女難の相が出てるからまっすぐお家に帰るんだよ、とシークに言われたのは三十分前のことである。ジェイドは視線をそらして床のモザイク模様に使われたタイルの欠片を数えながら、お前今度はなににハマったの変な宗教はやめておきなって言っただろ明日悩み聞くから、と言った己の判断を悔いていた。
悔いていたが、信じられなかったのもシークの日頃の行いあってのことだ。一月前には願いが叶う植物に水をやり始め、半月前には運気が向いてくる謎の果物を買い込み、一週間前には希望を拾える鞄に小石を詰め、三日前には市場で騙されて幸せになれる壷なんぞを買ってこなければ、もう少し真剣に忠告を聞き入れることだって出来た。
異界生まれの少年は『学園』を卒業したからこそ、やや精神の均衡を欠き、なにかにすがりながら日々を生きている。青ざめた頬に血の気の色が戻る為にそれが必要なのだとしたら、無理に取り上げてしまうのは、あまりに哀れに思えた。でも買い物癖は改めさせなければ、と息を吐き、ジェイドはそろそろと室内を見回した。
砂漠の王宮、その一室である。しかし見覚えがまったくない。魔術師が立ち入ることのできる場所というのは、自由なようで厳密に定められており、連れて来られたのはその外側の一角だったからだ。その上、入り組んだ廊下を進んだ先にある、隠し部屋である。
部屋に放り込まれたと同時に取り払われた目隠しの布を眺め、ジェイドは深々と息を吐き出した。視覚は塞がれていたものの、身体感覚は狂わされず、魔力も封じられることはなかった。視覚ひとつ奪われたとて『傍付き』として訓練を受け、『魔術師』として成長したジェイドから位置感覚を奪うには至らずに。
だからこそ、ジェイドは胃の痛い息を深く吐き出した。現在位置は王のハレム、その中か、極めて近いどこかである筈だ。当然のことながら、魔術師はハレムに自由な出入りを許されていない。緊急時に王を呼ぶ為の立ち入り許可はあるものの、自主的な意思で赴くことは禁じられている。
立ち入り禁止区域に無断侵入した罪と、ハレムでの不貞を疑われる、上にシュニーに今度こそ浮気断定されて当主がジェイドの『お屋敷』身柄監禁計画を実行する可能性の高さに微笑み、ジェイドは一番罪が軽そうな魔術の行使、及び不意の事態への徹底抵抗を決意した。
他のなんであっても悪いことは悪いことであるから、事故であろうと女難であろうと、罪を償う覚悟くらいはしているが。シュニーに浮気だと思われることも、それが原因で体調を崩してしまうことも、絶対に許容できない。なにせシュニーは新しい命を育てている最中だ。負担が大きく、心痛から枯れかねない。
そこまで分かっていてほいほいとりあえず付いて行っちゃうのが君だよね、と呆れるシークの幻を丁寧に無視し、ジェイドはようやく立ち上がった。シークも一度、背後から不意に襲い掛かられて視覚を塞がれたりしてみればいい。反射的な抵抗を意思の力で抑えきった己の判断は、あの時点では賞賛されるべきだった。
「……女難かぁ……」
現時点で受けたくない災厄第一である。女難。ため息をつきながら、ジェイドは閉ざされた扉を注視した。鍵はかかっているだろうが魔術で補助をすれば蹴り破れるし、見張りも数名程度なら問題なく地に沈められる。あまり騒ぎになることは歓迎できないが、人が来る前に最短距離で脱出すればなんとかなるだろう。
よし、と荒事への覚悟を決めるのと、空気が揺れたのは殆ど同時だった。ぱたぱたと掛けてくる軽やかな足音。息つく間もなく鍵穴が鳴り、外側から扉が押し開かれる。甘い化粧のにおいがふわりと漂った。灰色に青緑が宿った、鋼色の瞳。艶やかな夜そのもののような、黒檀の髪。煮詰めた飴色の肌。ハレムの女で間違いない。
王の寵愛する、たったひとりの妃。正妃に最も近いとされる女だった。幾度か王が伴っているのを見たことがある為、顔を知っている相手である。向こうがジェイドを認識していたかは定かではない。女難かぁ、としみじみ遠い目になりながら、ジェイドは息を吐いてその場に跪いた。
成熟した、きよらかなうつくしさを持つ女である。少女めいた印象を残して完成させる『花嫁』とは、全く別の印象を与える、どこか瑞々しい雰囲気を持つ妃だ。きれいな人だとは思う。しかし、じぇいどのこのみはしゅにじゃないの、と涙ぐむ妻の姿を想像してしまったが為に、ジェイドは世を儚みたい気持ちになった。
一刻も早くこの場から立ち去りたい。なんらかの手違い、人間違いであることを祈りながらじっと動かないでいるジェイドに、息切れをした女の、震える声が弱々しく響く。
「この……この方が、『お屋敷』の……魔術師の……?」
はい、とジェイドを連れてこの部屋へ連れてきた、恐らくはハレムの警備兵の声が答える。女は、ああ、と息を吐いた。ふたりにして、と女が懇願する。王の寵妃。どんな我侭でも叶えられるだろうと囁かれる女は、けれど、切実な祈りを乗せてその言葉を囁いた。
どうか声を聞かないで。言葉を。聞こえてしまっても忘れて。ふたりにして。ふたりだけに。陛下に対する裏切りだけはしない。それだけは。私を救ってくださった、大切にしてくださる恩義ある方を、裏切ったりなどはしない。だからどうか、おねがい、ふたりに。わたしたち、ふたりだけに、して。
本当に臓腑の底から全力でお願いするからそれだけはやめてほしい、とまがおになるジェイドの視線の先、無常にも扉が閉じられた。いかなる理由があろうとも、仕える王の寵妃と閉ざされた部屋でふたりきりになったことが知れたら大問題である。失礼します、と立ち上がって扉へ駆け寄るジェイドの腕を、女は強い力で引き留めた。
震える手の、腕の、渾身の力だった。たおやかな姿からは想像できない力に、ジェイドは息を飲んで女を見下ろす。ハレムに現れて十数年、王の寵愛を一身に受け続ける女の顔は、青ざめていた。体調が悪いのではない、と『傍付き』の目が冷静に判断を下す。女はひどく緊張していた。それがなんの理由かまでは、分からなかった。
放してください、と言うべき声が喉の奥で封じられる。血の気を失った白い爪を、ジェイドはじっと見つめていた。いかないで、とか細く女が乞う。大変なことをしているというのは、分かっています。でも、どうしても、あなたに、聞きたいことがあって。だから。おねがい、どうか、いかないで。ここにいて。
どうか、と。一粒だけ落ちる雨のように。ぽつ、と言葉が零れたきり、響かなくなってしまった。困ったな、とジェイドは眉を寄せた。砂漠の王は魔術師が敬愛するに相応しい男だ。しかしやや、魔術師を『物』として扱いすぎる傾向にある。シュニーが大騒ぎしてようやく、ジェイドがゆっくり休めたように。
片や寵妃、片や『お屋敷』がついているとは言え『物』たる『魔術師』である。よくて禁固、最悪斬首の可能性が頭をちらついた。『お屋敷』は決してそれを許さないだろう。王と『お屋敷』が対立すれば、砂漠の財貨が枯渇する。早ければ数年のうちに。確実に。
お許しください、と囁くジェイドに、女は震えながら顔をあげた。血の気を失ったくちびる。鋼色の瞳が、ジェイドの姿をしっかりと見る。灰色に青緑が宿った、鋼色の瞳。その色に覚えがあって、あれ、と思うジェイドに、女は希望に触れたように笑った。
「やっぱり……あのこは、『お屋敷』で……生きているのね……?」
「……あの?」
「わたしのぼうやが、今も……」
ぼろ、と涙が零れ落ちる。後から、後から、零れ落ちていく。ああ、と呻いてしゃがみこんでしまった女を置いて駆けて行く訳にも行かず、ジェイドはつい癖で、布で涙を拭ってやった。あ、しまった、と思ったのは女がジェイドを見て、きょとんとした顔をしてからのことだった。
すみませんっ、と淡く叫んで両手をあげたジェイドに、女は幾度か瞬きをして。ふわ、と陽だまりのような明るい笑みを浮かべて、くすくすと肩を震わせた。
「優しいのね」
「忘れてください……。許可なく触れましたことを、どうぞお許しを」
「はい。ええ、もちろん、許します。……ですから、どうか話を聞いてくださいな。『お屋敷』の魔術師さん」
いえ俺はこれでも一応は砂漠の王の魔術師なんです、と呻くように告げたジェイドに、でも『お屋敷』の方なのでしょう、と女は微笑んだ。
「奥様が、『お屋敷』の方なのでしょう……? ですから、毎日、そちらと……王宮を通って生活してらっしゃるのだと、陛下にお聞きしました」
「そう、です、けど……」
ジェイドの奥方が『花嫁』であったことは、極秘事項である。なにせ『傍付き』が、よりにもよって己の『花嫁』を娶ったとなると、外へ嫁がせる為の養成機関としての『お屋敷』の、そもそもの前提が覆されないからだ。目を泳がせて同意するジェイドに不思議そうにしながらも、なら、と女は、どこか熱に浮かされた声音で囁いた。
「そこで働いている人たちとも、顔見知りなのでしょう?」
「……全員の顔と名前は、到底一致しませんが」
ジェイドが関わる人員も、判別がつくのも、全体の一割か、二割にも満たないだろう。『花嫁』に関わらない裏方の数は、それこそ小規模な都市の人員ほどいる。王都の半数は、なんらかの形で『お屋敷』関係者だ、とも冗談めかして言われるくらいなのだ。『花嫁』が乗る馬車の、馬の世話係という所まで雇用は生まれている。
恐らく、女が考える『お屋敷』の規模と実際の所には大きな隔たりがある。それをどう説明したものかと眉を寄せるジェイドに、女はそれでもいいの、と言った。
「だってあなたは、わたしを見て、覚えのあるような反応をしたわ。ねえ、見覚えがあるのでしょう……? わたしの瞳の色を、あなたは『お屋敷』で見たのでしょう……っ?」
ならばそれが、わたしの知りたい唯一のこと。女は悲鳴のような声で、ジェイドに教えて、と縋りついた。このハレムへ迎えられる前。わたしがまだ、ちっぽけな辺境のオアシスの、少女だった頃。なにもかもを忘れてしまっている間に、何処へとやられてしまったわたしの息子は、『お屋敷』で生きているのでしょう。
そうして、血を吐くような声で震えながら呼ばれた、ひとつの名に。ジェイドは確かに、覚えがあった。
おかえりなさいと抱き着いてきたシュニーにふんふん匂いを嗅がれ、しらないおんなのにおいがするううううっ、と怒り切った声で叫ばれた所で、ジェイドは問答無用で湯殿に叩き込まれた。実行したのはラーヴェである。ものすごく良い笑顔で服を着たジェイドを背負い投げて湯へ叩き込んだ友人は、さっさと姿を消していた。
弁解はいいから匂いを消しておいで、と言い残して居なくなったラーヴェに、その発言はいまひとつ俺の素行を信じてない、と遠い目になりながら、ジェイドは肌に張り付いた服を苦心して脱いだ。これはこれで女難である。シークはすこぶる正しかった。
帰ってくる前に城の部屋に寄り、肌を濡れた布で拭って予備の服に着替えてきたのだが、シュニーは誤魔化せなかったらしい。髪もしっかりと洗って出てくると、用意された着替えの上に、当主からの呼び出し状がぽんと置かれていた。シュニーはミードとレロクと一緒にラーヴェが見てるから、あがったら来ること、と書かれている。
これはもしかして今日は当主のお説教を受け、夜には不機嫌なシュニーを宥め、明日は陛下の尋問を受けながらシークに指さされて笑われる流れなのでは、と遠い目をして思い、ジェイドは深々と溜息をついた。着替えてきた服は、どこかへ消えていた。恐らくもう手元に戻ってこないに違いない。
今頃庭で焼かれていたとしても驚かなかった。のろのろと乾いた服に着替えながら、ジェイドはどこかぼんやりと瞬きをした。言葉が。女に懇願され語られた言葉が。言葉たちが。頭の中でぐるぐると回っていた。響いていた。強い匂いに、あるいは酒に、悪く酔ってしまった時のようだ、と思う。
あるいはシュニーは、それを感じ取って『しらないおんなのにおい』だと怒ったのかも知れなかった。口元に手をあてて、吐き気を堪えるような気持ちで思考を巡らせる。語られたのは女の半生だった。十数年前、ハレムに迎えられる前の、女のことだった。
砂漠の端、ちいさなオアシスで女は生まれた。貧しい暮らしであったのだという。幼い思い出はおぼろげで、ただ女の兄が物語をそらんじてくれたことだけを、よく覚えている。家に本らしい本はなく、あったとしても売られてしまうだけだった。時折立ち寄る商人や、王都の者に物語を強請っては、兄は妹に言葉を語り聞かせた。
母はいた。父はいなかったように思う。女はそう目を伏せて告げ、理由は今も知らないけれど、と柔らかな声で囁いた。『花嫁』の恵みがオアシスに配られ、ひととき貧しさは和らいだ。けれども生きていく為の金銭は水のように流れていき、またすぐに、空腹を抱えて眠りについた。寝物語を枕にして。
そうして、女に初潮が来た頃だった。突然に縁談が決まったのだという。相手の顔も年齢も、幼い女には知らされなかった。ただそれで、もうすこし裕福な暮らしができる筈だと、母が上機嫌でいたことは覚えていた。売られたのだ、とすぐ理解した。その数日後のことだった。母が死んだ。兄に殺されたのだった。
やさしかった兄は、拠り所であった妹を奪われると知っておかしくなってしまった。兄妹は生まれたオアシスを捨てて逃げだした。僅かばかりの金品を手に。頼る者もなく。宛てもなく。これ以上は失う物もなく。兄妹は砂漠をさ迷った。ちいさなオアシスからオアシスを転々と移動した。
砂漠の旅人は、常に歓迎を受ける。幼いふたりを訝しむ者もあったが、温かな食べ物と水は惜しみなく分け与えられた。着られなくなった古着や、靴。時には髪飾り。僅かな小遣いを与えられることもあった。妹は泣いて喜んだ。こんなに優しくされたことはない。こんなに、豊かだったことはない。
兄は妹の手を引いて微笑んだ。よかった、と言って幸福そうに微笑んだ。手は離されることがなかった。どこまでもどこまでも、その手を引いて旅をした。一年が過ぎ、二年が過ぎた。きっかけがなんであったのかはもう忘れてしまった、と女は言った。兄は男となり、妹は女になった。空き家に移り住み、生活をはじめた。
懐妊が分かったのはすぐだった。しあわせになろう、と男は喜んだ。ちゃんとした家族をつくろう。男はそう言って、王都へ働きに出た。『お屋敷』に荷を運ぶ商人の、護衛に雇われたのだという。一月に一度、男は給金を持って家に駆け戻って来た。
盗み見た『お屋敷』の暮らしを、男は女に語って聞かせた。そこは楽園のようだった。豊かで、なに不自由しない暮らし。うつくしく、麗しい人々。物語として、女はそれを聞いた。あまりにうつくしくて、夢のようで、嫉妬するには遠かった。男は誠実に、懸命に働いた。女はふくらむ腹を撫で、その帰りを待っていた。
ある日。男は帰らなかった。何日待っても、半月経っても、ひとつの便りもないままだった。女は苦心して人から人へ訪ね歩き、やがて、男が殺人の咎で牢にいることを知った。母を殺めたことが、今になって知れてしまったのだった。男は牢で黙ったきり、なにも語らないのだという。
殺しの罪は、死によって償われるのが砂漠の習わし。理由を語れば和らぐものもあるだろう、と周囲がいくら説得しても、男はがんとして口を割らないのだという。女は息を失うような気持ちで、胸をつまらせた。ふたりは、共に逃げた。罪は女にも及ぶだろう。男は、兄は、妻を、妹を庇っているのだった。
臨月の近い腹を抱えて。止める者の声も聞かず、女は一心に王都を目指した。ふたり、手を引かれて歩いた日々を思い返しながら。どうぞこれ以上奪わないでと泣きながら歩き続けた。ふ、と意識が途絶え。女が目を覚ましたのは、王都の端にある館の一室だった。
うつくしい少女ばかりが暮らす館を、『お屋敷』かと尋ねておかしげに笑われた。砂漠で倒れていた女を、ひとりが見つけて保護したのだという。『お屋敷』に用事があるなら繋がりがある場所だから、誰ぞが来たら聞いてみればいい、と囁くひとりの少女に、女は混乱しながらなにもかもを訴えた。
少女が特別、聞き上手だった訳ではない。ただ、恐らく、誰かに聞いてもらいたかったのだ。苦労ひとつしたことのないような、やわらかいてのひらの少女だった。女と、同い年くらいに見えた。女はその時ようやく、十五になったばかりだった。まだ幼さを失いきらぬ年頃で、心は擦り切れ、疲れ果てていた。
生まれ、育ち、兄のこと、母のこと、腹の子のこと。牢に捕らわれた夫のこと。泣きながらなにもかも話す女を少女はやさしく抱き寄せて、なにも言わずに背を撫でてくれた。しばらくここで療養なさい、と少女は告げた。流れかけていたの。動いてはだめ。館にはお医者様もいるから、診て頂きましょう。ここで産めばいいわ。
ここはどこ、と女は問うた。少女は甘やかに微笑み、館、とだけ告げた。わたくしたち『水鏡』の住まう館。ご安心なさい、お客さま。この場所を知る者はすくなく、王とて、わたくしたちの領域へは手出しできない。たおやかな言葉の意味を知らされることはなく。女は夢のような日々を過ごした。
眠り、食べ、眠り、医師の診察を受ける日々。そうして腹の子が産声をあげた日の、夜も深まった頃だった。少女がそっと寝室を訪れ、赤子に目を細めてかなしそうに笑った。その仕草で、女は分かってしまった。赤子の父は、もういないのだ。少女はそれを知っていて、この日まで、女に隠しおおせたのだ。
砂が零れ落ちていくような日々が始まった。泣く赤子に乳を含ませ、必死になりながら、心からなにかが零れ落ちていく日々だった。得たのに、失ってしまったのだ。得る前に、失ってしまっていたのだ。半年が過ぎ、一年が過ぎた。赤子がはじめて、女を母と呼んだ。男の不在を思い知った。失ったものの空虚さを。
記憶が途切れている。おかしくなっていたのだ、と女は言った。恋しさに、失ってしまったものの大きさに。失ったことを、信じたくない愚かさに。母のように、死を目の当たりにした訳ではなかった。だからどこかで、生きているかも知れない、と思い、その想像にこころが震えた。
一年、二年。三年が過ぎた頃、女は息子に待っていて、と言い聞かせて館を抜け出した。王都の端から中心へ。入り組んだ道を抜け、人々に男のことを訪ね歩いた。雇われていた商家を訪ね、牢の場所を聞き、警備にすがって問いかけた。あのひとはどこ。どこにいるの。教えて。どうか。誰か。
気が狂った女を哀れみ、ひとりの牢番が墓地への案内を買って出た。罪を犯した者が集められた墓地の片隅。そのひとつを、牢番が指し示す。これ、と言われて女はその場にへたりこんだ。女が求めていたのは血肉のある男である。決して、名の刻まれぬ墓標などではない。
女は。あまりの悲しみ故か、失えぬものを、そこで失ってしまったのだという。気が付けば女は、立っている場所がどこなのか、なにをしにここに来たのかを、忘れ。帰る場所も、待たせている者も、己が誰であったのかすら、分からなくなっていた。
心を病んで王都をさ迷い、誰彼構わず男のことを問いかけていた女のことは、結構な者が覚えていたが、その身の上まで知る者は誰もいなかった。さてどうしたものだろう、と女を持て余した牢番に、手を差し伸べたのは『お屋敷』であったのだという。
恐らくは内々に保護して、館へ戻してくれるつもりだったのだろう。しかし、その迎えが到着するより先に。視察に降りて来ていた王が、女を見初めてしまった。心を病み、気を狂わせ、己すらを失ったのだという女に、王はひどく同情した。そして、ハレムの門が開かれたのだ。それは保護であり、王による女の所有であった。
かなしみにより失われた女と、それを見初めた王のロマンスは、民衆に好意的に受け止められた。ジェイドも聞いた覚えがあった。物語のよう、と『お屋敷』の少女たちが口を揃えてはにかんでいたことを知っている。女が、楽園のよう、と言った場所で、それは麗しい王の恋物語として語られた。
女がそれを思い出したのは、数年前のことであったという。ジェイドはその時期に心当たりがあった。王が殊更、魔術師を物として酷使しだしたのは、その頃からである。恐らく記憶を戻した女と、想いがすれ違い始めた鬱屈故だろう。寵妃は、王を『恩義ある方』と言った。
感謝の気持ちはあれど。愛おしく、恋しく、情ある者に対する響きでは、なかった。明日のことは考えたくない。ジェイドはのろのろと湯殿を出て、とりあえず当主のもとへ向かおうとして。廊下をぱたぱたとかけてきた少年に、あっ、と叫ばれ睨みつけられた。
「ジェイド! 聞いたぞ、お前、またシュニーさまを泣かせて……!」
ラーヴェさんからシュニーさまを奪ったくせにっ、どうしてお前はそうなんだよっ、と何年も何年も難癖をつけてくる年下の少年をうろんな目で眺め、ジェイドは胸に両手を押し当てて、深々と息を吐きだした。
「いまだけはお前に会いたくなかった……」
「は……はぁあああっ?」
失礼っ、最悪っ、最低っ、とぎゃんぎゃん叫んでかみついてくる少年は、『花嫁』につく『傍付き』候補生のひとり。ジェイドとラーヴェの、次の世代にあたる少年たちのうち、ひとりだった。少年の名は、ハドゥル。五年に一度の開放日にて、幼い頃、外からこの『お屋敷』に迎えられた、身寄りのない者のひとりで。
その瞳はごく珍しい、鋼の色をしている。灰色に青緑が宿った、鋼色の瞳。王の寵妃と同じ瞳。悲鳴じみた響きで、呼ばれた名の。
あのな、ジェイド、と言ったきり当主たる少年は困った顔をして視線をさ迷わせている。なにから怒ればいいのかを整理しながら、言葉を選んでいるのだろう。その沈黙は苦ではなかったが、申し訳なさで居た堪れない。かつて少女とよくそうして話したように、ふたりはちいさな机を挟んでソファに座り、向き合っていた。
かつて『傍付き』の任にあった女は、やはりかつての側近の女がよくそうしていたように、一定の距離をあけて部屋に佇んでいた。傍ではなく、離れすぎはせず。言葉はすぐに届く距離。手を伸ばしても触れられない空白。視線だけでか細く繋がっている。拒絶しきれず、されきれないぎりぎりを探って、落ち着いてしまった。
いいんですよ、とジェイドは喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。いいんですよ、かつてのように甘えてくださっても。それが『傍付き』の幸福。役職で呼ぶ名を変化させても、そう育って完成してしまった者たちの本質はそのままである。『花婿』たる少年が、そういう風に生きていくように。それは死するまでの永遠だ。
「……あのな、ジェイド」
「はい」
「うん……。まあ、たぶん、その、仕事とかで……女性と会う機会も……護衛とかなら、触れる機会もあるだろうけど……」
思っているようなことは決してなく、浮気である事実は絶対なく、俺が愛しているのはシュニーだけだというのは先にお伝えさせてくださいね、と胃が痛む声で言い聞かせ。ジェイドは従順に、はい、と言葉を返した。少年は弁解を聞いていたのか、聞き流していたのか、どちらともつく曖昧な表情で頷いた。
深緑の瞳が、困惑を浮かべてジェイドを眺めている。
「今更こんなことを言うのも、とは思うけど……」
「はい。……いいえ、どうぞ。御当主さま」
「……ちょっと考えて、欲しい」
たぶん今ジェイドの中で、比重が置かれているのは『魔術師』であることだと思うんだ、と少年は言った。ジェイドがどう思っているか、とかそういうのは関係がなくて、俺から見た印象で言っていて、大事なのは周囲がどう思っているかどうかだから、そういう気持ちで聞いてな、と穏やかな声で少年は言う。
少女の言葉も、いつも穏やかに響いていたことを思い出した。当主として得てしまう諦めや、その任務に対する重圧が、感情をやわらかく研磨していく結果なのかも知れなかった。本を投げることもなくなったと聞く。ひとつひとつ、『花婿』であった頃の甘えが眠りについていく。
目を覚ますことがあるとすればそれは、当主の座を誰かに渡した後のことなのだろう。
「……聞いてる? ジェイド」
「はい。聞いております」
疑いの目がしばらく向けられて、溜息がひとつ。
「俺はシュニーのことも大事に思ってるよ。……ミードのことだって大切だけど、シュニーだって、しあわせでいて欲しいと思ってる。分かる?」
「はい、もちろんです。ありがとうございます」
「……それで、考えて欲しいっていうのは」
本当かな、と思っているのがすぐに分かる疑いの目をそのままに、当主はため息交じりに囁いて行く。
「『傍付き』としての立場を、もうちょっと……もっと、大事にして欲しい。陛下から、王宮魔術師であることはなんたるか、というのを俺も聞いたけど。それでも、その上で、『お屋敷』の当主として言っておかないといけない。ジェイドは、『傍付き』だろ。シュニーの『傍付き』で、旦那さま」
俺たちにとって『傍付き』っていうのはずっとなんだよ、と少年は眉を寄せて、どこか辛そうに囁いた。はい、と安易に頷いてしまいそうになるのを堪え、ジェイドは少年の言葉、その先を待つ。そのことを、ちゃんと知っている。少女の葬儀。女の姿に、ジェイドは己の未来を見るような気持ちになった。
嫁いだ先でも、どれだけ時間が経ってもそうなんだよ、と少年は言う。だからこそ、その幸福の末を、祈ってくれたひとに見せてあげたいと思って。俺たちはジェイドみたいに、『お屋敷』へ還すんだ、と。囁く少年に、ジェイドは静かに頷いた。
だから、と少年は言葉に迷って口を閉ざす。穏やかな気持ちで、ジェイドは促すことなく続きを待った。宝石の言葉を待つ沈黙を、苦に思う『傍付き』はいないだろう。己の為に一生懸命話そうとしてくれている。そのことを幸福だと思う。それが己の輝石でなくとも。
「だから、ジェイドは……。ジェイドには、シュニーが『花嫁』だった時のままで、いてあげて欲しい」
仕事、あるから、難しいのは分かってるよ、と少年は息を零しててのひらを見つめた。そこにまだ、大切なものがあって。それを失いたくなくて、指を折って閉じ込めるような仕草。伏せた視線が持ち上がる。
「シュニーの『傍付き』でいて欲しい。……俺の言ってること、わかる? なにが言いたいか、その……」
「分かります。……ちゃんと、分かりました。大丈夫」
「うん。……うん、そっか」
よかった、と胸を撫でおろす少年の願いに、自身のことは含まれていなかった。『傍付き』を想う心はそのままだと言いながら、その手を決して伸ばさないでいる。いいんですよ、とジェイドは今度こそ、言葉に出して少年に告げた。あなただって、それを望んでも。望んでくださったら、きっと。
少年は意外そうに瞬きをして、それから喜びの溢れる泣きそうな表情で、ごく穏やかに微笑した。
「ジェイドは、やさしいな」
でも、と続く言葉を遮って少年は首を振る。いいんだ。諦めきった声で少年が告げる。そうして、すっとソファから立ち上がられてしまったので、ジェイドもその背を追って歩き出した。とこ、とこ、ゆっくり扉の前まで歩いて、少年はジェイドにすっと体を寄せた。
思わず緊張するジェイドに触れることはなく、少年はすん、と匂いを嗅いだ。
「ん、大丈夫。……仕事で匂いがうつることがあるのは、しょうがない。それはシュニーも分かってるよ。俺だって分かってる。でも、気を付けて欲しい」
「はい。申し訳ありませんでした……」
「必要なら、ジェイドが帰ったらすぐ湯を使えるような手配はしておく」
口ぶりだと、さっそく明日から用意されそうだった。しばらくは仕方がないだろう。お手数をおかけして申し訳ございません、としょぼくれるジェイドに、少年はどこか悪戯っぽい笑みで肩を震わせた。
「匂いはしょうがない」
「はい……?」
「ただ、持って帰ってきてはいけないよ」
とん、と胸が手で押された。ジェイドは息を飲む。その表情を観察するように、静かな目で少年はジェイドを見ていた。ここに、と押し当てられたてのひらが言っている。どんな事情あれ、理由あれ。連れて帰ってきてはいけないよ、と少年の深緑の目が言っている。深い森の、閉ざされた夕闇の向こうで微睡む影の、色をした。
当主の瞳が、それを厳しく禁じていた。
「なにがあっても、そういうことがなくても……落ち着くまでは大変だろう。湯に入ってから、シュニーの所へ帰るようにするといい。シュニーには、俺からちゃんと、説明しておく。返事は?」
「……はい」
「『お屋敷』の門をくぐったら、『傍付き』だけに切り替えなけえばいけない。できる?」
できない、と言えば。そうか、分かった、と微笑んで、当主はすぐにでも『お屋敷』の門を閉ざすだろう。ジェイドがどこに行かなくても良いようにするだろう。できます、とジェイドは頷いた。疑わしげに。それでも、今回はそれで信じる、ということにしてあげよう、と。諦めをよぎらせ、少年は扉を押し開いた。
行っていい、ということだ。深々と頭を下げて辞すジェイドに、少年は何回もは許してあげられないからな、と言った。次はない、ということではなく。その次までは分からない、ということだ。ジェイドも、そう何回も繰り返すつもりはない。仰る通りにと囁き、意識から『魔術師』であることを切り離す。
失う訳ではない。眠りにつかせるだけ。明日、門をくぐって城へ向かう時に目覚め。また、門から戻ってくる時には眠りにつく。その繰り返しを徹底することだけ。幸い、『傍付き』は自己暗示に長けている。その為の訓練も課せられた。出来る筈だ、と思う。やらなければ、と思って、ジェイドは廊下を足早に進んだ。
ラーヴェにこっそり、あとで小言と耳打ちされ、ミードにいけないひとおおおおっ、と絶叫されながらも。涙ぐむシュニーを腕に取り戻した時。ジェイドはもう『傍付き』だけに、戻っていた。