次の当主は『花婿』であるのだという。決まったからと言ってすぐに代替わりする訳ではなく、数年かけて実権の移動を行い、つつがない時期を選んで交代する。当面は呼び名だけが移動して、少女は前当主、『花婿』は当主、あるいは見習い当主や若君と呼ばれて勉強期間に入るのが通例だ。少女に、今すぐ引かなければいけない理由がある訳ではないので、このたびもその通りにされるだろう。
だからシュニーのお役目が終わるまでは、呼ぶ名前が違うだけでちゃんと私が当主だから、なにも心配しないでね、と。告げた少女の顔は蒼褪めていたが、微笑みはひどくうつくしかった。罪悪感と解放感の入り混じる面差しに、ジェイドはなにを問うこともできず、はい、と言った。
祝福と、どこか困惑めいた落ち着きのない空気が『お屋敷』に蔓延していく。変化に敏感な『花嫁』たちは眉を寄せて不安げに『傍付き』を求め、『花婿』は口々になにがあったのかを知りたがった。『傍付き』も世話役も口を揃えて怖がることはなにもないと告げ、ただ、新しい当主が決まったのだと、それだけを囁いた。
変化は本当に、それだけだった。鼓動を不安に速くする空気はジェイドも感じていたから、シュニーが不在の間にどうにかしたいとあれこれ動き、ラーヴェにも頼んで探ったが、出てくる情報はひとつきりだった。新しい当主が、儀式を終えて指名された。ただ、とラーヴェは痛ましげな表情で言葉を添えた。
次期当主の『傍付き』が、ひとり、亡くなったらしい、と。
「……ひとり、亡くなったって……『傍付き』はひとりだろ?」
薄荷湯を飲みながら、ジェイドは一応、あたりを見回して声を潜めた。控室にはジェイドと同じ『傍付き』や、世話役たちの姿しかなかったが、どこから『運営』に伝わるか分かったものではない。ジェイドは変わらず、『傍付き』としては必要最低限の知識しか持たないのだ。
必要であれば知りたい、と思う心は、ほんの少し前に潰えてしまった。扉の向こうで得た知識に、これ以上は、という拒絶感があった。幸い、ジェイドにそれは許された。他の誰にも許されないことであっても、異質であり魔術師であり、『花嫁』を送り出さない『傍付き』であるジェイドにだけは、当主がそれを許したのだ。
そして、ラーヴェには、それが許されなかった。時を同じくして、ラーヴェはそれに連れ出された。年上の、なにに対しても穏やかに振る舞う、落ち着いた態度を装うことに長けた青年が、息をするのも苦しいという表情で泣くのを。戻って来た夜の闇の中で、ジェイドは初めて目の当たりにした。
一時はシュニーが旅行の間、ジェイドは『お屋敷』に来ることが許されなかった。王と当主たる少女の取り決めと、ジェイドの魔術師の成長の為に。それがじわじわと緩められてきたのも最近で、この為だったのだ、とジェイドはラーヴェに肩を貸し、泣かせながら思った。慰める為だった。壊れてしまわないように。
ひとりでは決して耐えきれないだろう。知るだけでもジェイドが嫌悪したそれを、ラーヴェはミードの傍にあり続ける為に、成さなければならなかった。全ての『傍付き』がそれを経過して、『花嫁』をその腕に取り戻す。いとしさを抱き、恋しく触れ、けれど。決して犯してしまわぬように。
自らそれを望まぬように、自らの手で、欲を壊して。『傍付き』は『花嫁』のもとへ戻ってくる。それを決して、知らせないままに。
「次期御当主さま……リディオさまの『傍付き』は、ふたり、いたんだ」
「……どういう理由で?」
「どちらのことも、本当に大好きで。どちらか一人なんて選べない、という可愛らしい理由で」
ごくごく稀にあることだよ、と肩を震わせて笑うラーヴェに、ジェイドはなんとも言えない気持ちで頷いた。最終的な『傍付き』の『候補』として残されるのが二人だから、そこから選びきれなかった、ということなのだろう。そんなことあるんだ、と呟くジェイドに、ラーヴェは重ねてごく稀に、と言って苦笑した。
「普通なら、ひとりが『傍付き』で、もうひとりが『補佐』になる。『補佐』と『傍付き』の大きな違いは、ふたつ。『花嫁』を腕に抱くか、抱かないか。そして、佩剣を許されるか、許されないか」
ジェイドはちら、とラーヴェの腰へ視線をやった。そこには鞘に収まっている長剣がある。『傍付き』であれば必ず、剣の形の武器を持つ。特例で異質とはいえ、ジェイドも例外ではない。雑かつしぶしぶといった風であったにせよ、剣は渡されていた。
魔術師として武装が許可されていないので、寮の部屋に置いてあることが多いが、『お屋敷』に来る際は必ず身に着けている。知識としてでも、あの教育を受けた後なら、そうせざるを得なかった。嫌悪感が今も身を苛むとも。その剣が証だ。たったひとつの。知る者であり、乗り越えた者であり。『花嫁』を腕に抱く者の、証。
「……そのひとりが、死んだって? なんで」
「真実は分からない。噂しか」
目を伏せて、声を潜めて、ラーヴェは言った。自害したのだ、と。次期当主である、己の『花婿』にそう命じられて。与えられた剣で喉を突いて死んだのだと。確かめる方法はない。次期当主の儀式に立ち会った数人は、すでに『お屋敷』から姿を消した。辞職したのではないのだとしたら、会って話すことは叶わないだろう。
真実を知るのは、生き残ったもうひとりと、次期当主その人のみ。
「……でも、聞いたら……知ったら多分、後悔しそうだ」
なにがあったかは分からない。なにを思って『花婿』が『傍付き』にそれを告げたのかは。噂が真実かどうかすら、分からない。けれど。ジェイドは目をきつく閉じて考える。もし、シュニーがそれをジェイドに命じたら、どうするだろう。そこに乗る感情が、なんであっても関係ない。言う通りにするだろう。望みを必ず叶えるだろう。
『花嫁』が、『花婿』が、心からそれを望んだのなら。地獄にだって落ちてみせる。自害せよと命じられたなら、微笑んで剣で喉を突くだろう。『傍付き』がそうしたことは、ジェイドには理解ができてしまう。望まれたのだから。心を削り欲を壊し手放し葬ってなお、傍に居たいと、たったひとつのその希望の為に生きたひとが、望んだのなら。
知るだけのジェイドでも、衝動的にそうしたい、と思うくらいなのだから。ラーヴェも同じことだろう。死ね、と言われれば望んで死のう。命を手放すことに躊躇いはない。命じられたという、幸福さえ胸に抱けるに違いない。この存在は、この命は、すべて、あなただけの為のものだった。
微笑みが、見えるようだ。『傍付き』は満ち足りて死んだだろう。『花婿』に、次期当主に、それでも『傍付き』が残されたのは幸運であるのか、不幸であるのか。希望であるのか、絶望であるのかは、分からないことだった。当人しか、分からないだろう。どれが残された感情なのか。あるいは、もう、なにも残っていないのか。
「なににせよ、シュニーには……知らせないようにしないと」
幸い、シュニーが帰ってくるまで数日の猶予がある。気持ちを落ち着けて取り繕う余裕は、十分にある筈だった。そうだね、と苦笑するラーヴェの『花嫁』は、入れ違いに昨日から『旅行』へ行った。だからこそ、二人で話す時間が持てたのだが。感謝しながらも、どこか心苦しいままでいる。息苦しさは、罪悪感だった。
年明けが近い。ジェイドとミードは同い年で、もう十四になる。よほどのことがなければ『花嫁』は『お屋敷』に戻ってくる。ミードはまだ、ラーヴェの元へ帰ってくる。その帰りが。最後になるかも知れないことは、ラーヴェも、ジェイドも、理解していた。シュニーに、その最後は訪れない。『旅行』に出なくなるだけだ。
残された刺繍の花は、十とすこし。損害が補填されきった時に、シュニーが『花嫁』としてどういう扱いになるのか。『傍付き』としてのジェイドが、どうなるのか。それはまだ、知らされないままだった。当主の少女はそれを、わたしの最後の仕事、と言って微笑した。
最後の仕事を終えた当主が、そのあと、どうなるのかも。ジェイドは知らない。ただ、穏やかであればいいと思う。
「……ところで、この話ってどこまで回ってる? 『傍付き』か、世話役か……あんまり下の世代に行くまでに食い止めないとまずいと思うけど」
「『傍付き』と『補佐』まで。……『館』へ行っていない『傍付き』には、内々に緘口令が敷かれた」
それは本当にこの場所で話していい内容だったのかと思うが、控室はそもそも、時間に余裕のある『傍付き』や『補佐』たちがたむろする場所である。それはつまり『花嫁』が旅行に出ている、ということで。『館』を通過した者、ということだ。ああやだやだ、とジェイドは額に手をあて、椅子の背もたれに体を預ける。
「……また泣きたくなったら、呼べよ、ラーヴェ」
「うん。……大丈夫だよ、ジェイド。ありがとう」
ごめん、と言いたくなって、言葉を堪えた。自分の為にしかならない謝罪は、自分しか、楽にしない。はぁ、と息を吐いて、ジェイドは椅子から立ち上がった。週末で休日、シュニーもいないとはいえ、ジェイドはなにかと忙しい。課題が終わらない、とうんざりと呟くのに、ラーヴェは肩をすくめてみせる。
「手伝えればいいんだが、あいにくと魔術師の適性がなくてね」
「『傍付き』と両立するのほんっと大変だからなくていいと思う……帰るけど、ラーヴェはどうする? ここにいる?」
「アーシェラを見たら、控室にいる、と伝えておいてくれるかな」
笑顔で手を振るラーヴェに頷いて、ジェイドは控室を後にした。廊下を歩くと、肌に触れる空気はやはり不穏で、ジェイドは隠すことなく息を吐いた。数日でこの混乱が落ち着くとは思えず、そこにシュニーを迎えなければいけないことが憂鬱だ。異変には必ず気が付くだろう。どうしたの、と問われるのは目に見えていた。
嘘はつきたくなかった。しかし、告げる訳にはいかなかった。どう誤魔化してしまうかを考えながら、ジェイドは置いてきた課題に頭を切り替え、魔術師としての己に意識を向けた。理解して、共感すらして、気が狂いそうになる『傍付き』としての意識を。窒息させるように、葬った。
血が繋がっていない訳ではないのよ、と前当主たる少女は言った。最近は寝台に伏せてしまうことが長い少女は、珍しく起きだして執務室に居た。シュニーの帰りが数日延期することになった、という知らせを受けたジェイドが、また正確な日が分かったら連絡をしてください、と上役たちに告げに来たおりのことだった。
側近の女に挨拶くらいはしていきなさい、と珍しく話しかけられ、ぽいと放るように入室させられた先に少女がいたのだ。なんでも気に入りなのだから、顔を見せていくのが礼儀というものでしょう、とのことだ。少女はくすくすと笑って女の言葉を否定せず、おひさしぶり、と穏やかに言葉を吐いて、ジェイドをソファに座らせた。
少女はいつもの対面ではなく、すこし離れた机の向こう側に座っていたから、交わされる言葉は途切れ途切れ、他愛もないことばかり。そのうちの、ひとつだった。当主たる青年のことを、なんと問うたのか、ジェイドは正確に思い出せない。殆ど無意識に零れた言葉だった。恐らく、人柄かなにかを問うものであった筈だ。
どんなひとなんですか、という『傍付き』の囁きに、返った言葉がそれだった。血が繋がっていない訳ではない。それは何度か繰り返し告げた言葉のようで、なにか反射的に言ってしまったのであろう響きを帯びていた。ジェイドが視線を向けた先、少女は、やや失敗してしまった、というような顔でくちびるを尖らせている。
視線は助けを求めるように女を見たが、慈しみ溢れる視線が向けられるばかりで、誤魔化しや救いの声が零れていくことはない。少女はうーうー言葉をもらして拗ねた風に呻き、やがて、困ったようにジェイドに視線を戻して言った。
「彼は……確かに外生まれの『花婿』だけど、『お屋敷』の当主の血に連なっていない訳では、ないの」
内生まれと外生まれは分かるでしょう、と問われてジェイドは頷いた。ミードのように当主の血を継ぐ『花嫁』を内生まれと呼び、外部から向か入れ『花嫁』として育てた者を外生まれ、と呼ぶ。外生まれはだいたいが二つにも、三つにも満たない頃に連れてこられる。孤児や、遺児。事情は様々だ。
俺のような方なのですか、とジェイドは訪ねた。すなわち、嫁いだ者の末裔であるのかと。少女は言葉に迷うように視線を泳がせ、やがて声もなく頷いた。
「そう。……うん、うん……そう、そうなの。わたしより、ひとつ、ふたつ、前の……。だから、確かにミードよりは血が薄い、かも知れないけど……そもそも、内生まれでなくとも『お屋敷』は継げるのだし……」
「そうなんですか?」
「血統じゃないの。血じゃないのよ。私とて、別に……私の、前の方の娘ではないのですもの。私もね、外生まれ。内生まれとね、外生まれに、優劣というものはないの。内生まれにしか伝わらない情報や、知識というものが、確かにあるのだけれど……それは、情報の秘匿の為。限られた数である為。優れているからでは、ないの」
瞬きをして、ジェイドは少女を見つめた。少女は元『花嫁』であるが、それは当主として嫁ぐことをしなくなった、という意味でしかなく、本質的に変化した訳ではない。少女は確かに、うつくしい『花嫁』だった。まっすぐに背を伸ばし微笑む姿は、侵しがたい、やわらかなうつくしさに満ちている。
金の『花嫁』と呼ばれたのだという。背を流れる髪と、瞳のうつくしさに。その他の言葉をどうしても当てはめられず。金無垢の花嫁。少女が産んだ娘は周囲の期待に正しく応え、その類稀なるうつくしさを引き継いだ。
「もしかして、御当主さまについて、なにか……?」
「……事故があったのは知っているでしょう、ジェイドくん?」
悪いことでは、ないのだが。思わず体をこわばらせたジェイドの、その素直さを喜ぶように、少女はころころと鈴のように笑った。公的にはなにも告げられていない。『お屋敷』の『運営』は、噂を肯定はしなかったが、不思議と火消しに走ることもしなかった。噂が流れていることを知りながら、そのまま放置したのだ。
少女はゆるく目を和ませて笑い、探られたことを責めなかった。
「そのせいで、ね。……わたしに、もうすこし、数年。頑張ってくれないかって、思っているひとたちがね、いるの」
「……御当主を?」
「そう。事故があったから、外生まれだから、『傍付き』をふたり、選んでいたから。他にもいろいろ。理由にならないようなことを、理由にしようとして。……だからね、いま、まだすこし、空気が落ち着かないでいるでしょう。ごめんね……」
吐息に託して零すように。それでいて、かすかに紡ぐ歌のように。やわらかく、うつくしく。少女は言葉を告げていく。その儚さに。ジェイドも、恐らく誰もが、気が付いている。儚くなった、と少女を見て思う。それなのに、すこし、息をするのが楽になった顔をして。少女はくすくすと、肩を震わせて笑った。
「そんなに心配しないで、ジェイドくん。わたしは大丈夫よ」
「伏せることが多くなったと、聞きました……。お加減が悪いのではないですか」
「元から体が強かった訳ではないわ。知っているでしょう?」
平均的な『花嫁』より、ほんのすこし強い。それくらいのものだ。少女はのんびりとした仕草で、ジェイドとの会話の片手間に書類に視線を流し、指示や名を書き込んでいく。慣れた作業だと思わせたが、楽しそうには見えなかった。紙の擦れるかすかな音が響く。
「もし、あなたが当主を続けることが……決まってしまったとして……それは可能なことなんですか?」
「……彼がこれから枯れない限り、可能性のないことよ」
そしてそれはありえないこと、と言って、視線をあげた少女は笑った。
「それにね、わたし……当主を辞めるのを、楽しみにしているの。とても」
「そうなんですか?」
「うん。辞めたらね、とびきりのわがままをね、言うって。もう随分と前からね、決めているのよ」
だから、そんなことにはならなければいい。懺悔めいた声の響きでそっと告げられて、ジェイドはそうですか、と言った。思えば少女が自分に対してなにかを楽しみ、と言ったのははじめてのような気がした。控える女に目をやると、やんわりと苦笑される。わがままの内容は、知らないらしかった。
ううん、と伸びをして少女が執務を取り止める。
「あ、そうそう。よかったらね、ジェイドくん。シュニーが帰ってくる前に、彼にも会ってあげて? 拗ねててちょっとふきげんだけど、ジェイドくんになら懐いてくれると思うの」
今日は書庫室にいると言っていたから暇だと思うし、と告げられて、ジェイドは無言で額に手を押しあてた。見れば女も同じようにしている。会話の流れで薄々察しながらも、ジェイドは彼とは誰か、を問いかけた。少女はきょとんとした顔で、幾度かまばたきをする。
「誰って……リディオよ。見習い御当主さま。拗ねてひとりで出歩いているの。誰も傍に寄らせないで、近づくと、今日は本を投げてくるのですって。叱ってきて? 本は読むもの。投げるものではないでしょうっ、て」
「……お言葉ですが御当主……前、御当主さま……なんで俺……」
少女の傍に常に女があるように。彼の傍にも、『傍付き』がいる筈だった。生き残ったもうひとりが。なんかめんどうくさいことを押し付けられている気がする、と呻くジェイドに、少女はやや楽しそうに目をきらめかせて笑った。
「言ったでしょう? 誰も傍に近寄らせないの。『傍付き』の彼女だって同じことよ。もちろん、近くにはいると思うけど……書庫室にいるのだって、本を読みたいからじゃなくて、投げられそうなものがたくさんあるからなの」
「聞いてください。なんで、俺」
「ジェイドくん、だって、わたしたちに好かれるもの」
なんで、と問われることが不思議でならない顔をして。こて、とあどけない仕草で首を傾げ、少女は言った。
「知らなかった? ジェイドくんはね、なんだかとっても、好きだなぁって思うの。『花嫁』でも、『花婿』でも、きっと皆そう思うわ。ええと、こういうの、なんていうんだっけ……。このみのたいぷ?」
「……はい?」
「あのね、だってミードだって、ジェイドくんに懐いているでしょう? 普通『花嫁』っていうのは、自分の『傍付き』の補佐でも世話役でもない相手に話しかけたりしないのよ。興味ないもの。……でもね、ジェイドくん? ミードだけじゃなくて、他の『花嫁』や『花婿』からだって、話しかけられたり、手を振られたり、よくあるでしょう?」
どれくらいの頻度であれば、よくある、と言っていいのかが分からない。中々頷きにくいものがあった。他の『花嫁』『花婿』に会う機会が多いのは確かだ。でもそれは部屋に呼ばれて会いに行くということではなく、例えば朝夕にやってくる折、廊下で行き会い顔を合わせるからである。
向こうも、他の『傍付き』に興味があるのだろう。目が合えばぱっと嬉しそうな顔をして、話をしたがる風にもじもじされるので、無視して立ち去る訳にもいかず。結果として、余裕があれば立ち止まって挨拶と言葉を交わすくらいはするし、時間が迫っていればまた今度、と言って手を振るくらい、普通なのではないだろうか。
『傍付き』たちになんともいえない顔をされるのは慣れていたので、一々それを気にしたことはなかったのだが。でも普通のことでしょう、と言うと、少女はため息をついて首を振った。
「あのね……あのね、別にジェイドくんだから、そんな顔をしていたのではないのよ……。ジェイドくんだって、もしもよ? シュニーが、今日はあのひとが来るから挨拶をするの、とか。おはなしできるかな、とか、そわそわして、お散歩に連れて行って? って言ったら、楽しくないでしょう?」
「誰だよソイツ骨折れよ、くらいは思いますね」
「でしょう……? つまりね、ただそれだけなの……。ジェイドくんはね、なんていうか……じつは、ちょっと無差別に、わたしたちにもてちゃうの……」
つまりはそのせいもあって、『傍付き』たちから、ややあたりがキツいらしい。理解はできる、とジェイドは遠い目になった。ジェイドだって、シュニーがそんな風に挨拶したがる相手がいれば、たとえ同僚だろうと他に『花嫁』を持とうと関係なく、というよりも、『傍付き』であればなお苛立つだろう。
あのね、あのね、といっしょうけんめいに話しかけてくれる『花嫁』『花婿』たちは純粋に可愛い。それを無碍にはしたくないのだが。それどうにかならないんですか、と呻くようにジェイドは尋ねた。今更、印象が悪化する余地が残っているとは思えないが、立場を逆にして考えるとあまりに申し訳なかった。
少女はあどけなく目を瞬かせ、ふふ、と甘いものを口に含んだようにして笑って。ごめんね、と言った。どうにもならないらしかった。
すみません前御当主に言われてきたんですけれど帰っていいですか、と胃が痛そうな顔をして申告したジェイドに、生き残った『傍付き』である女性はそれはご迷惑をおかけして申し訳ありません、どうぞ、と言って背を扉に向かって押してきた。最高に話が通じない感に遠い目になる。
押し出されないように足に力をこめながら、ジェイドは投げやりな気持ちで問いただす。
「嫌じゃないんですか嫌ですよね俺もシュニーに浮気を疑われたらどうしようと思っているので! 帰っていいですかなんで押し出すんですか嫌じゃないんですか嫌でしょう素直に言ってくれていいんですよ!」
「前御当主さまの遣いとあれば追い返す訳には行きません。なにを仰っているのか……。……ちっ、抵抗しないで早く行ってくださいませんか。リディオがひとりで寂しがっておられますので」
「あぁああこのひといま舌打ちした! しかも人の話聞く気ないやつだ! なんか本投げてくるとか聞いたんですけど、どんな教育されたんですか! 寂しがってるの分かってるなら自分で行けばいいじゃないですか!」
ふたりが立つのは、書庫室の扉を目の前にした廊下である。廊下である以上は人通りがある。それなのに行き交う者たちからは、あらあらまあまあ、と言わんばかりの視線しか向けられないのはどういうことなのか。これではジェイドがごねているようである。勘違いも甚だしい。
短い黒髪の快活そうな印象の女性は、ジェイドを押し出す手に力を込めながら言い切った。
「はい? やんちゃでわんぱくで可愛いじゃないですか」
「あぁああああ駄目だこのひとーっ! 俺だってシュニーが手毬投げるのは、一応注意くらいしますよっ?」
「なにを仰っているのか……注意はしていますよご安心ください? 避けられない相手には、投げないこと。つまり私には投げられますが、あなたには投げませんのでどうぞご安心を」
そんなことをどうして、この上ない自慢顔で言われなければいけないのか。眩暈を感じた所で、力が緩んだのだろう。注意した瞬間には足払いをかけられ、体勢を崩した所を部屋に押し込まれる。それではよろしくお願いいたします、と囁き残した声だけが楚々としていた。力ずくで詐欺にあわされた気持ちになった。
文句を言おうと振り返った眼前で扉が閉められる。直前に見えた女性の笑顔が、つべこべ言わず早く行けよ私の『花婿』が寂しがっているでしょうが、と告げていた。かつてなく理不尽な仕打ちを受けている気がしたが、これくらいならまだかわいい気もした。溜息がでる。理不尽に慣れたくはないのに、完全に慣れている気がした。
書庫室の空気は、生暖かく濁っていた。窓が閉ざされたままなのだろう。風も光も入ってこない、薄暗がりが広がっている。シュニーなら閉じ込められたと大泣きするだろうな、と思いつつ、ジェイドは書庫室の奥へ向かった。本棚の森の先には、読むための机と椅子がある。誰かいるなら、そこだろう。
揺れる火のたもとまで歩み寄る。机の上におかれた平皿には、喉をすっきりさせる香油が満たされていた。『傍付き』が整えていったのだろう。机には他にも『花嫁』たちが好んで口にする菓子や、水差しが置かれている。苦笑して、ジェイドは机の下を覗き込んだ。
毛布を何枚か敷き詰めた巣の中に、うつくしい少年が眠っている。当主を継ぐのは十五を超えた者と決まっているから、ジェイドよりはいくつも年上であるのに、寝顔はまだあまりにあどけなかった。長めに伸ばされた髪は、雪のような白銀。だからなのか、すこしシュニーに似ているような気がした。
ふる、とまつげが震える。『花婿』は、『傍付き』の気配に敏感だ。見知らぬ者がいればすぐに目を覚ます。とろとろとした動きで腕が持ち上がり、くちびるが誰かの名を呼んだ。泣きそうな声で。夢うつつの、期待と不安に満ちたささやき。ジェイドは口唇に力をこめて、『花婿』の前に片膝をついた。
「……おはようございます。御当主さま」
ねむたげに。瞬きを繰り返すまぶたの奥、瞳は湖面に落ちた木の葉の影の色をしていた。新緑の森の、日差しに貫かれ地に落ちた影の色。呼吸を知る深緑。はっ、と見知らぬ者を確認して、『花婿』は枕元においた本を両手で持った。思い切りふりかぶった所で、動きが止まる。
「え……え、えっ……ジェイド……?」
「はい」
微笑んで頷く。挨拶をしたことがあるのは覚えていたが、名を覚えてもらっているとは思わなかった。寝起きの目で、ぱちぱちと瞬きをして。『花婿』はひっ、と息を飲み。急激に頬を赤く染めて、可哀想なくらいに狼狽した。
「なっ、なんで……! ちが、ちがう。これは、この本はその、投げ……な、投げてない、投げてないから!」
「……はい。そうですね?」
「う、うん。そうなんだ……投げたりしない……」
そろそろと本を下ろした『花婿』は、それを大急ぎで毛布の間に仕舞い込んでしまった。そうして、机の下からもそもそと這い出てくる。よろよろと立ち上がり、『花婿』はくちびるを尖らせてあたりを見回した。確認しながらも、すがるように呟く。
「ひとりか? ジェイド」
「……リディオさまのフォリオなら、扉の前にいらっしゃいましたよ」
とても『お屋敷』で囁かれる噂の、片割れとは思えない素振りで。げっそりと息を吐くジェイドに、『花婿』は綻ぶように笑った。元気なんだ、とすこし、自慢げな響きで告げられる。いつも元気で、明るくて、それで。言葉はすぐに暗い響きを帯び、ふつりと途絶えて消えてしまう。
ぺた、と力を失ったように、『花婿』はその場に座り込んだ。
「……怒ってた?」
「いいえ」
ジェイドに対して舌打ちしたくらいである。『花婿』に対しての怒りではなく、傍にいられない苛立ちならば感じ取れた。寂しがらせてしまうことに対して。傍にいることを、望まれないことに対して。『花婿』は無気力な瞳でそうか、とだけ呟き、机の上の菓子や飲み物をぼんやりと眺める。
どれひとつとして、手がつけられた形跡はなかった。
「……なにか、口にされましたか?」
「いらない」
分かっていて問いかけると、拗ねきった声が返される。ぷい、と顔を背けて用意を見ないふりしている姿は、まさしく当主の少女の言う通りだった。拗ねてちょっと不機嫌なだけである。ジェイドは苦笑しながらしゃがみこみ、御当主さま、と『花婿』のことを呼んだ。
「なにか召し上がってください。せめて、お茶だけでも。……きっと、お好きなものばかりですよ」
「……用意したなら、傍にいればいいんだ」
ぷい、とまた顔を背けられる。視線は書庫室の扉へ向けられていた。呼んできましょうか、とジェイドが言うと、やだ、と拗ねきった声が返される。視線だけがずっと、扉の向こうを見つめている。ジェイドは無言で机の上に手を伸ばすと、陶杯に水を注ぎこんだ。輪切りの檸檬と薄荷の葉が、やんわりと香る。
持たせると、『花婿』の瞳が水面に向けられた。そこへ零れた思い出を、息をひそめて見つめているようだった。ひとくち飲むと、渇きを思い出したのだろう。もう一口、ゆっくり飲みながら、『花婿』はぼんやりとした口調で言う。
「いつも……水を用意してくれたのは、キラだったんだ」
「はい」
「フォリオは、下手くそじゃないけど、そういうのがすこし苦手で。だから、いつも俺なんですよってキラが」
ふ、ふ、と息を詰まらせるように『花婿』は笑った。陶杯を持つ指先を震わせて。深緑の瞳から、雨のように涙を零して。背を丸めて、まるで。
「さっき」
誰かに助けを求めるように。
「キラが、来てくれたのかと、思った」
こくん、と水を飲み込んで。まるで飲みなれないもののように眉を寄せて、『花婿』は呟く。来てくれたら。もう一度だけでいい、来てくれたら。本を投げて怒るけど、きっとまだ怒ってしまうけど、でも、ごめんなさいって言う。夢をさまようように視線で、誰かを探しながら、『花婿』は言った。
「怒ってるのかな。……フォリオは、もう会えないって言うんだ。そんなに、キラ、怒ったのかな……。俺のこと、嫌いに、なったのかな……」
「……御当主さま?」
「なんであんなこと言ったんだろ……」
不思議そうに、あどけなく首を傾げて。ゆっくり、ゆっくり、『花婿』は陶杯を傾けていく。喉を潤すのではなく。涙を流す為に飲んでいるような、静謐な仕草だった。
「嫌い、なんて、嘘だよ……。キラと、フォリオが、そうして欲しいなら、俺、やるから……当主になって、頑張って、ちゃんと、やる。やるから……傍にいて、戻ってきて……俺を許して……」
怒ってごめんなさい。許さないって、言って、ごめんなさい。嫌いって言ってごめんなさい。触るなって言った。うらぎりものって、言った。うそつきって、いった。あんなに大切にしてもらってたのに。あんなに好きって言ってくれてたのに。全部疑った、信じなかった、騙したって思った。ごめんなさい、ごめんなさい。
しのうとしてごめんなさい。もうしない。しないから、だからゆるして。かえってきて。もどってきて。そばにいて。
「……しなないで」
静かに、静かに、呟いて。泣き伏す『花婿』の首には、血の滲む包帯が巻かれている。言葉もなく、ジェイドは口元に手を押し当てた。どんな願いでも、命令でも。それを望まれたなら、どんなことでも叶えるだろう。その望みを叶えることこそ『傍付き』の幸福。それでもいとしいひと、あなたに、いきていてほしいとおもう。
『花婿』にはふたりの『傍付き』がいた。彼は損なわれても託せると知っていた。本来ならば誰にもできない筈のことを、『補佐』であれば不可能なことでも、『傍付き』であれば支えて、生きてくれると知っていた。残されたひとりが、懇願してくれると知っていた。
目を閉じて、ジェイドは息を吸い込んだ。ああ、どんなにか満ち足りたことだろう。『傍付き』は、『花婿』の望みを確かに叶えたのだ。
あなたは私。私の幸福、私の命。私の全て。
この存在は、この命は、すべて、あなただけの為のものだった。