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 夢を見ている。夜明けまでの間に何度も浅い眠りから覚め、眠っては覚醒を繰り返して、夢を見ている。花の夢だった。葉が落ち、枝は折れ、花は萎れて枯れかけている。それでもうつくしい、と思う。ジェイドの花の夢だった。花に何度も水をやる。水をやり終えると目が覚める。口の中が乾いていた。目が覚めるたび、魔力が枯渇していた。
 夜を繰り返す。世話役たちを遠ざけ、部屋に鍵をかけて眠る夜を繰り返す。朝は遠く、永遠のよう、手が届かない場所に置かれているような気持ちで。目覚められる朝を待つ。シュニーはゆっくり息をしている。淡く、弱く、息をしている。それでも陽の元で今日も笑っていたのだから、と言い聞かせて瞼を下ろす。そして夢を見る。幾度も、夢を。
 浅く早い息を繰り返しながら、何度も何度も目を覚ます。夜の静寂の中で、ひとり。腕に抱くシュニーを見つめて、瞬きをする。意識の端に、こびりついては消えていく花の夢を想う。水を注げばひととき、生き永らえる花のことを思う。目を覚ますたび、奇妙に枯渇している魔力のことを考える。
 なにをしているのだろう、と思う。なにをしてしまったのだろう。なにを。とくとく、と触れた肌から感じる鼓動に、幾度も意識が救われる。すう、すう、と穏やかな息を繰り返してシュニーは眠っている。呼吸も。体温も、鼓動も。ゆっくり、ゆっくり、重なっていく。ひとつになりたがるように。ひとつに、なっていくように。
 眠るシュニーの頬を撫で、瞼に口づけて、ジェイドはかたく目を閉じた。奇妙に喉が渇いている。枯渇した魔力は、朝まで決して戻らないままだった。



 シュニーの体調は芳しくなかった。乾いた咳を繰り返し、じわりじわりと弱っていく。時にはジェイドと手を繋いで散歩に出る日もあったが、その穏やかさが一日、二日と長続きすることはなかった。ジェイドが申し出る前に、当主はさっさと城に『傍付き』を帰らせない旨を告げ、首尾よく王の許可までもぎ取って来た。
 なんでも、側近たる青年が尽力してくれたらしい。当主がまだ未熟と見て、放っておけなくなったのだという。王の魔術師としての休職許可証をジェイドに差し出しながら、当主はややふくれっ面をしてそう言った。手伝ってくれなんて言ってない、と面白くなさそうに拗ねる当主に、ジェイドは思わず、声をあげて笑った。
 当主は磨き上げられた『花婿』であり、うつくしい少年である。青年になる前に時を止めた。幼さと、今まさに成長して行こうとする瑞々しさが、少年の線の細い輪郭へ溶け込んでいる。それは失われる筈の、けれども完成された永遠としてそこにあるものだ。ひとの心に直に訴えるような、本能的なうつくしさ。花が香るような、存在的な魅了。
 間違いを犯さないようにアイツころすべきでは、と真剣にもくろんでいる当主側近の表情からも、青年が『花婿』に魅せられたことが伺い知れた。あのひと、多少性格と言動がアレですがべらぼうに優秀な砂漠の国の今や重鎮と呼んでも差支えない存在ですので、この国が崩壊しないようになにもしないでください、と呻きながらも説得する。
 よく分からないながらもジェイドがそういうなら、と頷く少年と、御当主さまがジェイドの意見を受け入れるのであれば、と心底不本意そうに息を吐いた当主側近の組み合わせは不安が過ぎたが、とにかくジェイドの休職許可は本物であり、そのことが腹に、なにか見えない重りの存在を感じさせた。
 当主が直々に動いたとはいえ、青年が尽力してくれたとはいえ、それを王が許すほど。シュニーの傍からジェイドが離れられない、というのが、客観的な事実として認められたのだ、と。息が苦しかった。当主は許可証を抱いて押し黙ってしまったジェイドの背を労わるように撫でてから、そっと押し、そのまま共に歩き出した。
 今日は起きているんだろう、と問いながら廊下を歩む少年の足取りは、未だ物慣れずつたなさを感じさせる。そのたどたどしさが無くなってしまう日も、恐らくは来ないのだろう。少年は『花婿』として完成されきっている。弱いまま、脆いまま、ただ普通を装う術だけが上手くなっていく。
 ジェイド、と返答を待ち、立ち止まった少年の隣に立つ。
「リディオさま……シュニーは」
 うん、と静かな声が、ジェイドの逡巡をよしとした。深緑の瞳はじっと、苦しげに顔を歪める『傍付き』の姿を見つめている。ん、とちいさく呟いて、リディオはすこし背伸びをして、ジェイドに両腕を広げてみせた。やわらかく抱き寄せる、その腕の中で息をする。少年は確かに当主だった。『お屋敷』を守り、そこに生きる人々を守ろうとする。
 穏やかに、穏やかに、包み込んで守ろうとする。その優しさに、亡き少女の面影すら感じながら。ジェイドはそれを問うことを、とうとう己に許し、言葉を口にした。
「シュニーは……あなたから見て、どうなんですか」
「どうって? どうってなに? シュニーの『傍付き』、シュニーのジェイド」
 歌うように、少年はそう囁いた。宝石を腕に抱いた『傍付き』は、その花の名を以てして呼ばれるのが通例だ。
「『花嫁』の『傍付き』。お前の判断に勝るものはない。『花嫁』に関して、一番理解しているのが、一番、知っているのが『傍付き』だ。ともすれば、本人よりも」
「……リディオさま」
「でも、お前はそれを知っているね。……自信を持っていいんだよ、ジェイド。お前はシュニーの『傍付き』で、『お屋敷』は今も昔も、それをちゃぁんと認めてる。……ああ。ああ、でもお前は、そんなこと、もう、分かっているか……」
 する、と緩く結んでいたリボンが風でほどけるように。少年はジェイドから腕を引いた。気まぐれな猫が、すり寄るのをやめて遠くへ駆けて行くように、立ちなおして。リディオはすこし困ったように、目を細めて笑った。
「なにが聞きたいの、ジェイド」
「……『花婿』であった御当主さまの目から、見て」
 言葉が途切れる。うん、と呟いて当主は待った。なにを問われるのかを察している、哀れみすら滲ませながら。その不安をとうとう、ジェイドが吐き出してしまうのを待っている。意識が、なまぬるい水のように揺れている。呼吸の仕方を忘れそうになる。思考が、意識そのものが、ゆるやかに止まりそうになる。
 当主の瞳は、それを責めているようにも、許しているようにも、見えた。心が壊れてしまいそうな不安を、身の内にある黒い澱を、少年の瞳は見透かして、理解しているように見えた。そこに、己と同じものがあるのだと。だからこそ、ただ。かわいそうに、と声を飲み込んだ沈黙の中に、ジェイドはようやく、絞り出すようにしてそれを言った。
「シュニーは回復するように、思いますか」
「思わない」
 躊躇いも、迷いもなかった。不安と悲しみは、もう少年の足元に投げ出されていた。当主の瞳は喪失を覚悟しきっていて、火の粉のような淡い怒りがちらついている。
「思わないけど、ジェイドが傍にいればシュニーは息をする」
 回復はしない。じわじわと弱っていく。けれども、呼吸を忘れることはない。だからお前を城には帰さない。ここでシュニーの傍に居ろ、と。ジェイドに首輪をつけるように、鉄柵に鍵をかけるように。凪いだ声で告げた少年に、ジェイドは嘲笑うような気持ちで問いかけた。
「俺が『傍付き』だからですか」
「違う」
 少年の声は明確だった。
「シュニーが、ジェイドを愛してるからだ。『花嫁』が……誰かを、あんなに、愛せたからだ」
 己の弱さを、脆さを知りながら。それでも子を宿し、産みたいと言わせる程に。『花嫁』の出産が命と引き換えになる可能性は、ふつうに生まれ育った女と比べて極めて高い。それをシュニーは、ちゃんと分かっていた。それでも命が宿ったことを喜び、育っていくことに胸を弾ませ、名前を考え、未来を思い描いた。
 ジェイドに家族をあげたかった、とシュニーは言った。家族になりたかった、と産まれた子を腕に抱いて幸福に微笑んだ。ジェイドの家になりたかった。帰ってくる場所。いってらっしゃいと、おかえりなさいと言える所。おうちだ、と思って、ゆっくり眠れる場所に。なりたかった。ようやく、なれた。そう言って、シュニーは笑った。
 あの日。当主が城までジェイドを呼びに来た日。シュニーの破水は、予定よりずっと早かった。当日の朝の体調も、優れているとは言えなかった。部屋が閉ざされてふたりきりになった時に、シュニーの体を温めていたのはジェイドの熱だった。体温が染み込んで行くだけの、熱を生み出せない体だった。
 今も。ジェイドがいくら与えても、シュニーの体から熱はするりと抜けていく。熱を留める術を忘れて、どうしても思い出せないでいるように。冷えていく。弱っていく。それでも、ジェイドが抱き上げれば同じようにぬくもるのだ。命がジェイドの体温を宿す。弱々しい鼓動が、とん、と一時強くなる。
 ひとつの命を分け合うように。そうして、シュニーは今も生きている。
「……助けられは、しませんか」
 それでも。『傍付き』としてのジェイドが、気が狂いそうになりながらも判断を下す。脆く弱く儚い、己のたったひとりの『花嫁』は、もう壊れてしまったのだと。茎が折れた花が蘇ることはない。水を吸い上げる力を失った花が、ふたたび咲く日はやってこない。枯れかけた花は、地に落ちる日を待つばかり。
 懺悔するように、ジェイドは問うた。花であった少年に。摘み取られたまま凍り付いた花に。時を止めた少年に。当主は目を伏せ、首を横に振った。たすかったんだよ、と当主は言った。やるせない声で。今がもう、助けられている状態なんだよ、と。だからもう、これ以上は。
 言葉を続けず。ジェイドにも続けさせず、当主はまるで気まぐれな仕草で、ふいと身を翻して歩き出した。ジェイドも無言で後を追う。歩いていくと赤子の泣き声と、『花嫁』の笑い声が聞こえた。しゆーちゃんはまかせてっ、と胸を張ったミードは、ラーヴェと一緒にジェイドが戻ってくるのを、まだ待っていてくれたらしい。
 ほっとした様子で、当主は口元を和ませる。ミードの楽しそうな笑い声に混じり、とうめいで、儚く、今にも消えそうな響きであっても、シュニーの声がやわやわと空気を揺らしていたからだ。少年は立ち止まり、すこし振り返って、ジェイドの歩みを促した。ほら、大丈夫。待ってる。はい、と頷いて、ジェイドは早足に。
 部屋に飛び込むようにして、ただいま、と言った。



 今眠った所なのよ、と腕に抱いた赤子を見せられて、ジェイドは目を細めて頷いた。ミードと同じく、乳母や専門の世話役たちの手からもぎ取るようにして、シュニーはせっせと子育てをしている。体調が悪く、起き上がれない時だけミードに預け、あとはあやすのも母乳を飲ませるのも、眠らせるのも、きらきらと輝く目でやりこなしている。
 ウィッシュはちいさく産まれた、ひどく手のかからない赤子だった。気がつけばころりと眠りに落ちていて、目が覚めればよく母乳を飲み、多少ぐずってもすぐにまた眠ってしまう。起きている体力がない、と告げたのは医師であるが、今の所は身体に異常はなく、ただ『花婿』らしく弱いだけで済んでいるらしい。
 ジェイドは寝台に腰を下ろすと、ウィッシュを抱くシュニーごと膝の上に抱き上げた。頭を引き寄せて髪を撫で、ありがとう、と囁くと、シュニーはくすぐったげに顔を綻ばせてやんわりと笑った。
「ジェイドも、お仕事だったんでしょう? おつかれさま」
「うん。……うん、しばらく、お休みを頂けることになったから。傍にいるよ、シュニー」
「りでぃお、えらい! すごぉいっ!」
 真っ先にはしゃいだ声をあげて当主を称賛したのは、その奥方であるミードだった。ミードもまた、腕に赤子を抱いてラーヴェに抱き上げられている。戸口に佇み室内を見守っていたリディオは、声にくすぐったそうにはにかんで、うん、と素直に頷いた。妻が『傍付き』に抱き上げられたままであることに、特別意見はないらしかった。
 ただ、いいな、と。すこしばかりうらやましがる色はちらつき、消えていく。『傍付き』ふたりが思い思いの視線を向けるのに、なんでもない、と首を振って。リディオは距離を開けたままシュニーに視線を合わし、入っていいか、と問いかけた。
 シュニーはくすくす楽しげに笑い、いいのよ、と微笑んで当主を迎え入れる。どうしたの、なあに、と首を傾げられるのに、リディオはとことこ、寝台へ歩み寄りながら呟いた。
「……体調どうかな、と思って」
 ジェイドと話していた時のような、はきとした声と意思はなりを潜めていた。『花婿』らしい繊細さで不安げに視線をさまよわせ、シュニーをじっと見つめながら立ち止まる。シュニーは柔らかく微笑んだ。言葉はなく。ただ、引き寄せるように手が伸ばされる。
「リディオ」
「……ん?」
「て」
 ほら、と指先を揺らされて、少年はすこしため息をついた。わがままに困る、兄のような仕草だった。少年は一度だけジェイドに視線を滑らせ、奥方に触れられることへの拒絶がないことだけを確かめると、ふい、と顔を背けるように目を伏せて。なに、と穏やかに問いながら、シュニーと指を絡めてつなぐ。
 なに、シュニー、と。同胞の存在を慈しみ言祝ぐような声で、当主は囁く。シュニーは指をぴこぴこ動かしながら、あどけなく首を傾げてねだった。
「あのね。てを、ぎゅうっとして?」
「シュニー、あの……あのな……。……ジェイド」
「もう、リディオったら。いちいち困らなくても、いいのよ。おててを繋ぐのは、浮気に含まれ……ふくまれ……る……?」
 途中で不安になったらしい。ぱちぱち何度か目を瞬かせたシュニーは、あれ、と呟いて、そろそろとジェイドを伺ってきた。えっと、と口ごもるミードに、ジェイドは無言で微笑んだ。しかし、もちろんっ、ぜったいっ、かぁんぺきにふくまれるにきまってるんだからあぁああっ、と主張するミードとジェイドには、やや見解の相違がある。
 困って見上げてくるシュニーの可愛らしさをひとしきり堪能したのち、ジェイドはそれくらいならいいよ、と不安定な腕の中から赤子を受け取り、眠らせながら告げる。
「なんで手を繋いでぎゅっとするのか分からないけど」
「もう、だめよ、ジェイドったら。拗ねないの。め」
 すねてないよ、べつに、と言いながら、ジェイドはやんわりとシュニーを抱きなおした。もう、と言って体を完全に預けてしまいながら、シュニーは居心地が悪そうにもぞもぞしている少年を不思議そうに眺めた。さっきジェイドを抱き寄せたりしたことは生涯のひみつにしておこう、と思っていることなど知りもせず。
 はい、ぎゅっとしてね、と改めて求めてくるシュニーに、少年はこくりと頷いた。不思議さがいっぱいに広がる顔で、指に力をこめてシュニーを見る。
「……はい。これで、いい? ……なに?」
「うん。……うーん。うー……ん。んんー……!」
 唇を尖らせて、眉を寄せて。んん、と何度も唸って、ぎゅうっと全身に力を込めさえして。しばらくそうして、なにか苦労して。シュニーは額に汗を浮かべて、この上なく自慢げな表情で、うふん、と胸を張ってみせた。
「ほらね、ね? わかった?」
 上機嫌にすら見えるシュニーに比べて、少年はむっとしているように見えた。一言も発さないでいる当主の瞳には、理解しているからこその、確かな苛立ちと怒りがあった。なに、と反射的に問いかけてしまったジェイドに、少年が向けたのは火のような視線だった。哀れみと、怒り。
 悲しみを瞬きの向こうに押し込んで、少年はする、と手を解く。
「そうか……」
「うん。……うん。ごめんね、リディオ。ミード。でも……でも、まだ、ね。大丈夫。まだ、大丈夫なの。ほんとう」
「……シュニー?」
 それ、を。理解していないのは、どうもジェイドだけであるらしい。ミードは半泣きの顔をしてラーヴェにくっついていて、いやいや、とむずがって首を振っている。『花嫁』には、『花婿』には、分かるのだろう。ラーヴェは顔色を悪くして、まさか、と乾いた声で『花嫁』を見ている。
 理解していなくて。理解したくなくて。己の意思にも目隠しをして。分からない、とあえて言い聞かせるように呟くジェイドの腕の中で。うつくしく、うつくしく微笑む、『花嫁』を見ている。ジェイド、とシュニーが夫を呼んだ。とうめいな、花の蜜のような。あまい、甘い、柔らかな声だった。
「あのね、てにね、ちからが……はいらないの。はいらない、ことが、多いの……」
「シュニー……でも、だって。だって……ウィッシュを抱いてただろ?」
「ちから、ね。なくなっちゃった訳じゃないの。まだ、ね、あるの。あるんだけど……あのね、ジェイド。シュニーの体ね、あんまりね、シュニーの言うことを、ね。きいて、くれないの……」
 淡く、ほのかに、囁くように。深く息を吸い込むことにも、苦労しているように。シュニーは短い息を繰り返しては、静かな微笑みと共に言葉を紡いでいく。凍り付くジェイドの胸に身を寄せて。すこしでも離れないでいたい、というように目を閉じて。早まる鼓動を、耳の奥に染み込ませるように。
「抱っこできるのはね。シュニーの力が、ちゃんと、頑張ってくれていたからなの。ちからをね、ちゃんと、えいって、持ち上げたり、ぎゅってしたり、しようと、するんだけど……できる、と思って、できる時と。できてると思うけど、分からない時と。シュニーがいくら、がんばっても、なんにもできない時がね、あるの。いうことをきかないの……」
 たどたどしく、途切れて言葉が紡がれる。その話し方をどこかで聞いたことがある気がして、ジェイドは思わず口を手で押さえた。数年前。まだ少年が、当主ではなかった頃。シュニーと結婚する、とジェイドが決めてしまった日。王宮魔術師がジェイドを迎えに来た。それを止めに来たのは、当時の当主たる少女、シルフィール。
 あの頃、少女は途切れ途切れに言葉を紡ぎ、淡く忙しなく息をして。乾いた咳ばかり、繰り返していた。こころが、重たく冷えていく。今更ながらに思い知る。ジェイドとシュニーが、共に努力した数年を。どれほどの意思で少女が見守り、また、生き抜いていたのかを。
 シュニーはゆっくりと瞬きと、呼吸をして、微笑んだ。
「……まだ、大丈夫。いなくならない……」
 それでも。終わりがそこにあることを、『花嫁』は知っている。どうしようもなく、己の道がそこで途切れてしまっていることを。知っている。それは明日ではなく、明後日ではなく。数日後ではなく、一月後でもない。一年を思う。その時の長さを追いきれない気持ちになる。一年という時の先へ、辿りつけるか分からない。
 目を伏せて。シュニーは静かに、響かない声で、いなくなりたくない、と言った。
「今日も、明日も……その先も、ずっと。いなくなりたくない……」
 だって育ててあげたいの、とシュニーはジェイドの腕で眠る産まれたての赤子を、幸福でいっぱいの笑みで見つめて言った。育ててね、大きくなっていくのを見たいの。どんな風に、誰を好きになって、どんな風に、笑って。どんな風に言葉を話して。世界を見て、慈しんで、美しさを知っていくのか。知りたい。ずっと、見て行きたい。
 ジェイドの傍にいたい。離れたくない。ずっと、一緒にいたい。まだ。まだ、だから、いなくなりたくない。寒さに凍えるように、指先を震わせて。シュニーの、体温を失って冷える指先を見つめながら、当主は幾度か瞬きをした。感情が遠くへ置き去りにされる。心を離れた所へ置いてきた表情で、冷静な面差しで、当主たる少年は顔をあげた。
 感情は、心は、恐らく。少年が当主として立つ為には、重たすぎて邪魔なのだ。
「……ジェイド。多分、シルフィール様の投薬記録が役に立つ。数年分、すぐまとめて持ってくるから、目を通せるようにしておけ」
「はい。……ありがとうございます」
「うん。シュニー、また様子を見に来る。乳母にも仕事をさせてやれ。……ミード」
 言葉を。なにもかも拒絶するように、耳に手を押し当てて。ぎゅっと目を閉じ、ラーヴェの腕の中で体を固くする妻のことを、当主は呆れたように、悲しむように、すこしだけ羨ましがるように、吐息混じりに名前を呼んで。と、とん、と物慣れない足取りで歩み寄り、閉じられた瞼の奥、隠れた瞳と視線を重ねるように、顔を覗き込みながら囁いた。
「ミード。……ラーヴェの言うことをよく聞いて、レロクと一緒に静かにしてるんだぞ?」
「……りでぃおは?」
「やることがある。たくさん。……また、顔を見に寄るから。元気にしていて、ミード」
 頼むな、と当主はラーヴェに囁いた。『傍付き』は心得た顔で『花嫁』を抱き寄せ、当主たる少年に静かに目礼する。あなたも、どうぞ、ご無理などなさいませんよう。囁かれた言葉に少年は目を瞬かせ、照れくさそうな笑みで恥ずかしがった。言葉はなく。返事をせず。
 それを求められる視線を微笑みひとつで受け流し、少年はとん、と足を踏み出した。戸口で振り返り、当主はシュニーとジェイドを、ミードとラーヴェを、それぞれが抱く幼子を眩しげに見つめて、幸福そうにやんわりと笑みを零して。できることはするから、と言って身を翻し、歩いて行った。



 ジェイドの首に腕を回し、体をくっつけてむむぅっと頬を膨らませ続けるシュニーは、どうにも機嫌が悪い。背を撫でながら体をゆらゆら揺らしてあやしても、シュニーといくら名前を呼んでも、むっつりとした愛らしい顔が和らぐことはなかった。『傍付き』にくっついても、『花嫁』の機嫌が直らないことは、ある。
 どうしたものかと困惑する一方で、ジェイドは半目でうーうー唸るシュニーを見つめ、ほわりと息を吐きだした。不機嫌に唸ってむっつりするシュニーもかわいい。さりとて長時間の荒れた感情は、それだけで『花嫁』の体調を損ないかねず、今のシュニーにはじわじわ染み込む毒になるも等しい。
 不機嫌なかわいいシュニーさん、いいこだからご機嫌なおそうな、と囁くジェイドに、『花嫁』は涙目で顔をあげて頬をぷうううっと膨らませた。まんまるくてかわいい。
「ふくれてまぁるいシュニーさん。どうしたの」
「みんながしゅににいじわるをするうううう!」
「いじわる、じゃないだろ。お医者さまの言うこと、聞かないとだめだろ」
 いじわるをするううううっ、と甲高い声で叫ぶシュニーの体を抱き寄せ、背を撫でながら、ジェイドは深々と息を吐き出した。事の始まりは、シュニーに対して行われた精密検査だった。おいしくない薬を出される上に痛いこともされるので、だいたいの『花嫁』はお医者さま、というものが大嫌いである。シュニーも例外ではない。
 しかしシュニーは、ジェイドの奥様で大人になってお母さんになった淑女なんだから、と自らに言い聞かせ、なんとか我慢して、診療自体は素直に受けてくれたのだが。問題は、その結果だった。医師の診断結果を元に、『お屋敷』はシュニーに長期的な投薬をした。前当主の少女の体調維持と、延命に使われていた手段であり、薬であるのだという。
 その結果をジェイドは覚悟していた。シュニーも、理解はしていた。分かっていなかったのは、その結果についてきた禁止事項のひとつ。赤子に母乳を与えてはならない、ということである。薬の中に、赤子にはよくない成分が含まれているらしい。しかしそれを外すことはできない為に、それは決定事項として、シュニーへ伝えられたのだった。
 いじわるっ、いじわるいやっ、だめだめいやいやひどいひどい、とぐりぐり頭を擦り付けて訴えるシュニーは、ジェイドが強く同意してくれないのも不満なようで、ぶううううっ、とさらに頬を膨らませた。
「じぇいどっ! なんでにこにこしてるの!」
「うん? ごめん。シュニーがあんまり可愛くて」
「うふ。……あ、あっ、もう! もうやぁああっ」
 反射的に照れて喜んでにこっとしてしまったことが、悔しいらしい。じたじたと腕の中で幼く暴れる姿は元気いっぱいで、とても弱っているとは思えなかった。しかし、診断結果が覆る訳ではない。興奮を宥める為に強く抱き寄せ、体をくっつけて、ジェイドはゆっくり深呼吸した。
 ここで一緒に興奮して、気持ちを荒れさせてしまってはいけない。『傍付き』として、それは許されない。シュニー、シュニーと呼びながら、繰り返し、『花嫁』の意識と気持ちを己へと向けさせる。穏やかであれ、平坦であれ、と言い聞かせながら。『花嫁』は『傍付き』の状態を映す鏡。なればこそ、なお、穏やかで、強靭で、しなやかであれ。
 ぐずるシュニーを覗き込み、額を重ねて目を覗き込む。透き通る柘榴の色を宿した瞳は、赤子にも受け継がれたものだった。初雪のような白い髪も、滑らかな肌も、ちいさな手指もなにもかも。シュニーにそっくりに産まれた赤子は、今日は朝から養育部に預けられていて、乳母たちがこぞって面倒を見ている最中だ。
 それがまた、シュニーには気に入らないらしい。しゅにがままだものしゅにがだっこもごはんもおやすみー、もするんだものしゅにがままだものおおおっ、と朝からずっと主張していた。不機嫌の終わる暇がない。じぇいど、とやや落ち着いた風に呼び返したものの、まだまだ気持ちが収まらないでいるらしい。
 ぐずぐずと鼻をすすりあげ、シュニーは悲嘆にくれた眼差しで、機嫌悪くジェイドを睨みつけた。なにか言葉があればいいのだが、シュニーは機嫌悪く、うーっと唸っただけで、ぷいと視線を逸らしてしまった。



 『お屋敷』の専門部署は多岐に及ぶ。例えば、服。『花嫁』の服をあつらえる衣装部は、部の中でもいくつかに分かれ、外出着、室内着、訪問着とそれぞれ別に分かれている。布の材質や編み方、刺繍を入れるか布に印刷をかけるかでも職人が違う。職人は外部から雇い入れることもあれば、『花嫁』を送り出した世話役が、転属していくこともあった。
 だからこそ、シュニーのことを相談しに訪れた医局でその女と目が合った時、ジェイドは驚きはしなかった。ただ、ひどく意外に思ったのは確かだった。『花嫁』を送り出した者たちが、次代の為に様々な腕を磨きたいと希望するのは自然のこと。しかし女は、もう『お屋敷』に十分に尽くしていた。
 この場所から離れ、静かに、ただ穏やかに生きていても、誰も咎めはしなかっただろう。前当主の側近であった、『傍付き』であった女は、ジェイドに医局の端の椅子を勧め、いくつかの資料と薬剤を持って、机を挟んで腰かけた。なにかを話されるより早く。思わず、言葉が零れていく。
「……辞職されたのかと」
「ラーヴェにもそう言われました。あなたたち、そんなに私を退職させたい?」
 いえ、と即座に否定し口ごもり、ジェイドはラーヴェに会ったんですか、と問いかけた。女は本題に入ろうとしないジェイドを仕方がなさそうに笑って見つめ、ミードさまも決して体調が安定している訳ではありませんから、とよそ行きの声で告げる。親しすぎず、余所余所しくもなく。職業意識に磨かれた、柔らかな声。
 会話をしたことこそ殆どないが、前当主の傍に居た頃とは印象が随分異なっていた。白衣を纏って髪をまとめた姿は看護師らしくも、寡婦のようにも見えた。前当主の懐刀であり、守護者であった、凛とした印象は薄れて。ただ、満ちていたものが消え去った、密度の低い残り香に触れている印象がある。
 女は戸惑うジェイドを困ったように見つめ、溜息をついて、とん、と開いた帳面を指先で叩く。
「わたしのシルフィールが、あなたたちを不安がって。あなたたちのことを、もうすこし見守っていて欲しい、とわたしに書き残して行きました」
「……俺と、シュニーのことを?」
「もちろん、ジェイド……あなたと、シュニーさまと。ラーヴェと、ミードさま。……そして、フォリオと……御当主さまである、リディオさまのことを」
 名を、あえて呼ぶことが多くなった、と思う。ジェイドにしてみても、目の前の女にしてみても、それは同じことだった。呼べなかった名を。呼ぶことすら意識せず、いつの間にかくちびるが失ってしまった名を。そうして悼み、思い出すように。
「わたしの代わりに、よろしくね、と言われたら……断れなくて」
「それで、医局に?」
「ええ、まあ。元々、シルフィールの投薬に関しても、医師と相談しながらでしたが、ほぼわたしが調合して管理していましたし……。これから『花嫁』や、それに近しい方の出産が増えることはもう分かっていましたから、役に立つ筈だと」
 あの方は本当にしっかりとした当主として成長なされていた、と。懐かしむには痛みの勝つ表情で自慢してくる女に、そうですね、とジェイドは頷いた。できる限りのこと、全てを。考えられる救いの、全ての。種を撒いて、芽吹かせて、必要な手が届く日に花が咲くようにして。鮮やかな笑みが見えるようだった。
 どうでしょう、すごいでしょう、と満面の笑みを浮かべる少女の面影が。まだ『お屋敷』のそこかしこに残っている。生き続ける。ええ、あの方は本当に素晴らしい御当主さまでした、と告げるジェイドに、女は誇らしく笑って。さて、と指先を組んで、ジェイドのことをまっすぐに見つめてきた。
「あなたが訪れた用件は分かっているつもりです。シュニーさまの投薬の内容を変更できないか。そんな所でしょう? 違いますか?」
「あってます。……その、シュニーはとても気落ちしていて」
「ジェイド。シュニーさまは、どうしてあんなに元気でいらっしゃるのか、分からないような状態です」
 あなたが一番分かっている筈でしょう、とため息交じりに叱られて、ジェイドは視線を落として頷いた。本当ならば寝台に臥せって、起き上がれないくらいの状態だ、と思う。それなのにシュニーは熱を出さず、咳もせず、ただ時々体にうまく力がはいらない、というだけで終わっていた。
 じりじりと、悪化していることは確かだった。けれどもその悪くなる様子が、今まで見てきたなにものとも違っていた。弱く、脆く、崩れていく。その印象はそのままに、けれどもなにかが、シュニーの体を助けている。支えている。ジェイドは妙に喉が渇く気持ちで、ちいさく、けほ、と咳き込んだ。
 勧められた香草茶で喉を潤しながら、一瞬感じた眩暈のような感覚に瞬きをする。いつもなら日中に回復していく筈の魔力が、中々戻らない。枯渇状態ではないものの、一度、簡単な魔術を使えるかどうか、というありさまだった。なにか魔術を行使した覚えも、発動させ続けているつもりも、ないのだが。
 淡い不安から目隠しをして、ジェイドは訝しむ目を向けてくる女に首を振り、なんでもない、と言って立ち上がった。



 その日もまた。夢を見た。花に水をやる夢だった。

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