手違い、である。
星降の王からもたらされた返事に、妖精は眩暈を感じて沈黙した。わっと華やかな歓声があがり、ロゼアはソキを抱き上げてくるくると回っている。きゃぁんやぁっ、と甘くとろけた幸せそうな声に、妖精はため息をついて首を振る。旅立ちを歓迎されないのはいつものことだったが、こんなに嬉しそうにされると、やはり胸が痛むものだ。
さて、どうしたものかしら、と妖精は机の上に置かれた、一枚のカードを見下ろした。入学許可証。特別なインクを用いて魔力を染み込ませて作るそれが、本当にソキに差し出されるのは、まだ数年後のことであるという。誤報ではないが、時期尚早で、今すぐである必要はない。つまりは手違い。
ごめんごめんほんとにごめんなああっ、と王の泣き声の幻聴が、妖精の脳裏に響き渡る。
『帰ったら文句のひとつくらい、言ってもいいのかしら……』
「えええっ。妖精さん、帰ってしまうです?」
残念そうな声を聞きとめて、妖精は柔らかく微笑み、机から飛び立った。ええ、ええぇ、と不満そうにする幼子には、確かに魔力があった。妖精の姿を認め、声を聞き、触れることができる。それこそ魔術師としての証明だ。今も滾々と湧きいずる魔力が、幼子の中にあるのを感じ取る。
目覚めたばかりの魔術師は不安定だ。それを今は置いておくことに不安がない訳ではないが、王がそう定めたのであれば、妖精が否を唱えることは難しい。だいたいからして旅をしていくと告げた所、『お屋敷』からの大反対が巻き起こり、とにかく問い合わせて詳細を聞かせろ全てはそこからだ、という要求があっての今である。
曰く、十になったばかりの幼子に一人旅をさせるだなんて無謀なことは考えられない。曰く、ソキさまの安全健康管理はどうお考えなのか。曰く、旅と簡単に言うが『花嫁』たる方にそんなことが可能だと思っているのか。曰く、『花嫁』は砂漠の持ち物でもあるが陛下はそれに許可をされたということなのか。など。
一瞬、この質問を裁くのが面倒くさくなって先延ばしにしたのでは、と思うほどの怒涛の質問状は、製本されて送られた。背幅は一センチを超えていて、目撃した白魔法使いは笑いが止まらなくなったのだという。それに対する回答が、手違いだから来年以降ね、であるのだから、やはり面倒くさがられたのではないのだろうか。
疑惑を胸に秘めながら、妖精は目をうるませる愛らしい幼子に、やわらかく微笑して囁きかけた。
『あなたを連れて行かなくてもいいのなら、わたしの用事はないのだもの』
「えぇ、えぇえ……。ソキ、ソキ、もうちょっと、妖精さんとおはなしをしたいです。帰るの? なんで? なんでです? ソキ、妖精さんとおはなしをするぅ……」
いやいや、とむずがる幼子に、妖精は困ってしまった。王からの返答状には速やかに戻るようにとは書かれていなかったが、留まっていいとも告げられていない。
「げしのひ、までぇ、ソキは妖精さんと一緒に、おはなし、するううぅ……!」
夏至の日までに到着しなければならない、というのを。ソキはしっかり覚えていたらしい。いやんやん、ともちゃもちゃ暴れて抗議する幼子を、ロゼアが苦笑しながら宥めている。しかしなんの気まぐれか。ロゼアがいくら言葉をかけても、ソキは妖精さんと一緒にいるぅ、と言い張るばかりでがんとして譲らず。
妖精は苦笑して、『お屋敷』に滞在する知らせを王に送ることとなった。
恐らく、珍しいペットを手に入れたくらいの感覚なのだろう。とにかくソキはおおはしゃぎで、しきりに妖精の世話をしたがった。角砂糖を用意しては妖精に差し出し、着替えるちいさな服を欲しがったり、連れ歩くちいさな編みかごを探しては、部屋をぐしゃぐしゃにかき回した。飛べるからいいのよ、と言っても、ソキはぷっと頬を膨らませてでもぉ、と言う。
「ソキも歩ける、ですけどぉ。すぐに疲れてしまいますよ。妖精さんも、疲れたら休む所が必要です」
『……座れるところは、たくさんあるわ』
「あのね、ソキはかごの中に、ハンカチをたくさんつめてふわふわにするのが良いと思うです」
えへん、と胸を張られて、妖精はため息をついて周囲を見回した。出会って数日。この幼子がちっとも人の話を聞かないし、言うことも聞かない、というのは、もう分かったことなのだが。周囲もそれを強くたしなめないのだから、困ったことだった。
「あ! みつけたですー! ソキ、これをけんめいにさがしてたですぅー!」
もらった時には、花の詰め合わせが中身であったのだという。手に持って歩くにはすこし大きなかごを自慢げに差し出し、ソキは自慢げにふすんっ、と鼻を鳴らしてみせた。
「これでね、一緒にお休みするです。ねえねえ、いいでしょう?」
『おやすみ?』
「あ、ソキ。またこんなに散らかして……」
戸口からの声に、ソキはぱっと顔を輝かせて振り返る。世話役たちが好意的に笑って、あっちこっちをひっくり返しながら大捜索するソキを見守っていたに対し、戻ってきたロゼアはきゃんきゃんはしゃぐソキの前にしゃがみこみ、ふくふくとした頬を指先で突っついてため息を突いた。
「お片づけしなきゃだめだろ。……なにを探してたの? 花籠?」
「やぁんやぁん。つっついちゃだめぇー……これねぇ、妖精さんのおうちにするんですよ」
初耳である。連れ歩くのに欲しがったのではなかったのかしら、と妖精は首を傾げた。まったく、と息を吐き、ロゼアは両腕で、よいしょ、とソキを抱き上げた。ぎゅっと抱きしめて、ふ、と満ちた息を吐く。
「なんで妖精さんを帰さなかったんだ? ソキはもう行かないんだろ。行かないなら、いいだろ」
「妖精さん、かわいー! んですよ? あのね、ちーさくてね、それでね、ちょうちょさんみたいに飛んでまわるの! それでね、髪の毛がきらきらしててね、おめめが苺みたいでね、羽が透明でぱたぱたってするです。それでね、それでねっ、いろんなことを知ってるです。すごーいですぅー!」
せがまれて語った『学園』の様子は、幼子の気に入る所であったらしい。あのね、魔術師さんは学校っていうのに通ってね、学校っていうのはね、と興奮した口調で話し出すソキに、ロゼアはんん、と気乗りのしない声を出して。でも行かないんだろ、と言った。
「行かない場所のおはなしなら、しなくてもいいだろ、ソキ」
「でも、でも、ソキはとうぶん、りょこ、に行かなくていいよ、って陛下が仰ってくださったですからぁ、魔術師さんの、がっこ……んと、んと。ん! 『学園』は、きっと、とってもいい所ですぅー!」
万一のことがあるとも限らないから国内に留まるように、との知らせは殊更幼子を喜ばせた。なんでも、結婚をする相手候補との顔合わせをする為に、年に数度の『旅行』が義務つけられていたらしい。年明けと共に十になったばかりの幼子と、結婚、という単語はひどく不釣合いだったが、整えられた環境とあいくるしさが、妖精にそれを受け入れさせた。
「……ソキはそこに行きたいの?」
不安げに問う少年に、妖精は目を伏せた。行きたい、行きたくない、行かせたくない、は関係がない。本人の意思も、周囲の希望も受け入れることはできない。目覚めた魔術師は、『学園』に行かなくてはならない。ソキがどうして先延ばしにされたのかは分からないが、いずれ必ず別れの日がくる。
ソキはロゼアをきょとん、と見上げ、のんびりした仕草で首を横に振った。
「ソキ、ロゼアちゃんのお傍にいたいです」
「うん。……うん、そっか」
「でもね、でもね、ろぜあちゃん。ソキは妖精さんに聞いたんですけどね、魔術師さんはね、なんとね、なんと、なんとですよぉ! おうち、に、かえて、きて、いいです! あの、あのね、ソキはね、おべんきょに行って、そしたらね、帰ってきて、いいです! がっこはね、りょこ、とは、ちがてね、んと、んと、あの、だから、きっといいところですー!」
興奮して、早口で、たどたどしくて、なにを伝えたいのか、妖精には全く分からないのだが。ロゼアにはなぜか理解できるのだろう。笑いながら何度か頷き、ロゼアはそっか、とソキを抱き上げたまま、花籠を拾って歩き出した。
「じゃあ、今日はもうお昼ねしような。ソキはいいこだから、お昼ねできるよな」
「ソキ、おひるねするうー!」
「この籠は枕の隣に置けばいいの?」
こくんっ、とあまえた仕草で頷くソキに、ロゼアはおはなししてないでちゃんと眠らないとだめだからな、と苦笑した。昨夜も、遅くまで。ソキが妖精におはなしをせびって、遅くまで眠らないでいたことを、知っているようだった。
ソキにしか妖精の姿は見えず、声も聞くことができないのに、『お屋敷』の者たちは随分心を砕いてくれていた。ソキが妖精に構いすぎればそれとなく注意をそらし、直に意思疎通ができないならば、と小さな茶碗と砂糖菓子を用意してくれた。妖精はお砂糖しか食べない、とソキが言って回ったからだ。
砂糖菓子は、様々なものが用意された。白砂糖、黒砂糖、氷砂糖、ざらめ。花のかたちを模したもの、鳥や植物の模様を模ったもの、果物の風味がついたもの。茶碗には砂糖菓子に合わせて、これも実にさまざまなものが給仕された。薄荷水が満たされていることが一番多く、その日にソキが飲む香草茶であったり、絞った果実であることもあった。
おふくおふく、と騒いで、ソキがおおかまかな姿形を説明したのだろう。体型がどうであっても着られるようなゆったりとした形状のものから始まり、腰をきゅっと絞ったワンピースや、果てはドレスめいたものまでが作られるようになった。暇をもて余しているのかと思いきやそうでもなく、誰も彼もが、わぁっと声をあげ目をきらめかせ、蜂蜜みたいな声で喜ぶソキの為に、そうしているのだった。
幼子のあいらしさは、魔性めいている。魔性そのものかと思うには、毒気がなく。穿った見方をしようとしても、甘くふんわりとした雰囲気と、いとけないまなざし。幸福に緩む笑顔に、頑なな心がするすると解かれてしまう。一月も過ぎた頃にはなにをしに来たのかしらわたし、と妖精が首を傾げるほど、共に暮らす準備が整えられていた。
次は靴と髪飾りです、と革職人をはじめ、彫金部が張り切っているらしい。それをソキから伝え聞いて、妖精はやや困った息を吐き出した。
『あなた……わたしのこと、なんて話してるの?』
案内妖精は、『学園』への使い。ソキを魔術師のたまごとして、旅へ連れ出すのがその使命。間違っても、愛玩動物のような扱いをされる為に、ここへ来たのではないのである。ソキは寝台にころりと腹ばいになりながら、スケッチブックに妖精を写し取っていた手を止めて、ぱちくり目を瞬かせた。
「あのね、ソキの妖精さん。かわいーんですよぉーって」
『……わたしが、なんの為にここへ来たのか、知っている?』
「ソキ、じつは、魔術師さんなんでしょう?」
こしょこしょ、声を潜めて囁かれているのは、もう眠る時間だからだ。夜もたっぷり眠るソキには、お昼寝の時間が義務付けられている。ソキは体が弱くて、力がなくて、あまり一日ずっと起きていると夕方にはくたくたになってしまう。そして、そのまま体調を崩すから、眠らなければいけないのだった。
絵を描いていたのは、普段よりすこし寝台へ転がされる時間が早かったからであり。ロゼアが呼び出されてソキの傍にいないことへの、ささやかな反抗であるらしい。四方を天蓋からさがる布によって塞がれた寝台だから、起きていてもバレない、とソキは思っているらしい。
妖精は息を吐いた。絵はそろそろ終わりにしましょうね、と囁き、ソキの言葉に首肯する。
『そうよ。わたしは、あなたの案内妖精。あなたは、魔術師のたまご。わたしは、あなたを迎えに来たの』
「でも、ソキ、行かなくってもいいんでしょう?」
『……そう、陛下は仰られたわ』
その理由が、妖精には分かる気がした。ソキはあまりに幼く、儚く、脆かった。旅をせず、『扉』を使って直に移動したとしても、そこからの生活に耐え切れないことは、共に暮らしてすぐ分かることだった。せめてもう数年、成長してからでなければ、迎え入れることが難しい。そう判断されたのだろう。
目覚めと共に入学許可証が発行されるのが通例とはいえ、案内妖精がつかわされたのはまさしく事故であり、手違いであったのだ。目を擦りながらあくびをするソキは、ふわふわに作られた砂糖菓子のような少女だ。ほんのすこしの衝撃で、取り返しのつかないくらいに壊れてしまう。慎重に、大事にしなければ、と思わせる。それでいて。
魔術師としての幼子の資質は、しなやかであり優美であり、また恐ろしいほどに安定して強靭だった。目覚めてすぐこそ、魔術師のたまごらしい不安定さで妖精の不安を掻き立てたが、日ごと、夜ごとに魔力は安定していった。今では熟練の魔術師もかくや、と思うほど、波紋ほどの揺らぎもない。
『でも、それは今年は、ということよ。……来年かもしれないし、その次の年かもしれない。いつか、あなたは『学園』に行くの。この場所から離れるのよ』
「でも、でも、でもぉ、帰ってきて、いいんでしょう?」
『長い休みの間だけね』
町にある学び舎のように通う訳ではなく、週末ごとの帰宅が許されている訳でもない。あくまで、休みの間の特例として帰省が許されるだけなのだ。何回目かも分からない答えに、ソキは瞳を熱っぽくとろけさせ、はぅ、と幸せそうな息を吐き出した。
「それなら、ソキはきっとがんばれるです……だってね、だってね、帰ってきて、いいんでしょう? がっこで、あの、誰かと、結婚をしなくても、いいんでしょう……?」
『結婚する為に行くんじゃないもの。したくなかったら、しなくていいの』
「おて、がみ、だって。書いて、いいんでしょう……?」
じわ、と涙を浮かべて。なかない、です。ないてな、です、と言いながら問うソキを、妖精は見つめながら囁いた。
『ええ。いいのよ。それは許されているわ』
「それで、それで、魔術師さんの結婚は、魔術師さんになったソキが、どうしてもどうしても、したいです、ってお願いして。陛下が、いいよって言わないと、だめなんでしょう?」
『ええ。そのとおりよ』
よかったぁ、とソキは心からの息を吐き出した。魔術師として目覚め、『お屋敷』中が大騒ぎになり。砂漠の王や、星降の王からの返事を待つ間にも、誰からにも隠れて、こっそりと。ソキが一番はじめに、妖精に尋ね。何度も繰り返された言葉だった。告げられるたび、ソキの頬は喜びに赤らむ。
喜んでいる、ということが、はきと伝わる。幸福そのものの、瞳の輝き。
「それじゃあ、きっとロゼアちゃんも……あんまりがっかり、しないです。ソキ、結婚、できないですけど。そういうんなら、きっと……」
『……結婚しないとガッカリされるの? どうして?』
行かないならこれはもういらないだろ、と言ってソキの入学許可証に火をつけた少年のこととは、中々に思いがたいものがあった。なにせ、ことあるごとに入学しなくていいことを喜ぶのである。何度でも訝しく問う妖精に、何度かも分からない言葉が返される。
「ソキ、結婚をしてしあわせになる為にね、ロゼアちゃんが育ててくれてるですよ。ソキね、ロゼアちゃんの『花嫁』です。だからね、結婚できないとね、ロゼアちゃんがいっしょけんめ、してくれたのが、ガッカリなんですよ」
『……ねえ、もうすこし分かるように説明できない?』
「んん?」
なにが伝わっていないかが、ソキには理解できないらしい。眠気を覚えている響きで首を傾げられ、妖精は苦笑して、今日も詳しい説明を諦めてやった。まあ、いずれ知ることもあるだろう。そう思いながら、妖精は目をこするソキに、眠りましょうかと囁きかける。
ふあ、とあくびをしたソキは素直に頷くと思いきや、もうちょっとぉ、とぐずってスケッチブックをめくって行く。先日新調したのだというそれには、様々なものが描き出されていた。この寝台から眺めたのであろう室内の風景、風に揺れる花、美味しそうな砂糖菓子、妖精の姿も何枚かあり、それはどれも実に精密だった。
絵を描くの得意なんです、と自ら言うだけのことはある。関心しながら眺めていると、あったです、と言って、ソキは描き途中らしきそれに、また鉛筆の線を落とした。気になって覗き込む。その面に描かれているのは、ひとつの陶杯だった。取っ手はなく、やや丸みを帯びた台形をしている。彩色はされていないのに、なぜか白い陶器なのだと分かった。
ソキが描き込んでいるのは、その模様だった。精緻な植物と花の模様を、やや考え込みながら、隙間を埋めるように描き入れている。妖精が問うよりも早く、これはね、とソキが言った。
「誰にもみえないの。でもね、ソキにはあるの、分かるんですよ。妖精さんが来た日に、分かるようになったです」
これはね、と誰になにも学ばないうちに理解した、魔術師のたまごの瞳が妖精をみる。
「ソキの魔術師さんの力がね、ここにあるです。これくらいのね、ソキの両手のね、お水をすくう時のおててのね、おおきさと、同じくらいなの。なんだか、とっても大事なものだと思ったです。だからね、描くことにしたの」
目の前にあるようで、とても遠くにあるようで。鮮明に見えていて、でもぼやけてしまう。触れられるようで、触れられない。あやふやなもので、だから、描くのにとても時間がかかっているのだという。妖精が来た日から手をつけているのだというから、かれこれ一月以上は描いている絵は、完成に近く、けれどまだ空白があった。
たどたどしい説明でも、その言葉と形状で、妖精はそれがなんであるかを理解する。それこそ、魔術師の水器だ。己の魔力そのものであり、また、魔力を溜めておく為の器。それによって魔術師は己の魔力量を知り、状態を知り、安定を得る。これだ、と妖精は直感的に思った。
こうして描いていたからこそ、魔力の安定が桁外れに跳ね上がったのだ。己の魔力そのもの、水器を理解することが、未熟な魔術師の第一歩。それを目覚めた瞬間から認識し、こうして理解を深めて集中して行くのなら。それは無意識であっても、魔術師としての研鑽だった。毎日、誰に言われずとも己でそうしていたのであれば、なお。
ソキはじっと見つめる妖精にそれ以上言葉を重ねることなく、深く集中しきった眼差しで、己の水器を精密に描き出し。やがて、ふあふあとあくびをして、唐突に鉛筆を投げだした。
「わからなくなっちゃたです……とってもねむいねむいです……。ロゼアちゃんはまだ帰ってこないです。ゆゆしきことです……」
『眠りましょうね』
「うん……。ロゼアちゃん、やっぱり、ソキが魔術師さんなのガッカリなのかなぁ……。最近、あんまり、一緒に眠ってくれない気がするです……」
促されるままに横になり、かけ布を引き寄せながら悲しそうにぐずる幼子に、妖精はそんなことはないわよ、と囁きかけた。
『昨日の夜だって、添い寝してくれていたじゃない。どうしてそう思うの?』
「……だって、昨日も、お昼にはいなかったです」
一昨日は一緒だった筈である。ぐず、すんっ、くす、すすんっ、と悲しそうにむずがるソキに、妖精は手を伸ばして頬を撫でてやる。つまりこれは、眠くてぐずっているだけである。大丈夫よ、大丈夫。思い違いよ、そんなことないわよ、と囁けば、ソキの瞼がゆるゆると落ちていく。こく、と甘えた仕草で一度、頷かれる。
「ねえ、ねえ、妖精さん……」
『なあに』
「げしの日、終わっても……時々、会いに来てくださいね。それでね、おはなし……ソキとね、おはなしね……」
したい、なのか。してください、なのか。ふわふわに蕩けた声で、どちらを求められたのかは分からなかった。それでも、いいわよ、と囁いてやれば、ソキの寝息が安心したように深くなる。ふふ、と笑って、妖精は幼子の頬に口づけた。
妖精とソキは、たくさんの話をした。『お屋敷』に留まることになったソキは、殆ど外出をしなかったから、その代わりのようにずっとなにかを話していた。例えば、魔術師のこと。この世界の歴史。魔術師がどうして世界を砕いたのか。『学園』での生活。休みの日に行くなないろ小道。妖精たちの花園。王宮魔術師たち。どういう風に星降まで旅をしていくのか。
言葉はとりとめもなく、道筋もなかった。その時にふっとソキが疑問になったことを妖精は答え、ころころと話題は転がって行き、そして尽きることがなかった。話をするたび、好奇心にきらめくソキの瞳はうつくしく、愛らしかった。外の世界への想像を巡らせ、希望をいっぱい抱いて煌めいていた。あれこれと的外れな返事をされることすら楽しかった。
ソキにしか分からない妖精との会話を、相変わらずロゼアは歓迎する様子がなかった。それでいて、積極的に止めることもしなかった。ソキがあまりに楽しそうに、一々ロゼアに報告するからだろう。あのねあのね、ろぜあちゃん。魔術師さんはね、おそとはね、こんなふうなの。それでね、ソキもね、きっとそういう風になるんですよ。でもね、帰ってくるの。帰ってくるんですよ。
夏至の日を半月後に迎える頃になると、ロゼアはソキを膝に抱き上げ、あるいはその傍らに腰を下ろして、半分だけの会話を聞くようになった。妖精の言葉はその耳に届かないであろうに、時折、妙に分かった風に相槌が打たれるのが不思議で、くすぐったい気持ちにもなる。その頃になると時折、ソキは砂漠の王宮へ呼ばれるようになった。妖精と共に。
当たり前の顔をしてロゼアはそこへついて行ったが、王宮魔術師や王に咎められても、がんとしてソキの傍を離れることがなかった。不安な様子を理解したのだろう。まあ、いいよ、あんまりここで話したことは覚えないようにしてな、とため息がひとつ。いつもそういう風に告げて、王宮魔術師たちはソキのことを調べた。その魔力を、安定を。そして魔術師としての適性を。
通常ならば数時間で済む適性の検査が、数回に分かってじわじわと進められたのは、ソキ本人の集中と体力のせいだった。魔術師としてのそれを明らかにするのは、本当に大事なことだ、と繰り返し説かれても、ソキはそれを中々受け入れなかったのだ。なにか大事な秘密であるように。やです、教えたくないです、とくちびるを尖らせて。ロゼアにひっついて離れなかった日もあった。
じゃあ、今日はひとつだけ。このひとつだけやったら、帰ってもいいよ。残りはまた今度ね。説得はゆっくりと繰り返され、それでいて、頷くまでは帰れもしない強制があった。ひとつ、ひとつ、もうひとつ。ソキのつたない歩みのように調査は進められ、とうとう、ソキの適性が明らかになったのは、夏至の日当日のことだった。
予知魔術師、というのだという。判明した瞬間に頭を抱えて倒れ込んだ王宮魔術師たちと、うわぁ、と言ったきり声を発しない砂漠の王をきょときょと見比べて、ソキはちょこりと首を傾げ、青ざめた妖精に問いかけた。
「ねえねえ、妖精さん。よちまじちしさんは、つよぉーいの?」
『……予知魔術師ね、予知、魔術師。……そうね。そう、ね。ああ……そうね……』
強いとか弱いとかそういう問題を突破した、災害並みの危険そのものである魔術師だ。当然、大騒ぎになった。今からやっぱり入学させないといけないのでは、手違いが手違いだったのでは、と騒ぐ王宮魔術師たちに、ロゼアは今にも『お屋敷』に駆け戻りそうな顔でソキを抱き上げたまま、周囲を睨みつけ。砂漠の王はしばらくの沈黙の後に呻き、確認するから待っていろ、とだけ言った。
結果は、やはり招集が誤報であるのだという。ただし予知魔術師をそのままにしておくのはあまりの危険が伴う。よって案内妖精はひと月に一度、ソキに会いに行く義務を課せられた。その成長を観察し、異変あればすぐ知らせるようにと。砂漠の王宮魔術師たちにも日課としてそれが課せられ、だったら入学させてください、といくつもの悲鳴を響かせた。
入学できない理由がある、と明かされたのはその時のことだった。希少中の希少適正である筈の予知魔術師が、今現在『学園』に在籍しているというのだ。思い出した顔で頭を抱えて叫び呻く王宮魔術師に、ソキは怯えた顔をしてロゼアにひっついた。曰く。ソキと違って魔力の状態が不安定であるので、いつなにが起こるか分からない為、二人を同時に同じ場所へ置くことができない。
不幸中の幸いとして、ソキは魔力の安定が桁外れである。だからこそ、こちらの世界ですこし様子を見て欲しい。最低、あと三年。伸びたとしても、四年か、五年。ソキにはこちらの世界に居てもらわないとならないのだ、と。書面にて申し訳なく告げた星降の王は、ソキの魔術師適正や安定を得ることを知っていたかのよう、それを定められた予定、として通達した。
五年経過すれば、ソキは成人となる十五である。ぽつりと呟いたソキがその事実になにを思っていたのか、妖精は知らない。けれども周囲の混乱をよそに、ソキはその通達をあっさりと受け入れた。長くても、十五になるまで。ソキはずぅっとロゼアちゃんといます。『旅行』には行かないです。魔術師だから、結婚もできなくなるです。それでもいいです。ロゼアちゃんと一緒にいます。
砂漠の王は深いため息と共に、ソキの言葉に頷いた。『学園』に招かれない理由が純粋なる魔術師都合だと判明した以上は、ソキは被害者ですらある。魔力の安定や、その他の事情も踏まえて、必要であれば砂漠の王宮魔術師と共に過ごすこと。そうでなければ、その日まで。『お屋敷』にいて良い、と告げられた王の言葉に、ソキは大はしゃぎでロゼアに抱き着いた。
どこにもいかない。あと五年は。誰かに嫁ぐことはない。この先もずっと。魔術師になっても、帰ってくる。これから先、いつか来る日。その後も、ずっと。たどたどしいソキの言葉に、ロゼアはふと気が緩んだように笑って、己の『花嫁』を抱きしめた。それを見届けて、妖精はいったん、花園へ帰ることにした。長くとも今日までの不在の予定で出てきたのだ。やりたいこともあった。
ソキは当たり前のように不満の声をあげたが、月に一度は会う義務ができていた。また来月ね、と口にすれば寂しそうな顔をしてこくりと頷き、たくさんおとまりしてくださいね、たくさんですよ、と言って妖精を見送った。別れ際、こっそりと。あの絵がね、きっともうすこしで完成する気がしています。そうしたらまた、一緒に見てね。そう、妖精の耳に囁いて。
一月を、妖精はいそがしく過ごした。まず星降の王の元へ飛び、真実を問いただし話を聞いた。ソキが予知魔術師であることは、早い段階で、王には分かっていることだったのだという。だからこそ『学園』にいるもう一人との危険を踏まえ、入学許可証は発行しても、その日までしまっておく予定であったのだと。それがなぜ妖精を呼び、迎えへ行かせることになったのかは。分からないのだと。
正式な手順を踏めば、妖精は王に呼ばれて案内妖精の指名を受ける。必要なだけの説明を受け、準備を整え、迎えに旅立つのだ。妖精は確かに、その手順を踏んでいた。王から直に、案内妖精であると告げられて入学許可証を渡されていたのだ。それなのになぜ、という疑問はすぐに解消された。なんでもその日、熱で朦朧としていたのだという。
妖精は頭を抱えて、そうですか、とだけ言った。それ以外はどんな言葉も出てこなかった。記憶を探れば確かに、その日の王はぼんやりしていた気がするが、そう頻繁に会う存在でもないし、妖精も緊張していたのだ。また、案内妖精の指名と情報の受け渡しはふたりきりで行われるものであるから、普段を知る者の目や疑問もそこに入ってくることはなかった。
体調不良の時は安静にしていること、と言い聞かせて、妖精は『学園』へ飛んだ。件の予知魔術師に心当たりがあったせいだ。なにせ、その存在を『学園』まで導いた本人である。不安定だ、と言われてしまうのに納得するくらい。少女は安定していなかった。十三になった筈の少女は、もう『学園』に招かれて五年は経過しているであろうに、見て分かるほど精神も、魔力も安定していない。
妖精が迎えに行った時、その少女はソキよりも幼かった。それなのに両親にばけものと罵られ、たったひとりで泣いていた。助ける者もなく。保護する者もなく。妖精はその手を引いて、すぐ王宮に助けを求めた。その時も大騒ぎになった、と妖精は思い出す。少女はなんでも、王の落胤か、それに近い存在であったらしい。
一時は王宮に保護されていたのに、ある時、連れ去られてしまって行方が分からず終いになっていたのだと。星降の王は祈るように、妖精へ入学許可証を託した。見つけて、どうか、連れてきて、と願われたのは、そういう意味であったのだ。優しい願いがようやく届き、それでも、恐らく、手遅れだったのだ。幼子の心は、もうぐしゃぐしゃになっていた。
自分より体の大きい者たち全てに怯えて、びくびくしながら毎日過ごしているのだという。一年経っても、二年が過ぎても。五年以上、時が流れても。そこに居ることは慣れた。それだけで、安心する場所を見つけ出せてはいない。救いになるかも知れないのは、今年入学した新入生のふたりが、そんな少女に興味を抱いている点だった。
ふたりは代わる代わる少女に話しかけては、すこしづつ、交流を深めているのだという。それを確認して、妖精は『学園』を離れた。あの日助けた少女の行く末が気にならないことはなかったが、年若い青年と女性に連れられ、なにか話して、すこしだけ笑う横顔は、大丈夫だろうと思わせた。あと三年、長くて五年。それくらいかければ、きっと、あの存在も落ち着くだろう。
日々は過ぎていく。ソキからの手紙で一月経過していたことを思い出し、妖精は慌てて砂漠へ飛んだ。王宮魔術師たちは口々に状態の安定を告げ、妖精もその目で確認し、ほっと胸を撫でおろす。おひるねの寝台でふたりきりになったとたん、声を潜め、ソキはみてみて、と妖精にスケッチブックを差し出した。そこに描いた魔術師の水器が、完成したのだと。
もうすこしだけ調整したいですけど、でもこういう形なんですよ。誇らしげに告げたソキの描いた水器は、あいらしく、ちいさく、うつくしかった。来月に妖精さんが来る時には、今度こそもう終わっているです。だからね、あのね、ソキと一緒におまつりを見に行きませんか。ソキはもじもじしながら妖精を誘い、八月になるとね、と言った。
「おそとでね、星祭り、というのがね、あるです。妖精さんとご一緒したいなって思っているです……!」
ねえ、ねえ、いいでしょう。おねがい、と。きらきら甘く輝いて見つめてくる瞳に、妖精は笑って頷いた。一月後。また、次に会いに来た時に。一緒に行きましょうね、と告げると、ソキはきゃぁっとしあわせそうに声をあげ、楽しみにしているです、と笑った。