『お屋敷』に迎えられるまでのことを、どれくらい覚えているか。問いかけたジェイドに、ハドゥルは分かりやすく不審げな顔をした。どうしてそんなことを聞かれなければいけないのか分からず、また、どうしてそんな会話をしなければいけないのか、と思っている顔だった。ハドゥルは分かりやすく、ジェイドのことが嫌いである。
そもそも最初から仲が悪い相手なのだ、ハドゥルという、ジェイドよりいくらか年下の『傍付き』は。因縁はジェイドがシュニーの『傍付き』として選ばれたことから始まっていて、顔を合わせた瞬間にもう睨みつけてきたのが出会いである。態度にも言葉にも出して直にかみついてくる分、ジェイドは結構ハドゥルを気に入っているのだが。
「……いやお前そんな顔しても可愛いだけだから」
「女顔って! 言うな! 言うなよっ! う……ちくしょうお前のせいだ……」
立ち上がって叫んだことで、控室の視線という視線がハドゥルへ集中した。『花嫁』の前では決して出さない声の大きさと言葉に、『傍付き』やその補佐たちからはほのぼのとした、未熟な者の成長を願う温かなまなざしが向けられているのだが、それもまた、少年の心をジェイドへの怒りに掻き立てるらしい。
ぎりぎりと歯を噛むような音すら聞こえてきそうな顔を向けられて、ジェイドはふ、と笑ってハドゥルの神経を逆撫でた。
「『じつはハドゥルは女の子なの?』って、最近は誰にも聞かれないだろ? よかったな」
「ああぁあああああおまえほんとおまえほんっ……」
頭を抱えてじたばたもがき、全部お前の教育が悪かったせいなんだからな、と涙ぐんだ声を出す少年に手を伸ばし、ジェイドはにこにこ笑って頭を撫でてやった。今でこそ少年らしさが際立ちなりを潜めているが、幼い頃のハドゥルと言えば、まさしく紅顔の美少年だった。くりくりとした目と、長めの髪、甘く幼い顔立ちの。
そのせいで、シュニーが一度、ほんとうに不思議そうに首を傾げながら問うた言葉が件の台詞である。不幸なことに、『花嫁』たちが集まるお茶会の席でのことだった。当然そこには『傍付き』と、候補生たちもいた。耐えきれず真っ先に笑ったのはジェイドであり。ハドゥルが今も、それを恨めしく思っていることを、知っている。
そうやって突いていじめ返すだけ成長したよね、ほどほどに、と窘めるのはラーヴェだが、男も当然その席にいた一人だ。そして、ジェイドとは一秒差で爆笑したのもラーヴェであり、面白がって方々に広めて行ったのはラーヴェであり、口止めなんていう優しい処置をしなかったのもラーヴェである。ジェイドは止めた。
つまるところ、多数の『花嫁』『花婿』からきらきらした目で質問を繰り返される羽目になった元凶はラーヴェであるのだが、その事件を経てもハドゥルのやや盲目的な男への敬愛が薄れるようなことはなく。一方的に絡まれるのはジェイドだけなのである。
嫌われてはいるが、排斥しようとはしていないし、憎まれもしていない。なぜなら話があるといえば、嫌な顔をして気乗りしない溜息をつきながらも、こうして付き合ってくれるからである。質問に対しての返事が、きちんと帰ってくるかは別にして。
数日前に得たばかりの『花嫁』を補佐に託して、すこしだけだからな、と言いながらも、時間を作る。それは『傍付き』としては、相手への最大限の親愛と譲歩をも意味している。ただ単に、弟分として彼を教育し世話をしたラーヴェのおかげで、あるいは、そのせいで、頼みごとを断れない風に育ってしまったのかも知れないが。
そういえば正式な『傍付き』就任、本当におめでとう、と心から祝えば、ハドゥルはぷるぷるしながら顔をあげ、嫌さを隠そうともしない顔で、けれどもハッキリと響く声で、ありがとう、と言った。口元を手で押さえても堪えきれず、ついジェイドは笑ってしまう。この礼儀正しさを捨てきれない所が、ハドゥルの可愛く突きがいのある所だ。
そのへんにしてあげなさい、と周囲から向けられる視線に苦笑して、ジェイドは今にも帰りたそうに落ち着かないでいるハドゥルに、向けた問いをもう一度繰り返した。
「『お屋敷』に迎えられるまでのことを、どれくらい覚えてる?」
「……なんでそんなこと」
「仕事。魔術師の方の」
正確に言うなら、ジェイドの個人的な事情、かつ保身の絡む所ではあるのだが。ハドゥルは魔術師の、と言葉を繰り返して呟き、眉を寄せて黙り込んでしまった。言いたくない、と断るか、それとも素直に告げるべきかを迷っているのだろう。ハドゥルとの会話はいつもこの空白を挟んでいたから、ジェイドはのんびりと待つことにした。
あの、寵妃と会った次の日のこと。ジェイドは王に呼び出され、ハレムに不審者が侵入したことを告げられたが、意外にも言葉はそれだけだった。ジェイドが疑われることはなく、心当たりがないかと探りを入れられることもなく。日々の業務にひとつ付け加えるだけの響きで警備の見直しと徹底を命じられ、それだけで解放された。
つまり、女は王にそれを告げることはなく。恐らくは女に抱き込まれている警備の者も、王の追及を上手く誤魔化し。そして、他に目撃者などもいなかった、ということだ。完璧な隠蔽である。つまりは犯罪である。露見したら言い訳しかできないし、罪が深まった気しかせず、ジェイドはひとり、部屋の隅で痛みを訴える腹をさすった。
ジェイドに女難を告げたシークは、事態を理解しているのかしていないのか、胃薬を差し出しながらこう告げた。女難、まだ終わってないと思うから気をつけてね。コイツ言葉魔術師じゃなくて占星術師だったっけ、という疑いの目を向けながら、今度こそジェイドはそれに頷いた。それから一週間。再びの拉致には、至っていない。
しかし、明日か、明後日か、というような予感があった。一度接触して確信を持った以上、女が諦めるとは思えなかったからだ。寵妃はジェイドに、探して、とも、合わせて、とも言わなかったが、ただ話を聞きたがった。どんなにか細い情報でも、その手に握って縋りたい、とそう告げるように。
再度のお召しがある前に、だからジェイドはすこしでも、渡す情報を持っていなければいけないのだ。瞳の色は同一。告げられた名前も同じもの。けれども、数奇な偶然の一致、というのも世にはあるのである。間違いだったとなった時、あの狂った記憶を蘇られた寵妃が、いかなる状態に陥るのかは、考えたくなかった。
また、日々苛立ちを募らせるジェイドの王が、どうなってしまうのかを。王が求めているのは、恩義故の感謝や親愛ではない。今更それを告げられたとしても、受け取れるものではないだろう。女の記憶が戻るまでの十数年も、ジェイドは知っている。仲睦まじいふたりだった。失われてしまったのだとしても。
虚構の上に築きあげられたものだとしても、それもまた、真実ではあったのだ。
「……あんまり覚えてない」
話してくれることに、決めたらしい。ハドゥルが記憶を探りながらそう呟くのに、ジェイドは茶化すことなく頷いた。五年に一度、外から招かれる者は五歳までと決まっている。それ以上は教育の関係上難しく、迎え入れたとしても特例となり、中枢に携わる職へはつけないのが決まり事だ。ジェイドは一級の例外である。
女の話から考えても、ハドゥルは四つか、五つで『お屋敷』が迎えたこととなる。それくらいの記憶を、十数年後まで保持している者は稀だろう。期待はしていなかった。ただ、すこしでもいい。情報が欲しかった。一致して欲しいのか、それとも否定する材料が欲しいのかは分からず、なんでもいいんだ、とジェイドは言った。
「誰かと、どんなことを話してた、とか。なに食べておいしかったか、とか。住んでた場所とか、一緒にいた人のこととか」
「……なんの仕事だって?」
「魔術師の。探し人、だよ。どんなことでも、どんな……些細な手がかりでも、欲しい」
探されてるのはお前で、探してるのはお前の母親でいまこの国唯一の寵妃なんだけど問題が山積みすぎてとりいそぎ胃が痛い、と胸の中で言葉を響かせて。ジェイドはうろんな目で見てくるハドゥルに、探し人の仕事だよ、とそれだけを繰り返した。
魔術師は相変わらず、理解のできないことばかりをする、とため息をついて。ハドゥルは眉間の皺を深くしながら、首を傾げて口を開いた。
「……清潔で、安全な場所にいたと思う。優しい人ばかりだった。皆、優しかったけど、そこで育つことはできないって俺も知ってた、気がする。たまにその……家? 大きな家。そこに来る誰かが『お屋敷』の関係者で……開放日に合わせて、連れて来てくれた。そんな感じだったと思う」
「ありがとう。……うん、そっか」
優しい人たち、のことを。鮮明に覚えていないことが、幸福なのかは分からなかった。ハドゥルは正式な『傍付き』となった。つまり、数年すれば、彼はそこへ行かなければならない。教育の場所。『水鏡の館』へ。ジェイドは息を苦しくしながら、そこへ今行ったとしたら分かる、と問いかけた。
ハドゥルはしばらく悩み、記憶を探り。かなしそうに、首を横に振った。
「無理だと思う。……俺がここへ引き取られるより前、いつからか、あんまり部屋から出ないようにって言われてた。その部屋に行けば、まあ、もしかしたら……」
その不手際を。『お屋敷』は決して、すまい。そっか、と頷くジェイドに、ハドゥルはぽつんと言葉を落とす。
「約束。していた、気がする。誰かと……たぶん、母親と」
「……なんの?」
「迎えに来るから。待っていて、って。……待っていなかったから、約束、破ったことになるかな」
ジェイドはなにも言わず、手を伸ばしてハドゥルの髪をくしゃくしゃに撫でた。なんだよ、と本当に嫌な顔をされるのに思わず笑って、もういいよ、と告げる。
「ありがとう。役に立った」
「……仕事の?」
「仕事の」
ふうん、と呟き、まだ疑わしげな目をしながらハドゥルが立ち上がる。『花嫁』のもとへ戻るのだろう。引き留めず見送るジェイドに、ハドゥルはその言葉を告げるかもさんざん迷った様子で、控室の入り口で立ち止まり。意を決したように振り返り、お前さ、とぶっきらぼうな声でジェイドに言った。
「あんまり危ないこと、するなよな。またシュニーさまが泣くだろ」
「……うん。俺もね、肝に銘じてはいるんだよ……」
どうなんだか、とまったく信頼していない目で鼻を鳴らし、ハドゥルは今度は振り返らず、足早に去っていく。その背が見えなくなるまで見送って、ジェイドは重たい気持ちで息を吐く。恐らく、間違えようもなく。ハドゥルこそ、寵妃の息子、そのひとである。
明日か、明後日か。ぽつりと呟き、ジェイドは椅子から立ち上がった。女難がいつまで続くのか、ということについては。シークは教えてくれなかった。
寵妃に拉致される所か、今日は王の姿すら見なかった。なんでもハレムに篭って出てこないらしい。やや国の将来が心配になってくる事態だが、魔術師の数人が呼ばれて出入りもしていたので、職務を放棄した訳ではないようだった。陛下大丈夫かなぁ、と不安げに零す同僚に、ジェイドは希望は持とうと慰めにもならない言葉をかけ、城を後にする。
ハレムに、というより。王が訪れたきり戻ってこないでいるのは、寵妃の部屋だろう。近頃は大きな声が響いたり、激しい物音がすることもあると聞く。ジェイドの知る限り、王は上機嫌と不機嫌を行ったり来たりと忙しく、日替わりとするように気分が一定していなかった。
かといって臣下や、『物』たる魔術師たちに怒鳴ったり、手をあげたりするようなことはしなかった。王が声を荒げる、というのをジェイドは見たことがなかったし、魔術師たちの誰に聞いてもそうだろう。穏やかな、落ち着いた王なのだ。気分が荒れていても、八つ当たりに外へ出すことをしない、己を律しきった王。
寵妃と言い争うような声が、という噂が流れても、悪質だと誰もが眉を寄せた。それでいて否定しきれなかったのは、王の目がじわじわと荒んでいくのが、最近特に顕著であるからだった。いっそ自首したいとジェイドは思ったが、そうしたとて解決には結びつかないことも知っていた。
寵妃の想いがどこにあるのか。ただそれだけが王を宥める唯一の導だった。そしてそれは、以後見込めないこともジェイドは知っている。女が過去を語る中、感情がはきと現れていたのは、夫と息子のことだけだった。そして今、その熱は息子のことだけに向けられている。
精神を安定させる医者を呼ぶか、こっそり魔術をかけるかで同僚たちの意見は分かれていた。なににせよ、王にはもうすこし心穏やかでいて貰わなくては、魔術師たちの健康にも差し障る。具体的には酷使されすぎて休暇という概念が消し飛び、休みってどういう意味だっけ、と悩みだす者が、また出てくる前に。
なにを、どうするのが正解なのだろう。ジェイドは『お屋敷』へ続く門の前で立ち止まって、晴れた空と流れていく雲をぼんやりと見上げた。なにせ『魔術師』としての己を連れて行けるのは、ここまでである。湯殿まで延長はできるが、課題はできるだけ、門をくぐる前に終わらせていきたい。門番の同情的な視線にはもう慣れた。
ハドゥルに母が生きていることを告げるのは、正解だと思えない。幼子は今や青年に近い年頃となり、立派な『傍付き』のひとりともなっている。己の『花嫁』を得た『傍付き』が、そう長く傍を離れることは叶わない。ハドゥルが、母に会いたいと、そう告げることも想像しにくかった。もっと欲する存在が、ハドゥルにはすでにいる。
王に。寵妃の想いを告げるのはどうだろうか。記憶が戻っていることを、王は知っているのだろうか。知らないでいるとは思えなかったが、詳しい話し合いの場が持たれたとも思い難かった。息子がいることも知らないだろう。夫がいたことは、罪人であったことは。どこまで女の口から語られたのか。知るまでは危うい気がした。
女に、ハドゥルのことを知らせよう、とは思っていた。無事に『お屋敷』に保護されていたこと。今は『花嫁』を持つ『傍付き』であること。元気でいること、健康であること、幸福であること。日々忙しくも満ち足りて過ごしていること。なにを話せば落ち着いてくれるのかは、分からなかった。母、という存在は、ジェイドにも遠い。
思えば実家というものには、『学園』に入学しても便りのひとつも送ることなく、長期休暇にも帰ったことがない。生きていることは『お屋敷』経由で伝わっているだろうが、そういえば、結婚して妻を得たことを知らせた記憶さえなかった。思わず、視線を天から地に伏せる。
親不孝といえば親不孝な生き方をしてきた自覚はあるのだが、それにしてもあんまりに興味関心がないことが、今更ながらやや申し訳ない。他人の家庭事情に首を突っ込む前に、もっと突っ込んでいかなければいけない実家が、そういえばジェイドにはまだあったのだ。家が絶えたとも聞いていないので。あるにはあるはずである。
うーん産まれたら孫ができたよって手紙でも書こうかな、とひとり納得し、ジェイドはため息をついて見張りに開門をお願いした。ハドゥルにも女にも王にも、言わなければいけないことと、言ってはいけないような気がすることと、言ってあげたいことがあって、けれどもそれが正しいのかどうかが分からない。
正しいことだけをしたい訳ではない。間違ってしまえば取り返しがつかないことだけが分かる。だから、正しいことを選んでいきたい。それが崩壊の先送りにしかならないとしても。ジェイドさま、と声をかけられて、門が開ききったことを知る。うん、と頷いて、ジェイドは足を踏み出した。意識の一部を、ゆっくりと眠らせる。
おかえりなさい、と『お屋敷』の入り口でジェイドを出迎えたのは世話役たちだった。湯をお使いになられますか、という問いに、無言で頷く。着替えも、と求めれば心得た動きで、一人が先に駆けて行った。世話役たちの、その仕事の範囲内に、どうも戻って来たジェイドの身支度が含まれてしまったようで、妙に落ち着かない気分になる。
助かるは助かるのだが。脱衣所で服に手をかけながら、別にそんな世話をしてくれなくても、と訴えたジェイドに、世話役たちは口を揃えて寝ぼけなくなってから言ってください、と言った。自己暗示は今の所成功しているが、ジェイドは魔力がある分かかりもいいらしく、意識を眠らせると本当に寝ぼけてしまうのだった。
先日、急いだ伝令を避けようとして窓から落ちかけたのを聞いた当主が、世話役たちに目が覚めるまでと重々言い聞かせた結果であるという。言い訳の仕様がない失態だったのでそれ以上は強く言えず、ジェイドは粛々と湯で体を清めることにした。
温かく、さっぱりとすると、目も覚めるものである。戻った脱衣所に世話役たちの姿はなく、着替えの上に水筒だけがぽんと置き去りにされていた。てきぱきと身支度を整えて、ジェイドが向かったのは居室ではなくミードの区画だった。廊下には甘やかな『花嫁』たちのはしゃぎ声が、ふわふわと零れて漂っている。
戸口から顔を覗かせて、ジェイドは妻の名を呼んだ。
「シュニー。ただいま」
「ジェイド! おかえりなさい」
「うん。ミードさま、ラーヴェ、ただいま戻りました」
赤子を腕に抱いてあやしながら、機嫌の良い笑みでミードは柔らかく頷いた。入室していいよ、と『花嫁』の代わりにラーヴェが許可を出す。ありがとう、と告げて、ジェイドはようやく室内へ足を踏み入れた。区画の入室には、必ず『花嫁』の許可がいる。
ほんとうなら声をかけるのもミードが先でなければ失礼なのだが、分かっていてもシュニーがぶんむくれるので、暗黙の了解としてそれは許されていた。足早にシュニーの元へ歩み寄り、ジェイドは妻の顔を覗き込んで問うた。
「今日はなにをしていたの? 気分は? なにか食べられた?」
順調に妊娠から出産までをやりとげたミードと違い、シュニーはやや悪阻が重く、体調を崩しがちな日々が続いている。『傍付き』が傍を長く離れていられる状態ではないのだが、ラーヴェが妻と赤子と合わせて三人分の様子を見ることで、現状はなんとか落ち着いているのだった。
ありがとうな、と申し訳なく落ち込むジェイドに、ラーヴェは妖精のことの恩返しだと思って、と慰めた。ミードの回復が早かったのも、妖精の祝福あってのことである。きらきらとした祈りの守護は細く長く続き、いまも『花嫁』の周りをふうわりと漂っている。ヴェールのように、ミードに寄り添い揺れている。
気まぐれだが面倒見のいい妖精は、よくよく良い祝福を授けてくれたらしかった。以来ミードは一度も体調を崩すことがなく、きゃっきゃとはしゃぎながら赤子に乳を含ませ、あれこれとシュニーの世話を焼いてくれている。としごだものっ、と胸を張り、まかせてっ、というミードは頼もしかった。
やや青白い面差しを、それでも幸福そうに緩ませて。シュニーは問いに、ひとつひとつ、ゆっくりと答えて行った。ミードと一緒にレロクを見ていたの。大丈夫、元気でいるからね。ご飯もね、たくさんじゃないけど、出されたものは全部食べたの。本当よ。あ、それで、あのねジェイド。あのね。
いとしさを。そのまま形にしたようなとろける笑みで、シュニーがジェイドの腕を引く。導かれて、手を置いたのはふくらんだシュニーの腹だった。なんだろう、と思っていると、手に衝撃があった。どん、と。結構な力で押し返される。うわっ、と思わず声をあげてしまったジェイドに、シュニーは花のように笑った。
「お父さん帰ってきて、嬉しいねって」
「そ……そうなの? これ」
「うん。ね、うれしいね」
どんっ、とまた叩かれたような、蹴られたような衝撃がある。シュニーの言う通りであるらしい。そっか、と触れた手を離さないまま、ジェイドは今まで感じたことのない想いに微笑んだ。今すぐシュニーを強く抱きしめたい気もするし、なんだか、泣きたいような気持ちにもなる。
「……シュニー」
「なぁに、ジェイド」
「ありがとう。……会えるのが楽しみだ」
そろそろ名前を考えておかないといけないかな、と急に慌てた気持ちで呟くジェイドに、シュニーはくすくす、いとけなく笑って。ふたりで一緒に考えようね、と嬉しそうに囁いた。
まあ育児は『お屋敷』ぐるみで行うものだから、そう気負わなくても大丈夫だよジェイド、というのが、現在進行形で経験者たるラーヴェのありがたい助言である。『傍付き』はとにかく『花嫁』の体調安定と変化に今まで以上に気を配ることが要求され、赤子の世話そのものは、『お屋敷』の中の専門部署が殆どを請け負うことになっていた。
数時間ごとの授乳ひとつだけでも、『花嫁』の体力では到底成しえないことだからである。眠りは常にひとりが傍で見守り、腹を空かせて泣けば乳母の元へ連れて行かれる。ミードは無事に出産を成し遂げた『花嫁』の中でも、母親をやりたがる方、であるらしい。
だっこするのだっこ、眠らせるのだってできるのっ、お乳もみぃがやるのっ、と言い張って、やや困らせてすらいるらしい。そう言われてみれば、ジェイドが帰ってくると大体ミードはその腕に息子を抱き上げていて、まだ分からないであろう赤子にあれやこれやと話しかけ、きゃっきゃと一緒に笑っている。
シュニーもはやく、そういう風になればいい。回復と不調を繰り返す妻の体調は落ち着かず、じりじりと削られるように下降していく。もしこのまま悪くなる一方であれば、と顔を曇らせた医師の耳打ちに、ジェイドはそれがあまり褒められたことではないと分かっていて、『学園』行きの、簡易休暇申請書を書き上げた。
目的地は妖精の住まう花園である。ジェイドはそこで己の案内妖精を探し、シュニーへの祝福を願うつもりだった。魔術師の成す祝福と妖精の織るそれは、名こそ同じものであれど、本質的には別物である。言うなれば魔術師のものは火の粉であり、妖精のものは灯篭に灯された揺れる火である。比べ物にすらならない。
問題は、『学園』行きをどう王に認めてもらうかである。持ち物である魔術師は、確固たる理由がなければそこへ行くことが叶わない。砂漠から魔術師が訪ねる理由に心当たりはなかったし、正直に告げたとして叱責されて終わりだろう。妖精は魔術師の親しい友であり同胞であるが、ジェイドの願いは親しき仲にも礼儀あり、とされることだ。
奇跡を願うのと、同じことだ。ミードのそれは、あくまで通りすがりの気まぐれであり、風が吹いて雲の切れ間から月が覗いた一瞬と、同じものだ。ヴェルタも快諾はしないだろう。それでも、他に方法はなかった。妊娠は病ではない。産んでしまうまで、どうすることもできない。その出産に、母体が耐えきれないのだとしても。
あまりに愛らしくいとけなかった少女の墓標が脳裏にちらつき、ジェイドはそれを振り払うよう、王の執務室を訪れた。扉を叩き、返事を待ち、溜息をつく。
「……ハレムか」
じわじわと、滞在時間が伸びていく。以前は朝には戻ってきていたのだが、今は昼過ぎ、夕刻に城へ戻ってくることも少なくはなかった。文官や士官ら、魔術師たちの努力により、今はまだそれでも、国は正常に動いている。なんとか、まだ、動いている。すこしずつ空気が澱んでいくのを、誰もが感じずにはいられなかった。
元より、寵妃の存在を面白く思っていなかった者もいる。不平不満がさわさわと空気を揺らしはじめたのは、最近のことではなかった。はやくどうにかしなくては、と誰もが思っていた。どうすればいいのかを、知る者はいなかった。時間だけが過ぎて降り積もっていく。誰もの、切実な焦りを飲み込みながら。
休暇申請の紙を置いて行くことはできるが、運び込まれる書類に巻き込まれて飛ばされてしまうのが関の山だった。可能ならば今日、明日にでも訪れたいのが本音である。眉を寄せて悩むジェイドに、書類を運びに来た王の側近が、苦笑しきりでハレムにいらっしゃいますよ、と言った。
「お急ぎなのでしたら、どうぞハレムまで行かれては?」
「……入れないでしょう」
むしろ入りたくない。そして万一呼ばれるだなんてことがあれば、身の破滅である。精神的、かつ、物理的にも。絶対に嫌だ、という顔をするジェイドに首を傾げ、側近はかつての王のように穏やかに、くすくすと肩を震わせて静かに笑った。
「大丈夫。今は急ぎの用でしたら、私たちも中に入れるように、と許可を頂いております」
「……そこまでしてハレムから出たくないんですか、陛下は」
はい、と手渡されたのは、一日限りの立ち入り許可証だった。日に五枚だけ発行され、常に三名が持ち、二枚はこうした時の為に貸し出しているのだという。使い終わったら見張りにでも渡して置いてくださいと背を押されながら、ジェイドは暗雲たる気持ちで呟いた。
ふ、と静かに笑みを深めて。青年は柔らかく、ジェイドに言い聞かせた。
「事情を知れば、とは……言い訳ですが。魔術師殿。あなたも今は本当なら、奥方の傍を離れたくないのではありませんか? どうぞ……陛下を、許して差し上げてください。魔術師殿も知るように、我らが王は怠惰ではなく、色に溺れた訳ではなく、無能でもなく……悪人でも、ないのです」
「その、どれかに……当てはまってくれていたら、すこし、楽だったとは思います」
「ええ。否定はしません。今は誰もがそう思っているでしょう。……さ、どうぞ、王の元へ。魔術師殿も、お会いすれば……気持ちの置き所くらいは、見つけられると思いますから」
ちなみに王が落ち着かれないようでしたら、執務の中核をハレムの客間へ一時的に移転することも考えています、と青年は笑顔で言い放った。可能性がある、ということは、良い傾向では決してない。顔をしかめるジェイドに、魔術師殿ならあるいは連れ出すことも出来るかも知れません、と何食わぬ顔で重荷を押し付け、青年は部屋の中へ消えた。
あのジェイドより二つか三つ、年上なだけの青年は、若くして王の懐刀とも呼ばれている。時期を見計らっていた、役目が下された、と思うのが自然だった。これがもし寵妃の拉致やなにやらを知られた上での所業ならシュニーを連れて逃げるか『お屋敷』を頼って引きこもろうと決意しながら、ジェイドはのろのろとハレムへ向かう。
常閉ざされている筈のハレムの開門は、あっけなかった。見張りの中に見知った顔はなく、先導に導かれ、ジェイドはうつくしい建物の中を進む。同じ城内とは思えない程、建物の作り、そのものが異なっていた。前回はあたりを見る余裕もなく、分からなかったのだが。ジェイドは知らず、眉を寄せた。
廊下の作り。建物の位置。渡り廊下の張り巡らせ方。使用人が行き来する廊下と、賓客が歩く廊下の区別は明確だ。『お屋敷』の作りによく似ている。別館だと言われれば納得してしまいそうな程に。あー、また知らなくても分からなくても生きていけることに気が付いてしまった気がする胃が痛い、と呻き、ジェイドはよろよろとハレムを進む。
足を止めたのは客間ではなく、寵妃の部屋の前だった。いやさすがにここは、と眉を寄せるジェイドに、先導は通行証を持つ方をここまで呼べと王が、と告げて頭を下げる。もう溜息しか出なかった。失礼いたします、と声をかければ、響いてきたのは王の声だ。すこしだけ意外そうに響く。落ち着いて、穏やかな、王の声。
聞き覚えのある、馴染みの響き。知らず、ほっとしながらジェイドは失礼します、と部屋に足を踏み入れた。無意識の癖で、足音はさせなかった。王は傍らに寵妃を伴い、椅子に並んで座っていた。一礼して誰とも視線を合わせず、ジェイドは簡素に用件を切り出した。
向こうの世界へ所要あって渡りたいこと。一日の休みが欲しいこと。用件をどう誤魔化したものかと考えるジェイドが、それを口にするより早く。うん、と難しそうに唸る王の声が、否定的に響いた。
「すまないが……魔術師にはしばらく、皆、城にいて欲しい」
「全員、でしょうか」
全員だ、とすぐに肯定される。事情がある、ジェイドは『お屋敷』まで下がることは許そう、と続けられて、口唇に力を入れながら顔を上げる。いかなる理由があってのことか。問うジェイドに、王は微笑んで傍らの寵妃に目をやった。思わず、ジェイドは身を固くする。
落ち着いた、穏やかな。幸せそうに口元を緩ませる王の傍ら、女の顔色がやや蒼褪めている。俯き、手を握り、言葉はひとつも零れない。警備を厳重にしておきたい、と王は告げた。先に騒ぎもあっただろう。二度とそのようなことがないよう、今しばらくは厳重に。朝も夜も問わずに。なにものもこの場所を害すことのないように。
喜んでくれるな、と王は満足げに。ジェイドに、寵妃の懐妊を告げた。