主を失った部屋は、思ったよりも物寂しい。ジェイドは決められた通りに窓を開け、空気を入れ替えながらため息をついた。シュニーがいなくなって、二日目の朝である。昨日の昼に馬車を見送った。まだ目的地に到着もしていないだろうに、帰ってくる日のことばかりを考えている。
寂しがっていないだろうか。体調を崩してはいないだろうか。食べ物は好き嫌いをせず口にするけれど、これ程の移動は始めてのことだから、食欲はあるのだろうか。不安は数えれば数えただけ増えて行き、昨日からひとつとして減りはしない。これが半月後まで続くのかと思うと、どうにも気が滅入った。
ふふ、と。とうめいな、柔らかな笑い声が戸口から響く。
「はじめての、『旅行』の気分は、どう?」
「どう、って……こんなに不安だなんて思わなかった……。最悪じゃないですか、これ……」
「シュニーの場合は、婚約者候補との顔合わせの意味をもたないから、ひとつ、ふたつ、気分としては楽なものよ」
向かう『花嫁』にしても、待つ『傍付き』としても。やさしい、穏やかな声でありながらも、紡がれる内容は手厳しい。御当主さま、と弱りきった気持ちでジェイドは息を吐き出した。いじめないでほしい。
「誰に会いにどこに行ったかも、教えてくれないくせに……」
「いじわるじゃないのよ。『傍付き』には、教えないものなの。みんな知らないで待つの」
そして、帰ってきても聞いてはいけないものらしい。一応教わっていた筈でしょう、と窘められて、ジェイドは苦い顔をして頷いた。『旅行』に関しての知識はある。しかしいつまで経ってもシュニーに話が来ないので、免除されているのではないか、と楽観的に思い込んでいた末のこの仕打ちだった。
長期休暇を終えて。ジェイドの日常は、当主たる少女と砂漠の王の間での取り決めに従い、いくつかの変化が現れた。会いに行くのは一日に一回、朝か夜だけにすること。それに伴う門限の設定。週に一度は保健医の診察を受ける。体調不良の兆候があれば、翌日の訪問許可が取り消された。
魔術師であることに、集中させること。『傍付き』であることよりも、魔術師として成長させることに『お屋敷』が同意したからなのか、ジェイドが引くほど、呼び出しの説教や嫌味はなりを潜めてしまった。つまり、とうとうつまはじきにもされなくなったのだが、ジェイドの心は楽になった。
部外者でも構わない。大切なのはシュニーの傍にいられることで、ジェイドに付きまとう立場や、呼び名ではなかった。それでも名目上は、シュニーの『傍付き』のままである。いやがらせがなくなっただけで、不都合を感じる場面には遭遇しなかった。ようやく『お屋敷』が納得しただけである、くらいにジェイドは思っている。
シュニーとジェイドの関係については、公にされない婚約者、ということで決着がつけられた。できない、ともいう。当主の少女がジェイドに告げた、砂漠の国王と魔術師の要求を受け入れ、『お屋敷』の金銭的な問題を解決する為の方法が、シュニーの『旅行』だからである。
通常、『花嫁』は十にもなると、諸国漫遊の旅に出される。選定された嫁ぎ先候補の元をまわり、顔合わせや、相性の確認をする為である。また、それは外貨獲得の重要な手段でもあった。『花嫁』はもてなされ、たくさんの貢物を持ち帰ってくる。金銀財宝特産品を、それこそ山のように。
それは『花嫁』に対する好意の表現であり、『お屋敷』に対する財力の誇示でもあった。『花嫁』を迎え、花開かせるに相応しいだけの力を持っている。だからどうか、候補の中から選定して欲しい、という分かりやすい訴えである。無事に嫁げばこれ以上のものを、という指標でもあった。
持ち帰られたそれをどうするかは、『花嫁』と『お屋敷』に委ねられている。だいたいの『花嫁』は『旅行』に出される時点でへそを曲げているので、見向きもしないことが多かった。気に入るものがあればひとつ、ふたつは手元に残すが、後の殆どは『お屋敷』に預けられる。
つまりは財源である、と当主は言った。そして今の『お屋敷』に絶対的に足りないものであり、シュニーとジェイドに求めたいものである、と。シュニーを誰かの元に嫁がせることはありません、ときっぱりと少女は告げた。『花嫁』として嫁がせることは、もうできません。しないし、できないことだ、と当主がそれを確約した。
その上で。ジェイドが今後、魔術師としての修練を積むために。これまで足りなかった時間を与え、そして、『お屋敷』は損害をどうにか補填する為に。シュニーは『旅行』へ出ることとなった。もちろん、ジェイドのことは伏せた上で。これまでの『花嫁』たちと同じように。そ知らぬ顔をして。
シュニーは年明けに十二になった。大体の花嫁は十五を境に嫁いで行く。そうであるから最長三年の勤めである所を、少女は最低五年と告げた。ジェイドの成人を待つ為である。十五になれば、王の許可の元、魔術師は結婚が許される。それまでの期間は『お屋敷』の為に働くこと。それが、当主たる少女が下した祝福の為の条件だった。
幸い、十六、十七になっても嫁がなかった『花嫁』『花婿』の前例もある。理由は疑われないよう、また、『花嫁』としての価値を下げないように『お屋敷』が徹底的に管理し、用意する。声が枯れるほど説得の言葉を重ねた少女に、ジェイドとシュニーは頷いた。
そして、四月のうららかな春の日。吉日を選んで、シュニーはめでたく、はじめての『旅行』へ出かけていったのである。国王陛下公認、かつ、暗黙の了解として行われる詐欺行為に等しいのだが。シュニーはやる気いっぱいで、がんばって稼いでくるねっ、と言ってジェイドに見送られていった。
なんでも、準備には『花嫁』『花婿』を見送った元『傍付き』たちが、それはもうはりきって手を貸してくれたのだという。『花嫁』を奪われる心配のない『旅行』というのは、彼らの、果たせなかった夢の面影だ。私怨たっぷりに支援して、あれこれ入れ知恵された結果、シュニーはあくじょになるのっ、とはしゃいでいた。
もてあそんで、てのひらでころがして、いっぱいみつがせて、ぽいっとする、きだいのあくじょになる、らしい。ジェイドがシュニーを彼らに預け、教本と向き合っている間に、そういうことにされてしまった。教育方針に関しては、せめて事前に相談して欲しかった、とジェイドは思った。
シュニーに成される様々な教育というのは、今までも文書での事後報告ばかりであったので、いまさらにすぎる気もしたが。心の準備くらいはしたかった。愉快犯めいた元『傍付き』たちの所業を思い返し、今日何度目かも分からないため息をこぼしながら、ジェイドはすっかり綺麗に整えられた室内を見回した。
昨日、見送ってから手持ち無沙汰に黙々と掃除をしていたせいで、やることが換気くらいしか残っていない。困惑さえしながら、少女に問いかける。
「『旅行』の間に……『傍付き』って、普通はなにをするものなんですか? 掃除以外で」
「ジェイドくんの年頃なら……実習、かな。でも、ジェイドくんは、もうしなくていいの。魔術師さん、だからね」
もうしなくていい、と言われても。それらしき実習に呼ばれたことなど、ジェイドは一度としてない。ため息をつくジェイドに、シュニーもその教育はしていないから安心してね、と呟き。少女は悪戯っぽい微笑みで、顔を覗き込んできた。
「どうして? なにかしていたい? ……学校の、宿題。終わったの?」
「終わりました。……だから、やることがなくて。落ち着かないというか」
シュニーのことばかり考えてしまう。行く先をもし知っていたら、追いかけてしまいそうなくらいだ。だからこそ『傍付き』にそれは秘されるのだ、と痛感する。宿題終わったの、すごいねえ、えらいねぇ、とのんびりと関心して、少女は服をごそごそと探り、ジェイドの手にぽんと飴玉を置いて笑った。
「じゃあ、ごほうびをあげます」
「……この『お屋敷』の中で、俺をこどもあつかいするの、あなたくらいだ……。なんですかこれ……」
「飴ね。おいしいのよ? 食べると元気になります」
どうやら、慰めてくれているらしい。苦笑しながらもお礼を言えば、少女は誇らしげな顔で頷き、自分の口にも飴玉を放り込んだ。あ、薄荷だ、としあわせそうな呟き。
「シュニーが帰ってくる日が決まったらね、すぐにお知らせします。それまでは、毎日来なくても大丈夫よ。お勉強、がんばってね。夜も眠ってね。お昼寝だってしていいのよ」
「はい……」
シュニーが『旅行』に行く間、ジェイドは魔術師として勤勉に勤め、かつ療養するのが勤めである。一日の睡眠時間まで設定されていた。シュニーの元に通うため、遅寝早起きを繰り返していたことが、今後の肉体的な成長に差し障りがある可能性大、と診断された為だ。
おかげで長期休暇があけてからのジェイドは、これまでの人生で一番よく眠っている。体調がいいのに、やることは減っていて、正直とても落ち着かなかった。課題をもらって勉強すればいいのだが、なんというか、誰かの世話がしたい。しかし、ほかのひとのおせわはうわきですっ、とシュニーに言われていた。
『傍付き』なら誰もが一度は通る道だという。聞けば半月の予定が延びて一月になることもあるというので、ジェイドは遠い目をしてかぶりを振った。祈るしかなかった。
連絡が遅くなりましたがシュニーは今日のお昼前に帰ってきます、という手紙を、その日の朝に『学園』へ送ってよこす当主の少女には、幾分無自覚な愉快犯の気がある。反省はするし、本当に申し訳なさそうにごめんね、と言ってくるので誤魔化されがちだが、時折きらきら輝く瞳は明らかに相手の反応を楽しんでもいた。
ちょっとした馬車の不具合があって、到着が数日前後する、というのを聞いていても、わざと忘れていたのではないか、と思う所だった。相当慌てたのであろう乱れた筆跡と、乾ききらないインクがなければ。『学園』に手紙が届くまでには、いくつかの検閲も必要だ。朝の授業前に届いたのであれば、極めて急かしたにも違いなかった。
担当教員からやさしい笑みで、今日はもういいから行ってらっしゃいと見送られ、ジェイドは昼前に自室へ駆け戻り、用意しておいた小箱を手に『扉』をくぐった。知らせは検閲のもと、当然共有されていたのだろう。魔術師たちからこぞってよかったねおめでとう行ってらっしゃいと声をかけられ、くすぐったい気持ちで大きく頷く。
約半月ぶりの『お屋敷』で。ごめんねえぇ、としょんぼりしきって今にも泣きそうな当主に出迎えられ、ジェイドはため息をつきながら頷いた。側近の女曰く、シュニーが戻る連絡が『お屋敷』に届いたのが昨夜の遅くであり、情報の遅延は単純な不手際と配達人の体調不良であるらしい。
帰る時までに顛末書の提出を約束させ、ジェイドはシュニーの元へ急いだ。身を清めてすこし眠ったあと、今は起きて持ち帰ってきた貢物をためつすがめつ暇を潰しているらしい。普段は使われない一室は、がらんとしていて広く、やや騒がしかった。
家具も置かれていない、絨毯だけが引かれた部屋へ次々貢物が運び込まれ、分類されていく。糸や反物からはじまり、服飾品が多く目に付いた。宝石や香辛料、貴重な書物は適切な処置がなされ、目録と入れ替わりに適切な保管庫へ運ばれていく。日持ちのする菓子も多くあるらしく、部屋はふわふわとした甘い香りに満ちている。
数人の元『傍付き』や世話役たちに囲まれて、シュニーは手毬を膝に置き、機嫌よくそれを眺めていた。遠目でも表情が明るく、顔色がいいのが分かる。ほっと胸を撫で下ろしながら、ジェイドは戸口で立ち止まっていた足を動かした。咄嗟に。持ってきた小箱を、花瓶の影に置き去りに隠して。
「シュニー」
「ジェイド……! おかえりなさいっ!」
満面の笑みで振り返ったシュニーは、ジェイドに向かってぱっと両手を広げてみせた。出かけていたのはシュニーであるのに、おかえりなさい、であるらしい。帰ってきた、と思って、ジェイドは脱力するように広げられた腕の中へ体を滑り込ませた。
まだほんのすこし、ジェイドの方が体つきがちいさい。『花嫁』に抱きしめられる『傍付き』に対し、物言いたげな目が向けられるのを極力意識の外に置きながら、ジェイドも腕を回し、シュニーを抱き返す。やわらかくて、暖かくて、いい匂いがした。半月ぶりの体温だった。
ふふ、としあわせそうにシュニーが笑う。可愛い、と思いながらもなんとなく恥ずかしく、ジェイドはじっとしてシュニーが満足してくれるのを待った。
「旅行は……どうだった? 出迎えられなくてごめんね。おかえり、シュニー」
「ただいま。あ! ジェイド、目の下のクマがなくなってる! かわいい!」
「シュニーの方がかわいいよ」
照れくさそうにするシュニーの腕が緩んだのでそこから抜け出し、ジェイドは赤らんだ頬を隠すように『花嫁』へ手を伸ばした。ええと、と思い出しながら頬に触れ、肌の質感を確認する。首筋で脈拍を、額で熱を。シュニーはじっとして、ジェイドが触れていくのを見つめていた。
もうちょっと自然に確認しましょうね、という小言を右から左に聞き流し、ジェイドはすこし眉を寄せた。大丈夫、だとは思うのだが。いつも、いまひとつ自信が持てない。もちろん、シュニーの体調を見守るのはジェイドだけではなく、世話役たちもいる。なにかがあればすぐ対処はされる、と分かってはいるのだが。
もしも見落として、ジェイドの未熟さが原因でシュニーを苦しませることになってしまったら、という不安が、こびり付いて消えない。
「……痛いところない? シュニー」
だからいつも、最後に、聞いてしまう。自分の不安を、落ち着かせることができないでいる。信じることができないでいる。シュニーはとろけるように笑って、ジェイドの手を包み込むように握った。
「ないわ。ジェイドは心配さんね。……ジェイドは? 私が『旅行』のあいだ、元気でいた? さびしくなかった?」
「元気でいたけど寂しかった……」
「さびしがりやさん! シュニーがぎゅってしてあげる!」
まあ『花嫁』が喜んでいるから、これはもうこれでいいのかもしれない、と。やや諦めはじめた世話役たちのため息と元『傍付き』の苦笑に挟まれて、ジェイドは力なく、シュニーの腕の中へ戻された。今日は夜までいてくれるんでしょう、と弾んだ声に頷くと、いいこいいこっ、と頭が撫でられる。
やわらかいな、と思った。その指先も、腕も、体も、匂いも、熱も、なにもかも。やわらかくてかわいい、ジェイドの『花嫁』。おんなのこだ、と思って、なぜか急に恥ずかしくなる。離して、と言いかけた時だった。ふわんふわんの声が背後から響く。
「あぁああぁあっ! しゆーちゃんがなでなでしてるぅーっ!」
「ミード。おかえりなさい、でしょう?」
「しゆーちゃん、おかえりなさーいっ! しゆーちゃんどうしたの? なんでなでなでなの? ジェイドくん、頭が痛いの? やぁあああ大変……! ミードもなでなでしてあげる?」
ミードはしなくていいですよ、とさらりと告げる声が笑っている。ジェイドはそろそろとシュニーの腕から抜け出して、歩み寄る足音に振り返った。『花嫁』を腕に抱きながら、ラーヴェが微笑ましそうに覗き込んでくる。散歩の途中で行き会ったのだろう。それはいい。それはいいのだが。
ふふふんっ、と自慢げにふんぞる『花嫁』が、ちいさな手に持っている小箱には見覚えがある。えっ、と戸口を振り返るのと同時。ミードは自信満々に、それをシュニーに差し出した。
「はい、しゆーちゃん! これねぇ、しゆーちゃんのなの。みぃはちゃんと見ていたの!」
「……これ? わたしの? ミードが、わたしにくれるの?」
「ちぁうの! あのね、あのね、ないしょなんだけど、じつはぁ、ミードはこっそりみていたの! それでね、これはジェイドくんの、お忘れものなの! お届けしてあげたミードをぉ、ほめてくれて、いいのよ?」
目の前で繰り広げられる『花嫁』たちの会話に一声も挟めなかったのは、ラーヴェの目配せで動いた元『傍付き』たちに、口を塞がれ押さえ込まれていたからである。ラーヴェが自分の手を使わないのは、単純に、ミードを抱き上げている為だった。
『傍付き』の習いの通りに片腕で抱いているものの、もう片方は空けておく方が望ましい。そうであるから手伝ってもらっただけですよ、という柔和な笑みで。赤い顔で呻くジェイドをやんわりと見守り、全てを理解して察している表情で、なお、ラーヴェはしれっと己の『花嫁』を手放しで褒めた。
かわいいね、えらいね、かわいいミード、えらいね、と褒められるたび、ミードはますます自慢げに、えへんっ、とラーヴェの腕の中で反り返る。ころん、と落ちそうな所でなれた仕草で抱きなおされ、『花嫁』はこうふんした様子で、あのねあのねっ、とシュニーに、して欲しくない報告を続けて行った。
なんでも、ラーヴェとシュニーは、ジェイドが城から『お屋敷』に到着した所から見ていたらしい。ミードはめざとく、持ち込まれた小箱に気がついたのだという。あれはきっとしゆーちゃんへの贈り物っ、とはしゃいで、それが渡される所をこっそり見たい、とねだってついて来ていたらしい。
暇だったんでしょう、と涙目で睨むジェイドに、ラーヴェは満面の笑みで頷いた。
「いけませんよ。贈り物はきちんと相手に渡さなくては」
「俺に止め刺してそんなに楽しいんですかあなたは……!」
「……ジェイド?」
むっとした声でシュニーに呼ばれる。うん、と力なく頷いて、ジェイドは『花嫁』と向き直った。元『傍付き』たちの、訳知り顔の微笑ましい視線も、世話役たちの頑張ってっ、と言わんばかりのまなざしも、心底なかったことにしたいのだが。シュニーだけは無視する訳にはいかなかった。
ミードの、わくわく、きらきら、そわそわ、どきどきした視線に見守られながら、ジェイドはゆるく苦笑する。
「うん。……うん、シュニーに、だよ」
「ジェイドから?」
「そう。俺から……だけど……。シュニーが貰って来たみたいな、いいものじゃ、ないんだ……」
星降の城下で買い求めた、小瓶に入った飴である。当主の少女が会うたびに飴を渡してくるので、そのお返しにひとつ、シュニーにもひとつ、買っておいたものだった。シュニーが持ち帰って来た貢ぎ物のどれと比べても、恐らく、値段が一桁か二桁は違う筈である。
はっきりと、見劣りした。それだけで、渡すのをためらう理由には十分だった。今度また、もうちょっといいのを買って来るよ、と告げるジェイドに、シュニーは怒った顔をして首を振った。もうもらったもの、と言って指先に力が籠められる。
「かえしてあげない……!」
「……シュニー、でも」
「んもぉ。ジェイドくん?」
くいくい、と横から伸ばされた手が、ジェイドの服をつまんで引っ張る。
「しゆーちゃんをいじめないで」
「……いじめてないよ」
「しゆーちゃんは、いいのが欲しいんじゃないのよ。ジェイドくんがくれたのが、欲しくて、嬉しいの。とっちゃだめ。わかったぁ?」
言葉に詰まって。ジェイドは眉を寄せて、今も運び込まれる貢ぎ物と、シュニーがきゅっと握って離そうとしない、ちいさな箱を見比べた。箱の中にある、瓶に詰められた飴はうつくしい手毬の形をしていて、見た瞬間にシュニーのことを思い出した。
だからそれを、贈りたい、と思ったのだ。
「じゃあ……受け取ってくれる?」
シュニーの持ってる手毬みたいな飴でね、かわいいよ、と告げたジェイドに、『花嫁』はくちびるを尖らせて頷いた。ジェイドはもっとわたしに、自信を持ってくれていいのよ、と。不満げに言ったシュニーに、元『傍付き』たちも、ラーヴェも、苦笑しながら頷いた。同意見のようだった。
自信ってどうやって持てばいいものなんですか、と呟いたジェイドに、当主の少女は手を止め、目をまあるくして瞬きをした。机を挟んで向かい合わせに座っているのは、少女とジェイドだけである。他の誰かに話しかけた、という言い訳は通用しそうになかった。素知らぬ顔で少女の背に控える側近の女だけが、可笑しそうに唇を和ませる。
当主の少女にせよ、また基本的には話しかけても来ない側近の女にせよ、相談相手には決して適切な相手ではない。そもそも相談しようと思っていた訳ではないので、答えは最初から期待していない。気にしないでください、と言って湯気の立つ香草茶に息を吹きかけ、視線を窓の外へと流す。
一月の療養を得てふたたび『旅行』へ旅立って行ったシュニーが、次に帰ってくるのは半月後のことだった。ジェイドはその期間『お屋敷』に足を踏み入れないこと、という決まりが新しく作られた。前回の不在時、ジェイドの体調が飛躍的に回復した為の措置だった。夜更かしでもすればよかった、と思っても後の祭りである。
幸い、ジェイドへの態度が軟化し始めた世話役たちは、『傍付き』たる少年の不在を受け入れてくれた。今までも日中はほぼいなかったので、特別な問題が発生しないのも理由のひとつだった。しかしそれでも、『傍付き』とは世話役たちの要である。不在がちと、不在、では結構な差があるのだった。
当主の少女はそれに関する細々とした指示を確認し、纏めている最中の、ほんの雑談のつもりだった。シュニーを見送った虚脱感でぼぅっとしながら、帰って来た日のことを思い出していたら、口が滑ったともいう。少女はおろおろしながら手元の書類をまとめ、確認してね、と側近の女に押し付けてからジェイドを見つめる。
魔の悪いことに、一通りは終わっていたらしかった。
「ジェイドくん……自信、ないの?」
「……ええ、まあ」
「……あのね。『花嫁』に選ばれるって、すごいことよ」
恐る恐る告げられても、それくらいは知っている。苦笑しながら頷けば、少女はほっとしたように微笑して続けた。ジェイドくんはずっと頑張ってる。頑張れるのも、すごいこと。『傍付き』の勉強もゆっくりだけど続けているし、魔術師の学びも、とても成績がいいと聞きました。すごいね、頑張ってるね。えらいね。
ゆっくりとした口調で、心から褒めてくれているのが分かる少女の声を受け止めるのは、こそばゆくて気恥ずかしい。思わず視線を逸らしてお礼を言えば、少女はむっとしたようにジェイドの名を呼び、ちゃんと見て、と求めてきた。やわらかい、その声を。無視することは今日もできない。
はい、と言いながら視線をあげると、少女はその素直さも褒めるように、にっこりと笑った。
「シュニーに怒られでもした?」
どうして分かるのかとも思うが、少女も元は『花嫁』である。理解できることが多いのだろう。頷くジェイドに、少女はつくりたての金貨めいたうつくしい瞳を輝かせ、ふふ、と口に手をあてて笑った。
「私も、じつはシュニーに怒られちゃったの。一緒ね」
「……え?」
「飴をね。ジェイドから貰ったでしょうって。あげるのはいいけど、貰うのは、もうだめなのですって。嫉妬させちゃった……ごめんね?」
帰って来たら、またあの飴をちょうだいね、今度はジェイドがちょうだいね、約束だからね、と言ってシュニーは馬車に揺られて行った。出がけに、当主ともなにか話していた様子だったが、まさかそんなことだったとは。
「ジェイドくんは、自信が欲しい?」
時々、ジェイドは少女と取引をしているような気分になる。なにかを渡される代わりに、なにかを差し出さなければいけない。ほんのすこしの会話や仕草でも、試されているような、求められているような。そんな気分になる。口を閉ざしてしまったジェイドを見つめ、少女は、困ったように首を傾げた。
ジェイドの自信のなさは、認められなかったからだ、と少女は思っている。この『お屋敷』にいる者たちの殆どが、各々の理由を持ってジェイドの存在を認めなかった。『花嫁』に選ばれた時も、『傍付き』として成長していく過程でも、『魔術師』として『学園』との往復を強いられた日々の中でも。
この場所がジェイドを受け入れたのは、たった一度。彼が『花婿』の遺品を持って訪れた、その時だけだった。だから、少女は責任を感じている。ジェイドのその、自信のなさについて。受け入れなかったことについて。受け入れるよう、言葉を強く重ね続けなかったことについて。それをシュニーにだけ任せてしまったことについて。
時間が、ゆっくりと受け入れてくれると。楽観してしまったことについて。
「でも……自分を信じるって、むずかしい、よね。わたしにも、わかるの……」
一度壊れたものは戻せない、と少女は知っている。何人も、何人も、耐えきれず枯れていく『花嫁』を、『花婿』を見送った。こふ、と少女は乾いた咳をする。それでも、大丈夫、と誤魔化して、少女はジェイドに笑みを向けた。
「自信、持ってほしいな。ゆっくりで、いいの。難しいことだとは、思うけど……。分からなくなったら、シュニーを信じてあげてね。不安になったら、思い出してあげてね。シュニーがどんなにあなたを信じているか。シュニーが……ジェイドくんを、どんなに好きか」
わたしがあなたを信じて。シュニーのことを託したのだと。伝えることは、せず。それでも、いつか分かった時に、自信のひとつになってくれればいいな、と少女は思う。ジェイドは不安と不満の混ざった瞳で少女を見つめて、なにか言いたげにしながらも頷いた。
少女が頷き返すと同時、側近の女が確認が終わったことを告げてくる。不備はないらしい。よし、と呟いて、少女はソファから立ち上がった。
「それじゃあジェイドくん、また半月後に。……今度は、もうちょっと早く、連絡を行かせるからね」
「……はい。お待ちしています」
一礼をして出ていくジェイドを見送って、少女はぽす、とソファに座りなおした。口元に手を強く押し当てて、こふ、と乾いた咳をする。もうちょっと、と少女は目を伏せた。あと数年。せめて、ジェイドが成人するまでは。守ってあげたい、と少女は思う。望まれない形であっても、やり方がいびつで、歪んでしまっていたとしても。
きっとそれが、少女の、最後の仕事になる。あんまり悲しまれないといいな、と少女は言った。やさしくなかった場所の責任の、多くは少女にあるのだと、自覚していた。女が無言で差し出す香草茶を飲みながら、少女は大きく息を吐く。半月後のことを考える。一月、三ヵ月、半年、一年。どうしていくかを考える。溜息が零れた。
五年は、長かった。課せられたジェイドとシュニーより、少女はその重みを知っていた。
馬車が帰って来たのは、小雨の降る朝のことだった。余裕を持って知らせのあった到着日であるから、ジェイドはあらかじめ申請した通りに臨時の休暇を与えられ、『お屋敷』の者たちと共にシュニーの帰りを待っていた。今回の貢ぎ物も、かなりの量であるという。シュニーはきちんと、『旅行』へ行く役目を果たしている。
当主の少女は、そのうち目標達成の図表でも作ってあげるね、とジェイドに言って部屋に下がってしまった。小雨の日に外で待っていると風邪をひく、というのがその理由だ。悪戯っぽく笑って立ち去った少女はいつも通りの姿だったが、黙して付き添う側近の女の雰囲気が、些細な問いかけをも許さなかった。
どうも最近、当主は体調が思わしくないのだという。通常ならばとうに代替わりを果たしている頃合であるから、と誰かが囁いていた。それを深く聞くことはしなかった。心配であるのは確かなことだが、意識を割り振って考える余裕がなかったからだ。遠くから近づいてくる馬車の音が、ずっと聞こえている気がして、落ち着かない。
一時間も待った頃だろうか。ようやく、赤子のようにとろとろと進む馬車が『お屋敷』に現れ、ジェイドの前でぴたりと止まる。御者が告げることにはシュニーは眠っていて、起こさないように部屋へ連れて行って欲しい、とのことだった。はい、と頷いたジェイドに視線が集中する。
いくつかは、楽しげな。いくつかは、不安交じりの。それが意味する所を正確に理解していたから、ジェイドは同じく待っていた元『傍付き』の男を、やや睨むようにして見上げて言った。
「抱き上げるくらいできますけど」
「……落とさない? おんぶでもいいんだよ?」
「抱き上げるくらい! 俺にだって、できますけど!」
しー、と口元に指先を出してたしなめられる。見守る視線には嘲りではなく、純粋な好意と年少者へ向ける労りがあって、それがまだすこし、慣れなかった。男は、そうした力仕事が必要な時の為に、当主の少女が選定した者たちのひとりだった。一回目の『旅行』に出るすこし前から、ジェイドを手伝ってくれている。
まるで、普通の仲間のように。友人のように、兄のように。時に、父のように。傍にいてくれる男に、どう接していいのかも、まだ分からないでいる。甘えたり、頼ったりする、その方法も。仕方ないなぁ、と向けられる視線に、ぷいっとそっぽを向いてしまいながら、ジェイドはおろおろする世話役たちを押しのけて、馬車の扉を開いた。
そこに、『花嫁』が眠っていた。ま白い髪が雪のように広がり、くしゅくしゅに乱れてしまっていた。扉の開く音にも気が付かず、シュニーはすっかり眠り込んでいる。元から眠れるような作りにしてあるのだろう。ゆったりとした広さの座面は見るからにふかふかとしていて、シュニーの体をやわらかく抱き留めている。
それに両手を伸ばしかけて、ジェイドは思わず息を止めた。こんなに可愛かっただろうか、と思う。シュニーは前から可愛かった。それはもちろん、そうなのだが。こんなに。触れることをためらうくらい。可愛くて、柔らかそうで、あたたかい気配のする、女の子だっただろうか。
動きを止めたジェイドを不思議がって、男が後ろから顔を覗き込んでくる。目を瞬かせて。ふ、と笑われた。それに反発する気力も起こらず、ジェイドは頭を抱えてその場にしゃがみこんでしまう。心臓の鼓動が早い。思春期ですね、と男が笑い声で呟いたのを、ジェイドは聞こえなかったことにした。