世界に夏至の日が訪れる。今年も無事に終わった、と胸を撫でおろしたのは星降の王宮魔術師たち。新たな同胞は遅れることなく『門』をくぐり、すでに夜の入学式に向けて適性検査を行い、体を休めている最中だという。知らせは速やかに各国を駆け巡り、華やかな歓声と共に歓迎された。事故なく事件なく、その旅路が終わったことを誰もが喜んだ。
魔術師たちにとっては特別な日であるから、誰もが浮き立ち、思い出の中に心を飛ばして囁き合う。案内妖精と二人で旅した間の出来事、様々な失敗と喜び、新しい日々へ憧れたこと。『学園』での思い出。話題は尽きることなく、幸福な笑いと共に語られてゆく。押しつぶされ、すり減る毎日を過ごしていた砂漠でも、それは同じことだった。
ふ、とすこし空気が緩む。立ち止まって、視線を交わして笑い合って、よかった、と言葉が零れて。一言、二言、そういえば、と己の旅路を懐かしむ声が零れていく。王の執務室の前の廊下でも、馬車の発着場でも、各国を繋ぐ『扉』の前でも。魔術師たちは厳戒態勢の緊張を緩めて、風に揺れる木々の梢のよう、涼しげな声でそれを語り合った。
どんな子だろう。どういう風に旅をして、『学園』に迎えられただろう。案内妖精との仲は良かったのか、悪かったのか。親しくなれないままに旅を終える魔術師も少なくはない。魔術的な導きの相性はどうあれ、性格が寄り添えないことも、あるにはある。
流星の夜が楽しみだね、と魔術師たちは声を揃えて口にした。案内妖精が新入生と共にある夜は、仲の良さが一目で分かるどうしようもない場である。一言も話さなかったけど、帰る時に頑張れよって言ってもらえた、と笑う魔術師があれば、なんかずっと一緒にご飯食べてた記憶しかない、と言う者もある。
どんな風だろうね、と誰もが言った。どんな風に世界に迎えられ、どんな風に妖精に導かれ。どんな風に、魔術師の一員となっていくのか。素敵だね、嬉しいね、楽しみだね、と笑い合い。砂漠の王宮魔術師たちは、ふっと真顔になり、ところでその流星の夜だけどほんとに『学園』に顔出しできると思う、と言った。灰色のまなざしと声だった。
五ヵ国のどの魔術師より多忙、とされるのが、現在の砂漠の王宮魔術師の待遇である。残念ながら、その激務は年を追うごと、日を重ねるごとに悪化しており、今の所改善の策もなければ兆候もない。王変えなよ、と妖精が推すくらいの惨状である。今の所その予定はない、と告げた魔術師たちに、妖精は沈痛な顔をして首を横に振った。
砂漠の王の血を持つ後継ぎ、という存在について、いない訳ではない。認知された庶子は今日も堂々と妖精の丘に除草剤散布計画を魔術師たちに提出してきたし、他にも王の血に連なる縁者は何人もいる。いるのだがしかし、揃いも揃って次代の王となることを、正々堂々と、かつ裏から手を尽くしてでも拒否してくるような猛者揃いである。
ハレムの管理ができる気がしない、女性が嫌いだから後継ぎをつくれる気がしない、国政という単語を聞くとじんましんが出て呼吸困難になる、それとなく帝王学を受けてる庶子が中枢にいるだろアレを説得してこい、などというのが方々から聞き取った拒否理由の一例であるが、理由のひとつに『お屋敷』もあった。
あの魔窟を管理しきれる気がしない、との拒否理由を聞いて、ジェイドはさもありなんと頷いた。『お屋敷』は、砂漠の中枢機関にて影の独立機関である。内部にいても把握しきれない場所であるので、砂漠に住む者として、あれを御しきれないと思うのはごく当然のことだった。
そういう理由で早期代替わりは絶望的な状態です、と告げた魔術師たちに、妖精はそんな冗談みたいな原因で国が亡ぶとか後世の笑いにしかならないから、ちょっとどうにかしなね、と言って飛び去った。以来、砂漠の国では妖精の姿は目撃されないままである。荷物は律義に運び込まれている。それだけが神秘の訪れを知る唯一だった。
砂漠の空気はじわじわ濁り、滞るばかりである。それでも、この夏至の日に。魔術師たちが重荷を置いたように力を抜いて微笑めば、淡くきらめく魔力が王宮をゆるく、循環していく。清涼な風を一陣、部屋の中まで導くような気配。張り詰めたものが緩んでいく。魔術師も、人々も。王も。誰もが。
昼過ぎに。たまには外の空気でも吸って気分転換しよう、と呼びに来た星降の王に、砂漠の王が頷いたのも、その為だったのかも知れなかった。明日の夜には帰すから、ちょっとゆっくりしておいで、と魔術師たちと、側近たちの肩を叩いた星降の王は、入学式にもついでだからと、友人を引っ張って連れて行く算段らしかった。
人の口に戸は立てられず。五王の誰もが砂漠の窮状と、王の追い詰められた状態を知っていた。内政干渉になりかねないから、と普段は遠く見守っている王の助力に、魔術師は言葉にならない気持ちを持って受け止めた。よし休暇、とすばやく書類に判をついてばら撒いたのは、側近たる青年そのひとである。
この隙に家に帰ったり遊んだり寝たりしなさい、仕事以外ならなにをしてもいいです明日の夜までは、と微笑んで告げた青年に、魔術師のひとりはこの隙にうっかり即位したりしても誰もあなたを責めませんがしてくれないんですか、と半泣きで零し、鋭利な膝蹴りで医務室に運び込まれていた。
日に日に、王に対する不満が積もり、青年に対する期待がかさを増していく。国にも、人にも、目を向けず。寵妃に固執する王より、想いやってくれる者を、と願うのは自然な感情だった。でも、そうでない時期もあったでしょう、と青年は言う。きっと、御子が産まれれば。また、かつてのように戻ってくれる筈なのだと。
苦痛を感じさえしているような声の、言葉を、青年自身とて、もう心からは信じられなくなっている。それを誰もが分かっている。産まれて、だめだったら。御子をささっと即位させて宰相として国を支えて健やかな成長を見守るのが最適解かも知れないんですがその可能性については考えたくありません、というのが青年の呻きである。
王が寵妃に固執するように、青年は、己の父が王であり続けてくれることにこそ、固執している。その執着の理由を、ジェイドは知らない。知る日が来なければいい、とも思う。それが明かされる日が来るとすれば、いよいよ、王を見限らなければいけないのだ、と。誰かがそう思い。青年も、そう思ってしまった日だけだろう。
まあ、星降の陛下が怒ったり叱ったり気分転換させてくれる筈なので、それに期待しましょう、と言って、青年は旧執務室からジェイドのことを追い出した。『お屋敷』に戻っていいですよ、という青年自身は、このまま部屋に留まるつもりであるらしい。
言葉を尽くしても説得しきれない相手である、というのは、ここ一月でよくよく分かった相手である。なにかあったら呼んでください、と言い残し、扉を閉めた所で室内に全力で眠りの魔術を叩き込んだジェイドは、やりきった顔をして廊下を歩き出した。魔術の無断使用については、考えないこととした。
事故のようなものである。もしくは、反射的な呼吸にすら等しい一動作だ。通りすがった魔術師がジェイドの凶行に気が付き、その立場を考えてか俺のせいにしていい、と言ってくれたのでありがたく罪を押し付けて、ジェイドはあくびをひとつした。部屋には抜かりなく、寝ています起こさないでください、と扉に紙を貼ってある。
さて帰ろう、と歩くジェイドを、呼び止める声がひとつ。振り返ったジェイドは、そこに立つ者の姿を見て心から息を吐きだした。顔を知っている相手だった。お互いに。だからこそ、人間違いで呼び止めたのではないことが分かり。そして、用件も分かってしまった。
夏至の日の、昼下がり。寵妃より、二度目の呼び出しである。
ハレムの空気も華やかに緩んでいる。夏向きの涼しげな恰好をした少女たちが、はしゃいだ声をあげながら廊下を小走りに行く。足音と笑い声。窘める女の声も、穏やかな安堵に緩んでいる。訪れるたびに感じていた閉塞的な空気は今はなく、王の不在をまざまざと感じさせた。
連行されたに等しい気持ちで訪れた寵妃の部屋は、拉致された時に放り込まれた場所とは違っていた。王の現執務室の、廊下の先。女に与えられた一室である。そうであるから当然、室内には他の女たちの姿もあった。ふたりきりではないことに、安堵すればいいのか、不安がればいいのか、中々に判断しにくい状況だった。
ハレムに立ち入る許可を得ているとは言えど、それはあくまで王がそこにいるからだ。不在の間に女たちに会いに来て良い、という許可ではない。ジェイドが部屋に入ったと同時、さわさわと揺れていた空気はしんと静まり返ってしまった。いくつもの視線がジェイドへ向き、また、長椅子の上で動かないでいる寵妃へと向けられた。
寵妃はジェイドに、すがるような目を向けて唇を震わせていた。言葉を。なにか。なにか、と追い詰められて、混乱しているのが誰の目にも明らかな表情だった。ああ、とジェイドはちいさく息を吐く。やはり、来るべきではなかったのだ。用件が明らかであり、ジェイドがそれを告げたいと、重い秘密を抱えていたくはないと思ってしまったにせよ。
人の目と耳が、部屋にはあまりに多すぎた。
「……早ければ、明日の夜。遅ければ、明後日の朝まで訪れませんもので、ご挨拶をしに参りました」
ごきげんよう、王のうつくしい方々、と微笑んで、ジェイドはゆっくりと一礼した。戸惑っていた空気が、それでようやく、すこし緩む。なにか疑問を口にされる前に、ジェイドは続けてなにかありましたら警備の者をすぐ呼ぶように告げ、王の不在理由となる、夏至の日と魔術師についての関わりを話し出す。
特別な日であること。入学式は夜に行われること。一月後には魔術師と、王たちも訪れる夜会があること。案内妖精のこと。『花嫁』に語り掛けるような柔らかな声を心がけて囁けば、女たちの警戒が瞬く間に緩み、好奇心と未知への淡い憧れで満ちていくのを感じ取る。
向けられる他愛ない、いくつかの質問に微笑んで答えながら、ジェイドは寵妃に目を向けた。刹那、重なった視線に、ジェイドはゆっくりと横に振る。話せる言葉はなにもない。恐らく、告げられる機会を、共に逃してしまった。そしてそれは、もう巡ることはない。なにかに書いて伝えることもできない。物を残すことになる。
大きく膨らんだ腹を、寵妃は重たそうに、それでも、大切そうに手をあて抱いていた。ならば、やはり、ジェイドが告げることはもうできないのだ。すこしでも、想いがそこにあるのなら。この国の為に。王の為に。告げることはできない。かつて、その腹を抱えて砂漠を超えた女であるから。告げれば、同じことになるだろう。
あなたの息子は今も生きていて、『お屋敷』で幸せであるのだと。その秘密を一生、胸の中でつぶして生きていく。それでは、と場を辞す言葉で幕を下ろし、ジェイドは寵妃に微笑みかけた。どうぞ、と零れたのは『花嫁』に対する祈りの言葉だった。どうぞ、お健やかに。
背を向けたジェイドに。返る言葉は、なかった。
日々は、さしたる変化もなく過ぎていく。星降から戻った王は、一時こそ旧執務室に滞在したり、城を見て回り人々に声をかけて回ったが、それが習慣づくこともなく、長続きすることもなかった。とうとう、王が旧執務室に顔を出しもしなかった一日の終わり、青年は深く息を吐きだした。言葉はなかった。それが、王の気分転換の終わりだった。
青年が書類を分類し、ジェイドがそれを運び込み、ハレムの立ち入り許可証を持った他の二人が、王の言葉を届けて回る。血液のように、流れていく。だからこそ、国政が滞ることはなかった。訴えが聞き届けられぬこともなく。けれど、それだけだった。城は、長く王という男を不在にしたままでいる。
寵妃の腹の子は順調であるのだという。名も、候補をいくつか決めたのだという。王からの雑談でジェイドはその情報を得たが、聞いた名は記憶に留まらず、ハレムから旧執務室へ戻る間の、廊下のどこかへ落としてしまった。廊下には深く濃い影が落ちている。夏の盛りが来ているのだ。
砂漠の盛夏から逃れるように、王宮は風の通りが良いつくりをしている。それなのに、肌に触れて流れていく空気はどこか澱んでいた。涼を得ることはなく。深々と息を吐いて、ジェイドは旧執務室の扉に、持たれるように体を寄せた。今日はあと二往復残っているのだが、もう運ぶ気力が残っていない。
もう帰りたい、とシュニーに思いを馳せると、ふと扉の向こうから声がすることに気が付く。旧執務室に青年以外がいることは稀である。来客かと訝しく思うジェイドは、しかし穏やかに響く青年の声と、鋭く空気を震わせながらも、どこかふわりと拡散してしまう声の響きに心臓を跳ねさせた。
声に聞き覚えがあった。ここで。城で。聞く筈のない声だった。何故、と思うより早く扉が開き、内側から伸びてきた手に強引に腕を掴まれる。『お屋敷』の、当主側近たる女。生き延びた『傍付き』たる女が、見たこともない険しい表情で、ジェイドの腕を掴んでいた。
部屋の中には当主の少年がいて、青年に食って掛かっていた険しい表情のままで振り返る。
「ジェイド! 帰るぞ!」
「は……い……?」
「ちょっと待ってください。ジェイドもすぐそうやって返事をしない……!」
当主の命令じみた言葉に、反射であっても返事をしない『傍付き』がいたら連れてきて欲しい。そんな無理難題を言わないで欲しい、という顔で青年をみるジェイドの前に、必死な様子で、当主が早足に歩んでくる。蒼褪め、表情はかたく強張っていた。女はなにも言わず、ジェイドの腕を掴んだまま、睨みつける視線を青年へ移している。
渡さない、と。告げていた。それが『お屋敷』の意思であり、当主の望みであるのだろう。当主はジェイドにすがるように、はくはく、浅く早く息をしながら、必死で言った。
「ジェイド。帰ろう。すぐ、すぐ、走って、俺を置いて行っていいから、かえ、か、帰っ……!」
「落ち着いてください、リディオさま。なにが」
「……冷静に聞いて、ジェイド。シュニーさまが破水した」
女が告げる、言葉の意味を。理解するまでかかった時間は、永遠のような数秒だった。軽く咳き込んで、呼吸を止めていたことを知る。思わず。口元を押えてよろけたジェイドの肩を、とっさに駆け寄って来た、王の側近たる青年が支えた。あなたたち、とうんざりしたような、怒りさえ感じさせる声で青年が言う。
「それを先に……真っ先に言えばハレムに誰かを走らせて、そのまま帰しましたよ!」
「『お屋敷』の機密を……知らせまわる訳には、いかない」
「『お屋敷』の御当主。あなたのその意思は尊く、理解もできるが、あなたは私にそれを告げて、ただこう言えばよかった。広めてはならない、口外禁止を、『お屋敷』の当主としてお前に命ずるのだと。……ジェイド、ジェイド。気を確かに。息をして、走れますね?」
あなたも。王の傍らに立つのなら、やり口を覚えておきなさい、と女性を窘めさえして。青年はジェイドの肩を強めに叩き、目をまっすぐに覗き込んで告げた。
「いいから、このまま走りなさい。あとのことはなにも考えずに。……陛下には私がなんとでも言いましょう。いいですか? 落ち着くまで……いえ、気が済むまで。あなたは帰ってきてはいけない。誰がなんと言おうと。王がそれを命じようと。私がなんとかします。なんとかしますから……行きなさい」
なにか。反論か、肯定か。なにかを、声に出そうとしたジェイドを、当主が止めた。服をつまんで、ひっぱって、大丈夫だよ、と呟く。その声が。言葉が。少年が、当主となる前のもののように感じて、ジェイドはなぜか微笑んだ。
「……ラーヴェがすぐに医師と私たちを呼んで、あなたを呼びに行けと告げました。ミードさまが動揺してしまって、傍にはついておりませんが、あなたの世話役たちが一緒にいます。待っています」
「はい」
「すぐに行くから。走っていくから」
先に行って、と当主の手がジェイドの背を押す。まっすぐ、行って、大丈夫。振り返らないで。全部、残して行って、大丈夫。だいじょうぶだから。もしそれで、落として、零してしまうものがあっても。拾って行ってあげるから、大丈夫、と告げるように。当主は言った。
いいですか、と走り出すジェイドの背に青年が重ねて告げる。どんな命令がくだされようと、戻ってきてはいけない。あなたがそれを許すまで、私がここを守ります。だから。行きなさい、と告げられて、ジェイドは振り返らずに走った。生きてきた中で、一番。息を切らしながら、ただ、前だけを見て。
世話役のひとりが、門の前で祈りながらジェイドの帰りを待っていた。視線が合い、言葉より早く身を翻し走り出される。その後をただ、ジェイドは追いかけた。走るなら、まだ無事なのだ。痛いくらい言い聞かせながら、息を切らして走って行く。見慣れた『お屋敷』の廊下は、なぜか迷路のようだった。方向と場所が分からなかった。
真っ白になりかける意識を、いくつもの声が通過していく。ジェイドの名が呼ばれていた。思わず、という風に声をあげていた。呼び止める者はなかった。ただ、背を押す声ばかりだった。その中には、ハドゥルのものもあった気がする。責める響きではなかった。祈り。息がくるしくなる程の祈りで、誰もがジェイドの背を押していた。
皮肉な程に。今までで一番、受け入れられているような、気がした。かつてこの場所を息を切らしながら走った時、そこにあったのは穏やかな排斥だった。シュニーに会いに行くのは同じなのに。どうしてこんな時に、望んだ場所に、ひとつ、辿りついてしまうのだろう。なきたい、と思った。遠い昔に、家に帰れなくなった幼子が。
「……ジェイド」
腕を取られて。はっと意識を表へと戻す。扉の前に。立っていたのはラーヴェだった。部屋の前には座り心地の良さそうな長椅子が置かれ、泣きはらした目をしたミードが、すうすうと眠りについている。ラーヴェ、と鼓動より早く息をしながら、ジェイドはただその名を呼び返した。
今いる場所が、どこなのか。どうして、息を苦しく走ってきたのか。一瞬、分からなくなる。ラーヴェは痛ましくジェイドを見たあと、叱咤するように強く、友の名をもう一度呼んだ。
「シュニーさまは中にいらっしゃる。世話役が一緒だ。医師も。看護師も。……分かるね?」
「……ラーヴェが、当主さまを、呼んでくださったって……ミードさまが」
「うん。ミードは大丈夫。任せてくれていい。ジェイド、さあ……大丈夫、シュニーさまが待っているよ。『傍付き』として、成すべきことを。できるね、ジェイド」
呼ぶ声が、かすかに。扉の向こうから聞こえた。とうめいな声。いとしく。世界のなによりやさしく、ジェイドを呼ぶ声。シュニーの声。ああ生きている、と思って、ジェイドはようやく息を吸い込んだ。いきている。シュニー、と呼び返して、ジェイドは薄く開かれた扉の向こうへ体を滑り込ませた。
生臭く、むせかえるような、血の匂いがした。寝台に横たわるシュニーは、かわいそうなくらい血の気がない。あたためてあげなくては、とジェイドは思って、傍に跪くように座り込む。ぴく、と痙攣するようにシュニーの腕が動いた。持ち上がらない腕を、手を、やさしく眺めて。ジェイドは微笑んで、妻の手を両手で包み、握りしめた。
「来たよ、シュニー。遅くなってごめん。ただいま」
「……おかえ、り、なさい、じぇいど。……あの、ね。あの」
「うん」
言いたいことも、伝えたいことも。全部、分かっているような、そんな気持ちでジェイドは微笑んだ。手を繋いで。ひえたシュニーの体温を、じわじわと温めていく。大丈夫だよ、シュニー。もういる。ここにいる。傍にいる。一緒にいるよ。ただいま、ともう一度告げるジェイドに、シュニーは顔をくしゃくしゃにして、うん、と言った。
さあ、もうすこしです、もうすこし。がんばって、と声をかけてくる看護師たちに頷いて、んん、とシュニーが全身に力をこめる。傍で、ラーヴェがどういう風にしていたのか聞いておけばよかった、と思いながら、ジェイドは力いっぱい握ってくるシュニーの手をあたためていた。
なにかたいせつなものが。零れ落ちてくるような。指の間をすり抜けて消えてしまったような。そんな気持ちで、瞬きと、呼吸をしていた。
「……しゅに、と」
震えながら。シュニーの腕が持ち上がって、己の腹へ押し当てられる。片方の手はジェイドと繋いだまま。もう片方の手で、シュニーはひどく穏やかに。己の腹をゆっくりと撫でて、息を切らしながらも囁いた。
「じぇいどが、まってる、から……。おいで、ね」
ぎゅうう、と目を閉じたシュニーが、全身に力をこめる。わっ、と声をあげて医師と看護師が慌ただしく動いた。赤子の泣き声が響く。世話役たちが歓声を上げるのを聞きながら、ジェイドはシュニーの名を呼んだ。ふつ、と途切れたように力を失ってしまった、冷たい手を暖めながら。
「シュニー」
目を閉じたまま、ゆっくり。弱く、弱く。息を繰り返す、妻の名を呼んだ。
「産まれたよ。……もう大丈夫。ほら、見てごらん」
シュニーは言われるまま、とろとろと目を開いてジェイドを見た。ぼんやりとした視線が動き、室内をさ迷い、湯で清められ、おくるみに包まれる赤子を見つけ出す。顔を真っ赤にして泣く赤子を、シュニーはうっとりと目を細めて見た。うん、とくちびるから言葉が零れる。
とろとろと瞼がおりて、シュニーの息が深くなる。しばらく、息をつめて見つめて、ジェイドはシュニーの額に口づけた。大丈夫、と世話役たちに言葉を告げる。眠っているだけ。ちゃんと起きるよ。頑張ったから疲れたんだ、と告げられて、世話役たちは頷いた。
抱かれますか、と看護師に赤子を差し出される。うん、と素直に頷いて、ジェイドは処置の終わったシュニーを膝の上に抱き上げてから、赤子に両手を伸ばして受け取った。『花嫁』と赤子を腕に抱くジェイドに、息子である、と告げられる。産まれたばかりの赤子は、あたたかかった。
シュニーの静養が決まったのは、出産を終えてすぐの、その日のことだった。
あのね、またね、と言ってミードは目に涙をいっぱい溜めてシュニーに告げ、それからラーヴェに抱きついた。ラーヴェはすこし悪戯っぽい顔をして、ジェイドの言うことをよく聞いてくださいね、とシュニーに囁き、『花嫁』の部屋を後にする。当主の少年はシュニーの顔をひと撫でして、頑張ったな、と穏やかに告げて立ち去った。
女はジェイドにもシュニーにも微笑みかけたあと、言葉はなく、深く頭を下げて当主の後を追う。彼らを見送ったあと、世話役たちもひとりひとり、シュニーに声をかけていった。シュニーは誰にも、どの言葉にも、ただちいさく頷いて答えた。時折、淡くとうめいな声で、うん、とだけ言って、微笑んだ。
ミードにしんぱい、かけちゃった、と申し訳ながって眉を寄せるシュニーに、元気になったら顔を見せに行こうな、とジェイドは告げる。うん、とジェイドの膝の上、腕の中に抱き寄せられながら、シュニーは甘えた態度で頷いた。世話役たちが、それでは、と声をかけて部屋をでていく。その背にシュニーは、ありがとう、と言った。
世話役たちは微笑み、一礼をして。ぱた、と部屋の扉を閉めた。人の気配がシュニーの負担になるからだ。離れていく気配さえ、ジェイドが追えなくなって、はじめて。シュニーは、けふ、と乾いた咳をした。我慢して、もう我慢しきれなくなって。どうしようもなく零れてしまった、乾ききった痛みだった。
おいで、と言ってジェイドは妻の体を抱き寄せなおした。幾度も咳き込む背を撫でながら、部屋に焚いた薬効のある香が、はやく効いてくれることを祈る。なまぬるくジェイドの体温を染み込ませたシュニーの体は、やけに重いようにも、不安なくらいに軽いようにも感じられた。けふ、けほ、と何度も咳き込み、中々落ち着かなかった。
それでも、やがて。はぁ、と楽になったよう、深い息をして。シュニーは体から安心しきった風に力を抜き、ジェイドの腕の中に納まりきった。体を預けきり、心音を聞きたがって胸に押し付けた耳を甘えて摺り寄せながら、シュニーはちいさく、ごめんね、と呟いた。
「これじゃジェイド、お城に行けないね……」
「行かない。いいんだ、気にしなくていいんだよ、シュニー。大丈夫だから」
「……でも、ジェイドの……おしごとが」
目を潤ませて。殊更気落ちするシュニーの手を握り、指先を絡めて擦りながら、ジェイドは大丈夫だよ、と繰り返した。数時間前には痛いくらいの力でジェイドの手を握っていたてのひらに、今は力がない。疲れ切って、くたくたで、なすがままにされているシュニーの顔は、眠たげにぼんやりとしている。
体を揺らして布で包みながら、いいんだ、とジェイドはシュニーの頭に頬をくっつけた。目を閉じて、息をする。
「それに、俺の仕事はシュニーの傍にいることだよ。……そうだろ? 俺が、シュニーの、『傍付き』なんだから」
「……ジェイド? ジェイドは、じぇいどはしゅにの……『傍付き』の、ジェイド?」
「そうだよ。なぁに、俺の『花嫁』のシュニーさん。かわいいかわいい、俺の奥さん」
淡く、甘く、息を吸い込んで。とろりと蕩けるように、シュニーの赤い瞳が喜びに潤む。嬉しい、と呟いて、シュニーはジェイドに抱きつきなおした。大丈夫だよ、とその体を包み込んで抱き、ジェイドは何度でも口にする。眠っていいよ。眠っている間も、起きても、傍にいるよ。ずっといる。ずっと、傍に、いるよ。シュニー。
『傍付き』ならば『花嫁』に、擦り切れる程に囁くその言葉を。どこか物慣れず、それでも、心からの想いとして囁き、ジェイドは満ちた息を吐きだした。ああ、どんなに幸福だろう、『花嫁』を腕の中で守り切る『傍付き』は。それを可能としてきた者たちは。何度も、何度も、この幸福に満たされ切って日々を過ごしていたのだ、と。
他の抗えぬ命令によって、なすすべもなく傍から離れることはなく。一度だけの、永遠の別れを飲み込んで生きた者たち。それを羨むのは、間違っているのだけれど。いいな、とジェイドはうとうとと微睡むシュニーを抱いて微笑した。はじめて、ただ、シュニーの為だけに存在していられる。
ようやく。ほんものの『傍付き』になれたような、気がした。
「……ジェイド」
眠りに落ちる寸前の少女の瞳が、『傍付き』を見上げて不安げに囁く。てのひらは腹を撫でていた。そこへ宿していた命が、いまはもういないのだと告げるように。あのね、ととうめいな声が囁く。名前、決めたの。おとこのこでしょう。ウィッシュって、呼びたいの。わたしと、じぇいどの、あかちゃん。
それでね、それで、と。たどたどしく、もつれながら、囁かれる言葉を。ひとつも聞き逃したくなくて。ひとつも、忘れなくなくて。覚えていたくて。耳を澄まして、ただ、うん、と言い返すジェイドに、シュニーは目を細めてうっとりと笑った。
「起きたら、会いに、行きたい……。抱っこして、あげたい。それで、それで、ジェイドもね、そうして? それでね、ウィッシュって名前、呼ぶの。私が最初でも、いい? それでね、次が、ジェイドが呼ぶの。それでね、それで……」
「うん。……うん、そうしような。元気になったら、すぐ、そうしよう……」
「なる、なるもの。眠って、起きたら、すぐだもの……」
そうだな、とジェイドは祈るように言葉を肯定した。眠って、起きたら。この、柔らかく脆くいとおしいひとが、回復していることを、切に願う。命を産み落として。ひとつの命を産み落として。己のそれをも、落としてしまったような少女が。全身に体温をきちんと宿して、力を込めて、立ち上がれるようになることを願う。
さあ、とジェイドはシュニーの瞼に口づけた。その瞼が何度閉ざされても。何度も、開いて。あまく、笑ってくれる日が、これからも続いて行くように。
「眠ろう、シュニー。疲れたろ。いっぱい……頑張ってくれて、ありがとうな」
「うん。しゅに、ね。おかあさんに、なったのよ。ジェイドも、ちゃぁんと、おとうさんに、なったの……。ふふ……。ああ……よかった……」
かぞく。ぽつ、と一粒、間違って落ちてきた雨のように。優しい声でそう呟き、シュニーは眠たそうに目を閉じてしまった。それでも、言葉を何とか吐き出しきってしまいたいのだろう。ジェイドがいくらお眠り、と囁いても、シュニーは素直に頷くだけで。
ぽつ、ぽつ、と零す声を、途切れさせることはなかった。
「かぞく……あげられた、ね。じぇいど……。しゅに、じぇいどの、おうち……。だから、もう……かえり、たがらなくて、いいの……だいじょうぶ、なの……。じぇいど。しゅにね、しゅに……」
「うん。うん……ありがとう。ありがとうな、シュニー」
お許しください、とジェイドは胸中で誰かに懺悔した。このひとを奪わないでください。その為ならどんなことだってします。どんなことだって。どんな罪だって。ここに、罪科を押し付けられる気の良い魔術師はいない。分かっていて、ジェイドはゆっくりと、眠りの魔術を室内に展開した。
水属性の黒魔術師であるから、占星術師のように夢を織ることはできないけれど。揺り籠のように、優しく。繊細に編み上げられるその術を、『花嫁』に捧げていく。うと、うと、と深く夢に沈んでいくシュニーは、水面から顔を出したように一度、深く、息をして。
「ジェイド……しゅに、ね。あのね……」
眠りに落ちるまなざしで、声で。不安そうに。
「いなくなりたく、ない……」
囁いた。
「いなくなりたく、ない、よ……」
意識が解けて眠りに落ちる。己の紡いだ術が正しく、シュニーを抱いたことを確かめ、ジェイドは歯を食いしばって頷いた。いなくなってほしくない。ずっと。傍にいてほしい。ずっと。
「……シュニー」
眠る頬を、ジェイドは撫でた。冷えた肌を暖めるように。熱もなにもかも、与えられるものは全て、捧げてしまいたい。
「君が好きだよ。好きだ……。愛してる」
なにより、ただ。愛しかった。
花があった。ジェイドの目の前には花があった。薄く柔らかな花弁を華憐に咲かせる、一凛の花だった。空は曇っている。嵐の前のような、奇妙に凪いだ、それでいて荒れた風が吹いている。光もなく、風に揺らされて、花はもう疲れ切っているように見えた。葉も地面に散らばっていて、枝も折れかけていて、痛々しく見えた。
それでも花は咲いていた。まだ、咲いていた。ジェイドは己の胸に手を押し当てて、息を吸い、それを取り出すことを想像した。魔術師となってから、身の内にあったもの。目を閉じればその形を知るもの。魔力を溜めこんでおくもの。魔術師たちが『水器』と呼ぶもの。
ジェイドのそれは、すこしだけ大きな、水差しの形をしている。手に持ったそれを、ジェイドはしばらく見つめていた。それには水が満たされている。ジェイドの魔力。世界からの祝福。世界から、魔術師に対する愛。贈り物。息を吸い込んだ。花の前にしゃがみこむ。
水差しを傾けて、ジェイドはそれを花へ与えた。ただ、花に水をやるように。花は。すこしだけ、元気になったように、見えた。
ふ、と目を開ける。眠っていたらしい。夢を、なにか見ていたように思うが、もうよく思い出せなかった。なぜか枯渇しかかっている己の魔力に首を傾げながら、ジェイドは未だ眠るシュニーに手を伸ばし、頬に触れて安堵する。体温が戻っていた。寝息もしっかりしている。これなら、すこしだけ、外に出ても大丈夫かも知れない。
愛しているよ、と囁き落とす。くすくす、甘く、幸せそうに笑って。目を開いたシュニーが、私も、と言った。ねえ、ねえ、赤ちゃん、ウィッシュに、会いに行ってもいいでしょう、と強請られるのに頷きながら、ジェイドはなんの気なく、窓の外に目をやった。外は曇っていた。けれど。曇り空の切れ間から、一筋、光が見えた。