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 祝福の鐘の音が鳴っている。『お屋敷』の大鐘楼、王城のそれも、首都にある時刻を知らせる鐘も、輪唱のように喜びを歌いあっている。『花嫁』か、『花婿』が嫁いで行くのだ。『お屋敷』の空気もどこか華やかで、おめでとう、という言葉が風に流れて聞こえてくる。なぜか眩しい気がして、ジェイドは幾度か瞬きをした。
 祝う気持ちはある。送り出した『傍付き』に言祝ぎを告げるのはやぶさかではないが、今そこへ足を運ぶのはためらわれた。いくら努力しようとも変わらず、『傍付き』たちがジェイドに向ける瞳に仲間意識はないままだ。それは単に育ちが違う、というだけではないことに、ジェイドは気がつき始めていた。
 恐らく、根幹が違う。存在としての形を成す、なにかが決定的に異なっている。ジェイドは『傍付き』の中の異質そのものだ。それは只人が魔術師に向ける忌避と、とてもよく似ていた。ジェイドが魔術師になったからこその感情ではない。
 元からジェイドは、白鳥の群れに混じったアヒルの子だった。そこに魔術師という要素が足されても、元から種族そのものが違う。彼らが向ける感情は、そういう種類の否定であり。時に哀れみと、うっすらとした羨望の入り混じるものだった。
 それを理解していながら親しく話しかけてくるのは、ラーヴェひとりきりである。懐が深いのか雑なのか、他の思惑があるのかは意見の分かれる所だった。先日、別れ際に問われた言葉を思い出しながら、複雑な感情を振り切るように廊下を歩き出す。
 一月の半ば。与えられた長期休暇の終わりが、もう見え始めていた。もう数日したら、『学園』に戻る用意を始めなければいけないだろう。慌しい日々が再び始まるが、そんなことよりも、シュニーの傍にいられる時間が減ることが辛かった。
 いつか離れ離れになるのだとしても。許される時間の少なさに、息が苦しい気持ちになる。
「……シュニー」
 辿り着いた部屋で声をかけるのにすこしためらったのは、少女が寝台の上で両手を組み合わせ、一心になにかを祈っていたからだった。すぐに顔をあげ、とろける笑みでジェイドの名を呼ぶ少女の下へ歩み寄る。なにしてたの、と隣に座り込みながら尋ねる。
 シュニーは珍しくためらった後、ジェイドの顔色を伺うように視線をあげた。
「しあわせに……なれますように、って」
 かすかな怯えがあった。初めて見る表情に、ジェイドはじっとシュニーを見つめる。なにを恐れているのか、察することはできず。問いかけることにも、ためらいがあった。不用意に触れてはいけないもののような気がした。珍しく、室内には人影がない。ジェイドだけがシュニーの傍にいる全てだった。
 どこかから見られていても、言葉を盗まれていたとしても。ふたりだけが、そこにいた。ジェイドはうつむく少女の頬に触れ、髪を撫でて、ただ待った。信頼があることを知っていた。だから、シュニーがほんとうに告げたければそうするだろう。待つことは苦ではなかった。告げないことを選ばれたとしても。シュニーの意思ならばそれでいい。
 シュニーは震えるように目を伏せ、何度も何度もためらいながら、ジェイドの服を指先で摘んだ。
「ジェイドは……わたしに、しあわせになって、ほしい……?」
 どういう意味だろうな、と思った。反射的な怒りと眩暈さえ覚えて、ジェイドはきつく目を閉じる。当たり前だろ、と搾り出した声はかすれていた。びくっ、とシュニーの手が震えて、服を離そうとする。離れていく。その動きを許さず。ジェイドはシュニーの手を取って握り、まぶたを開けて少女を見た。
 ごめんなさい、と言いたそうに。それでいて淡い希望をかき集めたうるんだ瞳で、シュニーはジェイドのことを見ていた。すぐに言葉は返せなかった。どちらも。なにも言えず。静寂を、祝福の鐘の音が埋めていく。送り出された者の幸いを祈る音が。息苦しいなにかを、埋めていく。
 ぎゅっと手に力をこめて。ジェイドは息を吸い込んだ。
「……シュニーは、俺をどうしたいの?」
 責める響きにならないように。それだけを、ひたすらに心がけた。怒りたい訳ではなかった。怒りを感じはしたけれど、それはシュニーに向けたいと思う感情ではなかった。誰が言わせたのだろう、と思う。口に出すほどに、そう思わせたのは誰なのだろう。
 静かに、心に刻み込むようにして考える。誰、という特定の相手ではなくて。この『お屋敷』が、環境が、人々が、仕組みが。シュニーをそうさせているのだと、理解しながらも。それから守ってあげられなかったことを、己に対する怒りとして思う。申し訳なく思う。
 それでも。本当ならその問いに、しあわせになってほしい、と告げて。嫁がせるのが『傍付き』の役目であるとも、分かっていた。『傍付き』なら、そうしなければいけない。『花嫁』に望まれた『傍付き』であれば。ジェイドは瞬きをして、ゆっくり、シュニーに問いかけた。
「ずっと傍にいて欲しいって、思ってくれてるって……思ってるけど、違う?」
 送り出して、と願われるなら。そうしてあげたい、とも思う。離れるのも、他の誰かに捧げるのも我慢ができない、と思うのも本当だけれど。もし、それをシュニーが願うなら。『花嫁』としての幸せを得たいと、『傍付き』に願うなら。叶えてあげたい。ジェイドのできる全てで。しあわせになってほしいと、思う。
「ち……がわ、ない……」
「うん」
「でも、でもジェイドは、それで……いいの? シュニーがそうして、いいの……?」
 どう頑張っても時間が取れないジェイドと違って、シュニーにはしっかりとした『花嫁』教育が成されている。本来ならばあなたがしなければいけないことだと前置きされて、いくつもの報告書を週末ごとに受け取ったのを思い出す。いくつかには悔しさを覚え、いくつかには安堵した。傍にいなくても大切に育てられていることは、救いでもあった。
 それでも、その教育がシュニーからはきとした言葉を奪っているのだとすれば、許すことや受け入れることはしたくなかった。怖がらなくていいのに、と思いながら、ジェイドは震えるシュニーの頬を撫でる。いいよ、と告げるのは簡単だった。自然に口から零れ落ちる。
 この場所の外に生まれ、『傍付き』としての教育を知りながら魔術師としてそれを逃れた、ジェイドだからこそ。なにものにも奪われない言葉を、捧げることができる。
「俺はずっと、シュニーを花嫁にするつもりだったよ。俺の……お嫁さんになってくれるんだと、思ってた」
 教育を受ける過程で、そういう意味の言葉ではなかったのだ、と分かっても。望みを殺されてしまうより早く、ジェイドは魔術師となった。『傍付き』として完成する以前の問題として、ジェイドは未完成ですらない魔術師のたまごだ。己をなんだと問われれば、ジェイドはまずそう告げるだろう。
 魔術師のたまごで、シュニーの『傍付き』。魔術師である自任が先に来るし、『花嫁』の、ではない。その意識はあるようでないものだった。シュニーのことを『花嫁』だと思う。己が『傍付き』として、幸せにしてあげたい『花嫁』だとも思う。それでいてジェイドにとっては、『花嫁』である前にシュニーという少女だった。
 呼び戻され、手を伸ばされたあの日からずっと。
「シュニー。教えて。……俺がいい? それとも、俺も見送った方がいい? シュニーが選んでいいよ。俺はシュニーの『傍付き』だから、シュニーが選んだ方を叶えてあげる」
 そのつもりで望まれたのであれば。それがしあわせだと、シュニーが思って告げるのならば。しあわせにしてあげたいと思う。心から、そう思う。シュニーは幾度か言葉を発しようとしてはくちびるを閉ざし、眉を寄せてうろうろと視線を彷徨わせた。
 やがて、とうとう耐え切れなくなったように。シュニーはちいさく呟いた。ジェイドは、と。震えて、かすれた、消えそうな声で。
「ジェイドは、どっちが、いい?」
「俺の気持ちが知りたい?」
 泣き出す寸前のまばたきをして、シュニーはこくんっ、と頷いた。離れようとしていた手は、もう繋がれている。シュニーも手を繋いでくれている。微笑して、ジェイドはそこへ口付けた。
「好きだよ、シュニー。俺の花嫁になって」
「じぇいど、の?」
「そう。俺の。……俺と幸せになってくれる? また、たくさん待たせると思うし、さびしい思いをさせると思うけど。それで、いいなら……俺でいいなら、俺のお嫁さんになろうね、シュニー」
 ぽろぽろ泣き出したシュニーを抱き寄せて、どこにも行かさないよ、と囁く。シュニーが俺がいいって言ってくれたら、その通りにしてあげる。どうしたいの、と問うジェイドに、シュニーはぎゅうっと抱きついた。なる、とたどたどしく言葉が告げられる。
 しゅにー、じぇいどのに、なる。およめさんになる。はなよめさんに、なる。ジェイドの。ジェイドのに、なる。ひっくひっくしゃくりあげながら、何度も何度も繰り返されて。ジェイドはうん、と頷いて、シュニーの体を抱きしめた。



 気に入らない相手が次々に頭を抱えてうずくまって行くというのは、中々に気持ちのいい光景である。機嫌がよくならざるを得ない。正直にとても楽しい。時間を増すごとに数が増えていくのだから、それはもう、大変素敵な気分でいっぱいだった。
 内心を隠すことなくにこにこ笑うジェイドと、刻一刻と増えて行く生ける屍たちは異様に過ぎた。王宮から飛んできた魔術師の男は全力で引いた声でうわぁと呟き、関わり合いになりたくない、という顔をして部屋の壁にひっついた。
「どういう状況……? ジェイドがなんかやらかしたから、王宮に保護者呼び出しかかったくらいしか知らないんだけど……あんまり説明聞きたくないから引き取って帰るだけでいいかな……だめ?」
 小首を傾げて問う男に、駄目に決まってんだろうがそこを動くな、とばかり室内の空気が悪化した。反比例してさらに機嫌よく目を細め、ジェイドは迎えの男、砂漠の魔術師筆頭、その補佐たる存在へ幸せいっぱいに告げた。
「婚約しました」
「えええぇえおめでとう……? えっ問題ってそれ……? あ、そうだよね、ジェイドまだ十歳だから早いのか」
 ジェイドはほんとにおませさんだよな、と関心したように頷く魔術師に、ジェイドは嫌そうな顔でくちびるを尖らせた。珍しく年相応の幼い表情に、魔術師からは和んだ視線を向けられる。そうするとまずは陛下に報告して色々相談しないとね、魔術師は勝手に結婚できないからね、と言ってジェイドを連れ、退出しようとする男の肩に。
 食い込むように手が乗せられた。
「ちょっと待って頂けますか事情説明がまだです」
「……先にひとつだけ言っておくと」
 ため息をついて、穏やかに手を退けさせて。男は柔らかな仕草で己の背にジェイドを押し込んで庇い、居並ぶ『お屋敷』の者たちへ微笑んだ。
「俺たち魔術師は例外なく、王の持ち物だから。陛下の許可なく……まあ、分かりやすく言おうか? ジェイドには禁止されてるけど、俺には抵抗が許されている。そもそも、ジェイドに抵抗が禁止されていることが、陛下からの慈悲だと思えよ」
「……ラッセルさん」
「ラッセルでいいよ。俺たち同じ魔術師だろ、ジェイド」
 大丈夫、と言葉にしても告げて。砂漠の血を感じさせる煮詰めた蜜色の肌に、薄茶の髪、晴れた空色の瞳をした男は、敵愾心もあらわに『お屋敷』の者たちを睨み付けた。
「平日も休日も祝日も長期休暇も関係なく、毎日毎日ジェイド呼び出して酷使した挙句に問題起こしたから話し合いの為に責任者よこせ? はぁ? こんにちは俺が責任者ですけど! うちの子どう見ても寝不足と過労でいっぱいいっぱいなんで安全確保のために連れ帰らせて頂きます! 話し合いは陛下を通して書面でお願いしますばーかばーか!」
「一応、行き来は自分の意思でしていることです、と言わせてください。ラッセル」
「『花嫁』がいるから? 理由にならない」
 きっぱりとした口調で言い切った魔術師に、ジェイドは思わず目を瞬かせた。『花嫁』と『傍付き』の関係については、すこし踏み込んだ所まで分かってると思うけど、と男は言った。お前はまだ未成年で、なにより目覚めてまだ数年の魔術師のたまご。守護すべきは己の心身であり、庇護される側だというのを心得なければいけないよ。
 分かったね、と言われて、ジェイドは頷くことも忘れて砂漠の魔術師筆頭補佐を、大人の男をぽかんとして見つめてしまった。シュニーの前に連れて行かれた彼の日から、ジェイドにそんなことを言う大人はひとりとしていなかった。未熟な一人前、としか扱われなかった。成長することだけを望まれているのだと、そう。
 守られていい、だなんて。誰も教えてくれなかった。
「俺が……シュニーの『傍付き』でも?」
「もちろん。……あのね、頼っていいよ。頼って、甘えて、相談して欲しい。俺たちを信頼してもらう所からかな、とも思うけど……。ジェイドがね、頑張ってたのは皆知ってるよ。魔術師なら誰でも知ってる。毎日どんなに頑張ってるか、半年も、一年も……入学してからずっと、ずっと、どれだけ頑張ってたか」
 すとん、と膝を折って魔術師はしゃがみこんだ。上から覗き込むのではなく、同じ視線の高さで。仲間として、魔術師として、対等だと告げるように。ごめんな、と静かに言った。
「早く言ってやればよかった。頑張ってるの知ってるって。無理すんじゃないよ、って。……そうしなければいけない理由があるのも分かってるから、やめなって止めてる訳じゃなくてね。応援してるよ、ひとりじゃないよ、なにかあったら……愚痴でも相談でも、自慢でも惚気でもさ、誰だって話聞くよって、ちゃんと言ってやればよかったな」
「……俺に?」
「そう、お前に。ジェイドに、だよ。……見守ってたつもりになってた。伝えてなかった。放置と一緒だよな、ごめん。改めて言わせてね。俺たち皆、魔術師はジェイドの味方だよ。もちろん、陛下もね」
 さあとりあえず行こうか、と立ち上がりながら促す男は、『お屋敷』の者たちから向けられる言葉をことごとく聞き流していた。あーはいはい事情説明ね分かった聞く聞くまた後日陛下が書面上で、と適当に返事をしながら、男の視線がいつの間にか閉められた扉を見据えた。
「もう一回だけ言うよ」
 す、と指先が扉を指し示す。そこから魔力が零れ落ちるのが、ジェイドには見えた。
「俺には抵抗が許可されてる、そっちの言い分は後日陛下が書面で確認する、俺はジェイドを迎えに来た。退け」
 どうするか決めかねているのだろう。視線を交し合って押し黙る者たちの対処を完全に任せながら、ジェイドはくい、と魔術師のローブを引っ張った。
「あの、明日からシュニーに会えないとなると、俺がすごく困るんですが」
「えっそうなの……? えぇ、うーん……どうしても我慢できない系?」
 ジェイドは素直に頷いた。半日なら離れていられるが、一日となるとシュニーが寂しがる。そっか、と眉を寄せて魔術師が呻く。
「そうは言ってもなぁ……陛下もちょっと思う所おありな感じだったから、明日からちょっと忙しいよ、多分。……よし、じゃ、連れてこっか!」
「はい?」
「えっと、シュニーちゃん? 一緒にお城行けばよくない? 部屋はあるし」
 シュニーがジェイドと一緒に散歩をしているのを目撃された時と同じか、それ以上の悪夢を目の当たりにした悲鳴が、次々とあがっていく。その内の一人が顔色も悪く、なにかを叫ぼうとした時だった。声がかかる。柔らかな声。薄くつくられた花弁のような。
「それは、どうか許してね」
 いつの間にか、扉が開かれている。戸口に手をついて立っていたのは、ひとりの少女だった。足の付け根まで伸ばされた金色の髪と、それとはすこし色合いの違う蜂蜜のような瞳。どこか幼い雰囲気のある顔立ちは、見知ったとある『花嫁』の面影があった。
 少女は息を飲んで跪く『お屋敷』の者たちをのんびりと見回した後、背に控えていた青年へ、やさしい声で囁いた。
「名前と顔は、わかる? おぼえておいてね」
「はい」
「あなたたちには、あとで私からも、はなしがあります。……お客さま、魔術師の方。お名前は?」
 ゆっくりと、少女はどこか物慣れない様子で歩んでくる。跪くのではなく、手を貸そうと足を踏み出しかけるジェイドに、少女は笑って首を振った。大丈夫よ、ありがとう、と囁き。少女は名乗った魔術師の前で立ち止まり、ゆっくりと、うつくしい仕草で頭を下げた。
「このたびは、私の屋敷の者がお騒がせ致しまして、申し訳ありません。今代当主を務めております、シルフィールと申します。ジェイドくんは、何回か会ったことがあるけれど……覚えている?」
 はい、と頷くと嬉しそうに笑いかけられる。その面差しはやはり、ミードに似ていた。当主の血を継ぐ『花嫁』に。
「さわがせて、ごめんね。あのね、シュニーのことだけど、明日からも、今までと同じように、会いに来てくれて、大丈夫なように、しておきます。お約束します。だからね……連れて行くのは、どうか、許してね。お願いします」
 ジェイドと魔術師を、交互に見つめながら。二人ともに語りかける言葉だった。眉を寄せる困った顔つきは愛らしく、抗いがたい魅力に満ちている。逆らいたくない、と思ってしまう。困らせたくないし、悲しませたくない。呼吸を求める本能のように。その愛らしさの前に、従いたい、と思わせる。
 魔術師はまるで操られるように。ジェイドも、反抗を覚えることなく素直に頷いた。ありがとう、と少女は幸福を散りばめるように微笑んだ。ミードの母であることを知っていて、なおいとけなく。あどけない少女そのもののようなひとだった。純粋で、無垢で、あどけない。
 その様はどこか、琥珀に閉じ込められた気泡や、花弁を思わせる。
「それじゃあ、ジェイドくんは、今日はもう行きなさい。事情はね、おおまかには聞いたから、私も知っています。……その上で、私は当主として、あなたといくつかおはなし、しなければいけないし、陛下とも、魔術師の方とも、ご相談と、理解を求めていかなければいけない、ことが、あるけれど……また、あとで、ね」
「……シュニーを、連れて行ってはいけない理由は?」
 頷いて、今度こそ魔術師と共に部屋を出ようとしながら、ジェイドはそれを問いかけた。聞かれるとは思っていなかったのだろう。少女は目をまあるくしてジェイドを見つめ、やがてくすくすと笑いながら、悪戯っぽく囁いた。
「あのね、『花嫁』はとても体が弱いでしょう?」
「はい」
「風邪をひいちゃうわ。お熱がでるかも。だからね……連れて行っては、だめよ」
 やくそくしてね、と。幼子が一心にそうするように、真剣な顔で小指を立てた握りこぶしを差し出される。お願い、と囁き求められて、ジェイドは指を絡めてやった。二三度揺すってから、絡んだ指を解いて離す。少女は手を胸元へ引き寄せ、大切なものを抱くように目を伏せて、微笑み。
 ありがとう、と言って、ジェイドたちを見送った。



 通された部屋には、数種類の香りが漂っていた。清涼感あふれるきよらかな香りは、喉の通りをよくして痛みを抑え、炎症にも効果的である。ジェイドは示されたソファに座りながら、対面に腰掛けた当主の様子を伺った。少女は湯気の立つ陶杯を両手で包むように持ちながら、ジェイドの視線を受け止め、穏やかに微笑した。
「大丈夫。風邪じゃないからね。うつしたり、しないから。安心してね」
「……ですが、体調が悪いのなら日を改めます」
 明日には長期休暇が終わる。そうすればまた学園とシュニーの元を往復する慌しい日々が始まるだろうが、『花嫁』が無理をして体調を崩すことを考えれば、多少睡眠時間を削っても別に予定を合わせる方がずっといい。当主の側近はどうして止めなかったのかと眉を寄せるジェイドに、少女はゆっくりと首を振った。
 大丈夫だから、と囁かれる。そこにいてね、と求められて、ジェイドは立ち上がる為の力を失った。穏やかで、やさしい。その言葉にどうしてか、逆らえない。はい、と困惑しながらも頷くジェイドの視線の先で、少女はふぅ、と香草茶に息を吹きかけた。
 ひとくち、飲んで。薄荷湯だ、としあわせそうに言葉をこぼすさまに、さらに力が抜けた。少女はかつての『花嫁』であり、現在の『お屋敷』の当主である。そうであるからジェイドよりはうんと年上であるのに、決して、大人のようには見えなかった。
 未熟な印象はない。ただ、幼いままに停止して、完成しきっている。ミードの母であることは間違いないのに、女、という風には見えず。母とも思えず。落ち着いた、穏やかな、あどけなさを残す少女がそこにいた。
「喉がね……昔から、あまりつよくないの。それだけよ。……じゃあね、おはなしを、はじめます。まずはジェイドくん、明日からはまた、魔術師さんの学校へ行くと聞いているけれど、それに間違いはない?」
 机の上に置かれたちいさな暦表を一応確認して、ジェイドは頷いた。今日が一月の末日であるから、明日からはまた魔術師のたまごとして生きていかなければならない。うん、と少女はちいさく呟いて暦表を何枚かめくる。すこし難しげに、眉が寄せられた。
 室内は静かだった。長方形の机を挟んで向かい合わせに置かれたソファには、ジェイドと少女しか座っていない。少女の背後にはひとりの女が控えていたが、ともすれば存在を忘れてしまいそうなほど、音を立てることも口を挟んでくることもしなかった。
 とん、とん、と。なにかを数えるように、少女の指が暦表に当てられる。次の長いお休みまで、また一年、と呟かれるのは、ジェイドの予定だろう。きゅぅ、とさらに眉が寄る。ううん、うぅん、と困りきった声が零れ落ちた。瞬きが何度か、ため息は、一度。
 少女の持ち上がった視線が、真正面からジェイドを見る。
「あのね。国王陛下と魔術師さんから、とても……とても怒られていてね。ジェイドくんに、頑張らせすぎだろうって言われているの。私もね、ジェイドくんがどういう経緯でシュニーの『傍付き』になってくれたかは、もちろん知っているし、魔術師として招かれたことも、分かっていて……ううん、本当には、ちゃんと分かっていなかったのかな」
 ごめんね、と眉を下げてしょんぼりとする少女に、ジェイドは心から首を振った。やる、と決めたのはジェイド本人だった。それが過酷だと分かっていて、シュニーに毎日会いに来ることを選んだ。少女はジェイドの反応に、安堵と罪悪感が入り混じった表情を浮かべ、またひとくち、薄荷湯を飲み込む。
「……ありがとう。それで……それでね。もうすこし、会いに来ないでいいようには、ならないのか、と聞かれています。ジェイドくんが悪いのではないの。とても頑張ってくれたのは、私も、魔術師さんたちも、よく分かっています。でもね、やり方を変えましょう。ジェイドくんがもうすこし楽になるように。……そして」
 ふ、と。少女の瞳が、くらい影を帯びる。
「わたしたちが、あなたたちのしあわせを、ゆるせるように」
 けほ、と乾いた咳を少女の喉が吐き出した。つよい意思を乗せた言葉に、傷つき耐え切れなかったような、痛々しい咳だった。けほ、こほ、と連続して咳き込む少女に、控えていた側近の女はソファの前へ回り込んだ。座面から体を攫うように少女を抱き上げ、背をやんわりと撫で下ろす。
 落ち着くまでには、じれったいような時間が必要だった。は、と疲弊した吐息をくちびるから零し、少女は女の腕の中からジェイドを見て、申し訳なさそうな顔つきをする。落ち着いたわ、と当主が囁く。女は心得た仕草で少女をソファへと座りなおさせ、有無を言わさず薄荷湯を差し出した。
 こく、こくん、と飲みながら、少女の視線が気まずそうに伏せられる。
「あのね。知っている……分かっているとは、思うけど。『傍付き』っていうのは、『花嫁』や『花婿』を育てて、送り出すのがお仕事なの。それでね、だから、『傍付き』が『花嫁』を、お嫁さんにするって……いうのは……。いけないの。いけないことなの。それはね、規則を破る、とか、そういう意味での、いけないこと、でもあるんだけど」
 ゆるゆると、当主の視線は落ち着かずに彷徨っている。かつて『花嫁』であった少女が。苦心して言葉を捜している。穏やかな気持ちで、はい、とだけ返してジェイドは待った。急がせるつもりはなかった。うん、と気乗りのしない声を落として、少女は何度か、あのね、と言った。
「……生きるための、お金のはなしなの。『お屋敷』と、この場所に関わる人たちと、砂漠に生きる人々を、これからも生かしていく為のお金の、おはなし。その為に『花嫁』は育てられるし、その為に、嫁いで行くの……でも、そんなのは、あんまりだから……それだけだと、あんまりだから。しあわせになるように。なれるように、行くのよ」
 ひどいって言われることかもしれない、とかつての『花嫁』はゆっくりと言った。それでもあなたは、わたしたちは、考えていかなければいけない。引き換えにされる金品が、砂漠のいのちをどれほど救っているのか。生かすのか。生かしたのか。繋いだのか。失わせなかったのか。
 たとえば『花嫁』の口に入るたべもののおはなし。農業従事者と、料理人。それぞれの雇用と教育。調味料を考える。たとえば塩を精製する工場。そこで働く人々。流通の確保。商人たち。服のことを考える。綿花や絹。糸を紡ぐ、布を織る。色で染める、模様を描く、刺繍を入れる。その為の職人の確保教育、育成。仔細に及ぶ。
 ひとつ、ひとつ、ひとつ。すべて。わかるでしょう、と少女は言った。
「『花嫁』という仕組みは、もうとうに始まってしまったし、もうずっと、続いてしまっている。莫大な雇用と給金が動いている。わたしたちは……『お屋敷』というのは、この砂漠の国を流れる血液なの。滞ってはいけない。仕組みが緩めば、末端から死んでいく。……嫁いでいく者を決して、哀れまないで。誇りを抱いて、わたしたちは行くのよ」
 恋を置いていく。永遠の恋を残していく。ほんとうならば、それだけのこと。ゆっくり、ゆっくり、瞬きをして。幾重にも絡み合う複雑な感情を、つよく宥めて。少女は息を吸い込んだ。『花嫁』ではなく。続いていくこの場所を、繋げて。先へ渡す役目を背負うことを選んだ少女は。
「……だからね?」
 困った様子で眉を下げて。わかってくれたかな、とちいさく首を傾げて言った。
「本当は、ほんとうに、ほかにもたくさん、色々、いっぱい、あるんだけど……。分かりやすいのは、当面の問題としては、シュニーが嫁ぐまでに得られる筈だった費用の回収と。嫁ぐにあたって貰える筈だった分の損害をね、どうしようかなって、そういうことなの。だからね、あの……ごめんね。許せることではないし、おめでとうって言えないの」
 あっ、もちろんね、あのね、おめでとうって思うし、よかったねって思うし、うれしいことだし、そうなんだけど、と叱られたこどものような顔をしておろおろと呟き。少女は泣くのをこらえるように、浅く速く息をして、瞬きをした。
「ごめんね……」
 はい、とも、いいえ、とも返事がしがたい。ただ申し訳ない気持ちで、ジェイドはちいさく頷いた。ごめんねえぇ、とさらに落ち込まれた。
「あのね、あのねっ、いま、あの、ほんとに……あの……おかねがないの……。全然、今すぐだめってほどじゃないんだけどね、何年かは、あって、それは、大丈夫なんだけどね……『花嫁』とね、『花婿』の数が、すくなくて……スピカはディタと逃げちゃうし……当主の候補は、耐えきれなくってみんな枯れちゃうし……」
「大丈夫。まだ一人残っておりますよ」
 涼しげな顔で告げる女に、当主たる少女は涙ぐんで首を振った。
「あとひとりしかいないでしょぉ……。ごめんね……ほんとうに、ごめんね、ジェイドくん……。たくさんね、数がいれば、ひとりくらい、ちゃんと賄えるの。でもね、その、その……いまね、ちょっと世話役たちの数が余っているくらいって、いうか……育ってくるのにもうちょっと時間がかかってね。シュニーはだからね……きちょうだったの……」
 そしてジェイドと気持ちを通じ合わせてしまった以上、どこかへ嫁がせることは、もうできないのだという。だってしあわせにはなれないでしょう、と少女は言った。その先にある幸福を希望として送り出せないのであれば、そんなことはしない、と落ち着き払った、やわらかな声で告げて。
 少女はやや不安げにジェイドを見つめ、だから連れてどこかへ逃げたりしないでね、と言った。
「ジェイドくんは魔術師でもあるから、『学園』のこともあるし、そんなことはしないだろうけど……。しばらくは、シュニーのことはわたしたちに任せて、ジェイドくんは魔術師であることに、ちゃんと向き合ってきてください。毎日来たら駄目よって言っている訳ではないの。分かってね?」
「……はい。シュニーは、このことを」
「わたしから、おはなしします。……あのね、お金のこととか、あなたたちふたりのこと、とか。考えていることがあるの。魔術師さんや国王陛下からの要望と、わたしたちの事情は、もしかしたら両方、ちゃんと、叶えられるかも知れない……どちらにも、いままでとは違う努力を、求めることになると思います。それを、どうか」
 受け入れて欲しい、と少女は言った。『お屋敷』の為に、この国の為に。そうしなければ失われてしまう、取り返しのつかないたくさんのものの為に。ジェイドは少女に、分かりました、と言った。うん、と安堵に微笑んで、少女は口に手を押し当てた。堪えきれなかった咳が、幾度も零れ落ちていく。
 女に視線で退席を促され、ジェイドは頷いて立ち上がった。また連絡をお待ちしています、と告げる言葉は届いたのだろう。少女は咳き込みながらも視線を持ち上げて、柔らかく、目を細めて笑った。

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