……今度こそ!』
 触れられない紙面を探すように、風がページをめくっている。
『言葉に惑い、それでも……祝福を信じ、呪詛を捧げた。私の魔術師。あなたを、今度こそ、わたしが……アタシが、絶対、絶対に……!』
 突風。荒れ狂う風に悲鳴をあげるよう、乱暴にページがめくられていく。どこまで行ってもインクが染み込んでいる。どこまで行っても言葉が奪われている。けれど、最後の。一番最後の一枚が。まだ守られている。白い本はそれを守り続けている。
『ソキ……!』
 繰り返される時の果て。擦り切れ摩耗し果てる運命の、これが最後だと。白い本だけが知っている。



 夢をみていたことは分かるのに、中身をちっとも覚えていない。なんだか損をした気分ですと頬をふくふく膨らませながら、ソキはけんめいに妖精に説明をした。あのね、白くてね、ぱらぱらでね、いっしょうけんめいでね。それでね、白いの。なんだかわかるぅ、と問いかけられて、妖精は素直に微笑んだ。
『分かる訳ないだろよく考えろ』
「あ! もう、やぁんですぅー」
 リボンちゃんなら分かる気がしたです、ほんとに心当たりがないのと眉を寄せられても、ソキのそのちんちくりんな説明でなんらかに辿りつけるのはロゼアだけである。そのロゼアは、まだ眠っている。室内は陽光に満ちていて明るく、夕刻までは時間がある。目を覚ますのはまだ先だろう。
 ぴすぴすしあわせそうに眠ったソキは、しばらくすると気持ちよさそうに起き出した。ソキが、大きなあくびと一緒におやーつーですぅー、とほわほわ告げたので、腹時計は正確らしい。旅の間はそれでも昼夜を問わず眠っていたのに、と思い、妖精はロゼアの用意した品々を見つめて納得した。
 ロゼアの手作りおやつがある。なるほど、これは絶対に起きてくる。ほんと腹立つロゼアのヤロウと舌打ちを響かせながら、妖精は爪先で、数分を図る砂時計をつっついた。
『で? アンタ時間を計ってたんじゃないの? いいの?』
 砂はソキがほにゃほにゃの説明をしている間に落ち切ってしまっている。あっと声をあげ、ソキは慌てて香草茶のティーバックを、ポットの中からひっぱりあげた。中を覗き込み、ふんすふんすと匂いを嗅いで、ソキはやや不安げにくちびるを尖らせる。
「ですぎちゃったかもです……」
『ひとつのことにしか集中できないんだから、お茶を淹れてる時はじーっとして待ってなさい。分かった?』
「はぁい……。うーん……あ、おいしです! よかったですー。ねえねえ、リボンちゃん? シディくん。ソキとお茶をご一緒しませんですか、です。あのね、お砂糖もありますよ」
 ロゼアちゃんたらすごーいです、とソキが自慢する通り、机の上には角砂糖の用意があった。小皿に山と積まれているのはソキのお茶には多すぎる。恐らくは、ニーアを連れてきていても足りる量だろう。今日訪れると、知らせた覚えはないのだが。妖精は無言で角砂糖をかじった。
「ねえねえ? リボンちゃんは、今日はいつお帰りです? あした? あした?」
『質問の言葉は正しく選びなさいね、ソキ。……明日か、明後日か。ちょっと、しばらくはいるわよ』
「ソキ、リボンちゃんと一緒におふろにはいるぅー!」
 きゃあんきゃあん喜んで、ソキはそわそわとロゼアを振り返った。眠るロゼアをじいっとみつめ、頬を赤らめてこくりと力強く頷く。
「あったかふわほわいいにおいのソキをぎゅっとして眠れば、ロゼアちゃんは、元気になる筈です……! ありがとうのちゅうがあるかもです……!」
『ありもしない可能性に期待するのやめなさいよどうせべこべこにヘコむに決まってるんだから』
「あっ! そうと決まれば、ソキは課題をしなければいけないです。おさぼりさんは卒業です」
 急いでクッキーをかじるソキに、喉に詰まらせるからゆっくり食べなさい、と妖精は言い聞かせた。眠って気持ちも落ち着いたらしい。やる気が出たのはいいことなのだが、ソキのやる気というものは、大体の場合、なぜかしなくて良い方向へ突進する。ふにゃふにゃ鼻歌を響かせながら、ソキはだってぇ、ともじもじ身をよじる。
「ロゼアちゃんたら、最近ソキにめろめろなんです。だからね、これは、もしかするともしかするです!」
『ロゼアは最初からアンタにめろめろでしょうよなに言ってんのよ』
「ちぃーがぁーうーでぇーすーうー! 前よりぃ、ずぅっとぉ、ロゼアちゃんたらソキにめろめろなんですよ? あのね、あのね、な、なんと! なんとですよっ! なんと! ソキがねむてる間にろぜあちゃんたら、ろっ、ろぜあちゃんったらっ! ソキに! ソキに、ちゅっ……ちゅうを……!」
 きゃぁあああやぁあああんっ、とソキは頬を両手で包んではしゃぎたおす。元気が出てよかったと己に言い聞かせる眼差しで、妖精はソウナノヨカッタワネー、と言ってやった。シディが苦笑いしながらロゼアを見る。幸い、ソキは声が大きくても、ふんわほんわ響くだけで、耳をつんざくような激しさを持つことがない。薬によって沈められた意識は、未だ眠りの中にあった。
 はぅ、はぅ、としあわせに息を乱しながら、ソキはとろける瞳で指先を擦り合わせる。
「でもでもロゼアちゃんたら恥ずかしがりやさんです。ソキが起きてる時にはしてくれないです。それに、くちびるはまだちゅうがお預けさんです……あ! お風呂でくちびるを丹念にお手入れすれば……! ちゅ、ちゅうがっ……っ?」
『興奮してもいいけど呼吸はしなさいね、ソキ。……なに? ロゼアのヤロウに寝込みを襲われてるの?』
「そうなんですううううっ!」
 ロゼアもおとこのこですね、と理解あるやさしい目でシディが頷く。
『いけませんよ、リボンさん。呪ったら』
『ほんとコイツむっつりだなむっつりだなとは思ってたけど、寝込みを襲うようになったのかと思ってるだけよむっつりロゼア本当このヤロウ……! ……ソキ。アンタも起きてるなら言ってやりなさいよ』
「違うです。ソキは眠っちゃってるんですけどぉ、起きた時にね、あのね、ちゅうの……ちゅう! ちゅうの! ちゅうの! 感触がのこてるですうううきゃぁああんきゃぁああんはう、はうっ……はうぅ……!」
 しあわせな呼吸困難に陥るのを、コイツほんと頭のてっぺんから爪先までなにもかもどんくさいな、と腕組みをして眺め、妖精は一応聞いてやることにした。本人が完全に喜ばれているので問題という問題ではない気がするが。なにせ相手はむっつりである。確認しておかねば不安だった。
『ソキ? 起きた時、服はちゃんと着てるの?』
「そうなんです……。残念なことです……」
『落ち込むんじゃないわよ安心しなさいよ……。じゃあ、体のどこかが変に痛かったりとか……ぶつけた覚えのない痣、とか』
 あざ、と意味が分からない言葉として繰り返し、ソキはぱちくり瞬きをした。んん、と知識を探る呟き。
「……あざ? ですぅ? リボンちゃん、それなあに? お服に乱れがあったりすると、痣ができたりするです? 怖いことです……」
『ああうん、分からないなら知らないでいいわ。アタシは教えないわよ』
「んー……? うん。分かったです」
 過度の執着は、弱い『花嫁』の毒にしかならない。壊されてしまう可能性のある行為は、閨教育からも徹底して排除されていた。ううん、痣はぶつけちゃうとできるし、痛いですからね、とよく分からないなりに呟く。大丈夫ですよと頷いたソキに、妖精は額に手を押し当てた。
『まあお風呂でアタシが確認してあげるわよ……。死角にないとも限らないし……あったら呪っていいわよね?』
『その時は僕がまずロゼアと話し合いの場を持ちます。教えてください』
『ロゼアに甘いんだから……!』
 案内妖精とは須らく、導いた魔術師に甘いものである。そうですねと頷くシディに舌打ちをして、妖精はううん、とまだ思い悩むソキへ改めて問いを向けた。
『で? アンタどこに感触が残ってるっていうの? 脚? 脚よね? 脚のどのあたり? ふともも? それとも爪先?』
 先日、ソキが眠っている間に脚の手入れをしたロゼアは、見ていた妖精がきもちわるくなるくらい楽しそうだったのである。思い返せばソキの服で脚が出ていたり、その形が分かるものはひとつもなかった。ズボンをはいているのも見たことがない。
 スカートも膝丈ですら見たことがない。どんなに短くても、膝のまるみは徹底的に隠されている。夏であっても、もちろん、冬の今もなお。足首すら露出がない。肌が見えるのは、それこそ風呂場くらいのものだ。ロゼアの意思がない筈がなかった。
 それなのに、ソキは妖精の言葉にくてんと首を傾げてしまった。
「ふにゃん? おあし? ……おあしにもちゅうなの?」
『アタシに聞かないでちょうだい。は? なに? 脚じゃないの?』
「おあしぃ……?」
 スカートをよじよじたくし上げて行く動きから、シディがすばやく目を反らした。止めて下さいと求められるのに、妖精はいいから顔を背けてなさいよと白い目になる。ソキはタイツの上から脚をじーっと見つめ、んしょんしょ、と言いながらスカートを元に戻した。
「おあし? おあしにちゅう……ちゅう……?」
『覚えがないならされてないのよ。諦めなさいなに考えてるの』
「なでなでならしてもらうですけどぉ、ソキねえ、おあしに触るのはやんやんなんですよ。きもちくなっちゃうです。だめです」
 その事実は知りたくなかった。羽根を引っつかんで捻りながら、妖精はいいこと忘れなさいよとシディに脅しかける。もちろんです僕だって知りたくはありませんでした、とシディは呻く。
 ロゼアちゃんにもやですって言ってあるです、やんやんなことをする筈がないです、と一人勝手に納得し、ソキは気を取り直して自慢した。頬から、手をすべり落とすようにして顎の下、首の肌に触れる。
「あのね、ロゼアちゃんがちゅっちゅってしてくれるのはね、このへんなんですよ?」
『首……?』
「じつはぁ、今日の朝もちゅうがあったです……! でもでも、ソキが起きた時には机でお勉強してたんですよ。ロゼアちゃんったら勤勉ですぅ……」
 自慢しながらもガッカリしているのは、隣に寝転んで撫でたりしていてくれなかったからである。ソキが参考にしていた本によれば、ちゅうをして起きる朝は髪を撫でてうっとり微笑んでいてくれたり、そのままもう一回きもちいのをしたりするのが普通だったのに。
 ぷんむくれながら訴えるソキに、妖精は白んだ目ではいはいそうね残念ね、と言った。
『でも、どうせすぐ抱っこはしたんでしょ?』
「今日もご機嫌だな、どうしたの、ってぎゅうをしてくれたですぅ……!」
 どうしたもこうしたもお前のせいだろこのむっつり、と妖精は心の中で思う存分ロゼアのことを罵倒した。白々しいにも程がある。ぎゅっとされて抱っこしてもらったので、ソキはロゼアちゃん続きをしてもいいんですよぉ、ときらきらわくわくそわそわしながら誘ってみたのだが。
 ロゼアは、うんありがとうな、と言って授業の予習に戻ってしまったのだった。授業の予習である。ぎゅうでもちゅうでもきもちいいのでもなかった。一応、ソキはもしかしたら、と予習が終わるまでも待ってみた。しかし期待した続きはないまま、朝食へ行き、今へと至る。
 アンタたち実は意思疎通ちゃんと出来てないんじゃないの、と呆れ果てた妖精の言葉に、ソキはぷーっと頬を膨らませて。転がっていたアスルを引き寄せ、不満げにもぎゅもぎゅ押しつぶした。

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