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 部屋には次々と反物が運び込まれていく。シュニーが持ち帰ってくる貢物は、金銀財宝という換金性の高い分かりやすいものを除けば、『旅行』に行く先によって様々な特色があった。各国、各都市の名産品を持ち帰ってくるからだろう。それは秘された『旅行』先を推理する縁になり、送り主の人柄を映し出す鏡ともなる。
 検品の立会いに同席していた前当主の少女は、なんとも言えない顔で品々を眺めるジェイドに、くふくふと機嫌よく笑いながら問いかけた。
「どの国のものか、分かる?」
「……分かっていいんですか?」
 行き先を知ることは許されない筈だ。『旅行』中も、帰った後も。呆れながら問い返すジェイドに、少女は不思議そうに首を傾げて囁いた。
「答えは教えてあげられないけれど、考えるのは自由よ」
 要するに、当主たる重責や立場から解放されたので、少女は精神的に暇なのである。実権が移行しきっていないことは、未だ不安定に揺れる『お屋敷』の空気と、少女が検品に同席していることからも明らかであるのだが。当主が決まる前と比べて、少女は実にのびのびと、ゆったりと、毎日を楽しそうに生きている。
 側近の女は運び手たちにてきぱきと指示を飛ばしながら、助けを求めるジェイドの視線に、ふわ、と温かみのある笑みで頷いてみせた。遊んで頂けてよかったですね喜んでお相手しなさい、という意思が無言で投げつけられたのを感じた。『傍付き』とはだいたい、そういう性格の持ち主である。
 失礼になりきらない程度にため息をついて、ジェイドは反物のなだらかな丘を睨み付けた。
「花舞の南のあたりか……星降の西のどこか、ではないんですか。どちらにも、織物が盛んな工業都市があった筈でしょう」
「うん。よくお勉強ができています。頑張ってるね、ジェイドくん」
 うぅん、と背伸びして、少女はジェイドに手を伸ばした。頭を撫でたいらしい。無言でそっと屈んでやると、少女は満足そうに緩んだ笑みでぽすぽすとジェイドに触れ、背が伸びたね、としみじみ頷いた。そういう前当主は、出会った頃から印象の変化さえないままだ。完成しきった、うつくしい少女。
 最近は、ほんのすこし、元気を取り戻したようにも見える。
「……魔術師さんっていうのは、そういう授業もあるの? 気候とか、産業とか、特産とか」
「そうですね、一通りは。……卒業して、どこの国へ迎えられてもいいように、と」
 魔術師の就職先に、自由はない。五ヶ国の王宮魔術師、学園の教員、学び舎の運営に携わる者。大きく分けて、三種類。それが全てである。例外として、魔術師たちの商業特区『なないろ小道』で自営するという道もあるのだが、自らの意思で選べる手段ではないらしい。
 王宮魔術師や、生徒に携わる者として適切ではないと判断が下された者のうち、限られたものに出店が許可される。そうならないように頑張って勉強しようね、というのが、それを教えた教員の言葉だった。卒業が許されるようになるまで、あと一年だっけ、と少女が呟く。
「十五になったら卒業資格が満たされる。あってる?」
「間違ってはいません。成人すれば、卒業資格のひとつが満たされる。……来年の長期休暇の前に、卒業試験が受けられるように授業を組んで頂いているので。落ちなければ、十五で卒業してよし、となります」
「落ちなければ……。試験、どんなことをするの? 座学? 実技?」
 座学もあるし、実技もある。詳細はその時にならないと教えられないものだが、すくなくとも、少女が怯えた瞳でおずおずと問いかけてくるようなものではない。ジェイドは言葉を探しながら苦笑して、少女の前にしゃがみこんだ。そっと声を潜めて、ささやく。
「……『お屋敷』みたいな、えぐい試験は『学園』にはないので。安心してくださいね」
「ほんと……?」
「口に出すことを憚るようなことは、させられませんし、しませんよ。詳しくお話しないのは、魔術師の秘匿だから。それ以上でも、それ以下でもなく。単純に、言ったらいけないことだからで、内緒だから、です。ただの、内緒。ね。心配しないでいいんですよ」
 少女は拗ねたようにくちびるを尖らせ、ジェイドくんったらわたしをこどもあつかいしているわ、と言った。しゃがまれたのがお気に召さなかったらしい。すみません、と苦笑して立ち上がろうとすれば、少女は慌てたようにあっと声をあげ。んん、とちいさく声を零して、そっと、そっと、視線をさ迷わせた。
 未だ忙しく物品が運び込まれる様子を確認し、側近の女の注意がそちらへ向いていることを確かめて。少女はなにか決意めいた頷きで、中腰のまま不思議がるジェイドに、やや胸を張って言い放った。
「し、心配させたら、いけないでしょう……」
「え……と、はい。そうですね……?」
「だから、その。あの、えっと……えっと、あ、あの……あのね」
 もじもじもじもじ、手を何度も組み替えて俯いて。少女は薄く頬を染め、側近の女が振り向かないかどうか、ちらちら、何度も何度も確認した。
「しんぱいさせてごめんなさいの、なでなでを……してもいいのよ……!」
 ほらっ、と『花嫁』に頭を傾けて差し出されて、断れる『傍付き』がいたら名乗り出て欲しい。心底そう思いながら、ジェイドはそっと少女に手を伸ばし、ふんわりとした金の髪を撫でおろした。一度、二度、軽く触れて、撫でて、指先を離す。少女は頬を赤らめ、ふふ、とやや自慢げな顔で頷いた。
「そう、それでいいの。……あ、あっ、でも、あの、シュニーには、あ、あっ、やっぱり、あの、みんな、みんなにはないしょにしてね」
「……はい」
「うん。よろしい」
 ゆったりと頷く少女は、やはりミードによく似ていた。なでなではうわきでしょおおおっ、とすぐに怒るラーヴェの『花嫁』を思い出し、ジェイドは柔らかい背徳感めいた感情を胸の中で押しつぶした。浮気ではない筈、である。前当主の言葉であるのだし。業務命令に近かった、ということで納得して、顔をあげる。
 寝る前にさっぱりする、とねぼけまなこで湯殿へ行ったシュニーは、まだ戻らない。ついて行けばよかったな、と思いかけるものの、湯殿である。どうしてジェイドは一緒におふろにはいってくれないの、と頬を膨らませて拗ねられたが、それは許して欲しかった。
 服を脱がすまでは、一緒に世話役たちもいるのだから、となんとかやりこなせるのだが。その裸身を抱いて湯へ入れというのは、もはや一種の拷問である。ミードに、りょこのかえりはいっしょにおふよっ、と自慢されたのが羨ましかったらしいが、ほんとうに勘弁して欲しい。
 というかラーヴェが逆に心配になってくるので、真偽を含めて今度聞いておこう、とジェイドは決意した。場合によっては慰めてあげた方がいいのかも知れない。お風呂に入るシュニーの姿を想像しかけ、意識を逸らし、考えかけ、を繰り返して顔を赤くして呻くジェイドを、前当主たる少女はしげしげと、物珍しく眺めて言った。
「興味があるなら覗きに……えっと、様子を見るっていう、意味ね? 行っても、いいのよ? ジェイドくんは『傍付き』なんだから」
「ほんっ……と勘弁して頂けませんか……!」
「世話役もそのあたりは分かってるから、ジェイドくんが、その、おいたする前に止めてくれるだろうし……」
 見慣れればもしかしたら平気になるかも知れないし、と無垢な希望でそっと首を傾げる少女に、ジェイドは頭を抱えてしゃがみこんだ。少女は『花嫁』である。だからこそ、そういった点を楽観しているというか、恐らくよく理解しきれていないのだろうが。見慣れて大丈夫なくらいなら、そもそも『傍付き』はあんな実地訓練を課されない。
 行かないんで促さないでくださいお願いしますほんとやめてくださいおねがいします、としゃがみこんだまま呻くジェイドに、えっ、と戸惑った、少年の声が響く。
「ジェイド……? どうしたんだ……? 頭、痛いのか?」
 顔をあげると、見習い当主の少年がとことこと歩いてくる所だった。『お屋敷』の当主になる者は、たどたどしくも、歩くようにもう一度整えられる。その準備は候補の頃から勧められ、正式な指名となると、その日から歩行訓練が開始されるのだという。
 器具の力も借りず、誰の手も取らず歩く少年は、まだ物慣れない雰囲気を漂わせたどたどしいながらも、立派に自分の足で歩いている。立ち上がり、ジェイドは思わず満面の笑みで、すごいですね、と囁いた。
「歩かれてる」
「う、うん。そうなんだ。歩ける……偉いだろ?」
「はい。偉いですね。御当主さま」
 ついうっかり、心から本気で褒めてしまったジェイドに、少年はぱっと明るい顔をして頷いた。褒められた、と幸せそうにはにかむ様に、少女が口元を両手で押さえる。
「リディオったら。……ふふ、絶対に来ると思った!」
「お、俺はそのっ、別に……! ちが……貢ぎ物の分類と、整理の仕方を覚えるのに、見に来た方がいいって。あなたが言ったから、見に来ただけで……!」
「ええ。そうよ。シュニーが帰って来たからジェイドもいるわって。わたしは、ちゃんと教えてあげたもの」
 ああぁあっ、と声にならない悲鳴をあげた少年の傍で、『傍付き』の女性がジェイドに微笑みかける。骨を折ることを祈って呪うくらいなら私は今すぐ物理処置に出る派なんですがどう思いますか、と問いかけられるような笑顔に、ジェイドはさっと視線を逸らして俯いた。どうもこうもないので答えたくない。
 少年はそんな『傍付き』の様子に気が付かず、俯いたジェイドをしきりに気にして、おろおろと視線をさ迷わせ。やがてちいさな声で、でもちょっと顔が見たかったんだ、と呟いた。ジェイドがいるから来た、のを否定したので、気を悪くしたと思ったらしい。その気遣いはとても嬉しいし、可愛いと思うが、なんというか許して欲しかった。
 ありがとうございます、と顔をあげて微笑むジェイドに、少年はこく、と頷いて。照れくさそうにはにかんだ。当主になる者たちは例外なく、比類なき魅力に満ち溢れている。溜息をつくほど可愛い。少年と少女からなるべく意識をそらしながら、ジェイドはシュニーのことを考えた。
 早く戻ってきて欲しい、という切実な意思が叶えられたのは、それから一時間も後のことだった。



 じぇいどはしゅにのっ、しゅにのなんだからあぁあああもおおおだめなんだからあぁあっ、と怒りに怒りきった声が、貢物貯蔵室に響き渡る。ジェイドは意識の片隅で必死に、昨夜読んだ教科書の内容をそらんじながら、抱きつくシュニーの背をぽんぽんと撫でた。
 お風呂上りのシュニーは、ほこほこに温かくて柔らかくて特別いいにおいがする。さらさらに梳かされた髪が、ぐりぐり肩口や頬にこすりつけられてくすぐったい。
「……むり。かわいい、むり……シュニー、ごめん……あの、そろそろ」
「かわいかったらぎゅう! ぎゅうでしょ!」
「あああぁあ」
 爆笑と同情の視線を一身に浴びながら呻き、ジェイドは怒り心頭の『花嫁』をぎゅっと抱きしめた。ひざの上に座る体を引き寄せて、全身をくっつけるようにして、背を撫でる。ぽん、ぽん、と撫でるとシュニーはやや怒りを収めたように、もっとしなきゃだめでしょっ、と拗ねた声でジェイドを叱った。
「ジェイドが、もっとしゅにをぎゅっとして、ぎゅっぎゅとしないからいけないの!」
「そ……え? え、なにが……?」
「じぇいどがひかえめでしゅにをあんまりみせびらかさないから、たぶらかせばいけるとおもわれれるの!」
 怒りのあまり、シュニーの呂律が回っていない。視界の端で、前当主の少女が口元を手で押さえて笑いながら、見習い当主の少年はやや気まずそうに、視線を外すのが見えた。前当主側近の女は控えめな微笑で、少年の傍に立つ『傍付き』の女は麗しい微笑みで、それぞれに頷いてみせた。
 すみません私の『花嫁』『花婿』が可愛いばかりに、という頷きだった。味方ではない。だめなんだからっ、じぇいどはしゅにのなんだからだめなんだからぁっ、とふたりを怒るシュニーに、ジェイドは困った気持ちで息を吐く。
「俺が好きなのはシュニーだよ。たぶらかされたりしないし、当主さまたちだって、そんな風な気持ちではないと思うよ。決め付けたらだめだよ」
「……ふふ? しゅにがすき? ほんと?」
 ころっ、と機嫌をよくしてはにかむジェイドの『花嫁』は、ちょっと可愛いにも程がある。好きだよ、ほんと、と心から告げながら、ジェイドはシュニーの背をやんわりと撫でていく。とろとろと眠そうな目をして、シュニーはジェイドの肩に頬を擦り付けた。
 元より、眠る為に湯殿へ行った帰りなのだ。怒って興奮したせいで、もう体力がなくなってしまったのだろう。かわいい、と吐息混じりに囁いて、ジェイドはシュニーの背をぽんぽんと撫でる。愛しい体温が、重みが、腕の中にあることがしあわせだと思う。
「好きだよ、シュニー。かわいいかわいいシュニー。……眠いな。眠ろうな」
「……ん。しゅにも、ジェイド……あっ、わたし、わたしも、ジェイド、すき」
「うん。おやすみ、シュニー」
 ふぁ、と耳元でちいさくあくびをして。シュニーはジェイドにぺっとりくっついたまま、とろとろとそのまま目を閉じてしまった。ほどなく、安らいだ寝息が響いてくる。ぽん、ぽん、と背を撫でて、ジェイドは満ちた息を吐きだした。シュニーの体があまりにやわらかくて気持ちいいことからは、無の気持ちで意識を逸らす。
 ああぁでもかわいい、と誘惑に負けてぎゅっと抱きしめた所で、前当主の少女がとことこと歩み寄って来る。少女はジェイドの顔を覗き込むようにして悪戯っぽく笑い、怒られちゃったね、と言った。
「ごめんね、ジェイドくん。まさか、リディオをなでなでしてる時に、シュニーが戻ってくるだなんて」
 その一時間前にはジェイドに強請って頭を撫でてもらった事実を棚上げして、少女は口に手をあてて、うふふ、と笑った。
「た……たぶらかして、ないから……」
 おずおずと少女の背から顔を出して、見習い当主たる少年が困った顔で呟く。ごめんな、と申し訳なさそうな視線がシュニーにも向けられていたから、ジェイドはいいえ、と少年に対して微笑んだ。
「どうぞ、お気になさらず。……眠たくて機嫌が悪かったのも、あるようですから」
「……うん」
 帰って来たばかりだもんな、とシュニーを気遣うように少年は言った。悪戯っぽい笑顔で、ほんとにそうかしら、と呟いている前当主と比べると、少年の方がまだ思いやりの心が分かりやすい。あなたはすぐそうやって、と息を吐く少年をじっと見つめて、少女は口に手をあて、くすくすと肩を震わせて笑っていた。
 少女の意識はシュニーではなく、少年にだけ向けられている。こもりきりの少年が部屋から出てくる理由を作り、表情を動かして会話をする相手を招き、感情の揺れるさまに安堵と喜びを感じ、言葉が行き来するのを注意深く見つめている。ゆるり、ゆるり、息を吹き返すさまを。祈るように、すがるように、見つめている。
 零れていくものを、堪え、押さえつけるようにくちびるに触れさせていた、白く細い指を離して。少女は、ジェイドに気が付かれていることを分かった微笑みで、あどけなく首を傾げてみせた。
「ところで。ジェイドくんは、シュニーを抱っこして運べるようになったの?」
「……『お屋敷』の中くらいなら。ここから、寝室へ行くくらいなら、どうかご心配なさらず」
「大きくなったねえ、ジェイドくん!」
 ふふ、と笑って少女はふわりとあくびをした。シュニーの眠たいのがうつっちゃった、と呟き、少女はくるりと室内を見回す。全て運び終えたのだろう。運び手たちの姿はなく、夥しい数の反物がうつくしい色彩の波を描いていた。きれいな服ができるね、と幸せそうに呟き、それでいて悩むように、少女はうぅんと首を傾げる。
「でもお花はひとつ、かな。残りは……十だけど……ジェイドくんの卒業の方が、早いかも知れないね」
「構いません。待てます。……待ちますから、シュニーに無理はさせないでください。本人がそれを望んだとしても」
「……花?」
 不安げに呟いたのは少年だった。深緑の瞳には、怯えに近いものすら浮かんでいる。はっとして、少女が息を飲んだ。花、という言葉に少年がなにを連想したのか、すぐ理解したようだった。悪戯な色彩が消え去り、当主としての冷静なひかりが少女の目に宿る。
 なにを肯定し、なにを否定することもなく。少女はゆっくりと、あのね、と少年に語り掛けた。
「『お屋敷』にすこし、お金がないのは聞いているでしょう? ……シュニーが嫁がないことも」
 ぱた、と窓が閉じられる。続いて扉も。少女の声は潜められていて『花嫁』らしく強く響かないものだったが、それは誰が知って良いことではない。頷いた少年に、少女はゆっくりと語り聞かせた。『お屋敷』が王と交わした約束のこと。シュニーが稼いでこなければいけない代価のこと。
 言葉は選ばれていた。それでいて、ひどく冷たかった。少女は冷静な瞳で告げるべきことを語り切り、花というのは、と歌うように囁く。
「その対価を分かりやすく……というより、残りが、あとどれくらいなのか分かるように。表を作ってあるの。布に花の刺繍を入れてもらう形で。あとで、見せてあげる。……どのみち、今の財政状況を、あなたは詳しく知って行かなければならないのだし」
「分かった……。悪いのか?」
「悪くはないわ。シュニーが頑張ってくれたから、良くはない、くらい。……でも、これ以上、枯れてしまうことはない。あなたが……」
 知っていて。どれほどのことが起きたのか、そこにどんな想いが失われて行ったのか、知っていて。それでも。少女は流れた涙を、血の雫を、拭うように。伸ばした指で、少年の頬を慈しむように撫でた。
「あなたがいきてくれて、よかった」
 最後、だったのだという。当主の候補として育てられた『花婿』が。他に候補として挙がっていた『花嫁』『花婿』は、耐えきれずに皆枯れてしまったのだという。嫁げる者の数は必然的に減り、だからこそ、少女がお金がない、と口にするまでに至ってしまった。
 でも、と少女は肩の荷を下ろした声で囁く。
「もうそろそろ、心配しなくてもいいの。次の世代も育ってきているし……ミードも『旅行』で、ずいぶん持って帰ってきてくれているから……。シュニーのと合わせて、ミードが……嫁げば、きっともう、大丈夫」
 別れの悲しみから視線を逸らして。その先の幸福の末を、遠くに眺める表情で。少女はジェイドを見つめ、ふふ、としあわせそうに笑った。
「さ、ジェイドくんはシュニーを寝かせに行って? ここはもう、いいわ」
 扉が開かれる。それを合図に、ジェイドは立ち上がった。腕いっぱいに『花嫁』を抱くジェイドのことを、女たちが眩しげに見つめている。当主の傍にある者は『傍付き』ではない。そうとは呼ばれない。呼称はただ変化して、側近として取り扱われる。
 ジェイドは少女の傍に、その影のように控える女がその腕に『花嫁』であった存在を、幸福の全てを抱く所を、一度も見たことがなかった。少女がそれを強請る所も。いつも、すこしだけ距離がある。見習い当主の少年も同じで、ただ、それでも、目の届かない場所へ失ってしまわないよう、視線だけが姿を追っている。
 いとしくて、くるしくて、さびしい。少年の瞳にも、少女の微笑みの中にも、同じ感情が漂っていた。罪悪感が胸で渦を巻く。ジェイドがシュニーにそんな目をさせてしまう日は、来ない。決して来ないのだ。少女はシュニーを許し、少年が『お屋敷』を継いだのだから。
 おやすみ、と少年が言った。またね、と少女が手を振って見送る。歩き出すジェイドの背に、ふたりの声が響いて届く。当主たちはもう少し、この部屋へ留まるようだった。それじゃあ、貰ったものをどうやって使うのか説明するね、と少年へ囁く前当主の声は、ただ穏やかだった。



 地平線から光が零れる。流星のように、地から天へとさかさまに駆け上っていく。夜の漆黒が、幾重にも色を重ねたものだと教えるように。淡く、淡く、夜が明けていく。薄く開いた窓の隙間。寝台の上から未だ星の輝く紫紺の空を見つめ、ジェイドはふぁ、とあくびをした。傍らでは、シュニーがくぴくぴ幸せそうに眠っている。
 朝日が昇る少し前から身を起こしていたジェイドは、しかし今日というこの日に限って、『傍付き』の中では遅起きの方だ。室内からはくすくすと好意的な笑い声が響き、世話役たちがおはようございます、と声をかけてくる。新しい年の始まりに。そして、十四となったことにも。おめでとうございます、と声をかけられる。
 ねぼけまなこでうん、と頷き、ジェイドはシュニーを起こさないよう、ゆっくり大きく伸びをした。数ある『お屋敷』行事の中でも、最も憂鬱なもののひとつが、この『新年の挨拶まわり』である。あれこれ作法はあるし決められた文言はあるし、行く先々で嫌味は言われるし、良い思い出がひとつもない。
 あぁああ嫌だなぁ、という顔を隠そうともせずに寝台から降り、ジェイドはシュニーに毛布をかけなおした。ジェイドのぬくもりを残す布にすりより、ぎゅっと抱きしめて、ふにゃりと笑うシュニーに口元を手で押さえてふるふるしたのち、ジェイドは再び、ああ嫌だなぁ、という顔になって立ち上がった。
 この一年で、知らなかったことに触れる機会が増えた為、『傍付き』や『運営』の一部が、どうしてもジェイドを受け入れがたい、と思っているのは理解できた。納得も、したくはないが、できないこともない。ジェイドは『傍付き』として異質であるのだし、あいらしい輝石たちの関心を、ちょっとばかり惹きすぎる。
 だからと言って忌避されることにも、否定されることにも、慣れたくはないし受け入れたくはないのだが。
「……あー……あぁあー……帰ったらシュニーに慰めてもらおう……」
 苦笑いをした世話役が、言い返していいんですよ、とジェイドに言った。怪我をさせない程度なら反撃してもいいし、なんなら弱みを握って脅してもいい、というかした方がいいと口々に告げられて、ジェイドは力なく項垂れた。ジェイドだって理由もなく大人しくしている訳ではないのだ。
 あまりに幼い頃は怯え、戸惑うばかりで反撃など考えたこともなかったが、今はどうすればいいのかくらいは理解できる。毅然と顔をあげて言い返せばいい。言葉ではない反撃も、時には脅しも有効だろう。ジェイドだって、それができるのならば、ぜひやりたい。ぜひともやりたいのだが。
 ジェイドは『傍付き』でありながらも、未だ『学園』に在籍する『魔術師』である。卒業の許可を得るまではいくつかの段階が残されており、未熟、という文字が取れてはいない。つまり、安全の為に、いかなる反撃も基本的には許されていないのだ。生命の危機を例外とする、とされているだけで。
 室内のどこも見ていないよどんだ目でとつとつと無理であることの説明をしたジェイドに、世話役たちは心から同情した表情で、内緒にしておくから言い返したっていいんですよ、と言ってくれた。すこし真面目すぎますよ、とも。それくらいの言いつけ、破ったって怒られませんよ、と心配されて、ジェイドはこくりと頷いた。
 心配のしすぎ、というか。真面目過ぎる気は、自分でだってしているのだが。それでも。
「俺が、普通の『傍付き』みたいに、傍にいてあげられないのは本当だから」
「ジェイドくんったら真面目さんよねぇ……」
「真面目なのは、でも、いいことだと思う」
 聞こえてくる筈のない声がふたつも響いたので、ジェイドは深く息を吐きだしつつ、中途半端に着替えかけていた上着のボタンを素早く留めた。意味が分からない、と思いながら戸口に目をやると、そこから二人の頭がぴょこ、ぴょこ、とこちらを覗き込んでいるのが見える。
 あっ見つかっちゃったわっ、えっとあのそのおはよう、と口々に告げられるのに、ジェイドは額に手を押し当てて深く、息を吐き。挨拶ができるのは偉いですね、と見習い当主の少年を褒め、前当主の少女を遠回しに叱りつけた。
「というか……朝が随分早いように思いますが、おふたりはそこで、なにを……?」
 むしろ、ふたりの側近はなにを考えて自由にさせているのか。見ればいつのまにか室内に侵入していた女たちが、どうぞお気になさらず、とばかり微笑みかけてきた。新年の一番にあいらしい方々を見る栄誉に預かったのだから喜びますよね、という意思を投げつけられたのを感じて、目を逸らす。
 ジェイドが若干、ほんのすこし、気のせいかも知れないのだが、年上の女性が苦手なのは、絶対に『お屋敷』の女性陣が全員わりとこんな性格だからである。シュニーに関しては、ジェイドより二つ年上である事実を意識から抹消しているので、なんの問題にもなりえなかった。
 少年少女はそっくりな仕草でぱちくり瞬きをしたのち、左右対称にこてっと首を傾げ、それぞれに口を開いてジェイドに言った。
「お仕事の引継ぎ、というものよ、ジェイドくん。新年の挨拶にも作法があるの。『傍付き』にもあるけど、当主にもあるの。だからね、教えてあげているのよ」
「うん。今日は、一日、教わる日なんだ。勉強してるから」
「はい。……はい、いいえ……俺が聞いたのは、そういうことではなく……なんで部屋の入口で、覗き込んでるのかっていう、そういう……。え? 御当主さまの新年の仕事には、『傍付き』の着替えを覗くとかそういう項目が存在していらっしゃる……? まさかですよね……?」
 そういう意味の分からない決まり事のひとつやふたつ、あっても今更驚きはしないが。生気のない目で問いかけたジェイドを、不思議なものを見る眼差しでじーっと見つめ、前当主の少女はふるふると首を横に振った。
「安心してね。そういうのじゃ、ないの。ただ、珍しかったっていうか……こんな時間なのに、わたしたちは、とっても、ほんとに、たくさん、がんばって起こしてもら……起きたのに。『傍付き』も、世話役たちも、みーんな起きているでしょう?」
「『傍付き』の着替え、見たの、はじめてだ。楽しい」
「そう、そう。そうなの。それに、ジェイドくんったら、わたしたちが覗き込んでも、ちっとも気が付かないんだもの! だからね、そのまま、じっと見ていれば着替えるかなって」
 ちょっぴりではないたっぷりの好奇心と胸のときめきを満たす為、ふたりしてぴょこぴょこ覗き込んでいたらしい。そうなんですか、そうですか、と頷いて、ジェイドは微笑んだまま頭を抱え、その場に無言でうずくまった。覗かれたことに衝撃を受ければいいのか、『花嫁』『花婿』の気配に気が付かなかったことに落ち込むべきなのか。
 どちらにせよ、『傍付き』としては、あってはならない大失態である。あなたたちもどうして声をかけてくれないんですか、と絞り出した声で恨めし気に告げれば、側近たちは見かけだけは落ち着き、また可憐な少女のように笑って、しーってしててね、と頼まれたもので、と声を揃えた。
 望まれたのなら、だいたいどんなことでも叶えるのが『傍付き』である。
「うふふ。あ、お着替えね。見ちゃったことは、シュニーには内緒にしておくからね。また怒られちゃう」
「シュニーにも見せてくれなきゃだめなんだからぁっ、て言いそうだもんな……。ジェイド、言われたら、シュニーの前で着替えなきゃいけなくなるし。うん、内緒。内緒にする」
「……ご配慮頂きましてありがとうございます」
 新年から胃が痛い。少年が口真似をしたその通りの言葉で、恐らくシュニーは盛大にごねるだろう。なにが楽しくて、シュニーに見つめられながら服の脱着をしなければいけないのか。シュニーの服の脱ぎ着はもちろん、『傍付き』たるジェイドの仕事であるから、心を無にしてこなすことはできるのだが。逆はない。
 秘密ができちゃったねぇ、内緒だからな、とこそこそ顔を寄せ合ってはしゃぐ前当主と、見習い当主の仲がいいのは、良いことである。内容はともかく。内容は、ほんとうに、ともかくとして。
「それでは……俺は挨拶に出ますので」
「うん。どこから行くの?」
「あの、ちょっとだけ、ちょっとでいいから、ゆっくり歩いてくれると嬉しい……」
 一礼をして通り過ぎようとすると、はし、はしっ、と服の裾を掴まれる。一瞬でジェイドは悟った。ついてくるつもりである。女たちが不機嫌を隠しつつも、面白くなさそうな顔をしていた理由に全力で納得しつつ、ジェイドは握り込まれた服を引っ張ってみた。抜きとれなかった。
「……あの。業務の、引継ぎの、最中なのでは……?」
「最中なのよ。あのね、必要なことなの。わたしは、まだ来年もいるつもりだけど……でも、わたしが、もし……なにかあっても、次の当主もジェイドくんの味方よって示しておかなければ」
「シュニーのことも、ジェイドの、ことも。俺がちゃんと、守るから」
 後ろ盾を見せつける機会として、これ以上の場はない、と少女は踏んだのだという。その判断は決して間違ってはいないのだが。引き連れていく、というのは、どうなのか。言葉を探して呻くジェイドに、少女は悪戯っぽい表情で背伸びをした。耳元で囁く。それにね、ジェイドくん。
「いじめられないと思わない? わたしたちが一緒にいるのよ」
「よろしくお願いいたします、おふたりとも」
「うん。任せてほしい」
 こくん、と力強く頷いた少年は、ジェイドの服をきゅっと握って歩き出す。とてとて、ひなを連れ歩く母鳥になった気分で廊下を歩きだしながら、ジェイドはそっとふたりの様子を伺った。少年も少女も、それぞれ真剣な顔をして歩きながら、時折、ちらっ、ちらっと背後に視線を向けては、むくれた顔でくちびるを尖らせている。
 ちょっとは嫉妬してくれたっていいのに、手を繋ごうとしてくれたらすぐにだって繋いであげるのに、とそれぞれの顔にかかれている。ふ、と笑って、ジェイドは歩く速度を、普段よりずっと穏やかにした。求める言葉は奪われる。壊され消され失わされる。『傍付き』である以上は、徹底的に。
 そのことを。当主として立つ者は、知識として、文章としては知りながら、かつて『花嫁』『花婿』であったが故に、受け止め理解しきれないのだと、知る。して欲しいことがあったら、求めていいんですよ、とジェイドは言った。求められることだけが、『傍付き』の意思を、欲を開放する鍵で、手段だ。たったひとつの。
 少年少女はそれを知り、けれども正しく理解しきらないまま。ぷ、ぷっ、と頬を膨らませて、分かってる、と言った。

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