星は、砂漠の民にとって特別な意味を持つものだ。方角を知る為の導きであり、祈りを捧げるよすがであり、輝きや星座から占いをしたりもする。星座にまつわる様々な物語は幼子の眠りに、世代を跨いで寄り添い続けている。大地、水、風、炎、太陽、夜闇、月。そして、星。なくてはならないもの、ともすれば信仰の行く先として、砂漠の星は輝いている。
星祭りとは、そんな星に年に一度、感謝の気持ちを捧げる為のものである、と。妖精は一時間程紡がれた、ソキのふわふわほわほわした説明と、最後の最後に纏めて付け加えられたロゼアの言葉からようやくそれを理解し、深いため息と共に額に両手を押し当てた。
一時間。あっちへこっちへ脱線するソキの説明を、最初からロゼアが纏めてくれれば、恐らくそれは二秒で終わった。
『あの、ね。もしかしてあなた、誰かに説明、を、できないの……? そうなの……?』
恐ろしい可能性に気がついて身震いする妖精の呟きは、ソキ以外には届かない。ロゼアの膝の上に抱き上げられ、飴やらお茶やらを与えられながら、説明できたんですよぉ、と自慢げにふんぞり、撫でてもらっているソキ以外には。妖精は眩暈を感じながら怒りにも似た感情を押さえ込み、その説明らしきものの間、補足も説明もしなかったロゼアを、じっとりと睨み付けた。
いくら妖精の声が聞こえないからと言っても、ロゼアはソキの説明を聞いていた筈だ。まったく説明になっていないそれを、一時間も流しっぱなしにしたのは、目をきらきら輝かせてあのね、あのねっ、と妖精に話しかけるソキが、あまりに愛らしかったからに違いない。
可愛かった。格別に可愛かった。内容はともかくとして、ずっと見て聞いていて、飽きるものではなかった。だから妖精もうまく止められなかったので、同罪といえば同罪なのだが。なんとなく不満で、それでいてどうすることもできず。妖精は、ため息をついて様々なことを諦めた。
『……今日は、その星祭りがあるのね?』
「そうなんですー! ソキ、ソキね、妖精さんと行くのを、とぉっても楽しみにしてたですよ! ね、ロゼアちゃん。ね?」
「そうだな」
きゃっきゃとはしゃぐソキを、穏やかな笑みで抱き寄せるロゼアをじっくりと眺め、妖精は疑惑のまなざしで沈黙した。まさか、とは思うが。ソキが妖精の訪れを、ともに祭りへ行こうということを、この上なく楽しみにしていたのが気に入らなくて、一時間説明を聞かせたとかではないのだろうか。
見えていない筈なのに、にこ、と笑いかけられて、妖精はぎこちなく距離をとった。ソキはロゼアと妖精をきょときょと不思議そうに見比べた後、こてん、と首を傾げて問いかける。
「ロゼアちゃん。妖精さんがみえるの?」
「んー……いや、見えないよ。でも、そこにいらっしゃるのかなって」
ソキが描いてくれたからどんなお姿をしているかは分かるし、なんとなく気配を感じる気がする、とも続けられて、妖精はロゼアからすすすっと距離を取った。なにがどうとは言えないが、そこはかとなく嫌な予感がするし、羽根がぞわぞわして落ち着かない。それなのに、ソキはきらきら希望に輝く目でロゼアを見つめ、頬をぱっと赤く染めて喜んだ。
「ろぜあちゃ……! ロゼアちゃんも、もしかしたら、じつは、まじゅつしさんなのっ……?」
『え、ええぇえ……。あのね、いいこと? 魔術師っていうのは、そんなにたくさん、いるものではないの』
ごくたまにいる、単なる気配に聡い一般人である。そうであってほしい。羽根を手でさすりながら囁く妖精に、ソキは興奮した様子でロゼアにぎゅむっと抱きついた。
「でっでもぉっ! ロゼアちゃんが、もし、もし、魔術師さんなら、ソキと一緒に学校へ行けるです……。一緒です……うれしです……。今年は、もう終わってしまたですから……来年です? それとも、それともぉ……ソキが、学校へ来ていいよって、お呼ばれする年です? いつかな、いつですぅ……? ロゼアちゃんにも、はやく妖精さんが来ないかなぁ……!」
『……ねえ、あなた。あんまりその話題を口に出すのは、やめにしない?』
なにせ、安定しきっているとはいえ、未熟な予知魔術師である。うっかり、そうなってしまう未来があるとも限らない。妖精はそうだといいな、と微笑むロゼアをちらっと見て、無言で胸の前で両手を組み合わせ、祈った。どうかどうかこの少年が、魔術師になりませんように。
『そしてわたしが案内妖精ではありませんように……! やだやだ絶対手におえない……。お願いされても断りたい。断れないけど、でも、でも、わたしには絶対導けない……! だってなんか怖いし……』
「んん? ……ねえ、ねえ、妖精さん? 案内妖精さんには、どうやってなるの? いっぱいいるの? すくないの?」
甘い声。好奇心に輝く瞳。碧の宝石のように、瑞々しくうるわしく、きらめいている。そのうつくしさは、妖精には好ましいものだ。ロゼアから視線を外し、そろそろとソキに近寄って。妖精はここへ来て、と差し出されたちいさなてのひらの上へ、ちょんとばかり舞い降りた。
『案内妖精は、ひとに対して悪意のない妖精の中から、色々な条件と照らし合わせて星降の王陛下が選ばれるのよ。だから、毎年同じではないの。その年の、新入生の数だけ、案内妖精はいるのよ』
「あくい?」
その言葉を。ソキは、はじめて聞いたもののように。あまりにあどけなく、きょとん、として言った。ぱちくり目を瞬かせ、ほんのすこし、首を傾げて妖精を見つめる。無垢なまなざし。妖精は眉を寄せて、そろそろと言った。
『……他の種族を、嫌いな妖精、というのも、いるのよ』
それが精一杯だった。世界分割の大戦争と、それが終結してから、今も続く魔術師の迫害とその意識を。幼子に教える気に、どうしてもなれない。遠ざけたとて、いずれは知るだろう。魔術師であるというだけで、どれほど、人々と世界に虐げられてきたのかを。その日はいつか必ず来る。知る時が。知らなければいけない時が。けれどもまだ、先であればいいと、思う。
ふぅん、と興味のなさそうな声で頷き、ソキはにこにこと妖精に笑いかけた。誰かに。傷つけられたことはなく。傷つけようとする存在を、知らないような。守られきった、無垢な笑みだった。
繊細な金細工の灯篭に、ひとつ、ひとつ、火が灯されていく。銀、銅、鋼、鉄。色とりどりの、様々な素材で作られた灯篭に、火が宿されていく。それはどれも、星の煌めきを模した形をしていた。星灯籠と呼ばれる、この一夜、祝祭の日にだけ使う縁起物であるのだという。ソキではなく、ロゼアの口から語られた説明に、妖精は頷きながらあたりを見回した。
広大な『お屋敷』の廊下は、薄暗がりを呼び込む夜を下ろしていた。窓の外はまだ明るい夕暮れであるのに、白い壁に囲まれたこの屋敷は、どこもかしこも灯篭が飾られ、火が揺れる夜に包まれている。ロゼアに抱かれて廊下を進みながら、ソキの目は期待と喜びに、きらきらと輝いていた。
くすくす、なにをしないでも笑う響きが、幼子の上機嫌を伝えてくる。
「あのね、あのね、妖精さん。お祭り! これからね、お祭りなんですよ。一緒に行くですぅー!」
『そうね。一緒に行きましょうね』
「ロゼアちゃん! ロゼアちゃんもぉ、お祭り。一緒ですよ。それでねあのね、あのね」
お祈りをしたりね、出し物を見たりね、お買い物をね、してね、それでねあのね、あのね。はしゃぎきった声であれこれ告げられて行くのに、ロゼアは微笑みながらうん、うん、と頷いている。前を見ている、というよりソキを見ているようにしか思えないのだが、その足取りはしっかりとしていて、誰にぶつかることもなく、危なげもなく廊下を進んでいった。
夜を呼び込んだ廊下には、思いのほか人が多かった。ソキが普段住まう部屋は淡く静まり返っているのに対し、生きた、動きのある活気がざわざわと空気を動かしている。慣れない活気に怯えることなく、星祭りへの期待で頬を染め、ソキはふわふわとはしゃいでいる。ロゼアはほっとした笑みでソキを抱きなおし、すれ違った者に目礼した。
動きやすそうな淡い藍の上下に身を包んだロゼアと、揃いの衣装の者たちが廊下を行き交っている。この祭りの間に外へ行く『お屋敷』の者の、衣装であるのだと聞く。それを身にまとうのはどこか印象の似通った者たちばかりで、その統一感が、わずかばかり息苦しい。居心地の悪さに耐え切れず、妖精はソキの手元から離れ、天井の近くへ飛び上がった。
あぁん、とぐずって妖精へ手を伸ばすソキを、ロゼアがやんわりと宥めている。その頭を見下ろして飛びながら、妖精はふと、見覚えのないものに気がついて目を瞬かせた。ソキの髪に、赤いリボンが結ばれている。初夏の頃。迎えに来た時には、髪飾りはつけていなかった筈なのだが。夜に差し込む朝焼けのような赤が、妖精の目にやけに気にかかった。
妖精さん、お傍いなくなちゃたです、とソキはいじいじとそのリボンに触れている。
『……そのリボン、どうしたの?』
「ぷぷぷ。もっと近くにぃ、来てくれないとぉ、ソキは妖精さんとおはなし、して、あげないですぅ」
『だって……もう、分かったわ。これでいい?』
すい、と正確に妖精をとらえたように感じるロゼアの視線が怖かったとか、そういうことではないのだが。妖精はしぶしぶ、ソキの目の高さまで降りてやった。こっちきてぇ、ねえねえ、きてきてっ、と差し出される手の、指に触れて息を吐く。
『もう……すこしくらい距離があっても、話はできるでしょう?』
「やぁんやっ」
なにが気に入らなかったのだか、ソキはすっかり拗ねている。ロゼアの腕の中でちたちた足を動かして窘められながら、ソキはぷぷっ、ぷくーっと頬を膨らましてぶんむくれた。
「ソキは妖精さんがだいすきなの! お傍にいてくれなくっちゃやんやんですぅ!」
『ちょっと離れただけじゃない。ね?』
「んむぅー……。いーい? お傍から離れる時はぁ、必ず! 必ず、ですよぉ? ソキに、ちゃんと、そのことを言わなくっちゃいけないです。いってらっしゃいができないでしょぉ……っ? わかった? 妖精さん、わかった? お返事はぁ?」
花の蜜のように甘く。耳に触れては溶けて行く、砂糖菓子の声。怒られても拗ねられても、ちっとも怖くない。どことなくお姉さんぶった物言いは、普段から誰かにそう言いつけられているせいだろう。こみ上げてくる笑いに羽根をぱたつかせながら、妖精はソキの求めにええ、と頷いてやった。
『分かったわ。あなたの言う通りにしましょうね』
「ふふんっ。それじゃあ、妖精さん? お籠の中へどうぞです。ソキがぁ、ちゃぁんと、連れて行ってあげるぅ!」
寝る時には枕の横に。座っている時には膝の傍らに。せっせと持ち運んではそこへいて欲しがる花籠は、今日もロゼアの手にしっかと持たれていたのだった。ソキが連れて行く、と自信満々に言うわりに、持っているのはロゼアである。妖精は花籠とソキとロゼアを見比べ、なんともいえない気持ちで力なく頷いた。
妖精は知っている。ロゼアはさりげなく、実にさりげなく、この花籠を置いて行こうとしたことを。嫌われている訳ではない、と思う。向けられる視線に悪意を感じたことはないからだ。隠していても、人の感情に敏感な妖精には無意味なこと。そうであるから本心から、嫌っている、ということはないのだろう。ただ、恐らくは、ちょっと気に入らないだけで。
結局は部屋から出る直前、ソキがふんわふんわした声でああぁああロゼアちゃんたらお忘れものですぅーっ、と花籠を見つけてしまったので、それはしっかりと持たれているのだが。ソキが呼んだならすぐ来て下さいますよねもちろん、と言わんばかりのロゼアの微笑みに、妖精は納得できない気持ちで花籠にもぞもぞと収まった。
じっと見つめても視線は重ならないし、焦点も妖精には合っていない。なにより、触れられない。魔力を持たぬただびととは、触れ合うことさえ許されない。この世界でひとだけが、完全に魔力を持たない異物として存在している。魔力そのものに近しい妖精とは、空と地のように並行なものだ。
妖精は花籠を持つロゼアの指先に手を伸ばした。触れる感覚はなく。する、と通り過ぎてしまう。風に触れたような質感。ロゼアにも、恐らくそうだろう。ん、と視線は指先に落ち、そこへいる妖精へは向かなかった。
「妖精さん? なにしてるのぉ? ロゼアちゃんはぁ、ソキの! ソキのなんですううぅ!」
『試してみただけ。……あなたね、これくらいのことで嫉妬しないのよ』
「どうしようです……妖精さん、もしかしてロゼアちゃんに、ときめきー、を感じているの……? ゆっ、ゆゆしきことです……!」
誤解甚だしいし絶対にありえないし丁寧に辞退したいし心底やめて欲しい。戦慄するソキに、妖精は額に手を押し当て、ゆっくりと首を振った。
『ないから。ないから、安心なさい。変な心配はしないの……。正直に言うと好みじゃないし……』
「よかたです……。あ、あっ、じゃあ、ねえねえ、妖精さん? 妖精さんはぁ、どんなお相手にぃ、ときめききゃぁんってするの? ソキにこっそり教えてくださいです! あのね、えっとね、ソキはね、ソキはねぇ……ろっロゼあちゃ、なんですううぅうきゃぁああんやんやんはううんっ」
『ええ、うん、そうね。知ってるわ……』
今現在もその腕に抱き上げられ撫でて愛でられている状況で、なぜ内緒話のひそめられた声で会話が成立すると思っているのか妖精には理解できないが、ソキはいたって満足げにきゃぁんきゃぁんとはしゃいでいる。やぁんやぁんひみつの、こいの、おはなし、というやつですうううっ、と至って楽しげなので、妖精はそっとしておくことにした。
なぜかロゼアが微笑みつつも、面白くなさそうな雰囲気をかもし出していることであるし。なんでなのよあなたの話題じゃないもうやだ怖い、とお腹を手でさすって痛みを逃しながら、妖精は頭をかすめた可能性を、しかし即座に投げ捨てた。ソキが秘密を自分ではなく、妖精と共有してご機嫌なのが面白くないだなんて、驚異的な心の狭さ過ぎて考えたくない。
ため息をついて、妖精は辺りを見回した。ソキの部屋から出て、かれこれ十五分は経過している。ゆったりとした徒歩の移動だとしても、迷っているような移動距離の長さである。
『……中々外に出られないのね』
「お外にお出かけするですからぁ、行ってきますを言わないといけない所がたーくさんあるです。それでね、お輿の所へ行ってるの。お祭りでね、人が多いから、馬車はいけなくて、駱駝もいけなくて、ロゼアちゃんのだっこもだめなんです……」
廊下から、部屋の中には入らず。ちょっと戸口を覗き込んで、中にいる者に手を振っているそれは、外出の挨拶であったらしい。行く先々でそうしていたので、なんだろう、とは思っていたのだが。ソキの言葉に続いて、ロゼアがさっきので最後ですよ、と妖精に言葉を囁く。輿持ちたちが控えているのも、もうこの先です。
囁いて、一度立ち止まり。長い廊下の向こうに視線を投げかけて、ロゼアは名残惜しそうに、ソキをやんわり抱きなおした。
「ほら、もうすこしでお外だよ、ソキ」
「おそと……! お祭り! お祭りですよ、ロゼアちゃんっ」
今年は酔わないようにゆっくり行こうな、というロゼアの言葉に、ソキは無心でこくこく頷いている。気分が悪くならないように、祝福を送ってあげるのが良いかも知れない。ロゼアに頬を擦り付けて、はやくぅはやくぅ、と促すソキからは、本当に祝祭を楽しみにしていたことが伝わってきたので。いとしごよ、と妖精は静かに囁いた。
その喜びよ、どうか。守られ給え。
鈴の音が絶えず響いている。魔除けの音だ、と妖精は思った。魔力を持たぬ代わりのよう、古くから伝わる悪しきものを退ける術を、人々は今も知っているのだ。それは確かに、妖精の与える祝福と同じ効果を持っている。完全に災いを退けるには効果が弱いが、不安に思われていた酔いくらいなら、落ち着かせてくれることだろう。
ソキに用意されていた輿は、中々に大きく立派なつくりをしていた。ソキが横になっても十分に余裕のある大きさで、中には綿の詰まった絨毯が敷き詰められて座り心地はふかふかとしている。中には水筒と甘味が妖精の分まで用意されていて、ソキはさっそく乾燥果物をあむあむとしながら、四方を覆う布に手を伸ばし、つむつむと意味もなく突っついている。
景色は見えなかった。垂れ下がった布が完全に世界を切り離し、ひとつの部屋のように空間を独立させている。ともすれば、移動をしていないのではないか、と思うくらいに行程は穏やかだ。未だ遠くのざわめきと、すこしばかり冷えた空気が、外にいることを知らしめる全てだ。布の先端に縫い付けられた鈴の音だけが、輿が移動し続けていることを教えてくれる。
もくもくこくんっ、と乾燥果物を飲み込んで、ソキの指先が布をちょんっと引っ張った。
「ねえねえ、ロゼアちゃん?」
「ん?」
すい、と布が指でほんの僅か、開かれる。なに、とすぐに顔を覗かせたロゼアに、ソキはそわそわ、もじもじ落ち着かない様子で問いかけた。
「まぁだ? まだです?」
「もうちょっと。そんなに焦らなくても、お祭り終わらないよ」
「うん……。あ、あのね、ロゼアちゃん。ソキ、久しぶりに輿に乗ったでしょう? ……あの、あのね」
半年ぶり、なのだそうだ。輿が動く際の些細な会話でそれを聞き留めていた妖精の目の先で、うん、と静かに頷いたロゼアが、さっと合図を送る。り、とひとつ、残響を落として。鈴の音が止まった。その間も、ソキはもじもじと手をいじってすこし俯き、言い出しにくそうに唇をもぞもぞさせている。
ソキ、と優しい声でロゼアが促した。
「……なぁに。どうしたの?」
「ん、んん……あの、あのねぇ……」
うん、と頷いて。微笑むロゼアに、ソキはつん、つん、と人差し指を突き合わせ、頬を染めてぽそぽそと呟いた。
「ソキ、半年前より大きくなったでしょう……? 重たくないか、皆に聞いてくださいです……あの、それでね、あんまり長く乗っていて、それで、重くて疲れちゃうでしたら、たいへんです。だからね、ちょっと急いでも……ソキ、気持ち悪くなるの、我慢できるですから、大丈夫なんですよって、言って?」
「ソキ」
いとしくて。いとしくて、たまらない、と。細められたロゼアの瞳が、語っていた。すいと伸びた指先で、ソキの不安げに結ばれたくちびるの端を、やわやわと撫でて。ふ、と笑み零すように、大丈夫だよ、とロゼアは言った。
「重たくないよ。……ソキ、それで、朝も、昼も、あんまりご飯食べなかったの?」
「だってえぇ……」
いじけた様子で、ソキは髪に結ばれた赤いリボンを引っ張ったり、指に結んだり、突いたりしている。その手を絡めるように繋いで、きゅぅ、と握って、ロゼアはもう一度、しっかりとした声で囁きかけた。
「誰もそんな風に思ったりしないよ。疲れた時に交代する人も、ちゃんといる。安心していいよ、ソキ」
「うん……。うん、わかったです」
「それで、誰がそんなこと言ったの? 誰かが、重たい、だなんて言ったんだろ? 誰?」
くちびるを尖らせていじけながら、ソキはぽしょぽしょと響かない声で、聞き慣れぬ名をいくつか口にした。そっか、と笑みを深くしながら、ロゼアの手がするりとソキの頬を撫でていく。
「意地悪を言われたんだな。嫌だったな」
「……重たいのは、いじわる?」
「ソキは重たくないよ。抱っこするとちょうどいいくらいだ。……さ、もうその人たちのことは忘れような」
こくん、とソキは素直に頷いた。いい子だな、と心からソキを褒める声でロゼアは囁き、ゆっくりしているんだぞ、と言い残して布が閉じられる。すぐに鈴の音が響き、ソキは胸を両手に押し当てて、つかえが取れた表情でほっと笑った。
「よかったです……! あのね、あのね、ソキは重たくって輿持ちのひとが大変だから、おでかけをやめにしなさいって言われていたです」
空間として閉鎖されている錯覚があるが、実際には布一枚があるだけである。妖精との会話が外に筒抜け、というのを全く分かっていない晴れやかな声だった。そう、とぎこちなく頷きながら、妖精はさすさすと羽根を手で擦った。言われたことを忘れような、ではなく。その人たちのことを、と言ったロゼアがなにをするのかは、考えないことにした。
妖精も、一応言い添えてやる。
『輿は確かに重いかも知れないけど、四人で持っていたから、そう大変なものではない筈よ。それに……それを言うなら、抱っこだって大変なんじゃないの……? 部屋から輿まで、ずっと抱っこしてもらっていたでしょう? でも、重いとも、なにも言われなかったじゃない』
「抱っこはいいんですぅ。ロゼアちゃんだもん」
抱っこしてもらってぴとっとくっついて、そこまでがソキである。だから重たいとかそういうのとは違うのだ、という主張を頷いて聞き流し、妖精はややくたっとしたリボンに目を向けた。出発前から、先ほどもいじいじと引っ張られたせいで、ほどけてしまいそうなありさまである。
『ねえ、そのリボンなんだけど……』
「おリボン! ロゼアちゃんが! くれたですううぅっ!」
これ以上はないというほど幸せそうにソキが語った所によると、妖精が迎えに来て、また訪れるまでの間に、ロゼアが贈ってくれたものなのだという。それまでロゼアがくれる贈り物といえば花や甘味であり、もちろんそれもとても嬉しくてたまらないものであったのだが、リボンはいっとう特別なものであるという。だって残るんですよ、とソキは言った。幸せそうに瞳を蕩けさせて。
時間の経過で枯れてしまうものでもなければ、食べれば無くなってしまいものでもない。毎日目にして、触れて、髪を飾ってもらって。今日も、明日も、次の日も、ずっと。それはソキの手元にあり続けるものだ。それが幸せで、嬉しくて、たまらないのだと。はしゃぎきった声で嬉しいです、素敵でしょう、と何度も何度も繰り返すソキに、妖精は肩を震わせて笑った。
『よかったわね。あなたに、とてもよく似合っているわ』
「えへへ。ありがとうです……。ソキね、リボンだぁいすき。結んでもらうのすきすきなんです」
そう言ってまた手でリボンに触れるので、するりとほどけてしまわないか、妖精は心配になった。言おうにもなんとなく、幸せに水を差してしまうようでためらいがある。ロゼアちゃんが丹念にソキの髪をとかして結んでくれたんですよ、と自慢されてしまえばなおのこと。妖精にうまく結んでやる自信はなかったし、ソキが自分でやりなおせるとも、到底思えなかった。
まあ、ロゼアがまた顔を覗かせれば分かることだろう。お祭りで、きれいなリボンが売っていたら見たいです、とそわそわするソキが、ふっと顔をあげる。り、りり、と残響を響かせて、鈴の音が落ち着いているのに妖精も気が付いた。顔を輝かせるソキの目の前で、布が巻き上げられる。熱っぽいざわめきが押し寄せ、ソキと妖精の頬をぶわりと撫でていく。
ぱちぱち、せわしなく瞬きをするソキに笑って。ロゼアが見てごらん、と囁き落とす。
「ついたよ、ソキ。……ほら、お祭りだ」
そこは、広大な市場の中心だった。夕闇が広がり始める暗がりを、無数の灯篭が彩っている。そこを、歩くのも大変だろうに、と思わせるくらいの人々が行き交っていた。それでいて、行き交う人々と輿の間には奇妙な空白があった。よくよく妖精が確認してみると、広々とした通路に杭が立てられ、紐で空間が区切られている。
行き交う人々を、市場の様子をよく見ようとソキが身を乗り出すと、広場中から歓声があがった。『花嫁』さまだ、と幼子の声。こんばんは、という挨拶。よくいらしてくださいました、と落ち着いた響き。星の祝いを、祝福を。このまたとない夜に。うるわしき砂漠の至宝、『花嫁』さまに幸いあれ。無数の声にソキはロゼアに身を寄せながらも、おどおどと、物慣れない様子で手を振った。
また、歓声があがる。歓迎されているのだ、ということがはきと分かって、ソキは顔を綻ばせてロゼアに抱き着いた。その背をぽんぽん、とロゼアが撫でる。輿から落ちてしまわないように座りなおさせて、ロゼアがソキの目の高さを合わせながら、市場の様子を指さし、ひとつひとつ説明していく。あれは行商人、あれは灯篭市、あれは甘味屋、あれは大道芸。
うん、うんっ、と目を輝かせて必死に見入るソキの隣から、妖精も広場を見回した。円形に広がった小高い場所から、まっすぐな道が幾重にも伸びている。用途ごと、店の傾向ごとに通路が分かれているのかも知れない。飾られた星灯篭は通路ごとに統一された色合いで、それだけでも十分に目を楽しませた。どの通路も人で溢れていて、空白があるのはソキの輿周辺だけだった。
紐を乗り越えて侵入されないよう、見張りに立つロゼアと揃いの服を着た青年の元へ、人々が次々と訪れる。商人が多いようだったが、ご挨拶を、と求める老婦人や、花を差し出す少年たちが、ひっきりなしにやってくる。商人の対応だけは警備に任せ、その他であった場合だけ、ロゼアは説明の声を止め、ソキの耳にそっと囁きかけた。
ソキはそのたびに、恥ずかしそうに視線を向けて。ありがとう、と言ったり、警備の青年経由で花を手にしてはにかんだ。風が通り抜けたのはその時だった。ちりり、と鈴がなる。あ、と声をあげてソキが手を伸ばした。ほどけてしまったリボンが、ソキの指先をすり抜け風に飛ばされる。やあぁっ、と悲鳴をあげたソキの傍ら、ロゼアの視線の先を追って、妖精はとんっと花籠を蹴った。
人なら、走っても追いつけまい。妖精の羽根は風と共に飛ぶ。時に、風を追い越してさえ、飛ぶのだ。妖精は危なげなくリボンを掴み、あうあうと泣きそうなソキの元へ、急いで戻ってやった。ソキ、ソキ、と落ち着かせようとするロゼアの目に、妖精は映らない。リボンが戻って来たことも、分からないのだろう。
大丈夫、取ってくるよ、すぐ戻るから、と囁き、焦った様子で今にも駆けだそうとするロゼアに、妖精は慌ててソキの手へリボンを受け渡した。きゅっ、とすぐさまソキの手がそれを握り込む。ロゼアの目には、急にリボンが現れたように見えただろう。え、と戸惑う声をあげるロゼアに、ソキが半泣きの声で、震えながら言った。
「妖精さん、が、とてきて、くれた、です……! あ、あり、ありがと、う、です……! よ、よか、た……ごめなさ、ロゼアちゃん。ごめん、なさぁ……! ソキ、ソキ、リボン、なくしちゃうとこだったです……! だ、だいじなのに、ソキ、リボン、だいじに、だいじに、してるですよ。ほんとですよ! う、うぅ……」
「うん。……うん、うん。分かってるよ、ソキ。大丈夫。ありがとうな、ソキ。大丈夫。大丈夫だよ……」
おいで、と囁いてソキを抱き上げて。すりついてくる体をしっかり抱き寄せて、ロゼアは深く安堵した、落ち着いた息を吐きだした。ぽん、ぽん、ぽん、とソキの背を撫でる。
「ごめんな。すぐ結びなおせばよかったな。結びなおそうな」
「うん。うん……! 妖精さん、ありがとうです。ありがとう……!」
「ありがとうございました。よかった……」
リボンは、すぐにソキの髪に結びなおされた。しっかりと結ばれたそれに恐々触って確かめ、ソキはうるんだ目で妖精に手を伸ばした。両手で、そっと触れられる。まだ震えるつめたい指先に引き寄せられ、あたたかな、まろい頬に抱き寄せられた。
「ありがとうです……」
『ううん。いいのよ。……気をつけましょうね』
「うん」
安堵にとろん、としたソキは、眠そうにも見えた。緊張の糸が切れたのだろう。そろそろ帰ろうか、と囁くロゼアに、ソキは甘えた仕草で頷き、妖精をそっと、そっと、花籠へとおろした。宝物を、大事にする。いとけない、幼子の仕草だった。